個性は普通さ

Eテレの録画から、今年3月サントリーホールでおこなわれたオーケストラアンサンブル金沢の演奏会を視聴しました。

冒頭にプーランクのオーバードがあって、そのあとは3曲のハイドンのシンフォニーという珍しいプログラム。
オーバード(朝の歌)は舞踏協奏曲という、バレエ音楽と言っていいのかどうかしらないけれど、ピアノと小規模オーケストラとの協奏曲のようになっているちょっと風変わりな曲です。

指揮は井上道義、ピアノ独奏は反田恭平。

プーランクといえば多くのピアノ作品がある他、オーケストラ付きではピアノ協奏曲や2台のピアノのための協奏曲は有名で、昔からこのあたりのディスクを買い集めると、大抵このオーバードも含まれており、積極的に聴いたことはないものの、他を聴くと流れで耳にしていたことは何度もありました。

大半がフランス人ピアニストの演奏で、中にはグールドの映像というような珍しいものもあるにはあるけれど、いずれにしろ普段ほとんど演奏される機会はあまりない作品で、マロニエ君もこの曲を現代の演奏(の映像)としてまじまじと視聴したのは初めてだった気がします。

全体的な印象としては、とりあえずきちんと演奏されたというだけでニュアンスに乏しく、正直ちょっと退屈してしまいました。
とくにこの曲の雰囲気とか、書かれた時代背景や大戦前のフランスの匂いのようなものを感じさせるところがなく、クラシックの膨大なレパートリーの中の珍しい一曲をもってきましたというだけの距離感でとどまっているようでした。
それと、これはやはり踊りがあったほうが生きてくる音楽なのかもしれません。

反田さんはいつもながら、きれいな姿勢で、大きな手で、無理なく指や腕を使いながらシャキッとしたピアノを弾かれます。
けれども、その先にあるべき音楽表現の何かを感じるには至らないのが(アンコールのシューマン=リストの「献呈」を含めて)いつももの足りない気分にさせられるのも事実。
この方は、髪を後ろで縛って、黒縁の眼鏡をかけて、一見それが個性的であるかのようでもありますが、実はマロニエ君は逆の見方をしています。
彼のそのようなビジュアルはじめ、ちょっとした彼のしぐさとか印象などにも表れているのは、音楽の世界の外にならいくらでもいそうな、いかにも「今どきの普通の青年」というところがウケているのではないかということ。

幼少期からずっと楽器の修行に明け暮れてきた人には、たいてい独特の雰囲気があって、純粋培養というか、よく言えば繊細、ありていにいえば特殊な人達という感じが漂うのが普通ですが、反田さんにはいい意味でそれがなく、普通にどこでバイトをしても、コンビニにいても、街角でギター片手に歌っていても、すんなりサマになりそうな今どきの若者の感じがあって、そんな人がピアノを弾くときに醸し出すどこかロックな感覚がある。
もちろん、抜群にピアノが上手いことは言うまでもないけれど、ただ抜群にうまいというだけではない…とマロニエ君は思うわけです。

演奏にもその普通さが良い面に働き、かび臭い不健康なところがなく、スケボーのお兄さんがあっと驚くような高難度の技に挑んでは見事成功させるようなおどろきと爽快さが反田さんにはありますね。
変な言い方かもしれないけれど、健康な若者の新陳代謝みたいなものが曲の組み立てにも息づいていて、それが萌える新緑のような若々しさにつながっている感じ。

ただ、ピアニストとしてそれで充分なのかというと、個人的には不満もあるわけで、彼の演奏には聴く人の心にふっと染みこんでくるような語りとか滋味といったものが不足しているのは聴くたびに感じるところ。

それと、物怖じしない健康男子のイメージとは裏腹に、演奏そのものはどちらかというと冒険を排した安全運転で、ときどきメリハリあるだろ?みたいな瞬間はあるけれども、全体としては個性のない優等生といったタイプ。

演奏を技術行為としてではなく、その先のある芸術表現を聴く人に向けて提示し投げかけてみること、ここにご本人がより強い興味を持ってくれたら、この人は器は小さくなさそうだからかなりいい線いくんじゃないかと思います。
そういう意味では、彼はまだまだ技術の人という場所にいると思いますが、まだ若いし、今後の深まりを期待したいところです。
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グランフィール

ピアノがお好きな知人の方から思いがけない情報をいただきました。
福岡の某ショッピングモールに買い物に行かれたところ、イベント会場で近隣の楽器店によるピアノの展示販売会が行われており、その中にヤマハの中古アップライトにグランフィールを装着したものがあった由。
曰く、タッチはピアニッシモが出しやすかったとのこと。

グランフィールは鹿児島県の薩摩川内市にある藤井ピアノサービスのご主人が考案され、特許も取得されたものらしく、アップライトピアノの構造上やむを得ず制約を受けるタッチを、グランドピアノ並みに改善するための発明…といえばいいのでしょうか。
すでに全国のピアノ店の多くがその取り扱い(正確には取り付け)をしているあたり、どんなものか興味津々でした。

実をいうと、何年も前に藤井ピアノサービスを訪れた際、このグランフィール付きのアップライトに触れたことはあったものの、この時はこの店が保有する珍しいピアノのほうに気持ちが向いていて、アップライトのタッチにあまり熱心ではありませんでした。

しかしここ最近は自室でシュベスターのアップライトを弾くようになり、たしかにアップライトのタッチ感は良いとは言えないけれど、アップライトはこういうものだからと諦めてしまえば、それはそれで馴れていたというのが正直なところ。

そこに飛び込んできたグランフィールの情報でしたので、それはぜひ!というわけで、翌日マロニエ君もさっそくそのモールのイベント会場に赴きました。

何台も並べられたアップライトピアノ(UP)の中で1台だけグランフィールを装着したヤマハの中古UPがあり、さっそく触らせていただきましたが、予想を遥かに超えたその効果にはただもうびっくりでした。
人差し指で、単音を出しても違いの片鱗は感じたけれど、周囲を気にしながらちょっと曲を弾くと、えっ、なにこれ!?
まるでUPとは思えぬコントロール性、音色の落ち着きは圧倒的で、わずか数秒で不覚にも感動さえしてしまったのでした。

情報提供者の「ピアニッシモが出しやすい」というのは、要はコントロールが自在ということで、通常のUPの出す音がどこかもうひとつ品位や深味がないのは音そのものではなく、タッチコントロールが効いていないから、いちいち無神経な発音になっている部分が大きいということが、グランフィール付きを弾いてみることでたちまち解明できました。

UPなのにスッキリした好ましいタッチの感触を知ってしまうと、これまでのUPのタッチは常に無用な重さとクセみたいなものに邪魔されていることがいやでもわかります。とくにストロークの上のほうが重く、そのあとはストンと落ちてしまいまい、そのストンと落ちるタッチから出る音が、UP独特のあのバチャッとした表情に乏しい音なんですね。

ピアノそのものは普通のヤマハの中古UPなのに、タッチがグランド並になっただけで表現力はたちまち倍加され、ひとまわりもふたまわりも格上の、やけに落ち着いた大人っぽいピアノのようになってしまうのですから、いかにタッチがピアノとしての価値や魅力を左右しているかを思い知らされ、とても貴重な体験にもなりました。

正直言って、自分で体験してみるまではこれほどとは思っていませんでしたし、わざわざそんな費用と手間をかけるぐらいなら、スパッとグランドにしたほうがいいのでは?裏を返せばUPはしょせんUP、グランドには敵わない…という思い込みがありました。
しかし、現実にこのような好ましいタッチのUPに触れてみれば、当たり前ですがむろんそれに越したことはないのです。

タッチの変なくせがなくなり自由度が増してくると、そこから出てくる音も決して悪くはないように聞こえるし、逆を言えば、グランドだってはっきりいって貧相な安っぽい音を出すものもあれば、そんなショボいグランドよりずっと威厳のある低音なんかを出せるUPもあることを思い出しました。

ともかく、このグランフィールの効果たるやまったく衝撃的で、できればすぐにでも我がシュベスターに装着したいところです。
しかし、その価格を聞くと20万円(税抜き)からだそうで、その効果は充分わかっていてもちょっと考えてしまう金額なのも事実で、少なくともマロニエ君にとっては即決できるようなものではなく、ひとえに価格だけが足を引っ張ってしまいます。
一部の高価な外国製UPはともかく、対象の多くが国産のUPだとすると、もう1台中古ピアノが買えそうなこの価格がネックとなって、付けたいけれど断念される方が多くいらっしゃるのではないでしょうか?

UPの長所は、自分で使ってみると痛感しますが、なんといってもグランドのように場所を取らないことで、さすがのマロニエ君でも、自室にグランドを置こうなどとは思いません。
なので、スペース的にグランドは無理だけど、タッチや表現にはこだわりたいという人には、これは唯一無二の解決策であるのは間違いないようです。
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春は忍耐

春は喜ばしいものだと、心からそう思い、感じ、疑いの余地などないかのように、昔から日本人は刷り込まれています。
でも、マロニエ君はやっぱりどう贔屓目に見ても現実の春はかなり過ごしにくく、おそらくは昔の生活環境からくる刷り込みだろうと思います。

隙間風の多い日本家屋、劣悪で脆弱な暖房手段などに痛めつけられて健康を害し、心も塞ぎこんで、冬が過ぎ去るだけで喜びがあったのでしょう。
しかし現代の多くが密閉性の高い住宅と、快適なエアコンやヒーター、当たり前のような給湯システムなどの快適装置、安価で暖かな衣類など幾重にも守られて生活しているので、昔ほど冬の厳しさに身を犠牲にすることなく済むようになったのは確かでしょう。

そんな現代人にとって、むしろ春は、花粉の飛散、めまぐるしく変化する温湿度や天候など、少なくとも心身の健康に欠かせない「安定した環境」という意味では、冬に比べてずっと厳しく過酷だと思います。
とくに免疫力が低く、ストレスを抱え、自律神経などを痛めた人には、温度調節ひとつとっても春の不快感は甚大なものがあります。
車のオートエアコンも注意深く見ていると、暖房になったり冷房になったりして機械でさえも迷って定まらないんだなぁと思います。
もちろん、マロニエ君は福岡や東京を基準としているので、北海道や沖縄のことはわかりませんが。

温湿度の変化がころころ激しく上下することは、楽器のコンディションにも如実に現れて、冬場よりも今の時期のほうがピアノもやや乱れ気味ですし、人間もマロニエ君の知る限り、周りの老若男女ほぼすべての人がなんらかの体の不調を訴え、小さな子供まで不快感と闘いながら毎日を過ごしています。
だから、春は個人的にはかなり苦手なのですが、なかなかそれが表向きの声としては聞かれません。

今でも冬は悪玉、春は善玉という構図はかわらず、春の優位性は揺らがないようです。
分厚いコートが要らなくなって、桜のような派手な花が咲いて、ゴールデンウィークなどがあるからで日本だけかと思ったら、ヴィヴァルディの四季やベートーヴェンのヴァイオリンソナタ、シューマンの交響曲でも春は大いに礼賛の対象として謳われているし、ボッティチェリの至高の名作もプリマヴェーラ(春)であったりしますから、これは洋の東西を問わないものなのか。
また世界情勢でもプラハの春やアラブの春など、体制の変化や雪解けを意味するときにも春という言葉を使いますね。

ともかく古今東西、どれだけ春を持ち上げようとも、マロニエ君はこれだけは賛同できません。
春特有の濁ったような空気とむせるような匂い、暑さと寒さが一緒くたになったみたいな気候、それに続く梅雨が終わるまでは、じっとガマンの4~5ヶ月というわけです。


某番組では、シューマンを得意と自称する女性ピアニストが登場し、詩情の欠片もないトロイメライを奏し、ゲストとして持ち上げられてきゃっきゃとおしゃべりをした後は、再びピアノに向かい、ベートーヴェンの熱情の第3楽章をお弾きになりました。
終始ふらつくテンポ、何を言いたいのかまったくわからない、なぜこの曲を弾きたいのかも、何一つ見えてこないプラスチックの食器みたいな演奏にびっくりしました。
演奏後、司会者からこの熱情を含むこの方のCDが発売されると紹介され、それならよほど弾き込みができているはずなのにと思いましたが、ともかく宣伝も兼ねてのことのようで、やはり今どきはピアノの演奏そのものより、いろんなところで幅広く行動のとれる人であることが必要ということなんでしょう。
その成果かどうかは知らないけれど、こういう変にメディア慣れしたような人が、日本で最高ランクの音大で要職についているというのですから、出るのはため息ばかり。

トロイメライで思い出しましたが、ニコライ・ルガンスキーの日本公演の様子も視聴しました。
子供の情景やショパンの舟歌やバラード第4番といったプログラムでしたが、子供の情景では作品と演奏者の息が合わずあまりいいとは思いませんでしたが、ショパン晩年の2曲では、思ったよりも悪くない演奏で、これは少し意外でした。

ただ、もともとルガンスキーというピアニストがあまり自分の趣味ではないこともあり、ほとんど期待していなかったので、それにしては予想よりもいい演奏だっただけで、では彼のショパンのCDを買うのかといえば、それはないと思います。
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ヤマハの後ろ足

福岡市の近郊に「東京インテリア」という家具の店がオープンしたというので、暇つぶしに覗いてみました。

ホームページを見ると関東以北には数多く展開しているようですが、西は少なく、愛知県以西では、大阪、神戸、さらに飛んで福岡に開店したようです。
店の外観はずいぶん地味な感じだったけれど、一歩中に入ると店内は予想を裏切るほど広大で、安価な雑貨などを見まわしながらちょっとずつ奥に進むと、次第に価格帯が上がってきて、マロニエ君はさっぱり知らないような海外ブランド専用スペースなどが次々に並んでおり、果たしてここにあるのは廉価品なのか高級品なのか、よくわからないような不思議な感じのする大型家具店でした。

それは実はどうでもよくて、広い売り場の中央を縦に大きく貫くようにして喫茶スペースが設けられており、その一角にはいかにも艶やかな黒のグランドピアノが置かれているのが目に止まりました。
ひとりでに鍵盤が上下していることから、自動演奏付きのようで、新しいヤマハのC6Xでした。
近づくといちおう音は出ていたものの、ふわふわした小さめの音で、おまけに周りはガヤガヤしていてどんな音かはまったくわからずじまい。

マロニエ君は、ヤマハのグランドの中では(Xになる前の経験ですが)C6を最も好ましく感じていたし、特に不思議なのは、C3、C5、C7はピアノとしても血縁的な繋がりみたいなものがあって、似たようなDNAを感じながら奥行きが長くなるにつれ低音などに余裕が出るという自然な並びですが、C6はその系列というか流れからちょっと外れているようで、このモデルだけいい意味での異端的な銘器といった印象がありました。

もしマロニエ君がヤマハを買うとしたら迷うことなくC6です。

ヤマハでマロニエ君が個人的にあまり好みでないと感じる要素が、C6ではずいぶん薄まって、上品で、むしろヤマハのいいところがこの1台に結集しているような印象さえありました。
見た感じも、C6はヤマハの中では大屋根のラインなども最も美しい部類だと思います。

それなのに、なぜかC6は少数派のようで、どれもだいたいC5かC7になってしまい、なかなかC6というのは目にする機会も少ないのです。なので、マロニエ君にとってはC6はヤマハのカタログモデルなのにレア物的な感覚があって、実際めったにお目にかかれません。

それがこんなオープンしたての家具店で遭遇するとは、まったくもって思いがけないことでした。

なんとなく眺めていて気がついたことは、やはり工業製品としての作りの美しさ、高品質感においてはヤマハは立派だと思います。
逆に視覚的に残念な点は、ヤマハのグランドピアノ全般に言えることですが、真横から見ると後ろの足がやや内側(つまり鍵盤寄り)に入った、なんともあいまいな位置に付いており、そのわずかな足の位置のせいで見た感じもやや不安定でもあるし、ボディが鈍重に見えてしまうことだと思いました。

その点では欧米のピアノは、知る限りほとんどが後ろ足はもっと後方ぎりぎりに寄せた位置にあるので、視覚的にも収まりがよく、伸びやかでカッコよく見えますが、ヤマハはその位置のせいでちゃぶ台の足みたいになり、せっかくのフォルムがダサくなってしまっています。

ステージで見るヤマハのコンサートグランドも、遠目にもわかるほどボテッとしていて、スマートさというか、コンサートグランド特有の優美さがありません。
バレリーナでいうと、ロシア人と日本人のような差がありますが、なにも日本製だからといって、ピアノまで日本人体型にしなくてもいいのではと、いつも非常に残念に思うところ。

その点でいうと、カワイの後ろ足は横から見ても、ヤマハほど内側に入っていないので、ずっと国際基準のフォルムだと言えるでしょう。
が、しかし、カワイは足そのものの形状がメリハリに欠けており、そっちのほうでずいぶん美しさをスポイルしていると思います。

ついでにいうと、ファツィオリやベヒシュタインはボディ形状は決して美しくはないけれど、足の位置は適切でしかもスーッと伸びているから、それでかなり救われている感じです。

おいおい、楽器は音を出すモノで見てくれなどは関係ないこと、くだらない!とする向きもあるでしょうが、マロニエ君は断じてそうは思いませんし、何であっても「見た目のデザイン」というのは決して疎かにできない、とても重要なものだと思います。

花瓶ひとつでも、ただ花が活ける機能があればいいというものではなく、その姿や微妙なバランスがとても重要であるように、ピアノも楽器としての機能性能が第一なのは言うまでもないけれど、加えて視覚的な美しさ、デザインの秀逸さは絶対に大切だと思います。

2010年、CFXの登場を皮切りに、ヤマハのグランドはディテールのデザインが大きく変わりましたが、後ろ足の位置については以前のままで、何であんな位置にこだわるのか不思議でなりません。
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趣味の焦点

連休中のはじめ、ピアノ好きの知人の方が遊びに来られました。

主にピアノにまつわる話題が多かったけれど、それ以上に普段電話やメールではできないいろいろなムダ話が落ち着いてできたのが良かったなぁと思います。
実用的なやり取りなら通信手段には事欠かない現代ですが、やはり人との交流を育むには、会ってゆっくり話をすることに勝るものはなく、これがあまりにも省略されすぎることが、人と人との関係がカラカラに乾いてしまう大きな原因ではないかと思います。

現代人は、短い連絡はしきりにするけれど、落ち着いた会話をする機会や時間が激減したことは如何ともし難いことだと思います。
これはハイテクの進歩とビジネス社会の流儀が、それではすまない領域にまで蔓延したことによる弊害でしょうか。

相手の顔を見て、あれこれおしゃべりして回り道している中に、実は最も大事なものが含まれていると感じますし、それが自然と心に沈み、後に残っていくように思います。
昔はそれが当たり前だったので、ごく普通に出来ていたことなんですけどね。

そもそも人との関わりというのは、実用的伝達さえできたら済むというものではなく、むしろ実用以外の一見無駄と思えるようなところに人間的真実の核心があると思うので、マロニエ君はどんなに時代が変わっても、そこだけはなんとか踏ん張って大切にしていきたいと思います。

せっかくなのでピアノを弾いてくださいと言っても、手を横に降ってちょっとやそっとでは弾こうとされません。
こういう遠慮がちな態度に、日本人だけのDNAにある美徳を見るようで、なにやらとても懐かしい気がしました。
ピアノをなかなか弾かれないそのことというよりも、その背後にある、日本人の心の深いところにある慎みや恥じらいなどのセンシティブな精神文化に、久しぶりに触れられたことがとても心地よいものに感じられたように思います。

とはいえ、このままではキーに一切触れることなく帰られてしまうと思ったので、強く何度も奨めた結果、苦笑しながらしぶしぶピアノの前に座ってシューベルトやドビュッシーの小品を弾かれました。

演奏というものは不思議なもので、技術の巧拙とは一切関係なく、その人の人柄はじめいろいろなものが音に乗って出てくるものです。
このとき耳にしたのは、いやな色のまったくついていない、人知れず咲いている清楚な花のような、静けさと愛情に満ちた演奏でした。
音楽がとても好きで、ピアノを弾くことがとても楽しく、それを穏やかに実践している人のぬくもりがあり、ピアノや音楽、さらには趣味というものがもたらす豊かさを再確認させられた気がします。

ピアノと見ればがんがん弾きまくるのも楽しさのひとつなのかもしれませんが、マロニエ君はやはりこういう在り方のほうが自分の好みに合っています。
弾くばかりがピアノではなく、聴くことも、知ることも、語ることも、ピアノの魅力だと思うのです。

そんな価値観を共有できる人達との交流がクラブやサークルのような形をとってできたらいいと思うのですが、それがピアノの場合は至難です。
鉄道ファンが鉄道を語るように、自動車マニアが自動車談義に興じるように、何かの蒐集家がモノや情報を持ち寄って仲間と楽しい時間を過ごすように、ピアノでも同様のことができたらと思うのですが、ピアノにはそれを阻む数多くの壁があるようです。

その壁とは何か…それはまあ書かないでおきます。
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