真っ当な価値

BSプレミアムのクラシック倶楽部の録画から、昨年のアンスネスの来日公演の様子を視聴しました。
曲目は、本編とアラカルトを併せるとシューベルトの3つのピアノ曲、シベリウスの小品、ショパンのノクターンとバラード第4番、さらにシベリウスのソナチネ、ドビュッシーの版画というもので結構な時間と量になりました。

アンスネスのCDは何枚か持っているけど、それらは悪くもないけれど、特段の感性のほとばしりもなければ才気に走ったところも毒の香りもない、要するにこの人でなければならない特別な何かがあまり見いだせない、どちらかというと凡庸なピアニストという印象を持っていました。
今回、音だけ聴いていてはわからないことが、映像を見ることでわかったような気がする部分もありました。

それを適確な言葉で言い表す能力はマロニエ君にはないけれど、喩えていうならカチッと仕立てられた上等なスーツみたいな演奏だと思いました。
常識の中に息づく美しさや自然の心地よさ、音楽的礼儀正しさとでもいえばいいのか、一見目立たないけれど、非常に大事なものが確乎として詰まっているピアニストだと思いました。

2月の放送でN響とシューマンの協奏曲を聴いた時と同様、ソロリサイタルでもやはりピアノの大屋根はつっかえ棒になにかを継ぎ足してまで盛大に開けられていて、こうすることに音響上のなにかこだわりがあるものと思われます。
ただし、視覚的にはいかにもへんで、これによってスタインウェイのあの美しいフォルムは崩れ去り、少なくとも見た目はかなり不格好なピアノとなっています。

ただしその効果なのかどうかはわからないけれど、通常よりも明るく太い音のように感じられ、普通のスタインウェイよりも、どこか生々しいというか直接的な感じがしたのは気のせいではないような気がします。
もちろんピアノそのものやピアニストによって音はいかようにも変わるものだから、その要因がなんであるのかはしかとは突き止めきれませんが、結果的にこれはこれでひとつの在り方だというふうにマロニエ君は肯定的に捉えたいと思う音でした。

アンスネスのピアノは、どこにも作為の痕がなく、ほどよく重厚で、誠実にかっちり楽曲を再現することに徹しているところはあっぱれなほどで、解釈もテンポもアーティキュレーションも、呆れるほどにノーマル。
それでいて、今どきのカサカサした空虚な演奏ではなく、聴き応えのある実感があるし適度な潤いも必要な迫力もちゃんとある。
そしてなにより男性的安定感にあふれており、安心してゆったりと身を預けることができる演奏でした。

アンスネスのピアノで今回はじめて意識的に感じられたことは、楽譜に書かれた音がすべてきっちり聴こえてくることで、シベリウスをはじめ、シューベルトもショパンもドビュッシーも、それでいささかも不都合なく自然に耳に届いてくる、一見とても当たり前のようで、実はこれまで聴いた覚えのないような不思議な快適さだったように思います。

なかでもドビュッシーは、多くのピアニストが絵の具をにじませるような淡い演奏に傾倒しがちなところを、アンスネスはいささかもそんなことせず、あくまでも一貫性のある自分のスタンスを守りつつ、それでいてなんの違和感もなく落ち着きをもって安らかに楷書で聴かせてくれる点で、オーソドックスもここまで徹すれば、これがひとつの個性に違いないと感心してしまいました。

これは演奏を細分化したときの、音のひとつひとつに明瞭な核があって堅牢ですべてが揃っており、そこからくる構築感が自然と全体を支えているように思います。

番組の「アラカルト」では、たいていふたつの異なる演奏会が組み合わされ、このときの後半はアレクセイ・ボロディンのピアノリサイタルでした。
プロコフィエフのロメオとジュリエットから10の小品を弾きましたが、堅固な中にしなやかさが息づくアンスネスのドビュッシーの見事さのあと、そのまま連続してボロディンを聴くことになりましたが、技巧派で鳴らしたロシアのピアニストにしては、その「核」がなく、強弱やアーティキュレーションにおいて、音にならないようなところ、あるいは表面的な音質が目立ちました。
体格はずいぶんと立派ですが、出てくる音は意外なほど軽くて気軽なものに聴こえました。

ちょっと分厚い本をもった時、心地よい重みがズシッと指先に伝わってくる心地よさみたいなものがありますが、アンスネスのピアノにはそういう真っ当な良さ(しかも現代ではどんどん失われているもの)があるように思いました。

アンスネスには高速のスピード感とか、指の分離の良さからくる技巧の鮮やかさといったものはありませんが、派手な技巧よりも大事なものがあるという当たり前のことを、静かに問い直し教えてくれたようです。
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父から子へ

先日の日曜のこと、ちょっとした用があって郊外まで友人と出かけた帰り道、夕食の時間帯となったので、どこかで食べて帰ろうということになりました。

ところがマロニエ君も友人も外食先として思いつくレパートリーをさほどが多くもたない上、前日も数日前も外食だったので、同じものは嫌だし、日曜ということもあって、どこにするかなかなか思いつきません。
あれもダメ、これもイマイチ…という感じで、どうも適当なところがないのです。

やむなく行き先が定まらないまま車を走らせていると「餃子の王将」のネオン看板が目に入り、いっそここにしようかということになりました。
しかし幹線道路に面したそこはかなりの大型店舗であるにもかかわらず店内は超満員!
ガラス越しに待っているらしい人が大勢見えるし、駐車場も止められない車がハザードを出して待機しているため、ここはいったんスルーすることに。

そこから車で10分ほどの国道沿いにも同じ名の店があったことを思い出し、そちらへ向かうことに。
こちらも駐車場は満車に近かったけれど、なんとか1台分のスペースは探し当てたし、すこし外れた場所であるぶん店内の混雑も先ほどの店舗よりいくらかおだやかでした。

少し待って席に案内され、さあとばかりに分厚いメニューを開こうとすると、すぐ横からやけに大きな話し声が聞こえてきました。
父と若い息子の二人連れらしく、父親のほうがさかんにしゃべっていて、息子は聞き役のようでした。
いきなり、
「ま、お前も、野球して、大学に入って、オンナと同棲して、今度は就職だなぁ!」と感慨深げに言いますが、その父親の横は壁で、それを背にこっちを向き、通りのいい大声でしゃべるものだから、困ったことに一言一句が嫌でも耳に入ってくるのでした。

マロニエ君は一応メニューを見ていたのですが、その父親から発せられる奔放な話し声が次から次に聞こえてくるのでなかなか集中できません。
友人もマロニエ君がこういうことに人一倍乱されることを知っているので、困ったなぁという風に笑っています。

こういうあけすけな人が集まるのも「餃子の王将」の魅力だろうと思いつつ、店員が注文をとりにきたので、まず「すぶた」と言おうとした瞬間、さっきの「オンナと同棲して」という言葉が思い出されて、可笑しくて肩が震え出しました。
気を取り直してもう一度「すぶた」と言おうとするけれど、笑いをこらえようとすればするほど声が震えて声にならず、それを察した友人がすかさず代ってくれて、無事に注文を終えました。

その父親は、自分が務めた会社をあえて「中堅だった」といいながら、自分がいかに奮励努力して、同朋の中でも高給取りであったかを、具体的な額をなんども言いながら息子に自慢しています。
「だから心配せんでいい!(たぶん学費のこと)」というあたり、なんとも頼もしい限りで、大学生と思しき息子も自慢の父親であるのか、そんな話っぷりを嫌がるどころか、むしろ殊勝な態度で頷きながら食べています。

「お前の野球は、無駄じゃなかったよ。それがいつかぜったい役に立つ筈。」と励ますことも忘れません。

そのうち父親の話は、人間は海外へ出て見聞を広げなくてはならないといった話題に移っていきました。
自分がそうだったらしく、いかに数多くの海外渡航を経験したかをますます脂の乗った調子で語りだし、同時に息子の同棲相手の女性が一度も海外旅行を経験したことがないということを聞いて、そのことにずいぶん驚いたあと、いささか見下したような感じに言い始めました。

「ま、最初は釜山に焼き肉を食べるのでもいいんだよ、まずは行ってみろ」というような感じです。
日本にだけいてはわからないことが世界には山のようにあるんだということが言いたいようで、それはたしかに一理あるとも思えましたが。

翻って自分はどれだけの国や都市、数多くの海外経験を積んだかという回想になり、これまで訪れた行き先の名が鉄道唱歌の駅名のようにつぎつぎに繰り出しました。ずいぶんといろいろな名前が出ましたが、どうも行き先はアジアの近隣諸国に集中しているようで、訪米の名は殆どなく、唯一の例外は「ハワイだけでも21回は行ったなあ…」と誇らしげに、目の前で焼きそばかなにかを頬張る息子に向かって言っています。

はじめはよほど旅行が趣味のお方かと思っていたら、どうやらすべて仕事で「業務上、行かされた外国」のことのようでした。
さらに、「ホテルはヒルトン…シェラトン…ほとんど5ツ星ばかりだった。そういうところに行かんといかん!」と、最高のものを知らなくちゃいけない、安物はダメだ、お前もそういう経験ができるようになれよという、陽気な自慢と訓戒でした。

海外ではずいぶんたくさん星のついた高級ホテルばかりをお泊りになった由ですが、いま息子とこうしている場所は「餃子の王将」というのが、マロニエ君からみれば最高のオチのようにも思えましたが、それはそれ、これはこれというところなんでしょう。
終始悪気のない単純な人柄の父親のようで、久しぶりに会った息子に、父の愛情と威厳を示す心地良い時間だったようでした。

さらに驚いたのは、息子も父親の話に気分が高揚してきたのか「そんな仕事がしてぇ!」と言い出す始末で、ここでマロニエ君は思わず吹き出しそうになりましたが、食事をしながら、真横からどんな球が飛んできてもポーカーフェイスというのは、かなりスタミナのいる時間でした。
それにしても今どき珍しい、父子の麗しき姿を見せられたようでもあったことも事実です。
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寂しい時代

何とはなしに、ちょっとしたことで「寂しい時代になってきたなあ」と思うことがあります。
一例が、いろいろな店舗の夜の営業時間、とくに(アルコールを伴わない飲食とかファミレスの)深夜営業を売り物にしていた飲食店などの営業時間が軒並み短くなっていくことや、夜、気軽に車で行ける書店がどんどん減ってきていることなどにそれを感じます。

ロイヤルホストなどは、以前なら24時間営業も珍しくなかったのに、今では(例外はあるのかもしれませんが)基本0時閉店ということになってしまったようです。
これには今の世相というか、人々の生活パターンの変化が深く関わっているのは明らかでしょう。

名前を出したついでにいうと、土日のロイヤルホストなど夕食時間帯に行こうものなら、それこそ入口のドアから人がもりこぼれそうなほど順番待ちのお客さんで溢れかえり、名前を書いて席が空くのを満員電車よろしく待たなければなりませんから人気がないわけではない。
そかし8時過〜9時あたりをピークに一気に人が減り始め、10時を過ぎる頃にはさっきまでの喧騒がウソのようにガラガラになってしまいます。

車の仲間のミーティングなどでは、ファミレスは時間を気にせず雑談できる不可欠の場所だったのに、少し遅くなるとついさっきまでざわざわしていた店内は途端に潮が引いたように空席が目立ち、閉店時間が迫ると残りの僅かな客は一斉に追い出されてしまうようになりました。

マロニエ君の世代の記憶でいうと、以前は深夜の時間帯はもっと世の中に活気やエネルギーがあふれていました。
とくに若い人は夜通し遊ぶというようなことは平気の平左で、各々なにをやっていたのかはともかく、明け方に帰るなんぞ朝メシ前でしたし、当時の中年世代だってもっとエネルギッシュだったように思います。

過日、連休で遠出をしたところ終日猛烈な渋滞に遭い、疲れてボロ雑巾のようになって帰ってきたことを書きましたが、それほど日中の人出はあるのに、ある時間帯(おそらく8時から9時)を境に、動物が巣穴に戻るように人はいなくなります。
以前より、明らかに早い時間帯に、当たり前のように帰宅の途に就くのが社会風潮化しているよう思われます。

昔は厳しい門限なんかを恨めしく反抗的に思うことがあったのに、今じゃそんなものはなくても、自然に、ひとりでに、申し合わせたようにさっさと帰って行ってしまう真面目ぶりには驚くばかりです。
それだけ、夜の外出が楽しくないこともあるしでしょうし、翌日に備えるという配慮も働くというのもあるでしょう。あるいは体力気力おサイフの中も乏しいのかもしれませんし、それ以外の複雑な要因もあるのかもしれませんが、とにかく世の中全体に元気がなく、まるで社会そのものがひきこもりのような印象を覚えます。

深夜まで出かけるというのは、基本的には相手あってのことで、今時のように人と人とが淡白な交流しかしないようになると、わざわざ直接会って歓談し飲み食いする必要も、かなりセレクトされ限定的になるということかもしれません。
現代はある意味、どこか不自然な事情を含みながらの家族中心で、それ以外の交際はずいぶんと痩せ細ったようにも思います。

本屋に話題を移すと、あるのはたいてい同じ名前の店ばかりで、書店と言っても店内のかなりの部分はDVDなどのレンタル部門などが大手を振って、書籍の売り場はずいぶん剥られて肩身の狭い感じです。
置かれている本も、大半が雑誌かコミックか実用書のたぐいばかりで、もう少し本らしい本はないのかと思うのはマロニエ君だけでしょうか。

そんな本棚を見回していると、『自律神経を整えて超健康になるCDブック』というのがありました。
この部分が脆弱なマロニエ君としては、「聴くだけで痛みが消える!極上のリラックスを体感できる!」といった謳い文句に騙されてみたくなり、あえてこれを購入しました。

中には2枚のCDが付属しており、「自律神経を整えるCD」と「マイナス感情を消すCD」というのが付録として綴じ込まれていました。さっそくはじめの1枚を聴いてみましたが、変な電子音とピアノの意味もないようなメロディなどが延々と流れてくるものでした。
ほんのまやかしだとは思うけれど、不思議と聴いていて不快ではないし、万にひとつでも効果があれば幸いとばかりに、昨日からこれを鳴らしているところです。
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ピアノ持ち込み

日時計の丘という小さなホールが主催しているJ.S.バッハのクラヴィーア作品全曲連続演奏会。
その第9回を聴きました。

演奏は初回からお一人でこの偉業ともいえる連続演奏を続けておられるピアニストの管谷怜子さん。
この第9回では、イギリス組曲の第4番と第6番、ブゾーニ編曲のファンタジー、アダージョとフーガとシャコンヌが演奏されました。

これまでのコンサートでは、このホール所有で製造から100年を超すブリュートナーが使われていましたが、今回はブゾーニ版のシャコンヌの音域の関係などから、管谷さんご自身が所有されるシュタイングレーバーのModel168を運び込んでの演奏会となりました。

こだわりのピアノをわざわざ運び込んで行なわれるコンサートというのは、ホールの大小にかかわらず、そう滅多にあることではありません。
もともと日時計の丘はとても響きの素晴らしいスペースでしたから、そこで聴くシュタイングレーバーとは果たしてどんなものか、その点でも非常に期待をそそるコンサートでした。

シュタイングレーバーはドイツ・バイロイト生まれの銘器ですが、生産台数が少ないことや渋い音色、いわゆる商業ベースに乗った売り方をしていないためか、一般にはあまり知られていないけれど、世界最高ランクのピアノのひとつに叙せられるメーカーです。

サイズからいうと、数字が示す通り奥行きが168cmというのはグランドピアノとしても小型の部類で、ヤマハならC2よりも短いにもかかわらず、アッと驚くようなパワフルな鳴り方には、さすがに目を見張るものがあります。
まさに生まれながらに豊かな声量をもった特別な楽器というべきでしょう。

ここのブリュートナーが艶やかな中にも可憐に咲く水仙の花のような音であるのに対して、シュタイングレーバーはさすがバイロイトの生まれだけあってか、まさにワーグナーの歌手のような底知れぬスタミナをもった強靭なドイツピアノでありました。
シャコンヌでしばしば出てくる重音のフォルテッシモでは、この小さなホールの空気がしばしば膨張するようでした。

優れた楽器は演奏者を変えるという側面があるのか、管谷さんの演奏もこのピアノを日頃から弾いておられるせいなのか、年々パワフルになり、演奏の方向性すら少し変化してきたのでは?と感じるのはマロニエ君だけでしょうか。
激しいパッセージなど、目を閉じて聴いていると、シュタイングレーバーの逞しい鳴りと相まって、とても女性ピアニストが弾いておられるとは思えないような、まるで体が後ろへ押されるような圧倒的な音圧を何度も感じたほどです。

ピアニストとピアノの実力については十分堪能できたけれど、少し残念だったのは、今回の演奏会に合わせたピアノの調整が未完であったことで、もっと時間をかけて精妙適切な音作りがなされていたなら、さらに素晴らしい音を響きわたらせることができただろうと、この点はやや悔やまれました。

マロニエ君はシュタイングレーバーというピアノは関心を持って久しいし、CDなどもそれなりに何枚ももっているけれど、もう一つこれだという自分なりに音(ピアノの声)の特徴が掴めていないというのが正直なところで、これはひとえに自分の経験不足故と思われます。

調律師さんによれば、ずいぶん巻の硬いハンマーとのことで、実際かなりエッジの立った音でしたが、これだけ基礎体力のあるピアノなのであれば、むしろもっと弾性のあるハンマーであったらどうなのだろうと思ってしまいます。あたかもバイロイト祝祭劇場がオーケストラを舞台下に配置するように、むしろ間接的でやわらかな奥行きある響きを得たら、ある種の凄みのようなものが出てくるのではないかと思いました。

終演後、ここのオーナーの計らいで、せっかくなのでシュタイングレーバーとブリュートナーの聴き比べでもらいましょうということになり、管谷さんが同じ曲をそれぞれのピアノで弾いてくださいましたが、同じドイツピアノといってもまったく別のものでした。
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鍵盤蓋のロゴ

マロニエ君は、長いことピアノの鍵盤蓋の中央に埋め込まれたメーカー/ブランド名のロゴマークは、どうすればあれほど見事に木の中に金属を美しく埋め込むことができるのか、ただただ不思議でなりませんでした。

もし彫刻刀のようなもので木を削り、そこに曲線も多用される金属の文字を首尾よく埋め込むのだとすると、なんとすごい技術だろう!…というか、その完璧な技術とはいかなるものなのか、考えれば考えるほどまったくの謎でした。

とりあえず単純な想像としては、箱根の寄木細工のような細密な作業かと思ってみたこともありました。

しかし、ベーゼンドルファーの複雑で装飾的な文字、スタインウェイのほとんど細い曲線だけで出来ている琴のマークなど、あれをあの形のままに木を削って、そこへぴったり金属を埋め込むなどということが果たしてできるのか、できるとしたら、それはどれほどの高等技術であるのか、まるで想像ができなかったのです。

で、シュベスターを依頼している職人さんにそのことを聞いてみると、彫って埋め込むという手法もないわけではないけれど、大半は文字やマークの金属を所定の位置に並べて貼り付け、その金属と同じ厚みになるまで塗装を重ね、しかる後に面一になるまで磨き出すのだということを聞いて、あー、なるほどそういうことか!…ということで、長年抱え込んでいた不思議の答えがようやくにして解明されたのでした。

やはり浮世絵の彫師じゃあるまいし、木を彫っていたわけではないようです。
エラールの繊細な線など、あれをいちいち彫っていたとしたら人間技じゃありません。
木ではなく、塗装の厚い膜の中に埋まっていただけということなら納得です。

さらに付け加えると、それが年月とともに木が痩せてくる、あるいは塗料が痩せてくるなどの理由で、文字の周りが微妙に下がってくることがあるのだとか。
そういわれたら、新品のピアノの鍵盤蓋のロゴマークって、ほとんどあり得ないほど、異様なまでにまっ平らですもんね。
それが時間とともに、そこまでではない感じになるのも頷けました。

ただ、木目仕様の場合、透明のクリアだけを塗り重ねるのか、艶消しの場合も同じ手法なのか等々…疑問はあとからあとから湧いてきます。
輸入ピアノの古い木目仕様の中には、どうみても書き文字やデカールでは?というような、あきらかに金属ではないものもあり、そのつどやり方を変えているのかもしれません。

そういえば、ピアノのフレームに刻印されたメーカーのマークやロゴなども、いつだったか、砂型にその凹凸があるものだとばかり思っていたマロニエ君でしたが、あとからマークや文字プレートを貼り付け、上から塗装していかにも「もともと」みたいに見せるのだということを知るに及んで、たいそう驚いたというか、半分納得しながら、半分騙されたような気分になったことがあります。

それなら、同じ型から作られるフレームでも、マークやモデル名だけ変えて、さもそのピアノ/メーカー専用のフレームであるかのように見せかけることはいくらでも可能ですね。

というようなことから考え合わせると、以前あったディアパソンのフルコンも、ボデイは(カタログですが)見事にカワイそのものだったから、当時のGS-100あたりのフレームを使ってマークのところだけディアパソンのを貼ったのかも…、そういうふうにして作られたのかと思うと、なにやらちょっと価値が下がったような気がしたものです。

むろん、量販の見込めないコンサートグランドの設計をして、専用のフレームを作るということなど、よほど赤字覚悟の道楽でもない限りできることではないですが。
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いつも同じ位置

なまけ者にはなまけ者なりの言い分があるというようなお話。

ピアノは好きでも、なぜか練習は大嫌いなマロニエ君ですが、その練習嫌いの理由を考えてみたところ、もちろん第一には下手くそであるとか、暗譜が苦手といったいろいろの要素があるのですが、それ以外の、普段気づかない要因にひとつ行き当たりました。
それはピアノという楽器が大きく、絶望的に重いため、とても気軽には移動できないこと?…ということが関係しているような気がするということ。

ピアノはいつも同じ部屋の同じ位置から微動だにしないというシチュエーションで、おまけに室内なので照明などピアノをとりまく環境がいつも同じというか、要するに日々の変化とか新鮮味というものがまるでありません。もちろん新しい曲に挑戦する新鮮さとか、できないことができるようになったというような変化の喜びはあるとしても、単純に置き場所は一年365日いつもおんなじだということ。

床のカーペットさえインシュレーターがめり込むほど、いつも寸分たがわぬ位置にデンと鎮座するピアノに向かって、そのフタを開け、ひとり黙々とマズイ音を出しながら練習するのって、かなりクライ作業というか根気を要する行為だと思うわけです。

これがヴァイオリンやフルートの人なら、少なくともあっちを向いたりこっちを向いたり、部屋のド真ん中で弾くも良し、気が向いたら窓辺に近づくことだって、別の場所に移動することも可能です。

しかし、ピアノは基本的に「動く」ということから残酷なまでに切り離された楽器で、少なくとも自宅では必ず決まった場所でしか弾くことができません。
もし、部屋の模様替えなどであの重くて大きなピアノを動かすとなると、それなりの人手も必要だし、動かす・あるいは移動させるだけの確かな理由も必要になるし、その後気が変わってやり直しをするにも、同じだけの人員やコストがかかるため、そんな面倒くさいことはまずやろうとは思わないという方がほとんどだろうと思います。

そうなると、やっぱりピアノはいつも同じ部屋で不動の体勢をとっており、同じ向きで黙々と練習する以外にありません。
もしこれが、(さすがに別の部屋とはいわないけれど)少なくとも日によってピアノの向きや位置を自在に変えられるとしたら、練習する側の気持ちもかなり気分転換できるのではないかと思うのです。

実をいうと、もう何年も前のことでしたが、親しい調律師さんの仲介により、ホールなどで使用するグランドピアノ用のピアノ運搬機をお世話していただき、マロニエ君の自宅には、このいかにも場違いな装置があることはあるのです。
どこから出てきたものかは知りませんが、中古でこれが出たというので値段を聞いてもらったところ、新品はかなり高額であるにもかかわらず、需要もないのか驚くような破格値だったので即決して我が家に運び込んでもらいました。しかし、さすがにコンサートグランドまでリフトして動かせる機能があるだけのことはあって、想像よりずいぶん大型だったことに驚き、家人は見るなりこんな大きくて不体裁なものを部屋に置くことに対して眉をひそめたものでした。

いらい、ピアノの下にはこの運搬機が、親象の下に小象が入り込むようにいつも入っており、しかも色はベージュで大きく目立つこともあってか、はじめてマロニエ君宅に来た人からは「これ、何ですか?」という質問を何度かされたことがあります。

ともかく、この運搬機があるおかげで、マロニエ君の場合はグランドピアノをたったひとりで動かすことができるにはできるのですが、それでもピアノを浮かせるには大きく重いハンドルをせっせと回し続けるなど、うっすら汗ばむほどの作業で、とても気軽にやろうというなことではありません。
しかもピアノを家具や壁にぶつけないよう、大きなピアノのあっちにまわって押したりこっちにきて引き寄せたりと、モノが数百キロある故にかなりの重労働となります。

というわけで、もし動かすとしても大変、またもとに戻すのも大変というのを考えると、なかなか実行には至らず、かくしてピアノはいつも同じ位置にあるのです。
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塗装は下地

このところ、シュベスターの外装の補修をお願いしてある関係で、毎週のように工房へ通っていますが、お忙しいようで作業は思ったりもスローテンポです。

以前も書いたように、その塗装工房は運送会社の倉庫の一角にあるため、そこに行くには冷え切った倉庫の中を通り抜けていくことになります。
しかもマロニエ君が行くのはだいたい夜なので、人気もほとんどなく、照明の絞られた巨大空間の中には、おびただしい数のピアノが仮死状態のようにしてやたら並んでいます。
それらが次の買い手を待っているのか、どういう今後が待っているのかわからないけれど、いずれにしろ普段はなかなかお目にかかることのない独特な世界であることは確かです。

ピアノとピアノの間は、人がなんとかひとり通れるようになっており、それらの間を進んで倉庫の片隅にある塗装工房へ到達するという感じです。

ここで、わがシュベスターは長年の間についてしまった小キズなどを修復され、少なくとも見た目は新しく生まれ変わろうとしているわけですが、手がけてくださる職人さんは日中は調律師としてのお仕事をこなされ、夕方以降ここに来て木工や塗装のお仕事をされているので、毎日朝からそれだけに専念できる場合と違い、作業は少しずつしか進みません。

しかも、ピアノ専門の木工職人というのは、本当に稀少な存在なのだろうと思います。
とくに現在お願いしている方は「塗装や木工もできる」というようなレベルではなくて、それ自体がかなり得意でお好きのようで、こだわりをお持ちのようでもあり、全国の木工の競技会のようなものにもしばしば出場されては、なにがしかの賞をいつもとっておられるような方なので、ピアノの整備の延長作業として塗装も覚えましたというたぐいの方とはかなり違うようです。

だからなのか、話を聞いていると、現在こちらの分野で抱えておられるピアノの数だけでも30台近い!のだそうで、その「混み具合」には思わずのけぞってしまいました。しかも先述したように、昼は調律をしながら夜は木工塗装という兼業なので、作業の進捗も思うようにはいかないだろうと思います。
とくに塗装は天候にも左右され、乾くのを待つ時間も必要となるため、普通の作業のように根を詰めればよいというのではないところがデリケートで難しい部分のようでした。

マロニエ君のシュベスターも、まず最初の2週間ぐらいは放ったらかしにされ、先日ようやくにしてピアノ本体が作業エリアに移動され、あちこちに散見される小さな凹みなどの傷を埋めるパテの作業がやっと始まりました。
それから1週間後に行ったら、左右の腕(鍵盤両脇のボディの部分)の部分から足にかけての塗装までが終わっていて、その美しさにはおもわず目をパチクリさせてしまいました。時間はかかるけど、非常に丁寧で、良心的な仕事というのは専門知識のないシロウトが見てもわかりますね。

さらに嬉しかったことは、ピアノの年代に合わせて塗料もラッカー系のものになるので、プラスチックの樹脂をドロリとかぶせたようなポリエステル系の陶器みたいなつるつるの感触ではなく、そこになんともいえない木で作られた楽器といった風合いが保たれていることでした。

ここまでくるのに、倉庫到着からすでにひと月近く経ったような印象。
塗装というのは、塗り始めたら早いらしいけど、その前段階の下処理は何倍も大変で、これは車でも何でも基本は同じのようです。

次は、このピアノの中で最も難所とされる鍵盤蓋の補修と塗装で、ついにその段階を迎えつつあるという感じです。
マロニエ君の買ったシュベスターは、50号という最もシンプルなデザインのモデル(それが気に入っている)ですが、濃い目のマホガニーであるぶん暗い色調の中へ沈み込んだように木目があり、それを損なわずに悪いところを剥がしていくのが至難の業だとのこと。

しかもこの鍵盤蓋は、閉めた状態の外側の部分にかなりひどい傷みがあり、部分的に好ましくない補修をしたらしい形跡があるとかで、それがさらに作業を厄介にしているようでした。
いよいよ今週はその作業に入るとのことだったので、予定通りに行けば、果たしてどんな仕上がりになるのかわくわくです。

それにしても、一口にピアノ運送業といっても、そこそこの規模になると、大型のトラックが何台も控えていて、夜遅くでも出発したり到着したりという動きがあるのは、まさにピアノの物流基地というか、それが夜ということもあってかどことなく幻想的な感じがあるものです。
これだけの数のピアノが昼夜を問わず行交う中から、個々のピアノがそれぞれのオーナーのもとへと届けられるということは、なんだか不思議で、楽器と人が「赤い糸」で結ばれているんだなあという気がしてしまいます。
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『蜂蜜と遠雷』

知人からの情報で、いま話題だという小説『蜂蜜と遠雷』を読了しました。

この作品が直木賞受賞などというのはマロニエ君にとってはどうでもいいことだったけれど、内容がピアノコンクールを題材とした異色の小説ということで、珍しさに押されて読んでみることにしたのでした。
書店で手にとったときは、予想よりもずっと分厚い本で、文字列も上下二段組にされているなど、文字数もかなりのものでしたが、少し前の『羊と鋼の森』がそこそこおもしろかったこともあって、それなりの期待と興味をもって購入しました。

しかし(あくまでも個人的感想ですが)、それは読み続けることが苦痛になるほど内容に乏しく、表現も平坦安直で、この作者がそもそも何を言いたいのか、読者に何が伝えたかったのか、この作品の主題は何であるか、まったく不明。いくら読み進んでも、その核心が浮かび上がり、作品全体が収束してくる感覚を得ることはできませんでした。
作者は恩田陸という女性で、かなりピアノがお好きな方なんだそうで、それは甚だ結構なことですが、小説として作品にするための目的、周到な準備とか構想などがほとんど練られていないのでは?と思わざるを得ない印象でした。

文章においても表現の妙とか格調というものがまるでなく、ありふれた実用書の文体のほうがよほどマシではないかと思えるほどだったし、だいたい本を読むと、大いに膝を打つこと、ここは覚えておきたいなというような部分がいくつもあって、マロニエ君は極細の付箋のようなものを貼り付けて挟んでおくこともあるのですが、そういう部分も見事なまでに皆無。

こう言ってはなんだけれど、でもこれは直木賞まで受賞して、プロの文芸作品として立派な装丁をされて書店で大量販売されているものなのだから、この際遠慮なく言わせていただくと、構成など無いに等しいし、綿密な下調べや細かい調査がなされているとも感じられない。表現も陳腐な言い回しの連続で、各コンテスタントの心理描写に至ってはほとんどマンガの世界で、あくびの出るような文章が読んでも読んでも際限なく続くような印象。

逆に感心したのは、あれだけ内容のない(とマロニエ君は感じる)ものを、よくぞあれだけの長々とした文章にできたものだという、逆の意味での才能に感心してしまうほどでした。いつ果てるともない意味のないおしゃべりのように、読まされる読者にとってはほとんどどうでもいいようなことが、延々何百ページにもわたって繰り返されていくさまは、ほとんど苦痛でただもう疲れるし、途中で何度やめようかと思ったかしれません。

それでも、せこいようですが、せっかく2000円近いお金を出して購入したということと、好きなピアノが題材ということで、ほとんど意地と惰性だけで読み続けたものの、読むのがこれほど苦痛だった作品は久々でした。
むかし三文小説とか少女小説とかいうものがあったという話を聞いた記憶があるけれど、それはこういうものかと思ったり、とにかく最後まで読むことに自分としてはかなりのエネルギーを使わざるを得ませんでした。実に10日ほどもかけてようやく終わってみたものの、これは一体何だったのか、読んでいる最中よりますますわからなくなる、すっきりしない奇妙な経験でした。

文章や表現も、およそプロが書いたものというより、自費出版のアマチュアみたいで、それがともかくも直木賞をとったという事が(直木賞というのがどれほどのものか良くは知らないけれど)輪をかけて驚きでした。
作中にはピアノコンクールで勝ち進んで入賞あるいは優勝することがいかに過酷であり、人生をかけた戦いのように繰り返し述べられていたけれど、それは音楽コンクールだけの話で、文学界ではまるで事情が違うんだろうか…などとつい思わずにはいられないマロニエ君でした。

『蜂蜜と遠雷』というタイトルもよくわからないし、センスあるタイトルとは思えません。
…いま、たまたまセンスと書いたけれど、この作品で最もマロニエ君が違和感を覚えたのは、作家のいかにもアマチュアっぽいセンスの羅列だったからかもしれません。
ちなみに、これだったら専門性に優れたマンガの『ピアノのムシ』のほうが、はるかにクオリティは高く、接するに値する作品だとマロニエ君は思います。

あまりに驚いたものだから、アマゾンのカスタマーレビューを見てみると、概ね好意的な高評価が並んでいる陰で、マロニエ君が激しく共感できるような酷評もかなり数多く並んでいて、読んでいて「怒りすら覚えた」というのがあったときには、少しは溜飲の下がる思いがしました。

こういう作品のどういうところがどう評価されて権威ある賞を獲得し、書店でおおっぴらに販売されるのか、マロニエ君のような古いタイプの人間には今時の世の中の価値観やシステムそのものが、ますますもって難解でわからなくなる気がするばかりです。
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隠れた名手

草野政眞(くさのまさちか)さんというピアニストをご存知でしょうか。

以前どこかのピアノ店のブログですこし動画を見た記憶があったのですが、その後お名前さえわからなくなってしまって、今回YouTubeで偶然見つけました。
はじめはえらく腕のいいピアニストがいるものだと思った程度だったのですが、ショパンの英雄などはちょっとこれまでに聴いたことのないような雄渾な演奏で、まったく臆するところがなく絢爛としていて常に余裕があり、技術的にも並ではないものがあって唸りました。

準備した作品をそのままステージで間違いなく再現するのではなく、その場の感興に委ねている部分のあることが、音楽という一過性の芸術をより鮮明で魅力的なものにしていると思いました。
こういうものに触れたとき、演奏芸術の抗しがたい魅力を再認識し圧倒されてしまいます。

この英雄ポロネーズは若い頃の演奏のようで、J.シュトラウスの皇帝円舞曲(えらく演奏至難な編曲のよう)などはそれよりは後年のもので白髪も増えておられるけれど、いかなる難所が来ようともがっちりと危なげなく弾きこなしておられるのは呆れるばかり。
当然ながら技巧はものすごいけれど、アスリート的優等生とはまったく異なり、演奏には音楽の実と生命力があり、息吹があり、グランドロマンティックとでもいいたい迫力と重みが漲っています。

突出した技巧をお持ち故か、演奏曲目もタンホイザーなど重量級のものが多いけれど、いずれもすんなりと耳に入りやすい明晰な音楽として良い意味でのデフォルメがなされており、聴衆に難解退屈なものを押し付けるようなところがまったくありません。
いかにも自分の信じるスタイルのピアノを弾くことだけに徹した謙虚かつ一途な姿勢、分厚くて大きな手、そこから繰り出される密度の高い、腰の座ったリッチな音の洪水は、ちょっと他の演奏家からは聴けない充実したもの。

完全に楽器が鳴りきっており、その男性的な美音はどこかグルダに通じるものがあるようにも感じます。
マロニエ君も自分なりにいろいろなピアニストには注意を払ってきたつもりでしたが、この草野さんはまったく存じあげず、こういう超弩級のピアニストが日本国内にひっそりと存在しておられるという事実に驚き、この思いがけない発見の嬉しさと、想像を遥かに超える華麗な演奏には完全にノックアウトされました。

特筆すべきは、技巧は凄いけれどもたんなる指の回る技巧のための技巧ではなく、多少大袈裟に言うなら、現代の正確無比な演奏技巧の中に19世紀ヴィルトゥオーゾの要素というか精神が少し混ざりこんだようでもあり、聴く者は理屈抜きに高揚感を得て満足する。

現代には、ただきれいな活字を並べただけのような、楽譜の指示にもきちんと服従していますといわんばかりの無機質な演奏をするピアニストは掃いて捨てるほどいますが、この草野政眞さんのピアノはその場で演奏の本質みたいなものが主体となり、反応し、組み上げられる手描きの生々しさがあり、必要以上に楽譜通りの演奏であろうとして、作品や演奏そのものが矮小化された感じは微塵もありません。
むしろ楽譜に表された以上の大きさをもって聴くものの耳に迫ります。

それでいて音楽に対する謙虚な姿勢と最高ランクの技巧が支えているというところが聴く者の心を揺さぶり、大きな充実感に満たされる最大の理由なのかもしれません。

ネットでこの方のお名前を検索してみると、ホームページを発見しました。
さほど更新された気配もない感じもしましたが、4枚のCDがあって購入可能であることを発見!
さっそく購入申込みをしてすべてを聴いてみましたが、基本的にはYouTubeの画像と同様の印象。
ただし、今日的基準でいうと演奏がやや荒削りで(そこが魅力なのだけれど)、出来不出来があることも感じないわけではありませんでしたし、すべてライブ録音なので、録音状態も良好とはいえず、これだけの素晴らしい演奏をもっとクオリティの高い録音で残せたらという無念さが残ります。

奥様からメールなども頂きましたが、これだけの腕と演奏実績がありながら、信じ難いことに演奏機会は少ないのだそうで、時代に合わないのだろうかというような記述もあり、その素晴らしさ故につい胸が詰まりました。
しかし、マロニエ君にしてみれば今時の退屈極まりないコンサートの中では、例外的に最も行ってみたい演奏のひとつで、これがヨゼフ・ホフマンやホロヴィッツの生きた頃、あるいはその残り香のある時代であれば、おそらくはもっとも絶賛されるピアニストのひとりだろうと思います。

現に彼の演奏を聴いた往年の巨匠シューラ・チェルカスキーはやはりこの草野氏を激賞しており、さもありなんと思いました。

どんな世界にも、時代背景や流行というのはあるけれど、良いものは時代を超越して良いわけで、これほどの方が不当な評価しか受けられないというのは、いかに日本の聴衆のレヴェルが低いのか、周りの理解が低いのか、国内の音楽環境の偏狭さを恥じなければならない気がします。

マロニエ君はコンクールなどを全面否定するつもりはないけれど、著名コンクールに優勝というような肩書がつかないとチケットも売れず、コンサートそのものも成立しないというのはまったく情けないことだと思います。
間違っていようと何であろうと、自分の「耳」と「感覚」を信じることができることが、一番大切だと信じます。

この方の演奏を聞くと、技巧で鳴らしたユジャ・ワンなどもどこかコンパクトに感じるし、とりわけ迫り来る音圧などは比較になりません。
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