テレビ場組『恋するクラシック』でピアニストの実川風(じつかわかおる)さんがゲスト出演され、実はマロニエ君はこの方をこのとき初めて知りました。
この番組じたいが演奏をじっくり聴かせるものではないので、いつも演奏はかなり制約を受けたものになります。
このときは、ショパンの子犬のワルツとベートーヴェンのワルトシュタインの第1楽章が、スタジオのピアノで演奏されましたが、子犬はこれといって特徴のない、いかにも今どきの演奏。
ワルトシュタインは、それに比べると遥かにこの人の演奏の特徴をキャッチ出来るだけの分量と要素が見られました。
今どきの若い人の中では、ところどころにメリハリはあるし、ベートーヴェンらしい強弱もちょっとあるところは、まずはじめに感じたこと。
しかし、やはりこの世代の特徴も多く見受けられ、自分の解釈や感性を問うことより、ミスなく型通りに弾くことに演奏エネルギーの中心が置かれ、個性と呼べるまでに至っている何かはほとんど感じられませんでした。
ああまたか…と思うのは、音楽が演奏を通じて呼吸をしておらず、なにか指先の細工仕事のように曲が進み、常にせかせかした気分にさせられる点。
どんなにスピードのある演奏でも、そこに作品上の意味と高揚感が伴わなくては意味がなく、自分だけ突っ走る自転車みたいでは、ただはやく目的地に到達することだけが目的のようにしか聞こえません。
聴く側はその途中に繰り広げられる、さまざまな出来事や景色のうつりかわりを、演奏者の解釈やテンペラメントやセンスで見せてほしいもの。
こういう無機質なスタイルがなぜこれほどまでに若い人の間(というか指導者を含めて)に浸透してしまったのか、コンクール世代の後遺症なのか、情報浸けの副作用なのか、理由はともかく、せっかくの演奏能力をもっと有効に使ってほしいものだと思うし、実際なぜそうしないのか不思議です。
その対極の頂にいるのが、たとえば内田光子で、その一音足りともゆるがせにしない姿勢、品格、説得力、音楽の鼓動、そういう真に芸術たりうる演奏。こういう探求の道のあることをもっともっと深いところまで考えてほしいもんだと思います。
それでも、若いピアニストが続々と出てくるのは驚くべきことではあるけれど、どこかよく出来た大量生産のピアノのようで、音楽家としての熟成が足りないということを感じるばかり。
少なくとも、顔や名前より先に、その演奏が記憶に残るような人が出てきてほしいし、その演奏を継続して聴くため、顔と名前を覚えようとする、そういう順序であってほしいもの。
いま言っていることは、べつに実川さんだけのことではないのは言うまでもなく、彼はむしろ同世代の中ではまだ音楽的実感をもっているほうだとは思いますが、それでもまだまだ足りない。
演奏中のテロップには、今後はベートーヴェンのソナタ全曲を録音したいというようなことが文字で流れましたが(いくら時代が変わったとはいっても)ちょっとそれは口にするのが早過ぎるのではないかというのが率直なところ。
昔はベートーヴェンのソナタ全集を録音するということは、ピアニストとしてはかなり大それたことで、誰にでも許されることではなかった。
むろん技術的に弾けるかどうかの問題ではなく、作品に込められた内容を表現でき得るかどうかという、芸術家としての成熟や適性を厳しく問われました。
今では信じられないことですが、中期以降のソナタなど、そもそも女性が弾くものではないというような考えさえあって──中にはエリー・ナイのような人もいたけれど──概してそういった空気があった(それがいいとも正しいともマロニエ君はもちろん思わないけれど)という歴史的背景があったということぐらいは頭の隅に留め置いていいことだとは思います。
指揮者の世界も同様で、むかしのドイツでは中堅ぐらいの指揮者になっても、ベートーヴェンを振るチャンスなどめったになく、とりわけ第九などは一生振る機会などないと思っていたところ、日本からの招聘など外国から第九を依頼されると、本人が感激に震えたというような話も聞いた覚えがあります。
これらはいささか権威が大手を振りすぎている時代の空気のようにも思えますが、ベートーヴェンというものはそれだけ高く聳える山だということに充分な敬意をはらい、少なくとも修行時代に弾くのとは違って、プロとして録音なりコンサートで取り上げる場合は、ぜひ居住まいを正して取り組んで欲しいし、まして全曲ともなると、あまり安易に取り扱わないでほしいというのが個人的な希望です。
今は演奏の是非よりも能力が問われる時代なので、技術があって、暗譜力があれば、はいそれでステージ、はい録音という流れになるのかもしれないけれど、それって意味があるのかと思います。
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