ふたつのマツーエフ

BSプレミアムシアターで、今年だったか、インドのムンバイで行なわれた「メータ、80才記念コンサート」みたいなものが放映されました。もう消去してしまったので、タイトルも曲目も正確でないこともありますが、こうもり序曲、ブラームスの二重協奏曲、そして最後はチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番でした。
ピアノは、デニス・マツーエフ。
オーケストラはイスラエル・フィル。

チャイコフスキーは、どう表現したらいいか困ってしまうほどの「爆演」でした。
マツーエフは見た目からしてピアニストというより、何かの格闘家か、重量挙げなど力自慢の選手のようですが、この日のピアノはまったくその風貌にピッタリというか、まるでゴジラがピアノを弾いているような演奏でした。

良い悪いは別にして、ピアノって、あれほどの怪力で叩きのめすことができるものかと思ったし、あまりの暴力的な打鍵に耐えかねて、開始早々中音域の幾つかが、たちまち狂ってしまい、あからさまなうなり音を発していたほどです。
しかも曲が曲なので、叩きつけようと思えば叩きつける場所には事欠きません。

指から手の甲にかけてもじゃもじゃした赤い毛に覆われた猛獣のような手が、情け容赦なくスタインウェイの鍵盤を叩きまくり、ピアノはその度にぶるぶるとボディが揺れていました。

キレイ事を言うつもりは毛頭ないけれど、ピアノが好きで、美しい音楽を愛する者の端くれであるつもりのマロニエ君としては、とてもではないけれどずっと続けて見ることはできませんでした。
とにかく派手に見せるための、力まかせの演奏というものが生理的に受け付けられないし、あのロシア人の巨体から繰り出される暴力的な強打を見ていると、もはやピアノが虐待を受けているようにしか見えませんでした。

早送りに次ぐ早送りで、終楽章のフィナーレを見てみると、このころには頭を一振りするごとに、無数の汗がプロレスの試合みたいにバンバン飛び散って、それは格闘技のリングに近いものでした。
本心から、このままではピアノが壊れるのではないかとハラハラしました。

その数日後のこと、Eテレの「クラシック音楽館」のたまっている録画を見てみると、N響定期公演からヤルヴィの指揮で、プロコフィエフのピアノ協奏曲第2番というのがあり、そのソリストがなんとまたデニス・マツーエフとなっているのは我が目を疑いました。
うわー、これはたまらん!と思いましたが、日本でもあんな演奏をするのかと思い恐る恐る見てみると、メータとのチャイコフスキーと比較すると、一転してほとんど別人とでも言いたくなるような真面目な演奏で、同じピアニストが場所によってこんなに違うものかと、なによりまずそのことにびっくり仰天でした。

もちろんマツーエフが持っている資質はチラホラあるけれど、少なくともプロコフィエフの2番という屈指の難曲を立派に弾こうという真摯な姿勢の見えるしっかりした演奏だったのは、チャイコフスキーとは大違いでした。

おそらくメータの80才記念コンサートでは、お祭り的な要素が多かったことと、開催地もインドであったので、仕向地による違いだったと思われ、事前にそのような打ち合わせや要望も汲んでのことであったのだろうとは想像されますが、それにしても野獣がピアノを壊す気で弾いているかのようなあの光景は、やはりインパクトが強すぎました。

それでもチャイコフスキーでは割れんばかりの拍手で、アンコールではマツーエフによる即興みたいなものが弾かれましたが、これもハデハデで、最後はピアノがぐわんと動いてしまうほどの怪力で締めくくられ、インドの聴衆は大ウケの様子だったので、やはり国や地域によって西洋音楽に対して求めるものが違うのかもしれません。

もし日本であんな演奏をしたら、さすがに受け容れられないだろうと思うと、これでも日本は西洋音楽の歴史が「ある」ほうに入るのかもしれないなぁと思われ、なんだか妙な気分でした。
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先生の趣味?

『題名のない音楽会』で反田恭平がラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の第1楽章を演奏しました。

以前も書いたように、来月にはイタリアでレコーディングした同曲のCDが発売されるというタイミングでもあり、反田氏にとっていま最も力を入れ弾き込んだ1曲だろうと思います。

大いに期待して聴きましたが、しっかりとした見事な演奏ではあったけれど、どこか以前のような、精緻な演奏の奥底に光る本能的な生々しさが減って、より注意深く多くを語ろうと意識して、慎重に弾いている感じを受けました。

演奏中、反田氏はモスクワ音楽院でこの曲を、ラフマニノフの得意とする先生から猛特訓を受けたというような字幕が出ましたが、先日の『情熱大陸』では、ヴォスクレセンスキー教授にこの曲のレッスンを受けているシーンがあったので、それが彼のことなのか、あるいはまた別の先生なのか、そのあたりのことはよくわかりませんが、要するにかなり人の意見の入った演奏であるようにマロニエ君の耳には聴こえたことは事実でした。

パーツパーツで聴いてみると、たしかによく練られていているなとは思うけれど、反田氏の最大の魅力であるはずの作品を一刀両断にする鮮烈さや、内側から滲み出る熱いパッションがやや細くなり、少し普通のピアニスト風に、効果を周到に寄せてきたように感じてしまった点は甚だ残念でした。

反田氏にアドバイスしたのが誰であるかはどうでもいいけれど、アドバイスという範囲を超えて、演奏者の個性より指導者の音楽的趣味が前に出すぎているとしたら、それは指導というより干渉ではないかと思うし、聴いていて、他者による注文を盛り込めるだけ盛り込んだような窮屈さを感じました。

一過性の音楽に、あまりに多くを語ろうとすると、細かな聴きどころは増えるかもしれませんが、推進力や燃焼感が薄れるのは考えものです。

反田氏が本心から、ああいう演奏をしたかったのだとはマロニエ君は思えなかったし、その点ではあれは彼の本音の演奏ではないだろうと勝手に受け取りました。
マロニエ君としては、この先、彼がそのあたりの制限から本当に開放された時、さて本物の芸術的な演奏がそこにあらわれるか、あるいはただの恣意的な独りよがりな表現に留まるのか、そこは今後も注視していきたいところです。

ピアノはイタリアでの同曲のレコーディングのときのように古いピアノが使われることも、あるいは反田氏が東京でしばしば弾いているホロヴィッツのピアノでもなく、会場備え付けの普通のスタインウェイだったことはすこし残念でしたが、まあそのあたりはいろいろな事情も絡んでいるでしょうから、そういつも思い通りにはできないでしょう。

それにしても、反田氏のやや大きくて伸びやかな手は見ているだけでも魅力的です。
とくに左サイドのカメラがとらえた左手はことのほか美しいもので、この手を見ただけで、反田氏がピアノを弾くことは運命づけられていたことだということを諒解せずにはいられません。
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いまむかし

現代のようにあらゆるものが管理された、ある意味で安心、ある意味でおもしろみのない社会に生きていると、昔は楽しかったなあと懐かしく思うことがしばしばで、中でも今に比べると人間関係は濃く、感性重視、発言の自由度はずっと広かったように思えます。
標準的な日本語も、いまどきの卑屈なビジネス語や不正確な言葉遣いが蔓延することなく、尊敬語と謙譲語が明確なコントラストを作り出し、言葉だけでも日本人の細やかな情感と倫理が保たれていたように思います。

言語はそれ自体が生きた文化であり、その点で複雑な日本語は独自の美しさをもつ、いわば無形文化財のようなものだと思いますが、それを惜しげもなく捨てていこうとする方向性は、残念でなりません。
貴重な建造物を驚くべき丁寧さで修復保存したり、最近では歴史的な建築や地域を世界遺産に登録するのが流行りのようですが、だったら美しい日本語もある意味、修復し、保存し、継承されるべき対象に組み入れてほしいものです。

ほかにも、あれもこれもと昔を懐かしむことを思い出すのは簡単ですが、昔にくらべて今のほうが良くなったということを認識することは意外に難しく、せいぜい思い出すのはケータイとネットなどでしょうか。
人間は自分にとって快適になること便利になることには苦もなく順応して当たり前になるだけで、昔を思い出して、今はありがたいと思うことは大事なはずなのに、なかなかできませんね。

その代表がタバコです(吸われる方には申し訳ないけれど)。
昔は喫煙はいつでもどこでもほぼ自由で、飛行機に乗ってさえ離陸すると、機体はまだ上昇中だというのにいち早く禁煙のサインが消え、それっとばかりに前後左右からタバコの煙があがったものです。真横の人が立て続けに何本も吸い続けるというようなこともありましたが、今では考えられないことです。

タクシーに乗っても真っ先に鼻につくのは車内に染み込んだタバコ臭で、お客さんどころか、運転手もプカプカやりながら運転していました。おまけに運転もめちゃめちゃに荒っぽく、タクシーと無謀運転は同義語でした。フロントシートの背につかまりながらお客さんは身体を前後左右に揺すられながら乗っていたわけで、今どきあんな運転をしたらいっぺんで運転手はクビでしょうね。

飲食店などに入ってもマッチと灰皿は当たり前で、喫茶店など店内は霞がかかったように煙草の煙が充満していましたし、むろんいまのようにきれいではなく、壁がニコチンで薄茶色になったお店なんてざらでした。

それを思い出せば、今はタバコを吸わない身には天国です。

ただ、タバコだけではない数々の規制によって失ったものもあり、人々は今よりも明らかに情感が豊かで活力があったし、人間臭さがありました。
上記のようなタクシーの無謀運転などはむろん困りますが、世の中の人達は今よりもずっとエネルギッシュで、人ともよく交わっておしゃべりをしたし、親交も深く、ケンカもし、声も平均して大きかったのは間違いないでしょう。

今の人は、総じて注意深く、損得に聡く、計画的で、周到で、演技的、これらがほとんど体質化しているように思われます。
計画的なことがすべて悪いわけではないけれど、ときには、あまり先のことを考えず目の前のことに情熱を燃やし、冒険の気持ちをもつことことも必要ではないかと思いますが、そういう面白さは本当になくなりました。
破滅型の芸術家というようなタイプももういません。

自分の将来や行く末、仕事や健康など、あまりにも情報が多く先見えがするゆえに注意することが多すぎて、世の中から大胆さや心の底から愉快と思えるようなものが消えてしまいました。どっちを向いてもやっちゃいけないことだらけで、いわば自主規制ずくめの社会ですが、それで保たれている恩恵も多いのですから、つくづく物事はなにかとトレードの関係にあるということを感じます。

洗練された社会は、人々からある種のダイナミズムを奪うということは間違いないようですね。
誕生日を過ぎてまたひとつ歳を重ね、つい愚にもつかない事を考えてしまいました。
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最近の番組から

最近テレビでみたもの。

パーヴォ・ヤルヴィ指揮のN響定期公演から、パーヴォの盟友とされるピアニストのラルス・フォークトのソリストによるモーツァルトのピアノ協奏曲第27番。
何度も書いているように、マロニエ君はこのラルス・フォークトのピアノは好みではなく、残念ながら彼の魅力がなんなのかわからないし、パーヴォ・ヤルヴィほどの指揮者がなぜ彼をそこまで高く買ってしばしば登用するのかもわかりません。
とくにモーツァルトのピアノ協奏曲第27番といえば、KV595という番号からもわかるように、彼の最晩年の傑作の一つで、最後のピアノ協奏曲であって、これはそれ以前の作品を演奏するよりも、一層の繊細さと思慮深さが要求される作品でしょう。

モーツァルトは最も人間味にあふれる作曲家であるにもかかわらず、その演奏は、まるで天上から降り注いでくるような、美しさとに繊細さに満ちていなくてはならないと思うという点で、一音一音の変化に敏感でない、汗臭い、労働的な演奏は(とりわけ晩年の透明な世界には)ふさわしくありません。

ラルス・フォークトはどうみても繊細な感性や磨きこまれた音で聴かせるピアノではないし、どちらかというといかつい表情付けなどで押し切るタイプ。
果たしてどうなるのかと思っていたら、予想よりはいくらかおとなしく丁寧に弾いていたようで、覚悟していたほどではなかったのはひとまず胸をなでおろしました。

最近いやなのは、番組制作側の意図なのだとは思うけれど、演奏者にあれこれと大した意味もないようなことを喋らせることで、その点ではヤルヴィも毎回しゃべっているし、ラルス・フォークトもしゃべらされているものとも思いますが、どうもこの手は空虚な感じがあって、話の内容と演奏とがあまり結びつかないことが少なくないように感じます。

マロニエ君の場合はいつも録画で見ているので、それなら早送りすればいいのですが、いちおうどんなことをしゃべるのかとつい聞いてしまうふがいない自分にも嫌になります。それを聞いて、演奏を聴いて、その結果あれこれと不平不満をのべるのですから、我ながらご苦労なことですが。


辻井伸行が、オルフェウス室内管弦楽団とセントラルパークの野外コンサートに出演する2時間のドキュメント。

例によって、辻井さんはくったくのないテンションでコンサート以外でも、訪問地のあちこちを訪ね歩きますが、世界中のどこに行っても、そこにピアノがあるかぎり必ず弾くのがこの方のスタイルのようで、それは今回のニューヨークでも例外ではありませんでした。

まあ視聴者もそれを期待しているのですから基本的にはありがたいことだと捉えるべきですが、生まれて初めてのジャズバー体験として、本場のジャズを聴きに行っても、途中から参加という趣向で、やはりここでも演奏に加わりました。
マロニエ君には想像もつかない大変な度胸ですが、それがあってこそコンサートピアニストというものはやっていけるものかもしれません。ここでは珍しいことに(アメリカならではというべきか)ボールドウィンのグランドが使われていました。

それ以外にも、ニューヨーク在住の日本人タップダンサーのスタジオを訪ねました。
お名前は忘れましたが、この世界ではずいぶん有名な方だということでした。
勧められるとなんにでも興味を示す辻井さんは、すぐにタップダンスにも挑戦したあと、今度は傍らにあるピアノを弾き、それに合わせてこのダンサーが即興でタップをつけていくということで、ピアノとタップダンスのコラボとなりました。

ところが、曲は展覧会の絵からラ・カンパネラになり、ダンサーはピアノが鳴っている間中、見ている方が心配になるほど激しいタップを続けますが、途中から引っ込みがつかなくなっているようでもあり、曲が終わらないと止められないようでもあり、これは見ていて少し辛くなってしまいました。

弾き終わった辻井さんも、着ていた黒いシャツが汗でべっとりと濡れしてしまうほどで、これまさに二人によるスポーツで、要するに何だったのか…まるで意味の分からないまま終了。

番組ではオルフェウス室内管弦楽団とのリハーサル、セントラルパークでの本番、ともに地産品?でもあるニューヨーク・スタインウェイが使われましたが、2台とも新しめのピアノであるにもかかわらず、リハーサルのピアノはまるで鼻が詰まったような音で、いまだにこういうピアノがあるのかと思った反面、本番でのピアノは黒の艶出し仕上げの、より輪郭のある音のするピアノでした。

ニューヨーク・スタインウェイには巷間言われるような個体差やムラがやはりあるようで、調整の余地も大きいというのが納得できました。使われて、調整を繰り返しながら、時間をかけて整っていくピアノだということなのでしょう。
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弾く喜び

先日、某所でのリサイタルを終えられたばかりのあるピアニストの方が来宅されました。

しばらく雑談などが続きましたが、せっかくの機会であるし、少し前に我が家のピアノも過日保守点検メニューも済ませていることでもあり、ちょっと弾いていただきました。

今回の調整は音色の面でとても上手くいっていて、現在はかなりご機嫌な状態だと思うのですが、ピアノは弾く当人にとってはピアノとの距離が近すぎて、本当の音色を聴くことがきないのは残念な点です。
とくにスタインウェイのような遠鳴りを特徴とするピアノでは、至近距離ではむしろある種の雑音のほうが目立ったりということもあるくらいですが、ピアノから数メートル離れただけで、まったく別のピアノではないかと思うほど見事に収束した美しい音が聴こえることはこれまでにも経験済みです。

自分が弾いている限り、そのピアノの一番いい音を聴けないというのは皮肉なことで、少し離れた場所から、しかもピアニストの演奏を聴けるとなれば一石二鳥というわけです。
バッハからショパン、ムソルグスキーまでいろいろと弾いてもらいましたが、演奏はもちろんですが、ピアノが自分で言うのもなんですが予想以上に素晴らしい音でつい聴き入ってしまいました。
その音は、演奏者はもちろんですが、技術者の方にもあらためて感謝の念を抱かずにはいられないものでした。

つくづくと思うことは、ピアノも弦楽器のようにタッチによって音を作ってこそ、音の真価が出てくるというごく当たり前のこと。
「ピアノは猫がのっても音が出る」などといわれますが、むろんそれで良い音が出るはずもなく、素人でも本能的に音を作ろうとする人と、そういうことにはまったく無頓着に音符を追うだけの人がいます。

話し方でも訓練された発声で澄んだ聞き取りやすい声で話すのと、ベタッとした地声で話すのとでは雲泥の差があるように、いい音を鳴らすというのは、それ自体がすでに音楽的行為だと思います。

とくに名器と言われるピアノになればなるだけ、タッチによる音色やニュアンスの差がはっきりと音にあらわれ、日本製のピアノのほうがその点はまだいくらか寛容かもしれません。さらに電子ピアノになると、タッチによる汚い音というのがまったく存在しないので、その点ではやはりアコースティックピアノは奥が深いと思います。

弾いてくださったピアニストはとくにタッチや音にも配慮の行き届いた演奏をされるので、この点でもいうことなしで、ついステージで聴いているような錯覚を覚えました。

さて、マロニエ君はこのピアニストによる先日のリサイタルのアンコールと、東京でのライブCDの最後に収録された、ヴィルヘルム・ケンプ編曲によるバッハのコラールにすっかり魅せられてしまい、この10日ほどこれの練習に取り組んでいます。

僅か2ページほどの作品ですが、編曲ものというのはオリジナルとはまた違った難しさがあり、広く音の飛ぶ内声を左右どっちの指でとったらいいのかなど、わからないことも満載。
おまけにもともとの下手くそや、なかなか暗譜ができないなど、たったこれだけの曲をさらうのに、なんでこうも難渋しなくちゃいけないのかと思うと、さすがに情けなくなります。
もういいかげん暗譜してもよさそうなものが歳を重ねるほど難しく、さらに編曲作品特有の弾きにくさも追い打ちをかけて、ばかみたいに同じ所で間違えたりと、つくづく自分が嫌になります。

それでも今度ばかりは曲の魅力に抗しきれず、普通なら一日で放り出してしまうところを、めずらしく踏ん張っています。踏ん張ればそのぶんどうかなるのかといえば、そうとばかりも言えない気もするけれど、やめれば弾けないのははっきりしているので、もう少しがんばってみるつもりです。

いい演奏というだけなら、お気に入りのCDを鳴らせば済む話ですが、やはり苦労してでも自分の手からその音楽を紡ぎだすというのは格別で、自分の気持ちや指の動き一つでそのつど音楽に表情が宿ったり失敗したりと、これこそがささやかでも弾く喜びなのだと痛感します。
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精神的事故

悪気がない、気がつかない、無知といったものは、ときにちょっとした悪意より、はるかに悪い結果を招き寄せることがあるものです。

なぜなら、相手は悪いことをしているつもりがまったくないのだから、その点においては遠慮も躊躇も働きません。
わかってない故に容赦なく限度なく、とめどなくそれは続きます。

先日こんなことがありました。
やむなきお付き合いから、とあるコンサートに行くことになり、親しい某女史と友人とマロニエ君の3人で車で赴くことになりました。
某女史は天真爛漫、その人間的魅力もあってか人望も篤く、多くのコンサートや音楽祭なども手掛けておられます。

コンサートは隣県の一風変わった場所で行われるので、マロニエ君が車で某女史と友人を乗せて行くことが早くから決まっていました。
大半は高速道路ですが、前後を含めるとそれでも片道1時間以上かかります。
コンサートの前日、出発時間などを打ち合わせようと某女史に電話をしたところ、この段階で驚くべき内容を知ることに。

なんと、明日は某女史の知人という人物がもうひとり一緒に乗っていくことになったというのです。
マロニエ君にしてみれば、予定の3人は昔からよく知る間柄なのですが、新たに加わったひとりは一面識もない方なので、このひとりの登場によってこちらにとっての空気はガラリと変わりますが、ご当人は至ってあっけらかんとしたご様子。
さらにこの電話でわかったことは、帰りはこの日の出演者の4人のうちの2人を乗せて帰るのだそうで、車の所有者であるマロニエ君にひとことの相談もないまま、そういうことが決められているという事実に、はじめは頭がグラグラしそうでした。

この文章をお読みの方は、某女史が非常識で自己中で図々しい人物と思われることでしょう。
ところがそうではなく、この方というのが珍しいほどの天然の方で、そこには悪気どころか、マロニエ君への無礼の意識も全く無いことは、長年の付き合いでよく知っています。知っているからこそ、ただ憤慨することもできず、某女史なら仕方ないか…と思い直して迎えに行きました。

ところが、そこからが本当の苦痛の始まりでした。
某女史とその知人(こちらも音楽関係らしい女性)は後部座席に乗り込み、マロニエ君がハンドルを握り、友人が助手席という配置でスタートしたのですが、駐車場を出る頃から後ろではぺちゃくちゃとおしゃべりが始まっています。
この段階で、いやな予感はしていたのですが、その二人のおしゃべりは時間が経つにつれますます熱を帯び、ついには目的地に就くまでの一時間以上、延々と続きました。

通常なら個人の車に乗る際には、それなりの常識や振るまいというものがあり、まず車の所有者に相談もなしに、第三者を乗せるか否かを決定する権利はまったくないし、よしんば相談され応諾したにしても、乗用車の車内というのは、狭くて閉鎖された密室であるわけで、車中ではそれなりの配慮が求められるのは当然でしょう。
長距離なら、なおさらのことです。

車内の会話はほぼ全員が参加できるよう、互いがそれなりに気を遣い合うのは当然のはず。リアシートのふたりだけが、自分達だけの会話に1時間以上興じるなどとは、およそ信じられないことでした。
ましてそのうちのひとりは、ついさっき「はじめまして」と挨拶した初対面の人間で、タクシーならともかく、個人の車ではありえないことです。

友人もこの状況を察したようで、はじめは仕方なく何度かこちらに話しかけていましたが、後ろの二人だけで繰り広げられる猛烈な会話に圧倒されて、しまいにはほとんど口を利かなくなりました。

…演奏は素晴らしかったけれど、とにかく疲れてクタクタだったし、おまけに終演後は立食の食事会が待ち構えていました。
明日は福岡市でコンサートがあるからという理由で演奏者の二人を乗せて早めに帰るはずだったのが、このご両人がまたなかなか帰ろうとはしません。
そのころマロニエ君はもう心身ともに相当限界に近づいていることが自分でわかりましたが、この状況では一人で帰る自由もないわけで、この何から何まで納得していない状況に耐え難い苦痛を感じました。

結局、キリがないので少しせっつくなどして帰途についたのは夜の11時頃で、演奏者の大きな旅行かばん2つをトランクに押し込み、5人乗ってようやく出発。ところがこんどは、その演奏者のひとりが外国人であったため、リアシートではワイワイと英語ばかり。
このとき、ほとんど切れてしまっていたマロニエ君の心の最後の糸がぷつんと切れました。

もはや、だれであろうと、いい人であろうと、お世話になった人であろうと、悪気があろうがなかろうが、関係ない。
いま自分が置かれている状況がたまらなくイヤになり、よくわからない限界点をついに超え、それから一切周囲との会話を遮断しました。マロニエ君の徹底した沈黙は車内でしだいに目立ってきたのか、かなり奇異に映ったとは思うけれど、それを取り繕う意欲もエネルギーもありません。
ひたすら安全運転にのみ全神経を集中し、まずはホテル、某女史宅、友人宅とまさに宅配便のように送ってまわって、ともかく無事に帰宅しました。これは誰一人悪意はないところに発生した精神的事故だったと思うより他ありません。
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眩しい才能

先日の『情熱大陸』では新進ピアニストの反田恭平が採り上げられました。
いつも見る番組ではないのに、新聞のテレビ欄を眺めていると「ピアニスト」「反田恭平」という文字が運良く目にとまり、録画しておいたものです。

反田氏はマロニエ君もそれなりに注目しているピアニストで、以前このブログにも書いたことがありますが、なによりその逞しいテクニックと直感、びくびくしない弾きっぷりが特徴だと思います。

ピアニストとしてのアスリート的な部分も大きな魅力で、ユジャ・ワンと同系統といえるかもしれません。
番組では、反田氏は自らを「サムライ」と称し、だから長い髪を武士の惣髪に重ねているのかとも思いつつ、番組を見ながらこれまでのピアニストとは少しばかり様子のちがう、良い意味での孤独性さえ感じました。

有名なヴォスクレセンスキー教授が来日の折に反田氏の演奏を聴き、その勧めによってモスクワ音楽院に留学して2年が経つようでした。
ところが父親の猛反対もあったらしく、この2年間は奨学金生としてモスクワで学んでいるといい、その奨学金支給も今月で終わり、来月からは「実費」というシーンがあり、反田氏としては早く自立したいという考えを抱いているようでした。

帰国しても、明るく歓迎する母親とは対照的に、ピアノに反対している父とはほとんど会話もありません。

多くのピアノ学習者と違って、反田氏はまわりの誰でもない、自分がピアノを弾いて世に立っていきたいという強い情熱があり、この父との対立も彼の前に立ちはだかる大きな障害のようにも見えます。
結局、彼はモスクワ音楽院で学び続けることを断念し、そのぶんより挑戦的にピアニストとしての活動を強めていく覚悟を決めているように見えました。

恋愛でも、むかしは本物の大恋愛が存在したのは、現代では考えられないような困難が幾重にも存在したからで、そういう壁を打破し乗り越えようとするときに、人間は尋常ならざる力が湧き上がってくるのではないかと思います。
その点では、周囲から褒められ良好な環境をいくらでも与えられる人より、反田氏のようなある意味逆境にいる人のほうが、よじ登っていこうとする精神的な強みがあり、大成できる可能性も高いと感じました。
むろん相応の才能があっての話ではありますが。

この番組の中で、ひときわマロニエ君が注目し、納得したシーンがありました。
イタリアのホールでラフマニノフのピアノ協奏曲第2番をレコーディングすべく、会場に現われた反田氏は、ステージに据えられた新しいスタインウェイを触るなり、これが気に入らないようでした。
「ピアノが寝ている」「きれいすぎる」といい、舞台の裏部屋のようなところにある古くて誰も弾かなくなったというスタインウェイを弾いてみて、こちらを所望しました。

1970年代のピアノで、もうだれも弾くことはないとばかりに奥まったところに置かれていましたが、何人ものスタッフによってステージへと押し出され、ステージで弾いてみてこのピアノを使うことを迷いなく決定。
なぜこちらのピアノを選んだのかという質問に、「直感」と短く答えたあと「こっちのピアノのほうが自分の引出しをいろいろ使えそうだから」というようなことを言っていました。

テレビのスピーカー越しにも、こちらのピアノのほうが音にばらつきがあり、伸びがなかったり、悪く言うとくたびれた感があるものの、新しいピアノにはない渋い味わいがあるようです。
おそらくこのピアノの欠点については反田氏は自分の演奏によってカバーできるという自信があったのでしょうし、それよりも一番大事なことは何かということを見誤らない、お若いのにずいぶんもののわかった青年じゃないかと思いました。

前述の奨学金のことなどもあり、ここで独り立ちしたい反田氏にとっては、この録音はとりわけ勝負をかけるものだったに違いありません。
そこで弾くピアノが、どのキーをどんなふうに弾いても「パァーン」と小奇麗な音が出るだけの新しいピアノでは、自分の思い描くような勝負はできないと直感的に感じたのかもしれません。

日本では、ホロヴィッツが弾いていたという古いスタインウェイをコンサートやレコーディングにも使った経験がある反田氏なので、楽器に対する感性も鍛えられ、それらの経験も見事に生かされているのだろうと思いました。

ピアニストはつべこべいわず、会場にあるピアノに即応して弾かなくてはならないという宿命を負っていますが、誰も彼もがおろしたてのような新しいスタインウェイこそがベストだと思い込んでいるような現状には日頃から疑問を感じます。
楽器に対してなんという無定見かと嘆きにも似た気分でしたので、反田氏のこの反応と選択には見ているこちらまで溜飲の下がる思いでした。

モスクワでの師匠であるヴォスクレセンスキー教授がさすがだと思ったのは、「彼には爆発的な気質がある」などと高く認めながらも「でも、単調なテンポの曲を表現するのはまだまだだね」と評した点で、マロニエ君もいつだったかNHKの番組で反田氏の雨だれを聴いたときは、まさに「まだまだ」だと思いました。
しかし、久々にこれからが楽しみになるような眩しい才能が日本から出たことを嬉しく思います。
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これも地域性

「偏見」という言葉をウィキベディアで見てみると、おおよその意味するところはわかったような気がしました。

「十分な根拠もなしに他人を悪く考えること」だそうで、「新しい証拠にもとづき自分の誤った判断を修正できるなら、偏見ではなく予断に分類される」とあって、なるほどと思いました。

この説明に添って考えると、「十分な根拠があって、新しい証拠が出たときに自分の判断を修正する用意がある」のであれば偏見ではないと考えてもいいという裏付けを得たようで、差し当たり自分の頭にあったことが偏見ではないと意を強くしました。

というのも、マロニエ君は関東地方のあるエリアにいささか否定的イメージを抱いており、そこには一定の経験と根拠と自信を持っているのですが、さりとて声を大にして言えることではなく、現実は現実だからしかたがないというところです。
市というのでは少し足りないし、県というのでは広すぎるので、その間を取ってここではエリアとしますが、全国的にもつとに有名で、それも非常に高評価をもって上位にランクされてしまうエリアなのですが、どうしようもなく感じてしまう固有の気質というか土地柄みたいなものがあって、それがマロニエ君としてはどうも好意的には受け止められません。

虚栄とニセモノ感にあふれ、人間的にもあまり感心できない気質をもつ人の比率が高いと経験的にも感じます。ちなみにマロニエ君は若いころ2年ほどこの地に住み暮らしたこともありますが、充実した東京生活とは打って変わって、こんなにも違うものかと深く失望したことは今でも忘れられません。
このエリアの人達は、身の丈を超えた自信を持ち、それは通常の地元愛みたいな可愛気など微塵もないもの。作られたイメージに悪乗りした思い上がりというべきで、日本人らしい慎みが薄く、おしなべて信頼という点でも疑問があります。
それはある意味、東京という大都会に対して根底に流れるコンプレックスの裏返しなのかもと思いますし、このエリアが辿ってきた歴史的経緯とも無関係ではないと思います。

さて、今年の7月の下旬のこと、車好きの知人がある中古の輸入車を購入することになり、ネットの中古車検索サイトから全国を探すことになりました。全国と言ってもベンツやビーエムではないので大した数ではなく、ヒットするのはせいぜい20台ほどで、その結果、ある1台が候補に上ったようでした。
仕事が忙しいこともあって、現地には赴かず写真のみでの判定だったようですが、結局その車を買うことになり、ついては車検取得や整備などをおこなった上での納車ということに決まったといいます。
売買契約をしたのが8月に入ってすぐでしたが、実はそのショップというのが上記のエリアにある店だったのです。

「車が来たらすぐに見せに行きます!」ということで、人ごとながらマロニエ君も楽しみにしていたのですが、ずいぶん日にちも経つのに一向に納車の気配がありません。
どうなったのか聞いてみると、8月も下旬になっているというのに「まだ作業に入れていない」という回答で、当初の話ではお盆過ぎぐらいに納車ということだったのが、かなり話が違ってきているようでした。

しかも、約束よりも遅れるのであればその旨連絡があってしかるべきですが、それは一切なしで、こちらから電話しないかぎり向こうから連絡してくることはないばかりか、担当者の話し口調も、始めのころの快活さが明らかになくなり、ずいぶん気のないしゃべり方に変化していることも甚だ不愉快とのこと、尤もな話です。
この時点で8月末までの納車は不可能となり、9月へずれ込むことが確定的になりますが、それで終わりではありませんでした。

問い合わせをする度に、延期に次ぐ延期を「すみません」のひとこともなく平然と言い渡されるのだそうで、ついには9月中の納車さえも危ういことがわかってきました。
はじめは余裕の構えを見せていた知人も、もう完全に憤慨の様子です。

ただ、この知人にも甘さというべき点があり、代金をどうせ払うのだからということで、店から言われるままに契約時に全額支払ってしまったらしいことです。しかも驚いたことには一切の値引きもなく、整備関係の費用から、福岡への陸送費まで、なんらのサービスもないまま整備費用等を一円単位で加算請求してくるという、普通ではあまり考えられない高飛車な条件です。
それらを素直に受け入れたことがますます店側を傲慢にしてしまったように思われました。
従って、契約内容の甘さや店特有の問題がないとは言い切れませんが、マロニエ君はこのエリア独特のメンタルも大きいと直感しました。

中古車と言っても絶対額としては大金ですし、商売はお客さんあってのもの。信頼や他店との比較もあるのだから、そこまで一方的な都合や態度で押し切って、せっかく買ってくれた相手をそうまで不愉快にさせる合理的な理由が見つかりません。
もちろんお店の体質や担当者個人の性格などもあることは否定はしませんが、大きく見れば、ようは文化が違うのだとマロニエ君は思うのです。

マロニエ君も以前、認定中古車というのを全国ディーラー網で探したことがありますが、さすがにディーラーというだけあってどこも悪くない対応だったけれど、「このエリア」の2店だけはやはり様子が違っていたことを鮮明に思い出します。
意味もなく上から目線を漂わせて感じは悪いし、その中の一店に至っては主任とやらが自分の自慢を展開、まるで客と張り合っているかのような微妙な態度に呆れ、車は気に入っていたけれどあと一歩というところで破談にしたことがありました。

人によっては、それはマロニエ君の「偏見」であって、たまたま。みんながみんなではない筈、罪なき人までエリアで十把一絡げに見るのはいかがなものか…といった反論をされると思いますが、これ以外にも根拠となるネタはいくつもあるし、世の中、そういくつも偶然が重なるものではなく、やはりそこには地域性や特殊性みたいなものがあるのは事実だと思います。

日本は外国と比較すれば信頼性が高いというのは事実だと思いますが、それでもやっぱり地域固有のクセみたいなものはあるわけで、そこは注意が必要だと思います。
知人の車は、さすがにもうそろそろとは思うけれど、いまだに納車されてはおらず、どうなることやら…。
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パリのソコロフ

グリゴリー・ソコロフは「知る人ぞ知る、現役世界最高のピアニスト」というような評価の下、一部には熱狂的なファンが多いようで、並のピアニストでは満足できない音楽通の人達の間で支持されているとか。

あまり知らない頃は(今も知っているとは言い難いけれど)、そんなにすごい人がいるのか…という感じで、ちょっとYouTubeで見てみたり、10枚組ぐらいのCDを購入するなどしてしばらく聴いたりしていたものでした。

ある意味、往年のロシア型大ピアニストの生き残り的な印象でもありました。
どれを聴いても、絶対に沈まない大船に乗っているようで、なるほどとは思ったし、その独特なパフォーマンスには納得させられてしまう風圧のようなものがあり、これぞまさしく大物というところでしょう。
一部の評価はあるていど納得できましたが、ではそれで衝撃を受けて自分もファンになりCDを買いまくったかというと、総じてマロニエ君の趣味ではないためかそこまでの熱気は帯びませんでした。

そのソコロフのDVDをたまたまネットショッピングで目にしたので、一度ちゃんとしたかたちで視聴してみようというわけで購入しました。
パリ・シャトレ座の暗い舞台にスタインウェイがポンと置かれ、これから始まるリサイタルのソリストというより、ただの通行人みたいな足取りでそそくさと現れたソコロフは、まずベートーヴェンのソナタ(No,9/10/15)を立て続けに弾きました。

視覚的に驚いたのは、やはりその圧倒的なテクニックと、完全というか異様なまでに脱力しきった指さばき。
さらに肩から腕全体を大きく使うあたりは鳥の翼のようでしなやかではあるけれど、あまりにもいちいちがその動作になるのは、そこまでする必要があるのかという疑問を感じたり…。

腕の上げ下げの度に演奏上の呼吸が入り、個人的にはそれなしで進んで欲しいような箇所もたくさんありました。

そうはいっても、強靭なフォルテ、対して弱音域ではこれ以上ないという柔らかな音でいかようにも語る術をもっているのは、これだけでも聴く価値があると思います。

さらに印象的だったのは、どの曲に対しても精神的集中がものすごく、終始全身全霊を打ち込んで身をすり減らさんばかりに演奏する姿でした。演奏家がこれだけ自分のエネルギーを惜しげなく投入して演奏しているという姿には圧倒されるものがありました。
いまどきのサラサラと無機質な、疲れの少なそうな演奏でお茶を濁す中途半端なピアニストが多い中、このソコロフの演奏にかける熱を帯びたような姿勢というものは、まずそれだけでも大変尊いものだと感じずにはいられません。

ステージマナーも独特で、最後のプロコフィエフのソナタが終わって万雷の拍手が起こっても、アンコールを弾いても、何度カーテンコールが続こうとも、表情は一貫してブスッと不機嫌そのもの。
一瞬の微笑みもないのは無愛想というより、ここまで徹するのはむしろご立派というべきでしょうし、そこがまた聴衆にも媚びない孤高のピアニストといった風情に映るのでしょう。

ただ、敢えて書かせていただくと、音楽的にはやはりマロニエ君の好みではないところが多々あって、美しい音楽を聴く楽しみというより、ソコロフという異色のスーパーピアニストの妙技を拝聴するという感じで、まさに彼の紡ぎだす世界に同席するという感覚でした。
気になるのは、あまたのフレーズや楽節ごとに深く大きな呼吸の刻みがあって、せっかくの音楽がいつも息継ぎばかりしているような感じを受けたことで、聴いていて次第に少し疲れてくるのも事実です。

それと、音楽的な表情というか語り口はわりにワンパターンのように感じたのも事実で、その点ではアンコールで弾いたクープランの二曲はとても好きだったし、バッハも素晴らしく、あまり直接的な表情を求められない作品のほうが向いているような気もしました。

ベートーヴェンもプロコフィエフも個人的好みでいうと大きく構えすぎて却って作品が聴こえてこない気がするし、ショパンもちょっと感性が合っていない気がします。

でも、こういう人が玄人受けするというのはよくわかりました。
音楽的に好きでも嫌いでも、とにかくすごいものに触れているという特別な感じがあるのは事実です。
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