釈然とせぬまま

早いもので、今年も残すところ2日となりました。

来年はどんな年になるのか、正直を言うと近年あまり明るい希望を感じなくなりました。
むしろ不安要因のほうを多く感じるのは、現実にそういう世の中になってしまっているのか、あるいはマロニエ君のものの見方・感じ方がマイナス思考になっているのか、そのあたりは自分でも正しいところはわかりません。

国際情勢もそのひとつで、某国のミサイル開発が進んでより深刻さを増すとの話もあり、わけても周辺国にも火の粉が及ぶのは御免被りたいもの。
とくに日本は地政学的にもあまりに近い距離にあるし、なにか起こったとなれば、その距離からいってもまったくの無傷というわけにはいかないだろうと考えると、やはり不安は募ります。

どうもここ最近の世の中というのは、あらゆることに安定感というものを欠いている気がしますし、そんな時代に生きている私達も、それを常に感じているためか昔のように無邪気ではいられなくなりました。


最後の最後まですっきりしなかったのは、鳥取巡業中に起きた日馬富士の暴行事件に端を発する、貴乃花と相撲協会との対立問題でした。
これは当初の予想を遥かに超えて、非常に根の深い問題が底流にあるようで、とても簡単には決着しない様相ですね。
28日に行われた臨時理事会では「降格」という結論に達し、年明け4日には評議会にかけられて処分が決定するというもので、一般人の感覚ではまるで釈然としません。

貴乃花が降格だというのなら、事件の現場にいて暴行を止めず、日頃からルール違反ばかりやらかす白鵬にも、あるいはそもそも暴行事件を起こした横綱をそもそも選出した横審も、さらには最高責任者である協会理事長も、各々重い責任が問われてしかるべきでは?

マロニエ君の個人的な印象でいうと、貴乃花はおよそ現代人の感覚からはかけ離れた、いわば江戸時代のストイックな武士が突如として現代に隔世遺伝してきたような人だということ。
とりわけ相撲に関しては徹底した信念のもと、崇高で精神的なものを尊び、そのためには不利な戦いをも辞さない。
損得では決して動かず、世俗的な慣れ合いや堕落を徹底して嫌悪し、それらを容赦なく糾弾するタイプ。

こうと決めたら微動だにしない信念を貫き、孤独に徹し、黙して語らぬその姿はまるで山本周五郎の作中人物でも見ているようです。

いっぽうで、協会は金権力と特権と慣れ合いにどっぷり浸かった肥満組織で、貴乃花の存在は煙たくて、鬱陶しくて、苦々しくて、今流に言うなら超ウザイ存在なのだと思います。
彼には、世間一般でよくある融通とか貸し借りの感覚などもまるで通じず、組織からすればこんなジャマ者はないわけで、ましてやその人物が現役時代の取り口さながらに自分たちめがけてガチンコで挑みかかってくるのだからたまったものではなく、小池さんではないけれど、組織としてはなんとしても「排除」したいのでしょう。

解釈はいろいろかもしれませんが、警察に被害届を提出しながら協会に報告しなかった、協会の事情聴取に対して協力的ではなかったという、このヤミ多き事件全体から見ればほんの一部分をもって処罰の根拠にするあたりは、マロニエ君の目には、都合の悪い反乱分子がほんの微罪でひっくくられてしまうような陰惨な印象が拭えません。

白鵬には遠慮してなんら実効性のある処罰を言い渡すことのできない弱腰の協会が、目障りな貴乃花に対しては、被害者側の親方であるにもかかわらず、断固として処罰対象にされ、今回の事件関係者の中で最も重いとされる処分を与えるというのは到底納得の行かないことでした。

はてさて決着はいつになることやら、テレビでは「もうこの話題はウンザリ!」などという人もいるけれど、マロニエ君には久々に目の離せぬ真剣勝負を見せてもらっている気分で、集団イジメでしかないお偉いさん達のほうがよほどウンザリです。
なんだか以前も似たような組織があったと思ったら、ああそうか…かつてのドン率いる東京都議会でした。


最後にピアノの話題でいうと、ちょっと奇異に感じたのは、12月の中旬からクリスマスぐらいのわずか10日ほどの間に、民放BSで1回2時間におよぶ辻井伸行のドキュメントがゴールデンタイムに実に3回も!(内容は異なる)放送されたこと。
彼が天才であることは間違いないし、クラシックのピアニストを主役とするドキュメンタリーが作られることはピアノファンとしては嬉しいことではあるけれど、辻井さんばかりがこれほど別格的に取り上げられるのは、いささか過剰なのでは?
なんだかとっても不思議でした。

明日は大晦日。
良いお年をお迎えください。
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感性の一致

先週のことでしたが、我が家のメインピアノの調律を終えました。

現在、お出でいただいている調律師さんはマロニエ君がそのお仕事に惚れ込んでお願いすることになった遠方の方で、せっかくなので他のお宅にも回っていただけるようスケジュールを組まれて、泊まりがけで来ていただいています。
約一年ほど前から保守点検メニューを実施していただくなど、この方のおかげでそれまでより一気に健康的にもなり、回を重ねるごとに自分好みのピアノになってきことを実感しています。

この調律師さんにお仕事をしていただくのは今回で3回目ですが、その音はいよいよ輝きを増し、長年の課題であったタッチの重さなどの弾きにくさもすっかり消え去り、節度ある軽快なタッチとともに美しい音を奏でてくれるようになりました。

この方を遠方からわざわざご足労願っている最大の理由は何か。
もちろん素晴らしい技術をお持ちということはあらためていうまでもないことですし、技術というだけならこれまでにも幾多の技術者の方々も皆さん素晴らしい技術をお持ちで、その点では俊英揃いだったことは確かです。

では現在の方が、マロニエ君にとってなにが特別素晴らしいのかというと、ちょっと変な言い方かもしれませんが、ピアノに対する美意識というと少し大げさかもしれませんが、要はピアノに対するセンスがいいということ。

おそらく、マロニエ君がこうあって欲しいという自分のピアノに対するイメージと、その方が持っておられるイメージが、大筋のところで一致しているのだと思われます。
これまで他の方には、作業開始前にもあれこれと自分の希望とか、日頃の不満点などを伝えて、途中途中で確認しながらの作業だったりで、音色のことや、タッチのことなど、こちらの思いが技術者さんにうまく伝わるかということからして課題でした。

よく言われることですが、音やタッチの好みというのは大抵微妙な部分の問題で、その微妙なところを技術者に伝えるのはピアニストでさえ簡単ではないし、逆に技術者の方からすれば弾き手の表現はたいてい抽象的で、その意を正確に汲みとって技術として具体化することは非常に難しいといわれます。
たとえば「明るい音」と言っても、その明るさにはいろいろな解釈や種類があり、むろん電子ピアノのような単純な音でもなく、マロニエ君は深味と気品を失わず、甘さの中にどこか憂いを併せ持ったようなものが欲しかったりします。

また、表情があって、あまり技術が前に出るようなものも好みじゃない。
とにかく、いろいろなものが融合してひとつの結果をなすためには、感性が違うと、いちおうはそれらしくはなってもどこか違ったものになることは珍しくありませんし、それはタッチについても同様です。

息を殺すような作業がほとんど半日にも及び、やっと調律と整音の段階を迎え、ようやく「弾いてみてください」となって弾いてみると、本音はしっくりこないこともありますが、なにしろこっちはピアニストでも何様でもなく、長時間に及ぶ大変な作業の様子を見ていたら、その頑張りに対してもダメ出しなんてできません。
それはそれで良くなっていることも事実ではあるし、だいたいこれで終了となるのがこれまでのパターンでした。

ところが現在の技術者さんとは、そういう事前のやりとりもほんの僅かで、専ら自分のペースでサラッと仕事にかかられます。
タッチでも同様で、「もう少し軽くなれば…」「はい見てみます」という程度。

細かい要望などを質問されることも少なく、こちらとしてはあまり自分の希望は伝えてないなぁという少し心配な状況の中で作業は開始され、途中で「こんな感じでどうでしょうか?」とか「このオクターブだけ今変えてみました」などと、それで良ければこのまま作業を進めますという感じで確認をとられることさえ殆どありません。

作業開始から時計の長針が何回まわったか、外はすっかり暗くなったころ、「ちょっと弾いてみてください」といわれておずおずと弾いてみると、これがもうアッ!と思うほど良くなっている。

音色の感じも、微妙なところがすべてツボにはまって完成されているし、タッチも明らかに軽くなっている。
凛としていてどこか馴れ馴れしいような…マロニエ君にとっては理想的な状態になっているのです。

しかも前述のようにとくにくだくだしい希望要望を出すでもなく、結果はいつもこちらのイメージにピシっとピントが合っているのはかなりの感動です。

これは、この技術者さんがマロニエ君の好みの察しが飛び抜けていいというより、その方のいいと思うものとマロニエ君の好みや感性がたまたま一致しているとしか考えようがないのですが、それは楽でもあるし安心感があるし、なにより結果が毎回安定していてとっても嬉しいわけです。

繰り返しますが、高い技術をお持ちの方はたくさんおられても、その高い技術をピアノのためにどう使って、どういうピアノに仕上げるか。ここにピアノに対する感性が大きく関わっているらしく、趣味が合わなければどんなに高等技術を駆使した高度な仕事でも、それが自分にとって至福のピアノになるかどうかは別の問題となるのです。

そういう意味で、自分と趣味の合う技術者の方と巡り会うことが一番大切なことのように思えるこの頃ですが、これは探してすぐに見つかるものでもないし、偶然を待つ以外にないような話で、ピアノ選びよりも難しいことかもしれません。
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パソコンは怖い

まったく理由のわからないまま、メールソフトが不調となり、あれこれと格闘している合間に、多くの大事なデータが、一瞬のうちにごっそり消えてなくなりました。
こういうとき、パソコンというものが、なんという冷血漢だろうかと思い知らされます。

なぜそうなったのかもわからないし、マロニエ君にはきっとこの先もわからないでしょう。
過去にも何度かパソコンの怖さを経験していたにも関わらず、バックアップをきちんと取っていなかったために回復は望めそうにもない気配が濃厚で、目の前が真っ暗になるほど落ち込んでしまいました。

この手のパソコンの事故やトラブルは、いわば机の引き出しや本棚がとつぜん魔法のようにパッと消えて無くなるようなもので、心底イヤなものです。

記録に関する大事なものが前触れもなく消えてなくなるというのは、精神的にもかなりのストレスで、例えは悪いかもしれませんが、まるで自分の身体か脳の一部が失われるような、取り返しのつかない消失感を味わわなくてはなりません。
まさに残酷物語。

バックアップにはいろいろな方法があるらしいですが、なにしろその手のことがからきしダメなために、つい安全対策が後手に回ってしまったわけで、この手のことに詳しい方からみれば自業自得ということになるのでしょうが、出るのはため息ばかり。

そのメールソフトも完全回復には至らず、受信のみ回復したものの、送信はいまだできず別の方法でなんとかこの苦境を切り抜けているところですし、そもそもなぜそうなったのかさえわからないところが更に救われません。

これだけネットやなにかが発達し、今やそれを前提とした世の中になっているのに、メールの設定などはもう少し単純簡潔にはいかないものかと思います。
さらに勝手なことを言わせてもらうなら、これほど急速に高度な技術が進んでいるのであれば、自動的にバックアップもしてくれるような技術もそろそろ開発され、端末に搭載されてしかるべきではと、怒りと落胆のあまり勝手なことを考えてしまいます。
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炊飯器

数年ぶりに炊飯器を買い換えました。

これまで使っていたものは、ごく基本的な機能をもつだけのタイプでしたが、何年か使っているうちにだんだんご飯がボサボサした感じになり、あまり美味しくなくなってきたため、そろそろ買い替え時かなあと感じはじめていたところでした。

電気製品なのに、だんだん美味しさが落ちてくるというのは、その前の炊飯器も同様だったので、長く使っていると炊きあがりの変化に関わる何らかの劣化がおこってくるのかと思いますが、ただ電気でお米を炊くだけの機能に、なにが作用してそうなるのかまったくわかりません。
電気の抵抗などが増えて、火力が落ちてくるのか…なんだろう。

もとより修理するようなものでもないから、こうなると必然的に買い替えということになります。

というわけで電気店の炊飯器の売り場に行ってみると、これがもうピンキリの世界でわけがわかりません。
どのメーカーを選ぶべきか、どの価格帯にすべきか、そもそも1万円と5万円以上の機種では何が違うのか。

いちおう価格帯として最低ランクを買う気もないし、かといって最高ランクを買う気はさらにありませんでしたから、なんとか中間地帯でコストパフォーマンスの高そうなモデルを選びたい。
まさにこういうのって、日本人的中庸を欲する感性だなぁと我ながら思いました。

メーカーもタイガー、パナソニック、象印、東芝などの他、昔はなかったアイリスオーヤマなどがあり、どれがどうなのかまったくわからないし、何の違いで価格が違うのかも謎。
そうこうするうちに、迷って困惑しているマロニエ君の姿を観察していたのか、絶妙のタイミングで店員さんが近づくなり「炊飯器をお探しですか?」と話しかけられました。

普通なら店員さんが寄ってくるのはうるさいと感じるのに、このときばかりは折よく質問相手が現れたという感じで、さっそくオススメのメーカーなどをきいてみると、人気があるのは△❍△あたりですかねぇ…という感じでしかなく、やはり聞き慣れたメーカーが定評があるらしいということがわかりました。
とはいっても、今どきの製品なので、メーカーによる差というのはそれほどないような口ぶりでした。
では、価格帯の差は何なのか。

それは主に内釜の構造や使われる素材、あとは火力や多様な制御によるものという感じで、たしかに説明だけ聞いていると高いほうが美味しく炊けるらしいということはわかったけれど、それが実際にどれほどの差になるのかはわかりません。

で、その場ではとてもではないけれど判断できないことを悟り、すぐ購入することはせずにカタログをもらって一旦帰宅、ネットの評価などを数日かけて調べました。
それによると、高価な機種がいちおう高い評価を得てはいるものの、中には1万円台の機種でも高評価のものがあったりして、絶対評価なのか、あくまで価格を分母に置いた評価であるのかはよくわからない。
実際に店頭でモデルごとに炊いたご飯を試食した人などの意見では、「ほとんどその差がわからなかった」というものがいくつかあり、機能はともかく、数万円の差が必ずしも美味しさという結果に正比例するわけでもないらしいことがわかりました。

その結果、ずいぶん悩んで象印の圧力IH炊飯ジャー「極め炊き」という、3万円台の機種に決定しました。

以前の炊飯器に比べると、ずいぶん立派で重く、サイズも大きめで色はブラウン調で堂々としていますが、はたして炊きあがりはどうかというと、美味しくないことはないけれど、宣伝文句ほどのものとも思えなかったというのが正直なところでした。
炊き方も、やたら種類があり(49種!?)どれを選んでいいのかわからないほどあり、使いこなすことは簡単ではないように感じます。

前のくたびれた炊飯器と比べたら美味しいのは確かだけれど、販売員の説明やカタログにこれでもかと踊る説明ほど美味しいかというと、それほどのものでもない印象。
もしかしたら、自分にとっての最適な炊き方をまだ探しきれていないのかもしれませんが…。
むろん後悔はしていないけれど、あまりに謳い文句が華やかでそのぶん期待大だったから、少しがっかりだった面があることも事実でしたが、冷静に考えればこれで十分です。
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忘れていたCD

4年ぐらい前だったか、ユリアンナ・アヴデーエワが福岡でリサイタルをおこなったとき、一度は聴いておくべき人だと思って会場へ足を運んだけれど、その時はまるで遊びのない、カチカチのつまらない演奏という印象しか得られませんでした。

これは、今にして思えば、もちろん彼女の演奏そのものの要素は大きいものの、急に決まった演奏会だったらしく通常のホール(これも決して良い音響ではない)がどこもふさがっていて、福岡国際会議場のメインホールという、要は一番大きな学会などに使われる会場でおこなわれたもので、音響はまったく広がりがなく音楽的ではないし、ピアノはいちおうこの会議場が持っている新しいスタインウェイDではあるけれど、ふだん誰からも弾かれずに年中眠っているようなピアノなので、急にステージに引っ張りだされても本領が発揮できなかったこともあるのか、そういうことも重なって感銘には結びつかないものになってしまったのだと思います。

このとき、ロビーではCDが売られていて、終演後にサインをしてくれるというので、ミーハー心から一枚買い求めて列に並び、アヴデーエワさんからサインをしていただきました。
演奏終了直後ということもあり、お顔はいささか上気した感じが残りつつ、演奏中はアップにしていた髪を解いて垂らし、澄んだとてもきれいな目をされていたのが印象的でした。

購入したのは、アヴデーエワが2010年12月、すなわち彼女がショパンコンクールに優勝した直後の来日公演からのライブCD。
これは通常の彼女のCDとは違い、東日本復興支援チャリティCDとして招聘元の梶本音楽事務所がらみで発売されたもので、曲目はオールショパン、幻想ポロネーズ、ソナタ第2番、スケルツォ第4番、英雄ポロネーズというもの。

アヴデーエワは今どきにしては珍しく器の大きい人だという印象はあるものの、映像で見てもそれほど自分好みのピアニストではなかったし、とくに福岡で聴いたリサイタルでの印象が決定的となって、このCDはそのままCDラックに放り込まれ、それっきりになってしまいました。

つい最近、べつのCDを探すべく懐中電灯で照らしながら棚を探していると、ふとこのCDが目に止まりました。
そのときは、購入した経緯さえすっかり忘れていて、ケースはセロファンの袋に入ったままで、中を開けるとディスクに直筆のサインがあることで、「ん?」と思い、ようやくご当人からサインしていただいたことが記憶に蘇りました。
これほど、きれいさっぱり忘れてしまっている自分にも呆れましたが。

で、初めて聴いてみたそのCDですが、なかなかに立派な演奏で、個人的な評価がかなり挽回しました。
およそ女性ピアニスト風な演奏とは言いがたいもので、すみずみまで徹底的に考えぬかれた知的な演奏で、どういう演奏をするかというプランと土台がしっかりあり、それに沿って着実に実際の演奏として音に結実させることのできる、大きな能力を持った方だということがわかりました。
テクニックも一切破綻がなく、とてつもないものが備わっているけれど、それを誇示するようなところはいささかもなく、あくまでも音楽表現の手段としての技巧であるという姿勢も徹底しています。

解釈も表現も真っ当すぎるほど真っ当ですが、あまりに設計図通りに進められる建築のようで、聴きようによっては面白味のない優等生的な演奏に聞こえてしまうきらいもありますが、CDとして音だけに集中して聴いてみると、ただお堅いばかりの演奏でもないことが次第にわかってきました。
なによりも感心させられるのは、その驚くべき演奏クオリティの高さと、作品をありのまま音にするための謙虚な解釈でしょうか。

どれもが迷いなく構成された第一級品と呼ぶにふさわしい、それは見事な演奏でした。

このCDに収められた演奏会では、どのような順番で演奏されたか、あるいは他にどんな曲があったのかは知る由もありませんが、最後の英雄ポロネーズだけは他の3曲とはわずかに異なっており、おそらくアンコールではないかと思います。

なぜなら、この曲だけ明らかに、彼女の厳しいコントロールの軛がほんの少し緩んで、生身の人間の息づかいにあふれた熱い演奏だったからです。
自由と熱気と勢いがあって、他では聴いたことがないようなフレーズやアーティキュレーションの伸び縮み、あるいは次へのたたみかけるようなつなぎが随所にあって、しかも本体はガッチリしたスタイルであるのに、ときおり勢いが先行してほんのわずかに歪んだり撓んだりする様はゾクゾクするようで、これには思わず聴き惚れてしまいました。

英雄ポロネーズは名演の多い曲だと思うけれど、アヴデーエワのこのときの演奏はマロニエ君にとって、まさに最上のひとつであることは間違いありません。
この一曲だけでもこのCDを買った価値があり、数年の時を経て、思いがけない嬉しさですでに何回も繰り返し聴いており、しばらくこの興奮から逃れられそうにありません。
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なぜだろう?

調律料金に関することで、以前から疑問に思っていたこと。
それは、なぜアップライトとグランドでは料金が異なり、さらにはグランドでもサイズによって料金が異なるのだろうということ。

マロニエ君はむろん調律師ではないから、アップライトとグランドでは、一口に調律といってもどれだけ仕事量が違うのかはわからないけれど、例えばアップライトで12000円なら、グランドは15000円というように、多くの場合その料金には差があるのが一般的です。

この場合の3000円は何が違うのか、乱暴にいうと似たような作業をタテでやるかヨコでやるかの違いのようにも見えないこともないわけです。
そこは調律師さんに聞いてみればわかるのかもしれないけれど、まだ聞いていないので、現時点では疑問は疑問のまま放置されているわけです。
逆にいうと、アップライトの調律ってグランドに比べたら2割がた楽なの?とも思ってしまったり。

というわけで、アップライトとグランドでは構造も違うので置いておくとして、グランドの調律に限っていうと、サイズによって調律料金が違うというのはまったくもって納得のいかない部分なわけです。
奥行き2メートルを境にしている場合もあれば、コンサートピアノは別料金となっているのを見かけたりしますが、そもそもその区分の基準ラインも結構バラバラです。
しかも、コンサートの調律ではなく、調律するピアノがコンサートグランド(もしくはそれに準ずる)の大型になると、料金もそのぶん高く設定されているというもので、その根拠はなんだろうと思ってしまうのです。

普通サイズのグランドでも、コンサートグランドでも(アップライトでも)、キーは一般的には88鍵であることにかわりはないし、弦の数だってほとんど違いなんてありません。
コンサートピアノだからといって、まさかチューニングピンを回すのに倍も力が要るわけでもないでしょう。
強いて言うなら、鍵盤からアクション一式の奥行きが小型グランドと大型グランドでは少し違うぐらいですが、そんなの技術者にすればものの数ではないはずですし、少なくとも請求金額に反映させるほどの違いとは思えません。

じゃあ、小型グランドよりも、大型になるほどより丁寧な仕事をするのか。
そんなことがあればそれ自体が問題でしょうし、まさか純然たる技術料をピアノのボディサイズで決めているとしたら、まるで病院に行って身長150cmの人より180cmの人のほうが医療費が高くなるようなもので、そんなこと通用する話ではありません。
あるいは大きなピアノは、サイズが大きいのだから調律料金も大きくなるということなのでしょうか。

実はこの点を、何人かの調律師に質問したことがあるのですが、「やることは同じです。」という答えだったので、本当は料金にサイズ別の区分を設けている人にこそ聞いてみるべきで、まだそれは果たせてはいません。

すんなり理解できるのは、定期調律に対して、何年も放置されたピアノを託された場合、内部がどんなことになっているかわからず、すべての面で定期調律より多大な労力を要する仕事になる場合があるので、これは料金が違ってくるのは当然だと思います。

もうひとつ不思議なのは調律の「出張料金」というもの。
もちろん、お気に入りの調律師さんが地元の方でない場合などは、遠路はるばる来ていただくのだから、そのための交通費等が生じるのは当然ですが、マロニエ君がいいたいのは通常の場合で、ごく近い距離であっても調律料金に出張料を一律上乗せする場合があることです。
とくに驚くのはメーカーから直接出向いてくる調律師さんにそれが多いということで、これは大いに疑問を感じるところです。
(マロニエ君の経験では出張料金を請求されない方のほうが多いですが。)

というのは、管弦楽器のように持ち運びができる楽器なら、自らメンテに持ち込むことが可能ですが、ピアノはそもそもオーナーがどうあがいても持ち運びどころか動かすことさえできない特殊な楽器なので、ピアノ調律という仕事=技術者は移動するというのが大前提であるはずです。
つまり技術者が移動しないことには仕事自体が成立しないわけで、そんな職種であるにもかかわらず、いちいち出張料金を請求するというのは社会通念としていかがなものかと思うわけです。

それをいうなら、こちらから動くわけには行かない仕事、例えば水道や電気の工事であるとか、植木の剪定など、これらの人達が出張料金などを請求することはまずないし、少なくともマロニエ君はされた記憶はありません。
とくにメーカー系あるいは正規代理店などが定めた料金体系に、この出張料がしばしば含まれることは甚だ説得力を欠いており、こういうこともユーザーがだんだん調律をしなくなる遠因になっているのではないかと思います。

かたやフリーの調律師さんの中には、ご自身が定めたエリア内で仕事を引き受けた以上、当日の調律時はもちろん、後日発生した微調整などなんらかのやり直しなども含むすべての再訪にも決して出張料金をとらないという、毅然としたスタンスを貫く方もおられることも声を大にして言っておきたいところで、メーカー系列の料金体系のほうがよほど努力不足でもあるし説得力のない請求をしていると感じます。
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袋だけブランド

以前から不思議で、そこにいささかの違和感を感じることがあるので、思い切って書いてみることに。

人様からのいただきものに対してどうこう云うことは、厳に慎むべきことことだと重々心得てはいるけれど、今回はその中身ではなくそれを入れてぶらさげる小袋のお話。
一部の女性方に共通した特徴として、なにかを頂きものをするとき、小型でつるつるした紙の、いかにもの高級ブランド名などが記された紙袋へわざわざ入れて渡されることがあります。

むろんその中身と袋は縁もゆかりもないもので、派手なブランド名ばかりが却って悲壮的に目立ち、たんなる袋とはおよそ言い難い強い主張をしているように感じられることがあります。
さりげなく(とも思えないけれど)そういう高級ブランドの袋を「実用」として使うことに、なんらかの意味が込められているのか。
入れる袋がなんであれ、そもそも何かを頂戴すること自体がありがたいという原則は決して忘れてはいないつもりだけれども、敢えてマロニエ君の感性からしてみれば、やはり自ずと中身とかけ離れない範囲の入れ物というのはあるはずで、そういうところにも送り手の価値観やセンス、もっと厳しくいうなら教養が出るものだと思ってしまうのです。

あくまで一般論としてですが、内容に対して過度に高級ブランドのような容れ物の組み合わせというのは、いくら「ただの容れ物、ただの袋」という前提だとしても、もらう側の心の中の違和感まで消すことはできないし、そもそもセンスよろしきこととは思えぬものがあるのです。

もはや死語かも知れませんが、日本には謙譲の美徳という精神文化があり、自分のことや人様に差し上げるものは、ちょっとへりくだるとか引き下がった表現をしながら、慎ましく差し出すという美意識があったように思います。

ところで、その誰でも知っている高級ブランドの袋の中はというと、たいていごく普通のなんということもないものであったり、箱入りみやげからさらに小分けしたお菓子類の詰め合わせであったりして、旅行に行って「これ、少しですけどおみやげです!」なんぞと言われると、そういう袋であることが逆に目につき、ついつい変な感じがしてしまいます。
むろん、表向きは丁重にお礼を言ってありがたく頂戴はしますが…。

これを、本当にただの袋として純粋に利用しているだけというのであれば、逆にスーパーのレジ袋でもいいわけですが、この手の人達は決してそういうものはお使いにならないし、果たして単なるおみやげなのか、そのついでにやりたくなる自己主張でもあるのか、どっちが主役なんだかよくわからない気分になります。

マロニエ君なら、むしろ質素な袋などに、実はちょっとイイものを入れて差し上げるほうがよほど粋ってものだし、そのささやかな意外性をつくところで相手の感謝も深いものになると思うんですけどね。

べつに空港で売られているおみやげ品の箱から小分けされたパンダのチョコであれ、パイナップル饅頭であれ、ごく少量のハーブのティーバッグであれ、ご厚意そのものは素直にありがたく思いますが、それをわざわざバカラだティファニーだというような派手な紙袋に入れて相手に差し出すという感覚は、自分だったら絶対にしないというか、意識的に慎むと思うわけです。
だって、そういうことが一番貧乏くさいし、中身も実際以上にショボい印象になりますからね。

実際この手の袋をお使いになる方に限って、中身はむしろ厳しくセーヴされた痕跡が見受けられたりするもので、その甚だしいギャップに苦笑が漏れることもすくなくありません。

ご当人としては、自分は日頃からそういう一流ブランドをよく利用するから、適当な袋となるとついこうなっちゃうだけ…というさりげなさのつもりなのかもしれませんが、そこにむしろ計算された自己顕示がにじみ出ています。
マロニエ君はこの手のブランド小袋でいただくと、自分で使うことは絶対に無いので、申し訳ないけれど即ゴミ箱行きです。
そんな即ゴミ箱行きの人に使うのではいかにももったいなから、別の人に使ってくださればいいようなものですが、まさかそれを言うわけにもいきませんからね。

ちなみに、マロニエ君の知るかぎりでは男性でこれをする人はただのひとりもいません。
べつに男性がそういう細かい気が回らないなどとは思わないし、細やかさでいうなら女性のはるか上を行く男性を何人も知っていますが、なぜかこのパターンだけは女性だけの特徴のように思います。

こういう袋をわざわざ取っておいて、いざというときの小道具として使うというのも、考えてみれば手間ひまかかる自己演出だろうとお察しします。
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