畳とカーナビは…

我が家にある車の1台には4年ほど前のカーナビがついています。
パナソニックのゴリラですが、このカーナビは購入後3年ぐらいがったか、地図情報が無料で新しいものに書き換えることができるのが特徴でした。更新された地図情報をネットからSDカードへダウンロードして、それをカーナビへ差し込んで読み込ませるというものです。

ところが、最後の1年ぐらいは面倒臭くてしばらく最新版をダウンロードしなかったところ、気がついた時には無料更新の時期を過ぎてしまっていたので、ついにそのままになってしまっています。

普段は特に困ることもないので、約2年前の地図データのまま、過日ちょっとした車の旅行にでかけました。
広島を経由して、しまなみ海道へまわり、四国を横断するところまでは良かったのですが、佐田岬半島(四国西端の半島)からフェリーに乗って九州に再上陸(大分県)したところ、ここで地図情報が古いことがあらわになり、新しい道があるにもかかわらず、わざわざ遠回りするルート案内を繰り返すのは大いに面白くない気分でした。

最適のルートでないぐらいはやむを得ないとしても、古い地図データには存在しない道(それは大抵、広くて走りやすい道)がある場合、次々に不適切な回りくどいリルートをしてくるあたりは、カーナビがバカに思えてしまって、あれはどうもいけません。

それはカーナビの機能が悪いのではなく、ひとえに地図情報が古いのだから致し方無いわけですが、それはわかっていても、いま目の前に広くて新しい道があるにもかかわらず、それがナビゲーションに反映されないのを何度も見ると、やっぱりどうしようもなく嫌になってしまいます。

とくに帰路は震災の影響で大分自動車道の通行止区間にあたり、やむなく東九州自動車道を通りましたが、近年開通したルートなので、ナビ画面では何度も自車マークが空中を飛んでいるような動きになり、わかっちゃいても虚しいものでした。

むかし「畳となんとかは新しいのに限る…」というような言い回しがありましたが、カーナビの地図データこそまさにそれだと言えるようです。とくに最近は公共事業が盛んなのかどうか知らないけれど、次から次に新しい道があちらこちらで開通しているようで、そうなると、少なくとも見知らぬ土地に行くようなときには、常に「最新」とは言わないけれど、できるだけ新しいデータでないといけないことを思い知らされたわけです。

そうはいっても、普段は別に困るわけではないないし、更新するには以前ならタダだったものが1回につき1万円近くかかります。
データはというと、年に6回ほど更新されているらしく、さて、そういう状況の中でいつ更新したものか。
これが問題で、なかなか踏ん切りがつきません。

今回のように旅行の予定でもあれば、それを機に新しくすればいいわけですが、それはもう終わったし、しばらく遠出の予定もないとなると、だったらできるだけ先送りしたほうがいいような気もします。
とくに直近で必要がなければ、先送りして粘れるだけ粘れば、そのぶん最新データがゲットできるわけで、このあたりが、どうも我ながらみみっちいなと思いますが、でも…そうなんですよね。

それはそうと、松山市から佐田岬半島へと向かう海岸線の道路は、約90kmに及ぶ理想的なドライブコースで、日曜というのに交通量もきわめて少なく、道幅も広いし路面は良好、景色も抜群、信号はほとんどナシという好条件で、その心地よさは今だに深く心に刻まれています。
それにひきかえ、大分側に上がったとたん、ちまちました道幅の狭い道路にはガックリでした。

錦帯橋、厳島神社、大和ミュージアム、しまなみ海道、道後温泉などめぐって、走行距離にして900kmに及ぶ旅でしたが、残念なるかな今回はピアノ店訪問はひとつもナシでした。
でも、下手にピアノ店などに立ち寄っていると、それ以上の大事な見どころを逃してしまうことも少なくないので、これはこれでよかったと思います。
たまに旅に出るのは理屈抜きにいいものですね。
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練習を楽しむ才能

このブロクを読んでメールを下さった方で、同じく福岡市在住の方がいらっしゃいます。

とても個性的な方で、いわゆる一般的平均的な考えの持ち主ではありませんが、自分の感性と価値観を信じる生き方を静かに実践しておられる方とでも言えばいいでしょうか。いわゆるポピュリズム精神に重きを置かないためか、こういう人はとりわけ現代では異端児的で、ちょっと変わってる人というような位置づけになるようですが、なにかというと定見もなく、浅薄で迎合的な発想しかできない人間が大多数な中、まことにアッパレであることはいうまでもありません。

この方とはしばしばメールのやり取りもあり、電話でもずいぶん話して、いわば関係の「実績」を積んだことから、先日ついにその方のお宅に訪問することになり、思いがけなく食事までごちそうになってしまいました。
人間性もさることながら、むこうも男性だったのでお宅に行って二人で会うということもできたわけで、これがもし女性だったらそう気易くお尋ねするとこもできなかったかもしれません。

食事がすむと、ピアノのある部屋に案内されました。
いちおう個人情報という面にもあたるのかもしれませんし、今時のことなので、どんなピアノかというような具体的な記述は控えておきますが、とにかく普段ここでどのような練習をしているのかということをつぶさに説明していただき、ピアノの上達にかける情熱にはただただ圧倒される思いでした。

この方は大人になってからピアノを始められ、職業柄、別分野でひとつの事を極められている方なので、修行にはまず「基本」が大切であることをよくご存知らしく、基本なくしては何事もはじまらないし、しっかりした基本の上にこそ、とりどりの花も咲けば応用もきくという至極もっともなお考えらしいのはさすがです。

というわけで、もっか猛練習の毎日を送られているようですが、その練習というのが半端ではありませんでした。
曲は簡単なバッハの小品やブルグミュラーなどに過ぎませんが、単なる指練習であるハノンだけでも1時間2時間やってもまったく苦にならないのだそうで、後半は話をしながら指だけは休むことなくハノン練習で指はずっと上ったり下りたりしているという、これまでに見たこともない独特の光景でした。
さらに夜も更けると電気のキーボードに移行して、これで音を出さずに指練習を継続、車にも職場にも同じキーボードがある由で、僅かな時間を見つけてはハノンで指を動かすという、お仕事とその他生活の隙間にはすべてピアノの練習が入れ込まれているような毎日を過ごされているようです。
しかもそれが苦にならないどころか、「楽しい」のだそうですから恐れ入りました。

根っから練習嫌いのマロニエ君にしてみれば、自分とは真逆の人物が、目の前で真逆のことをやって見せながら嬉々としているのですから、これはもう、とてつもないものを見てしまった気分でした。

練習というのはしなくちゃいけないからするものだと思っていたマロニエ君でしたが、中には練習そのものを楽しむという方がおられて、これは仕事でも勉強でも同じでしょうが、嫌々やるのと楽しんでやるのとでは、もうそれだけで嫌々組はかないっこないわけです。

で、驚き、呆れ、圧倒されたマロニエ君でしたが、逆に心配なことも頭をよぎりました。
あまりの過剰練習からピアニストへの道を断念したシューマンのように、やり過ぎて手を壊しては元も子もないので、それだけは注意されたほうがいいのでは…と言いましたが、もちろん危ないと感じた時はすぐに止めて休ませているから心配には及ばないと、その点もぬかりはないようでした。
マロニエ君など、ろくに弾けもしないくせにショパンのエチュードなどやっていると、指というより手首から肘にかけての筋肉が無理をしてしまうのか、かなり痛くなって怖くなることがしばしばです。

そこは根性ナシのマロニエ君なので直ぐにやめてしまいますが、これを弾き続けることで克服しようなどと思って強引にやっていると、いつか手を壊してしまう可能性も低くはないでしょう。

いずれにしろ、およそ音楽とも言えないハノンのような無機質な練習をあれだけ楽しく積めるというのは、いやはや羨ましいというほかはありませんし、それで楽しめることそのものも「才能」だと思います。

考えてみれば、もともとピアニストなどは、ステージでの演奏など氷山の一角であって、いわば人生の時間の大半を練習につぎ込む職業でもあるわけで、やはりこれは練習のできるメンタリティを持っていることが必要で、それも重要な才能のひとつだと思います。
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服の流行

着なくなった服の整理というのはなかなか難しいものです。
とくに男性もののほうが、際立った流行に左右されないぶん、より困難かもしれません。

その点女性は、絶えずこの点にアンテナを立てトレンドに敏感なので、順次入れ替えていくことが半ば当たり前かもしれませんが、男性の場合は、よほどのことでない限り服をどうこうすることって…なかなかないのです。

でも、例えば10年(かどうか知らないけれど)前に比べたら、例えばワイシャツの身ごろというか、横幅が今はかなり細身になってきていて、マロニエ君も当初は最近の男性は身体が小さくなってしまったんだろうか…と勘違いしていた時期がありました。
首周りや袖丈は同じでも、身ごろは明らかにタイトな作りになりましたし、ジャケット然り、パンツなんて細すぎて「なにこれ?」と思うものも少なくありません。

マロニエ君は通常はLサイズなのですが、身ごろに限っていうなら、一昔前のMより今のLは細いかもしれないぐらい、気がついたら変わってしまっているようです。

シャツなどを必要に応じてちょこちょこ買っているぶんには、さほど気がつくこともありませんでしたが、だんだんと何年も前のシャツなどは着なくなってしまうようです。他の人も同じかどうか知りませんが、やはり新しく買ったものを着る機会が多くなり、以前のものはクリーニングから戻ってきたまま袋に入って状態でタンスの棚に眠っています。

それでも、例えばボタンダウンのシャツなどは、べつにデザインにそう違いはないだろうと思って昔のものを出して着てみると、中にはやけに幅広で(体型はそれほど変わっていないので)、以前はこんなものをなんとも思わないで着ていたのかと思うと、さすがにびっくりしてしまいます。

流行というのは恐ろしいもので、「普通」の基準点が変わってしまうことらしく、たかだかボタンダウンのシャツでも古いものは何だかおかしくてもう着られません。
そんなものがあちこちを占領しているため、限られたスペースはやたらひしめき合い、それが何の意味もないことにだんだん気が付き始めました。
とくに傷んでもいない、かつては気に入って買った服を廃棄するのはちょっとした抵抗感もありますが、さりとてこのままタンスの肥やしにしても何の意味もなく、ただそこにあってスペースを占領するだけで、結局じゃまなだけです。

で、この先、着ることはないであろうものを昨日ついに引っ張りだして、再検討し、間違いなく着ないと断定できるものだけをさらに選び出しました。
パンツ類は別で、この日の整理は上半身ものだけにしましたが、それでもIKEAの青い袋の中型がいっぱいになるだけの服が着ることはないアイテムとして認定され、廃棄の対象となりました。

そのときはちょっと複雑な気持ちも無くはなかったかれど、いったんおさらばしてみると却ってスッキリして、やはり以前も書いたように、とくに幸福感もないような無駄なモノに囲まれて生活するのは愚かしいことだというのは間違いないようです。

BSチャンネルでは、昔の映画やくだらぬドラマなどが流れていたりしますが、そこで目にする服装は、なんであんなにみんなダボダボのダサいジャケットやコートを当然のように着ていたのかと思うと、どうしようもなく笑ってしまいます。
その笑いの根拠となるのは、それがカッコイイ、ステキという大前提から、みんながおかしな服装をしているように現代の目には映るからだと思います。

若い人がピチピチの細いスーツなんかを着ているのを見ると、これもどうかと思うし、また年月が経てばそれをドラマなどで見て笑うことに必ずなるわけで、これの繰り返しでアパレル業界は成り立っているんでしょうね。
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苦手な音

地震の話は気が滅入るのでピアノの話に戻ります。

過日、ウゴルスキの音の美しさについて書いたばかりでしたが、このCDは単独でも持っているけれど、たまたま近くにあったグラモフォンのブラームス全集の中からピアノソナタを取り出して聴いたものでした。

で、なんとはなしにその続きを聴いてみようと続く番号のCDを見ると、主題と変奏(弦楽六重奏の第二楽章のピアノ版)、シューマンの主題による変奏曲、ヘンデルの主題による変奏曲とフーガで、演奏はダニエル・バレンボイムと記されています。
たしか前にもこの全集を聞いている時、バレンボイムのピアノは苦手なのでこのディスクはすっ飛ばした記憶がよみがえったのですが、今回はどんなものか聴いてみることにしました。

果たして、身構えていた以上にバレンボイムの「音」がまさにいきなりスピーカーから飛び出してきて、わっ!と思いましたが、とりあえず一度だけでも最後まで聴いてみることに。

音楽的にもまったく自分には合わないし、どこか力ずくというか、ただ弾けよがしに弾いているだけとしか思えないものでした。まるで昔むかしの音大生が、ただ力んで弾いているだけといった風情で、よくこれで天才ピアニストが務まったものだと思います。
さらにその音は、マロニエ君が苦手としてきたまぎれもない「あの音」で、いつも音がペシャっとつぶれたようで、しかもその中に硬い針金が入ったようなツンツンしており、どうしたらこんな音ばかり出るのか不思議なくらいでした。

資料を見ると1972年の録音のようですから、すでに40年以上前の演奏で、おそらく30歳ぐらいだったのでしょうが、基本的に演奏というものは人の声のようなもので生涯変わらないということがよくわかります。

彼が指揮を始めたことは、むろんそれに値する天分があったなど複合的な理由からだろうと思いますが、その中にはピアノ一本でやっていくだけの力というか、ピアニスト業だけで生涯聴衆を惹きつけるだけの魅力には乏しいことを本能的に感じていたからだろうと勝手ながら思います。

調律師の故・辻文明さんは「一流のピニストにはソノリティがあるものだ」というような意味のことを言われたと、何かで読んだ記憶がありますが、たしかに、世界的に第一級のピアニストともなると、「その人固有の音」というのが明瞭に存在し、楽器の個性とか優れた調整による差を飛び越えてしまうことが珍しくありません。

最も甚だしいのがホロヴィッツで、彼は晩年になって日本やヨーロッパにも出かけて演奏するようになりましたが、ロンドンだったか練習用のハンブルク・スタインウェイを弾いたり、ロシアではスクリャービンの生家にあった古いピアノで弾いている映像がありますが、その音はまぎれもない「ホロヴィッツの音」になっていることには、ただただ舌を巻くばかり。
彼のあの独特な音は、ホロヴィッツのために厳選されたニューヨーク・スタインウェイだからこそのものだと思い込んでいたマロニエ君は、それ以前に、どんなピアノでも彼がひとたびキーに触れれば「あの音」になることを知り、強い衝撃を受けたものでした。

また近年はすっかりスタインウェイばかりを弾くアルゲリッチも、もう少し若い頃は、日本公演でもヤマハを弾くことが幾度かありましたが、そこで聞こえてくる音は(実演でも)ヤマハもスタインウェイも関係ないほど「アルゲリッチの音」でした。
むかしVHDディスクというのがあって、ヨーロッパで収録された「アルゲリッチコンサート」では、ラヴェルの夜のガスパールをヤマハで弾いていますが、これもピアノメーカー云々が問題でないほど彼女にしか出せないあの音だったので、ピアノが完全に道具にまわっていることが歴然です。

その点でいうと、グールドの晩年の録音のいくつかはヤマハで録音されていることは周知の事実ですが、とりわけ名演として名高いゴルトベルクは、マロニエ君には、その素晴らしい演奏にもかかわらずヤマハの音が耳についてしまって、これがグールドの魅力の幾分かをスポイルしているように聴こえるのは、かえすがえすも残念な気がします。

しかしこれはあくまで珍しい例というべきで、普通はこのクラスのピアニストになると、専ら本人のソノリティが前に出るので楽器の違いはマロニエ君個人はあまり気になりません。
そういう意味で、バレンボイムの音は個人的にどうしても受け付けないし、あの音は彼の奏法と音楽が、ピアノというきわめてセンシティヴな楽器によって精緻に投映されたものだろうと思うと、それを可能にするピアノという楽器にも感心してしまいます。
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恐怖

熊本では大変なことになり、いま、九州全体が揺れています。

はじめの地震のときはちょうど運転中だったのですが、突然、ポケットの中のケータイから「緊急地震速報」というのが鳴りだして、とつぜん警告音と警告の言葉が大きな音量で流れだしてくるのにはびっくり。
信号停車すると、揺れているのがはっきりわかりました。

家に帰ってTVをつけると、かなりの被害であることがわかり、これは大変なことが起こったと思いました。
0時を過ぎたあたり、今度はTVから強い警告音のようなものが鳴り出して、その直後に家全体がワナワナ震えだして、思わず固まってしまいました。

阪神淡路、福岡玄海沖、東日本など震災が続く中、今度は熊本というわけで、地震というのはまったく予想のつかいないところで、まったく唐突に起こるものだとというのをつくづく思い知らされます。

今度の熊本の大地震は震源が浅く、余震のしつこさが特徴のようで、これがなかなか収まりません。
それどころか、翌日の真夜中にさらに強い地震があって、TVによれば、前日の揺れは前震であったようで、こっちが「本震」というような言い方に変化してきていて、なんだかしらないけれど、いつまで続くのかと暗澹たる気分です。

いまさら言うまでもないことですが、地震というのは数ある災害の中でも、最高級に人がどうすることもできない最悪のものだと思います。ただただ全身恐怖に身を浸しながら、収まるのを請い願うしかありません。

ところで、以前の震災の教訓からか、上記の「緊急地震速報」というのがケータイを通じてかなりのボリュームで鳴るようになり、このあたりは以前に比べてずいぶんとシステムが進歩したことを痛感しました。

ただ、それは必要というのはわかるけれども、ある一定以上の揺れの場合だと思いますが、マロニエ君のケータイに限ってもすでにこの熊本の地震だけでも5回それが発せられており、そのたびに心臓はバクバクして、これはこれで神経が大いにすり減らされることも事実です。

海洋大国である島国日本では、国内の100%が危険地域だともいえるようで、地震だけは勘弁して欲しいところですが、どうすることもできません。

今回はマロニエ君の居住地である福岡は揺れるだけでこれといった被害も今のところありませんが、震源の熊本からはつぎつぎに恐ろしい被害が報告されて、それらを見るにつけぞっとするばかり。
今日の新聞には、天守閣の瓦が落ちてしまって無残な姿になった熊本城が一面トップに載っていましたし、多くの建物が倒壊、新幹線は脱線、高速道路は陥没し、橋はなくなり、これは大変なことになりました。

きっと復旧には、相当の時間がかかるでしょうね。
それにしても、あの家が揺れるときのあの感覚、加えてなんとも得体のしれないドドドという音は、まさに悪魔の仕業のようで戦慄します。
とにかく早く終わって欲しいです!!!
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ウゴルスキの音

音に特徴のあるピアニストというのはいろいろといるものですが、現在過去を含めて、つい先日、なんとはなしにふっと思いついたのがアナトゥール・ウゴルスキでした。

彼が不遇であったソ連から西側に亡命し、ドイツ・グラモフォンからつぎつぎに新録音が発売される度に、驚きと、これまでに体験したことのない一風変わったピアニズムにある種の違和感をも覚えながら、このケタ違いのピアニストの演奏にはいつも関心を持って接してきたように思います。

いかにもこの人らしい曲目としてはベートーヴェンのディアベッリ変奏曲、メシアンの鳥のカタログ、それにブラームスの3つのピアノソナタなどが真っ先に思い出され、久々にブラームスのソナタを聴いてみることに。

1、2番も壮麗で見事だけど、とくに3番の出だしの和音の輝くような鮮烈さには、とろんとした眼がカッと見開かされるみたいで、もういきなりノックアウトされました。
譜読みの上手くて指の動きが素晴らしいピアニストはごろごろいても、こういう腹から鳴るような音を出すピアニストというのはめっきりいなくなりました。叩きまくることを恐れてか、妙にスタミナのない、背中を押してやりたくなるような植物系ピアニストがずいぶん増えたように思います。
そんな耳に、ウゴルスキの演奏は食べきれない量の最高級ディナーでも出されたようです。
しかも、単なる轟音にあらず、どんな強打でも音が割れず、かといって体育会系のマッチョ演奏ともまったく違う、内的な表現とか、真綿でくるむようなpp、pppの妙技にも長けていて、この人がまぎれもない天分と個性をもった、他に代えがたい大器であったことを再確認しました。

こんなとてつもないピアノを弾く人が、ソ連時代にはピアノを弾くことさえも許されない状況が続いたなどというエピソードが有りますが、まったくもって驚くほかはありません。

たしか彼が西側デビューしてしばらくしたころ、日本にもやってきて、渋谷のオーチャードホールでディアベッリ変奏曲を弾いたリサイタルの様子はテレビ放映され、そこでも傑出した音の輝きが印象的でした。
録画はしていたものの、VHSで今や見ることも叶いませんが、当時つや消しだった頃の1980年代初頭のスタインウェイから紡ぎだされる燦然として重量感のある音色は今も深く印象に残っています。

ウゴルスキは最近どうしているのか、ネットで調べればわかるのかもしれませんが、とんと話題にならないところをみるとさほど演奏活動をしていないのかもしれませんし、だとすると非常に残念です。
CDで彼を最後に認識したのは、ドイツ・グラモフォンではないどこかのレーベルからスクリャービンのピアノソナタ全集を出したときで、それいらい音沙汰が無いような気がして、その動向が気になります。

ウゴルスキのあの絢爛とした音色の秘密は、ひとつには彼の指ではないかと思っています。
大きくて、太く肉厚で、しかもそれがクニャクニャした軟体動物のようで、あんな特殊な指の作りだからこそ、ダイナミクスにあふれた極彩色の音色のパレットとなり、どんなフォルテッシモでも音に一定のしなやかさがあって、決して叩きつけるような硬質な音になりません。

ウゴルスキに限らず、アラウとか、日本人では賛否両論のフジコ・ヘミングも、太いソーセージみたいな指から、温かな芳醇な音を出すところをみると、どんなに難曲を弾きこなせても、蜘蛛の足のように細い指をしたピアニストは、率直にいってあまり音に期待はできません。
パッと音色は思い出せませんが、若いころのポゴレリチもそんな魔物のような指をくねらせながら、あれこれと独特な演奏を繰り広げていたのをいま思い出しました。

音色でいうと、ミケランジェリやポリーニという人も少なく無いと思いますが、マロニエ君の好みで言うと、そのあたりはあまりにも苦悩のごとく追求され過ぎており、聴いていて開放感がないというか、もっと率直にいうと息が詰まってしまうようです。

ウゴルスキの音楽を全肯定しているわけではないですが、彼のピアノの音を聴いていると、ピアノという楽器の広さと深さを同時に押し広げられるような気がして、独特の快感があるのは確かでした。
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筒抜けのストレス

昨年の大晦日にギックリ腰になってからというもの、しばらくは整体院に通っていたのですが、いろいろと感じるところがあって最近になって行くのを止めました。

もちろん大きくはギックリ腰がようやく治ってきたということもあり、一説によれば、整体など行かずとも、この手のことは整形外科などに行ってレントゲンを撮り、とくに骨に異常がなければ主に時間が解決とする専門家の意見もあるので、整体の有用性というのは疑問の余地がありますが…。

やめたのは整体院の施術そのものが気に入らなかったというわけではなくて、むしろ行った後は身体が軽くなり、整体師さんの話では、痛めた腰を治すのももちろんだけれども、そのあともできるだけ来てもらって身体をほぐしたほうが、全身に変なクセなどつかずに良いということを言われていました。

マロニエ君もそれにはある程度賛同できていたし、はじめに行った金取り主義とは違って、こちらの整体院は価格も一回500円ほどと非常にリーズナブルで、しばらくは暇を見つけてはすかさず予約をとって通っていました。
全身をプロの手でほぐしてもらうというのは、ときにきつい瞬間もあるけれど、全体としてはとても気持ちがよく、すがすがしい気分で帰ることもしばしばで、これは続けたほうが身体にも良いだろうと実感していたほどです。

ところがそれほど意識はしていませんでしたが、回を重ねるごとに億劫さが増してきて、ハッと気がついたときは1週間行かなくなり、それが10日、2週間と間隔が伸びてきて、ついには行かなくなってしまったのです。
その理由というのは、うすうす自分でもわかっていました。

整体院はマンションの1階の狭いとろこだったのですが、そこにズラリと施術台が並べられ、その間にはうすいカーテンがぶら下がっているだけです。
ということは、施術中の姿を他者に見られる心配はないけれど、そこで交わされる会話はたとえ小声であっても院内に筒抜けでした。

この整体院には常時数名の男女整体師がいつも忙しく働いており、それぞれがお客さんの身体を押したりほぐしたり引っ張ったりと、まさにかなりの肉体労働だろうと思いました。
ほとんど機械に頼らない施術であるだけ、人の手によって大半の時間(通常30分)が費やされるばかりか、その間、受け身である客との会話がとめどな続きます。

世間話、身体のこと、家族のこと、先日どうしたこうしたという話まで、話題は多岐にわたり、それを整体師さん達はさもおもしろおかしく聞き役に回って、お客さんの気ままな話をすべて引き取って相槌を打っています。
それが個室ならともかく、わずか数十センチしか離れていない施術台のあちこちから聞こえてくるのですから、いやでも鮮明に耳に入ってくるわけで、当初からそれだけはちょっと抵抗があったけれど、慣れるどころか、ますますその空気感が耐え難いものになってきたのです。

こういっては何ですが、まあ第三者として聞くにはまことにくだらない話題で、話している方も、普段これほど熱心に話を聞いてくれる人なんていないはずから、余計にいい調子で喋っているのが痛々しいし、それを完璧にガマンしながら面白おかしく、まるで重要な取引先の接待のように愛想よく相槌を打っているのは、たとえ仕事とはいえ、耳にするこちらのほうがいたたまれない気分になります。

むろん、こちらにもあれこれと話しかけてきてはくれますが、他者の耳が気になってしかたなく、マロニエ君はとてもではないですがそれに乗じてペラペラ喋るというような無邪気さを持ちあわせておらず、そういうことがだんだんにストレスになって、ついには行くのをやめてしまったのでした。

それにしても、あの整体院の皆さんは、若いのにそのプロ根性はすごいなと素直に思いましたし、同時に何か切ない感じもあってマロニエ君にとっては快適な空間とはなり得ませんでした。

きっと皆さん、今日もあの調子でせっせと他人の身体をもみほぐしながら、神経も使いながらお客さんの四方山話を聞いているのでしょう。いやはや見上げたものです!
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反田恭平

反田恭平というピアニストを初めて映像で見ました。
お顔を見て、以前雑誌『ショパン』の表紙に出ておられた方だと、すぐに思い出しました。

少し前の『題名のない音楽会』で、「音楽業界が注目する4人の音楽家」の中のひとりとして登場し、リストの巡礼の年から「タランテラ」を弾いたのですが、その上手さは圧倒的でした。

肉厚できれいな、恵まれた大きな手がまったく無理なく動いて、この難曲を実に周到に弾き切ったという印象。
会場はたしかオペラシティのコンサートホールだったと思いますが、このピアニストの集中度の高い演奏によって、あの広い会場を埋め尽くす聴衆がひきこまれる気配までテレビ画面から伝わってくるようでした。

まずなにより驚くべきはその圧倒的な技巧でしょう。
表現も借りものの辻褄合わせではなく、ひとつひとつが確信に満ちていて、こういう人が出てきたのかと唸りました。

音楽的にも落ち着いた構えで大きな広がりがあり、その腰のすわった弾きっぷりはまるで大家のようでもありますが、同時に今時の精密さがその演奏を裏打ちしているようでもあります。
現代は技巧的な平均レヴェルがずんと上がっているのか、かつては難曲として多くのピアニストがあまり近づかないような曲でも、今は誰でもスラスラ弾いてしまいますが、そんな中でもこの反田氏の演奏は頭一つ出ているようです。

ふと思い出したのはユジャ・ワンですが、圧倒的な技巧の持ち主というのは、演奏家としての根底に余裕があるからか、音楽的にも変な策略めいたものがなく、むしろ素直で、非常に真っ当に曲が流れていくのが印象的です。

ただし、少々あれっ?と思ったのは、NHKの「らららクラシック」でショパンの雨だれの前奏曲を取り上げた回にも、通しの演奏者として反田氏が登場していましたが、弾くだけならシロウトでも弾ける「雨だれ」では、マロニエ君はあまり感心しませんでした。

これだけのテクニシャンにしてみれば、あまりにシンプルで腕のふるい甲斐もないということなのかもしれませんが、全身筋肉のスポーツマンが無理にゆっくり散歩でもしているみたいで、心の綾にふれるような繊細さは感じられず、どちらかというと殺風景なショパンという印象でしたので、やはりこういう人は、演奏至難な曲に挑む時ほど能力のピントが合って、力が発揮できるのかもしれません。

敢えて言わせてもらうならば、マロニエ君は、どれほどの腕達者であろうとも、シンプルな曲や小品を弾かせて心を打つ演奏ができなければ、心から崇拝する気にはなれません。

ふとYouTubeという便利なものがあることを思い出し、反田氏のコンサートの様子をちょっとだけ見てみましたが、ショパンの英雄はちょっと賛同しかねるもので、もしかしたらショパンが合わないのかもとも思いました。
ショパンは、テクニシャンが技術的高みに立って作品を手中に収めたような演奏をすると、いっぺんに作品から嫌われてしまう気がします。その拒絶反応こそが、ショパンの繊細なプライドの証なのかもしれません。

マロニエ君が見た動画では東京のピアノ店が所有するホロヴィッツのスタインウェイを使っていましたが、この楽器の価値はさておいて、反田氏の演奏にはどうもマッチしていないように思われました。
この特別なスタインウェイは、ホロヴィッツがそうしていたように、変幻自在な、ときに魔術的なやり方で多彩な音色を引き出さないと、ただのジャラジャラした音の羅列に聞こえてしまい、あらためてホロヴィッツの芸術的凄味を感じることに…。

とはいえ、ひさびさにすごい日本人ピアニストの登場であることに間違いはなく、まあ、いっぺんCDを買ってみなくてはならない人だろうと思います。

もしうまく行けば、将来、日本のソコロフのような存在になるのかもしれないと思いましたが、まあそれはいささか想像が先行しすぎでしょうか。
もちろん大きな期待を込めて言っているのですが、マロニエ君自身は巷の評判ほどソコロフは好きではないことも付け加えておきたくなりました。音楽的にあまりにも泰然とし過ぎているというか、個人的にはどこか危うさのあるものが好きなのかもしれません。
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カインズ

九州に一号店がオープンしたというホームセンターの「カインズ」に立ち寄ってみました。

関東エリアなど、数えきれないほどの店舗があるようなので本州の方はいまさらでしょうが、九州はこの春ようやくにして初上陸となったようです。
オープン前から、テレビの地元ニュースではカインズのオープンをやたら大々的に取り扱っていたので、ホームセンターの名前などいちいち知らないマロニエ君としては、よほど目新しい店がやってくるのかと思っていました。
…というか、そういう番組の取り上げ方にのせられて「思わされていた」というほうが正確でしょう。

何度もイメージを植え付けられたのが、カインズはただのホームセンターにあらず、独自の開発商品が多くて、センスがあってオシャレで実用的で、これまでのホームセンターの常識をくつがえすようなとてつもないもののようにレポーターなどはわぁわぁ喋りまくっていたものです。

さらに、オープン直前にはやれ報道陣に先行披露があったり、知人が見たというテレビニュースによると、ついには社長だかCEOだか肩書はしらないけれど、この会社の総帥らしき人物がわざわざ福岡入りして、まるでアップルのスティーブ・ジョブズばりの演出でこの九州初オープンについての意義や説明を高らかにぶったというのですから、ずいぶん御大層なことのようでした。
どんなにすごいのかは知らないけれど、ホームセンターというのは要するに、洗剤だのトイレットペーパーだの日用品を売るところじゃないの?と首をひねるのがせいぜいでした。

まあ、別に関心もなかったので、正確にいつオープンしたのかも知りませんでしたが、過日たまたまその近くを通過することになり、平日だったのでそれほど混んではいないだろうと思って、ためしに覗いてみることに…。
覗くぶんマロニエ君もつまりはのせられているわけで、自分でバカだなあとは思いますけど。

駐車場入口に近づくと、車の流れが悪くなり、先を見やると3人ほどの警備員が車の出入りを1台1台必死になって誘導しているらしく、春休みでもあるしこれはやはり人が多くてとてもじゃないのかもと思いましたが、少しずつなんとか車は進み、手招きの方向にハンドルを切ると屋上駐車場に誘導されました。
ところが、屋上駐車場に行くと、車は全体の半分ぐらいしか止まっておらず、あっけなくパーキングを終えました。

エレベーターホールに向かうと、買い物を済ませた人達が向こうから歩いてきますが、その荷物はというとまったくのホームセンターのそれで、なにか特別な感じを受けることはありませんでした。

エレベーターを降りて店内に入ると、まず「あれっ?」と思ったのは店内の広さで、マロニエ君の勝手な想像(ニュースなどで見たイメージ)の半分ぐらいしかない感じでした。
というのも、正面のそう遠くない場所に「むこうの壁」があり、それで売り場の広さというのがおおよそわかりますが、それは予想に反してかなり小ぶりなもので、はじめはその壁の向うにさらなる売り場が広がっているのかと思ったほどです。
しかし、結果的に売り場の奥行きはやはりそこまでで、たとえば今どきのIKEAやイオンモールのような、バカバカしいような広さに慣れてしまっている目には、ずいぶんコンパクトというかむしろ手狭に感じたし、並べられている商品もフツーにホームセンターのそれで、オープン前のあの鳴り物入りの大騒ぎ、とりわけテレビ関係の取材ときたら、ずいぶんと度を越したものだったよう思わざるをえません。

カインズオリジナル商品というのもところどころで見たことは見たけれど、べつにどうといこともなく、どれひとつとってもそんなに大騒ぎするようなものはひとつも見あたりませんでした。
もちろん、ザーッと店内を歩いただけなので、細かいことまではわかりませんが、おおまかな店の雰囲気や商品構成など、全体の調子というのは大体つかめるわけで、特筆大書するようなものはマロニエ君はなにもなかったという印象で、あまりに普通に要るものだけを買ってお店を後にしました。

煽るだけ煽ってあとの責任はまったくとらないマスコミの罪は大きさを、こんなところでも思い知らされた気分で、ま、あたりまえですが、要するにごく普通にあるホームセンターの中のひとつだということ以外、なにもありませんでした。

数あるホームセンターでも、店名が違えばそれぞれちょっとした個性の違いぐらいはあるわけで、カインズの個性もその枠を飛び出すほどのものではなく、とくだん突出したものは感じませんでした。

個人的には、あまりいろいろな商品をまんべんなく並べるよりは、特定の(あるいは得意な)ジャンルに特化して、その上での豊富な品ぞろえなどがあるほうが逆に存在感は引き立つし、結果行ってみようという気にもなりますが、現在のカインズは自宅からかなり遠いこともあるし、いまのところそれでも行きたいという理由もないので、個人的には近くの行き慣れたホームセンターで充分です。

そうそう、カインズのオリジナル商品の中でもかなりの人気ということで、テレビでも繰り返し見せられた積み重ね可能なプラスチックの収納ボックスで斜めのフタのついたアイテムは、もともとはカインズが発祥なのかもしれませんが、いまではどこのスーパーでも類似品が山積みされているし、一向に新鮮味はありませんでした。

最初の打ち上げ花火だけは、やけに仰々しく、これでもかとばかりに空高く打ち上げるというのが今流なのかもしれませんが、あんまりやられると、いち消費者としては却って失望を味わうだけのような気がします。
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ユッセン兄弟

採りだめしていた番組(クラシック倶楽部)の中から、ユッセン兄弟のピアノリサイタルを見てみました。

アルトゥール・ユッセンとルーカス・ユッセンは、オランダ出身の双子のような金髪の兄弟で、曲目はベートーヴェンの4手のためのソナタop.6、ショパンのop.9のノクターン3曲、幻想ポロネーズ、ラヴェルの2台ピアノのためのラ・ヴァルス。
それにしてもこの二人、すみだトリフォニーホールでリサイタルをするとは、よほど人気があるのか…。

冒頭のベートーヴェンの連弾ソナタは作品そのものに個人的に馴染みがなく、ともかく初期の作品で二人揃って活気をもって弾いたという感じでしたが、ショパンからは雰囲気が一変しました。
op.9の3つのノクターンを、1を兄が、2を弟が、3を兄がそれぞれソロで弾くというもので、その間、側に置かれた椅子で待機して、曲が終わると静かにピアノに近づいて、スルスルっと入れ替って弟が2曲めを弾き出し、それが終わったらまた兄が近づいてきてするりと入れ替わって3曲目を引くというもので、こういう光景は初めて目にしました。

日本人の兄弟デュオにも左右の入れ替わりなどあるようですが、あちらはお客さんにその動きを見せて楽しませるためのアクロバティックなパフォーマンスのようですが、ユッセン兄弟のそれは最低限の動きで済ませるおだやかな交代で、自然に受け入れることができたし、これはこれでおもしろいとさえ思いました。

本当に仲の良い兄弟という感じで、弾き方も似ていて、おそらく耳だけで聴いたらどっちが弾いているかわからないだろうと思いました。強いていうなら兄のほうがすこし多弁で、弟のほうが内的といえるかもしれません。

そもそも、大ホールで行なわれるリサイタルで、ショパンのはじめの3つのノクターンが順番に演奏されるというのはなかなかないことですが、これが選曲としてもとても良く、知り尽くした曲のはずなのに不思議な新鮮さを覚えました。
演奏もなかなかのものでセンスがあるし、ショパン作品の演奏としてはバランスの良い美しい演奏だったことは非常に好感が持てました。

マロニエ君は昔から思っていることですが、どんなに大ホールのコンサートでも、ショパンで本当にしみじみと心の綾にふれるような深い感銘を与えるのは、もちろん演奏が良くての話ではありますが、繊細巧緻かつ詩的に奏でられるノクターンである場合が多いのです。

むかしダン・タイ・ソンのリサイタルに行ったとき、アンコールになって彼はその日初めてノクターンを弾きましたが、演奏がはじまるや、会場は水を打ったように静まり返り、一音一音がホールの広い空間にしたたり落ちる言葉以上の言葉のように美しく鳴り響きました。
聴衆もこれに圧倒されて、2000人近い人達が我を忘れたごとく固唾を呑んで、物音も立てずに聴き入った経験はいまも忘れられません。

その繊細な美の世界にじかに触れられたときの満足は、たとえどんなに立派に弾かれたソナタやバラードやエチュードでも得られない圧倒的な世界があり、会場は感動と静謐によって完全に支配されます。

ユッセン兄弟のノクターンがそこまで神がかり的なものであったとはいいませんが、広い会場、弱音でも遠鳴りするスタインウェイから紡ぎだされるショパンの美の世界は、あまり技巧的でも、音数が多すぎても何かが失われてしまうところがあって、その点ではノクターンはショパンに浸り込むにはある意味理想の形式かもしれません。

その後、弟のほうが幻想ポロネーズを弾き、最後は二人でラヴァルスとなりましたが、これはこれで素敵な演奏ではあったけれど、3つのノクターンほどの感銘はありませんでした。
しかし、僅かでも深く印象に刻まれる演奏をするということは、そうざらにあることではありません。

ふたりはインタビューの中で「お客さんがチケットを買ってよかったという演奏をしたい」「10年後にも印象に残るような演奏をしたい」「簡単なことではないけれど…」といっていましたが、一部でもそれができているのは大したものだと思いました。
むろんマロニエ君はチケットは買っていませんけれど!
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