楽器か道具か

ピアノは本当に素晴らしいものなのに、我々のまわりには、とかく驚くような、ピアノの素晴らしさを蹂躙するような話がたくさん転がっているのはどういうわけでしょう。

ちなみにここに取り上げるのは、主にピアノを弾く事に関する人達であって、技術者は含みません。
つまり演奏者と指導者、さらにはそれに連なる学習者ということになるでしょうか。

今回言いたい驚きの中心テーマは、自分が弾く楽器に対する異常なまでの愛のなさです。
むろん、今どきのテレビ風の言い訳をしておくなら、中にはそうではない人ももちろんおられることは言うまでもないけれど、もっぱら大多数の人、すなわち圧倒的主流派のお話です。
みなさん楽器を楽器とも思わず、管理らしい管理もせず、ぞんざいに弾きまくり酷使しまくって、それが当たり前のように平然としている人がほとんどです。

さらに驚くべきは、ピアニストや教師の中には、過去に自分は何台のピアノを弾きつぶしたなどということを得意げに語る人もいて、それのどこがエライのか?と思わざるを得ません。
ピアノという大きくて強いものを、自分はねじ伏せた、勝利した、というような気分なのか。
これはもう立派な武勇伝であり、名うての剣士が、打ち倒した敵の数を自慢しているようで、その人達にとってはもはやピアノは戦うべき敵なのかもしれません。

ピアノという楽器が、大半が孤独な鍛錬に時を費やし、技術習得の困難な楽器であるために生まれた歪んだ現象のようにも思えます。

ほかにも原因はいろいろ考えられます。
いつもいうことですが、ピアノはあの大きさと重量ゆえに持ち歩きができず、「そこにあるピアノ」をいやでも弾かなくてはならないから、どんなものでも不服に思わず弾くことを要求されるもの。

ただ、そうだとしても、だから自分の楽器はどうでもいいということにはならないのが普通だろうと思います。
自分の楽器へのこだわりと愛で培われたものが、別のピアノでの演奏においても必ず役立てられるはずで、愛がなければ、その他のさまざまな感情も表現も実を結ばない。

もうひとつ大きな原因だと思うのは、海外のことは知らないから日本国内に限っていうと、日本の大量生産ピアノが及ぼした影響。
どんなに製品として優秀で、どれほど信頼性が高くても、しょせんは機械や道具としての存在価値しか示さず、徹底して無表情なピアノに愛が生まれないのも当然といえば当然。
多くの楽器が発する「ともに歌う音楽の相棒」という擬人化の余地がないばかりか、ときにふてぶてしく憎らしく見えたりと、とうてい愛情を注ぐ対象にならないこと。

せいぜいが、それにまつわる過去の出来事や家族のことなど、思い出が彩りをくわえているだけで、そこにピアノがたまたまあったというだけ。これは、そのピアノそのものに対する愛情とは似て非なるもので、単なる思い出の小道具にすぎない。

かくいうマロニエ君にも、そういう人を非難する資格もない過去があります。
幼稚園のころから弾いたピアノは、中学生のときに一度買い換えたので、成人するまでに2台のピアノと付き合い、それはいずれもヤマハでしたが、たしかに自分のピアノに対しての愛着は自分でも驚くほどありませんでした。
次のピアノに買い換える際も、手許に残しておきたいというような気持ちは皆無で、下取りで運びだされたときはせいせいするようでしたから、車でも長く乗ると古女房みたいになってくるのに、これってなんだろうと思います。

先日も知人から間接的に聞いた話が深いため息を誘いました。

ひとりは若いピアニストで、某サロンで小さなソロコンサートがありお付き合いで行ったそうですが、その人にどんなピアノが好きかと尋ねたところ、「ピアノにはまったく興味がなく、どんなピアノでも構わない」と即答されたというのですから唖然です。
ピアニストは弾くことに忙しく、ピアノの好みなんて言ってるヒマはないよというポーズなのか、なにかの強がりなのか諦めなのか、真意は図りかねますが、なんだかやりきれない気分になってしまいます。

またあるピアノ弾きの方は、ドイツ製のヴィンテージピアノ(とても状態のいい、現役としても十分使用可能な素晴らしい楽器)を前に、ろくに弾きもせぬまま「趣味ならいいけれど、自分が弾けばたちまち壊れてしまうだろう」というコメントを残して行かれたとか。
その方は日本製の頑丈が自慢のピアノをお使いだそうですが、格闘技ではあるまいし、苦笑しか出ませんでした。
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演奏の意味

テレビ場組『恋するクラシック』でピアニストの実川風(じつかわかおる)さんがゲスト出演され、実はマロニエ君はこの方をこのとき初めて知りました。
この番組じたいが演奏をじっくり聴かせるものではないので、いつも演奏はかなり制約を受けたものになります。

このときは、ショパンの子犬のワルツとベートーヴェンのワルトシュタインの第1楽章が、スタジオのピアノで演奏されましたが、子犬はこれといって特徴のない、いかにも今どきの演奏。
ワルトシュタインは、それに比べると遥かにこの人の演奏の特徴をキャッチ出来るだけの分量と要素が見られました。
今どきの若い人の中では、ところどころにメリハリはあるし、ベートーヴェンらしい強弱もちょっとあるところは、まずはじめに感じたこと。

しかし、やはりこの世代の特徴も多く見受けられ、自分の解釈や感性を問うことより、ミスなく型通りに弾くことに演奏エネルギーの中心が置かれ、個性と呼べるまでに至っている何かはほとんど感じられませんでした。
ああまたか…と思うのは、音楽が演奏を通じて呼吸をしておらず、なにか指先の細工仕事のように曲が進み、常にせかせかした気分にさせられる点。

どんなにスピードのある演奏でも、そこに作品上の意味と高揚感が伴わなくては意味がなく、自分だけ突っ走る自転車みたいでは、ただはやく目的地に到達することだけが目的のようにしか聞こえません。
聴く側はその途中に繰り広げられる、さまざまな出来事や景色のうつりかわりを、演奏者の解釈やテンペラメントやセンスで見せてほしいもの。
こういう無機質なスタイルがなぜこれほどまでに若い人の間(というか指導者を含めて)に浸透してしまったのか、コンクール世代の後遺症なのか、情報浸けの副作用なのか、理由はともかく、せっかくの演奏能力をもっと有効に使ってほしいものだと思うし、実際なぜそうしないのか不思議です。

その対極の頂にいるのが、たとえば内田光子で、その一音足りともゆるがせにしない姿勢、品格、説得力、音楽の鼓動、そういう真に芸術たりうる演奏。こういう探求の道のあることをもっともっと深いところまで考えてほしいもんだと思います。

それでも、若いピアニストが続々と出てくるのは驚くべきことではあるけれど、どこかよく出来た大量生産のピアノのようで、音楽家としての熟成が足りないということを感じるばかり。
少なくとも、顔や名前より先に、その演奏が記憶に残るような人が出てきてほしいし、その演奏を継続して聴くため、顔と名前を覚えようとする、そういう順序であってほしいもの。

いま言っていることは、べつに実川さんだけのことではないのは言うまでもなく、彼はむしろ同世代の中ではまだ音楽的実感をもっているほうだとは思いますが、それでもまだまだ足りない。

演奏中のテロップには、今後はベートーヴェンのソナタ全曲を録音したいというようなことが文字で流れましたが(いくら時代が変わったとはいっても)ちょっとそれは口にするのが早過ぎるのではないかというのが率直なところ。

昔はベートーヴェンのソナタ全集を録音するということは、ピアニストとしてはかなり大それたことで、誰にでも許されることではなかった。
むろん技術的に弾けるかどうかの問題ではなく、作品に込められた内容を表現でき得るかどうかという、芸術家としての成熟や適性を厳しく問われました。
今では信じられないことですが、中期以降のソナタなど、そもそも女性が弾くものではないというような考えさえあって──中にはエリー・ナイのような人もいたけれど──概してそういった空気があった(それがいいとも正しいともマロニエ君はもちろん思わないけれど)という歴史的背景があったということぐらいは頭の隅に留め置いていいことだとは思います。

指揮者の世界も同様で、むかしのドイツでは中堅ぐらいの指揮者になっても、ベートーヴェンを振るチャンスなどめったになく、とりわけ第九などは一生振る機会などないと思っていたところ、日本からの招聘など外国から第九を依頼されると、本人が感激に震えたというような話も聞いた覚えがあります。

これらはいささか権威が大手を振りすぎている時代の空気のようにも思えますが、ベートーヴェンというものはそれだけ高く聳える山だということに充分な敬意をはらい、少なくとも修行時代に弾くのとは違って、プロとして録音なりコンサートで取り上げる場合は、ぜひ居住まいを正して取り組んで欲しいし、まして全曲ともなると、あまり安易に取り扱わないでほしいというのが個人的な希望です。

今は演奏の是非よりも能力が問われる時代なので、技術があって、暗譜力があれば、はいそれでステージ、はい録音という流れになるのかもしれないけれど、それって意味があるのかと思います。
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アレクサンドル・トラーゼ

たまっているクラシック倶楽部の録画から、今年トッパンホールで行われたアレクサンドル・トラーゼのリサイタルを視聴しました。
曲目はハイドンのソナタ第49番変ホ長調、プロコフィエフのピアノ協奏曲第2番の第1楽章をカデンツァを含めてトラーゼ自身が編曲したもの、さらに2台ピアノによるピアノ協奏曲第3番の第3楽章。

本来なら、この手の外国人の(わけても旧ソ連系の重量級という言うべき人の)リサイタルとあらば、すぐにでも聴いてみようとする筈ですが、このトラーゼというピアニストはあまりよくは知らないというか、ずい分前に期待を込めてゲルギエフとの共演(オケはどこだったかわすれた)でプロコフィエフのピアノ協奏曲全曲のCDを購入、ロシア人(当時はそう思っていたが、トラーゼはジョージア人)によるネイティブな演奏を期待していたところ、それはまったく当方の期待に反するものでした。

具体的にどうだったかは忘れたし、そのためにわざわざCDを探し出して確認してみようというほどの熱意もないからそれはしないけれど、とにかくちょっと変わっているというか、ピアニストの個性なのか耳に逆らう変なクセのようなものばかりが目立った、すんなり曲を聴き進むことができないことに甚だしく落胆し、たしか全曲聴かずに放置した記憶があります。

「こういう演奏を期待して買ったわけではなかったのに!」という典型のようなCDでした。

なので、どうせ自分の好みではないだろうという先入観があり、つい先延ばしになっていたのです。

トラーゼ氏は番組内でインタビューに答え、正確ではありませんが、ざっと以下のようなことを言っていました。
「最近つくづく思うが、私は演奏そのものには興味がない」
「私の心を引きつけるのは、曲に秘められたストーリーを語ることだ」
「ハイドンのソナタ(この日演奏する曲)は、恋愛関係にあった女性歌手に献呈されたもの」
などといって第2楽章などを弾いてみせる。
「(作曲家の意図やストーリーを語ることは)間違っている事もあるかもしれないが、ただ音符をならべるだけの演奏より楽しんでもらえることは確か」
〜等々、この人なりに作品に込められたものを聴く人に伝えたいということが、人一倍あるらしいことはわかります。

ただし、ではトラーゼの演奏を聴いて、それが具合よく実現できているかといえば、残念ながらマロニエ君は成功しているとは思えませんでした。

冒頭のハイドンでは表情過多で、曲が必要とする軽快さや洒脱の味わいがまったく失われているというか、もしかしたら本来の曲とは少し違ったものに変質してはいないかという疑問さえ感じます。
トラーゼのいうストーリー展開も語りも、話としてはわかるけれど、古典派には、古典派なりのスタイルというものがあって、表現はその一定の枠の中で行われるべきものと思います。
古典派に限らず、音楽には音楽独自の語法というものがあり、さまざまな要素は音楽的デフォルメをもって間接的に表現されるべきで、言葉そのもののようなあまりに生々しい直接表現はマロニエ君は好みではありません。

トラーゼの演奏は、まるで一言一句が大げさな芝居のセリフのようで、ひとつひとつに意味を被せすぎ、音楽に必要な横のラインが随所で寸断されてしまうのは賛同しかねるもので、あれをもってハイドンの言いたかったこととは、マロニエ君にはとうてい思えませんでした。

次のプロコフィエフの編曲は、やたらと長ったらしく恥ずかしいほどもったいぶった曲でしたが、ただ第2協奏曲のモチーフを散りばめた即興演奏のようでもあり、コンサートに行って現場の空気を吸いながらこれを聴かされたらそれなりの魅力があるのかもしれないけれど、テレビで冷静に見る限りでは、あまり意味の分からないものでした。

最後のプロコフィエフ、ピアノ協奏曲第3番の第3楽章は愛弟子である韓国人の女性にもう一台のピアノでオーケストラパートを弾かせての演奏でしたが、旧世代のロシア系ピアニストを彷彿とさせる炸裂するフォルテなどが多用されるものの、テンポや曲の運び、アーティキュレーションなど、いずれも鈍重で恣意的、スピードの出ない旧式な戦車みたいな印象でした。
ただ、大きな音は出せる人で、低音域のそれはたしかに迫力があり、薄くてサラサラの演奏が大手を振る現代では、溜飲の下がるような瞬間もなくはないけれど、でもやっぱりそれだけでは困るのです。

指の分離もあまり良くないのか、個々の音のキレが良くないことと、特に右手が歌わないのは終始気になるところ。
こういう演奏に触れてみると、巷で言うほど好きではないソコロフなども、やはりあれはまったく次元の異なる第一級のピアニストであることを思い知らされました。

会場はトッパンホール、ピアノは二台ともスタインウェイDでしたが、トラーゼはソロでもコンチェルトでも手前のピアノを弾きました。
キャスターの感じからして奥のピアノのほうが新しいようで、勝手な想像ですが、やはり新しい個体のほうが鳴りが不足するというか、ピアノとしてのスケールが小さいのだろうか…ともかく相対的に古いほうがトラーゼの好みに合ったのかもしれません。

実際の演奏会では、コンチェルトは全楽章、他に戦争ソナタも演奏されたようです。
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若手の問題

某音楽番組で、日本人の若いピアニストがゲストとして登場されました。

子供のころから天才と評されて、ずいぶん話題をさらった人ですが、マロニエ君に言わせると日本のピアノ教育システムが生み出した典型のような人。
それがそのまま優れたピアニストかといえばまた別で、演奏家としての特別な魅力やオーラを感じるかどうかは人によって受け取り方が違うと思いますが、マロニエ君はまったく興味がわきません。
国際コンクールでは狙い通りの結果は出せなかったようですが、最近はCDなども出て、その方なりの活躍を本格始動されているのかもしれません。

番組MCから紹介を受けてまず1曲。
その後、場所を移してこれまでの経歴を中心とするかたちで雑談をし、再びピアノの前に進んで、もう1曲弾かれました。
いずれもロマン派を代表する作曲家による、超有名曲でした。

いまさらながら思ったことは、現代の演奏家は、まず聞く人を音楽の喜びを伝え導くことが大きな使命であること、いやそれ以前に弾く人が音楽への奉仕者ということを忘れているということ。
それを考えることもなく、受験競争のように技巧の卓越と仕上げのレベルアップだけできたのでは?ということで、これは指導者にも大きな責任があると感じます。
要するに、至難な曲の技術的に見事に弾き、それで膨大なレパートリーを抱えているだけ。

これは決してこの方に限った話ではありません。
多くの若い人の演奏には、作品から真の魅力を探しだし奏でることへの使命や、言い換えると音楽に対する愛情があまり感じられず、すでにあるものを、自分の能力(技巧と暗記力)を自慢する手段として使っているだけという気がしてなりません。
早い話が、自分のセンスの投映もないし、演奏には喜びや冒険やあそびがどこにもない。

当然ながら、情的にはかなりドライといって構わないでしょう。
さらにいやになるのは、曲の流れが断ち切られてしまうほどこれみよがしの間をとったり、まったく自然さを欠いた表情のようなものをわざわざ付け加えたり、意味のない虚飾などの連続で、これでは聴く人の感銘が得られるわけがない。
そんなもので人に感銘感動を与えられるほど人の心が動くはずはなく、ただ器用な演奏処理みたいなものをどんなに見せられても、本当のファンなど生まれるはずもない。

多くの人達が聴きたいものは、演奏者が自分の感性と信念からこうだと信じているウソのない音楽であり、そのひとなりの精神世界と作品のいってみれば最も幸福なコラボ。
そういうものに裏付けられたものが、ようやく本物の演奏と呼べるものだと思うのです。
音楽は小さな曲でも音による物語や旅でなくてはいけないわけで、その物語の世界に、演奏者の才能と感性で案内してほしいわけで、べつに偏差値的な能力自慢の目撃者になりたいわけではない。

別の番組では、スタジオで4人の演奏家による、日本の音楽祭を紹介するというのがありました。
チェロの御大、ヴァイオリンのベテラン、ハープの第一人者、そして若き俊英ヴァイオリンのホープでした。

ここで感じたのは、お話をさせると、どうしようもなく年配の方々は話に恰幅があって聞いていて楽しいし、自然で、言葉選びにもお顔の表情にも余裕があります。
一瞬一瞬の気持ちや内容は言葉と一体のものとなり、ほどよい抑揚をもってスラスラとお話が続きます。ところが最も若い某氏になると、とたんに語り口は硬直し、言葉も少なく苦しげで、結局は中味のないステレオタイプのコメントで終わってしまいます。
おそらく単純な演奏技巧でいうと、彼はこの場にいる先輩方の誰にも負けるどころか、もしかしたら1番かもしれませんが、お話を通じての人間力となると、年齢以上の差が開いてしまうのを痛烈に感じました。

どんなにテクニックが上手くて、初見も暗譜もお手のもので、なんでもヒョイと弾ける能力があっても、演奏者としての魅力はそれ以外のものと合体させたものでなければ真の魅力にはなりません。
上記のピアニストにも通じる、若い人たちの抱える、もっとも重大な問題点をまざまざと見せつけられた気がしました。

テクニックが向上したのと引き換えに、生身の人間のアーティキュレーションが著しく落ちていることでしょうか。
表現したいものがたくさんあるのにテクニックがついてこないのは悲しいけれど、テクニックがあるのに表現すべきものがないことは、もっとはるかに悲しい気がします。
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ときには刺激を

とある休日、以前ピアノを通じて親しくしていた方々が、お揃いで我が家にいらっしゃいました。

中には実に数年ぶりにお会いする方もあり、懐かしい限りでした。
挨拶もそこそこに、やはりこの顔ぶれはピアノを弾いてこそということもあり、さっそく演奏が始まりますが、ひとり始まれば、次から次へと回りだし、まるでプチ発表会の様相となりました。

皆さん、ピアノを弾くことに格別の喜びを感じておられて、日々の練習を怠らず、レッスンに通い、発表会その他で人前での演奏もかなり頻繁にやっておられる方ばかり。
口々に「緊張する!」と言われますが、なかなかしっかりした演奏をされることに感心させられます。

ピアノを弾くことは、自分自身が楽しいのだから、自分一人で弾いて楽しんでいればいいというのが、趣味としてのマロニエ君の基本スタンスで、それは昔も今も変わりません。
しかし、現実にこうしてアマチュアながら人前での演奏に臨んで、緊張と喜びに身を投じつつもピアノに向かい、楽しさと真剣さが同居する様子を目の当たりにしてみると、それはそれで価値のあることだと感じたのも事実でした。

人によって、曲も違えば、弾き方も違い、同じピアノが弾き手によっていかようにも変わってくるあたり、こうした遊びの中にも気付かされるピアノの奥の深さのような気がしました。
目の前で弾かれるピアノの音に身を委ね、のんびりくつろぐのも悪くないものです。

マロニエ君は普段、自分の好きなCDを聴き散らすばかりで、これといって目的を持って練習することはありません。
せいぜい、そのときときに弾いてみたい曲の中から、技術的に自分でもなんとかなりそうなものを探しだしては、だらだらと練習の真似ごとのようなことをやるだけ。
レッスンに通っているわけでも、なにか人前で弾くという機会があるわけでもなく、こういう状況ではどうしたって練習にも身が入りません。

基本的にはそれでいいと思っており、たいして弾けもしないものを、いまさらこの歳で目標を作ってまで遮二無二やらなくちゃいけない理由はないし、身が入らないなら入らないなりに楽しんでいられれば、それでいいという考えです。

と、普段はそうなのですが、この日、何人もの方が代わる代わるにピアノに向かい、とても熱心に弾かれている様子を見ていると、自分のそんな怠惰なあり方がちょっと恥ずかしくなるようでもありました。

だからというわけでもないけれど、ただシンプルにピアノを弾くということに素直な刺激を受けたと思われますが、この日を境に、マロニエ君にしては珍しくピアノに向かう時間が長くなりました。
すると、不思議なことがいくつか起こりました。

まず、ピアノというのは弾けば弾くほど調子が上がり──とはいってもいまさら上手くなるわけではなく、要は弾くことに集中度が増していくぐらいの意味で、ありていにいえば弾けば弾くほど楽しくなってくるということでした。
これまでは、まったくピアノに触りもしない日がいくらでもあり、触っても5分ぐらいというのはごく日常でしたが、少し続けて弾きだすと、それだけ自分が曲の中に没入し、それがピアノを離れても意識として残るようになって、そうするとまた弾いて、あれこれの表現やアイデアを試したり、なにかを解決したくなったりといった衝動にかられてくる。
そういう一連の行為や気分がだんだんおもしろくなるわけです。

下手は下手なりに、音楽にこだわってくると、理想の表現を求めて繰り返し弾いてみることが(自己満足といえども)こんなに楽しいことだったことを、このところ実感として忘れていたように思いました。
それを思い出させてくれて、ピアノに向かう時間が長くなっただけでも、この訪問者の方々にはお礼を言わなければならないと思っています。

それと、当たり前かもしれませんが、弾けば弾いただけ自分なりに指がほぐれて、少しずつ自分の体がピアノと仲良くなってくように感じるのは、ほんの僅かであってもやはり嬉しいものです。
当面の目標としては、目の前にある数曲の仕上げ(仕上がらないだろうけど)と、新しい曲をいくつかものにしたい(できないだろうけど)と思っているところです。

何年ぶりかで、ピアノに集中していると1時間なんてパッと過ぎてしまう感覚を、久々に味わっています。
CDで胸のすくような素晴らしい名演に接するのもいいけれど、やはり下手でも自分の意志で楽器を鳴らすのは、他に代えがたい格別なものがあることは間違いないようです。
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その後どうなる?

最近見た、ピアノ関連のTV番組から。

Eテレ『若手ピアニストの頂上決戦〜第86回日本音楽コンクール・ドキュメント〜』と題する、同コンクールのピアノ部門に密着したNHKのドキュメント。
202人が出場する第1次予選から始まり、いきなり47人に絞られての第2次予選、さらにわずか9人となる第3次予選、本選出場は4人で競われるというもの。

よく「コンクールは第1次が最も面白い」といわれますが、まさにそれが納得という感じが垣間見られました。
音大などの学生はもちろんのこと、中には会社員で休暇をとってコンクールに出場する人もいたりと、この第1次の様子は少しでしたが、なにやらとてもおもしろそうでした。
後半に進むに従って、精鋭ばかりが残っていくけれど、同時にある程度どんなものかもわかってくるのに対し、第1次はどんな人が出てくるやら楽しいというかドキドキ感もあって、もし自分が見に行くなら絶対これだと思いました。

第1次は演奏時間も短く、わずか10分。
その演奏如何で150人以上の人達が一斉に落とされてしまいます。
ところが、なんと会場のトッパンホールの客席は審査員はどこにいるの?と思うほど超ガラガラで、一般の人の入場はできないのだろうかと思ってしまいます。
それに対し、オペラシティで行われる決勝となると大ホールは満席で、チケットは売り切れというのですから、優勝者が出る場面を見てみたいというのもわかるけど、いささか偏り過ぎというか不思議な気がしました。

1位と2位はマロニエ君も予想していた通りで、ショパンコンクールのような大コンクールでは結果に納得のいかないこともしばしばありますが、この点では思い通りで満足できました。

ただ別の感想も抱きました。
このコンクールに出場されるような方は、当然ながら相当な腕前を持っておられて、普通のシロウトが徒歩から始まってせいぜいスクーターぐらいだとすると、新幹線ぐらいの差があると思いますが、ではそれでさらに世界的なコンクールに挑んで栄冠が勝ち取れるかといえば疑問であるし、ましてプロのピアニストになれるのかといえば、それはまったく別の話で、本当の意味でのピアニストになれる人は、その新幹線に対して飛行機か、場合によってはマッハで飛ぶ戦闘機ぐらいのレベルにならなくてはいけないわけです。

そうなると、なまじ才能があって、精進して、なんでも弾けるような腕前が備わったばかりに、引くに引けない状況になることがあるはずで、多くの人達はその先どうなるのかと思いました。
中には両親も応援に来られていて「30歳まで、あと2〜3年は見守ろうと思います」というようなことを言われたりと、家族を挙げての挑戦であることがわかります。
あれだけ弾けるようになるためには、どれだけの努力があったかを思うと胸が痛くなりました。


題名のない音楽会では『王道のピアノ協奏曲に熱くなる音楽会』と銘打った、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番。
ソリストは、ショパンやチャイコフスキーで2位になったルーカス・ゲニューシャスで、マロニエ君にはまったく好みの合わない演奏。

やけに含みをもったような、さも自信ありげな弾きっぷりでしたが、テンポは遅く、躍動は断ち切られ、フォルテッシモを期待するところがヒュッと弱音になったり、かなり違和感を覚える演奏でした。

外面的な効果や慣例を廃して、徹底したコントロールされた新たな解釈を提示したつもりかもしれないけれど、マロニエ君にはまったく意味不明理解不能で、なんだかヘンなものを食べさせられて胃もたれをおこすようでした。

ゲニューシャスは作曲者と同じロシア人でもあるし、たしかかの名伯楽ヴェラ・ゴルノスターエワのお孫さんでもあり、ロシアピアノ界でもいわばサラブレッドであるはずですが、それ故こういう演奏もまかり通るということなのか…。

この番組のタイトルの『王道のピアノ協奏曲に熱くなる音楽会』とは、どういう意味なのか、どこでどう熱くなればいいのか最後までさっぱりわからず、ぽつんとひとり取り残されているような気分を味わいました。
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