デリカシーの妙

『オリジナル・プレイエル2台で弾くショパンのピアノ協奏曲』というCDを買ったのはいつの事だったか…よく思い出せません。
マロニエ君にとっては、プレイエルという特別な名前に心惹かれたこと、さらにはこういうCDは目の前にある時に買っておかなくては、そのうち…なんて思っていたら二度と自分の手に触れることができなくなるということを苦い経験で知っていたので、とりあえず買うだけ買ったものの、プレイエルといってもフォルテピアノなのですぐには聴かずにほったらかしにしていました。

存在さえ忘れていたところ、つい先日、山積みになったCDの下の方からひょっこりこれが出てきたので聴いてみたら、すっかりこれにハマってしまいました。

ここで白状してしまうと、マロニエ君はフォルテピアノというのがあまり好きではありません。
クラシック倶楽部のような番組で放送されるぶんには聴くこともあるし、わけてもアンドレアス・シュタイアーのような名手の演奏は素晴らしいと思います。でも、じゃあCDを買うかといえば、ゼロではないがなかなか…というところです。

歴史的な意味や、ピアノの祖先としての価値はわかっていても、積極的に聴きたいというほどの欲求にはならないし、古楽器奏者たちの醸しだす、自分達こそ正しいことをやっているんだというようなあの宗教家みたいな雰囲気も苦手です。

プレイエルについては、モダンピアノの時代になってからのものは大好きで、コルトーのCDなどはむろん彼の演奏を聴くためではあるけれど、それはプレイエルの芳しい音色ともセットになっています。
このせいで、好きでもない日本人ピアニストのショパン全集を出る度に都合12枚も買ってしまったのも、ひとえにプレイエルの音を楽しみたかったからにほかなりません。
いっぽう、時代物のフォルテピアノはというと、古ぼけた骨董の音を聴いているようで、どうも自分の求めるものではないという印象から抜け出すことが難しい。ポーランドのショパン協会が関わるCDにも、ショパン存命の時代のエラールを使ったものがいくつもリリースされているけれど、フォルテピアノでおまけにエラールというのでは購入する気になれません。

さて、それで購入から数ヶ月を経て初めて聴いてみたこのプレイエル2台によるCD。
2台のピアノのうち、1台は1843年(ということはショパンが亡くなる6年前に製造された)の平型で、これがピアノのソロパートを弾いているのに対し、オーケストラパートは1838年製のピアニーノ(アップライト)が使われているというのも大変珍しいものです。

演奏はスー・パクとマチュー・デュピュイという二人のピアニスト。

第一印象はやけにパワーのない、地味で精気のない演奏という感じではあったものの、まずは耳慣れたモダンピアノとの違いからくる違和感を乗り越えなくてはと思い、まあ待てと聴き続けていると、予想より早くこれらの楽器の音や演奏に耳と気分が馴染んでいきました。

感心したのは、さすがはプレイエルというべきか、モダンのプレイエルの音に通じる独特な声があって、構造も何も違うにもかかわらず、両者には共通する個性がはっきり聴き取れることに驚かされました。
マロニエ君はモダンのプレイエルにこの19世紀の音を重ねているけれど、本来はむろん逆で、この音をモダンピアノになっても継承されているというのが順序です。

柔らかさ、明るさ、伸びのよさ、それに軽やかでありながら常に憂いの陰が射しているところも、まぎれもなくプレイエルのそれでした。
オーケストラパートを受け持つピアニーノというアップライトは、これがまた味わいのある音で、さらに柔らかく、ほわんと宙に浮くように響くあたりは、とうてい現代のピアノから聴こえてくる音色ではないのは驚くばかりでした。

こうして、ショパンの生きた時代のプレイエルの音を聴いていると、ありきたりな言い様ですが、まさにショパンがお弟子さんと二人で自分のコンチェルトを演奏している様子というのは、おそらくこんなものだったのではないかと空想しないではいられませんでした。
しかも、誰のためということでなしに、ただ自分のために弾いているような、あくまでも私的でプライヴェートな響きというか、もっと直截にいえば孤独感に満ちていて、ショパンの生の息遣いに触れられたような気になりました。

演奏は趣味もよく、終始センシティヴ、決して楽器の限界を超えるような弾き方ではない点も見事。

とりわけこの時代のピアノのもつ「軽さ」は魅力で、現代のピアノは素晴らしい反面、あまりにリッチな高級車のようで、作品に対してそのリッチさがそぐわない面があるのも認めないわけにはいかないようです。

こういう演奏を聞いていると、フォルテピアノをもうすこし聴いてみようかという気になりました。
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体格からくるもの

何事においても身体的条件というのはあるわけで、コンサートピアニストにもそれは該当すると思います。

先日のギャリック・オールソン、そのあとに聴いたロジェ・ムラロのラヴェル、いずれも大きなピアノが少し小さく見えるような大男でしたが、彼らの演奏から出てくる音のある部分には共通したものがあります。
それは大雑把に云うと体格による力が強すぎて、ピアノの音の最も美しい部分をはみ出してしまうというもの。

さらに言うと、やはりあまりに大柄な人は、やはりどこか繊細さに対する感性が違うのか、大きな背中を丸めて小さな刺繍のようなことをやっているみたいだったりで、どうもピントが合わず、聴いていてつまらないというか、おさまるところにおさまっていないものに接しているような違和感がつきまといます。

逆に、小兵ピアニストにも特徴があります。

あくまでマロニエ君の好みとしてですが、極端に小柄なピアニストも、見ていて心底いいなぁとおもえるような人はあまりいないし、いるかもしれませんが、少なくともパッと思いつくような名前はありません。

それは楽器に対するバランスの問題につきるのだと思います。あまりに小柄だとハンディを補強しようとしてきつい音になり、弾き方や音楽もやけに攻撃的になったり…。
そうそう、書きながら唯一思い出した、小柄でも認めざるをえないピアニストとしてはラローチャがいましたが、その彼女でも音の問題は例外とはならず、やはり鋭角的で多少叩きつけるようなところがありました。

彼女のお得意のスペイン物においては、作品が情熱的で奔放なのでそれがマッチして説得力を帯びることも少なくなかったけれど、ベートーヴェンやモーツァルト、ショパンなどになると、やっぱり彼女の音質やタッチが気になったものです。
とくにコンチェルトになると一層力むためか、叩き出すフォルテが連続し、ずいぶん昔の来日公演では皇帝を演奏中に弦を切るというハプニングもあったほど、手首から先を硬直したように固め、落下速度にものをいわせて叩くので、弦にかかるストレスも大きいのかもしれません。

また小柄な人は、いわば小さなメカニズムで音を出すためか、表現の自由度が狭まり、楽器を朗々と鳴らすことが難しいように思われます。全体への目配りが疎かになると、音楽もどうしてもせかせかした小さなものになります。

もちろん個人差や例外はあることはいうまでもありませんが。
それを承知で、マロニエ君の好みをあえて大別していうなら、身長170~180cm台前半ぐらいの、どちらかというと標準から少し痩せ型の体格をもった男性ピアニストの音を好んでいるような気がします。
女性でも音の美しい方はおられますが、身長はせめて160cm以上ないと、みずみずしい美音はなかなか出せないような気がするのですが、こんなことを書くと叱られそうな気もします。
あくまで一般的平均的な話として捉えていただけると幸いです。

ただ、いずれにしても小柄な女性(男性)がちょこんとコンサートグランドの前に座って、悲壮感を漂わせながら腕や頭をふりながら熱演するのは、聴いているほうまで苦しみを背負わされるような気になるので、できればあまり聴きたくありません。
これと同じように、ピアノが小さく見える大男による、フォルテのたびにピアノの大屋根がゆらゆら揺れるような演奏も好きではないのです。

これ、楽器のほうのピアノにもいいサイズというのがあるのと同じです。
コンサートグランドも280cm越えてしまうと、持て余し気味のゆるい楽器になるし、小さなグランドピアノは、小型犬のようにワンワンと吠えまくってうるさいのと似ている気がします。

もちろん、中にはスタインウェイのS型のように、そんな常識をまったく寄せ付けない例外もあるにはありますが…。
例外といえば、ラフマニノフは偉大なる例外のひとりなのかもしれませんね。
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背後のオーラ

つい先日、知人と食事に行った時のこと。

自然の素材を使ったヘルシーな食べ放題という店に行き、テーブルに案内されて一息つき、それから料理を適当に取って席に戻ってきた時のこと、知人がなにか言いたげですがこの時点ではまだ何も言いません。

なんだろうと思って尋ねると「後で…」みたいな表情をするので、深追いはせずそのままとりあえず食べてはじめました。
数分ほどした時、知人はチャンスと思ったらしく「今いないけど、うしろの女の人、すごいね」というので、なんだろうと思って恐る恐る振り返ると、そこに女性の姿はなく、どうやら料理を取りに行っている様子。

テーブルの上は皿(ここは大皿はあまりなく、小型の皿に料理ごとに取るスタイル)やカップ類があふれており、長椅子の隅にはハンドバッグが置かれていて、また戻ってくる状態のようです。

ほどなく、女性があれこれの料理を手に戻ってきましたが、マロニエ君はちょうど背中方向なので、いちいちの状況まではわかりません。ただ、こちらも席をたつ時などにそれとなく見ると、30代後半ぐらいの痩せ型の女性が、もくもくと一人で食べており、そこだけちょっと違う空気が漂っていることはすぐにわかりました。

その後も、知人はときどき小さな声で「また行ったよ」などと、その女性の様子が気になって仕方ないようです。たしかにその食べている量はちょっと普通では考えられないものだし、びっくりしたのは、デザートを食べたかと思うとまた普通の料理に戻ったりと、いわゆる世に言う「大食い」の人だろうと思われました。

ただそれだけなら、まあ世の中にはそんな人もいるのだろうという程度で笑って終わりなのですが、その女性から出ている負のオーラみたいなものが尋常ではなく、それがとても気になりました。
むろんひとりなので笑顔にならないぐらいはわかるとしても、その目つきは周囲で目立つほど暗くて厳しく、食事をしているというより、なんだか差し迫った深刻な行為に挑んでいるかのようでした。

その後も何度も立って行ったり戻ってきたりの繰り返しでしたが、しだいに他のテーブルとのちがいに気づきます。
それは、この店には何人もの女性スタッフがいて、そばを通るたびに空になった皿を「お下げしてよろしいでしょうか?」といいながらササッと引き取っていって、テーブルには食べているもの以外の皿類があまりたまらないようにしてくれるのですが、なぜか後ろの女性のテーブルには食べ終わった皿やカップがあふれていて、店のスタッフがあえてそのテーブルには近づかないようにしているらしいことがわかりました。

想像ですが、おそらくこの女性は店側からマークされている人物で、だから片付けに関しても他のテーブルとは対処が違うのだろうと思いました。
こうなるともう、そういうことの好きなマロニエ君としては気になって仕方がありません。

テーブルの上の食器はたまる一方で、皿を何枚も重ね、その上にカップ類を上積みするなど、かなり荒れた状態です。

その後しばらくすると、知人が「…戻ってこないよ」といい、みるとその女性はいませんが、バッグはしっかりあるので帰ったわけではないようです。しかし、なるほど今度は不自然なほど長時間戻ってこなくなりました。
「おかしいよね」などといいながら、こちらもデザートなどを取りに行きますが、その女性の姿はもうどこにもなく、まるで消えたかのようでした。

テーブルに戻ると知人が「あれみて」というので通路側をみると、柱に張り紙がしてあり、「お客様へ お手洗いに行かれる際にはスタッフにお声をおかけください」と書かれた紙がラミネート処理されて貼り付けてありました。
どういう意味かわかりませんでしたし、今もわかりませんが、もしかしたらその女性はトイレに行ったのではという気がしてきました。しかし、ついに我々が店を出るまでの最後の20分ぐらい、その女性が不在のままこちらのほうが店を出ることに。
なので、残念ながらその後どうなったのかはわからずじまいで中途半端な気分。

マロニエ君も知人も考えたことは同じで、トイレで…胃をカラにしてまた食べるのではないかと思いましたが、おそらくあの調子では、なんにしても相当に普通ではない行動をとっていると思われました。

テレビでは大食いタレントみたいなのが出てきて、ワイワイやりながら面白おかしく食べていますが、現実に目にする名も無き大食いさんは、近くにいるだけで怖いようなオーラに包まれていました。
もしかするとある種の病気なのかもしれず、だとしたらお気の毒でもありますが、少なくともお店からは嫌がられることは間違いありません。

やっぱり世の中にはいろんな人がいるんだなあと当たり前のことを痛感しました。
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BSでシャオメイ

6月の終わりにシュ・シャオメイのゴルトベルクの新録音を買って聴いて、7月に入ってまもなくこのブログに感想を書いたばかりでしたが、それからわずか1週間後のこと、BSのプレミアムシアターでなんとシュ・シャオメイのドキュメントと演奏会の様子が続けて放送され、そのタイミングにぎょっとしてしまいました。

シャオメイは文革が終わったのち、1980年に渡米しさらにパリへ移住、いらい現在も同地で暮らしているとのこと。

そういえば、シャオメイの最初のゴルトベルクやパルティータなど手元にあるCDはフランスのMIRAREレーベルからリリースされているので、彼女のこんにちの名声はフランスによって発掘され育てられたものなのだと思われます。

その彼女が、周りの人々のすすめによって36年ぶりに中国に戻り、上海、北京はじめ幾つかの都市コンサートをする旅にカメラが同行したものでした。

上海生まれの彼女は、現在のこの街を見て「まったく別の場所、自分が生まれた家がどこかもわからない」といっていますが、たしかに現在の上海の恐ろしいような都市化ぶり(うわべの)を一度でも見た人なら、むべなるかなと思います。

中国では、実の姉妹、昔の恩師や友人などに出逢い、そのたびに互いに感激を噛みしめていましたが、長年中国に住み続けた人と、そうでない人の違いが如実に出たのが文革に関することで、シャオメイが「あの頃は…」とか「みんな死んでいなくなった」というような言葉を口にすると、相手は一様に苦笑いをするだけで、その問題には口をつぐみ何一つ言及しませんでした。

中国ではいまだに文革や天安門事件のような出来事はタブーだそうで、それに関する発言も書物も資料も厳しく制限されているらしいので、そのあたりの微妙な肌感覚は30年以上外国で生きてきたシャオメイにはうかがい知れない暗黙の空気感なのでしょう。

演奏の様子は、ドキュメントでも随所に織り込まれましたが、この帰国ツアーの最大の見せ場である北京でのコンサートの様子が、ドキュメント終了後に放送され、ゴルトベルク変奏曲全曲を視聴できました。

CDでは数知れず聴いているシャオメイのゴルトベルクですが、一発勝負のライブでは、CDとはかなりその様子は違ったものだったのはいささか落胆を覚えたのも事実でした。

むろんシャオメイらしい深い味わいや慈しみ、ジメジメしないセンス良い演奏表現など、彼女の美点にも多々触れることができましたが、コンサートでの演奏はやはりゴルトベルクがあまりに演奏至難かつ大曲であるためか、想像以上に乱れがあったことは事実であったし、正直言って全体のクオリティは満足の行くものではありませんでした。
CDに批判的な人に言わせれば「ほーら、だからCDはウソなんだ」ということだと思いますが、それでもマロニエ君はそんなふうには思いません。CDは問題箇所を録り直しなどをして、悪く云えばつぎはぎであるとも否定できませんが、それでもその人の最良の演奏を記録して編集したものであることから、繰り返し聞くにはやはり相応しい価値を有するものだと思います。

ただ、この人にあとひとつ欠けているものは残念なるかなテクニックだと思いました。
マロニエ君はいまさらいうまでもなく決してテクニック重視派ではありませんが、でも、安心して聴かせてもらえるだけのテクニックはないと、技術的問題で絶えずハラハラさせられたり不満を覚えてしまうようでは、プロの演奏に接する意味がないと思っています。

ドキュメントで驚いたのは、大バッハが眠るライプツィヒの聖トーマス教会でも、ピアノと聴衆とカメラを入れて、ゴルトベルクを弾いている様子が何度か出てきたことです。お見受けするところ、シャオメイ女史は非常に謙虚で誠実で音楽のしもべのようなお方のようですが、よりにもよってそんな大それたところで演奏するというのは、別に非難しているわけではないけれども、その度胸は並々ならぬものだと思いました。

シャオメイとは直接関係ないことですが、上海でも北京でも美しいホールが完備し、そこには新しめのスタインウェイDが当然のように備えられていて、北京のコンサートホールではステージに2台並べてピアノ選びのようなこともやっているほど、この面に関しても中国は急速に先進国の基準に達しているようでした。
達しているといえば、調律も以前とは違って非常に真っ当なもので、極上とまでは思わなかったけれども、聴いていてなんのストレスもない上質なものだったことは非常に印象的でした。

予定プログラムより、アンコールのほうが出来がいいというのはままあることですが、このときもやや苦しさを感じないわけにはいかなかったゴルトベルクよりは、拍手に応えて弾いたバッハ=ブゾーニの小品は、呼吸も整ってとても密度の高い、心打つ佳演でした。
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ギャリック・オールソン

今年5月、浜離宮朝日ホールで行われたギャリック・オールソンのピアノリサイタルをクラシック倶楽部で視聴しました。
曲目はベートーヴェンのソナタop.110、ショパンのエチュード、ノクターン、バラード、アンコールにラフマニノフの前奏曲。

何と言ったらいいか、言葉を考えるけれど…なにも出てこない。
その理由を考えたら、言えることはただひとつ、要は「何も感じなかった」からだろうと思います。
ベートーヴェンは魅力はないもののある程度まともな演奏だったのに対して、彼が得意とするはずのショパンは奇妙な演奏でただもうぽかんとしてしまいました。

マロニエ君としてはまず第一にがっかりなのは、音の美しくないピアニストだということです。
そして大味。
ショボショボした冴えない音か、割れるフォルテかのどちらかで、聴いていてまず音そのものに不満がくすぶります。やはりピアノを聴く以上、演奏や楽曲のことも重要だけれど、根底のところでは美しいピアノの音を楽しみたいという欲求があることがいまさら自分でわかりました。

ポツポツと切れるフレーズ、横線やカーヴとしてうねらない音楽、大切なポイントとなる音は素通りするかと思うと、意味不明なところで変なアクセントをつけて強調してみたりと、この人の意図がまるで解せません。

とくにショパンは、危機感を煽られるほどスローなテンポであるし、この人なりの個性や味わいもまったく見いだせないもので、マロニエ君の耳にはショパンどころか、自己満足的な一人芝居でも見ているようでした。

唯一やや共感を覚えたのは、13番ハ短調のノクターンで、途中から転ずるアルペジョの連続からフィナーレにかけての劇的な部分を、それを強調せずむしろやわらかに弾いたことでしょうか。
この部分を大半のピアニストは静かで孤独感あふれる前半を序奏のように奏し、それに対して激烈な後半というふうに弾くことに決めているらしく、ほとんどノクターンという前提などかなぐり捨てて、まるでスケルツォのように激しくピアニスティックに弾くのが通例となっているのはなぜなのか。かねがねマロニエ君はこのやり方に違和感を覚えていたし、ショパンにしては直情的でさほど洗練されているとも思えないこの作品がなぜ人気曲であるかも理由がわかりませんでした。

その点、オールソンは延々と続く和音の連打をぐっと抑えこんで、悲壮感あふれる旋律を静かに強調していたことはせめてもの救いでした。

とはいうものの、全体としてはあまりにも表現のポイントが定まらない、少なくとも聴いている側にしてみれば、演奏を通じてどういうメッセージを受け取ればいいのか、まったく見えない演奏だったように思いました。

とくにショパンの演奏に必要な美音、デリカシー、密度、シックなセンスなどは、この古いキャデラックみたいなピアニストには求めるほうが無理なのかもしれません。
いまさら古い話を蒸し返してもしかたがないけれど、46年前、なぜこの人がショパンコンクールで優勝したのか今もって不思議でなりませんし、2位だった内田光子が優勝していれば、その後の両者の活躍からしてもどんなにか収まりがよかっただろうと思わずにはいられません。

番組冒頭で紹介されたオールソンのプロフィールでは、「古典から21世紀まで80曲に及ぶピアノ協奏曲を演奏。膨大なレパートリーを誇る演奏家として活躍を続ける」とありましたが、それは、すごいことかもしれないけれど聴く側にはあまり関係のないことで、8曲でもいいから、なにか特別な魅力ある演奏であってほしいもの。

さらに驚いたのは本人の言葉。
「ショパンへの思いは、10代のころ直感的に湧き上がってきました。」「私と相性がいいと恩師が言い、水を得た魚のような感覚…」「最初のレッスンであなたは生来のショパニストだ。なんと素晴らしい才能…」等。
どうやらこの人は、ショパンにかけては特別な自負をお持ちと思われますが、演奏からそれを納得することはついに出来ませんでした。

今年5月の来日では福岡公演もあったようで、知人から「ギャリック・オールソンが来ますね。行かないんですか?」と聞かれたこともありましたが、マロニエ君はよっぽどのことでもない限り地元のコンサートは行かないことに決めているので行きませんでしたが、もしもそのよっぽどのこと(付き合いやらなにやらの事情)で行くはめにならず、とりあえずよかったと胸をなでおろしました。

実際に時間を使って、チケット代を払って、着替えをして、ホールに出かけ、車を駐車場に停めて、座席に座ったあげくにこんな演奏をされた日には、以降2日間はその精神的余波があると思うので、やはりマロニエ君のようなタイプは行かないほうが安全なようです。
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ピレシュの影

NHKの早朝番組『クラシック倶楽部』は、再放送もかなりやるので、ああまたこれか…というのも少なくありません。

以前このブログにも書いたユッセン兄弟の東京公演をまたやっていたので、雑用を片付けながら流していると、前回見たとき以上に、師匠であるピレシュの影響がいっそう強く感じられていまさらですがびっくりしました。

音楽というのは不思議なもので、それに目を凝らし耳を澄ませて集中しなくちゃわからないことがある反面、却って距離をおいて、何かの傍らに聴いたり、車の中のような騒音の中で聴くことで、逆に何か本質みたいなものがスパッと見えてくることがあるもの。
今回はそのおかげでピレシュの色があまりにも強いことにいささか驚いたわけです。

偉大な現役ピアニストの弟子になるということは、そうそう誰にでもあることではないのか、そういう幸運があれば多くの学生はよろこんで師事するのかもしれませんが、この二人の演奏を見聞きしていると、影響を受けるというより、先生の弾き方をほとんどそのまま生徒に移し付けられたような気がしないでもありません。

腰の座らない小動物のような指の動き、ちょっとしたパッセージの奏し方まで、ピレシュそのものというような瞬間がしばしばあらわれ、言い方は悪いかもしれないけれど、この若者まるでピレシュの操り人形になっているようで危険を感じてしまいます。
人はそれぞれ異なる可能性を持っているはずなのに、兄弟揃って、こうした一つの方向だけに染め上げられるというのは、本人達が満足ならいいのかもしれませんが、見ている側はかなりの違和感がありました。
それが気になりだすと、もうそればかりに意識が向いて仕方ありませんでした。

指の動きはパタパタとしなやかさがなく、やけに手首を上下させ、せわしく小さく弾く感じ。
また、なめらかに歌い込む場面や、楽節のポイントとなる音のマーキングや表現の綾の部分などをあえて避けて、パサパサしたコンパクトな音楽にしてしまうのもピレシュの指導だろうと思います。
腹の中で拍をとるのではなく、手首から先でビートを刻み、しばしばイラついたような急激なクレッシェンドを多様するのは、聴いていて迫りというよりもただドキッとさせられるだけで、音楽にゆったり耳を預けられません。

以前、NHKのスーパーピアノレッスンだったか(番組名は忘れましたが)、ピレシュのレッスンの様子をやっていたことがありましたが、そこでのピレシュは、かなり頑なな教師という印象で、生徒の個性を尊重するというよりもやや独裁的で、自分の考えを強く主張し、生徒にすべて従わせるという印象でした。
彼女が言っていることは、尤もなこともむろんあるけれど、全体としては自分の考えでがんじがらめにする感じで、他者を指導するということは、もう少し個性尊重と多様性に対応する幅をとったほうがいいような気がします。

どうやらその印象は間違っていなかったようで、各人が持っている美点を上手く引っ張りだすというよりは、自分のコピーを作ってしまう先生だったようだと、この兄弟の演奏を聞きながら思いました。

それでも、むろんピレシュのほうが本家本元であるぶん風格はあるし主張も強いけれど、そのぶんユッセン兄弟のほうがいくらかノーマルに近いようであるのは多少なりとも救われる気分。

この兄弟、テクニックなどは現代の標準では弱いほうだと思うけれど、それでもなにかを持っていそうではあるし、今後はしだいに自分達らしさに目覚めて、確固たる道を見極め磨きがかかっていくことを期待したいところです。
彼らの活躍の幅が広まるほど、ピレシュの影は問題になるような気がします。
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CFXの魅力

先日のEテレ『クラシック音楽館』では、尾高忠明指揮による5月のN響定期のもようが放送され、小曽根真/チック・コリアのピアノでモーツァルトの2台のピアノのための協奏曲が注目でした。

このコンサートの会場はコンチェルトなどではいつも音が散ってしまうNHKホールだったものの、まったくそれが気にならないほど録音が好ましいもので、クリアかつ音量もあり、やはりこういう録音はやろうと思えばいくらでもできるんだということを証明しているようでした。
クラシックのコンサートというと、やたら小さく詰まったような音で録る場合が多いのは勘違いも甚だしく、ひとえに音楽的なセンスの問題だと思われます。

演奏自体は例によって、随所にジャズのテイストや即興を盛り込んだもので、今回はそれがわりに上手く行っているように感じられ、モーツァルトの原曲をぎりぎり損なうことなく、意外性に富んだ楽しめるアレンジになっているように思いました。
この点は、チック・コリアの采配なのかとも思いますが、そのあたりのことはよくわかりません。

ピアノは二人ともヤマハのアーティストだけに、当然のようにヤマハ。
CFXが2台、大屋根を外された状態で並べられると、いかにも日本製品らしい作りの美しさが際立っているし、大屋根はないほうが2台ピアノの場合、1台だけ外さず開けているいる状態より響きが均等になって好ましく思えます。
好ましいといえば、このときのCFXはとてもいい感じで、このピアノが出て5年以上経つと思いますが、マロニエ君は初めて心から美しいと感じることができました。

そう感じられたについては、録音、演奏、曲、調整などあまたの要素が相まってのこととは思いますが、ピアノそのものもムラなくレスポンスに優れ、明るくブリリアントで爽快感さえありました。
深みのある音ではないけれど、いかにも新しいピアノだけがもつ若々しい音でした。

またこの二人のピアニストは、タッチもわりに一定でダイナミックレンジが少なく、曲がモーツァルトということもあってか、花びらのような音の立ち上がりの良さもあって、CFXのもっとも良いところがでていたように思いました。
重量級の曲になると底付き感を見せたりすることがしばしばであったCFXですが、モーツァルトなどを明るく演奏するには最適なピアノなのかもしれません。

残念だったのは、ピアニストが両者ともタッチの切れがもたついていたこと。
とくにチック・コリアは、かなりのテクニックでならした人かと思っていたら、あれ?と思うような部分がないでもなく、さすがにお年なのかとも思いました。

小曽根さんを聴いていつも思うことは、今どきのピアニストとしてはテクニックは必要最小限でしかないけれど、それでもクラシックの演奏家が持ちあわせない、演奏というものが一過性の冒険で、純粋率直に楽しむことの意味を体験させてくれる点だと思います。
とくにそれをクラシックのステージで実践することは、失ってしまったものをぱっと取り出して見せられているような新鮮さがあって、なぜクラシックの演奏というのは、ああも必要以上に退屈なものにしてしまうのか、そのあたりは考えさせられてしまいます。

旧来のクラシックファンに向かってそういう問題提起をしているだけでも、小曽根さんの貢献は大きいというべきかもしれません。

ついでなので残念な点も書かせてもらうと、小曽根さんがつくづく日本人だと思うのは、彼のビジュアル。
お顔立ちがとっても和風ですが、いまどきヘアースタイルひとつでも、もうすこし彼が素敵に見えるものがありそうなものだと思うし、衣装があまりにダサいのは毎回感じるところです。

このときも昔のカーテンみたいな野暮ったいエンジ色のシャツで、しかも生地に少し光沢があるあたりは、まるで昭和のパジャマでも着ているみたいでした。
とりあえず、そこらのH&Mあたりで上下買ってきて着るだけでもよほど素敵になるような気が…。
とりわけジャズの世界ではスタイリッシュというのはとても大切な要素だろうと思われるので、この点はなんとか、もう少しオシャレというか彼の持ち味が引き立つようなビジュアルにされると、演奏の魅力もおおいにアップする気がします。

つい余計なことも書きましたが、全体を通じてなんとなく印象の良い演奏で、つい2度続けて見てしまいました。
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こわいのはどっち

先週のある夜、福岡市西部にある国道を市内方向に向かって走っていたときのこと。

片側2車線の右車線をマロニエ君は流れに乗って走っていたところ、突如、背後から尋常ではないスピードで迫ってくる車があり、思わず何事かと身構えました。
ほどなくその車(トヨタのコンパクトカー)はマロニエ君の左側から猛然たるスピードで抜き去っていき、その後も右に左に車線変更しながら交通の流れを縫うようにして走って行きましたが、ところがそれに続いてシルバーのクラウンが、さらにその後ろから黒い軽自動車が、同様のスピードでこれに続きました。

驚いたのはもちろんですが、そのゆくえに注目していると、3台は互いにもみあうようにしながら激しく左右に車線を変え、ときに右折車線にまではみ出しながらアッという間に視界から消えていきました。

路上では、一台飛ばす車があると、だんだん周りの車がこれに引き込まれるようにスピードアップし、なんとはなしにバトルのようになることがあるので、はじめはその類かと思いました。しかし3台のスピードはあまりに過激で、なにかトラブルでも起こったあげくの暴走ではと思いつつ、とりあえず先で事故らなければいいが…と思ったぐらいでした。

それからしばらくして、国道と外環状線という幹線道路が交差する大きな交差点(そこでは片側4車線)に信号停車しようとすると、前方にただならぬ気配があり、近づくと、信号停車中の車から何人もの若い男性が降りてきて激しく言い争いをしています。

咄嗟に、さっき追い越していった3台の連中であることがわかり、おお!やっぱりこういうことになったんだ!と思わずヤッタ!みたいな感じで(笑)、信号停車中はかなりジロジロ見物してしまいました。
どうやら、はじめに抜いていった先頭の車のドライバーが中年の男性だったようなのですが、彼を取り囲んで続く2台に乗っていた若い男性たちが興奮した様子で中年男性に詰め寄っており、その中のひとりは相手の襟首まで掴んで激しく揺さぶるなど、まあ早い話が路上でケンカです。
これを見た助手席の友人は「うわぁ、かわいそう…」と口にしましたが、たしかに中年ドライバーが運転上のことで若者とトラブルとなり、多勢に無勢で言いがかりをつけられてるように見えたのが、この瞬間の目撃者としては率直なところでした。

その後、信号が青になり、しぶしぶ現場に別れをつげて走っていると、しばらくして、なんとくだんの中年ドライバーが横をスーッと抜いていきました。
どうやら話がついて若者達から開放されたのか、こちらも内心「…散々でしたね」という気分でいたのですが、そのすぐ後から若者らの2台の車が、嫌がらせのように中年ドライバーの車を次々に追い抜いて走り去って行きました。

まあ、普通ならこれで終わりというところでしょう。
ところが、若者らの2台がいなくなったあとも、この中年ドライバーの車はしきりに右に左に車線変更したり、無理に隣の車線に割り込んだりの異様な動きを続ける始末で、「え、どういうこと?」と呆気にとられました。

ただ単に早く行きたいのであれば、スピード違反の問題は別にして、さっさと行けばいいのに、この人、やたら周りの車を煽るような、見ていてどうしたいのか、まったく理解できないような意味不明な動きを繰り返しており、だんだん、この中年ドライバーのほうが普通じゃないのだということに気づき始めます。

もちろん事の起こりの場面を見たわけではないけれど、この調子では、あの若者たちの車にもこういう動きでけしかけるようなことになったのだろうと思われました。
それで腹を立てて、火がついて、追尾してなんらかの報復をしようと思ったのでしょう。

危険運転は理由如何に問わずいけませんが、少なくとも動機はそうだったのだろうと思いました。

中年ドライバーも大したもので、普通なら路上であれだけ激しい状況となり、交差点で車から降ろされて大勢に取り囲まれ、襟首まで掴まれ面罵されたというのに、その直後、性懲りもなくまだこんな運転をしているのですから、マロニエ君としてはよっぽどこの男性の神経のほうに呆れ返りました。
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シャオメイの再録音

これまで何枚買ったかわからないバッハのゴルトベルク変奏曲のCD。
おそらく20枚以上はあるだろうと思うけれど、数えてみたことはありません。

ゴルトベルク変奏曲のCDは、聴くに耐えないような駄作率は意外に低く、どれもそれなりの仕上がりになっていることは大きな特徴のように思います。なんといっても作品そのものが圧倒的であることと、バッハは他の作曲者より演奏者の自由度が広いということもあって、弾ける人が弾きさえすれば、そうおかしなことにはなりにくいのかもしれません。

そんな中で、自分の好みという点では上位グループの中に、シュ・シャオメイがあります。
シャオメイは中国の文革を生き抜き、その後欧米に飛び出したピアニスト。文革という苛烈な経験の裏返しなのか、その人間味あふれる演奏は他のピアニストとは一線を画すものだと思います。
彼女は1990年頃にゴルトベルク変奏曲をレコーディングしてすでに高い評価を得ており、これはマロニエ君にとっても定盤なのですが、そのシャオメイがつい先ごろ、同曲を再録したものが発売となり迷うことなく購入しました。

さっそく数日にわたり繰り返し聴いてみましたが、なるほどディテールの表現が前作より角がとれ、深まりを見せているように感じられるところが多々あるなど、より自由かつ細密さを増しているのがわかります。
また、なによりもこの記念碑的な作品をリスペクトし、隅々までこまかく気を配っている真摯さが伝わり、四半世紀を経て、現在の彼女の心の内奥を覗き見るようでした。また、ところどころ、解釈の基軸にグールドの存在が見えるようです。

では、旧作に比べてどちらがいいかというと、さらに高まった純度や一段と練られたディテールなどを聴き取ることができるなど、大変に迷うところではあるものの、全体的な印象で言うなら旧作のほうにやや軍配をあげるかもしれません。
やはりなんといっても旧作には全体に新鮮さと活気、音色には温かさと色彩があって、ピアニスト自身にもパワーが充溢していたと思われるし、それでいて人の心に語りかけるような慈しみが充分あって、この点は今でも色褪せることはありません。

新録音ではさらにデリカリーとセンスが上積みされ、新旧2つはかなり拮抗しているというのが正直なところ。
一般論としても、満を持して録音された最初の録音というものには、演奏者自身が気づかぬくらいいろいろな要素が揃っている事が多く、結果、高い評価に至るというのはよくある事です。とりわけ意気込み、燃焼感、構成力などはあるていど若いときの演奏のほうがより充実しているものが少なくない。
それでも、本人にしてみれば反省点や新境地など不満点もあって、再録で問い直したくなるのはわかりますが、同時に前作にあった完成度のようなものが損なわれてしまうということがままあることも事実。

パッと思い出すだけでも、ゴルトベルクを再録したピアニストはグレン・グールド、アンドラーシュ・シフ、コンスタンティン・リフシッツ、セルゲイ・シェプキンなどがあり、グールドはあまりにも新旧違いすぎて単純比較はできないし、個人的にはっきり再録のほうが優ると言い切れるのは、表現の幅を広げて一気に円熟の艶を増したシフひとりで、リフシッツの再録は聴いていないし、あとはシェプキンかなぁというぐらいで、なかなか旧作を明確に上回ることは至難のように思います。

また、旧作はそれひとつで成り立つだけの独立性があるのに対し、再録というのは、あくまで旧作あっての再録という側面が少なくないようにも思います。

シャオメイの再録に話を戻すと、聴く者を惹きつけ、作品もしくは演奏世界に誘う力は旧作のほうがやや強かったように思うし、色彩感もこっちだったような気がします。新しい方はより独白的で、色彩もモノトーンというか、あえてモノクロ写真にしたような印象を受けました。尤もこれらはちょっとしたマイクの加減、調律の違いなどでも変わってしまうことがあるので、シャオメイが意図したものかどうかは計りかねますが。
いずれにしろ、シャオメイというピアニストは中国人ピアニスト(それも文革の世代の!)とは信じられないほど、中華臭のしない、音楽的には中道で誠実な演奏をする人という点で、稀有な存在だと思います。

毒のある魔性の芸術家も好きだけれど、こういう良心的な人柄そのもののような演奏もいいものです。

ライナーノートを見ると、ピアノについての記述があり、「For this recording a Steinway D274 was used.」と、中古というか、新しいピアノでないことがわざわざ記されていました。
録音はドイツ、レーベルはAccentus Musicですが、ピアノチューナーのところにはKazuto Osatoという日本人らしき名前がありました。
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