ピアノは本当に素晴らしいものなのに、我々のまわりには、とかく驚くような、ピアノの素晴らしさを蹂躙するような話がたくさん転がっているのはどういうわけでしょう。
ちなみにここに取り上げるのは、主にピアノを弾く事に関する人達であって、技術者は含みません。
つまり演奏者と指導者、さらにはそれに連なる学習者ということになるでしょうか。
今回言いたい驚きの中心テーマは、自分が弾く楽器に対する異常なまでの愛のなさです。
むろん、今どきのテレビ風の言い訳をしておくなら、中にはそうではない人ももちろんおられることは言うまでもないけれど、もっぱら大多数の人、すなわち圧倒的主流派のお話です。
みなさん楽器を楽器とも思わず、管理らしい管理もせず、ぞんざいに弾きまくり酷使しまくって、それが当たり前のように平然としている人がほとんどです。
さらに驚くべきは、ピアニストや教師の中には、過去に自分は何台のピアノを弾きつぶしたなどということを得意げに語る人もいて、それのどこがエライのか?と思わざるを得ません。
ピアノという大きくて強いものを、自分はねじ伏せた、勝利した、というような気分なのか。
これはもう立派な武勇伝であり、名うての剣士が、打ち倒した敵の数を自慢しているようで、その人達にとってはもはやピアノは戦うべき敵なのかもしれません。
ピアノという楽器が、大半が孤独な鍛錬に時を費やし、技術習得の困難な楽器であるために生まれた歪んだ現象のようにも思えます。
ほかにも原因はいろいろ考えられます。
いつもいうことですが、ピアノはあの大きさと重量ゆえに持ち歩きができず、「そこにあるピアノ」をいやでも弾かなくてはならないから、どんなものでも不服に思わず弾くことを要求されるもの。
ただ、そうだとしても、だから自分の楽器はどうでもいいということにはならないのが普通だろうと思います。
自分の楽器へのこだわりと愛で培われたものが、別のピアノでの演奏においても必ず役立てられるはずで、愛がなければ、その他のさまざまな感情も表現も実を結ばない。
もうひとつ大きな原因だと思うのは、海外のことは知らないから日本国内に限っていうと、日本の大量生産ピアノが及ぼした影響。
どんなに製品として優秀で、どれほど信頼性が高くても、しょせんは機械や道具としての存在価値しか示さず、徹底して無表情なピアノに愛が生まれないのも当然といえば当然。
多くの楽器が発する「ともに歌う音楽の相棒」という擬人化の余地がないばかりか、ときにふてぶてしく憎らしく見えたりと、とうてい愛情を注ぐ対象にならないこと。
せいぜいが、それにまつわる過去の出来事や家族のことなど、思い出が彩りをくわえているだけで、そこにピアノがたまたまあったというだけ。これは、そのピアノそのものに対する愛情とは似て非なるもので、単なる思い出の小道具にすぎない。
かくいうマロニエ君にも、そういう人を非難する資格もない過去があります。
幼稚園のころから弾いたピアノは、中学生のときに一度買い換えたので、成人するまでに2台のピアノと付き合い、それはいずれもヤマハでしたが、たしかに自分のピアノに対しての愛着は自分でも驚くほどありませんでした。
次のピアノに買い換える際も、手許に残しておきたいというような気持ちは皆無で、下取りで運びだされたときはせいせいするようでしたから、車でも長く乗ると古女房みたいになってくるのに、これってなんだろうと思います。
先日も知人から間接的に聞いた話が深いため息を誘いました。
ひとりは若いピアニストで、某サロンで小さなソロコンサートがありお付き合いで行ったそうですが、その人にどんなピアノが好きかと尋ねたところ、「ピアノにはまったく興味がなく、どんなピアノでも構わない」と即答されたというのですから唖然です。
ピアニストは弾くことに忙しく、ピアノの好みなんて言ってるヒマはないよというポーズなのか、なにかの強がりなのか諦めなのか、真意は図りかねますが、なんだかやりきれない気分になってしまいます。
またあるピアノ弾きの方は、ドイツ製のヴィンテージピアノ(とても状態のいい、現役としても十分使用可能な素晴らしい楽器)を前に、ろくに弾きもせぬまま「趣味ならいいけれど、自分が弾けばたちまち壊れてしまうだろう」というコメントを残して行かれたとか。
その方は日本製の頑丈が自慢のピアノをお使いだそうですが、格闘技ではあるまいし、苦笑しか出ませんでした。
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