いやはや…

某日某所、あるピアノのコンサートに行ったのですが、その会場のピアノがあまりに冴えないもので、いまどきこういうこともあるのかとびっくりしました。

そこは多目的スペースなどではなく、プロの音楽家のための施設であるし、ピアノも世界的ブランドのコンサートグランドであるだけに、その驚きたるやいやが上にも大きなものになります。

あれではピアニストも思い通りの演奏はできなかったと思うし、聴かされる側にとっても、およそピアノの音や響きを楽しむという期待からかけ離れたものになりました。
作品の素晴らしさ、演奏の魅力、コンサート会場で生演奏につつまれる喜び、そういうなにもかもがピアノによって多くが堰き止められてしまったようで、欲求不満と不快感ばかりが募りました。

良い音楽を我々聴衆側が受け取るのは、優れた演奏はもちろん、楽器という媒介あってこそであり、そのためにはまず一定水準をもった楽器の音が聴こえてくるという基本が満たされない限り伝わりようもないし、それが阻害されるということは、それだけでかなり精神的に疲労してしまうものだというのがよくわかりました。

なによりも気の毒なのは、本番へ向けて準備をし、練習を重ね、全力を賭して当日を迎えてステージに立つピアニストであって、そのすべてを託すべきピアノに問題ありでは、なんと報われないことかと胸が痛みました。
こんなことならメーカーは何でもいいから、まともなピアノを弾かれたらずいぶん違っていただろうと思うと、ただただ気の毒というか残念でした。

休憩時間には、すぐ近くにおられた知り合いの方が「ぼくの耳がおかしいのかもしれないけれど、この会場とピアノがどうも合っていない気がする…」と言われました。
きっと、多くの人が違和感を持たれたことだろうと思います。

どういうピアノかというか、まず単純にピアノがまるで鳴らない。
音はうるおいなく痩せこけ、普通に弾いてもショボショボしているし、fやffになると音が割れて、ペチャンとした衝撃音になるだけ。
ピアノの音の美しさはもとより、本来あるべきパワーも響きもまったく失われていました。

ある人は「あそこのピアノは古い感じがした」となどといっているらしいのですが、それほど古いピアノでもなく、適切な調整と管理がされていれば十分に現役として通用する筈の、本来は立派なピアノ。
いずれにしろ、みんながなにかしら違和感を持っているようです。

休憩時間によく知る調律師さんに会ったので、思わずややトーンを落として「あのピアノ…」と言いかけたところ、その方はこちらの言いたいことを十分以上に察しておられるようで、ゆっくり頷いて、その表情が異様なほどの笑顔になりました。
あれこれの言葉より、その無言の笑顔がすべてを語っていました。

ピアノの業界も、いろんなことが渦巻くデリケートな世界というのはそれとなく知っていますが、どのような理由があるにせよ、その結果として迷惑を被っているのは演奏者であり聴衆なのですから、こんな状況はとても納得できません。
ピアノが泣いています。
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ギーゼキングのバッハ

自分でも意外でしたが、よくよく考えてみたらこれまでにギーゼキングのバッハというのは、なぜかご縁がなく聴いたことがありませんでした。
あれだけモーツァルトやラヴェル、ドビュッシーなど長年にわたって聴いてきたのに!

たまたま店頭で、ドイツグラモフォンによるギーゼキングのバッハ全集という7枚組のセットが目に止まり、「これはなに!?」ということになって直ちに購入。

平均律全曲、6つのパルティータ、フランス風序曲、2声3声のインヴェンション、そのたイタリア協奏曲や半音階的幻想曲その他で、ボーナストラックとして戦時下のライブとして有名な、フルトヴェングラー/ベルリン・フィルとのシューマンのピアノ協奏曲が収められています。

録音データによると、CD7枚におよぶバッハは1950年の1月から6月にかけて放送用として収録されたもので、正式なレコードとして残されたものではないのかも。
もともとギーゼキングは譜読みが得意な人としても有名で、移動中に読んだ楽譜を到着後すぐに演奏したとか、驚くべき数の初演をしたことでも知られていますから、これぐらいのことは普通にやってのける人なのかもしれませんが、やはり凡人としては驚くばかり。

また、本当かどうかは知らないけれど、ギーゼキングという人はあまりになんでも易易と弾けるものだから、練習量もかなり少なく、録音に関してもあまり真面目さがなかったというようなことが伝えられています。

そのせいかどうかはわからないけれど、はじめに平均律第一巻を聴いたところ、あまりパッとせず、ただ弾いているだけという感じがして、バッハはあまり好きじゃなかったのかなぁ?ぐらいの印象を持ちました。
ところが途中からだんだん訴えるものが出始めて、それ以降はいかにもギーゼキングらしい、力まずサラッとした語り口の中に、ツボだけはカチッと押さえていく魅力的なものに変化して(ように感じた)、以降は終わりまでとても素晴らしい演奏で聴き終えることができました。

二度目三度目と繰り返すうちに、凄みのようなものすら感じるようになり、初めの印象は見事にひっくり返りました。
思うに、最近の演奏家はバッハの平均律などというと、この競争社会の中で録音として残す以上、出来得る限りの最高クオリティの演奏を目指し、熟考を重ね何度も録り直しなどして、まさに正装し威儀を正して写真を取るような演奏になります。

ところがこのギーゼキングときたら、ごく気軽な調子とは言わないまでも、その演奏には気負いなどというものはまるで感じられない、演奏そのものが脱力している稀有なもの。そのあまりにもサラッとした感じが、はじめ耳が慣れず、パッとしないような印象になったのだろうと思います。
で、ひとたび耳が慣れていよいよ聴こえてきたのは、アッと驚くような信じられないようなものすごい演奏で、アルゲリッチも真っ青な驚異的な指さばきと、それを一切ひけらかすことのないスマートな表現によって、めくるめくバッハの世界が際限もなく続きます。

自分ではギーゼキングはそれなりに知っているつもりのピアニストだったのが、この一連のバッハを聴いたことで改めて衝撃を受け、これほどの天才とは思いませんでした。
その人間業とも思えない音の奔流は圧巻という他はなく、しかもすべてが自然で自由自在!
すっかりハマってしまいました。

曲によって出来不出来があったり、ミスが散見されるあたり、それほど真面目に録音したものではないことが察せられ、それでもこれほどの演奏になってしまうのかと思うと、却ってその凄さが引き立ってゾクゾクっとしてしまいます。

しかも才をひけらかすでもなく、淡々と(しかし恐るべき推進力をもって)進行し、それが途方もない濃密さにあふれている。
これだけの天才がさも自然のような姿をしているという点では、モーツァルト以外にはちょっと思いつきません。

これからも長く聴いていきたいCDになりそうです。
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版より大事なもの

楽譜選びについてよく耳にすることですが、先生から❍❍版を買いなさい、ショパンなら❍❍版じゃなきゃダメというような指示を受けることが少なくないとか。
それは基本として大事なことではないと云うつもりはないけれど、もっと大切なことは、いかに有意義な練習を重ね、解釈を極め、深く美しく演奏するか、聴く人にとっても喜びとなるような演奏を目指すことではないかと思います。

楽譜って経験的にこれはダメというような粗悪品はめったにないから、普通に売っているものを普通に使うぶんには充分だというのがマロニエ君の持論です。
昔から受け継がれているものも多く、それはそれなりで、そうそう決定的に間違ったことが書いてあるわけでもなく、別に先生が言われるほどの必要性をマロニエ君は感じません。

もちろん音大生やコンクールを受けるような何かの条件下にあれば、ショパンなら使用楽譜はナショナルエディションという指定があって、それに沿った準備をしなくてはいけないでしょう。
しかし、少なくともテクニックも不足ぎみの大多数のアマチュアが、大人の余技としてピアノをやる場合、先生の役割というのはいかに演奏を通じて音楽の表情を作るか、そのためのツボや要所はどこにあるか、また陥りがちな悪いクセを正すにはどうすべきか、そういうことのほうがよほど重要だと思うのです。

どうせ楽譜を買うのに、よりオススメの版の楽譜を買うようにアドバイスするのは結構ですが、ではその先生達はどの版のどこがマズくて、オススメの版ならどういうふうにいいのか、具体的に説明できる人はどれぐらいいらっしゃるのか、それほど「わかって言ってるの?」って思うのです。

昨今は楽譜も作曲者の直筆譜や資料を検証し、そこから掘り起こしたまさに原典主義であって、それは一面において正しいことではあるけれども、個人的にはいささか行き過ぎた風潮であるとも思うし、奏者の主観や解釈の介入を否定し、プロの演奏家でさえ自己を抑えて学術的な流れに従おうという流れにも疑問を持っています。

少し前のいろいろな版には、とくにアマチュアが弾くぶんには校訂者による親切なヒントがあったり、美しい演奏として仕上げるための有効な指示が添えられていたりで、これはこれで別に悪くないと思うのです。

ところが、そこまでこだわって最新トレンドに沿った楽譜を買わせるわりには、その指導内容は杜撰で、ただ音符通りに鍵盤を押さえているだけで、せいぜい強弱の指導をするぐらい。
作品や音楽に関する言及、あるいは音楽的に奏するためのヒントや理由やテクニック指導はなく、物理的に指を動かせるようになったら「次の曲」になることがあまりに多いという現実。
指導の具体的内容を聞くと、そんなことのためにレッスン料を払って通っているのかと驚くばかりだったり…。

曲の譜読みをして練習を重ねる、ひと通りの暗譜ができる、なんとか音符通りに動くようになる、そうしたら、そこからがいよいよ音楽を深めるための入り口にようやく立つことができた段階で、一番大事なことはまさにこれからというところで「次」というのは、アマチュアを見くびっているのか、はたまたその先にある芸術領域については指導する自信がないとしか思えません。

生徒のほうもそこまで望んでいないということもあるかもしれないので、そこで先生と生徒の関係が成立しているのだったらそれでいいのかもしれないけれど、だったらなぜ版にこだわってわざわざ高額な輸入楽譜などを買わせるのか、そのあたりの意味がまったくわかりません。

青澤唯夫著の『ショパンを弾く』の中で、ホルヘ・ボレットの言葉が引用されていますが、一部を要約すると「まず楽譜を忠実に勉強して、メカニック的に完璧に弾けるようにする。二三週間後にまたレッスンをし、以前よりよく弾けていたら、一度くずかごに捨てて(つまりそれらを忘れて)、あたかも自分が書いたように演奏させる」という意味のことが述べられています。

これはあくまでも一例にすぎないけれど、いい演奏というのは、そうやって深いところにあるものを繰り返し探し求めて、自分なりの答えを見つけ出すことであって、暗譜して指を動かすだけでは決して深化はしないと思います。

マロニエ君としては、使用楽譜がいかなる版であろうとも、それをもとに仕上げのクオリティを徹底して向上させること、自分の力の範囲でこれ以上はムリというところまで極めることのほうが圧倒的に大事だと思うのです。
繰り返しますが、版がなんでもいいと言っているのではないけれど、それに値する高度な指導がなされているのか、もっと大事なことは他にあるのでは?と言いたいわけです。
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有名曲を並べると

過日のこと、友人と立ち寄った古本屋で、ショパンとジョルジュ・サンドのことを綴った1冊の本が目に止まりました。

まだ読んではいないのですが、アシュケナージとアルゲリッチによる76分におよぶCD付きで、傷みはほとんどないのに価格はわずか186円!だったので、ろくに吟味もせず買ってしまいました。

とりあえず先にCDを聴いてみることに。
曲目は、ある程度予想はしていたものの「うわあ!」と思うほど超有名曲ばかりで、大半が「雨だれ」「子犬」「革命」「幻想即興曲」といったたぐいの曲ばかりベタベタに並んだものでした。
第1曲目がワルツ第1番「華麗なる大円舞曲」とくれば、およそどんなものかご理解いただけるでしょう。

ま、ほとんどタダみたいな感じのものだから、どういうものでも割りきっているつもりでしたが、聴き進むうちに思いがけない状況に陥ったことは想像外でした。

どの曲もよく知るものというか、大半は下手なりにも自分で弾いてみたことのある曲なのに、こうしておみやげ屋の店先みたいに並べられてみると、ある種独特な雰囲気が出てくると言ったらいいのか、ひとことでいうと独特の俗っぽいイヤ〜な感じに聴こえてしまい、これには参りました。

それぞれの曲のひとつひとつは素晴らしい作品であるのに、抜きん出てポピュラーというだけで脈絡もなく並べられ、手当たり次第に聴こえてくると、もうそれだけでひどく日本的な妙ちくりんな世界になるんですね。

2曲目はノクターン第2番、続いて別れの曲、幻想即興曲、さらには遺作のノクターンとなっていくあたり、なんだか皮膚の表面がむず痒くなって体中に広がっていくようです。
まるでルノワールの複製画でも飾った、レースだらけの部屋にでも通され、へんな花柄のカップで紅茶でも勧められた気分。

この調子がずっと続いて、15曲目がバルカローレで終わります。
とくに前半はアシュケナージが7曲続き、こういう場合、彼の中庸な演奏が裏目に出るのか、ほとんど安っぽいムード音楽が聴こえてくるようで、だったらいっそ本物のムード音楽ならいいのに、なまじそれがショパンであるだけに、却って始末に負えない感じになっています。

とはいえ、作品や演奏に手が加えられているわけでもなく、ただ単に曲のセレクトと並べ方によるものだけで、こんなにも印象が変わってしまうというのは「本当に驚き」でした。
世にショパン嫌いという人は少なくないけれど、マロニエ君はどうもそれが今ひとつ理解し難いところがあったのですが、仮にこういう角度から見るショパンなら、たしかに納得ではありました。

こんなCDを聴いたら、きっと多くの人がショパンを手垢まみれの通俗作曲家のように思えてしまうだろうから、かえって罪作りではないかと思います。
すくなくともあれだけの高貴かつ濃密に結晶化されたショパンの世界はわからなくなっていたように思うわけです。

ピアニスト(あるいはレコード会社)が魅力あるアルバムとしてセレクトしたショパンアルバムというのはあるし、それでとくにどうとも思わなかったのですが、それらとは明らかに似て非なるもの。
このタイプの独特な強烈さがあることを知っただけでも勉強になった気はします。

折しもこのところ、アルトゥール・モレイラ・リマ(ブラジルのピアニスト 1965年ショパンコンクール第2位)のショパンが聴いてみたくなり、むろん廃盤なのでアマゾンなどを探したところ、あるのはいずれも上記と似たような内容の「名曲集」ばかりで、今回の経験に懲りて購入意欲が失せてしまいました。

のみならず、本も読む意欲が半減していまいましたが、とりあえず読んではみるつもりです。
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プロの資格

ピアニスト中井正子著『パリの香り、夢みるピアノ』というのを読みました。
パリ音楽院に留学された経験をあれこれ綴ったもので、少女趣味的な淡いタイトルから想像するより、はるかに読み応えのあるしっかりした内容の一冊でした。

70年代の頃のパリをはじめヨーロッパの雰囲気がよく出ており、飽きることなく一気に読みました。
カサド夫人である原千恵子さんとの交流、パリ音楽院の教授陣のイヴォンヌ・ロリオ、ジェルメーヌ・ムニエらによるハイレベルのレッスン、また同じクラスにロラン・エマールやロジェ・ムラロなどがいたというのも驚きでした。

その中で印象に残ったもののひとつとして、中井さんがパリでとあるサロンコンサートを終えた時、その場にいた原千恵子さんがお客さんに向かって「どうだった?」と問いかけたというくだり。
原千恵子さん曰く「演奏家っていうのはね、人がどう思ったかを知らなくちゃいけないのよ。その人がちゃんと演奏を聞けているかどうか、正しいか正しくないかは関係ないの。自分が弾いたものに対して相手がどう思ったか知っておきなさい」と言われたとありました。

これは原千恵子さんが長年ヨーロッパで暮らし、夫のカサド氏から鍛えられ、そのような文化の真っ只中におられたからこそ身についたことだと思いますが、マロニエ君の知るかぎりでも、ヨーロッパ人はちょっとしたものから料理、日常の諸々のことまで、「あなたはどう思う?」「あなたは何が好き?」と意見を求めてくることがとても多いし、自分の意見を語るのが当たり前。

その真逆が日本人。
考えがあっても、感じることがあっても、意見を言いたくても、空気を読んで口をつぐむことが慎ましさであり美徳で、今ではそれが大人の常識として浸透してしまっているその感覚。
自分の意見は言わない、言える環境がない、言ったら浮いた存在になる、これは日本生まれ日本育ちの日本人であるマロニエ君から見ても違和感があり、ほとんど病的な感じがします。

そんな社会の延長線上にあるのだろうとは思うけれど、それは思わぬところにまで波及しています。
それはいうまでもなく、プロの分野。
ここでも、個人の意見や感想は、その暗黙の空気感によって見事に封殺され、それらは口にしないことが当然で、演奏家に対しても本音は隠して、「素晴らしかった」などヘラヘラと表面的な賛辞を挨拶として述べるのみ。

少なくともプロの芸術家の端くれともなれば、自分の作品やパフォーマンスに対する意見を聞きたいと思うのは当然というか、文化に携わる者はそれを欲することがほとんど「本能」の筈だと思うのですが、それが日本ではそうじゃないことに、いまだに驚きます。
かつて、日本人の演奏家から「どうでしたか?」という質問をされり「あなたの意見を聞かせてほしい」といった言葉を聞いたことは一度もありません。
これって、実はめちゃめちゃおかしいことではないですか?

いやしくもプロとしてステージで演奏するというパフォーマンスをやっておきながら、聴いた人にまったく意見を求めない、むしろ聞きたくないという気配があり、非常に歪んだ感覚で、これは異常なことだと断じざるを得ません。

そもそも感想というのはただの賞賛でも批判でもなく、どういうふうに受け止められたかということでもあるし、自分の演奏上の長所短所を知ることにも繋がります。いわば自分の演奏に関する重要な情報源です。

そこに耳を貸そうともせず、興味もなく、むしろフタをしようというのであれば、そもそもなんのために人前で演奏行為に及ぶのか、その根本がわからなくなります。
ただ、目立ちたいだけ?自慢?実績作り?

音楽が間違いなく行き詰まりを見せていることはいろいろな理由があるでしょうが、ひとつにはこのような演奏家自身の閉塞状況、真に良い演奏を目指し、音楽ファンを楽しませようという本気がないことも大きいように思います。
日本の演奏家は、意見を言われるのはイヤ。でもステージに立って賞賛はだけはされたいという、甚だ身勝手で一方的な欲求をもっているのは間違いありません。

これでは本物の演奏家など育つわけがありません。
アマチュアの発表会ならお義理の拍手だけで終わって構いませんが、プロの演奏家はもっと自分の演奏に責任をもつべきで、その責任をもつということは、もちろん良い演奏をすることではあるけれど、聴いた人の忌憚のない感想を求めなければ責任を果たしたとはいえない気がします。

聴いた人がどう感じたか、良くても悪くても、気にならないのかと思いますし、それが聞きたくないほど嫌ならば人前で演奏なんてする資格はないと思います。
それでは今どきの、親から一度も怒られたことのない子どもと同じで、聴いた人の意見を受け付けないプロは、プロではないということです。
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イケメン◯◯

昔は「美人何々」というのがよくあったけれど、最近ではどんなジャンルにも「イケメン何々」のオンパレード。

社会の建前として、人の容姿を問題にすることに対する賛否はあるでしょうが、現実には人の心の中では、それはかなり重要な要因となることは間違いないこと。
直接的なイケメンとは違うけれど、例えばその代表は総理大臣。

政治手腕や思想や、しっかりした能力がなくてはむろん困るし、リーダーとしての人間的魅力も必要ですが、要は国の顔であり、国際社会で世界の目にさらされて仕事をするのですから、やはりビジュアルというのは大事です。
誰とは言いませんが、過去の日本の総理には、サミットに行ったり外国の首脳と並ぶだけでも恥ずかしくなるような(それだけで負けたような気になる)人が、少なくともマロニエ君の記憶でも何人もおられたので、まずその点では、安倍さんはそういう気持ちにならずにすむのはありがたい。

ただ、一般社会のいろいろな分野の、本当にどうでもいいような場合にまで、いちいちイケメン何々というのはなんなのか…と思ってしまうのも事実。
もちろん見てくれがよく魅力的であるならそれに越したことはないけれど、それも場合によりけりで、本業に直接関わりのない場合に、むやみにこれをつけるのはいかがなものかと思うことがあります。

ことろで、イケメンってなんのこと?おもに顔?それとも醸し出す雰囲気を含むトータルなもの?
マロニエ君にいわせれば、男子の場合、そこには体格もあるのではないかと思います。
どんなに立派なお顔でも、肩幅の狭い貧相なボディに大きな頭部がドカンと乗っていたのでは、あまりイケメンとは言い難い気も。
大谷選手がアメリカに行っても目を引くのは、むろんその天才的な戦力故であるのはもちろんだけれども、加えてあの日本人離れしたのびのびした体格は見るたびに感心させられ、あれを見ると一瞬でも日本人の体格コンプレックスを忘れていられるところが嬉しいです。

ところで、マロニエ君のような昭和生まれの人間から見れば、今どきのイケメンの基準というものが理解不能である場合が少なくなく、そもそもその判断は少し甘すぎやしないか、いくらなんでもおかしいんじゃないかと思うことがしばしばです。

美人の基準も源氏物語のころからすれば全然違っているらしいから、人の美醜に関するものさしは時代とともに変化して、イケメンの基準もここ数十年でかなり違ってきているのかもしれません。

それはともかく、クラシックの演奏家にいちいちそれをくっつけるのはどうなんでしょう?
不況にあえぐ音楽事務所やレコード会社が、少しでもプラスの特徴になることをアピールしたいのだとすれば、まあそこはビジネスなんだからわからなくもないけれど、でもやっぱりこの分野は演奏こそが第一であって、そこに注目のポイントがあると思うのです。
ではまったくビジュアルが無関係かといえば、それはそうではなく、演奏の素晴らしさを納得させるだけの存在感とか芸術的な雰囲気みたいなものは必要だろうと思います。
強いていうなら、オーラのようなものとでも言えばいいんでしょうか。

少なくともクラシックの演奏家に対して芸能人の延長線上的なノリで、やたらとイケメンの文字が踊るのはちょっといただけません。
少し前に書いた、ピアニストの実川風さんも「イケメンピアニスト」として紹介されましたが、たしかにこの方はそう言われても違和感はなく、いちおう納得ができました。

でも、それ以外でイケメンと言われて、え、どこが?とびっくりするような人だったり、痩せこけた不気味な植物のようだったりと、基準そのものに唖然とすることが少なくありません。

ただ、これだけははっきり言っておきたいことは、美人バイオリスニストだのイケメンピアニストだのということは、却って彼らの足を引っ張ることになりはしないかと思います。
かのアルゲリッチのような美人でさえ、美人ピアニストなどという言葉で売りだしたわけではなく、ごく若いころに「鍵盤のカラス」といわれたぐらいで、あとはあの美貌で語られることはなく、本物の天才は、美人でも美人とは言われなくて済むものだというのがわかります。
逆にちょっとぐらい容姿が良くても、それをプラス要素として強調されているうちは、演奏家として中途半端だということでしょう。
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