百年企業

こないだの日曜だったか、民放BSで『市川染五郎が見た あっぱれ百年企業 ~これぞニッポンの仕事~』という2時間番組があり、そこで取り上げられた3社のトップバッターがヤマハ株式会社でした。

今は浜松ではなく、掛川にあるピアノ工場を染五郎さんが訪ねます。
広大な敷地の中にあるショールームのような建物に入ると、きれいに磨かれた自動ドアが開くなり、現社長の中田卓也氏が深々とお辞儀をしながらのお出迎え。
その中田氏のかたわらにはグランドピアノ型の電子ピアノが置かれていて、開口一番「これが私も開発に参加したピアノです!」といって、得意満面のご様子。

とはいっても、ここはヤマハ株式会社の本拠地なのだから、そこでいきなり電子ピアノというのは違和感を覚えました。
もしかするとこれが今のヤマハの最も代表する看板商品なのかもしれないけれど、やはり世界のヤマハを標榜する以上は、まずは電子ではなくアコースティックピアノであってほしかったと思います。

番組としては、電子楽器としてここまで発展したピアノが、元を辿れば明治時代のこの1台のオルガンから始まりましたという、社史を振り返る流れだったようですが、だとしても納得できない感覚は払拭できませんでした。

どうぞどうぞ!と促されて染五郎さんがポンポンと音を出しますが、テレビのスピーカーを通しても、いかにも電子ピアノらしい音が聞こえるものです。とくに電子ピアノは、最初に出た瞬間の音より、そのあとの余韻のところに人工合成された不自然を感じます。

そのあとで、社長自らも「展覧会の絵」のプロムナードの一節をちょちょっと弾かれました。
出迎えでのいかにも腰の低そうなお辞儀や物腰、若くてカジュアルで、あくまでフレンドリーに話しをされる様子、そして製品の開発にも参加するほどの技術者でもあること、おまけに少しは演奏もできるのですよということまで、冒頭のわずか1分ちょっとの間にこの方のプロフィールの要点を圧縮して披露されたという感じ。

社長さんのアピールはいいけれど、この一場面を見ただけでも、世の中は電子ピアノが圧倒的主流で、ヤマハ自身が生ピアノをさほど重要視していないかのような感じを受けたことは、どうも出鼻をくじかれた気分でした。

そのあとは創始者である山葉寅楠が浜松の小学校のオルガン修理を頼まれたのが始まりで…というストーリーが再現ドラマによってしばらく続きます。
途中で、調律の簡単な説明がありましたが、染五郎さんがいかにもおっかなびっくりの手つきで自らチューニングハンマーを回し、うねりというか音の変化を感じてみせるあたりは、いかにも無理があるなぁ…という印象。

こう言っては申し訳ないけれど、あの一種独特な雰囲気をもつ歌舞伎役者と西洋音楽のグランドピアノというのは、どう見ても相容れないというか接合点が見当たらず、全然溶け合わない様子は想像以上で、妙なところでびっくりしました。
人でもモノでも、ふさわしい場所や相手を得たときにはじめて本来の輝きを得るものですね。

後半は、バックにCFXが置かれた場所で、染五郎さんと社長の対談ということになりましたが、とくに深い話はなく、楽器作りと歌舞伎の世界を比較しながらという、なんだか取ってつけたようなわざとらしい対話がつづきました。
現社長は、いわゆる旧来の社長然とした物腰態度をいっさいとらず、たえず笑顔、他者と同じ目線をもつ仲間のような人物であることをそうとう意識されているようにお見受けしました。

ただし、やや行き過ぎの面もあり、染五郎さんのちょっとした言葉にも、過大に頷いたり感心したりと反応してみせるあたりは、まるで役者に話を聞きに行ったアナウンサーのようでした。とくに関係もないのに、いちいち「歌舞伎の世界では…」とそちらに置き換えて話を振るのも、きまってこの社長さんのほうでした。
まるで威張らない腰の低い自分を「自慢しているように」見えるのはマロニエ君の目がおかしいのか…。

社長さんのほうはたっぷりとご尊顔を拝しましたが、ヤマハにカメラが入ったからには、楽器の製造現場をもう少しみせてほしかったのですが、それはほとんどなかったのは残念としかいいようがありません。
現在のヤマハはなんと100種類以上の楽器を作る世界的にも非常に珍しい「総合楽器製造会社」なのだそうで、弦楽器・管楽器の制作現場なども見たかったですね。

せっかくBSで番組を作るなら、もっとコアな部分に踏み込んだものにしてほしいものです。
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オーラ

ずいぶん前の録画ですが、N響定期公演でブラームスのヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲が演奏されたのがあって、それをついに見てみることに。

なかなか見なかったのは、マロニエ君にとってこの曲は、大好きなブラームスの中ではさほど魅力的には思えないところがあって、つい後回しになっていたからでした。それでもソリスト次第ではそちらへの好奇心から引き寄せられることはありますが、今回はそういう感じでもなく、ずいぶん長いこと放置してしまいました。

指揮は、このところN響をよく振っているトゥガン・ソヒエフ、そして肝心のソリストは、ヴァイオリンがフォルクハルト・シュトイデ、チェロがペーテル・ソモダリで、共にウィーンフィル/ウィーン国立歌劇場管弦楽団のメンバーで、シュトイデ氏はコンサートマスターでもあり、この両者は通常公演の他にも、室内楽などの共演も積んでいる由。

冒頭インタビューでソヒエフ氏は、この曲はとくに高いアンサンブルが求められるもので、当日顔会わせしてリハーサル、本番、終わったらさようならというだけでは曲の真価が発揮できないというようなことを言っていました。
そして、この日のヴァイオリニストとチェリストがいかに理想的な二人であるかを述べたのでした。

しかし、実演を聴いてみると、マロニエ君はまったくそういうふうには感じなかったというか、むしろ逆の印象を受けてしまい、もともとさほどでもないこの曲が、これまでとは違う、あたりしい魅力をまとってマロニエ君の耳に響いてくるという期待は裏切られ、むしろさらなるイメージダウンになってしまいました。

いつも書いているように、演奏の良否(といえばおこがましいので、強いているなら自分にとっての相性)は始めの数秒、大事をとっても5分以内に事は決してしまいます。
この間に受けた印象は、最後まで、まずほとんど覆らない。

この二重協奏曲は、オーケストラの短い序奏の後でいきなりチェロのカデンツァとなり、そのあとヴァイオリンが和してくるのですが、なるほど二人の息はぴったり合っているし、アーティキュレーションも見事というほど一体感がありその点は、いかにもよく弾き込まれ、万全の準備をしてステージに立っていることが伝わります。
とくにウィーンフィルらしく、ちょっと嫌味なぐらい自信満々に演奏されていました。

しかし、どんなに素晴らしくとも、二人の演奏はソロではなく、あくまでも優秀なアンサンブル奏者のそれだとマロニエ君には聴こえて仕方がありません。

曲は隅々まで知り尽くされ、その上でいかにも闊達な演奏を繰り広げているけれど、それがどれほどヒートアップしても、それは協奏曲におけるソロの音…ではない。
よくヴァイオリンの鑑定などで「大変素晴らしい楽器です。しかし大きな会場での演奏よりは、むしろ室内楽などに向いているようですね。」といわれるあの感じで、とても熱っぽく弾かれているが、いかんせん楽器の箱があまり鳴っておらず、オーケストラが入ってくると、すぐに埋もれてしまいます。
これは別に音量の問題ではなく、ソロとしての輝きがないからでしょう。

また、年中オーケストラでオペラなどを演奏しているからなのでしょうが、演奏は正確で折り目正しく、決してアンサンブルから外れることはないのですが、それがこの曲では良い面に出ず、いかにも中途半端なものに終始しました。
ひとことでいうなら「あまりに合い過ぎて」つまらないわけです。
しかも時折ソロを意識してか、ハメを外すような弾き方をする場面もあるのですが、それも一向に効果が上がらず、却って虚しいようでもありました。

あれだったら、二人ともオーケストラの中に入って、適宜ソロパートを弾くほうが、このときの演奏には音と形がよほどあっているように思いました。

この二人に限りませんが、マロニエ君はオーケストラの団員出身者が、その後ソリストとして大成した人というのは、ゼロではないにしてもほとんど知りません。
ソリストというのは音楽上のいわば主役を張れる役者であり、長年オーケストラで過ごした人の大半は、もともとそういうオーラが無いのか、あるいは長い団員生活の中で退化してしてしまっているのかもしれません。日本人でも同様の経歴をたどって、ソロ活動へシフトした人が何人かいらっしゃいますが、どうしても真のソロにはないようです。

名脇役はどんなに名演であっても主役とは違うし、極端なはなし技術は少々劣っても、主役にふわさしい要素を備えている人というのがあるのであって、このあたりはキャスティングを誤ると、音楽でも決して最良の結果にはならないようですね。
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ふたを閉めて

このHPやっているお陰もあって、ピアノがお好きな方からメールをいただき、それがご縁となって、以降電話やメールのやり取りをするようになった方というのが、ごく僅かですがおられます。
そのうちの、福岡にお住まいの某氏と久しぶりにお会いすることになりました。

この方とお会いするのは二度目ですが、今回はマロニエ君の自宅に来ていただいて、中華の出前をとって食事などしながら、夕方から深夜まで音楽談義で過ごしました。

とても楽しいひとときで、ピアニストの話が多くを占めましたが、とりわけ印象的だったのは、すぐ脇にあるピアノを弾くということは、互いにほとんどなかったことです。

ひとくちに「ピアノ好き」といっても、ほとんどの人は「ピアノを弾くこと」が好きで、ピアノ好き→優れたピアニストの演奏に関心がある→つまり音楽好き…という図式はまったく通用しません。
ピアノは弾いても、それが終わるとピアノとはまったく関係ない雑談ばかりが延々と続き、音楽の話などしないのがこの世界では普通なのです。
マロニエ君もはじめはこの実態に驚愕しましたが、音楽やピアノの話に興じるほうがよほど特種で異端らしいのです。

通常の趣味の世界では、その道の最高峰がいかなるものか、あるいはもろもろの情報には嫌でも関心があるし敏感になるもので、テニスをやっている人がウインブルドンにぜんぜん無関心とか、世界ランキング上位の選手の名前も知らないなどというのはほぼあり得ないだろうと思うのですが、ピアノに関しては…それが「普通」なのです。

では、ピアノ趣味の人は普段なにをやっているのかというと、ただ教室などで習っている目の前の曲をマスターするまで練習し、それを発表会という晴れの舞台で弾くという、えらくシンプルな一本道にエネルギーを注ぐということの繰り返し。
真の芸術的演奏とはいかなるものか、あるいは膨大にある優れた楽曲を少しでも知りたい…というような方面にはあまり欲求がないというか、ほぼ無関心に近いのはまったく信じられないのですが、それが現実。

そしてパフォーマンスとしてかっこいい系の有名曲を弾くことが練習するにあたっての最大のモチベーションで、おそらくはラ・カンパネラとか英雄ポロネーズを発表会で弾くことが最高目標なんでしょうね。
音楽というより、単なる自己実現のカタチがたまたまピアノなんだろうと思われます。
もし仮にあこがれの英雄(第6番)に挑んだにしても、前後のポロネーズ、すなわちあの魅力的な第5番、あるいは晩年の最高傑作のひとつである第7番がどんな曲かなんてことは、まったく関心もない。

マロニエ君はべつに頭から発表会を否定しようというような考えではありません。
正直に云うと、個人的にはあの系統は好きではないし共感もできかねますが、そこにもきっとなんらかの意味はあるのだろうと思うし、それを好きだというのも自由なわけで、カラオケで熱唱するのが好きで、それに入れ込む自由があるのと同じです。
ただ、自由ではあるけれど、日々ピアノにふれ、何らかの作品を奏しながら、それでも音楽そのものにほとんど見向きもせず、ピアノが趣味という口実の道具に使われているように見受けられることについては、そこに発生する違和感まで消し去ることはできません。

あっと…もともとそんなことをくどくど書くつもりではなかったわけで、話は戻り、冒頭のその方とはいろいろとしゃべったり、お持ちのiPadからさまざまなピアニストの演奏や動画を見せていただくなどしているうちに、瞬く間に時は過ぎました。

普通は共通の趣味人同士が集うと、顔を合わせるなりたちまちその世界に入って、何時間でも疲れ知らずでしゃべっていられるものですが、ピアノの場合はこんな当たり前なことが、こんなにも稀有な事だというのをあらためて痛感しました。

今はなき往年の巨匠の演奏から、名も知らぬ才能ある子どもの演奏まで、ネット上には貴重な音源と映像が多数存在しており、この日は珍しい映像をいくつも見て聴いて堪能することができました。とくに人にはそれぞれ好みがあって、この人のこれが好きとか、これがたまらないというようなこともたくさんあって、大いに共感できること、そうでないことなど人の好みを聞いているのも面白いものでした。

話は尽きず、お開きになったのはもう少しで日をまたぐ時刻になりました。
ピアノは弾いてこそピアノという一面があるのもわからないではないけれど、かといってシロウトがやみくもに弾くばかりでは耳がくたびれるばかりです。
趣味として奥深いところで遊んでみるには、むしろピアノのふたは閉めておいたほうが面白いというのもひとつあるように思います。
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ブゾーニざんまい

久しぶりに感銘を受けるコンサート(TVですが)に出逢いました。
NHKのクラシック倶楽部で、まったく未知であったサラ・デイヴィス・ビュクナーというアメリカ人ピアニストによる、ブゾーニ生誕150週年記念コンサートの模様が放映され、これに大いに感激しました。

会場は京都府立府民ホール・アルティ。
ステージは低く、左右両側からゆるやかな階段状になった底の部分にピアノ(CFX)が置かれる。

ビュクナーはピアニストであると同時にブゾーニの研究家でもあるらしく、彼の義理の娘とも親交があって多くの事を学び、ビュクナーのニューヨークデビューには彼女も立ち会ったとのこと。

まず正直に云うと、マロニエ君はむかしからブゾーニの音楽があまりわかりませんでした。今でもわかりません。
バッハの編曲なども多数あるし、単独の作品もCDなど少しはあるけれど、聴いていて自分なりに何かが見えるとか掴める気がしないというか、いったいどこにフォーカスして聴くべきなのかがよくわからない。それでいてやたらデモーニッシュな印象のある作曲家でしたが、今回はビュクナー女史のおかげで、ほんの少しだけわかったような気がします。

演奏されたのは、ブゾーニの7曲からなるエレジー集、さらにブゾーニの影響受けたというカゼッラの6つの練習曲。アンコールにはビュクナーが書いたという「フェルッチョ・ブゾーニの思い出に」。

マロニエ君にとって昔も今もブゾーニは難解であることに違いなく、とくに謎だらけで解決に向かわない不協和声の連続などは、こちらの気持ちのもって行きようも覚束かないもので、このエレジー集も初めて聴くわけではない筈なのに、初めて聴くのと同様でした。
それでも、なんとはなしに、ブゾーニが新しい音楽を書こうという強い情熱をもっていた人だったということは、このビュクナーの凛とした演奏によって伝わってくるような気がしました。

とくに強く感じたのは、混沌とした時代に生き、人並み外れて情念の人だったのだろうということ。

しかしそのブゾーニの作品以上に感銘を受けたのは、ビュクナーの抜きん出た演奏でした。
かなりの難曲と思われる、この延々と続くエレジー集を、迷いのない、確信に満ちた演奏で弾き切ったことです。
マロニエ君にとっては曲が難解であるというだけで、演奏そのものは至って雄弁、しかも全曲暗譜という見事なものでした。
指はよほど分離が素晴らしいのか、10本すべてバラバラという感じであるし、柔軟かつきっぱりした表現でブゾーニの作品世界に案内してくれました。
また身体や指も完璧ともいいたい脱力状態で、技術的にも一切の破綻がなく、その自在な演奏は見ているだけでも惚れ惚れするようなものでした。

楽器に対する直感力もよほど鋭い人なのか、CFXのいい面ばかりを引き出し、このピアノ特有の響きの底付き感が出る一歩手前で鳴らしきるあたりは神業で、このピアノの良い面ばかりがでていると思いました。
はじめ、舞台に置かれたCFXが映ったときは、内心ちょっとがっかりしたのですが、始まってほどなくすると、そんな思いは消し飛んでしまい、しかも苦手な作品にもかかわらず、ひたすらこの素晴らしいピアニストの雄弁な演奏に引き込まれてしまい、あっという間の55分でした。

カゼッラの練習曲もいかにも演奏至難という感じでしたが、ここでも見事な演奏。まさに適材適所に高度なテクニックを駆使できる点は、この人の終始一貫した特徴のようです。

あとから調べてみると、この日のプラグラムには、ほかにブゾーニによるバッハのゴルトベルクの自由編曲、リストのパガニーニ練習曲の自由版などがあって、これはもうぜひ聴いてみたいところ。あとは頼みの綱のクラシック倶楽部アラカルトに希望を託すしかありません。

とにかくこれはずごいピアニストだと思って、さっそくCDを調べてみたところ、ブゾーニのゴルトベルクらしきものが一点あったけれど、すでに発売終了の商品で、それ以外にはなにも見つからずガッカリでした。
ビジネスや名声でなく、こういう地道な演奏と研究を続ける人もいるのだということを思うと、そういう人がなかなか表に出てこない世の中が恨めしく思われるばかりでした。

有名ではないけど真に良いピアニスト、良い演奏に触れる機会というのは、奇跡的に少ないのだというのが現実なんだろうと思うと、そういう機会を作ってくれたNHKはさすがと思うばかり。
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ひっかかる言葉

もうすでに類似のことを書いたかもしれませんが、最近よく使われる言葉や言い回しの中には、ちょっとしたことなんだけれど、聞いていてそのたびにクッと神経にひっかかるというか、聞き心地の良くない言葉というものがあります。

どなたにもひとつやふたつ、そういう言葉があるものと思いますが、それは人によっても違ってくるでしょう。

マロニエ君にとって、最近抵抗を感じるのはお礼を言うときに「ありがとね!」という、あれです。
幸い自分が言われたことはないけれど、外でちらほら耳にすることがあり、これがどうも嫌なんです。
その理由をなんだろうかと考えてみましたが、はっきりしたことはわかるようなわからないような。

強いて云うと、せっかくの謝意がちょっぴり品のない響きになってしまうという残念さがあると思います。
どうしてふつうに「ありがとう」「どうもありがとう」ではいけないのか…。

マロニエ君は個人的に、美しい日本語の中でも、「ありがとう」とか「さようなら」「お父さん(お母さん)」というのは、とくに平易な言葉の中でもとりわけきれいな言葉だと感じるのですが、それをわざわざ「ありがとね!」にしてしまうのは、聞いていて快適ではないし、せっかくのいい言葉(しかもよく使う)をわざわざこんな風に崩して使い、それがだんだんに勢力を増してきているのには閉口してしまいます。

もしかすると「ありがとう」や「どうもありがとう」では美しすぎるから、どこか気恥ずかしさがあるのかとも思いますが、こんなきれいな、まるで空中にふわりと浮かぶような言葉はなかなかないし、語尾が「…とう」でやわらかく終わるところに品位とほのかな美しさがあるように思います。
それをわざわざ「う」を取って代わりに「ね」で締めくくると、ベタッと地面に落ちてしまってニュアンスやデリカシーもなくなるし、「ね」の強さが相手側にキュッと指先で押し込むような暑苦しささえ感じます。
今どきの人は、よほど言葉に対する心得のある人でないかぎりは、「父」「母」のことも「父親」「母親」と敢えて第三者的な言い方をしますし、そうかと思うと、人の奥さんのことは誰かれ構わず「奥様」といったりで、とにかくてんでバラバラです。

奥様というのが悪いわけではないけれど、あるていど奥様という言葉にふさわしい相手であってほしいし、言う側も前後の言葉をそれなりのきちんと間違えずに流暢に操ることのできる人に限られるというのがマロニエ君の持論です。しかるに、そこだけ取ってつけたように「奥様」なんていわれたら、却ってぎょっとするし、言っている側も言われる側も蓮っ葉になるのが関の山です。

そもそも言葉というのは不足でも過剰でも美しくないもので、デパートの外商とか美容院ならともかく、普通は奥さんで充分だと思います。とくに男性は「奥さん」「お子さん」ぐらいに留めておいたほうが、むしろ好印象なのではないかと思います。

もはや笑ってもいられないのは、言葉に関しては訓練を受けているはずの司会者などが、そこらの芸能人の奥さんのことを馬鹿丁寧に「奥様」などといったかと思えば、同じ人が「天皇皇后両陛下がどこそこに行き、ひとりひとりに言葉をかけました。」などと平然と言うのですから、言葉文化はめちゃくちゃという気がします。

震災で傷ついた熊本城の痛ましい被害状況を見ると、みんな「うわぁひどい…なんとか再建しなくては!」と思うのに、言葉の文化で無残な崩壊状況があっても、大半の人がなんとも思わないので、修理も訂正もできない現状は非常にやりきれない気分になるばかり。
言葉の美しさは適材適所の使い分けでもあって、やたら丁寧語を乱発すればいいという今の風潮はなんとかならないものかと思います。
もう少し日本語の真の美しさに敏感になりたいものです。
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レーベル違えば

同時に購入した反田恭平氏のCD2枚のうち、先に聴いた『リスト』はまったく良い印象がなかったことはすでに書いた通りですが、もうひとつの『Live!』では、おやっ…と思うほど違っていて、通常こういうことはまずないので珍しいことです。

曲目はシューベルトのソナタD661、チャイコフスキー:ワルツ・スケルツォ第1番、ショパン:英雄、ミャスコフスキー:ソナタ第2番、スクリャービン:ソナタ第3番、チャイコフスキー:カプリッチョ、モシュコフスキ:エチュードop.72-6、リスト=シューマン:献呈というもの。
データを見ると『リスト』と『Live!』の2枚は、ほぼ同時期(2015年1月)に録音されていますが、細かく見ると不思議な相違点が散見できました。

ケースの雰囲気も似ているので全然気づかなかったけれど、まずレーベルがまったく違っていてびっくりでした。
それに『リスト』はDENONによるセッション録音であることに対して、『Live!』はNYS CLASSICSというレーベルの文字通りライブ録音である点も異なります。

2枚に共通しているのはピアニスト、それに使われたピアノがホロヴィッツが弾いたという1912年製のニューヨーク・スタインウェイCD75であること。

レーベルが違えば、当然プロデューサーも異なり、『Live!』のほうがCD75という歴史的なピアノの魅力をよほど適正に捉えているように思います。
ひとことで言うなら、こちらのほうがピアノの魅力を知る人(どうやらこのピアノのオーナー氏)が録音の指揮をとったという感じで、その違いは聴く側にとってかなり大きな影響があり、このあたりは工学の専門家と、楽器や音楽の専門家とでは目指すところがかなり違っているようにも思われ、マロニエ君は後者を支持するのはいうまでもありません。

『Live!』を聴くことで、この非凡な楽器の魅力もようやく伝わりました。
刃物のようにシャープで、優雅さと猥雑さが同居していて、どこか魔物の声のようでもあるけれど、その中に不思議な温かみのようなものもある、今どきのありふれたピアノとはまったくの別物というのがわかります。
それで気を良くして、もう一度『リスト』を聴いてみますが、こっちはやっぱりダメでした。
こちらは音がむやみに攻撃的でとても聴いていられません。よほどマイクが近いのか、耳はもちろん手や顔の皮膚までジンジンするようで、途中で本当に頭が痛くなってしまったほどです。たまらずにSTOPボタンを押すとその音の洪水から開放されてホッとするほど強烈です。

演奏も何度もプレイバックを聴いては録り直しをさせられたのか(どうかはしらないけれど)、演奏行為を通じて奏者と作品の間に起こる自然の発火作用がなく、仕組まれた無傷というか、慎重さとかミスのなさばかりが目立ってしまい、うまいんだけどシラケてしまいます。
熱演ではあるけれど、空気感としてちっともエキサイティングじゃないわけです。
やけに遅いテンポ、不必要かつ過剰な間の取り方、ハンマーが弦に打ち付けるときの直接的な衝撃音まで入っている感じで、まさにピアノの至近距離で聞かないほうがいい雑音まで聴かされているようで、反田氏自身が本当にそういうCD製作を望んだのかどうか、甚だ疑わしい演奏に聴こえました。

これに対して『Live!』では、音楽に流れがあり、そこにある緊張感あふれる空気を感じることができるし、ピアニストの一回の演奏にかける意気込みのようなものがあって、こちらのほうが反田氏の正味の姿だろうと思われますし、当然好感度も大いにアップしました。とりわけチャイコフスキー、ミャスコフスキー、スクリャービンで見せた腰のある演奏は、この人がとくにロシア系の重厚かつ技巧的な作品に向いていることがよくわかります。

その点で言うと、リストは作品がいくら技巧的ではあっても、それをただ技巧派が弾くとこの人の作品は趣味の悪さがワッと前にでるので、リストを聴いてもただ単に技術をお持ちなことを「わかりました」となるだけで、反田氏の評価が本当の意味でアップすることはないような気がします。

『リスト』と『Live!』の2枚は、『リスト』で伝えることのできなかった多くの要素、あるいは直接的なマイナス要因を『Live!』は取り戻すための一枚で、だからほとんど同じような時期に収録されたのでは偶然か意図的かと、つい勘ぐりたくなるようなそんなCDでした。

同じピアノとピアニストが、録音の目指す方向性によって出来上がるものは唖然とするほど違ったものになるということがまざまざとわかる2つのCDで、これほどはっきり体感できただけでもこのCDを買った意味があったと思いました。

できることなら、『リスト』に収録された同じ曲目を、違う録音で聴き直してみたいものです。
ただしラ・カンパネラと愛の夢はもうたくさんですが…。
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舛添劇場

東京都の舛添さんの公私混同問題は、ものすごい盛り上がりですね。

猪瀬さんの時を上回る話題性というか、正確に言うならその持久力はたいへんなものです。
連日テレビは、この話題を朝から晩までこれでもかと取り上げ、ワイドショーでは、これに割く時間がしぼむどころか逆に日を追うごとに増してきている感じです。

コメンテーターもお馴染みの顔ぶれがレギュラー出演状態となり、あっちへこっちへと番組を渡り歩いているご様子で、辛辣な批判の陰で、内心「舛添さまさま状態」な方々もずいぶんいらっしゃるようです。

テレビのスイッチを入れれば、たいてい舛添さんの土色の顔と鬼のような眼光が映っており、それほど日本国内はこの話題に熱中(熱狂?)しているのは間違いありません。
かくいうマロニエ君も、毎日呆れつつそれを楽しんでいるくちで、ひさびさの野次馬根性全開状態です。

それにしてもほとほと感心するのは、舛添さんの「しがみつきパワー」でしょう。
あれだけ連日連夜にわたって、東京都民はじめ全国民が怒りの集中砲火を浴びせているのに、なんとしてもこの難曲を乗り切ってみせるという爬虫類のようなスタミナは、腹立たしくもあるし、とてもかなわないというため息が出てしまいます。

絶対にあんなふうになりたいとは思わないけれど、あのメンタルの異常な強さは、千分の一でもわけてほしいほど、通常の人間だったら到底耐えられるものではありません。
都議会の質問でも、代わるがわる「あなたはセコイ!」など、通常なら現職の知事にとても使わないような強い言葉を浴びせられても、どんな長時間の恥辱にまみれようとも、絶対に辞任はしないというあの異様なまでの強さは見ている我々を戦慄させ、それがますます引き下がれない批判のパワーを生み出していると思います。

またメディアの表現にはそれぞれ線引というのがあり、テレビでは言えないこともたくさんあるようで、週刊誌の広告に至っては信じられないような行状の数々がすっぱ抜かれており、とにかく並大抵の御仁ではないことは間違いないようです。

知事の場合、公金の政治活動費は5万円未満は使途の報告義務がないらしく、あるコメンテーターは「舛添さんは、要するにご自分と家族の衣食住を、ほとんど公費でまかなっているようなものですよねぇ。」と言いましたが、これ、知事としての彼の有りようをまさに一言で言い表しているようです。

猪瀬氏の時と違い、ネタも種類も多くて豊富、テレビもこれさえやっていれば視聴率が取れるので、各局競い合うように舛添ネタばかりですが、マロニエ君もいくら見てもおもしろいのでついつい飽きもせず見てしまってます。

今回とくに面白い要素のひとつは、政治家の金銭スキャンダルとしてはかつてないチマチマ感で、これまでの政界で普通だった巨悪に較べると、やれヤフオクで7000円だのクレヨンしんちゃんの本だのと、いかにも庶民の手にも取り扱いやすいネタが満載で、その細かさときたら舛添氏の人柄が織りなす緻密な手仕事を見せられるようです。

ご本人も、まさかこれほど鎮火のできない大火事になるとは思っていなかったでしょうが、この先どんなに粘ってみせても、さすがにここまでくれば辞職以外に世間もマスコミも承知しないでしょう。

だいたい、やれファーストクラスだスイートルームだ別荘だというような人間は、ムヒカさんではないけれど、精神的に非常に貧しい人特有の、とめどない貪欲な上昇志向と自己顕示欲から出てくるもの。
なかには「警備の問題からファーストクラスが必要だった」という馬鹿げた弁明もありますが、狭い機内で、ビジネスとファーストで警護をする上での違いなんぞあるわけがない。

いくら東京が大都市だといっても知事は知事、ビジネスクラスに乗り、良いホテルの通常の部屋に宿泊して、それできちんと仕事ができないようなヤワな人間なら、そもそもそんな仕事につく資格はないのです。

つらつら考えるに、今回の騒動では、渦中の舛添さんにも世間にひとつふたつは貢献したことがあるように思います。
ひとつは少々のドラマや出来事なんて物の数ではないほど、けしからぬ話題として大衆を楽しませたこと。
もうひとつは、この程度の細かいごまかしを日常的にやっている政治家は、実際にはうじゃうじゃいる筈なので、その連中もこの想定外の騒ぎを見ていささかビビっているだろうということです。
そういう意味では、格好の見せしめ的な事案になるわけで、そんなお役には立っているのかもしれません。

まだ収束したわけじゃないので、来週も楽しみです。
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雲泥の差

マロニエ君の生活圏(福岡市及びその近郊)にある回転寿司でイチオシなのは、魚米(うおべい)ということを以前書いたような気がしますが、記憶が定かではないので、重複するところがあったらご容赦ください。

魚米という店名はあまり耳にしたこともなかったけれど、元気寿司系のチェーン店のようで、ネットの店舗検索を見てもそれほど数もなくメジャー店ではないようですが、ここを知ってからというもの、ぱったり他店には行かなくなりました。

魚米の特徴は、全店すべてかどうかは知りませんが、いわゆる作り置きの寿司は一皿もなく、すべてタッチパネルから注文をするスタイルであること。さらに各テーブルへは、なんと上中下、実に三段からなる高速レーンを駆使して、注文の品がスイスイ運ばれてくることです。
くわえて、ネタが新鮮で大きいことも特筆すべきで、にもかかわらず寿司メニューの多くが100円という安さ。店の内装は白を基調とした清潔感あふれる都会的な雰囲気で、従来の回転寿司の標準からすれば完全に一歩先を行くものだと思います。

もともと回転寿司は、テーブル脇のレーン上にあれこれのお寿司が流れている中から好きなものを皿ごと取って食べるというものでしたが、これだと自分のテーブルの位置が川(レーン)の上流にあるか下流にあるかでかなり条件が違ってきます。仮にむこう側に食べたいものが流れていても、こっちまで周って来る間に途中で誰かに取られてしまう可能性があり、不公平感がありました。(…昔の話ですが)

そうなると別途に注文するしかないわけですが、テーブルまでのお届け方法として「注文品」として流れに混ぜ込むか、店員がお盆に乗せて運んで来るかだったものが、そのうちに注文したものをダイレクトにテーブルに届けるための、専用高速レーンが設置されるようになりました。
注文も、いまやタッチパネルを採用する店が主流になっているようです。

さて、回転寿司といえば最も有名なのがスシ❍ーだというのは多くの人が認識するところでしょう。
マロニエ君も、十年ぐらい前にいちど行ったことがあるものの、それほど美味しいとは思えず、いらい一度も行ったことがありませんでした。しかし、土日などはいつ見てもスシ❍ーの駐車場には誘導員まで立っているし、店の出入り口付近は順番待ちの人であふれており、その人気の高さ、いわば支持層の厚みが窺えます。

TV-CMなどを見ても、いかにも新鮮そうな大きなネタがスローモーションで舞い降りてくる様子など、見るからに魅力的な感じに作られており、もしかしたらグッと進化していて美味しくなっているのかも…という気がしなくもありません。
それで友人と調査がてら行ってみようかということになり、先日スシ❍ーで食べて来ました。

果たして、結果は惨憺たるものに終わりました。
たまたま行った店のみでの感想なので、すべての店舗で共通することかどうかはわかりませんが、まず店内の雰囲気が暗いし、タッチパネルではあったものの、棚の上部の固定タイプである上、パネルが超鈍感で、指先が白くなるほど力を入れないと反応しないのは、もうこれだけでいきなりテンション落ちまくりでした。

また、注文しても、ゆるゆると流れる川に他の商品と混ざってゆっくりゆっくりやってくるのは、ようするに回転寿司の第一世代そのままで、新型の高速レーンの快適さ(とくに魚米の三段レーン)を知る身には、あまりの落差に大きなストレスを覚えるほど。とくに案内されたテーブルは川が折り返してくる反対側だったので、その待ち時間の長さときたらはっきりいって苦痛以外の何ものでもありません。
まさに快適な新幹線に対してガタンゴトンの在来線のような違いでした。

肝心の味もあくまで普通(もしくはそれ以下?)でしかなく、「さすがは人気店だけのことはある!」と感心するような要素はまったくナシ。
それどころか、より多く注文させるためか、ネタを相対的に大きく見せるためか、シャリも小っちゃいしネタもコマーシャルでみるようなダイナミックなものひとつとしてなく、ただ上にぽちょんとのっているだけのものでした。

席も座面が擦り切れていたこともあり、たまたま古い店舗だったのかもしれませんが、食器類も激しく傷だらけで、醤油差しの上のゴムも弾力がなくなっているなど、いつもの魚米とはまさに雲泥の差でした。

帰りのクルマの中で「なんであんなに人気があるんだろうね…」とつぶやく友人。ごもっとも。
「ま、知名度なのかね…」と返しながら、不満タラタラなのに身体はいちおう満腹という、妙な気分のまま帰途につきました。

ひとつわかったのは、あんなテンポじゃ客の回転率がかなり悪いので、慢性的な行列を生むのか…とも思いますが、味の面では人気の理由がよくわからないまま、いちおう目的は果たしたとして調査終了です。
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修行のスタンス

過日、十四代柿右衛門さんのインタビューにあった基礎の大切さという点から端を発して、ピアノにおける技巧か音楽性かという部分に触れました。
しかしこれ、そもそも技巧と音楽を切り分けて訓練することじたいが出発点から間違っていると思わずにはいられません。

音楽性とテクニックの関係性は、あくまで一体のものでなくてはならないということです。
いかにテクニックが大切だといっても、音楽を後回しにして肉体的訓練ばかり積んで、後から「では音楽を身につけましょう」といってもなかなかそうなるものではありません。いったん身についた技術偏重の習慣は、大切な幼年期から思春期をそれで通してしまうと、あとからの方向転換は至難です。

音楽的様式と感性に裏打ちされた素晴らしい演奏を目標として、それを結実させるためのテクニックということであれば、多彩な音色やポリフォニックな弾き分け、音質の種類、必然的なアーティキュレーション、歌い込みの訓練など、ただ難易度の高い曲をこなすことが価値基準というような単純な訓練では済まなくなるのは明白です。

昔の(とりわけ)一流教師のもとでおこなわれた「スポ根的訓練」はさすがに衰退したようですが、それも音楽の本質に迫る指導するところまでは到達せず、真に曲の内面に切り込むことのないまま、楽譜上の音符の羅列として曲を扱う指導が大勢を占めていることに変わりありません。
だからどんなに上手いとされる人の演奏にも、どこか演技的な空虚さが漂います。

絵の場合、自分の描いたものは常に自分や他人が見ることができるため、たえず多くの批判の目にもさらされますが、ピアノは自分の演奏を後からじっくり確認するということは、録音でもしていないかぎりできません。
これは、音楽が絵のように止まることのできない時間芸術であるために、どうしても冷静かつ総合的な評価が手薄になっていく宿命といえるのかもしれません。

デッサンは様々なものを描いて練習を積むにも、常にそこには当人の美意識や感性が投映され、それと技巧が切れ目なく結びついていますが、ピアノで基礎技術を徹底するとなると、情緒面をシャットアウトしてしまう危険が大きく、むしろこれを同時並行させることのほうが困難といえるでしょう。

ハノンに代表される指運動の無味乾燥な教則本があることがその象徴ですが、絵の場合、毎日マルや直線といった技巧の訓練だけに費やす教本があるなどとは、少なくともマロニエ君は聞いたことがありません。
デッサンはいくらそれに明け暮れようとも、鉛筆をにぎる指の運動的な訓練という面がないことはないけれど、とうていピアノの比ではありません。出来栄えを常に見て、自分の目と感性とが連動した修練となります。

いっぽうピアノはスポーツ的な訓練および仕上がりに陥りがちな危険性に充ち満ちていて、日本の音楽教育というか、多くの先生方もそういうやり方で育ってきているので、どうしても指のスポーツが中心になるのでしょう。
珍しくない海外留学も、音楽の本場に行って修行を重ねるという表向きの意味のほかに、日本ではできない勉強を遅ればせながら現地でやってきます…という補填的ニュアンスにマロニエ君は感じてしまうのですが、残念なるかなあとから付け加えるのと、それ込みで育ってきた人とでは、埋めがたい溝があるような気がします。

ここで言いたいことは、ピアノの場合のテクニックというものは、冒頭に書いた通り、音楽と一体のものでなくてはならないということ。世界のトップレベルのピアニストの演奏を見ていると、各人の音楽性と技巧は深いところで一体化していて、その人の音楽的個性の方向に向かって技巧も発達していることが見て取れます。

その点でいうと、大半の日本人のピアノ演奏はまず万遍なく平均化された技巧があって、楽譜があって、それをマスターするついでに音楽的な表面処理をおこなっただけという印象があり、聴く者の心に侵入したり、情感に踏み込んでゆさぶられたり、思わずため息の溢れるような演奏になっていかないのは、至って当然という感じです。
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カテゴリー: 音楽 | タグ:

勘働き

人間には「勘」という優秀なセンサーがありますが、表向きそれはあまり重視されません。
勘というだけでは、まるでただの思いつきのようで、明確な根拠のない主情による決めつけにすぎないというイメージなんでしょうか。

しかしながら、マロニエ君は自分の「勘」をとても重視しており、それは少々の根拠や理屈より一段高い次元を行くものだという位置づけなのです。それは自分の深いところにある何か確かなもの、別の言い方をすると心の奥底にある純粋なものとストレートに結びついている気がするからでしょうか。
この勘が、まるで微弱な電流のように、自分自身に何ともしれぬ信号を送ってくれることがときどきあるものですが、これを巷では「勘働き」というのかもしれません。

つい見落としがちな「勘働き」は、常に人の内面で機能しているのであって、とくに人間関係においは真価を発揮するものだといえるでしょう。どれほど立派で好感度あふれる人でも、どこかしっくりこない、違和感がある、などと感じるのはまさにこの「勘働き」というセンサーが何かをキャッチしているからだと思われます。

にもかかわらず、人間はやむを得ぬ事情や損得が絡むと、この勘がしらせてくれている信号をないがしろにしてしまうことがしばしばありますね。
目先の欲得やメリット(のようなもの)を優先し、自分に都合のいいように後付けの理屈を並べて正当化し、論理・心理両面の取り繕いをしますが、それはほとんど場合、意味のないごまかしに過ぎません。

マロニエ君も歳を重ねるにつれ、物事を熟慮するようになった…とはさすがに言いかねますが、それでも今ごろやっとわかったことも少しはあって、そんな経験からもこの「勘」にはできるだけ逆らわないよう心がけています。それは結果として、勘というものの正しさの確率が圧倒的に高く、そこに信頼の重きを置かざるを得ないからにほかなりません。
とくに信心する宗教もなく、風水だの何だのの類に頼っているわけでもない中、この勘働きは自分が間違った方向にできるだけ進まないための、ささやかな道標のひとつになっている気がします。

また自分のささやかな経験を振り返っても、この勘に逆らい、別の理由で押し切って前進したときは、まあ大抵はあとで失敗していることがわかります。

最近もこの「勘働き」の正しさを証明するような、あっと驚くことがあったのですが、これはさすがに具体的なことは書けません。ただ言えることは、10数年前からずっと違和感を感じていて、一度もそれが晴れることがなかった某氏(しかもその人の職場では才能を認められ、長らく信頼され、厚遇されていた人物)が、最近になってついにメッキが剥がれたのか、20年近くも務めた職場を、きわめて礼を失するやりかたであっけなく辞めていったという話で、そこの社長さんから最近聞かされて驚いたものでした。
マロニエ君としては、長い時間を経て、自分の感じていたことがようやく日の目を見たようで、おかしな言い方ですがある種の勝利感みたいなものを感じてしまいました。

このとき、あらためて自分の勘に従順でなくてはならないことを悟りました。

今どきは、表向きはきわめて温厚で好人物のようにふるまいながら、そのじつ野心的な計算高さと演技が見えてしまう人がとても増えたように思います。
まあ、それはそれでこんな時代を上手に生き抜くための術なのかもしれませんが、それを単純に信じれば、あとで手痛い思いをするのはこちらですから、油断は禁物。そして勘こそが頼りだとますます感じるわけです。

動物が災害などをいち早く察知するのも、やはりこの「勘働き」ではないかと思いますし、そういう機能が人間にも僅かに残っているのだとマロニエ君は思うのです。

三島由紀夫の『金閣寺』にも、こんな一文がありました。
「感覚はおよそ私をあざむいたことがない。」
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