豊かな気分

つい先日、不要なものを処分して効率的な時間と空間を手に入れることは甚だ快適であるというようなことを書きました。
世の中には、そんなことは先刻承知で普段から実行されている方もいらっしゃるとは思いますが、マロニエ君のような凡人の場合、自分が考えている以上に不要で無意味なものに取り囲まれて、気がつけば貴重な生活空間が侵食されていることを痛感しているこの頃です。

我が家はガレージも同様で、とりわけマロニエ君の車好きが災いして、使う当てもないパーツやケミカル品やその他諸々のものが文字通り山積していて、実は数年前にあらかたの整理をし、無駄なものは大いに処分した「つもり」でした。

しかし、あらためて見てみると、それはまさに下ごしらえ程度のことであって、本当の整理整頓とは程遠く、ついにこのエリアへ手を付けることにしました。
前回、整理と処分で一番難儀なことは「着手」することだと書きましたが、その意味では、ともかく手を付けたということが大きいと自画自賛しているところです。

それにしても驚くべきは、要らないものというのは、いたるところで予想以上に存在しており、それらが集積蓄積されて貴重なスペースを相当量侵害し、さらには当人はそれにほとんど気が付かない点だと思います。

だからといって前回も書いたように、必要な物、あるいは取っておきたい物まで無理して捨てる必要はまったくないと思うし、後ろ髪を引かれてまで処分するのでは却ってストレスとなるので、極度の処分はマロニエ君は反対です。
しかし、どう考えても要らないものかどうか冷静な目で見てみると、まぎれもなく不必要で、使う見込みもないようなものがゴロゴロといくらでもあるのには我ながら閉口します。

昔は使わなくても、いろいろなものがガレージに所狭しと並んでいるだけで、マニアックな雰囲気に浸るという子供じみた満足もあったのですが、さすがにいい歳になると、そんなオバカな情緒も干からびてくるし、なによりスペースの有効利用という点が俄然大切に思えてきました。

いったん手を付けると仕分け作業にも「流れ」と「リズム」みたいなものが出てきて、このところ毎晩のようにガレージに入っては不要物の選別をし、さらに可燃ごみと燃えないごみを分別し、それぞれの袋へパズルよろしく詰め込むのが日課になり、これはこれで結構楽しくもありました。

他地域の自治体もほぼ同様だろうと思いますが、燃えないごみは福岡市では月に一度、市の指定の袋に入れておきさえすれば夜中に回収してくれます。
可燃ごみは2~3日に一度のペースなのでゆったり構えていられますが、燃えないごみは一度出し損じると次は一月先になるので、それもあってかなり積極的にこちらの選び出しには集中しました。

つくづく思ったことは、モノにはまあそれなりに思い出がないといえばウソになりますが、それよりも、なんでこんなものを後生大事に今日までとっておいたのか、自分の短慮と愚かしさのほうが身にしみました。
とくに強調しておきたいことは、前回と重複しますが、「これはきっとそのうち何かの役に経つだろう」などというのは、ほとんど幻想で、現実はまずそんな出番などほとんどないということ。

仮に、万が一にもそういう事があったとしても、そんなわずかなことのために長年にわたり大量の不要物を抱え込んでおくなんて、これこそバカバカしく不健全で、なにか必要なものがあればその都度、それだけをどうにかすればいいのだということがよくわかりました。
ガレージに関していうなら、数年前に較べると物の量は半分どころか、1/3か1/4ぐらいまで量を減らしたと思いますが、ではそれでなにか困るかというと、これがもう情けないほどまったくなにひとつ困らないし、むしろゴミゴミしいものが姿を消し、そのぶんスッキリきれいになって、新たな空間が出現するのは思っていた以上に爽快です。

最近では、郵便で届くDMひとつでも、こまめに捨てておこうという気分が定着しつつあり、つくづくこれは習慣の問題だと思います。いつまで続くかはわかりませんが、まあそのうち息切れしたにしても、ときどき家の中のダイエットをするのは決してムダではないという気がしています。
余計なものが姿を消してスッキリするのは、理屈ではなしに気持ちがいいもので、なんだかずいぶん得をしたようでもあるし、物の量は減っているのに逆に豊かな気分になれるのはおもしろいなあ…と感じ入っている次第です。
続きを読む

入賞者ガラ

先日の日曜夜、NHKのEテレで、今年東京で行われた「ショパン国際ピアノ・コンクール・入賞者ガラ・コンサート」が放送されましたが、感じるところがいろいろとあるコンサートというか番組でした。

当節、あまり率直に書くのもはばかられるけれど、かといって心にもないことを述べても何の意味もなく、ごく簡単に感想を書くことにします。

実際のコンサートではどうだったか知りませんが、放送されたのは入賞者の下位から上位に上がっていくというもので、
第6位 ドミトリー・シンキン(ロシア)
第5位 イーケ・トニー・ヤン(カナダ)
第4位 エリック・ルー(アメリカ)
第3位 ケイト・リュウ(アメリカ)
第2位 シャルル・リシャール・アムラン(カナダ)
第1位 チョ・ソンジン(韓国)
という順序。

シンキン:自ら作曲もするというだけあって、スケルツォ第2番を6人中ただひとり独自の感性と解釈で弾いていたのが印象的。音符に意味を見定め、それを音楽の「言葉」へと変換していたと感じられたのは彼だけ。また、ピアニストとしての逞しい骨格が感じられるところはさすがはロシアというべきか。

ヤン:ワルツの第1番を弾いていたけれど、繊細さやワルツの洒落っ気はなく、大仰なばかりの演奏。最年少というが、年令を重ねてもおそらくこのあたりの本質は変わらないであろうし、ショパンの世界とは違ったものが似合いそうな若者。

ルー:オーケストラと一緒にアンダンテ・スピアナートと華麗なる…を弾いたけれど、ただ弾いただけという感じで、演奏の腰が浮いている。ミスタッチも多いし難所になると指がやや怪しくなるのは、いかにも心もとなく、器が小さいという感じ。

リュウ:マズルカ賞を取るほど彼女の演奏(とくにマズルカ)は高く評価されたというが、マロニエ君の耳にはそれほどのものには聴こえなかった。緩急強弱を強調する手法が目立ち、作品の核心に迫っているかというと疑問を感じる。なんでもない部分…でも心のひだのようなものが隠されているところなど、チャカチャカとエチュードのように弾いたり、そうかとおもうと意味不明のねっとり感を出してみたり。やけに上ばかり見て弾く姿が音楽表現に重きをおく人のように見えるのか…。

アムラン:つい先日デビューCDを聴いて、それなりの好印象を得たと書いたばかりだったけれど、この日の演奏を聞いた限りでは早くもそれを保留にしたくなる。若いに似合わぬ、ずいぶんと貫禄のある身体を深く沈めて悠然たる構えで弾くのは期待を誘うが、実はそれほど深いものは感じられない。協奏曲第2番の第2楽章はひとつの聞き所でもあるが、メリハリのないスロー調というだけで、甘く初々しい語りなどはさして伝わらず。こういう演奏が繊細さにあふれた美しさなどと評価されるのだろうか…。また指の動きも現代の若手ピアニストとしてはごく標準の域を出ず、ショパンでは大切な装飾音の取り扱いにセンスや配慮が感じられない。

ソンジン:演奏回数を重ねるごとに表現が練れてくるのかと思いきや、あいかわらず謙虚で丁寧な雰囲気を漂わせつつ、音楽的にはフォルムが確定せず迷っている印象。嫌味もないが、ぜひもう一度聴きたいと思わせる魅力がない。コンクールでポイントを稼げるよう訓練を積んで整えられた演奏で、なんとはなしにイメージ的に重なるのはスケートの羽生選手。だから彼のファンのように、好きな人は特別なのかも。

どの人もふしぎなほど音楽がツボにはまらず、演奏が説得力をもって聞く者の心に深く染みこむような表現のできる人がほとんどいなかったように思います。かといって技巧的にものすごい腕達者という人もいない…。
ショパン・コンクールというものにはいろいろな意味での期待が大きすぎるのかもしれませんが、少なくともこの6人の中に、これからのピアノ界を背負って立つほどの強力な逸材がいるかというと…残念ながらそんなふうには思えませんでした。

オーケストラもワルシャワ国立フィルなんていうけれど、あれはちょっとひどいというか、日本の地方のオケの方がよほど上手いでしょう。

5年前にも感じたことですが、入賞者の来日公演での演奏は、コンクール本番での演奏を少しでも耳にしていると、気合の入り方が明らかに違うところにがっかりさせられます。どのピアニストもしぼんだ感じの、いわば予定消化型の演奏をするのは、入賞結果を元手にさっそく経済活動に励んでいるように感じてしまいます。

名も知れぬピアニストでいいから、心地よく乗っていけるショパンを聴きたくなりました。
続きを読む

カテゴリー: 音楽 | タグ:

捨てること

いつごろからであったかは覚えてもいませんが、巷に「断捨離」という言葉がえらく流行ってもてはやされた時期がありました。
ウィキペディアで調べてみると「不要なモノなどの数を減らし、生活や人生に調和をもたらそうとする生活術や処世術のこと」とあり、「人生や日常生活に不要なモノを断つ、また捨てることで、モノへの執着から解放され、身軽で快適な人生を手に入れようという考え方、生き方、処世術である。」と説明されています。

まあ、それはある意味そうだろうと思うし、一面においては共感できなくもないことではありました。
しかし、それの「専門家」のような人物がやたらテレビに出てきて本まで出して、さもその道の大家のような顔をしていちいち上から教えるような物言いを展開、果ては人生訓まで垂れる様子が嫌だったことを覚えています。
マロニエ君は本質的には共感するところがあっても、高い場所からものを言いお説教するような態度に出られると、その抵抗感のほうが先に立ってしまってそんな話は聞きたくなくなるので、あまり自分の生活に活かすところまでは行きませんでした。

ところがこのところ、とくに深い理由はないけれど、自分の生活空間が乱雑や混沌であふれるのはやっぱり嫌なので、少しずつ要らないものを処分することを心がけるようになりました。
これまでも不要なものの整理・処分は必要という考えそのものはあったけれど、ご多分に漏れずなかなか実行が伴わなず、頭では思っても「着手」そのものに手間取っていた側面が大きかったように思います。
とくに期限があるでもない事なので、そのうちそのうちと先延ばしをするうちそれが常態化するので、実際に手をつけること…が最大の難関なのかもしれません。
こわいのは、人間は自分の生活エリアというか身のまわりのことになると、毎日目にするため感覚が麻痺してしまい、そのだらしなさや無様な姿を客観的にとらえることができなくなってくることだと思います。しかし、よその家にお邪魔すると、こう言っては申し訳ないけれどイヤというほどそのあたりが新鮮に見えてしまい、自分のことは棚に上げて「よくこんな状態でなんともないなぁ!」などとエラそうに思ってしまいますが、ある程度はこれは自分も同様だろうとも思うわけです。

自分の家の中のいろいろな部分を、他人が新鮮な目で見たらどう思うだろうかということを考えてみると、ふっと恐ろしいような気になり大いに焦ります。

で、すこしずつ要らないものを処分してみると、意外や意外、結構それが楽しいというか心地よいことに開眼しました。
さらに、その余計なものが貴重な生活空間をずいぶんと占領して、心までもが雑然としたゴミゴミした気分にさせているということが、あれこれ捨ててみてはじめてわかります。

むろん個人差はあると思いますが、要らないものを捨てるというのは、ちょっと習慣になるとかなり快感になってきて、つぎつぎにやる気が起きてくるのは自分としてはいいことだと感じています。それほど余計なものに囲まれて、心理的にも重く暑苦しくのしかかっていることは、要らないものを捨ててみて、気持ちが軽くなってみると如実にわかりました。

無理して必要以上になにもかも捨ててしまうことはないと思いますが、ある程度よけいなモノがなくなると、気持ちまで爽やかになってくるのが嬉しくて、まったく後悔などないものですね。いちばん足を引っ張るのは「これは何かのときに役に立つかもしれない」などとケチなことを思うことで、実際に役に立つ局面なんてまず殆どありません。
万にひとつもそんなことがあっても、それがなんだと思えばすむことで、それより快適な時間や空間のほうがはるかに重要だと、マロニエ君は思えるようになりました。
続きを読む

距離をおくと

過日ピアノ関連の来客があり、ディアパソンをしばらくお互いに弾きながら、その音色を確認するということができました。

ピアノの音は場所によって聴こえ方が変わるにもかかわらず、演奏する者はその場所を変えることはできません。
せいぜい大屋根の開閉か、譜面台を立てるか倒すかぐらいなもので、音を出す人間が場所を変えて聴くということは絶対不可能という物理的事情がありますね。

どんなに慣れ親しんだピアノでも、ピアノから距離をおき、客観的にその音を聴いてみるためには、必然的に別の人が演奏している間だけあれこれと場所を移動してみるしかないのですが、この日はそれがかなり自由にできました。

そこでいまさらのようにわかったことは、演奏者にとっては鍵盤前に座るというあのポジションは、音響的にはかなり好ましくはない場所のようだということでした。

ピアノからわずか1mでも離れると、もうそれだけで聴こえてくる音は変わるし、2m、3mと距離を変えるたびにさらに聴こえ方はいろいろな表情を現しながら変化します。また、離れた場所でも椅子に座るか立つかでもおもしろいほどその聴こえ方はころころと変わり、こんなにも違うのかと呆れてしまいました。ある程度はわかっていたつもりだったのに、あらためてその変化の大きさには驚きとおもしろさと新鮮さを感じてしまいました。

少し離れた位置で聴くということは、考えてみれば調律のときにそれがないではないけれど、やはり調律と演奏はまったく別のことであるし、楽器は曲になったときに真価をあらわすわけで、やはりどんなに優しいものでもいいから曲を弾いてもらわないことには、「音」をたしかめることは出来ないと思いました。

それともうひとつ、当たり前というか、わかりきったことを再確認したという点でいうなら、少なくともグランドピアノは(とく大屋根を開けた状態であれば)、楽器のサイドから聴くのが最高であることを痛感させられました。
いわゆるコンサートでステージ上に置かれたあの向きで聴くのは、やはり正しいようですね。

ふだん自分のピアノは自分が弾くだけだから、このようにサイドからそのピアノが出す音を曲として聴くことがないのは、ピアノの所有者として、なんという残念無念なことだろうかと思わずにはいられません。
どんなに素敵な車に乗っていても、それが街中を疾走していく姿を、ハンドルを握るドライバーは決して見ることができないのと同じです。

なぜこのようなことをわざわざ書くのかというと、手前味噌で恐縮ですが、それほど自分で弾いているときにはわからなかった音や響きが想像していたよりすばらしく、ばかみたいな話ですが、思わず自分のピアノに陶然となってしまったからなのです。
さらにわかったこととしては、床と並行のボディより、わずかでもいいから耳が上に位置するほうがいいということ。

耳の位置が低すぎると、響板から発せられる音の大半が大屋根から反射されたものばかりになるのか、やや輪郭がぼやけるようで、中腰から立ったぐらいの、つまりすこし中のフレームが見えるぐらいのほうが断然いいこともわかりました。

要するにそのピアノにとっての特等席は、楽器から少し離れた場所であるということで、その最たるものはステージです。(ただしピアノのお腹が見えるほど低い座席ではなく、最低でもフレームの高さ以上であるべきだと思いますが。)
ステージのピアノを弾くと、音は会場の音響効果と広い空間のせいで風のように客席側に飛んでいってしまい、むしろあまり音が出ていないように感じることもありますが、あにはからんや客席ではかなりの音量と美音で鳴り響いており、そのギャップに驚嘆したことも何度かありました。

それなのに、ピアニスト(というか演奏家)は絶対に自分の演奏を客席から聴くことができないのは皮肉なものですが、そのことは家庭のピアノでも、次元は違っても同様のことがあるというのは発見でした。
続きを読む

猛烈老人

最近の高齢者にはびっくりさせられることが多いらしいですが、まさにそんな体験をしました。

マロニエ君の自宅の近くに小さなスーパーがありますが、古い店舗のため駐車スペースはそれほど余裕がありません。
車が4台横に並ぶ列が4列あって、中の2番めと3番めはくっついていて車輪止めもないので、前に車がいなけれな、そのまま通り抜けて行くことも可能です。

その列に1台空きがあったので、マロニエ君が止めようと車の頭を入れていると、いきなりむこうから軽のワンボックスがサッとやってきて、しかも自分が入ったスペースを跨いで、いま正にマロニエ君が止めようとしている駐車枠の方へと車のフロントを突っ込んできました。

この時点でマロニエ君の車も1mぐらいは駐車枠へ入っていましたが、その軽は、まったくひるむことなく、「どけ!」といわんばかりに微動だにしません。
普通縦に2台分の駐車枠があって、両方から車がくれば、それぞれ手前は自分、そちらはアナタというふうにとめるのが当たり前です。

ところが、この軽はまったく後ろに下がる気配もないどころか、5cmぐらいずつあからさまに車を前進させて、対峙しているこちらに脅しをかけんばかりに、変なデザインのヘッドライトを目の前に近づけてきます。
こんなやり方には、さすがにマロニエ君も相当頭にきましたが、よくみると、ハンドルを握っているのは高齢の白髪頭の男性で、目をむいてこちらを凝視しています。
要するに前進で駐車枠に入って、そのまま前の枠に止めれば、一度もバックすることなく駐車から出発まで可能というところで、そのためには他車と鉢合わせになろうが関係ないといわんばかり。ブルドーザーよろしく相手をぐいぐい威嚇して、なにがなんでも自分のしたいようにする、そのためには一歩も引かないぞという居直り強盗みたいな老人でした。

こうなったら徹底的に動かないでやろうかとも一瞬思ったけれど、こんなところでこんな狂気のような老人相手にくだらないトラブルになったら、そのあと一日中嫌な思いをするだろうとも思うと、バカバカしくもなりました。
やむを得ずわざとちょっとだけバックしてみると、むこうは、そのわずか分をそれこそ接触せんばかりに詰めてきて、なんとか枠に収まったものだから、車内ではあとは知るかという様子で降り支度をしています。

その間、こちらもあえてその人の一挙手一投足をジーっと見つめてやりましたが、多少はそれもわかっているようでしたが、とにかくその図々しさときたら、そんなものはなんの役にも立たないほど強烈でした。

車から降りると、如実にその風貌がわかりましたが、かなり高齢にもかかわらず、この上なく険しい針のような目つきとふてぶてしげな態度は、まるで今の世の荒廃の度合い見るようで、なんとも嫌な気のするものでしたね。

年の功なんてものは、もはやはるか昔の幻想なのか、いまは多くの高齢者が、こうして歳を重ねるにつれイライラをも募らせながら、毎日を世間と勝負するかのように生きているということかもしれません。

はぁぁぁ…いやなものを見てしまいました。
続きを読む

視覚的要素

BSのクラシック倶楽部から。
大阪のいずみホールでおこなわれたクラリネットのポール・メイエとピアノのアンドレアス・シュタイアーのソリストによるモーツァルトの2つの協奏曲で、オーケストラはいずみシンフォニエッタ大阪。

最晩年の傑作として名高いクラリネット協奏曲と、ピアノ協奏曲ではこれもまた晩年の作であり、最後のピアノ協奏曲となる変ロ長調KV595といういずれもモーツァルトの中でも特別な作品です。

シュタイアーならばてっきりフォルテピアノで演奏するのかと思っていたら、クラリネット協奏曲のときから、ステージの隅には大屋根を取り払ったベーゼンドルファー・インペリアルが置かれていました。

ところで、古楽演奏家の多くがそうであるように、シュタイアーもその出で立ちはきわめて地味な、むしろ暗い感じが目立ってしまうような服装であらわれますが、この人にかぎらず古楽の人たちの雰囲気はもうすこし爽やかになれないものかと見るたびに思ってしまいます。
誤解のないように言っておけば、そもそも、マロニエ君は演奏家がむやみに派手な服装をする必要はまったくないと思うし、わけても日本の女性奏者の多くのステージ衣装センスはいただけないし、見ているほうの目を疲れさせるような派手すぎる色やデザインのドレスにはまったく不賛成で、やり過ぎや悪趣味は演奏家としての見識さえ疑うとかねがね思っています。

クラシックのコンサートはファッションショーではないのだから、それに相応しい節度と、本当の意味でセンスある服装が理想だと思うのです。
いっぽう、過剰な衣装の対極にあるのが古楽演奏者たちで、あれはあれでひとつの主張なのだろうと思いますが、極端なまでに質素で地味な、どうかするとくたびれたような服であることも少くなく、これで煌々とライトのあたるステージへ平然と出てくるのは、これはこれで何だかイヤミだなあと思います。
「自分たちは着るものなんてどうでもいいんだ。音楽にのみ身を捧げ、全エネルギーを傾注している。」といった強いメッセージが込められているように感じてしまうのはマロニエ君だけでしょうか。

演奏家の服装は、良くも悪くも、地味も派手も、あまりそれを意識させない程度の、お客さんを不快にさせない程度の小奇麗な身なりであってほしいと思いますし、その範囲内でさらに素敵な衣装であればもちろんそれに越したことはありません。
そういう意味では、シュタイアーは古楽の人たちの中ではもしかするといいほうかもしれない気もしますが…。

演奏については、以前同番組で放送されたヴァイオリンの佐藤俊介氏とのデュオで見せたモーツァルトのソナタでは、フォルテピアノを使っての闊達なモーツァルトであった覚えがありますが、今回その印象は一変しました。
歴史的スタイルに鑑みてか、モダンピアノでもつねにピアノは通奏低音のように弾かれていますが、肝心のソロでは一向に華がなく、ひとつひとつの音符の明瞭さやフォルム、シンプルの極地にありながらセンシティヴに変化する和声などが聴く側にじゅうぶん届けられないまま、ひたすらさっさと進んでいくようでした。

現代のピアニストの演奏クオリティに耳が慣れている我々にとっては、どこかものたりないアバウトな演奏で、とくにこの最後の協奏曲の繊細かつ天上的な美しさといったものには触れずじまいだったという印象。

ピアノはシュタイアーの希望もあったのか、通常以上にピアノフォルテ的なテイストのピャンピャンいうような音だったように感じました。
どうでもいいことではありますが、ベーゼンのインペリアルは大屋根を開けてステージに横向き置くと、視覚的にいささかグロテスクな印象がありますが、今回のようにいっそ外してオケの中に突っ込んでしまったほうが、よほどすっきりした感じに見えました。

見た目の話でついでにいうと、大阪(というか関西)のオーケストラでは、どこも必ずと言っていいほど女性団員が色とりどりの衣装を着ているのはなぜなのか…。このいずみシンフォニエッタ大阪に限らず、ほかの関西のオーケストラでもほぼ同様で、男性は黒の燕尾服等を着ているのに、女性はソリスト?と思うようなドレスを皆着ており、色もバラバラ、あれはどうも個人的には落ち着きません。

海外の事情は知りませんが、マロニエ君の記憶する限り、オーケストラの女性団員がこれほど自由な色使いのドレスを着ているのは国内では関西だけのような気がします。「衣装は音楽とは無関係」ということなのか「華やかで舞台映えする」という感覚なのか、いずれにしろどうも個人的に気になることは事実で、正直いうと音楽まで違って聴こえてしまうようです。

音楽がいくら「耳で聴くもの」とはいっても、視覚的要素も大切だとつくづく思います。
続きを読む

カテゴリー: 音楽 | タグ:

リシャール・アムラン

昨年のショパンコンクールで2位になった、シャルル・リシャール・アムランのデビューCDというのを買ってみました。

秋に開催される同コンクールより半年前に母国カナダで収録されたショパンで、ソナタ第3番、幻想ポロネーズ、op.62の2つのノクターン。
時間にして53分ほどで、今どきのCDは多くが70分は当たり前になってきている点からいうと、かなり少なめな印象。
むろんCDを収録時間で買っているわけではないけれど、いまどき普通ならばあと20分ほど入っていると思うと、なんだかちょっと物足りない気もするわけで、人間はつくづく欲深いものだと自分で思います。

しかし、そんなケチな不満を打ち消すかのように、演奏はたいへん見事なものでした。

とくにポーランド的とか、フランス的とか、ことさらショパンらしいニュアンスに満ちているというものではなく、かといって精度の高いピアニズム重視というわけでもないもので、生まれ持ったバランス感と、クセのないきれいな言葉を聞くような演奏でした。
しかも、よくある、ただ指がハイレベルに回るだけといった虚しさや、無機質不感症な演奏というわけでもなく、一定の演奏実感もちゃんと伴っていて、ようするに好ましい演奏だったと思います。

情感で押すタイプではないけれど、人間的な何か豊かなものが常にこの人の演奏を支えているようで、節度の中で確かな音楽の息遣いが息づいているのは立派なものだと思いますし、この若いピアニストの教養と人柄のようなものを感じないわけにはいきません。

第1位だったチョ・ソンジンが、多くの人から激賞されている中、どちらかというとどこか学生風な未熟さを(マロニエ君は)感じてしまうのに対し、アムランはぐっと大人の成熟した語り口だなあと思います。

その他、好ましく感じたことのひとつに、非常にしっかりした正統な演奏でありながら、決して説明的にならず、音符が音楽の自然な言葉へしなやかに変換されて、聞く者の心情へと直接語ってくる点でした。

多くのピアニストがテクニック、能力、解釈、理知的なアプローチなど、あらゆることを兼ね備えているかのような努力にもかかわらず、けっきょくはなにもない無個性で凡庸な存在に落ち込んでいるこんにち、リシャール・アムランはすでに自分の演奏スタイルが確立していて、どういうふうに弾きたいかが迷いなしに伝わるのは聴く側も無用なストレスを感じずにすみます。

いわゆる正統派タイプだと歌い込みを排除した骨がましい演奏になり、解釈優先主義の人はあえて塩分ひかえめの食事みたいな演奏になって、マロニエ君はいずれも好みではありませんが、この人は、奇を衒わず自然体、それで損をするならやむなしという潔い価値観をもっているのか、演奏が首尾一貫しているのは却って評価が高くなりますね。

さらにいうと、ちかごろの若い演奏家にありがちな過度な出世欲や、自己顕示のためのパフォーマンスが感じられず、むしろ信頼感のようなものを感じさせてくれる人でした。

ピアノの音ははじめはちっとも意識していませんでしたが、よく考えたら、この人はショパンコンクールでは一貫してヤマハを弾いた人だったことを思い出しました。
しかし、どう聴いてもヤマハのようには聴こえないので、おそらくスタインウェイなんだろうぐらいに思っていたのですが、何度か聴いているうちにソナタの冒頭など「ん?」と思う音のゆらぎのようなものが耳につき、全体的な音色にもややざらつきがあるようでもあり、もしかしてNYスタインウェイではと感じ始めることに。

昔は北米大陸ならNYスタインウェイと相場が決まっていましたが、このところはご当地ニューヨークでさえハンブルクがずいぶん勢力を伸ばしているのはなぜなのか…。
とりわけ大きなコンサートや録音ではハンブルクが多いように感じるのは、せっかくアメリカなのにつまらない気がしていたのですが、どうやらこの録音ではマロニエ君の間違いでなければ、よく調整された新しめのニューヨークのように感じました。

カナダではまだまだニューヨーク製が主流なのかもしれません。

話が逸れましたが、リシャール・アムランはとても良いピアニストだと感じ、今後もCDなど出ればぜひ買ってみようと思います。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

言葉の低下

いかに当節の流行りとはいえ、どうしても馴染めない言葉ってありますね。

言葉は常に時代を反映するもので、どんなに間違っていても、マス単位で一定期間使い続けられれば、それがいつしか根を張って標準になってしまう怖さがあって、だからよけいに言葉は大事にしたいと思います。

「マジで」「チャリンコ」「ハンパない」などは、いちいち気にすると無益なストレスになるので流していこうと頭では思うけれど、やっぱり耳にするたびに抵抗がサッと体を通り抜けていくような感触を覚えます。

一部の人達が、限られた範囲内だけで、遊び感覚で言葉を崩して使うのならともかく、たとえば小さな子がはじめに覚える言葉として、こんな妙ちくりんな言葉が無定見に入り込んでいるのはいかがなものかと思います。いっぽう、近頃は男というだけで時と場所を選ばず、一人称を「オレ」と言いまくるのも気になります。

マロニエ君の個人的な感覚で言うなら「オレ」は、よほどくだけた間柄での言い方であって、本来は男友達や朋輩の間で使う言葉であって、使う範囲の狭い一人称だったはずですが、これがもう今では、若い人とほど誰も彼もが無抵抗に使いたい放題で、芸能界や若年層に至っては「ぼく」などと言う方が浮いてしまうほどの猛烈な勢力であるのは呆れるばかりです。

固有名詞は避けますが、いつだったかオリンピックから帰国した選手たちが皇族方と面談した際、さる金メダリストが皇太子殿下に対して自分のことを「オレ」と言ったものだから、あわてて宮内庁の誰かから注意されたという話があるほど、事態は甚だしくなっています。

日本語の素晴らしさのひとつは、尊敬語と謙譲語、あるいはその間に幾重にも分かれた段階にさまざまな言葉の階層があるところであって、それを「いかに適切に自然に使い分けられるか」にかかっていると思います。
ところがそういう言葉の文化は廃れ、現在はやたらめったら丁寧な言葉を使えば良いという間違った風潮が主流で、「犯人の奥様」的な言い回しが横行し、アホか!といいたくなるところ。

最近とくにイヤなのは、「じいじ」と「ばあば」で、あれは何なのでしょう!?
テレビドラマなどでもこの言い方が普通になっていたり、盆暮れの駅や空港での光景に、孫は祖父母のことをこう呼んでしまうのは、思わず背筋が寒くなります。

これを無抵抗に使っている人達にしてみれば「なにが悪い?」というところでしょうが、聞いて単純にイヤな感じを覚えるし、祖父母に対する尊敬の念も感じられず、理屈抜きに不愉快な印象しかありません。
個人的には「じいちゃん」「ばあちゃん」という言い方も好きではないけれど、さらに「じいじばあば」は今風のテイストが加わってさらに不快です。

単純におじいちゃんおばあちゃんぐらいでは、どうしていけないのかと思います。

こんなことを書いているうちに、ふと脈絡もないことを思い出しましたが、最近はお店で物を買って支払いをする際、店員は男女にかかわらず、意味不明な態度を取るのが目につきます。

どういうことかというと、商品をレジに持っていくと、紙に包むなり袋に入れるなりして、代金を受け取るという一連のやりとりの間じゅう、店員は目の前のお客ではなく、一見無関係な方角へと視線を絶え間なく走らせます。

それも近距離ではなく、どちらかというとちょっと距離を置いたあちこちをチェックしているようなそぶり。
まるで自分の科せられた職務は、実はいま目の前でやっていることではなく、もっと大きな責任のあることで、レジ接客はそのついでといわんばかりの気配を漂わせるという、微々たる事ではあるけれど、あきらかに礼を失する態度。

いちおう頭は下げるし、口では「いらっしゃいませぇ」とか「ありがとうございまぁす」のようなことは言うけれど、実体としてはお客さんをどこかないがしろにする自意識の遊びが働いているような、そんな微妙な態度をとる店員は少くありません。
これにはどうやら何らかの心理が潜んでいそうですが、ま、分析する値打ちもなさそうな、ゴミみたいな主張だろうと思われます。

ただ、ここで言いたいのは、こんなちょっとした言葉や態度がじわじわ広がるだけでも、世の中はずいぶんと品性を欠いた暗くてカサカサしたものになってしまっているような気がするということです。
お互いに気持ちよく過ごしたいのですが、それがなかなか難しいようです。
続きを読む

録画から

早いもので今年ももう3月ですね。

このところTV録画で見たコンサート等の様子から。

アリス=彩良・オットとフランチェスコ・トリスターノのデュオリサイタル。
ドイツの何処かのホールで収録されたライブでしたが、出てくる音声が今どきおそろしくデッドだったのはかなり驚きました。

まるでただ部屋に2台のピアノを置いて弾いているような音で、優れた音響に馴らされた耳には、あまりに窮屈で最後までこの音に慣れることはできませんでした。
また、二人ともとても偏差値の高いピアニストなのだろうとは思うけれど、残念なことに味わいとかニュアンスというものがなく、ただ楽譜のとおりに正確に指が動いていますね…という印象。

最近のクラシックの演奏会は、慢性不況でもあり、ただ良質な音楽的な演奏をしているだけでは成り立たないという実情はもちろんあるとは思いますが、それにしても演奏家がやたら「見せる」という面を意識しているらしいことが目に付くのは個人的にはどうも馴染めません。
ドレス、髪型、指にはたくさんの指輪をはめて、弾くときの表情もピアニストというよりは、どちらかというと女優のよう。

ピアノはスタインウェイDとヤマハCFXという組み合わせでしたが、上記のような詰まったような音があるばかりで、こちらも真剣に聴く気になれずとくに感想はもてませんでした。ただ、ステージ真上からのカメラアングルがあり、2台とも大屋根を外した状態なので、構造がよく見えました。
驚いたことには、ぱっと目にはまるで同じピアノのように見えることでした。

全体のサイズはもちろん、とくにフレームの骨格や丸い穴の数や位置などほとんど同じで、この2台が別のメーカーの製品ということじたいが信じられないくらいでした。以前はヤマハのフレームは独自の形状でしたが、CFXからはそれが変更され、ますますスタインウェイ風になっているようです。

じつはスタインウェイDとヤマハCFXという組み合わせが、偶然もうひとつあり、小曽根真がアラン・ギルバート指揮のニューヨーク・フィルハーモニックと昨年大晦日に演奏した『動物の謝肉祭』が、やはりこの2社の組み合わせでした。

もちろんCFXを弾いたのは小曽根真であることはいうまでもありません。
このときはなんとか言うアメリカ人男性がナレーションを務め、開始前と曲と曲の間に、いかにもアメリカ的テイストの芝居がかったトークが挟まれ、その鬱陶しさときたらかなり強烈なものでした。
メインは音楽なのかトークのほうか、まるでわからなくなるほど長いし押し付けがましくて、ウケと笑いと拍手を要求してくるのはウンザリで、録画なので早送りで飛ばすしかありませんでした。

ところで、小曽根真の演奏はどこがそんなにいいのか…マロニエ君は正直さっぱりで、これは皮肉ではなく、わかる方がおられれば教えてほしいぐらいです。
個人的な印象としては、本業のジャズでもあまりキレがないように感じるし、クラシックではやはりあんまり上手くないという印象が拭えません。
何年か前にモーツァルトのジュノームを弾いたときは、たしかにあれはあれで一回は新鮮でへぇぇと感じたことは覚えているけれど、こうもつぎつぎにクラシックのステージに登場するとなると、申し訳ないけれどふつうの評価にもさらされてくるのは避けられない気がするところ。

とりわけ不思議なのは、ノリやリズム感が身上のジャズメンであるはずなのに、その肝心のリズム感がなく、メリハリに欠け、むしろあちらこちらでモタついてしまう場面が散見されるのは不思議で仕方ありません。
ジャズでもクラシックでも、この人の演奏にはある種の「鈍さ」を感じてしまうのはマロニエ君だけでしょうか。

そうれともうひとつ。
題名のない音楽界では辻井伸行がベートーヴェンの皇帝を弾いていましたが、なんだかんだといっても彼はまぎれもなく天才で、人前で演奏するだけの値打ちがあり、シャンプーのコマーシャルみたいな言い方ですが、「リッチで自然でツヤのある」ピアノを弾く人だと思いました。

彼のピアノには努力だけでは決して身につかないスター性と独自性があり、あの輝きはやっぱり並み居るピアニストの中でも頭一つ出た存在だと思いました。
続きを読む