「簡単に弾けそう」

テレビの某音楽番組で、「ピアノの巨匠と…」というようなタイトルで、男女二人の日本人ピアニストがスタジオに招かれての放送回がありました。

女性は日本国内限定で有名な中年の方、男性はよく知らない若い人でした。
ピアノがメインで、ピアニスト二人が登場したからには、それなりのなにかテーマをもった企画と思いきや、なんだったのかよくわからない漠然とした内容に、思わず「なにこれ?」と思ってしまいました。

司会を担当するヴァイオリニストが、それぞれに「最も影響を受けたピアニストはだれですか?」というような平凡な質問をしたところ、その答えは平凡きわまりないもので、女性ピアニストは「ルビンシュタイン」で男性は「ミケランジェリ」という、定番すぎる答えにも唖然。

番組企画のシナリオなのか、本心からそうなのかわかりませんが、マロニエ君としてははっきりいってズッコケました。さらにその後に出てきたもうひとつの名前がホロヴィッツで、はいはいというだけ。
もし、おなじ質問をエマールや内田光子にしたら、へええというような名前と、一聴に値する理由説明があることでしょう。

で、スタジオの女性ピアニスト曰く、昔のLPを持ってきたといってそれをかざしながら「私はルビンシュタインの弾くポロネーズを、寝る前に部屋を真っ暗にして、ステレオで、大音量でかけて毎晩寝てた」といい、思わず「ホントに?」と思いました。
いくつの頃の話か知らないけれど、毎晩?寝る時間に大音量?針は自分で上る方式だったの?ステレオは朝まで電源入りっぱなしだったの?などといくらでもつっこみを入れたくなります。

もちろんルビンシュタインもミケランジェリも大変なピアノの巨匠であることに異論はないけれど、いやしくもピアニストを生業として、この世界に長年首を突っ込んでやっている以上、もうすこし専門的な内容が欲しかったのです。
より正確にいうなら、ルビンシュタインでもミケランジェリでもいいのだけれど、なるほどと納得させられるようなピアニストならではの理由や根拠があっていい気がして、ただのアマチュアのような言いっぷりに驚いたのかもしれません。

そのうち、女性ピアニストが超有名曲をへんな調子で弾き、なんでその曲をそのタイミングで弾くのかもわからなかったし、またちょっとおしゃべりになり、続いて男性ピアニストがラヴェルを彈かれました(センスの良い演奏だとは思いました)。

このあと、スタジオセットの中に置かれたピアノ(ハンブルクスタインウェイD)が画面上は何の前触れもなくすり替えられ、一見したところさっきのに比べてずいぶんくたびれた感じのニューヨークのDに変わっていました。

ホロヴィッツが使ったという有名な楽器で、ああそのためにホロヴィッツの名前を出して後半に繋いだのかという見え見えの流れです。
二人のピアニストも嬉しそうに触ってみましたが、印象はもっぱらキーが軽いということばかりで、音色や響きに関するコメントは何ひとつありませんでした。
それどころか、女性のほうは、このピアノなら「なんかパリパリ弾くのすごい簡単に弾けそう」「かーるいかるい、どんな難しいのもフルフルフルって行けそう」「車で言ったら改造車ですよね」と、ホロヴィッツの演奏には楽器のほうにも特種な秘密があった…とも取れるコメントには少々驚きました。

最後に、ホロヴィッツがアンコールでよく弾いたシューマンのトロイメライを、女性ピアニストのほうが弾きました。お顔は恍惚の表情でしたが、ただ音符を弾いただけでした。
まさかこのピアノも、後年日本に連れて行かれてこんな使われ方をするとは思ってもみなかったのではと思うと、なんとなくその年をとった枯れた感じのシャープな姿の中に、ひとひらの哀れを感じてしまいました。
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標識後進国

このところ高齢者が引き起こす交通事故がちょっとした社会問題になっています。
たしかに、アクセルとブレーキを間違えたり、高速道路を逆走したりして、それによる死傷者もでているのですからなんとか解決されなければならないことだということに異論の余地はありません。

ただ、これを契機として高齢者から運転免許証をどんどん取り上げるような単純な解決法に傾くことは、個人的にあまり好ましくないと思っています。テレビで言っていましたが、さっそくその対策案として、車両の方にもいろいろなアイデアが盛り込めるのではないかということで、中には一定以上の力(時間?)でアクセルを踏み込むと、機械が誤操作と判断してブレーキを作動させるなど、今日の技術をもってすれば解決のための方策はいかようにも立てられると思います。

それでなくとも、人は間違いを犯すものなので、これだけテクノロジーが発達したなら、それを前提とした安全機構を盛り込んだ製品づくりをする必要があり、高齢者はその間違いの頻度が若い頃より増えるというだけです。

現代は高齢者といえども人頼りでなく、独立した生活形態が求められ、孤独に耐えながら懸命に生きておられる方が多い中、安全という錦の御旗の下、まだじゅうぶん運転可能な方からまで運転免許証まで取り上げたら、ますます日常の不便と苦しみは倍加するはずです。
外に出なくなれば、心身共にリフレッシュできる機会も減り、坂道を転げるように衰えてしまうでしょう。

折しも自動運転などの技術も、実用化へ向けてほんのそこまで来ているのですから、ただ禁止ということではない温かな処理を望みます。

いっぽう、逆走などに関しては、交通環境の方にも多少は問題があるのではと思えなくもない面があることは、見過ごすことはできません。

たとえばマロニエ君も日ごろ運転していても感じるのは、道路標識のわかりにくさが挙げられます。
対面通行ではない幹線道路などには間に中央分離帯がありますが、ちょっと変則的なかたちの交差点などになると、右折しながら、おもわずどちらに行くべきか一瞬迷うことがあり、こういうことも逆走の原因になるのではと感じることもあります。

逆方向には進入禁止などの標識をもっとわかりやすく警告表示すべきであるのに、実際にはそれらしきものはほとんど何もなく、探せば言い訳程度の小さな標識が隅にポンと一つおかれているだけという状況には驚くばかり。
起きてしまった事故には大騒ぎですが、未然に防ぐ策はとても万全とは言いかねるのが現状です。
さらにひどいのは、都市高速などではジャンクションでルートが枝分かれしますが、よほど走り慣れている場合を除き、ここで望む方向へ自信をもって走っていくことはかなり難しく、これはひとえに標識の不備が挙げられます。

むろん標識はあることはあるものの、緑地に小さな白文字で複数の地名がごちゃごちゃ書いてあるのみで、まず字が小さい。
そこへ制限速度は60km/hまたは80km/hで、実際それなりの速度が出ているものだから、アッと気がついた時には標識を確認する間もなく通りすぎてしまいます。
次に標識が出るのは、分岐する直前で、こうなると直接の安全へ意識が行ってしまうのため標識をきちんと確認する暇がありません。サブリミナルではあるまいし、一瞬で判断することが求められるのは危険この上ないし、事故を誘発させると思います。

実際マロニエ君の友人も、同じ場所で何度も違う方向に行ってしまい、次のランプでしぶしぶ下に降りたというような話を聞かされ、みんなが同じような印象を持っていることは間違いないようです。
なぜもう少し、デカデカと、わかりやすい標識を繰り返して掲げないのかと、これは本当に不思議です。

ヨーロッパでドライブ旅行した経験のある人に聞くと、たとえばドイツなどの標識は格段の違いがあるそうで、見やすくて明快な標識が必要な場所にバシッと立てられいて、日本語でもない見ず知らずの外国であるというハンディがあるにもかかわらず、自信を持って運転できたというのですから、この点は日本は道路標識後進国と言わざるをえません。

たとえ一般道でも、地図やカーナビ無しで、標識のみを頼りに目的地に行くことは、日本じゃほぼ不可能だと思います。

話は戻りますが、高速や有料道路の出口には、もっと派手派手しく進入禁止の警告を出すべきで、それがないためにヒヤッとした経験のある人は若い人でも結構いるだろうと思います。
とにかくこの点、日本の道路は標識誘導において甚だ不親切で、それを身体能力の劣る高齢者のせいばかりにするのは大きな疑問を感じます。
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切実感がない

ラトヴィア生まれのピアニスト、マリア・レットベリによるスクリャービン・ピアノ独奏曲全集を聴いてみました。

スクリャービンのピアノ曲のCDはたくさんあるものの、その多くが曲集か、ソナタ、練習曲、前奏曲の全集といった感じで、独奏曲全集というのは知る限りでは数少なく、同一のピアニストで一気網羅的に聴いてみるべく購入してみました。

通常マロニエ君はCDを聴くときは、何度も繰り返し聞くのが自分のスタイルですが、今回はとりあえず一度さっと流す感じで8枚を聴いてみました。耳に馴染んだ曲が多くを占め、これといって新鮮味はない代わりに、意外な事も浮かび上がりました。

…なんて書くほど大げさなことでもないけれど、ひとことで言うとスクリャービンのピアノ曲をこれだけ立て続けに聴くのはマロニエ君にはいささか演奏が退屈で、ひとことで言うと「飽きてしまった」というのが偽らざるところ。

レットベリは若い女性ピアニストですが、技巧も十分でどれもよく仕上がった演奏ではあるけれど、現代的に綺麗にまとめられ、それ以上の印象が残りません。
CD店のユーザーレビューでは、3人揃って五つ星という最高評価ですが、マロニエ君はそこまでかなぁ…というのが正直なところ。

エチュードなどはリヒテルの名演が耳にこびりついて離れないし、ソナタではウゴルスキのデモーニッシュな表現も忘れがたいものがあります。そもそもスクリャービンのピアノ曲というのは、仄暗い官能の奔流みたいなものが中心にありますが、レットベリの演奏では作品の闇の部分とか精神的な比重が少なく感じられ、現代の明るい場所で、新しい楽譜を置いて、普通に弾いている感じが目に浮かんでしまいます。
休憩時間には、かばんの中のスマホを取り出して触っているような感じ。

逃げ場のないような暗さも、死の淵に立たされた絶望感ももの足りないし、スクリャービンらしい切実感みたいなものがどうにも迫ってこない。

最近の演奏では、ボリス・ベクテレフのものが最も好ましく思い出され、内的な襞にも迫るようなところがあって、やはりベテランの表現力はさすがだなあとも納得させられます。

ただ、こういう印象はこのCDのみならず、例えばショパンコンクールなどを聴いても感じるところで、ピアニストが弾きたいから、あるいは弾かずにはいられないから弾くのではなく、受験勉強のように準備した演奏特有のしらけ感があります。一見とても良く弾きこなされているし、よく弾けていると思える瞬間も多々あるけれど、そういう演奏を、現代の新しいパァーン鳴るピアノで弾いたというだけで、あとに引きずるような何かはありません。
読書で言う読後感のようなものが残らない。

演奏が終わったら、聞いている側も同時に終わって、もう次のことを考えている状態。

これは生の演奏でもCDでもまったく同じで、いわば行間から、演奏者の喜怒哀楽とか表現したい本音が聴こえてくるようなものでなくては、結局人の心をつかむことはできないと思います。
これはオーケストラでも同様です。
指揮者の合理的な計算が見えて、全体の構成、緻密な細部、見事なアンサンブル、意図され仕組まれた聴かせどころなど、ぜんぶ自前に準備されて粛々とそれを本番で実行しているだけで、これじゃあどんなに見事な演奏でも酔えないし、興奮はできません。

楽譜至上主義で、画一的な演奏形態が蔓延したものだから、演奏から精気が奪われ、音楽が鳴り響かず、魅力が一気に減退していったのかもしれないし、情報過多のせいかもしれません。
どんなに上手い人でも、気持ちの入っていない、精度は高いけれど大量生産的演奏。

演奏者がぎりぎりの領域に入り込んで、一か八かの勝負をかけたり、燃え尽きるまで炎に焼かれたりするような、そんな危なさがないと音楽は衰退するばかりでしょう。

話が脇道に逸れましたが、それほどマリア・レットベリの演奏が無味乾燥だと言うつもりではなかったのですが、でもまあどちらかというとそっち寄りの演奏だとは思いました。
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カテゴリー: CD | タグ:

これも権力

いま話題騒然のお隣の国の大統領の親友やとりまき達が、権力を私的に乱用したスキャンダルが連日ニュースやワイドショーを賑わせていますが、ふとピアノの業界にも権力の乱用はあることを思い出しました。

業界のある方から聞いたおかしな話です。

ひょんなことからピアノ教師の話になり、某地域の重鎮といわれるような有名な先生がおられて、その先生のピアノの修理(具体的な内容は控えます)を依頼されたときのこと。
その修理をするには、パーツの代金と手間賃がこれこれしかじかという事を伝えると、なんとその重鎮の先生は、あからまさに豆鉄砲をくったような変な表情をされたというのです。

それはこうです。事前に修理代を告げられたということは、この作業がサービスではないということを意味したわけで、それがこの先生の甚だ身勝手なプライドが傷つけられたというのですから、もう笑うに笑えない話です。

当人にしてみれば、ちょっとばかり名の知れた教師であるから、自分と懇意にすることはいろいろメリットもある筈ということなのか、その先生所有のピアノに関することは無料サービスが当然のはず…という感覚になっているのだと思われます。

この手の先生たちにとって良い調律師さんというのは、調律の腕は普通でいいから、それよりは先生サイドに都合のいいように何かと便宜を図ってくれて、腰が低く、まるで秘書か召使いのように気を利かせて動きまわってくれる、コマネズミのような人なんでしょう。
調律を口実に、プラスしてその他の雑用をどれだけ忖度して、しかも「タダで提供」してくれるかがポイント。

コンサートや発表会ともなると、楽器店の営業の人などは当然のように動員され、あらゆる雑用、果てはお客さんの整理誘導から駐車場の係り、どうかすると司会などまでやらされている調律師さんもあるわけで、それはつまり、調律以外はお金の取れないお手伝いに一日を費やすことになるわけで、これほど相手をバカにした話もありません。

そして上記のように技術者として規定の料金を請求することさえまかりならず、それを自ら察しない調律師には以降お声はかからなくなるという理不尽かつばかばかしい世界。
その方はかなりの腕を持った調律師さんなのですが、そんなことはその先生にしてみればどうでもいいことで、もっぱら自分を特別待遇にしなかったことが何にもまして許せないのでしょう。

調律師でも、ピアニストでも、あるいは教師でも、プロなのであれば、その本分における能力とか結果によって評価されるのが本来であるのに、これでは力関係に付け込んだ「たかりの構造」が体質化している言わざるをえません。
程度の差こそあれ、上下左右、まわりの先生がみなやっているから、自分もそういうもんだと思い込んでいる先生もおられるとは思いますが、少しは自分の頭でものを考え、良識に基づいて判断してほしいものです。
まさにゴミみたいな権力の濫用で、見るたび聞くたびとても嫌な気分に襲われます。

現代では、最もコストが高いとされるのが人件費です。
それを、先生やピアニストを名乗るだけで、事実上お金を出すのは年に数回の調律代ぐらい。生徒や知人の紹介を匂わせて人をタダでこき使うのが常態化するのは、大手スーパーなどがメーカーの社員を出向させ、店頭で販売行為などをさせて自前の店員数を減らすような悪辣な行為だということを肝に銘じるべきでしょう。

企業レベルまでいけば、発覚すれば法的処罰や行政指導の対象にもなりますが、たかだかピアノの先生ではそんな社会的制裁を受けることもないでしょうから、ある意味この業界特有の、治る見込みの無い慢性病みたいなものかもしれません。
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目覚めの変化

先日、知人でニューヨークスタインウェイをお持ちの方のお宅へ、ピアノ好きの方と連れ立って遊びに行きました。

ここのピアノに触らせていただくのは久ぶりですが、その太い鳴りや味わいに感心するばかり。
音にも色気みたいなものが加わって、音楽に理解あるオーナーのもとにあるピアノは、ふれるたびに色艶が増していくようで、逆の場合は楽器が少しずつ荒れていく感じがします。
そういう意味では楽器を活かすも殺すも、やはりオーナー次第ということになるようです。

日々大切にするのも、良い設置環境を作って維持するのも、優秀な技術者を呼ぶのも、すべてはオーナーの意志で決まることですから、やはりそこは大きいというか、すべてです。

よく鳴るニューヨークには、独特の生命感があり楽器が直に語りかけてくれるような温かさを感じます。
このピアノ、以前であれが30分も弾いていると、ボディの木や金属が振動に馴れるのか、明らかに鳴ってきて驚きと興奮を覚えたものですが、今回はその変化に至る時間が短縮され、ものの15分もすると早くも鳴り方が変わってきました。
もちろん、より朗々と鳴ってくるわけで、この反応そのものがすごいと思いました。
まるで寝起きの身体が、だんだんと本来の活気を帯び、血が巡り、体温が上がってくるようです。

ハンブルクでここまで明確に変わるというのはあまり知らないので、アメリカ製とドイツ製の作りの違いや使われる材料の違いによるものかもしれませんが、確かなことは素人にはわかりません。
ただ一点わかる違いは塗装。

1980年代ぐらいまでのハンブルクは黒の艶消し塗装が標準でしたが、それ以降はすべて艶出し塗装となりました。
この艶出し塗装というのがかなり分厚い塗装で、いつだったかエッジ部分が何かにぶつかって塗装が欠けているピアノを見たことがありますが、その塗膜のぶ厚さに驚いた記憶があります。
まるで固いプラスチックでピアノ全体がコーティングされているようで、これでは本来の響きを大いに阻害するだろうと思ったものです。

その点、艶消しのほうが塗装がまだ柔らかだったような印象があるし、さらにニューヨークのそれはむしろ薄さにもこだわっていると聞きます。表面はヘアライン仕上げという繊細かつ節度ある半光沢をもつ処理で、この塗装は見た目は繊細で美しいけれど、傷がつきやすく、部分修復がしにくいという扱いづらさがあり、実際アメリカのホールなどでは、全身キズキズの斬られの与三郎みたいなピアノがめずらしくありません。

でも、それさえ気にしなければ、そのぶんボディの響きなどをよく伝える特性があるようで、好ましい個体では音の伸びがよく、明るく軽やかなトーンが湧き出るようです。

それと今回も実感したことは、すでに何度も書いたことですが、スタインウェイは弾いている本人より、離れて聴いてみるとまるで別のピアノのように音がたっぷりとした美しさで耳に届くのが圧倒的で、やっぱりまたそこに感嘆させられました。

その点、日本のピアノでは、離れてもとくに変化しないならいいほうで、むしろ高級仕様と謳われるモデルの中には、弾いているぶんには尤もらしく取り澄ましたような音が出ているのに、ちょっと距離を置くと、えっ?というほど安っぽい下品な音であることにびっくりすることが…よくあります。

これなどは、まさに弾いている本人だけ気持ちよければいい系のピアノで、スタインウェイとは真逆のピアノだといえるでしょう。ならば自宅で楽しむぶんにはこちらのほうが向いているという理屈も成り立ちそうですが、やはり楽器たるものそれではなにか大事なものが間違っている気がします。
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苦難の道

青柳いづみこ氏の新著、『ショパン・コンクール 最高峰の舞台を読み解く』を読みました。

想像以上に厳しいコンクールの世界、しかるにその覇者といえる人達のこれといってさほどの魅力もない演奏を聴くと、なんだか複雑な気分になるというか、要するにコンクールというのは、つまるところなにかの戦いの場であって、真の音楽家(いろんな意味があるけれど)を発見発掘する場ではないということがはっきりわかりました。

それでも、よほど桁違いの天才とかでない限り、コンクールという手段をもって世の中にデビューせざるを得ない若いピアニストたちが気の毒でもあるし、こういうことを書いたらいけないのかもしれないけれど、ピアノを弾くことを職業になんてするものじゃないということを、嫌でも悟らされる一冊でした。

青柳さんが直接そういうことを書いておられるわけではもちろんないけれど、読んでいてそういうことを最も強く感じたというわけです。
先進国では、昔に比べてピアニストを志す若者が激減していると言われて久しいですが、これは端的に言って、市場原理の前では当然のことなのだろうと思います。

現代は教育システムが進歩充実することで、技術的訓練は科学的かつ合理化が進み「弾ける」レベルの偏差値は上がっているようですが、同時に眩しいようなオーラを放つようなスター級のピアニストというのは存在しなくなりました。
平均が上がって、逆に超弩級の人がいなくなったということですね。

昔はコンクールで「ツーリスト」といわれたらしい、まるきりコンクールのレベルに達していない人が観光客気分(実際そうかどうかは別として)で出場するような「弾けていない」人がいたと聞きますが、そういう手合はほとんどなく(というか事前審査で紛れ込む余地が無いようになっている)、とりわけショパンやチャイコフスキーのような国際的な大舞台でのコンクールになると、その実力は大半が拮抗しているとありました。

解釈の問題、審査員の主観、コンクールの傾向など、本人にもわからないような僅かな差によって、次のラウンドに進めたり進めなかったり、コンクール毎に顔ぶれは入れ替わる由で、ほとんど理不尽に近い世界だとも感じます。

あるていど予測していたことではあったけれど、こうしてあちこちのコンクールに足を運び取材した人が、著書に記述されているのをみると、なんだかもう単純にウンザリしてしまいました。

何事においてもそうだけれども、時の経過とレヴェルアップによって、創設時の目的や精神が置き去りにされたというか、かけ離れた現状となってしまうのは、いたしかたのないことなのかもしれません。

ショパンコンクールに関しても、申し込みをしてコンクールを受けるには、まず書類とDVD審査、春にワルシャワ行われる予備予選、秋の本選は第一次予選、第二次予選、第三次予選、グランドファイナルと、これだけを見ても6つの厳しい選考をくぐり抜けていかなくてはならないようで、それがまた想像以上の難関であることが記述から伝わります。

しかも、DVD審査といっても、ただホームビデオかなにかで撮ったものでいいのかと思いきや、その映像・音質のクオリティによって当落が大きく左右されるというので、中にはそのためにホールを借り切り、専門家を呼んで収録してもらう人もいるとかで、その費用も自費で賄わなくてはならないとは、出だしからもうぐったり疲れてしまいます。
幼少期から練習に明け暮れ、音大を経て、世界的なコンクールに出場しようかとなるところまで到達するのさえ並大抵のことではないのに、そのための準備、練習、無数のレッスン、費用、そしてコンクールに出るためのDVD作りひとつにもこれだけの労力が必要とは、考えただけでも頭がクラクラしそうでした。

さらにコンテスタント(コンクールを受ける人)や教師は、常に新しい解釈や傾向を採り入れながら、受かるための訓練を続けていくだけでなく、海外へあちこち遠征し、審査員への顔つなぎや自分の演奏アピールなどまでやっているというのですから、「なにそれ?」というのが率直なところです。

じっさいのステージアーティストになる人達は、若い頃から、こういう世俗的な努力も一切怠ることなく、それでいて演奏の腕も磨き、レパートリーも増やし、コンクールに出て、それでも大半は努力に見合った結果は得られないほうが多いのだから、やるせないものだと思います。

「どんな世界でも五十歩百歩」という人もあるかもしれませんし、実際そうかもしれません。
しかし、マロニエ君の夢か妄想かもしれないけれど、楽器を弾く人はもう少しきちんと才能を見極められるチャンスがあって、その実力で正当に評価される世の中であって欲しいと、やはり思ってしまいます。
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逆に正確?

マロニエ君の自室は決して広い部屋ではありません。
ここは、寝る、本を読む、着替えをする、音楽を聴きながらパソコンを見るだけの場所なので、それらに必要なもので溢れており、ときどき思い出したように反省して整理しますが、いつの間にか同じような状態に戻っています。

自分だけの空間であるから、物の配置もいい加減で、成り行きで現在のような形態なっており、椅子から立って、部屋を出る短い通路(というかすき間)も、他人が通ったら物を引っ掛けそうな状況になっています。

昨日そこを通過するとき、左足の小指を、置いてある非常用の椅子のキャスターにしたたかに打ち付け、幸い怪我はなかったけれど、一瞬めまいがするほどの痛みと同時にバランスを崩してあやうく周辺に積み上げられたCDなどともろとも転倒するところでしたが、ぎりぎりのところで壁に指をささえ、かろうじて踏みとどまることができました。

ジンジンと疼く足の指をさすりながら、そろそろ少し物を片付けないと、思わぬ大けがをする危険があるなぁ…などと思いつつ、ともかく無事だったこともあり、そんな危機感もすっかり消滅してしまっていました。

それから数時間後、外出から戻り、着替えなどをすべく自室に入ったところ、今度は右足の小指を同じ椅子のキャスターにまた引っ掛けてしまい、前回ほどではないにせよ、まあそれなりの痛みに思わず顔をしかめることになり、今日はついていないなあと思いながら着替えをしたり、メールのチェックをしたり。

その後、用を済ませて部屋を出るべく、再び椅子を立ってドアに向かったところ、なんと三たび件の椅子のキャスターに左足の小指がヒットして、後の2回ははじめのような激痛と転倒につながるほどのものではなかったけれど、さすがに日に三度とは薄気味悪くなり、自分がどうかしたのだろうか…と考えこみました。

椅子のキャスターの向きでも変わっているのかなど、状況確認してみると、一つの事実が判明。
いつもは家具にピッタリくっつけている椅子が、ものを出し入れした後の戻し方が悪かったのか、このときは家具との間にわずかな(5cmほど)のすき間がありました。つまりそのぶん、キャスターの位置がいつもより前に出ていたというわけです。

日常の中で、まったく無意識・無造作に動かしている身体ですが、実はその加減を体がちゃんと覚えて動いていて、わずか5cmちがってもぶつかってしまうほど危ういところを「正確」に動いていたのかと思うと、自分のことながら、なんだか人間の体ってすごいもんだなあと妙に感心してしまいました。

考えてみれば、人のからだの動きは脳の働きに司られていて、それと身体的条件が重なって、実際にはほぼ決まった動きをきっちり繰り返しているのかもしれません。
となると、ピアノを弾いてもよほど丁寧にさらっていないと、ほぼ同じ場所で必ず間違えることなども、見方を変えればそれだけ正確に動いている証なのかもと思いました。

この動作というか能力を極限まで磨き上げたものが、芸術家の妙技であり、アスリートのパフォーマンスであり、職人の至高の技なんだと思うと、人の身体のクオリティというものが、実は私達が思っている以上にとてつもなく精巧なものに思えてきました。

どんなによくできたロボットでも、生身の人間にはとても敵わないことがその証拠かもしれません。
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うれしい再会

こんな偶然があるのかということがありました。

マロニエ君のフランス車趣味のほうの話になりますが、このところヨーロッパや日本国内のフランス車/イタリア車の専門ショップの類でも非常に評判のオイルのブランドがあります。
ちなみにオイルというのは、車用のエンジンオイルとかギアオイルなどのことで、むろん食用ではありません。

次回交換時にぜひ一度このオイルを使ってみようと思ったけれど、いくらネット検索しても通販のルートにはそれらしき商品は一切なく、やむを得ず輸入元に問い合わせをすることに。
それによると、このオイルを入手するには全国に散らばる「取扱店」から直に購入するということになっているらしく、価格も各店で聞いて欲しいとのことで、福岡での取扱店をいくつか教えてくれました。

いまどき通販がないとはずいぶん手間のかかることではあるけれど、それしかないなら仕方がない。
数軒の中から選んだのは、自宅から最も距離の近そうなルノーのディーラーでした。

価格も意外に常識的であったし、友人のぶんも合わせて10リッター注文することになり、数日後、入荷した旨の連絡がきました。

受け取りのため、お店に着いて車を駐車していると、すかさずショールームから若いお兄さんがすっ飛んできて、いかにもディーラーらしい対応をはじめます。こっちはただオイルを受け取りに来ただけなのに…と思いつつ、ひとまず言われるままにショールームへ入り、お願いした担当者の名前などを告げているときのこと。
ふわりと一人の男性が近づいてきて、こちらの顔をまじまじと見つめながら「あのう…❍❍さん(マロニエ君の苗字)ですよね」と言い始めました。

「えっ、だれ?」と内心思いつつ、たしかに見覚えのある顔ですが、だれだか咄嗟には思い出せず、一瞬とても焦りました。
するとすぐに自ら名乗ってくれたのでわかりましたが、かれこれ20年以上も前、マロニエ君がまったく別のディーラーでルノーじゃない車を買ったときについてくれた、担当のセールスマンS氏だったのです。当時、ずいぶんとお世話になった人だったのに、もともと関東の人で、数年後には関東へ転勤されてからはすっかり音信は途絶えていました。

その後、自動車業界から一時退いて、その後再び車の業界に戻り、ルノー輸入元に勤務されるようになった由。
マロニエ君がショールームに入ってきた時から、すぐにわかったんだそうでうれしいことでした。
互いにこの邂逅に大いに驚き、しばらく昔話に花が咲きました。

そうこうするうち、視界の中でチラチラこちらを見ていた男性が、オイルの支払い明細などを持ってこちらに近づくと、「❍❍さん…私も…」というので、お顔をよく見ると、さらにそれよりも前、また別のディーラーからまったく別の車を買ったときの営業のT氏で、一か所でこんなことが二度も続くなんて、みんなでマロニエ君を騙しているのでは?と思うほどの驚きで、あまりのことに叫びたくなるほどでした。

いまとは時代も違って、人との関わりも深い時代だったこともあり、T氏とはプライベートでも車好き同士としてドライブをしたりしたこともあるし、たしかに顔立ちに当時の面影がはっきりと蘇りました。

この二人、ルノーとはまったく関係のないところでそれぞれ関わっていた人たちで、それがまったく予想もしない場所で、しかもほぼ同時に再会できるだなんて、大げさですがそのときはほとんど奇跡が起きたように感じました。
しかもS氏に至っては、現在も関東を拠点に、月に1〜2度のペースで福岡県内のディーラーを回っているとのことで、きっと偉くなったんでしょうが、たまたまこのときだけ、このディーラーにいたということでした。

T氏のほうはこのディーラーにお勤めとのことでしたが、マロニエ君はフランス車は好きでもルノーにはこれまでご縁がなかったために、ここに訪れるのも初めてで、長らくお会いするチャンスがなかったというわけ。
S氏には「へーえ、大病院の院長回診みたいに、あちこちの店舗を見まわっているというわけですね!」とからかうと「いややや、やめてくださいよ〜!」などと破顔していました。

お互いにずいぶん年をとってしまいましたが、若かったあの時代に関わった人というのは、なんだか格別なものでしっかり繋がっているような気がしました。20年以上のブランクがたちまち取り戻せるような何かが、昔の人間関係にはあったのだと思います。
今どきは、よく顔を合わせる相手でも、たいてい上辺の付き合いに終始する時代ですから、よけいにそれを感じます。

この先もしょっちゅう会うことはないけれど、こういう繋がりも大切にしていきたいと思いました。
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アプリがすごい

スマホというものがどうも好きになれず、ずっとガラケーで押し通してきたマロニエ君でしたが、今年のはじめ、機種変更のため赴いた店頭での勧誘に負けて、電話器はガラケーのままiPadとセットのプランとして、いらい軽くもないタブレット端末をカバンの中に入れて持ち歩くようになりました。

そんなものはいらんと思っていたけれど、あればあったでやはり便利なことは事実であるし、だんだんそれナシでは済まされなくなるよう人間が慣らされていくあたりは、やはり自分の社会の趨勢に呑み込まれたという感じです。

マロニエ君がスマホにそっぽを向いている間に、この分野は恐ろしいまでの勢いで発展したようで、ありとあらゆるアプリが出まわっている(らしい)ことが、ほんのすこしずつわかって舌を巻きました。

先日、友人の車に乗ってでかけていたら、都市高速の下の一般道を走行中、後部座席に置いたカバンの中から突然人の声がしているのにびっくり。
なんと、スマホに入っている「オービスナビ」というアプリが、高速上に設置されたオービスの存在を知らせるべく、勝手にしゃべっているものといいます。「え、なにそれ?」。
よく聞いてみると、自動速度取締機やNシステムなどの路上カメラの位置などを知らせてくれるアプリなんだそうで、そんなものまであるとは驚いてしまいました。

それに限らず、ほかにもいろいろなアプリが際限なくあるようで、ほとんどなにもしていないマロニエ君のiPadなんて、能力の1%も使えていないのだろうと思います。だいいち、いろんなアプリって、そもそもどこで探してくるのかと、そこからしてわけがわかりません。

後日、私も真似をしてiPadへオービスナビをダウンロードすると、あっけないほどすぐにできました。
で、どうやって使うのかと思っていたら、どうする必要もないようで、ただ端末を車に乗せて走ると、さっそくあれこれと注意喚起してくれるのには参りました。
なんでも、端末がある一定の速度で移動し始めると、それを感知して自動的にアプリが起動し、データに基づいて各種の警告をしてくれるというもので、ただただ驚くばかり。

さらに、グーグルのカーナビアプリをダウンロードすると、なんとこれが、これまで使っていたカーナビと何ら遜色ない機能を持っていることにさらに驚きました。

こんなことで驚きまくって、それをいちいちブログに書いていることじたい、多くの人からすれば「キミ、いまごろ何いってんの?」といったところでしょうけれど、まあとにかくマロニエ君は最近知ったのですから、そのぶん驚きも新鮮なわけで仕方ありません。

それでなくても、すでにあるカーナビの地図更新だとか、取り締まり用のお知らせ機能のついた機器を購入しようかなど、あれこれと古臭いことを思っていたのですが、もうそんなものを買う必要もなくなりました。
しかも、これらのアプリは無料なのですから、かくして世の中、物が売れずに慢性的な不景気から抜け出すこともできないのもうなずけます。これでだれが儲かっているのか、もうわけがわかりません。

最近、カーショップ内のカーナビの売り場などがずいぶん人も少なく活気がないなあ、標準で付いている車が増えたからかなあ…などと思っていましたが、カーナビにしろ、CDにしろ、何もかもがスマホに奪い取られてしまっているようです。
つい最近も、海外に出張中の友人と、LINEで普通にタダでやり取りができたて、便利なことは非常にありがたいけれど、この先いったいどうなっていくのかと不思議な気分にもなりました。

21世紀は『2001年宇宙の旅』のような世界になったかならなかったか、そこは解釈の仕方でしょうけれど、少なくとも昭和の時代には考えられないような最新テクノロジーが世界を席巻したことは間違いないようです。
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