『ピアノと日本人』

TV番組のチェックのあまいマロニエ君ですが、友人がわざわざ電話でNHKのBSプレミアムで『今夜はとことん!ピアノと日本人』という90分番組があるよと教えてくれたので、さっそく録画して見てみました。

ナビゲーターというのか出演は、女性アナウンサーとジャズピアニストの松永貴志氏の二人。
あとから聞いたところによると、そのアナウンサーは民放出身の加藤綾子さんという有名で人気のある人だそうで、今回NHKには初登場らしいのですが、マロニエ君は今どきの女子アナが苦手で興味ゼロなので、どの人も同じようにしか見えず「へーぇ」と驚くばかり。
音大出だそうで、冒頭でマニキュアを塗った長い爪のままショパンのop.9-2のノクターンを弾いていましたが…そんなことはどうでもいいですね。

印象に残ったシーンを幾つか。
日本に最初にやってきたピアノはシーボルトのピアノというのは聞いたことがありましたが、それは山口県萩市に現存しているとのこと。
江戸時代、豪商だった熊谷義比(くまやよしかず)が膝を痛め、その治療で長崎のシーボルトの診察を受けたことがきっかけで交流が始まり、日本を離れる際に熊谷氏へ贈ったスクエアピアノでした。
それが今も熊谷家の蔵の中に展示保管されており、ピアノの中には「我が友 熊谷への思い出に 1828年 シーボルト」と筆記体の美しい文字で手書きされていてました。
日本最古のピアノというのもさることながら、いらい200年近く熊谷家から持ち主が変わっていないということも驚きました。

東京芸大ではバイエルが話題に。
メーソンが来日した折、日本にこの教則本を持ち込んだのが始まりということですが、その後にウルバヒという教本も登場し、両書はその目的がまったく異なっていたとのこと。
バイエルが指使いの訓練を重視しているのにくらべて、ウルバヒは音楽の楽しさや美しく曲を弾くためのテクニックを学ぶ練習曲が多いようで、この場面で登場したピアニストの小倉貴久子さんが弾いたのはウルバヒの中にあるシューベルトのセレナーデで、マロニエ君だったら迷わずウルバヒで学びたいと思うものでした。
しかし、当時すでに先行したバイエルが定着しつつあり、多くの先生がそれをもとに指導を始めて体系化されつつあり、ウルバヒでは指導方法がわからなかったという事情もあって、すぐに消えてしまったようでした。もしこれが逆だったら、日本のピアノ教育もまた違ったものになっていたような気もしました。なんとなく残念。

大阪では堺市にある、クリストフォーリ堺を二人が訪ねます。
ここは世界的にも有名な、歴史的ピアノの修復をする山本宜夫氏のコレクション兼工房で、氏は「神の技をもつ」と賞賛されてウィーンなどからも修復の依頼があるのだとか。
建物の中には歴史ある貴重なピアノが所狭しと並び、工房ではチェコ製のピアノが響板割れの修復をしているところでした。響板はピアノの一番大事なところで人間の声帯にあたり、これが割れることは致命傷だと山本氏は言いつつ、割れた部分にナイフを入れてすき間を広げ、修復するピアノに使われている響板と同じ時代の同じ木材を細く切ってていねいに埋め木がされていきます。
それにより、修復後は割れる前よりもよく響くようになるとのこと。
「割れる前よりよく響く」とはどういうことかと思ったけれど、その理由についての説明はありませんでした。時間経過とともに枯れて張りを失った響板が埋め木をすることでテンションが増すなどして、より響きが豊かになるということだろうか…などと想像してみますが、よくわかりません。

熊本県山鹿市のさる呉服屋が、大正時代にスタインウェイを購入。
そこの娘が弾くピアノの音に、隣りに住む木工職人の兄弟が強い関心をもち、娘に弾いてくれとせがんではうっとりと聞き惚れています。
当時のピアノは家が何軒も建つほど高価だったため、一般庶民はもちろん、学校などでもピアノなどないのが普通の時代。このピアノの音を子どもたちにも聴かせたいという思いが募り、木でできているようだし、買えないならいっそ作ってみようと一念発起します。
木村末雄/正雄の兄弟は、呉服屋の迷惑も顧みず、毎日々々ピアノの構造を確認しながら、見よう見まねで製作に没頭、数年の歳月を経てとうとうピアノを完成させたというのですから驚きました。
木村ピアノは十数台が作られ、現存する1台が山鹿市立博物館に置かれています。
幅の狭い、見るからにかわいらしいアップライトで、内部の複雑なアクションまで見事に作り込まれており、楽器の知識もない木工職人が、呉服屋のピアノを参考にこれだけのものを作り上げたその技と熱意は途方もないものだと思いました。まさに日本人の職人魂を見る思いです。

これを有名な芝居小屋である八千代座に運んで、地元の子供達を招いて松永貴志氏が演奏を披露。
すると、子どもたちが返礼としてこのピアノを伴奏に美しい合唱を聴かせてくれました。
山鹿市にこんなピアノ誕生の物語があるとは、まったく知りませんでしたが、いろいろと勉強になる番組でした。
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感銘と疲れ

少し前にBSプレミアムシアターで放送された、グリゴーリ・ソコロフのリサイタルをやっと視聴しました。

2015年8月にフランスのプロヴァンス大劇場で行われたコンサートで、映像はブリュノ・モンサンジョンの監督。
この人はリヒテルのドキュメンタリーなども制作しているし、グールドを撮ったものもあるなど、音楽映像では名高い映像作家。

曲目はバッハのパルティータ第1番、ベートーヴェンのソナタ第7番、シューベルトのソナタD784と楽興の時全曲。
ステージマナーは相変わらずで、ムスッとした仏頂面で足早にピアノに向かい、最低限のお辞儀をしてすぐ椅子に座り、弾き終えたら面倒くさそうに一礼すると、顔を上げるついでに身体はもう袖に向かってさっさと歩き出すというもの。

笑顔など最後まで一瞬もない徹底ぶりで、そんなことはピアノを弾く/聴くために何の意味もないといわんばかり。
聴衆との触れ合いやサービス精神など持ち合わせていないお方かと思ったら、アンコールにはたっぷりと応えるところは意外でした。
結局ショパンのマズルカを4曲、前奏曲から「雨だれ」、ドビュッシーの前奏曲集第2巻より「カノープ」と実に6曲が弾かれ、まるで第3部のようで、これがソコロフ流の聴衆へのサービスなのかも。

全体の印象としては、ぶれることない終始一貫した濃厚濃密な演奏を繰り広げる人で、そんじょそこらの浅薄なピアニストとはまったく違う存在であるということはしっかりと伝わりました。
とくにタッチに関しては完全な脱力と、指先から肩までぐにゃぐにゃのやわらかさで、猫背の姿勢からは想像もつかないダイナミクスの幅広さが驚くべき印象として残ります。
さらに音に対する美意識の賜物か、その音色の美しさには眼を見張るものがあり、弱音域でのささやくような音でも極上の質感があるし、いっぽういかなるフォルテシモでも音が割れず、そこには一定のまろやかさが伴うのは驚異的。
しかもすべてが厳しくコントロールされているのに、奔放な要素も併せ持っているのは驚くべきこと。

また演奏にかける集中力は並大抵ではなく、とてもツアーであちこち飛び回って数をこなすといったことはできないだろうと思われます。

ただ、解釈に関しては本人にしてみれば一貫しているのかもしれないけれど、聴く側からすると、作品や作曲家によってばらつきが大きく、ソコロフの考えに相性の良いものとそうでないものの差が大きいように感じたことも事実。

個人的に最もよかったのはシューベルトで、ソナタD784は普通でいえば退屈な曲ですが、それをまったく感じさせない深遠な音楽として聞く者の耳に伝えてくれましたし、楽興の時も、多くの演奏家が多少の歌心を込めつつ軽やかに、どこか淡白に弾くことが多いけれど、ソコロフは6曲それぞれの性格を描き分けながらずっしりとした重量感をもってエネルギッシュに弾き切り、ソナタとともに作品が内包する新たな一面を見せてもらったようでした。

ベートーヴェンは賛否両論というべきか、この人なりのものだろうとまだ好意的に捉えることができるものの、ショパンになるとまったく共感も理解もできないもので、マズルカの中には聴いていてこちらが恥ずかしいような、どこかへ隠れたくなるような気分になるものさえありました。

この人は、一見オーソドックスでありのままの音楽を、その高潔な演奏で具現化している巨人といった印象もあるけれど、耳を凝らして聴いてみると、作品のほうを自分の世界にねじ込んでいるようにもマロニエ君は感じました。
そういう意味では作曲家の意志を忠実に伝える演奏家というより、ソコロフのこだわり抜いた極上の演奏芸術に触れることが、このピアニストを聴く最大の価値といえるのかもしれません。

まったく見事な、第一級の演奏であることは大いに認めるものの、全体としてあまりにも重く、遅く、長くかかる演奏で、30分ぐらい聴くぶんにはびっくりもするし感銘も受けますが、2時間以上聴いていると、これだけのピアニストを聴いたという喜びや充実感もあるけれど、なにより疲労のほうが先に立ってしまいます。

使われたピアノも素晴らしく、ソコロフの演奏に追うところも大きいとはいえ、濁りのない独特な美しさをもったスタインウェイだったと思います。とくに印象的だったのは音が異様なほど伸びることで、これは秀逸な調律によるものという感じも受けましたが、果たしてどうなんでしょう。
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アジアの覇者二人

ここ最近テレビで見た演奏から。

日曜のクラシック音楽館で、N響定期公演の残り時間に「コンサートプラス」というコーナーがあり、二週続けてハオチェン・チャンがスタジオ収録した演奏が放送されました。

ハオチェン・チャンは2009年のヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで、辻井伸行と同時優勝した中国出身のピアニストですが、この人の演奏を聴くのは実はこれが初めてでした。
一週目はリストの鬼火、ヤナーチェクのピアノ・ソナタ「1905年10月1日」、ヒナステラのピアノ・ソナタ第1番、二週目はシューマンの「子供の情景」。

長い美しい指が特徴的で、リストの鬼火をものすごいスピードで弾きはじめたのにはびっくりしつつ、あまりにスポーツライクで情感や温もりがなく、マロニエ君の好みではないことがいきなり判明。
ただし、全体に冷やりとすようなシャープさという点は、良くも悪くもこの人の特徴なのかも。

あまり馴染みのないヤナーチェクのソナタなどは、むしろ独特の臭みが消えてスタイリッシュに聴こえないこともなかったけれど、シューマンになると、やはり説得力のある音楽というより指先のクオリティで弾いていることが鮮明となり、ちょっとついていけない気分に陥りました。
もっとも気になるのは、作品が生きている感じがまったくしないこと…でしょうか。

最近のコンクール覇者の例にもれず、大変な技巧の持ち主ではあるようで、なんでも苦もなく弾けるだけの技術的余裕はあるようですが、こういう演奏に接すると、そもそもピアノの演奏というものをどんな風に捉えているのか、本人はもとより時代の価値観にも疑問に感じてしまいます。

ピアノの演奏が、いっそフィギュアスケートのように、多少の芸術性も要求されつつも根本はあくまで競技目的として成り立っているのなら、こういう人が金メダルとなるのは納得できますが、そこから発生する音は、音楽として多くの人々が喜びを感じたり心の慰めに値するものかというと、そういうものとは大きく距離をおいたものらしいと感じました。

余談ですが、ハオチェン・チャンはメガネをかけている写真(モテないガリ勉君みたい)しか知りませんでしたし、冒頭のインタビューではそのメガネ姿でしたが、演奏中はこれを外していて、それが結構イケメンだったのは意外でした。
今どきのことなので、その意外性も計算された「売り」なのかもしれませんが。

さらにその翌週の同番組では、サロネン指揮のフィルハーモニア管弦楽団の来日公演が放送されましたが、オールベートーヴェンプロで、二曲目のピアノ協奏曲第3番では、ソリストがショパンコンクール優勝のチョ・ソンジンでした。
韓国には芸術性に優れたピアニストが多くいますが、その中ではソンジンはむしろ学生風で、マロニエ君としてはなぜこの人が優勝したのかいまだにわからないし、やたら日本でよく演奏する人だなあと思っていたので、正直またかと思いました。

この人のベートーヴェンは初めて聴きますが、基本的な印象はなにも変わらずで、音楽的にあまり成熟感がなく、むしろ音楽的拙さを感じる演奏である点もショパンなどと同じです。
それでも、ハオチェン・チャンの体脂肪を極限まで落としたような演奏を聴いたあとでは、ソンジンがまだしもふくよかで、ところどころにハッとする美しさを感じる場面があったことも事実。

この人は繊細なところが得意のようで、ショパンのコンチェルトでも第2楽章が出色だった記憶がありますが、そんな彼がベートヴェンということだからかタッチにも一段と力がこもり、無理に大きな音を出そうとしているような感じがあって、だからどうしても音が刺々しくなるように感じました。
アンコールにモーツァルトのソナタの緩徐楽章、残り時間に別のコンサートからショパンの13番c-mollのノクターンがおまけで流れましたが、やはりどれも共通するのは練れていないというか、要は未熟な感じで、作品の核心へ到達しているようには思えませんでした。
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ヒューイット

クラシック倶楽部で、アンジェラ・ヒューイットの来日公演の様子が放送されました。
今年の5月に紀尾井ホールで行われたリサイタルから、バッハのインヴェンションとシンフォニア(全30曲)というもので、これらをまとめてステージの演奏として聴くのはなかなかないことなので、おもしろそうだと思いながらテレビの前に座りました。

実は、マロニエ君はアンジェラ・ヒューイットの演奏はCDで少し触れてはいた(ベートーヴェンのソナタやバッハのトッカータ集など)ものの、その限りでは深さを感じず一本調子で、あまり興味をそそられることはないまま、それ以上CDを買うこともありませんでした。

見た感じも、芸術家というよりカナダの平凡な主婦という感じで、写真はいつも同じ単調な笑顔だし、少なくとも鋭い感性の持ち主であるとか、デリケートな詩的世界の住人のようには思えませんでした。
手許にあるCDも、あまり深く考えずおおらかに弾いていくだけといった感じですが、これだけ評価が高いからにはおそらくこの人なりの値打ちがあるのでしょう。それがマロニエ君には今ひとつ伝わらず、ただ教科書的に正しく弾いているだけにしか聴こえません。

番組冒頭のナレーションでは「オルガニストの父が弾くバッハを聴いて育つ。1985年トロント国際バッハピアノコンクール優勝。バッハの演奏と解釈では世界的に高く評価され『当代一のバッハ弾き』と称されている。」と、バッハに関して最上級の言葉が出たのにはまずびっくりでした。

過去ではあるものの、同じカナダ人でバッハといえば空前絶後の存在であるグレン・グールドという神がかり的バッハ弾きもいたわけだし、当代のバッハ弾きというならアンドラーシュ・シフという最高級のスペシャリストがいるし、他にもバッハでかなりの演奏をするピアニストは何人もいるわけで、そんな言葉を聴いたこの段階で大いに首をひねりました。

さらに「2016年から4年かけてバッハの鍵盤作品全曲を演奏する『バッハ・オデッセイ』に取り組んでいる。」そうで、この日本での演奏会もその一環の由。

本人の発言としては、
「バッハが我々の心を打つのは喜びを踊りのリズムで表現しているから」
「バッハ自身の喜びと踊りが相乗して、我々を心地よくしてくれる」
「旋律や主題がどのように美しく流れるのかを聴くのも魅力のひとつ」
「現代のピアノの利点は2声3声のインベンションで顕著に現れる」
「音色の違いで複数の声部を聴き分け、さらに音楽の構造を理解できる」
などとおっしゃっていましたが、実際の演奏から、これらの発言の意味を音で確認することはマロニエ君にはできなかったと言わざるを得ませんでした。

音楽の場合、事前にどんな言葉を述べても、それを客観的に演奏から照合し保証する義務がないから、発言と演奏の食い違いはしばしば遭遇することで、今回もまたそれかと思いました。

思うに踊りのリズムというのは、ただノンレガートで拍を刻むだけではなく、各声部の絡みとかフレーズに込められた歌や息づかいが相まって、自然に心や身体が揺れてくるものだと思うのですが、ヒューイットのリズムには肝心の呼吸感が感じられず、踊りというよりむしろメトロノーム的に聴こえました。

声部の弾き分けもむろん聴き取りたいけれど、タッチもクリアさがないのか、むしろ埋没しがちで音符がはっきりせず、この点ひとつでも彼女はシフのバッハ──いくつもの花が咲き競うように各声部が歌い出す演奏──を聴いたことがあるのだろうか…と思いました。
とりわけインヴェンションともなると自分でも弾く曲なのでピアノ経験者はよく知っているはずですが、まるでよそ事みたいで、不思議なくらい曲が耳に入ってきません。

ご自分では現代のピアノの利点云々と言われるけれど、ヒューイットの平坦な弾き方は現代のピアノの機能を十全に使っているとは言いがたく、いつも乾いた音が空虚に鳴るだけ。
ましてや各声部が交わったり離れたり、右に行ったり左に寄ったり内声が分け入ったりする、バッハを聴くとき特有の集中とワクワク感がありません。

マロニエ君の耳には、教科書的で生命感のない昔の退屈なバッハを思い出させるばかりで、冒頭の「解釈も世界的に高く評価され」とはなんだろうという感じに聴こえてしまうのは非常に困りました。
もちろん聴くべき人がお聴きになったら、その高尚な価値をきちんとキャッチできるのかもしれませんが。

バッハはある程度弾ける人が弾いたら、作品の力でとりあえず形になる音楽だと思っていましたが、必ずしもそうでないことがよくわかりました。
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今どきはご用心!

最近はネットでモノを売買するにも、いわゆるヤフオク以外のいろんなサイトが増えてきていますね。

普段の足代わりにしている車を買い換えることになったのですが、なにぶん年式が古いために下取りと言ってもほとんど値段らしい値段はつきません。でも、乗ろうと思えばまだまだ数年間/数万キロは充分使える状態ではあるし、どうしたものかと思いました。

マロニエ君の場合、クルマ好きであることや性格的なこともあって、自分で言うのもなんですがとてもきれいで、機関的にも常に整備をしているので不具合は全くといっていいほど無いので、そこを理解して乗ってくださる方があれば嬉しいし、実際少しでも高く売却できればありがたいということもあり、はじめこの手のサイトに出品してみました。

はじめはヤフオクと似たようなもので、より地域色の強いものだろうぐらいに思っていました。
掲載してほどなくして、いくつかの反応があるにはありましたが、なんといったらいいか、お店で言うなら「客層」が違うような印象を持ちました。

くわしい商品説明とともに、価格を提示しているにもかかわらず、❍万円で売ってくださいとか、どうしても明日ほしいとか、からかっているのかと思うようなものがいくつか続いて、なんとなくあまり希望の持てるところじゃないような気がしてきました。
そんな中、とても興味があり直接話しがしたいからと、自分の携帯番号を知らせてきた人がありました。

とりあえず電話してみると、同県異市の方のようで「写真でも程度の良さがひしひしと伝わりました!」「ぜひ見せてほしい」とえらく前向きな感じで言われました。さらに明日は営業の仕事で福岡市内へ行くので、よかったらお昼にでも見せてもらえないかということで、マロニエ君もこういうことはタイミングだと思うので、できるだけ意に沿うよう努力して時間を作ることに。

家からは少し距離もある、大型電気店の駐車場で待ち合わせをしたところ、現われたのはスーツ姿の今どきの普通の男性で、さっそく車を見ながら「これはいい!」「すごいきれいですね〜」「こんなのお店じゃないですよね」などと褒めまくりで、かなり興奮気味な様子でした。
せっかくなので試乗もどうぞということになり、その人がハンドルを握りマロニエ君が助手席に乗りましたが、昼休みなのであまり時間がないといっていたわりにはずいぶん走り回って、はっきりは覚えていませんが30分近く走って、ようやくもとの駐車場に戻りました。

すると「ぜひ買いたいので、ネットの掲載を取り下げてもらうことはできますか?」といきなり言われました。
それほど気に入ってもらえたのは嬉しいけれども、いきなりそれはできません。
「少し手付け金をいただくなど、なんらかの約束を交わした上でないと、すぐに掲載を取り下げることは難しいですね」というと、「…ですよね」となり「じゃあ、日曜の受け渡しは可能ですか?」という提案をしてきました。

車の売買は、一般的には「車両本体+名義変更に必要な書類一式」と「車両代金」を交換すれば成立します。
このときが木曜で、日曜の受け渡しということは3日後です。
書類は印鑑証明さえ取ってくればすべて揃う状態だったので、「可能です」と言いましたが、ずいぶん急な話だなあとは思い、別れ際に念のためにもう一度「では、確認ですが、さっそく書類の準備をはじめていいということですか?」ときくと「はい、お願いします」「夜、詳しいことはまたお電話します!」ということでその場は終わりました。

帰宅後、すぐに区役所に行って印鑑証明を準備をしました。
ただ、自分でも迂闊だったのは、こちらの名刺は渡したけれど、向こうのはもらっておらず、携帯番号以外の連絡手段の交換ができていませんでした。これはまずいと思って、携帯のショートメールで、メールアドレスなどを教えてほしいと書きましたが、なぜかまったく反応はなく、それどころか夜の電話もついにかかってきませんでした。その間、何度かショートメールも送りましたが、一切返信はありません。

このあたりで不安は強い違和感へと変わり、「やられた」と思いました。
平日の昼間、無理して時間を作って車を見せに行き、さんざん乗りまわされ、日曜の受け渡しまで応諾させられ、急ぎ書類まで揃えたあげくのことですから、かなり不愉快でしたが、腹を立てても仕方がなく、別に車を取られたわけでもないので、もうこの人のことは忘れることにしました。

ところが翌日、夕食中に突然この人から電話があり、「昨日はすみません、家で揉め事がありまして、どうしてもご連絡できませんでした」「すぐにメールアドレスを携帯に送ります」ということですが、もうこのときは半信半疑でした。
だって、どんなに忙しくても、揉め事があっても、本当にその気ならメールの返信ひとつぐらい、その気があればできないはずがありません。

しばらくするとメールアドレスは知らせてきたので、そこに、受け渡しの場所と時間を決める必要があること、せめて互いのフルネーム、住所ぐらいは交換しましょうと、必要なことを書いて送りましたが、それに対する返事はまたありません。
さらに翌日の土曜、向こうからの着信履歴があったので何度かかけ直しましたが、決して出ることはなく、こういう人とこれ以上かかわるとろくなことはないと判断し、「今回のお取引はご遠慮させてください」とメールで伝えました。

結局、この人はいったい何がしたかったのかわかりませんが、ネット社会の不気味さを勉強させられる出来事でした。
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大雨特別警報

今夜、ついに雨が止みました。
一時的にしろ、それだけでも感激するほど降り続きました。

先週までは、梅雨だというのに妙に晴天続きで、うまくすればこのまま梅雨明けとなり、むしろ水不足のほうが心配かなぁ…などと思っていたら、とんでもない間違いで、北部九州には未曾有の大雨による甚大な被害がもたらされました。
ここ数日、テレビニュースからは「観測史上最高の…」というフレーズを何度聞いたかわかりません。

大雨特別警報という最高度の警報が発表され、「命を守る行動をとってください!」とものものしい言葉がテレビ画面に映し出され、アナウンサーも同じことを言いますが、それって何をしたらいいのか皆目見当がつかないものですね。

幸いマロニエ君の住む福岡市は、今回目立った直接的被害はないようでしたが、県内のあちこちの地域では、何人もの死者まで出るほどの深刻な結果となり、あらためて自然災害の恐ろしさ、どうしようもなさを痛感させられました。

通常、だれでも雨が降るのは嫌だけれど、少しのあいだ辛抱すればやがて終わるものという、生まれた時から身に付いた感覚をもっています。
ところが、今回の雨はものすごく密度の濃い雨で、うんざりするほどの長期間でした。
これほどの激しい大雨でありながら、時間が経てども経てどもまったく収束しないというのは、かつてあまり経験したことのないもので、じわじわと恐怖が忍び寄ってくるようでした。

夜から降りだした激しい雨が、真夜中になってもまったく衰えず、翌朝目がさめてもそのままで昼を迎え、午後になり、夕方になり、夜になり、真夜中になり、さらにまた翌日になっても一向に収まることがないというのは相当不気味なものです。

さらには、降り出して二日目だったか、夜半からは無数の雷がひっきりなしに鳴りっぱなしで、それが何時間も続くというのもはじめて経験するものでした。
とにかく何もかもが今回はケタ違いだったようです。

これじゃあ地盤もユルユルでしょうし、人間もしおれてカビが生えそうです。
むろんピアノの前の除湿機はフル稼働で、大きめのはずのタンクは半日で満杯になりました。
もう雨は当分御免被りたいものです。
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イタチ

こないだの日曜日、友人がやってきたときのこと。

何かお昼を作ろうと冷蔵庫をガサゴソやっていると、奥のほうから真空パックされた5本入りのソーセージが出てきました。
すっかりその存在を忘れていて、見れば賞味期限を4ヶ月!も過ぎており、真空パックの場合1~2週間ぐらいであれば期限切れでも平気で食べてしまうマロニエ君ですが、さすがに4ヶ月ではちょっと食べる勇気はありません。

ゴミ箱に放り込もうとすると、友人が庭に置いてみよう?と言い出します。
マロニエ君宅の付近はカラスが少なくなく、ゴミを出すにもその被害を想定していちいちネットを掛けたりするぐらいだから、そんなことしたらみすみすカラスにくれてやるようなものと言いましたが、友人は面白がってどうしても庭に置いてみようと、いい歳をして子供のようなことを言い出しました。

マロニエ君もどうせ捨てるのだからと好きにさせていたら、友人はパックをあけて5本のソーセージを庭の中央にばらまきました。

結局はあとで拾って始末しなくてはいけないだろうと思っていたところ、置いてから10分か15分ぐらい経った時でしょうか、友人の「あっ、見て見て!」という声で庭に目をやると、これまで見たこともない茶色の小動物がちょこちょことやってきて、ソーセージを口にくわえたかと思うと、あっという間に小走りにどこかに消えていきました。

マロニエ君宅の隣家は庭も広く、一部が藪のようになっているのでそのあたりに棲んでいるのか、あるいは隣家の屋根裏あたりが住処なのか、とにかくこれまで一度も見たことのない体調30cmほどのイタチ君のようでした。
友人も思いがけない珍客の到来に大満足の様子で大はしゃぎ。

それから数分後、「あ、また来たよ!」というので見ると、さっきと同じイタチが、細長い身体を波打つようにくねらせるようにしながらやってきて、また1本ソーセージをくわえて同じ方向に去って行きました。
思いがけないごちそうを発見して興奮しているのか、イタチ君はその後も数分間隔でやってきて、けっきょく5本全部のソーセージを持って行ってしまいました。

その後も、まだ何かないのかと思っているらしく、何度もやってきては、今度は庭の隅や塀の上なんかもぐるぐる走り回ってごちそうを探しまわっていました。
イタチなんてどんな動物かは知らないけれど、窓越しに見ているぶんにはちょっと可愛いくもありました。

帰る方角は決まってお隣の藪の方なので、きっと近くに住処があってそこには家族がいるのか、自分だけなのかはわかりませんが、面白いものを見ることができたという思いと、でも、あれを食べて大きくなってまたこっちに来るようなことになったら困るなあという気分でした。

不思議なのは、いつも悩みの種となっているカラスがまったく来なかったこと、さらには普段は一瞬もその姿を見せたことのなかったイタチ君が、最初にどうやって我家の庭にばらまかれたソーセージに、ああも短時間で気がついたのかということ。

まあ、順当に考えれば、相手は野生動物でもあるし、人間には想像もつかないような嗅覚でもあるのでしょう。
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ラフマニノフ

ラフマニノフは決して嫌いな作曲家ではないけれど、ピアノのソロの作品を続けて聴いているといつも同じ気分に包まれます。

先日もCD店に行った折、なつかしいルース・ラレードのラフマニノフの全集がボックスで出ていて、しかも今どきの例に漏れず非常に安く売られていたので購入しました。
LPの時代にこつこつ1枚ずつ買い集めたものが、今はこうして1/10ほどの値段で一気に苦労もせずにゲットできるのは、ありがたいようなつまらないような、ちょっと複雑な気分が交錯します。

CDでは5枚組みですが、記憶が正しければ、LPではもっと枚数があったと思ったけれど、内容が減らされた感じもなく、CD化にあたり1枚あたりの収録時間の関係で枚数が少なくできたのかもしれません。

ルース・ラレードはとくに好きというほどのピアニストではなかったけれど、当時はまだ一人のピアニストが一人の作曲家に集中的に取り組み、その作品を網羅的にレコーディングするということが非常に少なかったし、とりわけラフマニノフの多くの作品を音として聴くには彼女ぐらいしかなかったという事情もあったように記憶しています。

LPの時代からそれほど熱心に聴いていたわけではなかったけれど、いざ音を出してみると、ひと時代前の演奏、すなわちどんなテクニシャンであってもどこかに節度と柔らかさと演奏者の主観が前に出た演奏で、いまどきの過剰な照明を当てたような演奏とは違い、なにかほっとするものを感じました。

ただ、冒頭の話に戻ると、ラフマニノフのソロのピアノ作品だけを続けざまに聴いていると、良い表現ではないかもしれませんが「飽きて」くるのです。
例えば前奏曲なども、どれも中途半端に長いし、重いし、ひとつ終わったらまた次のそれが始まるといった感じで、音楽というよりはなにか建築家の作品を次々に見せられるようで、だんだん疲れてきます。

エチュードタブローなども同様で、最後まで一定の集中力を維持しながら聴くのがちょっと辛くなります。
ちょっと集中して聴く気になるのはソナタぐらいで、ソナタは有名な第2番はむろん素晴らしいし、普段ほとんど弾かれない第1番も面白いし、ショパンの主題による変奏曲などもすきな作品と感じます。

というわけでせっかく買ったルース・ラレードも、3枚聴いてまだ残り2枚は手付かずで聴いていません。

そこで、演奏者を変えたらどうだろうと思い、手短にあるもので探して、ルガンスキーの前奏曲集を聴いてみましたが、やはり結果は同じでなんか途中でどうでも良くなってくる。
とくにルガンスキーは曲を変な言い方ですが、くちゃっとまとめすぎて、ラフマニノフ特有の雄大さや余韻のようなものを残してくれない気がします。

そういえば以前NHKのスタジオだったか、ジルベルシュタインがやはりラフマニノフだけを弾いたことがありましたが、この時も一曲終わって次が始まるたびに、なんだか疲れが出てしまうようで、とうとう最後まで見きれずに終わったこともありました。

でも繰り返しますが、ラフマニノフが嫌いなわけではないのです。
これはなんなのかと思います。
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