「価格相談」

もっぱらネット上でのことが多いように思うけれど、一部のピアノ店の価格表示に意味不明なものがあり、その真意がどうにも解せません。
いっそ価格は一切書かず、知りたい人はコンタクトを取って問い合わせるというスタイルに徹するのであれば、それはそれでひとつの潔さかもしれませんが、マロニエ君がどうしても釈然としないものに「価格相談」あるいは「価格応談」という言葉が使われること。

これはどういう意味なのか、ずいぶん前から疑問をもっていますが、いまだに確たる意味はつかめません。
とくにスタインウェイやベーゼンドルファーなど、高級ピアノの中古品にそれが多く、しかも同じ店が日本製ピアノも売っていたりすると、それらには中古品でも一台一台価格が明記されているのに、輸入物になるとなぜか上記のような謎の表示になって、一切具体的な価格を示さない店をときどき目にします。

価格を書かないというのも場合によりけりで、たとえば歴史的な価値のあるものでなかなか値段のつけにくいものとか、本来は非売品扱いだけれども、ぜひにと懇望されれば絶対売らないでもないというような特殊なケースは場合によってはあるだろうとは思います。

しかし、輸入品で高額というだけで、いわば普通の中古の輸入ピアノに対して一切価格を明かさず、しかし商品としてはしっかり掲載して販売をアピールするというのは、どうにも腑に落ちないわけです。

物を売ろうというのに、価格を表示せず「価格相談」とするのは、悪い解釈をすれば相手を見て決めるということでしょうか。
相談ってどういう相談をするのかもわからないし、相手しだい交渉しだいで高くも安くもなるのか?という不安も覚え、そういう店はなんだか信頼できない気がして、あまりいい感じがありません。
悪い言葉でいうなら、店側からこちらがチェックされて、カモだと見定められればふっかけられそうな気もしなくもありません。

また相談というからには、じゃあ相談すれば安くなるのかとも思いますが、やはり現実的にはそういうものでもないでしょうし、おそらくは相場より高いのだろう…という気がします。

考えれば考えるほど「価格相談」というのは店側の都合ばかりを優先したやり方のように思われるし、悪くすれば、その店と関わりを持ったが最後、説明攻勢をかけられて、話はお店主導でもっていかれるのではないかと思ってしまいます。
平均的な相場より高額であることを、他店の批判を交えながら客の不安を煽りつつ、だから当店のピアノは内容に対して妥当(もしくは割安)なものですよ!と説き伏せて、あとからトラブって苦労するより、結局は少しぐらい高くてもちゃんとしたものを我が社で買われるほうが賢い選択であるというような理屈ではないかとも思います。

また、うちは価格では勝負はしていません、輸入ピアノといっても程度や状態は千差万別で、あくまでも最高の品質と技術をお客様に提供することがポリシーで、価格もそれに見合ったものですというような理屈立ということも考えられます。
でも、最高の品質と技術をお客に提供することと価格を表示することがどうして両立しないのか、やはりマロニエ君にはきれいに納得することはできませんし、だったら価格を表示した上で、自社の信念をしっかり訴えればいいだろうと思います。

また、それだったら国産ピアノを含めてすべて「価格相談」すればいいものを、そうしないのも理屈が通らない。
どうしても考えてしまうのは、やはり利幅の大きい高額商品であるから、それを買おうとするリッチな人を相手に、できるだけ高く販売したいという狙いのように思えてなりません。

というか、それ以外に、わざわざこの言葉を使う意味がマロニエ君にはどうしても見当たらないのです。

たしかに輸入ピアノの販売には、でたらめな業者がいることも耳にしますし、実際そうなんだろうとも思います。
でも、この「価格相談」という文字を見ると、小池さんじゃないけれど情報公開されないブラックボックス的精神を見るような気がしてしまうのです。
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中国の才能

最近、YouTubeでたまたま知ることとなったピアニストにジョージ・リーという若者がいます。

1995年生まれということですから、現在でも21~22才という若さです。
ボストン生まれのようですが、その名前や容姿からもわかるように明らかに中国系のピアニスト。

YouTubeで見たいくつかの演奏は、まだほんの子供のときのものでしたが、おかっぱ頭にメガネを掛けて、全身をうねらすように曲の波に乗っていて一心不乱に演奏している姿が印象的でしたし、演奏そのものも抑揚や流れがあって好印象でした。
さらに成長して思春期ぐらいになった映像では、その演奏はより精度が増しており、これはもう疑いなく天才のひとりだということがわかりました。
呆れるばかりに指が回って、どんな難所でもらくらくと技巧が乗り越えていくテクニックにも目を丸くしました。

きっとこれから名だたるコンクールなどに出場して、上位入賞を果たすのだろうと思っていたら、すでに2015年のチャイコフスキーコンクールに出場し、まるで格闘家のようなゲニューシャスと2位を分かち合っていることを知り、それはそれは…と納得。

少なくともラン・ランなどより音楽は柔軟で密度があり、音にも一定の重みがあるけれど、今のピアニストに求められるものは音楽性や解釈だけでなく、
チケットの売れるタレント性みたいなものが重要視されるようなので、その点を含めると彼がどのへんまで行くのかわかりませんが、とにかく中国人もしくは中国系のピアニストの「大躍進」は目を見張るものがあります。

で、CDをまとめ買いする際に──ずいぶん迷ったあげく──このジョージ・リーのアルバムを1枚加えてしまいました。

昨年ロシアのサンクトペテルブルクでライブ録音されたもので、ハイドンのソナタロ短調、ショパンのソナタNo.2、ラフマニノフのコレルリ変奏曲、リストのコンソレーションとハンガリー狂詩曲No.2といういかにも系のプログラム。

個人的には冒頭のハイドンが好ましく思えたものの、全体としては印象に残るほどの個性はなく、どれもが平均して真っ当に準備され、クセもキズもない中であざやかに弾き通された演奏という感じでした。
並外れた才能とテクニックがあって、一流の指導者から高度な教育を受け続けることを怠っていなければ、きっとこんなふうになるだろうという想像の枠内に収まった演奏で、彼の音楽的天分というか個性という点に関して言うなら、それは超弩級のものではなく、あくまでも「並」だというのがマロニエ君から見ての正直なところ。
それでも天才であることに間違いはないのですが。

ショパンでは本来求められるセンスというよりはコンクール向きだし、リストのハンガリー狂詩曲No.2などは、ちょっとやり過ぎな感じ。

中国系ピアニスト全般に共通して感じるのは、音楽に憂いや内面の複雑なものが湧き上がってくるところがなく、表現がどうしても表層的で奥行きがないことでしょうか。
何を弾かせてもあっけらかんとしていて、どうしてもテクニック主導になっているし、途中までせっかくいい感じで進んできたものが、例えばスタッカートに差し掛かると、いきなりトランポリンみたいなスタッカートになって曲調が崩れたりするのが、聴いていて非常に残念な気がします。
表現も陰翳に満ちたルバートなどとは違って、歌謡的なフレーズの緩急のみで処理されてしまう。

もうひとつ特徴的なのが彼らの「間」の取り方。
超絶技巧の難しいパッセージなどでは問題ないけれど、この「間」が前後を隔てたり対照をなしたり橋渡しをしたり、さまざまな意味を成すところになると、多くが大仰な京劇のようになり、芝居がかった感じになってしまうことが耳につきます。
しかも、我々に比べてもその民族性の違いは甚だ大きく、大胆なまでに中華風になってしまうのがいつもながらのパターンで、これを感じると一気に興味を失ってしまいます。

これをあまり感じず、いい意味での中国風でないピアニストとしてある種の洗練を感じていたのは、唯一ニュウニュウでしたが、このところめっきり彼の動静を聞かなくなりました。
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思いつくまま

身も心もイヤ~なカビが生えてきそうな、陰気な雨模様がずーっと続いてて終わりませんね。
報道によると、どうやらほぼ全国的なもののようで、こればかりは打つ手がありません。

福岡の場合で言うと、土曜から降り始めた雨は日曜にはさらに深刻なものとなり、朝から晩までしたたかに降り続きました。
月曜もほぼ同様の状態がつづき、火曜の夜にほんの少しだけ止みましたが、その後はまたしても降ったり止んだりの繰り返しで、ここまでくると青い空も忘れかけた気分です。

週間予報を見ていると、晴れマークはひとつもなく、来週以降も連続して黒っぽい雲か傘のマークばかり並んでいて、まるで黒いパールのネックレスのように連なっています。さらに追い打ちをかけるように、今年はもう終わったものだと思い込んでいた台風までやってくるようで、選挙の日曜には沖縄に達し、翌日から日本列島に向かって北上してくるというのですから、秋らしい、澄んだ空気を思いっきり満喫するのも当分は諦めなくてはならないようです。

だいたいお天気のことを書くときはネタがないときなんですが、よく思い返してみると、先週は横浜のピアノ屋さんが福岡への納品ついでに我が家にも立ち寄ってくださり、楽しいひと時を過ごすことができました。

この方はピアノはもちろん、ときには車までヨーローッパから輸入されているらしく、お店のキャラクターにもなっている1963年のオースチンA35バンが先ごろカー・マガジン誌から取材を受けたとのことで、マロニエ君がピアノと同様、車も好きだということをどなたからか聞かれたらしく、その本をおみやげに持ってきてくださいました。

そのオースチンA35バンの記事は巻頭のカラー4ページにもわたる堂々たるもので、見開き2ページにわたりピアノ店の店頭で車のハッチが開き、そこへご主人がベヒシュタインの鍵盤蓋を抱え、今まさに積み込もうとするショットで、いきなりのけ反りました。
オースチンA35バンは、バンという名の通り商用車ですが、その造形は優雅な曲線に包まれたなんともかわいらしい車です。
フロントシートのすぐ後ろは荷室になっていますが、そこにはグランドピアノのアクション/鍵盤一式がきれいに収まっている写真が1ページまるごと掲載されているし、さらには店内のピアノやお仕事の様子などまでも紹介されていて、ピアノの本か車の雑誌かわからなくなるようで、大いに驚かされました。

こういうものを見せられると、かなり個人的かつこじつけのようではありますが、ピアノと車は精神的にどこか切っても切れないなにかがあるように思えてなりませんでした。

車の話が出たついでに少し書きますと、マロニエ君は普段の足にVWゴルフ7の1.2コンフォートラインというのに乗っています。
よく出来た現代の車の例に漏れず、ほとんど故障らしきものはないのですが、ちょっとしたフィールの問題で現在ディーラーに入院中で、その間の代車として同じくゴルフ7のワゴンの1.4ハイラインというのを貸してくれました。
ワゴンボディなので、通常のモデルより全長が少し長くて、そのぶん荷室は広く、エンジンはひとまわりパワーがあり、内装やシートの素材なども少しずつ高級な仕様になっていますが、走りだしたとたん、自分の車との本質的な違いにおおいに戸惑いました。

タイヤはより幅広でスポーティなサイズになるし、車重は140kgも重く、リアのサスペンションはワゴンということを考慮されて、かなり硬いセッティングになっています。前を向いて走ってもワゴンの荷室がうしろからついてまわるため、いつもカラのリュックを背負って動いているみたいで、なんとなく重心も高いしバランスも違ったものになっています。
これはこれでとても良くできた車であるし、ワゴンを本当に必要とする向きには良い1台とは思うけれど、個人的には圧倒的に自分の車のほうが軽快かつしなやかで好ましく、しかも価格が55万円も高いことを考えると、マロニエ君にはまったく無用のプラスアルファということを痛感しました。
今どきの流行りだからといってカッコだけでワゴンを選ぶと、とくに車の走りにこだわる人には予想外のこともあるだろうと思いつつ、自分の車の退院をひたすら待っているところ。

…雑誌の話からつい車のほうに行きましたが、ピアノへ話を戻すと、その日はせっかく遊びで立ち寄っていただいたにもかかわらず、話の流れでシュベスターの調律をやっていただくことになりました。
新旧内外ありとあらゆるピアノの修理をやられている方の目に、ヤフオクからクリックひとつで買ったシュベスターがどう評価されるか興味津々でした。どんなことを言われても傷つきませんから率直になんでも言ってください!と頼みましたが、果たしてとても状態が良いとのお褒めをいただくことになり、もちろん嬉しいけれどいささか拍子抜けしてしまいました。

外観がかなり荒れたピアノだったものの、内部の写真はそれほど悪くないように見えたことが今回はたまたま間違いではなかったようで、とてもきれいでほとんどやることがないというようなことまで言っていただき、そこには社交辞令が多分に盛り込まれているとは思いますが、それを割り引いたとしても、あんなめちゃくちゃな買い方のわりには、まあ結果は良かったほうか…と胸をなでおろすことができました。
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マックス・レーガー

19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍したドイツの作曲家、マックス・レーガーのピアノ作品全集という珍しいものがあることを知り、さっそくCDを購入してみました。

マロニエ君はレーガーの作品といえば、バッハの主題による変奏曲とフーガop.81と、ブランデンブルク協奏曲全曲のピアノ連弾への編曲しか知らず、op.81はなかなか聴き応えのある大曲であることから、他にどんな作品を残したのかという興味がありました。
ウィキペディアによれば、徴兵され従軍、除隊したのが1898年で20世紀幕開けの直前だったようですが、1916年に43歳の若さで世を去るため、彼の音楽活動は20年にも満たない短いものだったようです。

詳しい理由はわからないけれど、オペラと交響曲はいっさい手がけず、主な作品は室内楽や器楽曲、管弦楽曲や声楽曲などで、とくに目を引くのは変奏曲やフーガの作品が多いこと。

CDは12枚組からなるピアノソロ作品のボックスセットですが、そこにはソナタなどは見当たらず、まとまった数の小品群からなる作品集が多いことが目を引くし、あとは前奏曲とフーガのたぐい、さらには変奏曲などが目につきます。
ヴァイオリンソナタ9曲、チェロソナタでさえ4曲も書いているのに、ピアニストでもあったレーガーにピアノソナタがないのは謎です。
1枚を数回ずつ12枚を聴き通すのに数日を要しましたが、まあなんとなく全体像は自分なり掴めた気がします。

レーガー自身も自分をドイツ三大Bの正当な後継者として位置づけることが好きだったようで、さらにはリストやワーグナーの影響、ブルックナー、グリーグ、R.シュトラウスへの傾斜もあることを認めていたようで、それらが概ね納得できる音楽でした。
作品集が多いのはブラームスやシューマンのようでもあるし、変奏曲はベートヴェン、フーガはバッハを想起させますが、それだけドイツ音楽の先達に対するリスペクトはかなり強い作曲家だったようです。

どれも特に耳に心地よいわけでもなければ、難解で放り出したくなるようなものでもなく、そのちょうど中間という感じですが、この時代の特徴とでもいうべきか…作品は全体に暗く重く、耳あたりの良い軽妙な叙情性といったような要素などは見当たりません。
ウィキペディアによれば「晦渋な作風という意味で共通点のあるブゾーニとは、互いに親しい間柄であった。」とあって、まさになるほど!と納得させられる印象でした。ただし、個人的にはブゾーニの作品のほうがはるかに異端的でグロテスクでもあるとは思いますが。

12枚のCDの最後に当たるVol.12に「バッハの主題による変奏曲とフーガop.81」があり、さすがにここに到達した時は耳にある程度馴染んでいるぶんホッともしたし、やはりよくできた作品で、後世に残るに値するだなあという実感がありました。

他の作品の中にも、なんともいえず心に染みこんでくるような部分とか、はっとする瞬間などは随所に散見され、並の作曲家でないことはよくわかりましたが、全体としてレーガーの作風はこうだという明快な個性のようなものには立ち至っていないような気がしたのも事実です。

これだけのものを生み出すことのできる並外れた才能があっても、その大半は後世まで演奏され続けることなく、ほとんどが埋もれた状態になるのが現実であり、それを思うと、単純に演奏される頻度が高い作品=傑作というわけではないけれども、それでも我々の耳に名曲として残っている作品(あるいは作曲家)はいかに選りすぐりのものであるかという厳しい現実を思わないではいられません。

余談ながら、この12枚からなる全集、演奏はドイツ出身のピアニスト、マルクス・ベッカーで、1995-2000年にかけて録音されているようでした。
どういうピアニストかは事前には知らない人だったけれど、まったく安定した危なげのない技巧と、説明文の中にも「演奏難易度の非常に高い作品の数々を終始完成度の高い演奏…」とあるのはマロニエ君も同感で、高い信頼感をもって聴き進めることができました。
これが格落ちのピアニストであれば、印象もずいぶん違うものになったことだろうと思います。

ちなみにボックスの表記を見て戸惑ったのは、作曲家がマックス・レーガー(Max Reger)にあるのに対して、ピアニストはマルクス・ベッカー(Markus Becker)と、響きも字面も酷似しており、はじめどっちがどうなのか、あれっあれっと戸惑ってしまいました。

マルクス・ベッカー氏もまさか名前が似ているからマックス・レーガーの全集を作り上げたわけではないと思いますが、奇妙な符合です。
あるいはドイツ人の発音では全然そんなことはないのだろうか…。

いずれにしろ、作曲家であれピアニストであれ、音楽におけるドイツの厚みというものをまざまざと見せつけられたようでした。
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理解不能

今どきの人の行動を見ていると、やたら悪意に解釈する気はないけれども、ときどきその心中を図りかねることがあります。

例えば、満車の駐車場などで出る車を待っていると、人が戻ってきて車に乗り込んでも、ここからが不自然に長い時間を要します。
昔なら待っている車があることがわかれば少しでも急いで出るなどして、スペースを譲ったりしたものですが、最近ではそんな状況だと、逆にわざとじゃないかと思うほどゆっくり荷物を積んだり、何かゴソゴソと車内の整理のようなことが始まったり、エンジンが掛かってヘッドライトまで点灯しても、それからが異様に長くかかったりします。
こちらも少し近くに寄ってハザードを点滅させていたりするので、待っている人がいるということは十分わかっているのに、とにかく時間をかけるだけかけたあげく、いくらなんでももう動くだろうと思っていると、今度はスマホをいじり始めたりで、こんなパターンはもはや珍しくないほど蔓延しています。

そんなことをしているうちに、別の場所が空いたりすれば、こちらもすかさず空いたほうへ入れるのはいうまでもありませんが、すると故意か偶然か、はじめに待っていたほうの車もスルスルと動き始めたりして、呆れることがあります。

他車も待っているようだから、できるだけ早く譲ってあげようの逆で、待たれているからあえて動きたくない、駐車スペースを明け渡したくないというささやかなイジメの心理のあることが伝わってくるもので、こういうこともストレス社会だなぁと思うしだい。
せっかく自分が止めている場所を他人が欲しがっているということは、それを確保している今の自分はそのぶんの既得権を有する立場で、出るタイミングはあくまでも自由なのだから、その自由枠を最大限行使して合法的な嫌がらせをすることで、いっときの快を得ているのか。

また、こんなことも。
ある日の夜、ミスタードーナツにドーナツを買いに行った時のこと。
マロニエ君が店のドアに近づこうとすると、タッチの差でアラフォーぐらいのおしゃれな女性がツーンとした感じで先に店内に入りましたが、これが運の尽きでした。
時間的なこともあってか、売り場には店員さんがひとりだけで、この女性もマロニエ君も「持ち帰り」だったのですが、そのドーナツ選びにかける時間の長さときたら、そりゃあ尋常なものじゃありませんでした。

店員さんも、持ち帰りと聞いて白いトレーとトングを左右の手に持って構えているのですが、ゆーっくりと全体を見回し、少し腰を折った格好で視線を右から左へ、今度は左から右へ、上から下へ、かとおもうと斜めに視線は移ろい、その熱心な様子は芸術鑑賞じゃあるまいし、なかなか一つ目さえ決まりません。
これはどうなるのかと思っていたころ、ボソッとつぶやくような声でなにか言うと、店員さんもすかさずそれをトレーに載せますが、あくまで1個だけで、その次がまた決まりません。
こんな調子では先が思いやられて、マロニエ君はその女性の横から、何にしようかと見たり覗いたりしてみますが、それでもこの異常なペースはまったくびくともせず、正直マロニエ君もイライラしてきたし、店員さんもきっとそうだろうと思っていると、やはりそうだったのか…二度ほど目が合いました。

いつ果てるともないこの状況で10分ぐらい経過した頃でしょうか、さすがに店員さんもずっと棒立ちになっているこちらのことを気の毒に思ったらしく、飲食スペースでコーヒーのおかわりを注いで回っている男性が戻ってきたチャンスを捕まえて、小声で私の方を接客するように促してくれました。
別に時間を計ったわけではないけれど、この女性客はひとつ選ぶのに平均2分ぐらいはかかる感じで、しかも一種類につきあくまで一個で、最終的にわかったところでは7個買っていたようでした。単純計算でも14分ですが、たしかにそれぐらいかかった気がします。

たかが(本当にたかが!)ドーナツを買うのに、何でそこまでできるのか、そもそもドーナツなんてそこまでして厳選吟味するようなものじゃなくて、もっと気軽に楽しむおやつで、マロニエ君には到底理解できません。
譲り合う気持ちの欠落やうしろに人が待っていることがまったく気にならないのか、あるいは駐車場と同じく、人が待っているからなおさらゆっくりするのか、お客として当然の権利だと思っているのか、あるいは何も意識できないほどドーナツ選びに全神経が集中しているのか。

マロニエ君はとなりのレジが開いたことで、ありすぎる時間ですっかり決めていた3種☓2=6個をつげるとそれらは手早く箱詰めされましたが、いかんせん遅すぎたようで、お釣りを待っているタイミングで、なんと、またして一歩先に隣の女性が先に店を出て行きました。クー!
しかも駐車場では、隣の車の運転席にその女性が乗っていてまたびっくり。
ここでもすぐに車を出そうとはせずに、今度はスマホを頬に当て、悠然とどなたかと会話のご様子でした。
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『そして父になる』

ひょんなことから、普段あまり見ないような映画を見ました。
福山雅治主演の『そして父になる』が、たまたまテレビ放映されたので、どんなものだろうと思って録画していたもの。

出産した病院の看護師によって、同じ日に生まれた子供が故意に取り替えられたことから起こる悲劇と、それを取り巻く人間模様を描いた映画。

病院からの通告よってその事を知らされる衝撃、そこからはじまる親子の愛と悲しみ、突きつけられた過酷な現実が切々と綴られます。
6歳という、年齢的にもかわいい盛りの時期で、自意識や人格ができあがり、さまざまなことが認識できてくる年齢であるだけ、よけいに痛々しさも増すようでした。
マロニエ君は映画のことはよくわからないので、ただ面白いか、楽しいか、心地良いか、味わいがあるか、美しいか等で評価してしまいます。

ところが、この映画はそのどれにも当てはまらないもので、全編に陰鬱な悲しみが漂い、「いい映画を見た!」というのとはまたちょっと違った後味の残る作品だったように思いました。

福山雅治演じる父親は、何事によらず勝つことに価値を見出すエリート建築家で、高級マンションに暮らし、大きな仕事を手がけ、車はレクサス。いっぽうは街の小さな電気店で、なにごとも本音でわいわい楽しく生きるという庶民的な家庭で、いかにも対象的な価値観がコントラストになっています。

そんなふたつの家族同士が交流を重ねながら、やがて血の繋がった両親のもとにそれぞれ引き取られる二人の子供がなんとも悲しげでした。

つくづく思ったのは、福山さんは名にし負うイケメンのミュージシャン/俳優ですが、この役は見ていて最後まで違和感が拭えず、決して彼の本領ではなかっただろうという印象を持ちました。
一流企業のエリートで、高給取りで、子供にも他者よりも抜きん出ることを常に期待しているようなギラギラした野心的な男のイメージがどうにもそぐわないのです。

マロニエ君のイメージでは、福山さんもっと夢見がちで、仕事臭のしないしなやかな男性のかっこよさだろうと感じるだけに、この役に適した俳優はいくらでもいたはずとも思うけれど、福山さんありきで作られた映画なんだったらやむを得ないのかも。
そのあたりの芸能事情にはさっぱり疎いので、もうこれぐらいにしておきます。

意外だったのは、使われた音楽にピアノが多かったことで、冒頭はブルグミュラーの25の練習曲の『素直な心』からはじまり、その後はバッハのゴルトベルク変奏曲のアリアが折りに触れて挿入されました。
それに、記憶に間違いがなければパルティータ第2番の一節もあったような…。

ゴルトベルク変奏曲のアリアは、そのゆったりしたテンポ、特徴的な装飾音が、えらくまたグールド風だなあと耳にするなり思ったのですが、最後のクレジットがでるところでは、なんとグールドのあの唸り声まで入っており、ああもうこれは間違いないと思いました。

はじめのうちグールドだと確信が持てなかったのは、音がずいぶん違う気がして、まるで電子ピアノのように聞こえたからでした。
たまたまなのか、あるいは訳あってそういう処理がかけられているのか、この映画を見るような世代には電子ピアノ風の音が馴染みがいいのか、あるいは映画の中で子供がピアノの練習を電子ピアノでやっているところから、そういう音でいまどきの雰囲気を出そうとしたのか…。

グールドのゴルトベルク変奏曲といえば、猟奇的な映画で話題になった『羊たちの沈黙』でも、レクター博士が差し入れとして要求するのがそのカセットテープでしたが、これほど対極的な映画にもかかわらず同じ音楽が使えるというところにも、バッハの音楽の底知れない深さを感じないではいられませんでした。
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天才現る!

最近見たテレビの音楽番組の録画から。

BS朝日の『はじめてのクラシック』で、わずか13歳の奥井紫麻(Okui Shio)さんのピアノで、グリーグのピアノ協奏曲が放送されました。
共演は小林研一郎指揮の新日本フィル。

現在モスクワ音楽院に在籍中で、ヨーロッパのオーケストラとはたびたび共演しているようですが、日本のオケとは初めてとのこと。
音楽の世界での「天才」の二文字は、実は珍しくもなんともないもので、特にソリストの場合は天才だらけと言っても過言ではないために、その演奏を聴いてみるまではマロニエ君は何ひとつ信じないようになっています。
天才といっても、天才度の番付はいろいろあるわけで、我々が求めているのはその十両クラスの天才ではなく、いってみれば何年にひとり出るかどうかの天才なんです。
そして、この奥井紫麻さんは、横綱級かどうかはともかく、かなりの上位に入る天才だと思いました。

リハーサルの様子も少し放送されましたが、これは本物と思わせるだけのオーラと、しっかりと筋の通ったぶれない音楽がそこに立ち上がっているのを忽ち感じました。
案内役の三枝氏が「ピアノを習い始めてわずか6年ほどでこれだけ弾けるんですから、嫌んなっちゃいますね」というようなコメントを述べましたが、たしかにその通りであるし、逆にいうとそれぐらいでないと真のソリストとしてはやっていけないほど強烈に狭き門であるのが演奏家の世界だろうとも思います。

身体も指も、まだ細くて華奢な子供であるし、ピアノの音も充分に出てはいないけれど、彼女の演奏に宿る集中力と、切々とこちらに訴えてくる音楽には、常人ではあり得ない表現と落ち着きがありました。特別変わったことをしているわけではないのに、心へ直に訴えくてくるものがあるのは、それが本物である故でしょう。
ただ指が正確によく回って、書かれた音符をただ追っているのではなく、音楽の意味するものがすべてこの少女の全身を通過し、その感性で翻訳されたものが我々の耳に届いてくるのですから、これは凄いと思いました。

リハーサルの様子からインタビューまで整えられていざ迎えた本番だったのに、なんたることか、いよいよ放送されたのは第1楽章のみで、それはないだろう!と心底がっかりしました。
これだけ大々的に紹介しておきながら、一曲全部も通すことなく終わり、あとはオケが展覧会の絵かなにかやっていましたが、憤慨しまくってそれ以降はまったく見る気になれませんでした。

これまでにも、天才だなんだと言われた日本人ピアニストは何人もいますが、その演奏はスカスカだったり、ピアノと格闘しているようだったり、聴いてみるなり興味を失うような人が大半です。
奥井さんは、それらとは明らかに違ったところで呼吸しているようで、落ち着きや、演奏から伝わる真実性、品位、老成など、わずか13歳にして、もっと聴いてみたいと思う存在でした。

もうひとつは、おなじみEテレの『クラシック音楽館』で、デトロイト交響楽団の演奏会がありました。
アメリカ音楽によるプログラムで、指揮はレナード・スラットキン。
この中にガーシュウィンのラプソディ・イン・ブルーがあり、ピアノはまたしても小曽根真氏。

やはりこの人の演奏のキレの悪さはかなり目立っていて、本来コンサートの中頃に登場する協奏曲では、アメリカ作品、ジャズピアニスト、おまけに超有名曲という要素があれば、プログラムとしてもまさに佳境に差し掛かるところではありますが、小曽根氏は笑顔は印象的だけれど、そのピアノには独特の鈍さと暗さがあり、聴けば聴くほどテンションが落ちてくるのがどうにもなりません。

とくにこの人が随所で差し込む即興は、その前後の脈絡もなければ才気も感じられないもので、いつも時間が止まったように浮いてしまっているし、ジャズの人とは思えぬほどリズム感があいまいで、妙な必死さばかりが伝わります。あちこちでテンポや強弱がコロコロ変わるのも意味不明で、オーケストラもかなり皆さんシラケた表情が多く、こういうときは外国人のほうがストレートに顔に出るんだなあと思います。

演奏前にスラットキンと小曽根氏の対談がありましたが、スラットキンは小曽根氏持ち上げるばかりだし、小曽根氏も相手がマエストロというより音楽仲間といったスタンスでしゃべっていました。
驚いたのは小曽根氏が「ラプソディ・イン・ブルーでの僕の最大のチャレンジはカデンツァ(即興のソロ)を面白くするためにいかに自分を鼓舞するか。それも無理しているように聞こえたらダメで…」というと、すかさずスラットキンが「自然でなければならない」と言葉をつなぐと「そう!」と小曽根氏。
トドメは「(自然なものでなければ)作品からかけ離れてしまうし、聴衆やバンドをほったらかしにしてしまう」とまでコメント。

これって、「すべてが逆」に聴こえてしまったマロニエ君には、自分のやっていることは「面白くて」「無理してなくて」「自然で」「作品から離れず」「聴衆やオケをほったらかしにしない」し、そのあたりはよく心得ていて、その上での演奏なんですよというのを、演奏前にしっかり言い訳していたように思えました。
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