10代のキーシン

過日、ピアノの知り合いがお遊びに来宅され、夕食を挟んで深夜まで、7時間近くピアノ談義に費やしました。

その方はマロニエ君など足下にも及ばないような高度なiPad使いということもあり、話題に名前が出るとほぼ同時ぐらいに指先はササッと画面を検索して、そのつどいま口にしたピアニストの音や映像が流れます。
まるで、影の部屋でスタッフがスタンバイしているテレビ番組のような運びの良さで、ただただ感心するばかり。

この日は、話や動画やCDに終始するあまり、ピアノは真横にあるのにまったく触らずに終わってしまうほどこちらに熱が入りました。

話はめぐるうち、「天才」が話題となりました。
世界の第一線で活躍するピアニストの大半はまずもって天才であるのだろうけれど、その中でもいかにも天才然とした存在のひとりがキーシンです。

彼がわずか12歳の子供だったとき、モスクワ音楽院の大ホールでキタエンコ指揮のモスクワ・フィルを従えて弾いたショパンの2つの協奏曲のライブは、当時ショック以外の何物でもありませんでした。
たしか、演奏から3年後くらいだったか、初めてこれをNHK-FMで耳にしたマロニエ君はその少年の演奏の深みに驚愕し、当時東京に住んでいたこともあり、神田の古書店街の中のビルにあった新世界レコード社という、ソビエトのメロディアレーベルを主に扱う店の会員にまでなって何度も足を運び、ついにキーシンのライブレコードを手に入れました。当時はまだLPでした。

それから初来日のコンサートにも行きました。ソロリサイタルではオールショパン・プログラム、いっぽう協奏曲では、スピヴァコフ指揮のモスクワ室内管弦楽団とモーツァルトの12番とショスタコーヴィチの1番を揺るぎなく弾いたし、その後の来日ではヴァイオリンのレーピンなどと入れ替わりで出演し、フレンニコフのピアノ協奏曲を弾いたこともありました。
とにかく、この当時はすっかりキーシンにのぼせ上がっていたのでした。

初めはLP一枚を手に入れるのにあんなに苦労したのに、今では当時の演奏や動画がYouTubeなどでタダでいくらでも聴けるようになり、この環境の変化は驚くべきことですね。

この夜は久しぶりにキーシンの10代のころの演奏映像に触れて、感動を新たにしました。
この知人も言っていましたが、キーシンについては「今のキーシン」を高く評価する人が多いようで、それももちろん深く頷けることではあるけれど、マロニエ君は10代のころのキーシンには何かもう、とてつもないものが組み合わさって奇跡的にバランスしていたものがあったと今でも思います。

現在のキーシンはたしかに現在ならではの素晴らしさがあるし、深まったもの、積み上げられたもの、倍増した体力などプラスされた要素はたくさんあるけれど、失ったものもあるとマロニエ君は思っているのです。
若いころの、この世のものとは思えない清らかな気品にあふれた美しい演奏はわりに見落とされがちですが、あれはあれで比較するもののない完成された、貴重な美の結晶でした。
現在のキーシンの凄さを感じる人は、どうしても「若い=青い」という図式を立てたがりますが、10代のキーシンの凄さは今聴いても身がふるえるようで、大人の心を根底から揺さぶるそれは、だから衝撃的でした。

とくにショパンの2番(協奏曲)に関しては、誰がなんと言おうと、マロニエ君はこの12歳のキーシンの演奏を凌ぐものはないと断言したいし、マロニエ君自身もその後キーシンによる同曲の実演にも接しましたが、あの時のような神がかり的なものではありませんでしたから、おそらく本人もあれを超える演奏はできないのかもしれません。

さて…。
ショパンの2番といえば、NHK音楽祭でユジャ・ワンが先月東京で弾いたという同曲を録画で見たのですが、個人的にはほとんどなんの価値も見いだせない演奏でした。
現在の若手の中で、ユジャ・ワンには一定の評価をしていたつもりでしたが、こういう演奏をされると興味も一気に減退します。
やはり彼女は技巧至難なものをスポーティにバリバリ弾いてこそのピアニストで、情緒や詩情を後から演技的に追加している感じはいかにも不自然。曲の流れを阻害している感じで、あきらかにピアニストと曲がミスマッチで見ていられませんでした。
尤もらしい変な間がとられたり、ピアノの入りや繋ぎの呼吸も、こういう曲では作為的で後手にまわってしまうのも、やはり自分に中にないものだからでしょうね。

あれだけの才能があるのになぜそんなことをするのかと思うしかなく、現代のピアニストはなんでもできるスーパーマンになりたがりますが、それは無理というもの。その人ならではのものがあるからこそ、人はチケットを買って聴きに来るのだと思いますし、だからこそ価値がある。

まるで場違いな猫がショパンに絡みついているみたいで、この曲に関しては衣装なども含めてブニアティシヴィリと大差ないものにしか見えませんでした。しかし最後にアンコールで弾いたシューベルト=リストの糸を紡ぐグレートヒェンになると、ようやく本来の彼女の世界が蘇りました。
やはりこの人はこうでなくてはいけません。

すべてに云えることですが、自分のキャラに合わないことはするもんじゃありませんね。
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撤回の撤回

知り合いが1960年代のスタインウェイDを買われました。

数年前、このブログを読まれたことがきっかけでご連絡いただき、それからのお付き合いになった方です。関西にお住いで一度だけお会いしたことはあるけれど、普段はもっぱらメールか電話のやり取りに終始する間柄。
ピアノ本体の話とCDや世界で活躍する演奏家の話が遠慮なくできる相手というのは、そうざらにはなく、その点では貴重な方といえます。

音楽のプロではないけれど、かつては専門教育を受けられているし、なにより心から音楽がお好きで、ご自身でも趣味でピアノを弾くなどして楽しんでおられるようです。
ご自宅ではディアパソンの大きめのグランドをお使いで、私も数年間同じピアノを持っていたことから、よく情報交換などしていたものですが、最終的にはスタインウェイのDを買うことが目標だと以前から聞いていました。

さて、2年ぐらい前だったでしょうか、北関東のとあるピアノ店に該当するピアノがあることがわかり、どんなものか見に行かれたようでした。
といっても、このピアノ店は東京からさらに新幹線か在来線、あるいはバスを乗り継いで行かなくてはならないロケーションで、一往復するだけでも、それに要する時間と労力はおびただしいものがあるようでした。
なんなら飛行機に乗ってひょいと海外にでも行くほうがよほど簡単かもしれません。

で、見られた結果はまずまずで、かなり関心をもたれたようですが、そうはいってもおいそれと即決できるような価格やサイズでもないため、すぐに購入というわけにはいかなかったようでした。
その後は折を見て、ときにはお知り合いのピアニストなども同道されて見に行かれたようですが、やはり良いピアノのようで、事は徐々にではあるけれど、一歩ずつ購入への距離を縮めているようにお見受けしていました。

その後、どれぐらいのタイミングであったか忘れましたが、とうとう購入契約を結ぶところまで事は進み、まずはおめでとうございますという運びになりました。ところが、その後何があったのかはよくわかりませんが、この話は一旦撤回され、購入も何もかもがすべて白紙に戻ってしまうという非常に残念な経過を辿ります。

マロニエ君はそのピアノを見たことも弾いたこともないけれど、写真やこまかい話などから想像を膨らませて、まずその方が買われるであろう「縁」のようなものがあるピアノだと思っていたのですが、予想は見事に外れ、自分の勘働きの悪さを恥じることに。

ところがそれから一年以上経った頃だったでしょうか、マロニエ君の地元のぜんぜん別の人物がやはりこのピアノ店を訪れました。
それによると膨大な在庫の中には、何台かのスタインウェイが購入者の都合から納品待ちという状態にあるのだそうで、その中に上記のDも含まれていることが判明します。そして、白紙撤回から一年以上経っているにもかかわらず、どういうわけかキャンセルの扱いにはならず、契約が成立したまま、あくまで納品がストップしている状態であるという話に耳を疑いました。
マロニエ君も「あれはキャンセルされたはず」だと何度も念をしますが、どうもまちがいではないらしい。

そこで、ただちに上記の関西の知人に電話して、こういう現状になっているらしいことを伝えました。
もしもまだその気があるのであれば、気に入ったピアノというのはそういくつもあるわけではないし、そういう状態でキープされているのもお店の格別な計らいだろうとも受け取れたので、この際購入へと話を再始動されるか、あるいは本当にその気がないのであれば、それを今一度明確に伝えられたらどうでしょう?というような意味のことを言ったわけです。
お店としても、本当にキャンセルという確認が取れたら、「SELECTED」と書かれた札を取り去って、再び販売に供することができるはずで、高額商品でもあるし、いずれにしろ宙ぶらりんというのは一番良くないと思いました。

というわけで多少のおせっかいであったとも思いましたが、結果的に再びピアノ店へ行かれることになり、それからしばらくの後、ついに購入されることになりました。そして今月の中旬、ついにそのスタインウェイはその方の自宅へと無事に運び込まれたようです。
聞けば、一年半の時をかけ、このスタインウェイのためだけに都合7回!!!も関西から往復されたそうで、こういう買い方もあるのかと、ただもう感心してしまいました。

マロニエ君はといえば、それがピアノであれ車であれ、ほとんど1回か2回でババッと決めてしまいますし、その折もろくにチェックやあれこれ確かめるなどは自分なりにやっているつもりでも、実はほとんどできていません。買うときは半ばやけくそみたいなところがあるし、なかなかじっくり冷静にということができない性分で、ほとんどノリだけで決めてしまうのは毎度のこと。
いやはや、じっくり見極めるとはこういうことをいうのだと感嘆するばかりでした。
いずれにしろ、少々時間はかかりましたが収まるべきところに収まったのはおめでたいことでした。
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国産アップライト

過日、久しぶりに旧知のピアノ店を訪ねました。
周囲を一面緑の田園風景が取り囲むピアノ工房です。
時代を反映してか以前よりもアップライトの展示比率が高まり、台数じたいもぐんと増えていて、手頃で上質な中古の国産アップライトに関しては見比べ弾き比べするには理想的な環境へと変貌していました。

はっきり覚えていないけれど、ちょっと思い返しただけでも15台以上はあって、どのピアノもキチンと技術者の手が入った言い訳無用の状態にあることは、いつもながらこの店の特徴的な光景です。
ふつうは、色はくすんで傷だらけのピアノをショールームに置いて、「これは、これから仕上げます」みたいなことをいう店は少なくないのですが、そのたぐいは一切なく、お客さんの目に触れるものはすべてピカピカの「商品」として仕上げられていることは、見ていて安心感があり心地よいものです。

むろん内部も外観同様に細かい項目ごとにしっかり整備されていて、どれもすぐ安心して弾ける状態にキープされているのは、本来これが当たり前と言われたらそれまでですが、現実になかなかそうなっていない店が多い中、この店のこだわりと良心を感じます。

長らくご主人が整備・販売からアフターケアまですべてひとりでされていましたが、ここ数年は息子さんがお父さんと同じ仕事を受け継ぐ決断をされて工房に入られています。それ以前は別の業界におられたにもかかわらず、わずか数年の間にまるでスポンジが水を吸い込むがごとく、あらゆることをお父さんから吸収されたようで、今や塗装に関しては息子さんのほうが上手いまでになったというのですから驚きました。

なるほど、ここの10数台のピアノが、どれもまばゆいばかりに輝いており、中古独特のある種の暗さというか前オーナーの食べ残し的な雰囲気は全くといっていいほどありません。文字通りのリニューアルピアノで、溌剌とした状態であたらしい嫁ぎ先を待っているという明るさがありました。
この明るさというのが実はとても大事で、どんなにいいものでもなぜか暗い雰囲気のもの(あるいは店)がありますが、明るくないと人は買いたくならないものです。さすがにその辺りも含めて現役ピアノ店として生き残っている店はやはり違うなあと思いました。

さて、せっかくなのであれこれ弾かせていただきましたが、同じ技術者がまんべんなく整備しているだけあって、ヤマハとカワイと各サイズで、ほとんどその特徴がわかるもので、ヤマハはだいたいどの年式を弾いても同じ音と同じ鳴り方をして、サイズや個体差というのは思ったより少ないというのがわかります。カワイも同様。

ということは、基本的には、年式やモデル/サイズの違い、あるいは中古の場合は長年の保管状況や経年変化も本質的には少ないようで、しっかりとした技術者の手が入って本来の性能が引き出されると、そのピアノの生来の姿が浮かび上がることがわかります。
ヤマハ/カワイのアップライトとは要するにこういうものだということが、大局的にわかったようで非常に有意義でした。

生来の姿というのは、要するにヤマハという一流メーカーの最高技術で大量生産されたピアノということですが、それらの根底にあるものはすべて同じで、大量生産ゆえに個体差が非常に少ないのは合点がいくところ。また長年それぞれ異なる場所で使われてきたピアノでしょうけど、環境による変化も本質的にそれほど受けておらず、整備すればちゃんとある程度の状態に戻ってくるというのは、日本のメーカーの底力だと思わずにいられません。
楽器としてどうかということはまた別の話に譲るべきかもしれませんが、少なくとも製品としては、驚異的な信頼性、耐久性、確かさがあるのは間違いのないところで、これはこれで驚嘆に値することだと思いました。

この中に2台だけ、50年ほど前のヤマハのアップライトがありました。
すなわち1960年代のピアノで、ロゴも現在のスリムな縦長の文字ではなく、やや横に広がった古いタイプです。

聞くところによると、価格的にも最も安い部類だそうで、塗装もラッカー仕上げなので、その後のアクリル系の塗装にくらべるとあの独特なキラキラもありません。
一般的なお客さんにとっては、古いことがマイナス要因となるのか、安いこと以外に魅力はないらしいのですが、マロニエ君は逆にこのピアノには心惹かれるものを感じました。

隣にちょうど同じサイズの少し新しい世代(1970年代)の同じヤマハがありましたが、こちらはもう次世代の仕様で、見た目から音までいわゆるおなじみのもの。
60年代のそれには、弾いた感じもほかのピアノたちとは一線を画するものがありました。
普通の人が抱く安心感という点では、よくも悪くも、新しいほうなんだろうと思います。細めの基音があって、そのまわりに薄い膜みたいなものがかかっていて、それが洗練といえば洗練なんでしょうし、現代的といえば現代的。

その点、古いほうは飾らない実直な音がして、人でいうとやや不器用かもしれないけれど正直者といった感じ。
食材なら何も味付けがされていない状態で、いかにも小技を使わずまっとうに作られた感じがあり、ピアノという楽器の機構から出るありのままの音がするし、ヤマハがまだ徹底した大量生産に移行する前の最後の時代の、ベヒシュタインなどを手本にしていた時代の香りのようなものがありました。

古いほうはひとことでいうとヤマハなりに「本物の音」がしました。
それはそのまま、ヨーロッパのピアノにも繋がるフィールといえなくもない。
そして、欠点もあるけれど、音には太さと重みと体温みたいなものがあり、弾くことが楽しいのでした。

いいかえると、新しい仕様は、いかにもヤマハという感じで、欠点らしい欠点はないけれども無機質で、楽しくはないけれども安心で、なにもかもが正反対のものになってしまった…でもそれで売れて一時代を築いたというアイロニーがあるように思いました。
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つまらなさ

コンサートに行くことは基本的に止めてもうどれくらい経ったでしょうか…。
こんなに音楽が好きなのに、以前はあんなに足繁く通っていたのに、それをやめ、しかもまた行きたいとはほとんど思わない現在の状況にはいくらか驚きつつ、それが自然なのかとも自分では思います。

理由はいろいろありますが、まず大きいのは、真剣に音楽に挑むというスタンスで、聴く人へ何かを伝えようとする魅力ある演奏家が激減したこと。
顔と名前は有名でも、その演奏は空虚で義務的で、さらに地方のステージでは力を抜いている様子などがしばしば見受けられ、否も応もなくテンションは下がるのは当然です。
決められたプログラムをただ弾いて、済めば次の公演地に移動することの繰り返しによってギャラを稼いでいるだけという裏側が見えてしまうと、期待感なんてとても抱けず、シラケて行く気になんかなりません。

もうひとつ、大きいのはホールの音響。
どんなに良い演奏でも、コンサート専用に音響設計されたという美名のもと、汚い残響ばかり渦巻くようなホールでは、とてもではないけれどまともに聴く気がしないし、演奏も真価はほぼ伝わりません。
デッドでは困るけれど、昔のような節度感あるクリアな音響のホールが懐かしい…。
しかも、長引くコンサート不況のせいか、最近はなにかというとこの手の豪華大ホールばかりで、ようするにわざわざ雑音を聞きに行っているようなものなので、それでもひと頃はかなり挑戦したつもりですが、ついに断念。

さらにピアノの場合は楽器の問題もないとはいえません。
どこに行っても、大抵はそこそこの若いスタインウェイがあり、ほぼ決まりきった音を聴くだけでワクワク感などなし。
もちろん個人的には、それでもその他の同意できない楽器の音を聴くよりはマシですが、なんだか規格品のように基本同じ音で、こういうことにもいいかげんあきあきしてくるのです。

今どきの新しいスタインウェイも結構ですが、ホールによってはもう少し古い、佳い時代のピアノがあったりと変化があればとも思うのですが、これがなかなかそうもいかないようです。

マロニエ君は大きく幅をとったにしても、ハンブルクスタインウェイの場合、1960年代から1990年代ぐらいまでのピアノが好みです。わけても最も好感を持つのが1980年代。
このころのピアノは深いものと現代性が上手く両立していて、パワーもあるし、ピアノそのものにオーラがありました。

いっぽう、新しいのは均一感などはあるものの、ただそれだけ。
奥行きがなく、少しずつ大量生産の音になってきている気配で、これによくある指だけサラサラ動くけど、パッションも創造性もない、冒険心などさらにないハウス栽培みたいなピアニストの演奏が加わると、マロニエ君にとってはもはやコンサートで生演奏を楽しむ要素がまったく無くなります。

べつに懐古趣味ではないけれど、ホールも、ピアノも、ピアニストも、20世紀までが個人的には頂点だったと思います。

ちなみに、何かの本で読んだ覚えがありますが、この世の中で、スタインウェイ社ほど過去のスタインウェイに対して冷淡なところはないのだそうで、たとえばニューヨークなどでも、自社に戻ってきた古いピアノは、素晴らしいものでもためらいもなく破壊してしまうことがあるのだとか。
たとえ巨匠達が愛した名器であっても処分するらしく、真偽の程はわかりませんが、聞くだけで身の毛もよだつような話です。

それほど、メーカーサイドは新品を1台でも多く売ることに価値を置いているというわけでしょうから、いかにスタインウェイといえども骨の髄まで貫いているのは商魂というわけですね。
また、その証拠にスタインウェイ社の誰もが、古いピアノの価値に対しては不自然なほど無関心かつ低評価で、常に新しいピアノのほうが優秀だと一様に言い張るのは、まるでどこぞの統制下にあるプロパガンダのようで、そういう社是のもとに楽器の評価まで徹底的にコントロールされているのかと思います。

親しい技術者から聞いたところでは、メーカーは新しいピアノのほうがパワーがあるとも主張するのだそうで、さすがにこれはかなり苦しい政治家の答弁のようにも思えます。

客席から聴くぶんには、新しいスタインウェイは見た目は立派でも、もどかしいほどパワーが無いと感じることがしばしばで、古いピアノのほうが太い音を朗々とホール中に満たしてくれる事実を考えると、いいものが次第に世の中からなくなっていくこのご時世が恨めしくさえ思えてしまいます。

ピアノがもし、運搬に何ら困らない持ち運び自由な楽器であったなら、多くのピアニストは佳い時代の好みの一台を自分の愛器として育てて、それを携えて演奏旅行をするのはほぼ間違いないでしょう。

そう考えると、ピアノはあの大きく重い図体ゆえに自らの運命も変えてしまったのかもしれません。
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革新と伝統

ピアノ技術者とピアノの所有者(弾く人)の間には、つくづく相性というものがあるように思います。

もちろん人間的なそれもあるけれど、最も大きいのはピアノの音に関する価値観やセンスの問題で、このあたりはあまり多くを説明して解決できるものでもなく、できれば自然にある程度一致できることが理想だと思います。
これまでにも素晴らしい技術、素晴らしい人柄の技術者さんとは数多く出会ってきましたが、今回ほど時間も無駄にすることなくしっくりくる方はなかったように思います。

以前も書いたことですが、この方は他県の方で、たまたまマロニエ君がお店のショールームを覗かせていただいた折、そこにあるピアノの弾き心地にいたく感銘を受けたことがご縁でした。

夏の終わりに保守点検をやってもらい、それいらいかつてない快調が続く我が家のピアノは、弾き心地と実際の音色の両方が好ましい方向で一致したはじめてのケースで、購入後10年余、ようやく好みのコンディションを得ることになりました。

強いていうと鍵盤がやや重いか…という点はあったものの、弾きこむうちに実際に軽くなっていったことは予想外の嬉しい変化でした。
マロニエ君の手許には、以前とてもお世話になった別の調律師さんからのプレゼントで、鍵盤のダウンウェイトを計る錘があるのですが、それで数値を確認してみると、保守点検直後は50g前後ぐらいだったものが、今回は中音域から次高音あたりの多くが48gほどになっていました。

というわけで、本当なら今年はこのままでよかったのですが、近くに住む知人がぜひその方にやってほしいということになり、せっかく遠方から来られるのだから、それなら我が家にも再度寄っていただこうという流れになりました。

さすがに前回のようなこんをつめた調整ではなかったものの、それなりのことをいろいろとしていただき、調律を含めるとなんだかんだでやはり丸一日に近い作業となりました。
今回はローラーの革の復元や整音を重点的にやっていただいたようです。
結果は、明瞭な基音の周辺にやわらかさというか、しなやかさみたいなものが加わって、より表現力豊かなピアノにまた一歩進化しました。
何ごとも、使う人と調整をする人との目的というか、ピントが合うかどうかは大事なことで、ここが二者の間でズレると思うようには行かないもの。

「このままコンサートもできますね」といっていただくほどに仕上がって嬉しいことなれど、そうなればなったで、さて弾くこちらのほうがそれに見合わぬ腕しか持ち合わせないのは悲しい現実で、技術者さんにもピアノにも申し訳ないところではありますが。

この技術者さんは口数の多い方ではないのですが、それでも興味深い話をあれこれと聞かせていただきました。
日本で現在最高と思われる方のお名前や、世界を股にかけた超有名調律師の名前などもぞくぞくと登場する中、はっきりそうは云われなかったけれど、調律の世界にも伝統芸的なやり方があるいっぽうで、新しい手法技法の流行みたいなものもあるようで、どれをどう用いるかも含めて技術者の資質やセンス、価値観によって左右されるもののように思いました。

スタインウェイ社のカリスマ的な技術者などは、有名なピアニストの録音にも多く関わっていて、ライナーノートの中にはその名が刻まれているものも少なくありません。
実というとマロニエ君はその人の仕上げた音は名声のわりにはあまり好きではないとかねがね思っていたところ、具体的なことは書かないでおきますが、やはり納得できるものがありましたし、その流儀を受け継いだ人達が日本人の中にも多くいて、テレビ収録されるような場にあるピアノも多く手がけていることは大いに納得することでした。

ピアノはローテクの塊だからといって、旧態依然とした技術に安穏とするだけでなしに、常に新しいことを模索し挑戦する姿勢というのは必要だと思います。
とはいうものの、やはり伝統的手法で仕上げられた音のほうに、断然好感を覚えるのは如何ともしがたく、これはマロニエ君の耳がそういう音を聴き込んできたからだといえばそうかもしれませんが、やはりこちらがピアノの王道だとマロニエ君は思います。

現代の新しいピアノは、昔ほど良くない素材を使って、新しいテクノロジーの下で作られている故にあのような独特な音がするのだろうと思っていましたが、それに加えて音作りをする技術者の分野にも新しい波が広がり、ますます伝統的な深くてたっぷりしたピアノとは違うものになっているように感じました。

新しいものも大事だけれど、やはり伝統的なものはしっかり受け継がれて欲しいものです。
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BARENBOIM PIANO

ダニエル・バレンボイムは南米出身の神童の誉れ高いピアニストで、早い時期から指揮活動との二足のわらじを実践する世界屈指の巨匠…であるにもかかわらず、マロニエ君はバレンボイムという人(とくにピアノ)が苦手なので、彼のCDもあまり持っていません。

最近はアルゲリッチとの共演でCDが何枚か出たので、これらは仕方なく買ったぐらい。

そのバレンボイムのアイデアで、あえて今、並行弦のピアノを作ったことはこれまでも何度か書いた記憶があります。クリス・メーネ(だったよく覚えてません)とかいうヨーロッパのピアノ技術者およびその工房と共同開発というかたちで誕生したようです。
スタインウェイDのボディその他をベースとしているものの、並行弦のポイントであるフレームなどは、スタインウェイとはまったくの別物です。

このピアノ、もともとバレンボイムの旗振りで立ち上がった製作プロジェクトだったのかもしれませんが、実際の研究・設計・製造はいうまでもなく技術者で、にもかかわらず鍵盤蓋の中央(ふつうYAMAHAとかSTEINWAY&SONSと金文字が入っているところ)には、堂々とBARENBOIMの文字が誇らしげに鎮座しているのは、そんなものかなぁ…と思ったものです。

それはともかく、そのピアノを使った初のCDが(マロニエ君の知る限りで)ブエノスアイレスで行われたアルゲリッチとのデュオコンサートのライブで、通常のスタインウェイDとの組み合わせによるバルトークの2台のピアノとパーカッションのためのソナタなどで、ふわんとした響きの余韻などが絡まって、これはなかなかおもしろいものでした。

そしてこのたび、ついにソロによる『DANIEL BARENBOIM ON MY NEW PIANO』というアルバムがグラモフォンから発売になりました。冒頭に書いたように彼のピアノは苦手だけど、このピアノを音を聴くためには買うしかないわけで、買いました。

曲目はスカルラッティの3つのソナタ、ベートーヴェンの自作の主題による32の変奏曲、ショパンのバラード第1番、ワーグナーの聖杯への厳かな行進、リストの葬送とメフィスト・ワルツという、いわばバロックからロマン派までいろいろ弾いてみましたという感じ。

その感想を書くのは非常に難しい。
まずやはり、バレンボイムのピアノが苦手というのが先に立ってしまい、純粋にピアノの音を楽しむことより演奏そのものが気になりました。印象は昔と少しも変わらないもので、人間は弾く方も聴く方も変わらないものだと痛感。
マロニエ君の耳には、音や音色に配慮というものがなく、手当たり次第ぞんざいに弾くという感じ。

たしかに並行弦ならではと思える、古典的な響きはあるけれど、粗野に感じてしまう時もあるのは事実で、これが楽器の問題なのか、ピアニスト故のことなのか、よくはわからりません。

並行弦のピアノでも新造品なので、楽器そのものが骨董品という感じがないのはさすがで、この点ハンディなしにこのシステムの特色を感じることができるという点では、なるほど画期的なことかもしれません。

ただし、はっきり言ってしまうと総論としてマロニエ君はどうしても美しいとは思えませんでした。
たまたま見たピアノ技術者のブログでは、「響きが非常にクリアー(略)曲がすーっと耳に入ってきました。」とあり、技術者の耳にはそんなふうに聴こえるらしいですが、やはりプロフェッショナルの耳と素人の音楽好きとでは聴いているポイントが違うのでしょう。

マロニエ君の耳には、音のひとつひとつがポーンと鳴っているのはわかっても、それが曲として流れたときに、全体がクリアーに聴こえる──つまりなめらかな音の連なりとか澄んだハーモニーになっているようには聞こえませんでした。
とくに和音や激しいパッセージになった時などには、ワンワンなって響きが収束しきれていない気がするし、あまり耳をそばだてずに普通に聴いたときに洗練されたものを聴いたという後味が残らず、本来クリアーなはずなのに、全体としては濁った感じの印象が残りました。

ただ云えることは、これをもし内田光子やアンドラーシュ・シフに弾かせたなら、まったく違った面が出てくるだろうし、そういう巧緻なピアニズムで聴かせる人の演奏でぜひ聴いてみたいというのが正直なところです。
しかし、このピアノの名前がBARENBOIMである以上、他のピアニストが弾くチャンスがあるのかどうかわかりませんね。
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軽すぎません?

かねてより基本的なことで疑問に思っていることがあります。
それはグランドピアノとアップライトでは、なぜああもキーの重さが違うのかということ。

マロニエ君がここでいいたいのは、巷間言われる、アクションの構造からくるタッチ感の違いではなく、ましてグランドにあるアフタータッチ云々とか連打性能のことではありません。

そんな根本の難しい話ではなく、もっと簡単な次元のこと。
ごく単純に言ってアップライトの(といっても数多くありますが、外国産のものはあまり知らないので、とりあえず国産有名メーカーの)キーの軽さというのは、あれちょっと異常ではないかと思うのです。
マロニエ君はべつに重い鍵盤を好むわけではなく、ごく普通に快適に弾けるための、程よい感触があることが望ましいと思っているだけで、少なくともこの点に関して特種な要求はもっていないつもりです。

ネットの相談コーナーなどを見ていても、自宅のアップライトで練習して先生のお宅のグランドで弾くと、キーが重くて、あまりの違いからぜんぜん弾けなくなるというような書き込みが見られます。
これ、マロニエ君も同感なのです。

ごくたまに場所の関係でアップライトに触ることがあるのですが、音云々はともかく、手をおいただけでキーが下がりそうなほどペラペラに軽いのは、なにか大事なものが内部で外れてるんじゃないかと思うほどで、やたら弾きにくく、その盛大な違和感に慌てるばかり。

あまりの違いから変なところでミスをしたり、普段とはまったくちがうものに馴染むためのへんな努力をしなくてはならず、これではとてもではないけれど練習になりません。
練習になるかどうかもあるけれど、あまりにペタペタスコーンのタッチでは、弾いて楽しくもないのです。

だいたいどのアップライトも似たりよったりで、ほとんど電子ピアノ並みに軽いキーになっているのは、市場の要求からそうなっているのか、あるいは腰のないペタペタなタッチじゃやっぱりダメだと思わせて、グランドへの買い替えに結びつけようとしているのか、ついあれこれ裏事情などを想像してしまいます。

誤解なきよう言っておけば、マロニエ君はむろんグランドのほうが好きですが、うるさい御方がいうほどアップライトがダメだとも思いません。
音など、ものによっては変なペラペラのグランドより深いものがあったり、低音なども堂々としたところがあったりする場合もあり、国内産でもいいアップライトはダメなグランドを凌ぐ場合もゼロではないとも思います。

これで、コンクールを受けたり音大受験したりということも別に不可能なことではないと思うのですが、ただそのためにはキーの重さはグランドを弾いた時にあまり違和感のない程度のものである必要はあると思うわけです。

たしかにグランドだから可能な連打とか幅広い表現力もあるし、ウナコルダ(左ペダル)の練習はできなかったりしますが、それよりなにより、キーにある一定の重さや抵抗感がなくては、日々の練習で指の筋力は鍛えられません。
ペタペタのキーばかり弾いてきた指では、グランドで太い豊かな響きを作り出すことは、すぐには不可能でしょう。

現代はグランドでも軽く軽くという傾向みたいで、多くの初級者は電子ピアノだったりするのでしょうけど、そのせいなのか、若くして出てくるピアニストたちはみんな素晴らしくうまいけれど、タッチの逞しさ、ひいては音楽の力強さという点ではずいぶん頼りない感じがします。
ピアノを習いたての時期にペラペラタッチですごしてしまうと、あとでどれだけ素晴らしいグランドに触れても、幼年期の経験というものは潜在的に引きずるような気がします。
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直感

以前このブログに、反田恭平氏がイタリアでラフマニノフのピアノ協奏曲を録音する様子がTV『情熱大陸』で放送された時のことを書きました。

それからおよそひと月、このCDが商品となり店頭に並ぶ季節になりました。
今どき国内盤で税込み3,240円/枚というのは高いけれど、このCDだけは購入しようと心に決めていました。

なにしろ準備されたピッカピカのスタインウェイの音がきれいすぎると気に入らず、ホールの片隅に置かれてた古びたピアノ(こちらもスタインウェイ)を弾いてみて、こっちのほうがいい、こっちにしますといって、その古いピアノで弾いたCDですから、これはもうぜひ往年のピアノの豊かな音を聴けるだろうと期待していました。

反田氏は、やはりCD店も現在イチオシの日本人ピアニストのようで、この新譜のことが大書され、ヘッドホンでの試聴も可能になっています。
で、買うつもりだけれども、せっかく聴けるのならととりあえず聴いてみようと思ってヘッドホンを当てて再生ボタンを押すと、この協奏曲の出だしで特徴的な低音のFの音がよく鳴っていないことに、あれ?と思いました。そして、同じ音が何度も繰り返されるうちに、これはおそらくピアノが鳴っていないと思われて愕然としました。

このイントロ部分が終わってハ短調の第一主題に入っても、ピアノの音にはパワーがなく、しけったような音。
「これはちょっと…」と思いながらしばらく聴き続けましたが、ピアノが問題なのは自分の印象としては確定的となり、これは旧き佳き時代のピアノというよりは、単に古くて鳴らなくなったピアノという感じでした。
おそらくホールでの第一線を退いたため、弦やハンマーも交換されることなく、つまり手入れされずに放置されていたピアノなのか、音に潤いもないし、伸びも色艶もありません。
食べごろを過ぎた、しぼんだ果物みたい。

ではこのピアノを選んだことは失敗だったのか?
それはなんともいえませんが、少なくとも今どきの、うわべのキラキラ感ばかりが前に出るピアノで弾くよりは、このくたびれたピアノで弾いたぶん、反田氏はピアノ側の華やかさに一切頼ることなく正味の実力を出したことにもなり、個人的にはこちらのほうがよかったと思います。

CDケースの裏側を見てみると、後半のパガニーニのラプソディは昨年日本でライブ録音されたもののようなので、そっちに進めてみると、今度はやたらエッジの立ったジンジンいう音で、これは例のホロヴィッツのピアノだろうと直感しました。

このピアノもだいぶ聴いたので今は新鮮味はなく、こうなると購入意欲はガクンと半減し、しばらく両耳をヘッドホンに突っ込んだまま、買うか止めるか思案にふけりました。演奏自体もこれもまた別の番組で見たように、あまり反田氏の直感が炸裂するようなものではなく、どちらかというと安全運転の印象があり、ピアノ、演奏ともに、ちょっと期待したほどじゃないな…という気がしました。

特に協奏曲は、人の意見が入りすぎた演奏特有のつまらなさがあり、せっかくの才能が閉じ込められた感じがするのは、ピアノに限らず偉大な教師といわれる人の生徒にはときどき見られること。
音楽の世界では、若いころに開花する才能は珍しくないけれど、それをどう育てるかは甚だ難しいことだと思います。いまさら一般の音大生のようにただレッスンを積んで平凡さが入り過ぎることは最も危険と思われるので、あるていど自由にさせて、たまに信頼に足る人から全体的なアドバイスを受けるぐらいがいいように思います。
ピアノ選びは直感だったけれど、演奏は直感が足りなかった感じでした。

このCDでは、第2協奏曲ではイタリアのRAI国立交響楽団というのが共演していましたが、なんとなく二流という感じがして、それにくらべるとパガニーニラプソディの相手である東京フィルのほうが、まだずっと上手い気がしました。

それと、録音がまったく好みじゃなく、平坦で広がりも立体感もない、固くて詰まったような音。
これはCDにとって極めて大切なことで、ここではじめてレーベルはどこかと見てみるとDENON。そういえばリストのアルバムも同じで、その録音の酷さには心底呆れていたところだったので、これは社風なの?と思いました。

最近はマイナーレーベルでも、わっ!と思うほど見事な録音がたくさんあるのに、あまりにも音楽性のない音には残念のため息が出るばかりでした。その点では後発のレーベルのほうが、白紙からのスタートで美しく収録しているものがたくさんあるし、逆に伝統あるレーベルのほうに実は変な何かが受け継がれていたりするので感覚が硬直しているのかもしれません。
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薄い塗装

前回書ききれなかったこと。
出演した女性ピアニストによって、ホロヴィッツのピアノでトロイメライが弾かれる間、カメラがサイドからじわじわとスローで左に寄りましたが、そのときボディサイドに反射する黒い塗装の中に木目のようなものが見えたような気がしました。

ニューヨークスタインウェイは通常は黒のヘアライン仕上げ(ステンレスとかによくある一定方向に研磨された光沢のない仕上がり)という塗装で、これは通常の塗装よりも薄く仕上げてあると聞いていますが、この100年前のピアノでは、さらに塗装の質や厚みが違っているのではないか…というような印象をもちました。

テレビ画面から受けた印象ではきわめて塗装が薄い感じで、楽器としてはもしかするとより理想に近いものがあるのかもしれないという印象でした。
率直に言うと、工作で木工品にサーッと塗装したぐらいで、けっして綺麗な仕上げではないし、むしろ粗末な感じさえ与えますが、そうなっているとすればピアノとして理想を追求する上での理由があるようにも解釈できるのです。

ニューヨークスタインウェイのきさくで軽やかな鳴りを成立させる要素の一つに、この薄い塗装があるのかもしれず、とりわけこのホロヴィッツのピアノでは、とりわけ独特なものを感じました。そういえば思い出したけれど、ゼルキンのカーネギーホールライブのレコードジャケットも、これと同様の、塗装としてはみすぼらしい炭のかたまりみたいな塗装でした。

通常のハンブルクやその他大勢の艶出し塗装を、寒さや外敵から身を守ってくれる冬服に例えると、ニューヨークは明らかに春物?
薄いコットンのシャツにチノパンを履いているぐらいな感じで、これは響きに大いに関係するだろうと思います。

そのぶん温湿度変化にも敏感になるでしょうし、油断をするとすぐに風邪をひいたりと体調管理が難しくなるだろうから、一長一短あるかもしれませんが、究極の音を求めるなら極めて大きな要素という気がします。

もしマロニエ君が好き放題に道楽のできるような富豪だったら、好みのピアノだけを置いた小さなホールを作りたいとかなんとか、いろんな空想をして遊んでみますが、今なら、最も気に入った時代のスタインウェイを購入し、いったん塗装を全部落としてしまい、最低限の処理だけで鳴らしてみるかもしれません。

いわばTシャツと短パン、靴下もはかないぐらいの軽装にすると、はたしてどんな響きになるのか。

そういえば、つい先だってもあるお宅におじゃまして、そこのシュタイングレーバーをちょっとだけ弾かせていただきましたが、これがサイズを無視したような鳴りで感心したばかりでした。

もともとのピアノがいいのはもちろんですが、さらにこのピアノの塗装が、下地の木目が地模様のように見える黒の塗装で、これもきっと薄いのだろうと思いました。
漆塗りのような分厚い塗装というのは、いかにもリッチな美しさがあるし手入れが楽。さらにはボディをさまざまな環境の変化や傷から守るというメリットがあるからか、どこれもこれも樹脂コートのようなピカピカ塗装ですが、純粋に楽器としては好ましくない厚着のような気がします。

ピアノ全体を弦楽器のニスのような、薄い最低限の塗装で覆ったら、基礎体力がぐっと向上すると思います。
同時に、戦前のスタインウェイなどは、そのあたりも知り尽くしていて、各所の天然素材から仕上げまで最良の楽器を作っていたのだろうということが偲ばれます。

そういう観点からいうと、少なくとも通年管理の行き届いたピアノ庫をもつ音楽専用ホールでは、木肌に薄い塗装をしただけのまさにコンサート仕様のピアノを設置したらどうかと思いました。
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