お寺とピアノ

日本のお寺や神社で行われるクラシックコンサートは、否定しているわけではないけれど、あくまでも個人的な感覚から言わせてもらうとあまり好みではないことは以前何度か書きました。

今は何事も物珍しさや耳目を集めることが優先され、異なるジャンルを組み合わせるコラボがブームのようですが、お寺で西洋音楽のコンサートというのもそういった発想に基づくものが発祥ではないかと思います。
大半が仏教や神道である日本人が、何の抵抗もなくクリスマスやハロウィンを楽しむという世界的に見れば変わったお国柄なので、その許容量からすればこれしきのこと朝飯前なのかもしれませんが…。

ただ、西洋のクラシック音楽というものが、根っこにキリスト教が通底していることを思うと、マロニエ君としてはそれを仏教や神道の施設内で演奏してその音楽を鳴り響かせることが、理屈ではなしに抵抗があるわけです。
そもそもお寺や神社でクラシック音楽を聴いたからといって、そのどこが素晴らしいのかが素朴にわからない。
異なる文化の融合であるとか、なにかひとつでも感覚に落ちるところがあればまだしも、ひたすら違和感しか感じないのです。

それぞれが素晴らしいからといって、異質なものを安易に組み合わせることは、下手をすればどこか冒涜的な色あいを帯びる恐れさえあり、個人的には関係者だけの自己満足ではないかと思うのです。

それにつらなる話かどうかはわからないけれど、知人がとある大型ピアノ店に行ったときに聞いてきた話によると、中古のスタインウェイのコンサートグランドを購入するのは、宗教関連が少なくないのだとか。

それってどういうこと?って思いました。
お寺の本堂にスタインウェイDを置くのか、あるいは宗教家の個人的趣味なのか…。

それを解明する手がかりになるかどうかわからないけれども、お寺とピアノの組み合わせを偶然にもテレビで目にしたので、うわぁ!と思わず食い入るように見てしまいました。

某所の由緒ある由のお寺には、高台に付設された広い墓所があり、その管理室という建物に入って行くと浴室に温泉がひかれていたりするほか、そこには総檜造りというホールがあって、そのステージにはスタインウェイDとベーゼンドルファーが置かれていていました。

ここをドヤドヤと訪ねて行ったのは、名前は知りませんがテレビで顔を見たことのある4〜5人のお笑いタレントの一団で、彼らを迎えるご住職がえらく気さくで、芸人さんたちに調子を合わせながらピアノに近づき「これはドイツのスタインウェイというピアノです!」と言い出し、「プロが使うものです」さらには「これで家が一軒建ちます」などと自慢しながら、慣れない手つきで蓋を開けて、大屋根の支え棒の刺し場所もおぼつかないご様子。

もちろん安いものではないでしょうけれども、剃髪して、いちいち合掌のしぐさをする和尚さんが口にする言葉としては「家が一軒建つ」などとは大げさだし、いささか世俗臭が強すぎではないかという感じが否めませんでした。

そのピアノは1960〜1970年代のダブルキャスターになる以前の時代のもの。
塗装は新品のように塗り替えられており、その際に入れられたのか、当時のスタインウェイにはない大きなサイドロゴがついているのがいかにもな感じだし、しかもかなりまちがった低い位置に付いていて、それが却って中古ピアノといった感じを強調する結果となり、非常に「残念な感じ」に映りました。

さらにタレントさんのひとりが音を出してみて「うわー」とか言っていたけど、くたびれた弦が交換されていないのか明らかに伸びのない音で、要するに世界の二大銘器がおかれているという、ブランド性こそが大事なのかもしれません。

この墓所の横のホールでは、しばしば演奏家を招いてコンサートが開催され、その収益を貯めて某基金に寄付しているとのこと。
その際の「僅かばかりですが」という言葉が妙に意味深で、コンサートの収益そのものが僅かなのか、あるいはその中から本当に僅かばかりを寄付というのことなのか、どっちにも取れる言い方だったのが苦笑を誘いました。

結構立派なホールでしたが、もしあそこでバッハの宗教音楽なんかやろうとしたら、OKが出るんだろうか?
一流ピアノにも、実にさまざまな生涯があるんだなぁと思いました。
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本物は気持ちイイ

音楽評論はじめ、音楽関係の著述家の中にはマロニエ君がとくに好んでいる人は何人かいらっしゃいますが、そのうちの一人が青柳いづみこさん。
いまさらいうまでもなく、ピアニストと文筆業という二足のわらじを実現しておられ、しかもそれぞれにおいて高いレベルのお仕事を積み上げておられるのですから、その才には驚くばかり。

普通ならどちらか一つでもなかなか難しいことなのに、それを二つも成就させるとは!
二つの道に手を出すことは、どっちつかずになる恐れがあるいっぽう、うまく組み合わされば相乗作用が起こって、より注目を集めるということも稀にあるということが、この青柳さんの成功を見ているとわかります。

さらに青柳さんはドビュッシー研究者としても知られており、何かひとつのスペシャリストになるということは、活動の大きな背骨になるから大切なんでしょうね。
マロニエ君も青柳さんの著作は全部とは言わないまでも、それに近いぐらいはだいたいは読んでいますが、ドビュッシー研究で培われたものが随所で役立っていることを強く感じます。

研究対象であるだけに、ドビュッシーに関する造詣の深さは大変なものだし、自身がピアニストである強味から、ピアニストに関するいろいろな評論は、いま日本人でこれだけ緻密な分析力を持ち、闊達な文章に表現できる人はそうはいないだろうと思われます。
演奏と著述、そのどちらも大変素晴らしいものではあるけれど、マロニエ君の私見でいうと、著述のほうがより格上のお仕事となっているように思います。

CDも書作と同じく「全部」ではないけれど、ほぼ主要なものは購入して聴いています。
とくにドビュッシーについては青柳さんにとって半ば義務でもあるのか、ソロ・ピアノ曲はほぼ網羅されていますが、CDの演奏に関する限り、どれも信頼度が高く素敵な演奏だけれども、決定盤といえるほどの最上クラスというわけでもなく、どちらかというと曲によってムラがあるような印象があります。

一番びっくりしたのは「浮遊するワルツ」というアルバムに収められたショパンのワルツのいくつかで、これはまったくマロニエ君の理解の外にあるもので、ショパンのある意味本場であるパリのセンスからも距離を感じるもの。
とはいえ、適当にお茶を濁したような無難なだけの演奏をされるより、自分の趣味と合わなくても、びっくりさせられても、演奏者自身の感性と考えに裏付けられたものであるほうがよほどマシというもの。
合わないものは合わない、そのかわり抜群にいいものにも出会える、これが演奏芸術の醍醐味でしょう。

さて、わりに最近ですが、NHKの『らららクラシック』でドビュッシーの「子供の領分」が取り上げられたときに、ゲスト解説者兼演奏者としてスタジオにやってきたのが、この青柳いづみこさんでした。
番組の趣旨に合わせて、あまり専門性の高い解説ではなく、わかりやすく平明なお話をされていましたが、どんなに砕いて楽しくお話されても、その背後には確固たる知識と研究の裏付けがあって、当たり前ですがさすがだと思いました。

常連解説者として、よく大衆作曲家のような人(名前も覚えていません)が出てきては、やたら馴れ馴れしい口調で、さっき思いついたような根拠も疑わしい俗っぽい解説を、さも知ったような顔で述べたり、あるときはモーツァルトと自分をただ「作曲家」という言葉だけで、まるで同列のような言い方をするなど、見ているほうがいたたまれないような気持ちになることがしばしばだったこともあり、たまに青柳さんのような本物の方が出演されると、一気に番組の格も上がり、気持ちまでホッとさせられます。

子供の領分の最終曲の「ゴリウォークのケークウォーク」の中に、ワーグナーのトリスタンとイゾルデの前奏曲の冒頭の動機が込められており、しかもそれを茶化しているなんてことは、言われるまでまったく気づきもしないことでした。

番組の終わり近くで、スタジオのピアノでゴリウォークのケークウォークを通して弾かれましたが、少しだけリズムにクセなのか崩れなのか、細かいところまではわからないけれども、聴いていて僅かな違和感があって、それがやや首を傾げました。
おそらくフランス流にデフォルメされた、流れるような演奏を狙っておられるのだろうとは思うけれど、どこか辻褄の合っていないような後味が残るのが気になりました。
それでも、物事を極める人というのは本質的に気持ちが良いものです。
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小菅優

久しぶりにピアノリサイタルに出かけました。
小菅優ピアノリサイタルで「火」をテーマにした珍しいプログラムでした。

マロニエ君がコンサートに行かなくなった主な理由はいくつかありますが、その中には、ニュアンスなどまるで伝わらない劣悪なホールの音響、聴いてみたいと素直に思えるような演奏家の激減、さらには飽き飽きするようなプログラムはもういいというようなものも含まれています。

その点で、小菅さんは実演には接したことがないものの、ちょっと聴いてみたいと思わせるものがあったことと、FFGホールという福岡ではピアノリサイタルには最も適した会場であったこと、さらにはめったにないレーガーやストラヴィンスキーのプログラムであることでした。

コンサートは3部に分かれており、
【第1部】
チャイコフスキー:《四季》より1月「炉ばたにて」
レーガー:《暖炉のそばでみる夢》より、第3、5、7、10、12番
リスト(シュタルク編):プロメテウス
【第2部】
ドビュッシー:燃える炭火に照らされた夕べ、前奏曲集第2巻より「花火」
スクリャービン:悪魔的詩曲、詩曲「炎に向かって」
【第3部】
ファリャ:《恋は魔術師》より、きつね火の踊り、火祭の踊り
ストラヴィンスキー:バレエ《火の鳥》より6曲

小菅さんの素晴らしいところは、今どき巷にあふれているスタイル、すなわち他者の演奏スタイルの寄せ集めではなしに、あくまでもこの人の感性を通して出てくる演奏の実体があり、その意味でニセモノではない点。
これは冒頭のチャイコフスキーを聴いただけでもすぐに感じました。

くわえて抜群のリズム感とメリハリにあふれ、音楽を自分の技巧その他の理由によって停滞させることがなく、どの作品もひとつの生命体と捉えて一気呵成に弾き進んでいくところでしょうか。
それはそのあとの難曲でも遺憾なく発揮されるこのピアニストの美点でした。

どの曲においても解釈やアーティキュレーションに確信があり、恐れなくピアノに向かっているからこそ可能な燃焼感があるのが印象的で素晴らしい。
中途半端な解釈を繋ぎ合わせて、辻褄あわせや言い訳だらけのつまらないピアニストが多い中、この点は抜きん出た存在だと思います。
さらには技巧の点でも危なげない指さばきで、この日のようなしんどいプログラムでもほとんど乱れることなく、一貫してホットに弾き通せる抜群の能力があることはしっかりと確認できました。

並大抵ではない高い能力をお持ちのピアニストであることは間違いありません。

気になった点を敢えていうと、終始音楽に没入して活き活きと演奏されているけれど、悲しいかな音に重みと芯がない。
緊張感あふれる際立ったリズム感、それを支える身体の動きなどは、ほとんどアスリートに近いような抜群の運動神経があり、敏捷な小動物のように両腕と指が自在に鍵盤上を駆け巡るさまは特筆すべきものがあると思いました。
けれども、いくら小気味良く駆けまわっても音に芯がないから、音が分離して聴こえてこないことがしばしばで、せっかくリズムや呼吸がすばらしいのに明晰さが損なわれ、音楽がしっかり刻印されないまま終わってしまうのを感じました。
巻き舌の多すぎる、アメリカ人の早口の話し方のように。

小菅さんの音に関しては、小柄ながらもしっかりした体格や、ピアノのためには充分と思えるだけの肉のついた腕からすれば、意外なほどその音には期待するだけの厚みがないのは、おそらくは手が小さいことと、手首から先の骨格が柔らかすぎるのではないかと想像しました。
手首から先の(すなわち指の)関節が柔らかいと、それが無用のクッションになって、いざというときにしっかりした音の出ないピアニストはわりに最近目立ち、ラン・ランやユジャ・ワンなどもどちらかというとそのタイプだろうと思われます。

それにしても、あれだけ耳慣れない、しかも難曲ばかりをきっちりと仕上げて、暗譜でリサイタルで弾くというのは並大抵のことではない、その能力には素直に脱帽です。

惜しいのは、けっして表現は決して小さくないのに、それが聴衆にとって大きな印象へと繋がっていないところで、なぜか心に刺さりません。
堂々たる小動物とでも言えばいいのか、あとひとつふたつの問題がクリアできたら、もっと大きな存在になられるような気がしてなりませんでした。
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テンポ

テンポというものは、なにも音楽だけのものではないのは当たり前で、話し方や、行動、思考回路などすべての人間の行動原理と深く結びついているもの。

それがわかりやすく出るのが、まず話し方、あるいは仕事や作業の手順、料理の手際とか車の運転のような気がします。
さすがにマロニエ君も最近の運転は、無謀な動きの自転車など路上に怖いものがあまりに多すぎて、以前よりはぐんとスピードが落ちましたが、それでもメリハリみたいなものがないと気が済まない部分があります。

たとえばスピードには本能に直に訴えてくる魅力があり、決して暴走行為的な意味ではなく、ドライビングがもたらす痛快さにずいぶん楽しんだ時期がありました。
車に興味のない人や運転が好きではない人は、そう急がなくても何分も変わりはしないといったことを言われますが、べつに急いでいるのではなく、爽快なスピードや機敏な動きで車を操ることを楽しんでいるわけで、これはある意味で音楽と相通ずる本質を有しているように思います。

音楽にも和声の法則や導音といったものがあるように、車の動きにも「こうなったら、必ずこうなる」という法則やシーンはいくらでもあるのですが、最近の道路環境ではどうもそういうことが崩壊しつつあるように思います。
狭い道で離合する際は、その場の状況に応じて、どちらがどう動くのが最も合理的かを互いにすぐ了解しあうとか、二車線あって、前にのろのろ走る車があれば、流れの良いレーンに車線変更するのは、マロニエ君にすれば音階でシになればどうしてもドに行き着くのと同じ意味を持っていますが、そういう感覚のまったく無いらしいドライバーがここ最近かなり増えました。

あまりに周囲から浮いたような交通状況に無頓着な動きで、よほど運転に不慣れな高齢者などかと思いきや、追い抜きざまにチラッと見るとやたら若い男性が真面目な顔で運転していたりしてエエエ!と驚くことがありますが、さすがに最近はそのタイプにもだんだん慣れてはきました。

いっぽう、若い人の演奏で、テンポ感や呼吸感、センシティブな反応の欠如を感じるのは、根底にあるものがきっとこういう無反応な運転をするのと同じでは?と感じることがしばしばあります。
演奏技術は文句なく素晴らしいのに、冒険もはみ出しもなく、借り物のような表情をつけるだけで、まるで語りになっていないのは、やはり感覚や本能から湧き出るものが欠けるせいなのか。

世の中はスピード社会などというけれど、逆にやけにのんびりした人が多いのもマロニエ君にしてみれば不思議です。
やたらとスローテンポで、ひとことするのにかなり時間がかかったりするパターンも少なくない。

同時に、マロニエ君は自分ではせっかちな面があるというのも認識するところ。

メールの返信など、人によっては間に何日も置いて、忘れたころにいただくことがありますが、こういうテンポ感が苦手で、べつに急ぐ内容ではなし、むろん相手が悪いわけでは決してないのですが、自分との波長が噛み合わず、無用のストレスを感じてしまったりはしょっちゅうです。

たとえば、今度会いましょうとか食事しようとなった時も、マロニエ君はできることならすぐに日にちを決めてしまいたいし、それも基本なるべく早い時期が好ましいのですが、これがまたやたらと気の長い人がいらっしゃいます。
もちろんお互いの都合にもよるけれど、人によっては「今月は忙しいので来月の…」とか、ただちょっと食事でもしましょうというだけなのにひと月も先の予定にされる人がいて、そういうとき内心ではもうすっかり意欲が失せて、じゃいいです!と言えるものなら言いたい、そんな性格だったり。

物事には気分的にも鮮度の落ちない、ほどほどのタイミングってものがあり、昔のほうが「鉄は熱いうちに打て」だの「善は急げ」だのと、キビキビしたテンポを大事にする風潮がありましたが、今はちょっとした約束ひとつするにも、なんだか手続きがややこしくて、言葉ひとつにも妙に注意して譲り合わなくてはならず、こうなると当然ノリが悪くなってしまうのは否めません。

なので、たまに時代劇などで、江戸っ子の意味もなく短気で、毒舌で、年中青筋立てて怒っているような、ほとんど感性だけで生きているような人がいますが、その滑稽な中にもどこか懐かしさや共感を覚えてしまいます。
もうすこし生き生きできたら、世の中もずいぶん楽しいものになるだろうにという気がします。
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似合いの音

音楽評論家の故・宇野功芳氏が、著書『クラシックの聴き方』の中での山﨑浩太郎氏との対談で、バレンボイムのベートーヴェン交響曲全集について触れておられました。
「すごく褒める人もいるが、僕は全然買わない。」としていて、さらに「とくに何があるかというと何もないし、響き自体が汚い。意味がない。」と手厳しく続きます。
オケはベルリン・シュターツカペレですが、山崎氏も批判的で、要約すると「シカゴ響のような機能性の高いオケを使わず、響きを整えられないシュターツカペレのような雑然とした響きがベートヴェン的だとバレンボイムは考えている気がする。様式の模倣に過ぎず安易」というようなことを言っておられます。

とくに宇野氏の主張は、バレンボイムのピアノにもそっくりそのまま当てはまることで、マロニエ君は昔からなぜ彼があのように一定の評価を得て、第一線の演奏家として生きながらえていられるのかがまったくわかりませんでした。
お好きな方には申し訳ないけれども、何もない、響き(音)が汚い、意味がない、はピアノでもまったく同様。

上記の交響曲全集は、バレンボイムの価値がわからないマロニエ君としては、指揮なら多少マシなのか?と思って、ずいぶん前に買ってみたようなあまりはっきりしない記憶があったので、CD棚を探してみるとやはり「あった」ので、我ながらずいぶん奇特な買い物をしたもんだと呆れながら、はてさてどんなものか恐る恐るプレーヤーに入れてみました。
全部を聴く気は到底ないので、とりあえず「英雄」を鳴らしてみると、宇野氏の言われる以上にまったく真摯な姿勢の感じられない、作品の表面だけをなぞったような、やる気あるの?これを褒める人がいるの?と思うような腑抜けな演奏に仰天。
神経にもあまりよくないので、第一楽章の途中でやめてしまい、CDは再び棚の奥深くへと戻しました。

ただし、この対談の言葉の中に、ちょっと気になるものがあったのも事実。
それは「雑然とした響きがベートヴェン的…」というもので、この対談では、それがバレンボイムの選択の誤りとして述べられてはいたものの、マロニエ君としては「場合によりけりだけど、それはあるかも」という思いが頭をよぎりました。

ピアノの場合、現代の整った美音のスタインウェイで奏されるベートーヴェンは、その音楽の内容とか特有の書法に対して、あまりに整然としたスマートなトーンすぎて、なにか物足りないものが残ることも個人的には感じていました。
かといって、バックハウスのようにベーゼンドルファーを使えばいいのかといえば、そうとも思わない。
グルダは昔はベーゼンドルファーでよくベートーヴェンを弾いていたようだけれど、録音ではスタインウェイだし、シフは全集の中で曲に応じてスタインウェイとベーゼンを使い分けているし、敢えてベヒシュタインを使うピアニストもちらほらいる。

そこでふと思い出したのが、オーストラリア(オーストリアではない!)の手作りピアノメーカー、スチュアート&サンズを使ったベートーヴェンのピアノソナタ/協奏曲全集。
演奏はジェラルド・ウィレムス(ジェラール・ウィレム?)で、非常に正統的な安定した演奏ですが、注目すべきはその音色です。

久々に聴いてみたら、むろん演奏にもよるだろうけれども、概してベートーヴェンにはこういうオーガニック野菜みたいな音のほうが単純にサマになると思いました。
一聴したところはドイツピアノのような感じが色濃く、個人的な印象としては、ブリュートナーとベーゼンドルファーを合わせたような感じで、基本的には木の音がするけれど、ほわんと柔らかい音ではなく、むしろエッジの効いた鋭く切り込む感じのピアノ。
さらには、ほどよく野暮ったさが感じられる音で、都会的なスタインウェイはじめ、今どきのヤマハやファツィオリとは真逆の、自然派ピアノとでも呼びたくなる音です。

あまりに整った美音ずくしで奏でられるベートーヴェンには、どこか落ち着かないフォーマルウェアで締めつけられたようなよそよそしさがあるけれど、スチュアート&サンズで弾かれるとそういう違和感がなく、より自然にベートーヴェンの世界に入っていける心地よさがありました。

やはり人それぞれ似合いの服や家や車があるように、似合いの音というのがあるんだなぁと感じたしだい。
それにしても、バレンボイムっていったいなんだろう?

ちなみにスチュアート&サンズ(Stuart&Sons)はたしか97鍵で奥行きも290cmぐらいある手作りで木目の大型ピアノで、マロニエ君は昔、結構苦労してこのCDを手に入れましたが、今はYouTubeなどでも音を聴くことが可能になりましたので、よろしかったらどうぞ。
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