技術と表現

十四代酒井田柿右衛門のインタビュー番組の中でもうひとつ印象に残ったことは、基礎の大切さということでした。

この十四代も学生時代は多摩美術大学で学ばれたそうですが、そこで徹底的に叩きこまれたことはというと「デッサン」だったそうです。来る日も来る日もひたすらデッサンばかりさせられ、当時の教授の中には「若いものが絵を描くなど!」と憤慨するほど、基礎であるデッサンをしっかり養うまでは絵を描く資格などないといった空気だったそうです。

何を表現するにも、絵の場合デッサン力がなければなにも表現できない、表現のしようがないというのが十四代の考えでもあるようで、それはたしかに説得力あふれるものでした。
いかに表現したい素晴らしいものがあったとしても、それを作品へと具現化するたしかな手段を備えていなくてはどうしようもないということです。

ところが、現代の美大では「個性を伸ばす」ということに重きがおかれ、以前のような基礎重視の考え方ではなくなっているとのこと。
その結果、根を張っていない、腰の座らない未熟な技法のままパパッとなにか描いてしまうのだそうで、そういう在り方には大いなる疑問があるというようなことを仰っていたわけです。

これは、ピアノにおいても「技巧か音楽性か」の問題に通じる気がします。
ピアノの場合、技術はとくに幼少期に鍛え込んでおかないと、あとからどんなに奮励努力しても越えられない壁があるのは周知の事実です。

ただ、一般的にピアノを弾く人の中には技術的レベルばかりに目が向いて、音楽そのものについてはほとんど無知・無関心というような人をやたら多く見かけます。口では「音楽性が大切」などと言うも、その演奏はまるで作品に対する敬意も愛情も感じられないカサカサなもの。やたら難曲を選んでは、ただスポーツ的に指を動かすだけの様子を目の当たりにすると、なにをおいても音楽性こそが重要だとついぶつけたくなるのが率直なところ。
長年ピアノに触れてきているにもかかわらず、音楽あるいは表現の勉強は信じがたいほどできておらず、名だたるピアニストの演奏も名前も知らない、ピアノ以外の音楽など聴いたこともないといった有様です。

それをじゅうぶん承知のうえで敢えて云わせていただくなら、でもしかし、技巧は音楽性と同じぐらい重要なものだと言わなくてはならないと、この柿右衛門さんの言葉を聞いてあらためて思いました。
たしかに難曲を弾けること、さらにはそれを自慢することが快感になっている人を目にすることは、ピアノの世界では珍しくありませんし、そういう輩はマロニエ君はむろん軽蔑しています。

そうなんだけれども、やはり最低でも一定の技術がなくては、まず音符を弾きこなすこともできないし、その奥に込められた作曲家の意図や真実を描き出すこともできないことも事実。
これは、どんなに清い心をもっていても一定の収入がなくてはまともな衣食住が成り立たないのと同じで、これが現実の厳しさだろうと思います。

演奏技術オンリーというのは問題外のことであるけれども、でもやはり技術がなくてはどうにもならない。ましてプロともなると、その要求は桁違いに高いものとなります。

また、アマチュアの世界でも、発表会その他で弾く曲を決めるにあたって、自分の客観的な技術を念頭において検討する人は意外に少なく、実力を遥かにオーバーした曲選びをする人が多い事には大いに首を傾げます。

たしかにアマチュアの限られた技術にいちいち相談していたら弾けるものはほとんどない、弾きたいものはなにひとつひっかかってこないという現実があるのもわかります。さらにそれでコンクールに出ようというのでもなく、人からチケット代を取るわけでもない、あくまで趣味であり楽しみなのだから、そこはどうあろうと自由だと言ってしまえばそれっきりです。

しかし、だからといってあまりにも趣味ゆえの自由に悪乗りして、とうてい身の丈に合わない難曲に手を付けたがるのは、決して良いことだとは思いません。いかに趣味とはいえ、どこかで身の程をわきまえることは教養の問題でもあるし、いわば音楽的道義の問題だと思います。
少しは技術的に余裕のもてる選曲をすることで、多少なりとも音楽表現へエネルギーを向けて、細かな表情などを磨いて整えることのほうが大切だと思うのですが…。

話がずいぶん脇道に逸れましたが、要するに技術に余力がないと何もできないということですね。
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不器用がいい

先日、録画したままになっていたBSの番組で、人間国宝の「十四代酒井田柿右衛門」のインタビュー番組を見てみました。
この番組は、2010年に放送されたものの再放送で、十四代はそれからわずか3年後の2013年に他界されたとのことで、いわば晩年の姿と話をとらえたものだったといえるようです。

本当は作品見たさに再生ボタンを押したところ、実際はインタビューばかりでいささか落胆していたのですが、訥々とした話しぶりの中から、なるほどと思われるような言葉が出てくるあたり、だんだん面白くなって結局最後まで見てしまいました。
90分の放送時間は、大半が柿右衛門さんへのインタビューで、あまり話好きな方のようにはお見受けしませんでしたが、渡邊あゆみさんの聞き方が巧みだったのか、時間が経つに連れてしだいに饒舌になり、いろいろと興味深い話を聞くことができました。

柿右衛門は濁手(にごしで)という特徴的な白の上に、柿右衛門様式にしたがって絵付けがされていくものですが、その鮮やかな絵柄とともに重要なのが、余白を占める「白」だそうで、これは地元の泉山というところで採れる石を使っているとのことでしたが、その太古からの自然の恵みを充分に含んだ石のもたらす風合いが肝心の由。

最も印象にのこったのは、「きれい」と「美しい」はまったく別のことだということ。
現代は科学技術の進歩で、陶器の地肌であれ絵の具であれ、純粋に精製されたきれいなものが安易に手に入るけれど、それらはきれいではあっても風合いや味わいがなく、柿右衛門さんは一切それらを使うことなく、昔の手法にこだわっているとのこと。

柿右衛門のあのどこか透き通るような、単純な白色ではないデリケートな風合いをもった地肌の上に、様式にかなった様々な絵柄が乗った時にえもいわれぬ仕上がりになるのだというのがあらためて納得です。
あれがもし単純な白、透明感のない単調な白であったら、それは柿右衛門とは似て非なるものになってしまうことは素人目にもはっきりとわかります。他の地域の石を使うと、色はきれいでしかも使いやすく、有田焼にもたちまち浸透した時期があったそうですが、柿右衛門窯では敢えて使いにくく「きれい」でもない地元の泉山の石にこだわったとのこと。

美しいものを作り出す伝統とは、そういうものだということですね。

また科学技術の進歩の代償として、日本の伝統工芸の技は急速に失われていくことは間違いないということでした。

これは楽器作りと全く同じことで、楽器にかぎらず、すべての手仕事の世界というものは、一見むだとも思えるような労苦の果てに到達するものですが、それを現代でも継承していくのは、よほどの気構えでないと難しいのだということをまざまざと思い知らされます。

現代でもっともコストの掛かるものは人件費であり、それを他に置き換えるために科学技術は多くの叡智をつぎ込んでいるわけですが、それはいいかえるなら真の意味での最高級品を絶滅させてしまう行為なのかもしれません。

陶芸でも楽器でも、ピラミッドの頂点にある最高級品のクラスだけは従来の伝統工芸なり製法が守られたにしろ、それ以外のほとんどは合理化の波をかぶったきれいなだけの無機質なものに姿を変えてしまっているということです。

べつに伝統工芸といわずとも、例えば古い電気製品でも、昔のものは現在ならおよそ考えられないようなガッチリした丁寧で頑丈な作りだったりすることに、処分をすることになってそれを手にした時、現在の製品との質感のちがいに思わずハッとしてしまうことがあります。

もちろん、普及品などは過度に手をかける必要もないけれども、ハイテクや合理化は決してジャストポイントでブレーキが掛かることはなく、大半は残す必要のある部分まで一気に飲み込んでしまうようです。

柿右衛門さんの言葉でもうひとつ印象に残ったことは、職人は「不器用なほうがいい」ということ。
真の職人は不器用な人で自己主張をせず、何十年をかけて決められた伝統手法の体得に生涯を捧げるのだそうで、器用な人というのはそこにどうしても自分らしさや個性がでてしまうので却って困るということでした。

どんなに立派な仕事をしても、そのあたりが作家と職人を隔てる一線のような気がしました。
ではピアノの技術者は音作りという点において、作家なのか職人なのかという問題を考えてしまいましたが、整音や調律によって音を作るという一面があるとしても、やはりそれは突き詰めていうなら作家ではなく「職人」の範疇に入れられるべきものだとマロニエ君は考えます。

いかに優れた音作りであっても、ピアニストや作曲家を差し置いて、ピアノ技術者の個性が演奏の前に出てくるようなことがあってはならないからで、その点で言うとピアノの調整技術に携わる人はやはり職人の伝統技法の世界に中にあるものだと思いました。

調整技術どころか、ピアノの製作においても、各セクションの職人さんはまさに職人なのであって、唯一作家であることが許されるのはピアノ設計者だけだろうと思います。
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ゆらぎ

スタインウェイ社自身がプロデュースするCDレーベルというと、そのものズバリの『STEINWAY & SONS』ですが、これがそこそこ面白いCDを出しているという印象があります。

中にはセルゲイ・シェプキンのような中堅実力者が登場することもありますが、多くの場合、一般的には無名もしくはそれに近いピアニストを起用しながら、独自の個性的なアルバムをリリースしており、マロニエ君は結構これが嫌いではないのでたまに購入しては楽しんでいます。

先日もスタニスラフ・フリステンコというロシアの若手が演奏する、FANTASIESというアルバムを聴いてみました。
演奏はそれなりで、とくにコメントすることもありませんでしたが、アルバム名の通り、シューマン、ブルックナー、ツェムリンスキー、ブラームスの各幻想曲を集めたものです。

めったに聴くことのないブルックナーのピアノ曲、初めて聴いたツェムリンスキーの「リヒャルト・デーメルの詩による幻想曲」などは大いに楽しめるものでした…が、それ以上に楽しめたのはやはりここでもピアノの音でした。

冒頭のシューマンの開始早々、うわっと驚くようなゆらぎのある響きというか、一聴するなり調律がおかしいのでは?と思うような特徴的なサウンドが部屋中を満たしました。
その正体はこれぞニューヨーク・スタインウェイとでもいう音で、とてもよく鳴っているけれど、ニューヨーク製らしい鼻にかかったような特徴のあるペラッとした音がなんだか楽しくもあり、どうかするとちょっと軽過ぎな感じにも聴こえてきたりするのですが、全体としてはきわめて魅力にあふれ、いかにも生のピアノを聴いているという実感に満ちています。

それにしても、出てきた音が揺らぐというか、陽炎ごしに見る景色のように響きが歪んで立ち上がってくるあれはなんなのかと、いまさらながら思いました。音の粒もどちらかというと各音によって音色や響き方にばらつきがあり、これは本来ならピアノとして問題視される要素かもしれませんが、それでもニューヨーク・スタインウェイには代え難い特徴というか魅力にあふれており、このあたりが簡単に❍☓では解決できない評価の難しいところだと思います。

マロニエ君も詳しく語れるほど知っているわけではありませんが、昔のメイソン&ハムリンやボールドウィンも似たようなややハスキーヴォイスを持っていますから、これは一世を風靡したニューヨークが生み出すピアノの特徴というか、地域が抱えもつDNAなのかもしれません。
アメリカの音楽には最適ですが、ヨーロッパのクラシック音楽にはときにちょっとそぐわない事もないではないけれど、いかにもアメリカらしいおおらかさと明るさ、ある種のアバウトさが日本やドイツのピアノづくりとは根底に流れる文化が違うことを感じさせられます。

ニューヨーク・スタインウェイを使ったCDを聴くと、わかっているはずなのに最初は耳があわててしまうのは、それだけ特徴的なピアノだからだと思いますが、しばらく聴いているとすっかり耳に馴染んでしまうあたりも、やはりタダモノではないということを毎回実感させられます。
しばらく聴いてNY製の音に慣れてしまうとそれが普通になり、その後にハンブルクを聴いたら、今度はこちらがなんだか遊び心のない、四角四面なピアノのようにも感じてしまうあたりは、いつも変わりません。

ここで使われているのは新しいピアノのようですが、今でもNY製の個性は健在であることがわかり、一度定まった音は信念をもって作り続けられることに敬意さえ覚えてしまいます。
どこぞのピアノのように、新型が出る度に、あっちへこっちへと方向を変えるメーカーとは、やっぱりそのあたりのぶれない自信とプライドがどうしようもなく違うようです。

この『STEINWAY & SONS』レーベルは、むろんスタインウェイ社のCDであるだけに、ハンブルク/ニューヨークは公平に使われているようで、両方の音が、メーカー自身がお墨付きを得た状態で聴いて楽しめることがなによりも特徴だと思います。
それにオーディオマニアでもないマロニエ君の耳には、録音も概ね秀逸ときているので、このレーベルを聴くときだけは演奏や作品よりも、「純粋にスタインウェイのサウンドをいろいろな演奏や作品を通じて聴く」ということに目的を特化することができるわけで、なんともありがたいレーベルです。
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R指定?

先日放映されたN響定期公演は、前後にR.シュトラウスの変容とツァラトゥストラを置き、間にシューマンのピアノ協奏曲を挟むという、ちょっと珍しいプログラムでした。
指揮はパーヴォ・ヤルヴィ、ピアノはカティア・ブニアティシヴィリ。

ヤルヴィとブニアティシヴィリは海外でも共演経験があるようではありますが、N響/ヤルヴィという組み合わせに、なぜあらためてこの女性が登場してくるのか、大河ドラマに話題の若手をムリに起用してミスキャストになるみたいでちょっと違和感がありました。
ブニアティシヴィリの演奏はこれまでにも何度か映像で接したことがあるけれど、その演奏がまったく好みではないのは言うに及ばず、あのエロ衣装でのセクシーパフォーマンスをそのまま日本でもやるのか?

どうせ録画されているのだから、怖いもの見たさでみてみたところ…やはり日本でもおやりになったようです。

この人は、ピアノを弾いているという建前のもと、合法ギリギリのところで自分の容姿や仕ぐさを見せつけることに快楽を覚えているのか、演奏家としてちょっと計りかねるものが心底にあるのでしょう。
男性と言いたいけれど、あれはもう老若男女だれが見たって、その衣装はイヤでも彼女のサイボーグのような体を見せるためのものだし、それをEテレで真面目に放送されたことにも呆れるだけ。むろんれっきとしたN響定期公演で協奏曲のソリストという「建前」があるから可能だったのでしょうが、その実質はかなり危ないものだと思いました。

子供が見るのも明らかにNGだし、彼女が登場するコンサートはR指定になってもさして不思議はないでしょう。

衣装だけではなく、強烈な真紅の口紅をひき、わざとそうなるようにしているとしか思えないヘアースタイルは、下を向くと髪は一斉に前へと落ちかかり、そこから顔を上げると、こんどは彼女の顔に黒髪が乱れるようにまとわりついて、ベッドとステージを間違えたようなあられもない表情がバンバン続きます。

たしかに演奏家はさまざまに陶酔的な表情を浮かべる人は少なくありませんが、ブニアティシヴィリのそれは音楽的裏付けは感じられず、ただステージ上で繰り広げられるセクシーパフォーマンスにしか見えません。

演奏は、やたら叩くか、はたまた聞き取れないほどの弱音かのどちらかで、いずれも練り込まれたタッチが生み出す実や芯がないため、ただのぺらぺら音で、真面目に弾いているようには(マロニエ君には)思えないもの。

時代が変わり、世の中の価値観も多様化し、クラシックコンサートのチケットが売れないから、今までどおりのことをやっていてもダメだという背景があるのはわかりますが、だからといってあれはないでしょう。

何度も何度も、量の多いカールした黒髪がドサッと顔面を覆い尽くすのは、見ているだけでもストレスになってくるし、まるで海中の藻の中に顔を突っ込んでいるか、真っ黒いモップを被って赤い口紅だけがその中で見え隠れするよう。着ているドレスも胸はギリギリ、背面は腰の下まで見えるような過激なもので、どう見ても意図して狙っているとしか思えないものです。

冒頭インタビューで彼女のネット動画の再生数が100万回とかなんとかで、これはすごい数だというようなことをヤルヴィが言っていましたが、そりゃあタダだし、クラシックのピアニストとしてはほとんど反則技に近いものだから、それならば少なくとも演奏で勝負したなんとかリシッツァのほうがずっとまともだと思います。

もちろん、今時なので違法でないかぎり、なんで勝負しようが構わない、自由だ、という意見もあるとは思いますが、少なくともマロニエ君はあんなのノーサンキューです。

拍手なども、いまいち盛り上がっている感じはなかったし、アンコールもなかった(あったとしても放送されなかった)ようでしたから、やはり聴衆にはそれほどウケてはいないのだと感じました。…それがまともだと思いますが。
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ブレンド

CDのアルゲリッチとバレンボイムのピアノデュオは、ベルリンフィルハーモニーで演奏された2台のピアノによる春の祭典をメインとするCDがありますが、今年の春には、同じ顔ぶれでもう一枚CDがリリースされました。

昨年の7月に、ブエノスアイレスのコロン劇場で収録されたライヴ盤で、ご存知の通りこの二人にとっては生まれ故郷での演奏会ということになります。
曲目は、シューマン=ドビュッシー編曲のカノン形式による6つの小品、ドビュッシー:白と黒で、バルトーク:2台のピアノとパーカッションのためのソナタ。

バレンボイムとの共演はそれほど興味をそそられるものはないけれど、そうはいっても前回はなにしろアルゲリッチが『春の祭典』を初めて弾いたわけだし、彼女のCDはどんなものでも買うことにしているので、既出のCD音源は海賊版などもあるためさすがに100%とは言いかねますが、数十年間買えるものは徹底して買い続けているので、新しいものが出れば迷うことなく購入しています。

というわけで、今回も当然のこととして購入して聴いてみたところ、やはりさすがというべきで、初日たちまち3回ほど続けて聴きました。とくに今回は全体に馥郁とした印象が強く、バルトークでさえ楽しめる演奏になっていることに嬉しい印象をもちました。
輸入盤でもあるしライナーノートは今更という感じで見ていなかったのですが、夜寝る頃になって、なにげなく机の上のケースが目に入り、このときはじめて中のノートを取り出して見てみることに。

すると、最初のページの写真をみてアッと声を上げたくなるほど驚きました。
互い違いに置かれた2台のピアノのうち、バレンボイムが弾いているのは、以前このブログでも書いた「バレンボイムピアノ」で、これはバレンボイムの着想により、スタインウェイDをベースにChris Maeneが作り上げた並行弦のピアノです。
バレンボイムはこの自分の名を冠したピアノを弾き、対するアルゲリッチはノーマルのスタインウェイDを弾いています。

音だけ聴いては、さすがに半分はこのピアノが使われているなどとは夢にも思わないものだから、うっかり気が付きませんでしたが、そうと知ったらこのCDのこれまでとは何かが違う理由が一気に納得でした。
並行弦で、デュープレックススケールを持たず、芯線も一本張りのこのピアノは、従来のスタインウェイとは全く違った響きをしており、全体にほわんとした余韻を残しているのです。

このピアノがお披露目されたことを知った時も、いずれはバレンボイムがこのピアノを使ってCDなどをリリースするのだろうとは思っていましたが、まさか遠くブエノスアイレスで、しかもアルゲリッチとのデュオでそれを持ち出すとは、まるで思ってもみませんでした。

以前、スタインウェイレーベルのCDで、ニューヨークとハンブルクの2台によるデュオというのがあって、それも通常とは微妙に異なる響きがあって楽しめましたが、今回の2台はそれどころではない面白さです。

ほわんとしたやわらかな響きの膜の中に、ハンブルクスタインウェイのエッジのきいた響きも加わって、これはとても面白いCDだと思います。意識して耳を澄ますと、なるほどその音色と響きの違いがわかり、このところすっかりこのCDが病みつきになっていて、もう何度聴いたかわかりません。

本当は音だけを聴いてこの「異変」に気がつけばよかったのですが、それは残念ながら無理でした。
しかし、この2台による演奏は、けっして違和感がないまでに調和がとれていて、なかなかステキなブレンドだと思うし、そもそも2台ピアノというのは同じピアノを2台揃えるというのが一応の基本かもしれませんが、弾き手も違うのだから、ピアノも違っていてなんら不思議ではありません。

そもそも、そんなことをいったらオーケストラだって、各自バラバラのメーカーの楽器が集まってあれだけの演奏をしているのであって、ピアノだけが同じメーカーである必要性はないでしょう。
もちろん調律師さんなど、技術者サイドからみれば、同じピアノであることが理想だという信念をお持ちかもしれませんが、実際にこういう演奏を耳にすると、同じピアノのほうが統一感があって安全かつ無難かもしれませんが、面白味という点ではぐっと幅が狭くなることがわかります。

コーヒーでもウイスキーでも、ブレンドがあれほど盛んなのは、それによって奥行きや複雑さが増すからで、マロニエ君などはインスタントラーメンでも二人分を作るときは、違うものを混ぜたりしますが、これがなかなか美味しかったりします。
カレーのルゥも然り、ファミレスでは子供がドリンクバーでジュースをあれこれブレンドして飲んでいますが、あれもやってみると複雑さや柔らかさがでて、ことほどさようにブレンドというのは面白いものだと思いました。

ブレンドはある種ハーモニーであり、まろやかさの創出でもあるのだと思います。
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反田恭平-2

いま日本で注目されるピアニストの一人、反田恭平氏のCDを購入しました。

まずは昨年収録された『リスト』というタイトルの、文字通りオールリストのアルバム。
特筆すべきは、この録音にはホロヴィッツが弾いていたニューヨーク・スタインウェイのCD75が使われていることで、これはあの「ひびの入った骨董」発言が話題となったホロヴィッツ初来日(1983年)の際に日本に一度来ているピアノで、その後のヨーロッパ公演にも使用されたとのこと。
1912年製といいますから、昨年録音された時点でも100年以上経っていることになります。

このピアノはホロヴィッツが好んだ数台のスタインウェイのうちの1台らしく、他のピアニストへの貸出も許可しなかったということですが、そういう逸話はともかく、聴いていて、このピアノを十全に弾きこなすのはなるほどホロヴィッツただ一人だろうということを諒解するのに大した時間はかかりませんでした。

反田氏の演奏の是非は置いておくとして、この特殊なピアノを中心に語るなら、この若者がそれなりにでも弾きこなしているかといえば、マロニエ君はまったくそのようには思えませんでした。
このピアノには、とくに音色の面で特殊な奏法と美学が必要とされ、その面では、反田氏の演奏をむしろピアノが拒絶しているように感じました。

ホロヴィッツに愛されたこの駿馬は、他の乗り手をなまなかなことでは受け付けようとせず、その音はしばしば悲鳴をあげているようにしか聞こえません。このピアノは炸裂するフォルテシモより、通常はマエストロがそうしたように、ビロードのような柔らかなタッチによって優しく愛でられることをよろこび、あるいは随所で様々な声部やアクセントを際立たせるといった弾き方に敏感に反応する特殊なスタインウェイのようです。
しかし残念ながら反田氏の演奏は、ホロヴィッツが駆使した魔性とエレガンスの対比で、聴く者を魅了するタイプではないようです。

立て続けに繰り広げられる強い打鍵、連続する和音の攻勢にスタインウェイとしては珍しく破綻したような音があらわとなり、弦がジンジンいうばかりのような音色は、ピアノが無理強いをさせられているようでちょっとまともには聞いていられませんでした。
いかに優れたピアノであっても、あまりにも枯れた響板故か(くわしいことはわかりませんが)、この歴史的な老ピアノをもう少し理解し手なずけて、その美質を引き出すような演奏であって欲しかったと、おそらくこのCDを聴く多くの人は感じると思います。
さもなくば、現代のふつうのスタインウェイで弾いたほうが、どれだけ良かったことだろうと思います。

CDの帯には「恐れを知らない大胆さと自在さ」とありますが、一流ピアニストならコンサートや録音に際して、使うピアノの個性を慎重に見極めるべきで、その特性を考慮せず、一律にばんばん弾くことが大胆とも自在ともマロニエ君は思えません。

反田氏の演奏は、個々の楽節でのアーティキュレーションではそれなりの集中や完成度があるようですが、各曲の性格やフォルムを見極め表現しているかとなると疑問で、高い演奏クオリティのもとにどれも同じような調子で弾かれてしまうのにも違和感と退屈を覚えました。
見事な演奏ではあっても、そこに流れ出す音楽で聴く者が惹き込まれるという点ではいまひとつで、どこにポイントを持って聴くべきか、ついに掴めないままになりました。

ボーナストラックとして、ホロヴィッツ編曲のカルメン幻想曲が収録されていましたが、もしホロヴィッツがあれを聴いたら何と言うか、ワンダ夫人はどんな顔をするのか、CD75は喜んでいるのか、誰よりもこのピアノの価値を知り、来歴にも詳しい技術者オーナーは本当に満足しているのかなど、いろいろなことを考えさせられました。

あえて率直に言わせていただくなら、このCDで聴く限り、この伝説的なピアノにひびが入っているとは思わないけれど、「骨董」としての音にしかマロニエ君の凡庸な耳には聞こえなかったのは事実です。
すくなくともこのピアノを敢えて使うという必然性が感じらず、違ったピアノのほうが反田氏の演奏にはよかったように思います。
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追加の演奏で

早朝放送されるBSプレミアムのクラシック倶楽部は、1回の放送でひとつのコンサートが取り上げられますが、ときどき変則的に「アラカルト」というのを放送します。
これは察するに、55分の番組内で紹介しきれなかったぶんの演奏を復活放送させる目的で、大抵は2人のアーティスト(というか2つのコンサート)を取り上げ、前回聞けなかった曲を追加的に楽しむことができます。

先日の放送では、キット・アームストロングのピアノリサイタルとユッセン兄弟のデュオリサイタルでした。

キット・アームストロングは、浜離宮朝日ホールで50年以上前の外装がウォールナット仕上げのスタインウェイDを使っての昨年の演奏でしたが、本編のときはあまり好印象ではなかったことを書いた記憶がありました。
たしかバッハのホ短調のパルティータとリストの作品をいくつか演奏したように思いますが、今回はわずか30分ほどの時間に、バッハのオルガン用のコラール前奏曲集から3曲、さらには自身の作曲である「B-A-C-Hの名による幻想曲」なるものが放送されました。

実は、今回聴いてみてこの人の印象が一変し、どれもが非常に素晴らしいもので、とくにポリフォニーの歌い分けの見事さには脱帽させられました。
しかも、多くのピアニストがそうであるように、意志的に知的に各声部を際立たせることに全神経を集中させて、そこにかなりエネルギーを割いている(というか、そうせざるを得ない)奏者が少なくないのに、キット・アームストロングはこの点があくまで自然体であるのは注目すべきでした。
必要に応じて上から下から、あるいは中ほどからいろいろな旋律が出てきては絡み合い、溶け合い、離れてい行くさまがいかにも自然で心地よく、本人の様子にもこれといって特段の苦労もないのか、ただ身についたことを普通にやっているかのようで、ときに嬉々とした感じさえ見てとれました。

このポリフォニーの歌い分けの自在さでは、ところどころでグレン・グールドを想起させるほどで、まだ10代だというのにこれは大変な才能だと思いました。また「B-A-C-Hの名による幻想曲」も、マックス・レーガーなどよりずっと世代感の進んだ斬新的な作品で、あんなものを本当に自作したとなると、ちょっと恐ろしげな才能でした。

ここに聴く半世紀も前のスタインウェイは、あきらかに現代の同型とは異なる音のするピアノでした。
ブリリアントな味付けがさほどされない頃のスタインウェイで、アラウやルービンシュタインなどの録音では、こういう重みのある朴訥な音がよく聞かれたように思います。洗練され華麗さを併せ持った後年のスタインウェイサウンドも素晴らしいけれど、多少渋みのある実直なハンブルクスタインウェイというのもなかなかいいものだと思いました。


後半はユッセン兄弟のリサイタルから、まず弟がモーツァルトのデュポールの主題による変奏曲、ついで兄がシューベルトのソナタの最終楽章、最後に連弾でシューベルトの行進曲というもの。
まずいきなり、弟の弾くモーツァルトの素晴らしさに心を奪われることに。

大ホールの演奏会で、モーツァルトをあれだけ聴衆の集中をそらすことなく、品位を保って終始充実した演奏で弾き切るというのはなかなかできることではありません。これがまずとても良かった。
ついで兄のシューベルトもすっきりしているのに立派で、ふたりとも、作品のありのままの姿を臆することなしに、自然体できっぱりと描き切っているのは特質に値すると思いました。

それに、二人ともよく曲をさらっていて、この点でも気分よく安心して聴いていられました。
ほどよく引き締まり、ほどよく無邪気さもあり、筋肉質になりすぎることも間延びすることもない自然な平衡感覚をもった演奏というのは、そうザラには転がっていません。

この二人はピレシュに師事していたようで、奏法/解釈のいずれにも多少その影響があることは隠せないけれど、師匠よりはテクニックもあるし、美に対するセンスも上回っているのか、むやみに押し付けがましい表現に陥らないところも高い評価の要素になりました。

どれを聴いても、演奏を通じて聞く者がまず作品に触れ、作曲者の顔を見せてくれて、しかもそれが「ピアノを超越して音楽しています」という上から目線でなく、あくまでピアノの率直な魅力にも溢れているところが、この兄弟が演奏家として特筆されるべき最も優れた点ではないかと思います。

キット・アームストロングから、切れ目なくユッセン兄弟に変わると、ピアノも一気に現代のスタインウェイになるので、その聴き比べもできましたが、現代のほうが音が基音が柔らかく倍音も豊富で、さらに音の伸びもあって耳慣れてもおり、やはりこれはこれでいいなあと感じたことも事実で、良いピアノはどれも素晴らしいという当たり前のことがよくわかった次第でした。

クラシック倶楽部の55分間で、こんなに終始充実感をもって集中して楽しめたことはめったにないことで、いい演奏というのはあっという間に時間が過ぎてしまいます。
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慣れの問題

『全国警察24時』みたいな番組ってそこそこ人気なのか、民放各局では似通ったものが結構あるようですね。
ニュースと朝ドラと音楽番組の録画以外はあまりテレビを見ないマロニエ君ですが、それでもいくつか視るものがないわけではなく、結構この警察モノは嫌いじゃありません。

街中を巡回するパトカーの隊員が、すれ違いざまに見た車のドライバーの一瞬の様子や動きから勘働きで目をつけ、後を追って職務質問が開始します。はじめは至極低姿勢だけれど、だんだんに相手の挙動や発言の問題点を見透かしていくのは、マロニエ君の野次馬根性を大いに満たしてくれます。
小さな話かけが、しだいに任意で持ち物検査や車内の捜索などに及び、あげくは違法な薬物の常習者だったりするところは、人間ウォッチとしても面白いので、この手の番組はわりに録画して視ることが少なくありません。

と、つい前置きが長くなりましたが、実は本題はこれとは関係なく、先日見たこの手の番組では、ある交通事故が車好きでもあるマロニエ君としてはとくに印象に残りました。

高速道路の料金所での映像で、ベンツの最高級車のひとつであるCLクラスというとても豪華な2ドアクーペが、料金所脇のポールにボディ左側を鋭く食い込ませ、ボディは大きく斜めを向いて、見るも無残なクラッシュ姿で止まっていました。

駆けつけた警察官には事故の状況がすぐには飲み込めない状況だったものの、運転者はというと無事で、その人物からの状況説明によって事故の経緯が判明したようでした。

それによると、なんとこの車は中古車ではあるものの購入後間もないそうで、これまでずっと右ハンドルの車に乗ってきたらしい50代の男性は、この車が初めての左ハンドルだったそうで、つまりは左ハンドルの運転に慣れていなかったために引き起こされた単独事故だったようです。

左ハンドルに慣れない人は、どうしてもはじめのうちは右寄りに走ってしまうものです。
とはいうものの、それは試乗などのごく初期の現象で、通常はしばらく注意しながら乗っていれば、時間とともに慣れてくるものですが、この事故は、慣れるより先にこの悲劇を招いたようでした。

つまり本来の位置よりも右に寄った状態で料金所に突入し、右タイアが縁石に乗り上げ、だからあわててハンドルを左に切ったのか、今度はその反動によって左側のポールに激突して止まったようでした。
その衝撃は相当なものだったようで、ナレーションは「車の修理代に加えて、破損した料金所の弁償も…」というようなことを言っていましたが、ひと目見て、車はとても修理のできるような生やさしい破損でないことは明らかでした。
フロントは完全にシャシー(車の骨格部分)までダメージが及んでいたし、リアタイヤもあらぬ方向へとグニャリと曲がってしまっていましたから、あれは間違いなく「全損」で、およそ修理代どころではないでしょう。

新車なら一千万の大台を遥かに越え、中古でも(そんなに古くはなかったので)何百万もする車が一瞬でオシャカになるのですから、慣れない左ハンドル故というには、あまりにもお気の毒というほかはない単独事故でした。

マロニエ君の車の仲間には、もとはといえば自分の趣味から奥さんにもずっと左ハンドルの車を運転させてしまったために、すっかり左の感覚が染み付いてしまい、いまさら右ハンドルへの転換が怖くて運転できないという状況に追い込まれた奥さんがいます。
ところが、以前とは違って、現在は輸入車も大半が右ハンドル化されており、一部の高級車とかスーパーカー的な車は別として、普通の実用車レベルでは左ハンドルはほとんどなくなりました。

こうなると自由な車選びができなくなり、左ハンドルであることを前提に車選びをするという主客転倒の状況となり、とうとう見つかったのがひと世代前のBMW3シリーズでした。
ところがこの夫婦、BMWがまったくお好みではないらしく、会う度に罵詈雑言、文句ばかり言いながら乗っています。

何から何までケナしまくりで、それは「乗ればわかる」というわけで、マロニエ君も何度か運転させてもらいましたが、言っていることは半分はまあわかりますが、とても良い部分もたくさんあって評価が辛過ぎるような気もしますが、いずれにしろハンドルの位置というのは、それほど人によっては大事だということで、最悪の場合、テレビで見たような大事故にもなるということがわかりました。

テレビのベンツは全損事故と言っても、所詮は物損事故でしたが、これで対向車と衝突でもして人身事故になる可能性もあることを考えるとやはり怖いです。

ちなみにマロニエ君はピアノは下手ですが、運転はとりあえず不自由なく楽にできるほうで、ハンドルも左右どちらでもまったくハンディなく乗れますが、それはひとえに慣れているからであって、つまり慣れないことはときに恐ろしい結果をもたらすものだと思いました。
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ゲニューシャスなど

クラシック倶楽部の録画から昨年6月のラルス・フォークトのピアノリサイタルを視ました。

会場は紀尾井ホールで、まず冒頭のシューベルトの晩年のハ短調のソナタを聴いてみるも、時間の関係から第1楽章と第4楽章のみで、あの美しい第2楽章は割愛されてしまいました。
尤も、フォークトの演奏ではなかなかシューベルトの切々たる美しさは伝わらず、これでは聴き逃してもあまり惜しくはないようでした。

その後はシェーンベルクの6つの小品op.19を弾き、そこから切れ目なくベートーヴェン最後のソナタへと続けられます。
インタビューではそうすることに意味があるというようなことを言っていましたが、マロニエ君は「そうかなぁ…」という感じでいまいちその意図は計りかねました。
シューベルトとベートーヴェンは共に晩年のソナタで、なおかつハ短調というところで統一したのでしょうか。
まあ、そのあたりはどうでもいいけれど、以前からどうしてもこの人の演奏には共感を得ることができず、それは今回の演奏でも同様の印象を上書きすることになりました。
もちろん、どんなピアニストでも全てに共感を得ることなどまずありませんが、ところどころで「なるほどね」とか「そういうことか」と思わせる何かがないと、聴いているほうはつまらないものです。

ひところでいうと、この人のピアノで最も気になるのはガサツさです。
解釈においても、ディテールにおいても、意味あって必然性に後押しされてそうなるというところが見受けられず、全体的に大味で、外国製の作りの粗い製品に触れるような感じがします。
なんでも最近ショパンのアルバムをリリースしたとかで、怖いもの見たさでどんなことになっているのやら聴いてみたいような気もしますが、自分で購入する気などさらさらないので、そのチャンスがあるかどうかわかりませんね。

リサイタルに戻ると、せっかく立派な曲ばかりを弾いているのに心に染み入るところがなく、ざっくりいうと音の強弱とテンポの緩急ですべてを処理している…そんな独りよがりな印象があるばかりです。

もうひとつ、ルーカス・ゲニューシャスのピアノでラフマニノフのピアノ協奏曲第2番(N響)を聴きましたが、いかにもロシア人といった野性が、本性を抑制しなくてはならないという意志の力と戦っているようです。
そうはいっても、体の作りから指のテクニックまで、すべてが分厚くたくましくできており、さすがに聴いていて不安感というものはありません。
小指も普通の男性の中指ぐらい優にありそうで、あれだけの体格でピレシュやケフェレックと同じサイズのピアノを弾くわけですから、まして音楽一家に生まれ育って訓練を積めば、そりゃあずいぶんと有利であることに違いありません。

しかし、感情が先行するロシアの演奏家にしてはもうひとつ酔えないし、どこか力くらべのような、タラタラと汗をかきつつガッチリと作法通りの演奏を確実に片付けていくだけで、この人なりの個性を楽しむ余地であるとか、いま目の前に作品が命を吹き込まれて立ちのぼってくるような感銘は個人的にあまりありませんでした。
あらかじめ予定され決められたことが、ほぼ間違いなく実行に移されている現場…というだけの印象。

不思議なのは、若い男性の、いかにも体温の高そうな汗ばんだ太い指から出てくる音は、期待するほど凛々しいものではなく、むしろ伸びのない、多くが押し潰したような音であったのは意外でした。

ときどきロシアのピアニストに見かけるパターンとしては、楽曲の一つ一つに自己の感興感性を照応させるのではなく、ピアノ演奏をパターンというか「型」にはめて処理することで何でも弾いていく人がいますが、ゲニューシャスもどことなくそのタイプのような印象を覚えました。
うわ!と思ったのは、コーダからはことさら意識的にヒートアップして、派手に締めくくってみせたのは、ウケを充分心得ているようで、そこだけ数倍も練習しているように見えてしまいました。

後半は白鳥の湖。
指揮者のトゥガン・ソヒエフがボリショイ劇場の音楽監督というだけのことはあって、N響がまるでロシアのオーケストラのように変身して、これにはさすがに驚きました。
ソヒエフ氏が選んだという特別バージョンの組曲でしたが、なんの小細工も施さず、チャイコフスキーの作品をあるがままに描き出すことを狙っているのか、誤解を恐れずにいうなら、恰幅がよく、同時に厚塗りだが平面的で、どこまでも広がる壮大な景色のように演奏されました。
テンポも強弱も一定で、ロシア人以外にああいった演奏は体質的にできないと思いました。

日頃から上手いことはわかっていても、いまいち好きになれないN響ですが、指揮者によってこれほど変幻自在なオーケストラであることがわかると、あらためてある種の凄みのようなものを感じました。

現代はカリスマ的な大物が出にくい反面で、平均的な実力や偏差値はとても上がっているご時世で、集団で緻密なアンサンブルとクオリティがものをいうオーケストラとなると、そりゃあN響のようなオーケストラが俄然力を発揮するのもむべなるかなという感じでした。
N響も紛れもなくジャパンクオリティのひとつに列せられて然るべきもののようです。
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