アヴデーエワのCD

ユリアンナ・アヴデーエワの新譜を買いました。
といっても動機は甚だ不純なもので、天神に出た際、駐車場のサービス券ほしさにCD店を覗いたのですが、近頃は店頭在庫もこれといったものはいよいよ少なく、限られた時間内に、強いて選んだ一枚がこれだったというわけです。

昨年9月にドイツで録音されたもので、内容はショパンの幻想曲、続いてなぜかモーツァルトのソナタニ長調KV284、さらになぜかリストのダンテを読んで、さらにさらにヴェルディ=リスト:アイーダより神前の踊りと終幕の二重唱ときて…これで終わり。
まずこの曲目の意図するところがわからない。
いろいろな意味や考察があって並べられたものかもしれないけれど、マロニエ君には一向にそれが意味不明で、なんの脈絡もない4曲がただ並んでいるだけといった印象しか得られません。実際に何度聴いてみても、なんでショパンの幻想曲の後にモーツァルトのこのソナタがくるのか、さらにそこへリストのダンテソナタやアイーダの編曲が続くのか…流れとか収まり、選曲の意図がまったくわからず、いつまでも首をひねりたくなるものでした。

演奏は、技術的には大変立派なもので、しかもすべてが知的かつある種の暖かさみたいなものさえある仕上がで、並み居るピアニストの平均値から頭一つ抜け出たものだと、まずその点は思います。
では、聴いていてストレートに素晴らしいと感じるかというと、非常に端正だけれど本質的にピアニズム主導で聴かせる技巧人という域を出ることがなく、一流職人の仕事を見せられるようで、有り体に言えばわくわく感がまるでありません。

予め綿密なプランを立てた上での、意図した通りの演奏であるのかもしれないけれど、あまりにその演奏設計が前に出すぎていて、音楽自体に生命感がないし閉塞感みたいなものを覚えてしまいます。

解釈や構成、さらには実際の演奏の進め方まで緻密に練り込まれているため、ピアニズム主導といっても単純な腕自慢をするようなあけすけな技巧ではないところがアヴデーエワの奥義でしょう。あくまで知的フィルターがしっかりとまんべんなくかかっていて、だからえらく思慮深い演奏のようには聴こえるなどして、そういう捉え方をするファンも多いのかもしれません。

もとより演奏の精度はとても高いし、音も豊かで上質感もあるなど、演奏評価を決定づける要素がきれいにそろっているために、さしあたりすごさを感じて欠点らしいものは見当たりません。ところが、それがよけいにこの人の演奏にまとわりつく違和感を増幅させ、それは何かと躍起になって原因を探しまわることになるようです。

充実した余裕あるタッチのせいか、誇張して言うと、どの曲を聞いてもいつも立派なので却って変化に乏しく、さらにいうと一つの曲の中でも起承転結の実感がなく、どこを取っても同じような調子に聞こえてしまいます。むらなく立派すぎることで躍動感を失い、音楽が均一になっているというべきか。

演奏というものはどんなに周到に準備されたものであっても、最後はその瞬間に反応する「発火」の余地を残していなくては、いかに立派なものでも予定調和に終止するだけとなり、聴く側も真の喜びには到達できず、有り体にいうとわくわく感がありません。

その点でアヴデーエワの演奏は、「策士、策に溺れる」のたとえのごとく、「プランナー、プランに溺れ」ているのではないかという気がするほど、前もって音楽を作りすぎており、それがこの人の最大の欠点のように感じるのです。
どんなに高揚感を要するフォルテシモやストレッタにおいても、それはあくまで奏者のコントロール下に置かれ、絶えず抑制感がついてまわるのは、マロニエ君の好みから言うと却って欲求不満に陥り、ストレスを誘発してしまいます。

尤もこれはいうまでもなくマロニエ君の個人的な感想なのであって、ピアノ演奏においても、ひんやりと黙りこんだような最高級工芸品的な仕上がりを望む方には、アヴデーエワの演奏はお好みかもしれません。

マロニエ君なんぞはさしずめ作りたて揚げたてのアツアツ感がないと、音楽を音楽として堪能することができないのだろうと思います。
むろんこれは、音楽はライブに限るというあれとはまったく違うものです。
何十回録り直した録音でもいいから、このアツアツ感だけは必要だと思っているわけです。

それにしても、耳慣れたはずのモーツァルトのソナタKV284が、こんなにも長ったらしい、あくびの出るような曲であったとは初めて知りました。
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ピアノつきトーク?

コンサートに行かないという禁を自ら破ってあるコンサートにいったところ、とんでもない目に遭いました。

言い訳のようですが、コンサートといっても楽器店が開催するイベントの中に組み込まれたものだったので、ちょっとした余興のようなものだろうと軽く考えていたのがそもそもの間違いでした。

このコンサートを聴くことになった理由は、知人とそのイベントそのものを覗いてみようということになり、曜日と時間をすり合わせた結果がたまたまコンサートにぶつかるタイミングになったという、それだけのことでした。
楽器店に問い合わせると、その時間はコンサートを聴かない人は展示会場にも入れないし、いても退出させられるということで、やむを得ずチケットを買うことに。

その日に登場するピアニストは、これまでテレビで数回その演奏を見たことはあったけれど、興味ゼロ、できるだけ早く終わってくれればいいという気持ちでした。
そこそこ有名なピアニストであるし、チケットを購入して聴いたコンサートなのだから名前を出してもいいのでしょうが、あまりにも驚いたし、わざわざ名指しで批判する必要もないのでそこは敢えて書きません。

味わいも説得力もなにもない、感性の欠落した「美しくない演奏」が堂々と目の前で続いているということが、悪い夢でも見ているようで、そこにいる自分というものがなぜか哀れに思えました。
技術以外はシロウトと大差ないというのが率直な印象でしたが、それでもその技術のおかげで、どの曲も音符をさほど間違えることなく最後まで行くところがよけい始末に悪い。
というか、シロウトでも本当に音楽を愛する人の演奏には、どこかしらに聴くに値する瞬間があるものですが、そんなものはかけらもありません。
いっそテクニックがめちゃめちゃだとか、ミスやクラッシュが続出といった演奏ならまだ諦めもつきますが、表面的には「ちゃんと弾いた」ことになり、中には満足した人もいるのかもと思うと、そこがまさに音楽の中でまやかしがまかり通る部分ということになり、頭がクラクラしてきます。

皮肉ではなしに、ああいうものでも素直に楽しめる人というのは、素直に羨ましいとさえ思いました。
どうせ同じ時間を過ごすなら、楽しめるほうが絶対に幸福ですから。

繰り返しますが、このコンサートはイベントのオマケのようなものと考えていたところ、実際はトーク付きの2時間半にも迫ろうという長丁場で、その間、マロニエ君は久々にこの種の忍耐を味わうことに。
音楽は、まさに「音」の芸であるから、ひとたびそれが自分の感性に合わないものになったが最後、猛烈な苦痛となって神経に襲いかかり、ひいては身体までも攻撃するものになることをリアルに実感しました。

自分一人なら、間違いなく途中で席を立って帰っていたところですが、なにぶんにも連れがあったため、その人を道連れにすることも、置き去りにすることもできず、脂汗のにじむ思いで石のようになってひたすら耐えに耐えました。

さらに堪らなかったのは演奏ばかりではなく、このピアニストはよほど人前でのおしゃべりがお得意のようで、ほとんど内容のない超長ったらしいトークが最初から最後までびっしりと織り込まれて、こちらのほうがメインかと錯覚するほどでした。

実際、この方は話している内容はともかく、語り口は今風のソフト調で声も良く、お客さんに向かっていやに低姿勢かつフレンドリーに語りかけるあたりは、ピアノよりよほどなめらかで自在な表現力をお持ちのようでした。ほとんどマスコミ系の人のようで、いっそテレビ局にでもお勤めになったほうがしっくりくる感じです。

この日は、マロニエ君にとっての悪条件が幾重にも重なって、よほど強いストレスで脳が酸欠を起こしたのは確かで、苦しい生あくびが際限もなく続き、節々は傷み、呼吸が苦しくなり、両目は充血し、疲れ涙が目尻に溢れているのが自分でわかりました。

2日も経つと疲れも癒えてきて、モノマネが得意なマロニエ君は、すっかりこの方のトークをマスターしてしまっていて、すでに何人かには聞かせたところ、ずいぶん笑っていただきました。
というわけで、これほど疲労困憊してまでネタを仕込みに行ったというのがオチなのかもしれません。
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オリンピック

ついこの前リオ五輪が始まったかと思ったらもう終わりのようで、いったん始まると毎日スラスラと競技が進んで、ずいぶんあっけないものだなというのが率直なところ。

オリンピックの話題となると、日本人選手の活躍をことさら興奮気味に一喜一憂しなくちゃいけないのがお約束のようで、そういうわざとらしい空気には閉口しますが、とはいっても、マロニエ君とて人並み(かどうかはわかりませんが)に応援の気持ちは持ち併せており、さらに日本がメダルを取れればむろん嬉しいわけです。
だからといって開催期間中つねにワクワクし、夜中までテレビ中継を見るというようなことはありませんが。

ただ、テレビのニュースやワイドショーはというと、冒頭から大半がオリンピック関連で連日独占状態になってしまうのは番組のつくりとしていささか抵抗を覚えてしまいます。そうまでせずとも、オリンピックの番組はNHKも民放も、連日充分すぎるほどあるのだから、せめて通常のニュースなどでは、やはりそれ以外の出来事にももう少し触れて欲しいと思いました。

マロニエ君はもともとスポーツはあまり得意ではないし、率直に言ってさほど興味もないほうなので、ことさらそういうふうに感じるのかもしれませんが、オリンピックの他にも、さらに高校野球、プロ野球と重なると、世の中いささかスポーツにまみれ過ぎでは?という印象。
なぜスポーツばかりにこうも力がはいるのか、正直まったく理解ができないし、その点じゃ息苦しさがあることも事実です。

非スポーツ系人間にいわせれば、スポーツがあまりに大手を振って世の関心の中心であるのは当然といわんばかりに闊歩するのは、あまり気持ちの良いものではなく、いつも黙ってガマンしている種族もいることは、きっとスポーツ好きの人達はご存じないでしょう。

わけてもオリンピックというのは別格中の別格らしく、この言葉の前にはすべてを薙ぎ倒してしまう力があるらしいのは驚くばかりです。

先の都知事選しかりで、「2020年の東京オリンピック・パラリンピック」が枕ことばとなり、あとは高齢化社会と待機児童問題が必須とばかりに語られる程度で、オリンピックがとにかく一番エライことには変わりありません。

予算も天井知らずに膨れ上がり、あんなもの、都民国民が納得するはずはない。
よほど悪い連中がオリンピック特需によだれを垂らしながら我も我もと群がっている結果としか、誰だって思えません。
オリンピックとはようするに世界の総合運動会じゃないかと思うのですが、あの五輪のマークさえつけば、どんな無理も通ってしまうのは怖いです。

現今はテロの標的にさらされる危険があるので、その対策に要する人件費だけでも途方もない金額になるなどとも言いますが、そうだとしても、たかだか半月ちょっと開催されるワールド運動会に開催都市が天文学的予算を組むだなんて、マロニエ君に言わせれば悪乗りが過ぎるというもので、ナンセンス以外のなにものでもない。

ついこの前、開会式を見たのに、すでに小池さんは閉会式で旗を受け取るべく現地入りされたようで、「さあ次は東京!」というところでしょうが、たかだかスポーツイベントのために何兆円も投じるなんて、ある意味なんとヤクザな金の使い方をするのだろうという気がして仕方ありません。
逆にいうと、祭りとはそもそもヤクザなものなのかもしれませんが。
東京オリンピックだって、始まればあっという間に終わってしまうのに…。

それはそうと、終盤になって日本のレスリングやバドミントンなど、ドバドバっと金メダルをとったのはすごかったですね。
総じて、女性はメンタルが強いし、言動もサバッとしていてさすがだと思いました。

対して男子のほうは(全員ではないけれど)いちいち執着的で、それを自分の口から言うか…と思うようなことをあえて言ったりと、なにかとねちっこいですね。

そういう意味では、これからはメンタル面、サバサバ感、実効性などさまざまな観点からも、女性が社会をリードする時代になっていくのかもしれない気がするし、それはそれでいいかもしれないと思います。
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コレクター

マロニエ君の古くからの友人にかなり重度のフルートマニアいます。
仕事の関係で長らく東京在住で、福岡に帰ると必ず連絡をよこしてくれますが、電話でも直に会っても、話はいつも唐突で、むやみに思いつめていて、早い話が「変人」といったほうがわかりやすい人間です。

酒と絵と音楽が大好きで、ピアノが好きで、そして何よりも彼は子供の頃フルートを習っていたこともあって、こちらは手のほどこしようのないディープなマニアです。

学生時代は親から買い与えられた普通のフルートを使っていましたが、成人して社会に出て、収入を得るようになるとしだいに彼の楽器熱はその本性をあらわし、はじめはゆっくりとした足取りではあったけれど、長年あたためていた自分の好みのフルートを少しずつ手に入れるようになりました。

ちなみに、ピアノと同じく、日本はフルート製造においても世界に冠たる地位を占めており、ムラマツ、パール、ヤマハなどの第一級品がひしめき、さらに世界に目を移せば、パウエルやヘインズなどの伝統あるブランド品があり、さらにさらに高じればヴァイオリンよろしくルイロットだハンミッヒだというオールドの領域が存在するようで、これはもう足を踏み入れた者にとっては、とてつもなく深く果てしない世界であるようです。

フルートの世界でもピアノ同様にヤマハはしっかりその一角を占めており、作りのよさ、信頼性、コストパフォーマンス、イージーな鳴り(高性能)などで世界の定評を得ているというのですから、そのぬかりない手腕には呆れるばかりです。

さて、その友人は、新品で買える主要なメーカーのフルートを着々と手に収めていったまでは、彼の熱狂的フルート愛を知るマロニエ君としてはまあ当然の成り行きだろうと思っていました。
当時のパウエルだかヘインズだかは、オーダーから納品まで数年を要したのだそうで、マロニエ君のような気の短い人間にはとても耐えられそうにもないなと、内心思ったものです。

彼と一緒に、東京の楽器フェアに行ったとき、フルートメーカーの展示ブースではかなり高額な黒い木のフルートをあまりにも真剣に試しているので、もしや買ってしまうのではないかとヒヤヒヤした覚えもありました。
(ちなみに、フルートは金管楽器と思いがちですが、ルーツが木の楽器であったためか、現在でも「木管楽器」として分類されています。)

その後、彼の関心の中心はついにヴィンテージへと移っていきました。
歴史に名を残す、ヨーロッパの名工の作品を求めて、それを所有するというブローカーや楽器職人がどこそこにいると聞いては遠方にまで出向いたりしていたようですが、この世界はリスクも非常にあるわけで、贋作はもちろん、長い年月の中で幾人ものオーナーの手を渡り、その過程で不適切な改造が施されたり、別のフルートのパーツと組み合わせられたりなど、さまざまな問題を抱えている場合も少なくないようです。
なにより自分自身の眼力がものをいうようで、マロニエ君なんぞは恐ろしくてとてもじゃありませんが、御免被りたい世界です。

東京にはフルートの専門店もある由で、そこのショーケースには名のあるヴィンテージのフルートがときどき姿を現したりするものだから、彼はいつもこの店に出入りしていて、むろん常連だか得意客のひとりとして認識されているようです。

彼は晩婚ではあったけれど、人生のパートナーともめぐり逢い、子どもも2人生まれて、さすがにもうこれまでのようなコレクション三昧はできないだろうと(本人も)思っていたのですが、そんな通り一遍の常識なんぞ、結局彼には通じませんでした。
真の趣味道趣味人というものは、俗世間の制約ぐらいですごすごと引き下がるようなヤワではないようです。

それから数年後、福岡におられた彼のお母上が大病を患われ、ごく最近他界されたのですが、このときはさしもの彼も見舞いやら葬儀やらで東京福岡を頻繁に行き来することを余儀なくされて、しばらくはフルートもお預けなのだろうと思っていました。
ところが、先日ふたりでゆっくり食事をした折に聞いたところでは、その間にも家族には内緒で、さるドイツの名工の作と謳われるヴィンテージフルートの売り物とめぐり逢い、それを購入するか否か、この間もずっとその品定めにかかわっていたというのですから、その放蕩ぶりにはさすがにひっくり返りました。

お値打ちフルートをどれだけの数もっているのか、マロニエ君さえも正確なことは知りませんが、こういう人間も生み出すほど、楽器というものには魔性があるということかもしれません。
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決め手なし

しばらく前に、クラシック倶楽部で数回にわたってショパンコンクール・入賞者ガラというのをやっていましたので、視聴してみました。

ショパンコンクールの入賞者であることでコンサートをやっているわけだから、彼らががショパンを弾くのは当たり前としても、ふとピアニストにとって、弾くのが最も怖い作曲家は、昔ならモーツァルト、今はショパンではないかと思いました。

どの人を聴いてもしっとりツボにはまらず、深いところから「ショパンが鳴っている」と思えるものがないのは、いまさら彼らだけでもありません。
ショパンは最もメジャーなピアノレパートリーなので、誰も彼もいちおうは弾くけれど、本当にショパンに触れた気にさせてくれる演奏はというと嫌になるくらい少ないのが現実です。

人から「ショパンの☓☓のCDを買いたいんだけど、誰のがオススメ?」というようなことを聞かれることがときどきありますが、そこそこのものは山のようにあれども、パッとオススメできるものほとんどないというのもまたショパンです。

ずいぶん前に、ケンプのショパンについて書いた覚えがありますが、ああいった謙虚さとか無私な心というものがショパンには必要であるのに、時代はますますそれとは逆の方向に向いているような気がします。
だって、なんにつけても自分々々の時代ですから。

ショパン特有の複雑なのに澄みわたる響きの創出、強すぎず弱すぎずの美的均整のとれたアプローチ、適切かつ印象的なルバートとやり過ぎない洗練、都会的な情の処理、常に怠ることを許容しない詩情と理知のバランス、軽妙な話術のような駆け引きなど、ショパンを弾くにはショパン独特の理解と配慮が要求されると思います。

誤解しないでいただきたいのはケンプのショパンが最高だとは思っていないということ。
ただ、おしなべてドイツ物が得意な人はショパンはわりに苦手で、ブレンデルもわずかにショパンを録音していますが、むかし買ったけれど凄まじい違和感があって二度と聞きませんでしたし、シフも映像でちょっと聴いたことがあったけれど、むしろ彼のキャリアの足しにはならない演奏だった記憶があります。
コロリオフもショパンのCDを少し出しているようですが、聴いてみようという意欲は湧きません。

アルゲリッチもショパンとは相性が悪く、娘の撮った映画ではステージ直前、やけにイライラする彼女に向かって秘書のよう男性が「今日はショパンを引くからさ」というような言葉を投げかけます。

少なくとも、オールマイティなピアニストがプログラムの中に他の作曲家と同列に差し込むといった程度では、とてもではないけれどショパンがその演奏に降りてくるということはない…。

昔から「ショパン弾き」という言葉がありますが、それはちょっと誤解され、軽く扱われたきらいもありますが、一面においてはそれぐらい専門性をもって取り扱わなくてはいけないほど難しい作曲家だと思います。

とくに聴いていられないのは、若手から中堅に至るピアニストの中には技巧と暗譜にものをいわせて、表向きは普通に弾けますよ的な、要点のずれたペラペラな演奏を平然とやっているときです。

今の若い世代は日常生活でもルールだけは素直に守りますが、音楽でも同様のようで、譜面上の表面的ルールはよく守るけれど、なぜそうなったのかという根拠とかいきさつには興味がない。ルールを守ってただクリアなだけの処理に終始し、表情やイントネーションまで借り物のようで、そこそこの仕上がりになっているぶん、かえって全部がウソっぽく聞こえます。

ショパン・コンクールの入奏者たちの演奏を聴いていても、ひとつひとつが悪くはないけれど、なんらかの真実に触れるようなものがないのは、きっと時代のせいなのでしょうね。
それでも敢えて選ぶなら、やや薄味で整い過ぎではあるけれどリシャール=アムランでした。
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追悼番組から

賛否両論あったけれど、中村紘子さんは日本のピアノ界ではともかくも大きな存在感を放つ方でした。

カラヤンや小澤征爾がそうであるように、とくに音楽に興味のない人でも、「中村紘子」という名前は大抵の人が知っている。こういう人は、そうざらにはいるものではありません。
中村さんの場合は日本国内限定ではあるけれど、その有名度は圧倒的で、今後はなかなかこういう人は現れそうにもありません。

近年、深刻なご病気をされたということは聞いていたけれど、先月の下旬、亡くなられたというニュースに接したときは、やはり胸がドキン!とするような衝撃がありました。
中村さんは、ピアノの腕前とか演奏そのものという以前に、とにかく華のある方で、なにかというと世間の注目を集めてしまう、生来のスターの要素を持った人だったと思います。

また彼女は戦後の高度経済成長という時代までも味方につけることができた、非常に恵まれていた方だったとも思います。

つい先日のことでしたが、NHKの追悼番組で『中村紘子さんの残したもの』という90分のドキュメンタリーが放送されましたが、お若いころのチャイコフスキーの協奏曲や英雄ポロネーズ、わずか数年前のサントリーホールでのバッハ、NHKのピアノのおけいこでの指導の様子など、いろいろな映像が紹介されました。

中でも最も興味をもって聴いたのは、中村さんが16歳のとき、N響初の海外公演のソリストとして抜擢され、公演先の一つであるロンドンで撮影されたショパンの1番を弾いたときのフィルムでした。
これまでにも、何度か部分的に見たことはあったけれど、今回は第一楽章がノーカットで放送されました。

残念なことに、ピントのずれたようなボケボケのモノクロ映像ですが、振袖姿の高校生だった中村さんは、堂々たるソリストを務めており、その瑞々しい演奏にはいろんな意味で驚かされました。
音楽的にも非常に真っ当で、後年のようなエグさのある特徴はどこにも見当たりません。
というか、ほとんど別人でした。
終始一貫しているし、テンポもよく、オーケストラとも調和しながら演奏が心地よくノッているのが印象的でした。

とくに全体が横の線で流れるように端然と弾き進められていくあたりは、どこかフランス的でもあり、これはもしかしたら安川加寿子さんの影響が当時の日本のピアノ界に色濃くあったのだろうか…等々、いろいろと想像しないではいられないものでした。
個人的に知る限りでは中村紘子さんのこれは最高の演奏ではないかと思います。

もしこのままの方向で成長していたら、あるいはどんなピアニストになったのだろうとも思いますが、ジュリアードに行ったこと、ホロヴィッツの魔性に魂を奪われたことなどが、なんらかの変化をもたらしたのかもしれません。

そういえば、むかしテレビでホロヴィッツの奏法を筑紫哲也氏や映画監督の篠田正浩氏を前に、ピアノを弾きながら解説していたこともありましたから、よほど熱狂的なファンで研究されていたのかもしれません。
彼女がプログラムに選ぶショパンの作品なども、どちらかというとホロヴィッツ好みのものが多かったりするのは、やはりかなりの影響があったのではと推察します。

中村さんのいない自宅が映し出されましたが、弾き手を失ったピアノが咲き乱れる花々の中でじっと喪に服しているようでした。


それにしても、今年の春からこちら、ずいぶんといろんな方が亡くなりましたし、お若い方が多いことも目立ちました。
中村紘子さん以外にも、ぱっと思い出すだけでも、永六輔さん、大橋巨泉さん、蜷川幸雄さん、鳩山邦夫さん、千代の富士さんなど…。
自分自身の周りでも、直接間接いろいろと思いがけないお別れが次々に続いて気味が悪いほどでした。

今年の猛暑は例年になく厳しいものでもあるし、せいぜい身体に気をつけて、まじめに生きていかなくては…などと柄にもないことを思ったりしているこの頃です。
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海峡を渡るバイオリン

友人が探したい本があるというので、数軒のブックオフを周りました。

ブックオフは今どきのコミック本やゲームなどを中心とする古本屋かと思っていたら、必ずしもそうではなく、通常の本屋のように各ジャンルの書籍があって見事に分類されており、その数も大変なもので意外でした。

本屋に行けば、だれでも自分の興味のあるジャンルを見るもので、マロニエ君は音楽・美術関係を中心に見て回り、安いこともあって、新刊なら買わないであろう本を数冊購入することに。

その中の一冊が『海峡を渡るバイオリン』で、これは韓国出身のバイオリン製作家である陳昌鉉氏の口述から起こされた本。これまでに書店では何度か手にしたことはあったものの購入には至らず、この機会に読んでみようというわけです。

バイオリン職人の本なので、てっきり製作や修理に関する内容だと思い込んでいたのですが、話はご自身の幼少期から始まり、いわゆる生い立ちの話が延々と続くので、いったいいつになったら楽器の話になるのだろうと思いましたが、さすがに4~50ページもこの調子だと、どうやらそれがメインの本だということが、そのころになってようやくわかりました。

まずこの点で、目的とはいささか違った内容の本ではあったけれども、これはこれで読んでいて面白いし、文章がとてもきれいな読みやすいものであったこともあり、わずか2日ほどで読み終えてしまいました。

陳昌鉉氏は1929年の生まれ、14歳の時に来日、いらいずっと日本で活躍された方のようですが、前半は当然のように戦争の影が色濃くつきまといます。陳氏が子供の頃の朝鮮半島の厳しい社会環境、日本に来てからの差別や貧しさなど、現代の日本人からは想像もつかないような過酷な苦しみが淡々と綴られているのは、読んでいて胸が苦しくなるようでした。
それでも陳氏は故郷に母や妹を残し、大変な苦労しながら大学を卒業。さらに厳しい肉体労働などをしながら、それからバイオリン製作をまったく白紙から独学でものにしていくのは、ただただ驚く他はありません。

そして、そんな陳氏が後年にはアメリカの弦楽器の製作者コンクールで6部門中5部門で最高賞を受賞するまでになり、ついには「東洋のストラディヴァリ」といわれるようになるのですから、まさに彼の辿った人生そのものが人生大逆転の映画か小説のようなものだと言って差し支えないでしょう。
ウィキペディアをみると、この『海峡を渡るバイオリン』は2004年にフジテレビによってドラマ化されているようで、草彅剛さんが陳昌鉉氏を演じたようで、なるほどと納得。

マロニエ君はこの本の存在は、ずいぶん前から書店で何度も目にして知っていたけれど、陳昌鉉という優秀なバイオリン作家がいて、しかも日本で製作を続けたということなどは実はまったく知りませんでした。
これまでにもバイオリンの本はかなり読んだつもりでしたが、陳昌鉉氏の名が出てくることもなく、すべてをこの本で知るに及び、深い感銘を覚えました。

人一倍、根性ナシで、努力嫌いのマロニエ君からすれば、陳昌鉉氏の生き様は別世界の出来事のようですが、それでも人生を懸命に生きることはなんと価値あることかと思わずにはいられません。

いっぽうで、これは対象がバイオリンであったからの話で、もしピアノなら大きさ、複雑さ、おまけに工業力を要するという点で絶対にあり得ないことです。
もしもピアノが、チェンバロぐらいの構造(つまり一人の作家が一人で製作できる)であれば、いろいろな作家のいろいろなピアノがあったはずで、そうなるとずいぶん楽しいことになっていたような気がします。
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猛暑

今年は梅雨の雨もひどかったけれど、それ以上にこのところの猛暑は凄まじいものがありますね。

ここまでくると、ピアノの管理以前に、人間様が日々無事に過ごせるようエアコンもフル稼働状態です。
湿度もかなり高く、除湿機も回りっぱなし。
ゲリラ豪雨のニュースも聞こえてくる中、北部九州には一向に雨の気配もありません。

猛暑日とは「一日の最高気温が35℃以上の日のこと」だそうですが、むかしはどんなに暑くてもそんな温度になることはあんまりなかったように思いますので、夏は確実にむかしより厳しいものになっていっているようですね。

全国どこでも概ね同じだと思いますが、連日のように35℃レベルの暑さになると、世の中の何もかもがグニャリと萎れてしまうようで、人の動きも鈍ってくるようです。
とくに住宅街では、目に見えて人の往来が少なくなり、すべてを焼きつくすような直射日光とは対照的に、あたりは異様な静けさに包まれます。本当に暑い時には、蝉の声すらしなくなり、蚊さえもあまりいなくなるような気がします。

こうなると、マロニエ君にとってはエアコンはまさに命綱といっても過言ではなく、もしこれが連日の酷使によって故障でもしたらどうなるかと、つい怖くてネガティブなことを考えます。
それでなくてもエアコン依存症のマロニエ君です。
以前から、もしも真夏にエアコンが壊れた時は、一時的にホテルにでも避難するしかないなどと思っていましたが、最近は福岡市も慢性的なホテル不足で、とてもでないけれど急な予約は難しいらしいという話を耳にするなど、それを考えるとゾッとしてしまいます。

暑さの影響はあちこちに波及し、例えばマロニエ君のような車好きになると、車の体調管理にも憂いが出てきます。
こんな暑さの中で、街中の渋滞などを這いずり回らすようなことをしていたら機械を傷めるように思ってしまい、日中はできるだけ車も動かさないようにしています。

これほどの炎暑ともなると、気象庁から発表される気温どころではないのがアスファルトの路上の温度であるし、さらにエンジンという自らも猛烈な熱源を抱える車にとって、こんな灼熱地獄で酷使されることは、機械にとってもかなりのストレスであり、消耗であるのは想像に難くありません。
日が落ちればいくらかマシになるので、夜間は乗っているものの、日中はさすがに躊躇してしまいます。

家の中に話を戻すと、常時エアコンを使っていれば、それはそれで冷風にさらされることになるし、一歩部屋から廊下に出たときの強烈な温度差がこれまた予想以上に全身が圧迫されるようで、こんな温度差の中を行ったり来たりしていては、身体にも良いはずはないだろうと思います。
とはいっても、まさか廊下までエアコンで冷やすわけにもいかないので、とりあえず気を張って毎日過ごしています。

ピアノも調律を頼まなくてはと思いつつ、こう暑くては、なにもこんな猛暑の中にそんなことをしてもというような、直接の根拠にならないようなことが理由になって、あれもこれも先送りにしてしまって、これではいかんと思いますが、なかなか…。

というわけで、いまさら暑中見舞いでもありませんが、皆さまもどうか無事にこの厳しい夏を乗り切ってくださいますように。
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小菅優

クラシック倶楽部から、樫本大進、小菅優、クラウディオ・ボルケスの3人によるトリオコンサートで、ベートーヴェンのピアノトリオ第1番op.1-1全曲とゴーストの第2楽章が放映されました。

ピアノトリオは演奏時間の長いものが多く、たったこれだけで55分の番組は一杯になるようです。

小菅優については、これまで折々に注目はしてきたけれど、今どきにしては元気のいいピアニストとは思いつつも、なんだかもう一つ決め手がない感じで、それ以上に興味が進みませんでした。
CDも少しだけ持っていますが、ずいぶん若い頃のリストの超絶技巧練習曲などいくつかあるものの、これといった強い印象はありませんでした。キレの良い演奏をする人ではあるようですが、残念なことにくぐもったような音がいつも気になってしまいます。

マロニエ君は音の美しさというか、音そのものに演奏上の必然的な声を帯びた凝縮された音を出してくれないと、どうも惹きつけられないところがあるようで、その点彼女は活気ある演奏をするわりには、この点がどうも冴えないという印象でした。

ところが、今回の演奏はそれさえも気にならないほどの素晴らしいものでした。
まず、とてもよくさらわれてすべてに見通しがきいて、熱いエネルギーと細心の注意深さが両立しながら隅々にまで行き届いて、聴く者の耳を捉えて離さず、音楽は一瞬たりとも弛緩するところがない。

冒頭の変ホ長調のアルペジョからして、弾むようで繊細、以降も小菅さんのピアノはヴァイオリンとチェロの間を、器用に、そして柔軟に飛び回り、それでいて決してピアノだけが表に出るということなく見事なアンサンブルに徹していたと思います。
それでも、ピアノはひときわ強く輝いていており、この日はまさにピアノが主役だったと思いました。

小菅さんの個性というか魅力のひとつは、最近のクラシックの演奏家としては珍しいほどリズム感に優れ、拍を疎かにしない点だろうと思います。
まず作品の求めるテンポや適切なアーティキュレーションを見極め、そのための不便不都合はすべて自分の側で背負って変な辻褄合わせをしないという、演奏家としての良心があり、これは最近では珍しいことだと思います。

おそらくそのあたりはご当人もかなりこだわっているというか、彼女の演奏を成立させる要素として譲れないところがあるのだろうと推察されますが、小菅優のピアノには常に良い意味での緊張感があり、いきいきしたメリハリがみなぎっていると思います。
指もまことに小気味良く動き、そこにリズム感の良さもあいまって、このベートーヴェンのop.1-1という文字通り若書きの作品が、目の前にみずみずしい姿を顕してくるようで、ときにロマンティック、ときにモーツァルトのようで、退屈する暇もないないまま一気に進んでいきました。

小菅さんの素晴らしさにすっかり感心して、気がついたら樫本大進とボルケスのヴァイオリンとチェロはあまり注意して聴いていなかったけれど、お二人とも輝くピアノをしっかり支えるような安定感のある演奏だったと思います。

どうしても小菅さんの話に戻ってしまいますが、彼女の演奏はどれを聴いても溌剌として熱気があり、それでいて日本的な繊細さも併せ持つ人であるという点で、無機質で正確なだけの日本人ピアニストが多い中、あれだけ音楽に集中できるのは貴重な存在だといえるでしょう。

少し感じたことは、手首を細かく上下させることで鋭利なリズムを刻んでいるようで、これが彼女特有の深みのない乾いた音の原因ではないかとは思いました。
よりしなやかな指先の圧力によってタッチ・発音するようになれば、今の何倍も輝くような音になると思うのですが、まあマロニエ君は専門家ではないのであまりそういうことには言及しないほうがいいかもしれません。

この人には、さらにいろいろな経験を積んで、さらに成長して欲しいと期待をかけています。
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