島村クラシック店

島村楽器は毎年、博多駅ターミナルビル内のイベントホールで大規模な「ピアノフェスタ」というのをやっていましたが、気がつけば天神でも開催されるようになり、7月に続いて11月も「ピアノフェスタ福岡2018winter」というのをやっているというので、せっかくなので連休中に覗いてきました。

駐車場がどこも満車なので、空きが出てくる18時近くに行ってみると、会場はえらく静かな雰囲気でした。
お客さんよりお店の人の数のほうが圧倒的に多く、これじゃあ気の弱いマロニエ君は音なんぞ出せません。
とはいっても、グランドに関しては置かれているのは大半がヤマハ、それも売れ筋のC3の中古が5台とか、それ以外もこれといって興味を覚えるようなものは今回は見当たりません。

営業のお姉さんがほどよい感じで話しかけてきますが、その会話の中に「今度、ももち店というのがオープンしまして、そちらには…」というので、ん?なに?と思ったら、これが思いがけない情報でした。

ソフトバンクホークスの本拠地であるヤフオクドームの目の前の商業施設が新しく建て替えられて、マークイズという商業施設に生まれ変わってオープンしたというニュースをテレビでやっていましたが、そこに島村楽器の福岡ももち店ができて、アコースティックピアノを専門に扱う「クラシック店」ができたというのですからびっくり。

だいたいマロニエ君は、この手の商業施設というのにあまり興味はなく、どれだけ鳴り物入りで新しくできたとて、しょせんは似たりよったりの同じような店がまたかという感じで入るだけで、もういいかげんあきあきしているので、まず行ってみる気はなかったし、もし行くことはあっても当分先だろうぐらいに思っていました。
まさかそこに、島村楽器の「クラシック店」ができているとは知りませんでした。

オープンからまだ数日、しかもはじめての連休とあって相当の人出のようだけれど、夜になれば多少は人も減って車も置けるかもと思い、聞いた勢いでそちらに向かってみることに。
近づくと、19時というのにやはり人も車も多いようで、誘導にしたがってドーム前をぐるぐるとまわらされたあげくにやっと立体駐車場に車を止め、施設に踏み入れると、いやあものすごい人の波。

思った以上に大きな施設のようで、どこになにがあるのかさっぱりわかりません。
これは探すのが大変と思っていたら、駐車棟から渡り廊下を渡ったところが施設の3階にあたり、島村楽器もちょうどこのフロアにあり、わりにすぐ見つかりました。
パッと見たところは、あちこちのショッピングモールでよく目にする島村楽器の店舗なのですが、中に奥深く伸びた一角があって、壁で仕切られた向こうにはグランドピアノがずらりと並んでいました。

入って行くと、表の喧騒からは隔絶されたエリアとなり、ボストン、スタインウェイ、ヤマハ、スタインベルクなど、グランドだけでも8台ぐらいはあったような気がします。アップライトはたぶんそれ以上でしょう。

最も印象的だったのは、3台あるボストンのグランドの中で最大のGP-215。
そのタッチはまるでとろけるようで、適度な抵抗が実になめらか、上質なもので包み込まれるようにキーが沈みます。
しかも決して鈍重ではなく、返りも俊敏、まったく思いのままに弾けるのは驚きでした。

指というのは必ずしも常に最適な動きやコントロールができているわけではないから、そこには当然ばらつきがあるわけですが、それをこの鍵盤+アクションはうまく吸収してくれて、まるで高級車のサスペンションのように凸凹を呑み込んでくれます。
それでいて必用な強弱や表情はイメージしたままに付けられるし、トリルなどもより細かいことが可能で、これにはいきなり感心させられました。
これまでにもボストンはちょこちょこ触れたことはあったものの、とくだんの印象はなく、GP-215に触れたのは今回がはじめてでした。記憶とはあまりにもかけ離れた印象のピアノだったのはちょっと衝撃で、やはり最大モデルだけあって、作りや調整なども別格なんだろうという印象を受けました。

音もじゅうぶんに満足できるだけのものがあり、このサイズで400万円強というのは、ほかを見渡すと相当すごいことかもしれません。
それと、より高価なSK-6やヤマハのS6が、行き着くところはやっぱり「日本のピアノの音だなぁ」と思うのに対し、ボストンは違う血が流れているとマロニエ君は思いました。

ボストンGP-215と向い合せに置かれていたのがスタインウェイ。
新品のように見事にリビルドされたBですが、フレームの穴の周りには丸いイボイボがあって戦前のモデル。
聞けば1933年製との事でしたが、弾いた感じも実に若々しく元気によく鳴っていました。
サイドには、Dと同じサイズの特大ロゴが埋め込まれていて、えらくそれがキラキラ光っているのは、ちょっとやり過ぎでは?と思いましたが、お値段も相当なもので、それを買われる方は、その証がほしいのかもしれませんね。

いずれにしろ面白いピアノスペースが一つ増えたし、この常設店舗のほうがよほど上質でわくわくする「ピアノフェスタ」でした。
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ピアノのレクサス

知人からお誘いいただき、カワイのショールーム内に併設された小さなホールにシゲルカワイのコンサートグランド(SK-EX)が期間限定で置かれていて、ひとり30分弾けるというので、行ってきました。

あるていど予想はしていたけれど、今どきのテイストですべてが完璧に整えられた、まさにピアノのレクサスとでもいったところでしょうか。
たしかによく作られており、製品としては素晴らしいとは思うけれど、楽器としての生命感とか血の通った感じはなく、熱くなれないところがいかにも今っぽいなあと思いました。
至って機械的で、現代のハイテク技術で正確無比に作られた豪華なお城みたいな感じ。

いかにも新品然としていたので、おそらく最新もしくはそれに近いモデルだと思われましたが、これといったクセもムラもない、全音域にわたって見事に整いまくっていました。
あまりに整いすぎて、かつてはEXなどにあったカワイの特徴らしきものまで跡形もなく消えてしまっており、もしブラインドテストでもされたら、メーカーを言いあてることはかなり難しいだろうと思いました。

これまではやや野暮ったいところも含めてカワイらしさがいろいろありましたが、いつの間にここまで宗旨替えしたのか、たいそう洗練されて、昔のカワイから思えば隔世の感がありました。

今どきの製品としては最高ランクに列せられるコンサートピアノだというのはわかるのですが、ひたすら他社のコンサートピアノと肩を並べること、嫌う要素を残さないように徹したという感じ。
音も「きれい」ではあるが、「美しい」という言葉を使うときの深くて底知れぬ世界とは違います。

当節は、良好な人間関係を築くためには自我を出さないことが肝要なようですが、まさかそれがピアノにまで求められるようになったのかと思うと、なんとも寂しい限りです。
個性やインパクトは評価が分かれるから危険で、それらを排し、コンクールの檜舞台でまんべんなく点数が稼げるピアノ?

SK-EXといえば、むかし楽器フェアの会場が池袋から横浜に変わったころ、ほとんど試作品みたなSK-EXをちょっとだけ触ったことがありますが、えらくスタインウェイを意識した感じで、それがいいかどうかはともかく、作り手の気迫みたいなもの伝わってくるピアノであったような記憶があります。
EXにくらべてブリリアンスとパワーがあきらかに増していて、そこには欠点やはみ出しもあったかもしれないけれど、とにかく熱いものはありました。

それとは対照的に、今回弾かせてもらったSK-EXは、徹底的なリサーチのもとにネガ潰しされつくしたのか、あえて主張めいたことはせず、デジタル一眼カメラのようなクリアーな面だけを出すように作られたピアノという印象でした。
コンクールと同様、今どきは個性は必ずしも長所とならない時代、このSK-EXはむしろその点を注意しながら作りましたよ!というのが前に出ていて、コンサートグランドならぬコンクールグランドとでもいいたくなる、そんなピアノでした。

今回はカワイショップの企画のお陰で、無料で弾かせていただくことができたもの。
タダで弾かせてもらっておいて、言いたいことだけ言うのは甚だ申し訳ない気もするのですが、だからといって心にもないことは書けないし、これはあくまでもアマチュアのピアノ好きの戯れ言なので、何卒お許しいただきたいところです。
こういう機会を作ってくださったカワイショップのご厚意には深く感謝しています。

蛇足ですが、今回も思ったのは、カワイのフルコンって、なんであんなにボディの側板がぶ厚いんだろう?ということ。
思わずミニカーでも並べたくなるほどで、そういえば昔から、カワイは響板も厚めなんだとか。
カワイは熱いかどうかはともかく「厚い」ことは今も確かに受け継がれているようです。
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夢の2時間

今どきスタインウェイDを備えているホールなんて、日本国内のいたるところにごろごろしていますが、そのほとんどがハンブルク製で、ニューヨーク製のあるホールはほんの数えるほどしかありません。
100台中1台ニューヨークがあるかどうかでは…。
ましてハンブルクとニューヨーク、両方を備えているホールはそうあるものではないでしょう。

そのきわめて珍しいホールが、なんと福岡県内の小さな町にあるのです。
バブル真っ只中に作られたと思われ、コンサートさえやっているのかどうか疑わしいような山の麓みたいなところにそれはあり、今だったらあり得ないことでしょう。
しかも町立の文化施設なんですから驚きます。

そこが開館30周年を記念して、所有するスタインウェイを弾かせてくれるイベントをやっているという貴重な情報が知人からもたらされました。
通常、ホールのスタインウェイを弾くリレーイベントみたいなものはあるけれど、あれはひとりわすか数分という制限付きで、老若男女が次から次へと順番に弾いていくというスタイル。

ところが驚いたことにこのホールでは2時間ずつの割当てで、料金も俄には信じられないほどお安いものでした。
ただし、ステージの反響板と空調はなしというもの。
さっそく予約の電話してみると、希望する日にすんなり予約が取れ、15時から17時までの2時間がキープできました。

このとき、ピアノはハンブルクとニューヨークのいずれを使うかを尋ねられるので、迷うことなく触れるチャンスの少ないニューヨークを希望しました。

福岡市内からかなり距離があり、車でおよそ2時間弱で到着、すぐに受付をして申し訳ないほどお安い料金を支払うと、担当の方が先導してしずしずとホールへと案内してくれます。
ステージには希望通りにニューヨークのDが準備されており、こんな本格的なホールでこれから2時間弾くのかと思うと、嬉しいような畏れ多いような、なんとも複雑な気分になるものですね。

そのスタインウェイは、まるで「私」が来るのをじっと待っていてくれたように見えました。
蓋は全て閉じられており自分で大屋根まですべて開け、軽くキーに触ってみると、ワッと迫ってくるような鳴りの良さが瞬間的に伝わってきて、これはタダモノではないというのが第一印象。
ここで臆していても始まらないので意を決し、バッハから少しずつ曲を弾いていきましたが、その充実した鳴りと音の美しさは、これまでのニューヨークのイメージまでも塗り替えるような素晴らしいもので、陳腐な表現をするならいっぺんで恋に落ちるようなピアノでした。

何を弾いてもピアノが包み込むように助けてくれるし、本来はニューヨークの弱点でもあるはずのアクションの感触もまったく問題なく、思ったことが思った通りにできて、ささやくような弱音から炸裂するフォルテ、声部の歌い分けや意図した表情付けまで、あくまで自分のできる範囲ではあるけれど、まったくもって自由自在でした。

場所やピアノが変わると、その緊張から、家では「できる」ことが「できない」ということは、ピアノを弾く者にしばしば襲いかかることですが、このとき不思議なぐらいそれはなく、自分の指先から極上の美音がホールの響きに合わさってすらすらと最高のサウンドに変換されていくさまは、ゾクゾクするようで弾きながら陶然となるばかり。
実はこの日、本来ないはずの反響板も設置されていて、それもあってホール本来の響きも併せて経験できたのだと思います。

4冊ほど準備していた楽譜の中の数曲もじきに終わり、あとは思いつくままにずっと弾いていましたが、途中休憩もせず、2時間がサーッとすぎてしまったことは自分でもびっくりでした。
時間的には一夜のリサイタル分ぐらいは優に弾いたことになり、ピアニストはこうした高揚感が病みつきになって、苦しい練習も厭わずにコンサートをしたくなるんだろうなぁと、ちょっとだけその心情の一端が見えたようでした。

これで座席にお客さんがいて、そこそこの演奏ができて、拍手喝采となれば、そりゃあ気持ちいいでしょうし達成感があるでしょうね。

とにかくピアノは申し分ないし、ホールは600席なのでピアノには最適なサイズ。
ホールの残響というのがこれまた麻薬的で、演奏が何割増しかで音楽的に嵩上げされるし、多少のアラも隠してくれることがよくわかりました。

このニューヨークは、ハンブルクにくらべるといい意味での野趣がありましたが、それは決して粗さというのでもなく、ほどよい色艶もちゃんともっていたし、低音などはボディがぶるぶる震えるほど鳴りまくっていました。
またニューヨークには軽めの淡い音のするピアノも少なくないけれど、ここのピアノには意外なほどの濃密さがあり、中音も豊かでたっぷりしており、ちょっと痩せ気味になる次高音域も青白い刀身のような切れ味をもって華麗に鳴りわたり、どこまでもよく歌いよく鳴ってくれました。
この時代のスタインウェイには他を寄せ付けいない圧倒的な凄みがあり、それを維持するだけのふさわしい管理がされている点もまったくもって驚きでした。

舞台袖を入ったところにはハンブルクも置かれており、シリアルナンバーを見ると、2台ともちょうど30年前の製造で、よけいな味付けや小細工をされていない、まさに好ましかった最後の時期のスタインウェイの真価を堪能することができました。

終わって外に出たときは、なんかわけもなく「あー…」って感じで、あまりに素晴らしい時間を終えたあとの虚脱感だったような気がします。
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アップライトの魅力-2

前回に引き続き、アップライトピアノの魅力について。

現実的な住環境の中での使ってみると、アップライトはスペース効率において優れているのみならず、弾いた感じにもアップライトならではの良さがあることも次第にわかってきて、むやみにグランドはいい、アップライトはその下、という単純な図式がマロニエ君の中ではやや崩れつつあります。

《音の特徴》
アップライトは弦と響板が床に対して直角に立っており、音の発生源が弾く側の全身にまんべんなく近い位置にあるためだと思われますが、グランドよりも音の立ち上がりがよく、より身近にピアノの音に接することができるという独特な気持ち良さがあって、この感触はグランドではなかなか得られないものではないかと思うのです。
よってアップライト特有の迫力というのがあるし、自分の出している音のニュアンスや強弱に対しても敏感にチェックができるという点では、曲を仕上げる際に、よりデリケートな部分にまで意識が行き届くという面があるように思います。

《タッチ》
もちろんタッチは理想的とはいえませんが、慣れてくるとそれほど不満にも感じなくなるし、音もよく聴けて、丁寧な練習をするにはアップライトというのは思ったより有効なものだと思うのです。
とくに繊細なタッチコントロールがグランドより難しいため、アップライトであえてそこを練習することは、より精度の高い練習にもなり、悪いばかりではないと感じます。

《気分》
心理的なことをいうと、グランドの場合、奥に向かって広がる空間が寒々しく虚しく感じることがあるのに対して、アップライトでは床から頭のあたりまで縦にピアノで、そのすぐ向こうは壁なので、これが妙な安心感と落ち着きを覚えます。
感覚は個人差もあるとは思いますが、グランドの下の空間なんて、考えてみればちょっと不気味で、冬とかは必ずしもいい感じはしません。

また、弾く気まんまんのときはともかく、はじめの譜読みや、フィンガリングを決めて練習を重ねていく段階では、個人的にはアップライトのほうが環境的にじっくり取り組めるし、こじんまりした楽しさがあって、これってけっこう大事なことではないかと思うのです。

もちろんこれはマロニエ君のように趣味でとろとろと弾いて楽しむ場合の話であって、プロのピアニストやコンクールを目指すような方はアスリート的勝負の要素もかなりあるから、そんな甘っちょろいことを言ったり思ったりしているヒマはないでしょうけれど…。

《音》
音は個々のピアノによって千差万別なので一概には言えませんが、これだけは言っておきたいこととして、一般に思われているほどグランドがどれもこれも素晴らしくてアップライトを凌駕しているわけではないということ。
とくに小型グランドでは低音の巻線部分などはかなり情けない音しか出ないものはたくさんあるし、それに比べてもはるかに大人びたキザな低音を出すアップライトもあるあたり、巷のイメージほどなにもかもグランドがエライわけではないし、場合によってはアップライトが勝っているところもあるので、そこは正しい認識と冷静な判断が必要だろうと思います。

それに誤解を恐れずにいうと、ピアノの練習はいつもいつも弾きやすい素晴らしい楽器でばかりやるのが、すべての面で効果があるとは言い難い面もあるという事実。できる限りいろいろと楽器を変えて弾くほうがゆるぎないものがあり、いつも同じ部屋、同じ楽器でばかり弾いていると、場所やピアノが変わっただけで狼狽してしまうことがある。
ピアノを奏するというのは、非常にセンシティブな行為なので、楽器が変わってもすぐ対応できる柔軟性をもつことも非常に重要だと思います。

実際に使ってみると、アップライトもかなり魅力的な存在だということが身をもってわかりました。
大型高級車が常にいいわけではなく、日常生活のなかでは、取り回しの良い小型車がしっくりくる場面があるように、それぞれの得意分野があるというところでしょうか。
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アップライトの魅力-1

自室にシュベスターのアップライトピアノを置いてから2年近くになりますが、はじめの半年ほどは良くも悪くもその印象があれこれと変わりました。
それはアップライトピアノという機構に対してでもあったし、シュベスターというメーカーに対する評価でもあり、とにかくいろいろなことに感じるものや思うところがさまざまあって、それが定まるまで一定の慣れみたいなものが必要だったのかもしれません。
ピアノ自体もはじめはどこか不安定さがあり、調整なども何度も繰り返しましたが、今年になってからでしょうか、落ち着きが出てきて、それなりの艶やかさがでてきたようにも感じます。
そういう時間を経ながら、自分自身のピアノへの接し方も少し変わりました。

ピアノとしての機能とか楽器としての潜在的な能力でいうとグランドのほうが優れているのは論をまたないことで、とくにアクション構造の違いからくるタッチについては、いまさらここで言うまでもないこと。
ほんらいピアノとはグランドのことであり、グランドのかたちで創り出され発展したものだから、こちらのほうが楽器として自然であるのはいうまでもなく、アップライトはそれを敢えて縦置きにした、いうなれば妥協の産物です。

しかし、自室という自由空間で普段からピアノに気軽に触れられるようになると、タッチはともかく、限られたスペースにともかくもピアノを置けるというのは、現実問題としては大きな魅力として実感しています。
しかもアップライトは単に設置に要するスペースが小さいというだけでなく、壁に寄せて、見るからにきれいに収まるというのも魅力だといえるでしょう。
グランドはそれなりのスペースがあればもちろんこれに勝るものはないけれども、単に部屋に収める物体としてはやはり大きく、おまけにカタチも特種で、ふたつの直線とS字カーブをもつ変則的な形状であるため、これを落ち着きある感じに収めるのは至難の技。

加えて、鍵盤のある手前側は演奏するだけでなく、整調や整音で鍵盤からアクション一式が無理なく出し入れできるだけの余地を残しておく必要があり、そのためには鍵盤から手前に1m近い空間を取られることもあり、どうしてもグランドを置くとなると、部屋の景色はピアノ中心ということになるのは避けられません。

さらに3本の足の間には中途半端な空間が残りますが、ここは美観の点でも響きのためにも、できることならなにも置かずに空けておくほうが望ましく、その点では大屋根の上も同様。
上下いずれも使いみちのない空間の生まれることもグランドの場合は避けられない。

その点ではアップライトは配置する上でのムダや割り切れなさがなく、すっきりカチッと収まるべきところに収まるという点では精神衛生上も大変よろしいことを日々実感します。

見た目に対する印象も、時間とともにずいぶん変わりました。
以前のグランドを見慣れた目では、ただの四角い箱から鍵盤が飛び出しているだけで、なんと無粋なものかと思うばかりでしたが、毎日一緒にすごしているとだんだんに良さが見えるようになり、愛着さえわいてくるのですから人の感覚なんて勝手なものです。
部屋全体として眺めると、これはこれでとても好ましく、見方によってはグランドがいかにも無遠慮な感じでデンと鎮座する姿より、よほど節度と慎みがあって、雰囲気もよろしいことが最近になってわかるようになりました。

グランドに対してアップライトはすべてが劣り、妥協の産物という偏見と思い込みやがあったのだと今は思えますし、それを取り去るにはかなり時間もかかったと思いますが、そのかいあってアップライトも大いに興味の対象になりました。
もちろん楽器単体でみればグランドの優位性が揺らぐことはないけれど、日常生活という現実の中で、限られたスペースその他に折り合いをつけながらピアノに親しむためには、アップライトというのはかなり優れたものではないかと思うこの頃です。

適切な使い分けができれば、それぞれが最高の役割を使い手にもたらすわけで、何にしても決めつけはいけませんね。
アップライトピアノは、インテリアとしてもなかなか素敵な存在ですが、そのためにはダサいカバーや椅子などでぶち壊しになることもありますので、細かい点が意外に要注意ですが…。
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月の光

今年はドビュッシーの没後100年ということで、なんとはなしに彼の名前や音楽を耳にする機会が多いような気がします。

話は繋がらないようですが、いつだったか古本店に行った折、期待もせず楽譜コーナーを見たら、たまたまピアノ名曲選というようなものがあり、内容はほとんど楽譜としては持っている曲ばかりでしたが、ふだん思いもかけないようなセレクトで40曲ぐらい一冊に集められているところが面白そうでした。
しかもほとんど使用感もなくきれいで、価格はなんと200円ほどだったので試しに買ってみました。

マロニエ君は自分のつまらぬこだわりがあって、この手の名曲選・名曲集のたぐいはほとんど持っていません。
欲しい楽譜を買うときは、その作曲家の普通の楽譜を買うので、たった1曲のためでも必ずその全曲譜を買うのが流儀で、そうやっていると長年のあいだに自然にあらかたのものは揃ってしまいます。

この名曲選でおもしろかったのは、いろいろな作曲家の曲が詰め合わせみたいになっていて、普段の自分からは思いつかないような曲にぽろっと出会うことができ、たまにはこういう楽譜も面白いなぁと思いました。

そこでドビュッシーですが、「月の光」とか「亜麻色の髪の乙女」「レントよりも遅く」とか「夢」で、今わざわざ楽譜を取り出そうとは思わないものでも、パッと目の前にあれば、自分の指でちょっと弾いてみようか…というチャンスになるんですね。

ちょっと触ってみて感じたことは、ドビュッシーというのは緻密に仕上げられたショパンなどとはまた違った考察と注意が必要で、音楽以外の幅広いセンスまで要求する作曲家だとあらためて思いました。
とりわけ音色や間の選び方には、ドビュッシー独特のものが必要。

例えば有名な「月の光」でいうと、これを弾く人は、まずこれがフランス音楽であること、しかも「月の光」というタイトルにはどこか日本人も好む静謐な世界を想起させられ、そういう雰囲気を込められた演奏が目立ちます。
とくにドビュッシーというと印象派などという言葉がちらつくのか、モネの絵のようにやけにフワフワと淡い調子で弾こうとする人がいますが、それを重視するあまり、とくに開始から10数小節までの音符の刻みが非常に曖昧となる演奏が目立ちます。

「月の光」は拍子や小節の区切りが感じにくいぶん、裏できちっと拍を守ることが求められ、しかも表向きはそれをいささかも感じさせることなくドビュッシーのニュアンスを描き出すことは、かなり難しい作品だと思いました。
そのためか、多くはリズムの歪んだ恣意的なディテールばかりが目立つ演奏が横行しています。

ピアニストでも、これを真の意味での正しい姿で、しかも微妙なニュアンスを含ませながら、最終的には楽譜など存在しないかのように弾ける人は非常に少ないのではないかと思います。

音数もさほど多いわけでもなく、やり直しの効かない確かな筆致と、あちこちに広がる空白を意味あるものとして聴かせなくてはならない至難な作品。
そうなると、ただ譜読みが得意で指がまわるだけで弾ける曲ではないということになり、ショパンのノクターンop.9-2のように、この超有名曲を真に美しく、鑑賞に堪えるように新鮮さをもって奏するのは、容易なことではないと思いました。
私見ですが、「月の光」は温かい演奏ではダメ、かといって冷たい演奏でもダメ、表情過多でもダメ、でも無表情でももちろんダメ。その間隙を抜群のセンスですり抜けるような演奏でないといけない。
腕の立つ人なら「喜びの島」でも弾いておいたほうが、よほど安全でしょう。

プロのピアニストでも、この簡単な「月の光」を聴けば、その人の音楽的な思慮、美意識、センス、性格や官能性までもが露わになってしまうような気がします。
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