一瞬の悪夢

いささか滑稽な話ですが、人間はいつ何時、どんな目に遭うかわからないという経験をしました。

日曜の夕方、外出する前に車の窓を拭こうとしてバケツに水を溜めようとしたときのこと。
我が家のガレージの水道には、洗車のために長い巻取り式のホースリールを取り付けています。

そのホースは先端を回転させることにより、水の出方が4種ほど変化するようになっているものですが、それをいちいち動かすのも面倒なので「シャワー」の位置のままにしていたのです。
この日はちょっと急いでいたため、つい蛇口をひねる量が大きめだったのか、はじめバケツ内でおとなしくしていたホースが突然、コブラの頭のように動き出し、すぐ脇で窓拭き用ウエスの準備をしていたマロニエ君に向かって、盛大にシャワーの雨を浴びせかけました。

この予期せぬ事態に、もうびっくり仰天!
外出用に着替えていた服は上下とも無残なまでにびしょ濡れとなり、おまけに動きまわるシャワーヘッドを追いかけているうちに、水は目の前にある車にも容赦なく水を振りまき、車も1/3ほどがびしょびしょです。

というわけで、人も車も仲良く水浸しとなりました。
服のほうはというと、とてもちょっと待ったぐらいで乾くようなレベルじゃないので、一旦家に戻って全部着替えるほかはありませんでしたが、急いでいるときに限ってこんな理由で着替えをするときの、なんと情けなかったことか!

この日は梅雨にもかかわらず、せっかく雨は降っていなかったのに、車の左側はたったいま雨の中を走ってきたかのように屋根まで水滴だらけで、このときは笑う余裕もないほどでした。車のほうは普通なら放っておくところでしょうけど、雨水と違い、水道水は放置すると塗装のシミになるので、マロニエ君としてはそのままということができず、ここから車の水の拭き取り作業までやるハメに。

途中、何度かバケツの水でぞうきんを洗いますが、腰をかがめたときにビビーッと針で刺すような痛みがあることが判明。
はじめは大して気にも留めなかったけれど、何度やってもあきらかで、しかもその痛みは決して小さいものではなく、シャワーがこっちに向かって攻撃してきたときにあまりにも慌てて、ふだんあり得ないようなアクションでのけぞったのが原因だというのはあきらかでした。

これは困ったことになったとは思ったけれど、まあそのうち治るだろう…というか治るのを待つしかないわけで、とりあえず人との約束もあり出発することに。
運転中はシートに身体も収まっているのでわかりませんでしたが、40分ほどで目的地に到着、車を降りようとしたときに初めて猛烈な激痛が体中を貫きました。
右足を地面に出して立ち上がろうとすると、その痛みもさることながら、まったく力も入りません。
やむを得ず両足を外に出し、友人の手助けで両手を支えてもらいながら、数分間かけてやっとの思いで車の外に這い出すことができましたが、激痛は収まらず、支えがなければその場に立っていられないほどでした。

これでは歩くこともままならず、ゆっくりゆっくり腰を伸ばしてみると少しずつ痛みが収まり、それからゆっくりではあるもののようやく歩けるようにはなりました。立って歩くというかたちが定まってくると、なんとかそのことはできるようになるのですが、また座る/立つということになると、そのたびに脂汗が出るような痛みが腰から背中にかけて襲ってきました。

思いがけない水攻めに遭って、イナバウアーではないけれど、咄嗟によほどむちゃな身体が壊れるような動きをしたのでしょう。

その日はなんとか無事に自宅に帰り着きましたが、やはり最も厳しいのは車から降りるときでした。
車のシートは普通の椅子と違って深く座り、運転は腰に重心をかけているから、そのカタチがいったん固まると、今度は腰を伸ばすという変化が一番きついようです。車から降り立ったときは精も根も尽き果てたようでした。

一旦こういうことになると、日常生活も不便の連続で、何をするにも腫れ物にさわるような慎重な動きになってしまい、健康の有り難みをイヤというほど知らされます。
まあ、これが自分の腰ぐらいだからいいようなものの、例えば深刻な交通事故なども大抵は直前まで予想もしないような僅かなことが発端となって起こってしまうのだろうと思うと、あらためて気を引き締めておかなくてはいけないと思いました。

早く治って欲しいけれど、この手合は時間もかかるでしょうし、焦ってもどうにもなりませんね。
たかだか車の窓を拭くというだけのことが、えらいことになったものです。
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ダン・タイ・ソン

ずいぶん久しぶりでしたが、ダン・タイ・ソンのピアノリサイタルに行ってきました。
せっかくチケットを買われたのに、ご都合がつかなくなられた方からチケットをいただいたのです。

プログラムは前半がショパンのop.45の前奏曲で始まり、続いてop.17-1/7-3/50-3というマズルカ3曲、スケルツォ第3番、リストのジュネーヴの鐘/ノルマの回想、そして後半はシューベルトの最後のソナタD960というものでした。

冒頭の前奏曲はいかにもショパンらしく、薄紙を重ねるように転調を繰り返していく作品ですが、その儚さとセンシティヴな曲の性格をあまりに強調しようとしすぎてか、いささか冗長でむしろ本質から離れてしまっているようでした。
この曲は表面的にはあくまでも緩やかで覚束ない感じですが、その底に激しい情熱が潜んでいるように思うけれども、そういうものはあまり感じられませんでした。
3つのマズルカを経てスケルツォに至りますが、どうもこの曲はダン・タイ・ソンには合っていない曲に思われ、繰り返される両手のオクターブの炸裂が今ひとつ決まらないのが残念。
しかしそんな中にも、いかにもこの人らしい美しい瞬間はいくつもあって、そういうときはさすがだなあ感じることもしばしばでした。

ジュネーヴの鐘も全体に流れる優しげな曲調とあいまって、とても美しい気品あふれるリストでした。
いっぽいう、ヴィルトゥオーゾ的要素満載のノルマの回想は、ショパンのスケルツォ以上にダン・タイ・ソン向きではないと思える選曲で、派手な技巧が次から次へと繰り出されるこの曲をコントロールしきれているとは思えず、よく知っている曲のはずなのに、演奏にメリハリが乏しくなるからか、こんなところがあったかな?と思えるようなところが何ヶ所もあって、どこを聴いているかわからなくなるようなところさえありました。

この日、最も素晴らしいと感じたのは後半のシューベルトで、曲の性格、技巧、さらには最近この曲のCDを出しているようで、そのぶん深く手に馴染んでているようでもあり、もっとも自然に安心して心地よく聴くことができました。
とりわけ出だしの変ロ長調の第1主題の、静謐さ、これ以上ないというデリケートな表現はことのほか見事だったと思います。

アンコールはショパンの遺作のノクターンで(個人的には別のノクターンが聴きたかったけれど)、いまだにダン・タイ・ソンの真骨頂はショパンのノクターンにあるという印象を再確認しました。彼のノクターンには芯があって、それでいて繊細を極め、透明で、表現にも一切の迷いがないところは他を寄せ付けない美しさと強い説得力があります。

全体を振り返って、いかにもダン・タイ・ソンらしく、誠実な演奏でピアニストとしての一夜の義務をしっかりと果たしてくれたと思います。しかし、できることならその人の最良の面が発揮しやすいプログラムであってほしく、とくに前半はどういう意図で並べられたものか、よくわかりませんでした。

プログラムそのものが、ひとつの曲と言ってしまうのは飛躍がすぎるかもしれないけれど、少なくとも聴く側にとっての流れや積み上げといったらいいか、料理でも出していく順序というのがあるように思います。
すくなくとも前半のそれはダン・タイ・ソンに合うかどうかだけでなく、聴いていてなんとも収まりの悪い、しっくりこないものを感じました。マズルカ3曲でさえ、なんでこの3曲がこういう風に並ぶんだろうと納得できませんでしたし、前半の最後がノルマの回想で、休憩を挟んでシューベルトのD960になるというのも、もし自分だったら思いもよらない取り合わせです。

プログラムの組み立てというのは多種多様で、非常に難しいものがあります。
あれっという意表をついたようなプログラムが、聴いてみるとなるほどと感心することも中にはあり、いろいろなあり方があるわけですが、これも要はセンスの問題だと思います。

ダン・タイ・ソンはあくまでもその誠実で良質な演奏が魅力で現在の地位を保っているのでしょう。
惜しいのは、世界の一流ピアニストとしてはテクニックはギリギリで、曲によって余裕があれば聴かせる演奏になるけれど、ある線を超えるとただ弾いてるだけの演奏になってしまうので、彼の場合は、聞く側に不満の残るような曲はあまり選んでほしくないと、マロニエ君などは勝手なことを思ってしまいます。
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忘れていた新進気鋭

少し前のことでしたが、イタリアの新進気鋭ピアニストということで、ベアトリーチェ・ラナという女性によるゴルトベルク変奏曲のCDを購入しました。
レーベルはワーナークラシックス。

聴いた感想を書かなかったのは、わざわざ書くべきことがマロニエ君としてはあまり見つからずじまいだったから。
至って普通で、今風で、正確で、とくに何かを感じることもないままキチッと弾き進められて行く感じがするばかりで、印象深いところがなにもなかったからでした。
もちろん、いまどきメジャーレーベルからCDを出すような人でもあるし、2013年のクライバーンコンクールで第2位になった人らしいので、テクニックはそれなりのものがあるし、ましてセッション録音なのでキズもミスもなく、演奏というより、どこかいかにもきれいに出来上がった商品という印象でした。

ディスコグラフィーを見ると、チャイコフスキーの1番やプロコフィエフの2番、あるいはショパンの前奏曲やスクリャービンの2番のソナタなどがあるようで、そこでどんな演奏をしているかはわからないけれど、少なくともこのゴルトベルクで聴く限りは、どちらかというと細い線でデッサンしていくような演奏で、イヤ味もないし、いちおう要所要所でメリハリも付けることを忘れていない人という感じでした。
少なくとも強烈な個性とか強い魅力で聴かせるタイプではなく、いかにも国際コンクールに出て成績優秀、最終予選までは残っても、第1位にはならない人…そんな感じといったらいいでしょうか(実際の戦歴は知りませんが)。

そんな印象だったので、名前さえすっかり忘れていたところ、少し前のNHKのクラシック音楽館でN響定期のソリストとしてこの人の名前が出てきたので、そのとき「どこかで見たことのある名前」という感じでやっと思い出しました。
クライバーンコンクール入賞者として、各地各楽団から呼ばれる名簿に入っていて、こうして世界を回り始めているのかもしれません。

曲はベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番でしたが、ライブだけにゴルトベルクとはずいぶん印象の異なる、この人の素の姿を見聞きすることができた気がしました。
説明的であったり構成感をもって弾くタイプではないようで、どちらかというとテンポ感とセンスを前に出す感じ。
指の動きはいいようで、そこを活かしてサラサラと演奏は進み、ところどころに多少の解釈というかデフォルメ的なものも織り込まれているけれど、マロニエ君の耳にはそれがあまり深い説得力をもっては聴こえなかったし、場合によっては浅薄なウケ狙いのような印象さえ持ってしまいました。

仕事も恋愛も確実にゲットして、あたり構わず巻き舌の早口で喋る今どきのデキる女性みたいで、その点ではゴルトベルクでは、ずいぶん慎重にきちんと弾いたんだなぁ、ということが察せられました。
ただ、ピアニストとしての器としてはさしたるサイズではないという感じをうけたことも事実です。

事前にインタビューがあったけれど、指揮者のファビオ・ルイージ氏とは、とくにこの曲ではリハーサルが必要ないほど何度も共演しているが、そのたびに新しい発見があります…と、マロニエ君としては聞いたとたん引いてしまう紋切り型の例のコメントがこの人からも飛び出したときは思わずウンザリしました。
なぜ、みんなこの手垢だらけの言葉がこうも好きなのか、聴衆に対して、同じ曲を何度も演奏することに対する言い訳の一種なのか…。


テレビといえば、題名のない音楽会で反田恭平氏が出る回を見ましたが、シューマン=リストの献呈以外は、パーカッションとのコラボという試みでした。
彼は国際的にはどうなのかは知らないけれど、少なくとも日本国内ではベアトリーチェ・ラナよりは数段上を行く「新進気鋭」で、そんな注目のピアニストが従来通りの決まりきった演奏を繰り返すだけなく、新しいことに挑戦することは素晴らしいことだと思います。

…それはそうなのだけれど、このときやっていることそのものには大いに疑問符がつきました。
ラヴェルの夜のガスパールからスカルボを演奏するにあたり、パーカッションと組んでの演奏で、しかもピアノの内部(弦の上)には定規や金属の棒のようなものをたくさん散りばめて、チンジャラした音をわざと出し、パーカッションとともに一風変わったスカルボにしていたのですが、これがマロニエ君には何がいいのやら、さっぱりわからなかったし、正直言って少しも面白いとは思いませんでした。

保守的な趣味と言われるかもしれないけれど、個人的にはやはりどうせなら反田氏のソロだけで聴きたかったし、そのほうがよほどスカルボの不気味さがでるだろうと思えてなりません。
それはそれとして、折々に映しだされる反田氏の秀でた手の動きは、やはり見るに値するものがあり、ほどよく肉厚な大きな指が苦もなく自在に鍵盤上を駆けまわるさまは、見ていて惚れ惚れするというか、なにか胸のつかえが下りるような爽快感があります。

若いテクニシャンでならすピアニストでも、手の動きとか使い方に関しては、個人的にユジャ・ワンのどこか動物的な指よりは、反田氏の手のほうがずっと心地よい美しさを感じます。
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稀有な出来

ピアノのブログにたびたび車の話を書くのもどうかと思いますが、以前の続きでもあり、訂正でもあり、意外な発見でもあるようなことがあったのでちょっと書いておきたくなりました。
というか、車の話というよりは、モノの善し悪しを左右する微妙さや分かれ目についてのことと捉えていただけたら幸いです。

某辛口自動車評論家が自身の著書の中で、フォルクスワーゲン・ゴルフ7(7代目のゴルフ(2013年発売))の、1.2コンフォートラインというモデルを「ほとんど神」「全人類ほぼ敗北」という、あまり見たことのないような激賞ぶりだったので、そこまでいわれると、ちょっと乗ってみたくなってディーラーに試乗に行ったことを以前書きました。

評論家氏の表現をもう少し引用すると「1周間前に乗ったアウディA8(アウディの最高級車)にヒケをとらないレベル」「Aクラス(メルセデス)、V40(ボルボ)、320i/320GT(BMW)、アルピナB3(BMWのさらに高級仕様)、レクサスLS、E250/E400(メルセデス)、アストンマーティン(車種略)、S400/550(メルセデス)、レンジローバーなど2013年はいろんなクルマで往復5~800kmのロングドライブにでかけたが、ゴルフの巡航性はマジでその中でもトップクラス、疲労度は1000万円クラスFクラスサルーンとほとんど大差なかったのだから、全人類敗北とはウソでもなんでもない。」「実に甘口で上品なステアリング。走り出しも静かでフラットで、滑るよう。」「お前はレクサスか」というような最高評価が、単行本の中で実に16ページにわたって続きました。

俄には信じられないようですが、この人はベンツであれフェラーリであれ、ダメなものはダメだと情容赦なくメッタ斬りにする人で、じっさい彼の著書や主張から学んだことは数知れず、とりわけ今の時代においては絶滅危惧種並みの人です。

その彼がそれほど素晴らしいと評するゴルフ7とはいかなるものか、マロニエ君もついに試乗にでかけたのですが、結果はたしかに悪くはないけれど、その激賞文から期待するほどの強烈な感銘は受けずに終わったことは以前書きました。ただし、試乗したのがヴァリアントというワゴン仕様で、通常のハッチバックとはリアの足回りが異なり、ハッチバックとの価格差を縮めるために快適装備が簡略化され、そしてなにより全長が30cm長くて重心が高く、車重も60kg重いという違いがあったからではないか…とあとになって考えました。
クルマ好きなくせにずいぶんうっかりな話です。

そこで、ディーラーには申し訳なかったけれど、再度ハッチバックでの試乗をさせてほしいと申し入れました。
日時を約束して再び赴くと、某辛口自動車評論家が激賞したものと同じ仕様の、つまりワゴンではなくハッチバックの1.2コンフォートラインが準備されていました。助手席に乗ってシートベルトをした営業マンの「ドーゾ」を合図に慎重に動き出して数秒後、「え?」これが前回とはまったくの別モノなことはすぐわかりました。
前回「車の良し悪しというのは、大げさにいうと10m走らせただけでわかる」と大そう生意気なことを書きましたが、その動き出し早々、なんともいえないしっとり感、緻密でデリケートな身のこなし、ハンドル操作に対する正確無比かつリッチな感触など、車のもつあれこれの好ましい要素にたちまち全身が包まれました。

ディーラーの裏口からの出発だったので、細い道を幾度か曲がりながら幹線道路に出ましたが、その上質な乗り味は狭い道での右左折でも、ちょっとしたブレーキの感触でも、国道へ出てからの加速でも、すべてが途切れることなく続きます。

自動車雑誌も評論家も、昔のような歯に衣着せぬ論評をする気骨のある風潮は死滅しているのが現状で、誰もが誰かに遠慮して本当のことを書かなくなりました。いうまでもなく常にスポンサーの顔色をうかがい、本音とは思えぬ提灯記事ばかりが氾濫しているのです。
というわけで、現在では、この人の言うことだけは信頼に足ると思っていた某辛口自動車評論家だったのですが、第一回目のワゴンの試乗以来、もはや彼の刀も少々錆びてきたんじゃないか…という失望の念も芽生えていたところでした。

しかし、それは嬉しい間違いだったようで、さすがに「神」かどうかはともかく、なるほど稀に見る傑出した1台だということはすぐに伝わりました。価格はゴルフなりのものですが、これが何台も買えるようなスーパープライスの高級車の面目を潰してしまうような(走りの)上質感と快適性とドライビングの爽快さを感じられる稀有な1台であることは、たしかにマロニエ君も同感でした。
ボディは軽く作られている(現在の厳しい安全基準とボディ剛性を維持しながら、ゴルフのような世界中が期待する名車を軽く作るというのは、ものすごく大変なこと!)のに剛性は高く、小さなエンジンを巧みに使いながら、まったくストレス無しに軽々と、しかもしなやかさと濃密さを伴いながらドライバーの意のままにスイスイと走る様には、たしかにマロニエ君もゾクゾクもしたし口ポカンでもありました。

ついでなので、1.4ハイラインという、もう少し高級な仕様に乗ってみましたが、こちらは確かにエンジンパワーは一枚上手ですが、1.2コンフォートラインにあった絶妙のバランス感覚はなく、従来のドイツ車にありがちなやや固い足回りと、上質な機械の感触を伴いながらある種強引な感じでズワーッと走っていく感じでした。これ1台なら大満足だったと思いますが、1.2の全身にみなぎるしなやかな上質感を味わってしまうと、相対的にデリカシーに欠ける印象でした。

べつに無理してオチをつけるわけではないけれど、結局、車も楽器と同じだと思いました。
要は理想の設計とバランス、各部の精度の積重ねが高い次元で結びついた時にだけ、まるで夢の様な心地良いものがカタチとなって現れることが稀にあるということ。それは同じメーカーの製品であってもむろんすべてではなく、なにかの偶然も味方しながら、ときに傑出したモデルが飛び出してくるということでしょうか…。
濃密なのに開放され、奇跡的なのに当たり前のようなバランス、ストレスフリーで上品な感じは、まさに良い楽器が最高に調整された時に発する、光が降り注ぐような音で人々に喜びを与えてくれる、あんな感じです。
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価値はいずこ?

日本人による日本製のピアノに関する評価基準というのは、大メーカーの製品ばかりが中心らしく、楽器としての正当な評価がなされてはいないだろうと思ってはいたけれど、根深い大ブランド偏重という点では、やはり驚くべきものがあるようです。

具体的なブランド名は敢えて書きませんが、ネットの相談コーナーを見ていると、国内で一定の評価を得ているいくつかの手造りピアノと、大手による大量生産のピアノ(どちらも中古)のいずれを購入しようかと悩んでおられる方の質問がありました。

価格はブランド力の違いからか、良質な素材を使っていると定評ある手造りピアノのほうがむしろ安く、単なる量産品のほうが逆に高額だったりで、ずらりと書き込まれた回答者達は、技術者/一般ユーザーいずれも大手の製品を当然のように勧めていることにびっくり。
それも楽器としての価値や魅力、音の善し悪しに照準を当てた話ならともかく、大したこともないわずかな安心感や、さらには将来の買取価格/リセールバリューに関する価値ばかりが大真面目に取り沙汰されていることに愕然としました。

これから手に入れて長い時を共にするピアノであるのに、果たしてどれが本当に弾いて楽しく喜びを得られるかという記述はひとつもなく、主にわずかな買取価格の話にばかり終始します。手作り品のほうは知名度が低いから殆ど値がつかないとか、下手をすれば処分代をとられることもある、それに比べれば量産品のほうがまだかろうじて値がつくわけで、だから有名メーカーの方を買われることをおすすめしますといった主旨のもの。

これが業者間の話なら、事はビジネスだからそういった意見もまだいいとしても、一般のユーザーに宛てたアドバイスがそこだったことにとても驚かされたというかショックを受けました。

たしかに相談者がどういった部分に重点を置いて相談されているかまでは正確にわからなかったことも事実ですが、すくなくとも質問の感じからして、それをさらに将来手放すときの金銭的価値の話ではなく、ピアノとしてどっちを選んだほうがいいでしょうか?という、単純かつ漠然としたものだったように感じられました。
おそらく、音の感じとかピアノとしての味わいや音楽性などのことと、機構的な心配はないかといったことだろうと思います。
とこらが、回答者はすべて「買取の場合にどれだけ値がつくか」という一点のみに終始し、純粋に楽器としての良し悪しに対する記述は一つもないのには言いようのない価値基準の貧しさを感じました

これからピアノを買って、家において、弾いて、音楽に触れ、ピアノと関わろうというのに、将来手放すときの金銭的価値が残るか残らないか、そういうことばかりに価値を置き、だから大手メーカーがオススメだと何人もの人が堂々と言ってのける感性には、本当に驚かされました。
極め付きは「わざわざ❍❍万円(売値)の処分困難な粗大ゴミをあえて買いますか?」といった強烈な言い回しで、こんなにも文化意識の欠落した寂しい考え方があるのかと思わず背筋が冷たくなりました。

たしかに、手作りとは名ばかりの、アジア製の得体のしれないたぐいのピアノならわかりますが、れっきとした日本のピアノ史に名を残す名器と言われるようなピアノが、いざとなるとこのような不当な扱いを受けていることにただもう唖然とするばかり。

たしかに、将来手放すときにいくらかの金銭的な価値が保持されればそれに越したことはないかもしれませんが、もともとが安い中古品で、出てきた価格はせいぜいちょっとした電子ピアノぐらいのに毛の生えた程度の価格です。
100万円も出すというのなら少しはリセールバリューの面も気になるのはわかりますが、こんな価格帯で職人の気骨で作り上げられたピアノがあり、しかも弾いた人が音色や響きが気に入ったとすれば、それが最も大切なことではないかと思うのですが…。

おまけに回答者の言い分としては、そもそもそんなピアノはタダ同然もしくは処分料を取って仕入れるのだろうから、販売する業者は「ボロ儲けのはず」で、そんなボロい商売にまんまと乗せられるようなことは自分はしない!というようなニュアンスの記述まである始末です。
でも、いくら仕入れが安くても、今どきピアノなんてそう簡単に売れる品目ではないし、中古の場合、商品として仕上げるためには相当の労力が必要とされ、おまけに売れるまで在庫としてかかえるリスクまで考えれば、ボロ儲けだなんてマロニエ君にはとても考えられません。

そういえば思い出しましたが、車でも新車を買う際、自分が一番気に入った色ではなく、将来下取に出したときに少しでも有利になる人気色で決める人が少なくないらしいのですが、こういうこともどこかおかしいなと思います。

それでも車は何色でも機能的には無関係ですが、ピアノはメーカーや材質や製造者のこだわり如何によって音や響き、ひいては音楽する喜びまでまったく変わってくるというのに、大量生産の大メーカーでないピアノは粗大ゴミだと決めつけ、相談者へさも真実のアドバイスであるかのように言うとは、その勘違いと偏りはいささか度が過ぎていやしないかと思いました。

だったらベニヤ板みたいな響板に羊毛のクズを固めたようなカチカチの超安物ハンマーが付けられた、音階の出るおもちゃみたいな音しかでなくてもても、鍵盤蓋に有名メーカーのロゴさえあればいいということですね。
これが悲しき現実なんでしょうか…。
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感銘の不在

BSで録画しているものの中から、マリインスキー・バレエの『ジゼル』を見ました。

昔はチャイコフスキーの3大バレエを始め、ジゼルなどのクラシック・バレエはよくテレビでも放映されていた記憶がありますが、最近はもっぱら創作バレエ的な現代もののほうに軸足が移っていったのか、中には美しいもの斬新なものもあるけれど、マロニエ君にとっては30分見ればいいという感じで、古典の名作を落ち着いて見る機会が減ったように思います。

そういう意味でも『ジゼル』全2幕をじっくり見られるのはずいぶん久しぶりな感じでした。
ジゼルを踊ったのは、最近の顔ぶれはあまり詳しくないけれど、どうやら同バレエ団のプリンシパルらしいデァナ・ヴィニショーワ、アルブレヒトはパリオペラ座からの客演でマチュー・ガニオ。

ボリショイと並び称される伝統あるマリインスキー・バレエがホームグラウンドでおこなった公演とあって、それなりに期待したのですが、オーケストラを含めて(指揮もゲルギエフではないし)全体に印象の薄い、軽い感じで、現在のメンバーでそつなくこの名作を踊りましたという感じだけが残りました。

要するに他のジャンルと同じ傾向がバレエにも波及しているというべきなのか、みんな上手いし、決められた振付を難なくこなしてはいくものの、観る側に深い感銘というのが伝わってこないもので、器楽演奏でもオーケストラでも、なんでもがこういう流れに陥る時代が、ジャンルを超えて浸透しているということでしょう。

マリインスキー・バレエのジゼルならメゼンツェワの映像も残っているし、写真以外では見たことはないけれど、往年の名花であったイリナ・コルパコワもオーロラ姫の他にジゼルを得意としたそうですし、ボリショイの歴史にその名を残すプリマであったマクシモワもジセルがお得意だった由。
また、1980年代だったか、ボリショイの芸術監督であったグリゴローヴィチの舞台を、当時のNHKが集中的に収録したことがありましたが、あの時代のボリショイで女王のごとく君臨していたナタリア・ベスメルトノワが踊ったジゼルは、さすがに若いうぶな娘には見えなかったけれど、それはそれは濃厚で彫りの深い芸術そのものの踊りでした。
おまけに、それからほどなくしてボリショイの日本公演があって、ほぼ同じメンバーで実演のベスメルトノワのジゼルを堪能することができましたが、ずっしりとした百合の花のような踊りは他を圧して、一瞬一瞬が味わい深かく、しかも正統的かつエレガントであったのは一生忘れることはないと思います。

その点、今度見た新しいジゼルは、なにもかもが安く仕立てられた簡易製品のようで、みんな上手くてべつだん問題はないけれど、真にいいものに触れたときだけにある、心の深いところが揺さぶられて覚醒させられるような後味はまったく残りませんでした。
ミスもなく、テクニックもあり、決められた通りの振り付けを淡々とこなしていくだけで、別のキャストでもいいという感じ。

昔のままだったのは、マリインスキー劇場の、まるで王が引きずる豪奢な衣装のような緞帳だけでした。


何もかも安く仕立てられたということでふと思い出しましたが、辛口批評で評判のさる自動車評論家の単行本を読んでいると、7世代目に当たるVWゴルフを「神」とまでいって絶賛しまくっていたので、そんなにも素晴らしい現行ゴルフとはいかなるものか、将来の買い替えへの予備知識も兼ねて試乗に行きました。

工業製品としては、一部の隙もなく作られているし、今時のぶくぶくしたデザインではなくてカッコもいいし、さすがあれだけ褒めちぎるだけのことはあるらしいと、期待に胸を膨らませてスタートしました。
ちなみに、車の良し悪しというのは、大げさにいうと10m走らせただけでわかります。
もちろん悪くはありませんが、期待ほどではない。そこそこいいのですが、なにも「神」を引き合いに出すほどいいのかというと、それほどでもありませんでした。

試乗したのはヴァリアントというワゴンタイプで、辛口評論家が絶賛していたのは通常のハッチバックタイプでしたので、その差はいくらかあったかもしれません。助手席のディーラーの人に聞いてみると、ワゴンタイプのほうが重い荷重を想定してリアのスプリングレートが多少ハードに仕立てられているので、普段の乗り心地は若干固いとのこと。
また、エンジンは時代の趨勢によって「ダウンサイジング」といって、小さな排気量にターボを付けて、より大きな排気量のエンジン並にパワーとトルクを得ながら低燃費も両立するというもので、これがまた「1.2リッターとは思えない力」と書かれていたけれど、マロニエ君は正直いってあきらかに実用性の点からいってもアンダーパワーで「ちょっときついなぁ…」と感じました。

車のことをわざわざここに書いた理由は全体的な印象故で、実用車としての完成度、装備、パワーや燃費、ハンドリングなど、ひとつひとつの要素はよく出来ておりちゃんと時代の要求をちゃんとクリアされているけれど、全体からにじみ出る雰囲気にどうも安っぽさが隠せないというか、いかにも現代のテクノロジーで作られた、ギリギリによく見せようとした車という出自が隠せていませんでした。
見た目も立派だし、なかなかのグッドデザインでもあるけれど、製品から醸しだされる重みとか充実感、もう少し甘っちょろい言い方をするなら、かつてのドイツ車にあった、いいものだけがもつ有り難みとか作り手のプライドのようなものを感じるまでには至りませんでした。

この現代最高と評されるジゼルとゴルフに、なにやらとても残念な共通項を見た気がしたわけです。
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相談

車の仲間である某氏から、思いがけなくピアノの相談を受けました。

車の集まりではピアノのピの字も口にしないのですが、まあそれでもマロニエ君がピアノ好きであることを何かの折にチラリと話したことが相手の方の記憶の底に残っていたようです。

その相談というのが、30数年前にカワイのアップライトピアノを買われて、それをさらにそのお子さんが受け継いで弾いておられるようで、なんとも素敵な話です。
中学生ぐらいになり、だいぶ上達したとのこと。
ところが、ピアノの先生のところにはグランドがあって、お子さんによれば先生のところのピアノは弾きやすく、それに比べると自分のピアノは甚だ弾きづらいとのこと。
とくに強弱の差がつけにくいとあって、それが思った通りに弾けないという点に不満が募っているらしく、どうしたものか…ということでした。

すでに古いピアノではあるし、機能的にもそういう「問題」が出ているから買い替えも検討中とのこと、ピアノといえども機械ものなのでそういうものだろうか?というご相談を受けたというわけです。

もちろんマロニエ君は専門家ではなく、一介のピアノ好きにすぎず、責任ももてないので断定的なことは敢えて言いませんでした。
言えることといえば、グランドとアップライトではアクションの構造がまったく違うので、グランドを買われるのならともかく、同じアップライトをただ新しいものに買い換えられるのであれば、事前によく考えてみるべき余地があるということ。

言うまでもなく、ピアノは木材の他に金属、多くのフェルトなどの天然素材を多用し、それらは弾かれることと経年変化によって「消耗」するものだということ、無数のパーツがまさに精密機械のように複雑に組み上げられ、機能し合うことによってピアノ本来の弾き味を作り出しているということを簡単に説明しました。
ほんらい弾力があるべきものが固く潰れてしまえば本来の柔軟な動きは阻害され、とりわけ微妙なタッチコントロールはにづらくなるわけで、もともと機械ものにはめっぽう詳しい方なので、車と楽器という違いはあれども、理屈はあるていどすんなり理解されたようでした。

で、素人のマロニエ君が想像でいくら何を言ってみたところで埒が明かないので、ひとまずオススメしたのは、信頼のおけるプロの技術者の目でそのピアノが現在どのような状態になるかを見てもらい、各所の調整や簡単な消耗品の交換によって本来の機能を取り戻せるのか、価格はどれぐらいか、あるいはもっと本格的なオーバーホールが必要なのか、そのあたりのことを正しく判断してもらうのが最良ではないかといいました。

さらに最も気をつけるべきは、優れた技術を持たれた方というのは当然としても、メーカー系の技術者には決して依頼せず、販売ノルマのかかっていない、フリーの技術者さんに診てもらうという点だといいました。
べつにメーカー系の方を批判するつもりはありませんが、メーカーに在籍してそこから給金をもらっているからには、上から新品の販売圧力がかかっているのは当然だからです。これは世の常ともいうべきことで、どんなジャンルでも似たりよったりかもしれませんが、とくにピアノ業界はその傾向が強いように感じるからです。

聞いた話では、簡単にできる修理も調整も敢えてしないで、素人にわからない専門用語を並べ立てて買い替えに誘導するというあまり感心できないやり方です。もちろん新品が売れて初めて利益が出る会社にしてみればやむを得ない手段かもしれませんが、でもやはりマロニエ君は充分修理や調整の可能なものを「できない」と言いくるめて、望まない買い換えを強引にさせるというやり方には賛成しかねるのです。

昔のピアノはとくに一流品でなくても、あたりまえに木材をはじめ普通に天然素材を使って作られていましたが、今のピアノは(聞いた話ですが)外目は立派すぎるほどの分厚くてピカピカの塗装で覆われているから見てもわからないけれど、普通の人が木だと信じている部分の多くに、木の屑を集めて固めた集成材はじめ、ひどい場合はプラスチックなども多用されている由。とても楽器と呼べるようなものではなく、心に滲みない機械的な音階の出る製品に成り下がってしまっているとも聞きます。

不幸にして家が火災になったところ、木だと思っていたピアノ(全部ではないでしょうけど)がドロドロと溶け出してプラスチックが多用されていたことがわかったという話も聞いたことがありますし、おそらく技術者さんたちはもっとお詳しいのでしょうけれど、みなさん業界に身をおいてお仕事をされるためか頑なに口をつぐんでおられるようです。

また、有名な日本製ブランドは名乗っていても、とくにアップライトに関してはアジア製であったり、あるいは「日本製」とするために、ほとんど海外で出来上がったものを輸入して、最終組み立てだけ日本でおこなうというようなことだけするようなケースも珍しくないそうです。
何かの本で読みましたが、ほとんど完成したピアノを途上国から輸入して、ペダルだけ日本で取り付けて「日本製」とするような場合もあるようで、マロニエ君だったらそんなピアノは絶対に欲しくはありません。

できたら、最低限の消耗品の交換と調整によって、本来のきちんとした機能を取り戻してくれることを願っています。
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