中古CD Vol.3

中古CD、第3弾です。
CDと言っても、新品と中古ではこちらのスタンスもチョイスの基準も違いますが、だからこそ訪れる思いがけなさというか、要は冒険できる点が最大の魅力です。
わずかに以前よりも失敗が少なくなってきたような気もしますが、一番大事なことは勘ですね。

❍【キュイ 25の前奏曲】
ロシア5人組のひとり、チェーザレ・キュイによるピアノのための25の前奏曲。バッハやショパンとは違った順序で全調性をまわり最後に再びハ長調に戻るということで25となる作品。演奏はジェフリー・ビーゲルというアメリカ人のピアニストで、録音もアメリカ・インディアナ州で行われているが、ピアノはベーゼンドルファーのインペリアル。キュイは本業は軍人で、その余技として作曲をしていたらしいが、その作品はとても余技といえるようなものではない本格派で、しっかりと聴き応えのある悲壮的で重厚な曲調が並ぶ。しかしロシア5人組と他の4人と違うのは、民族臭がなくむしろ西ヨーロッパ的な雰囲気を持つもの。いかにも意味ありげな調子だが、何度も聞いているとそれほどのものにも思えないが、ロマン派の隠れた作曲家という点では十分に通用すると思う。

△【アンドレ・プレヴィン フランス室内楽】プーランクのピアノと管楽器のための六重奏曲、ミヨーの演奏会用組曲「世界の創造」(室内楽版)、サン=サーンスの七重奏曲という字面で見るとやけに本格的でものものしい印象だが、聴いてみると音楽の中に惹きこまれるような作品というよりも、音楽による遊びといった印象。作曲者も三者三様かとおもいきや、どれを聴いても大差無いように聞こえてしまうし、まるで昔のドタバタアニメの効果音楽みたいで、フランス音楽の中にはこういう流派もあるなあということを思い出す。楽しさはあるからたまに聴くのはいいけれども、あくまで気が向いた気だけ楽しむものという一枚。ジャケットデザインは黒バックに青とグレーと赤の太い線だけで顔が描かれたシャレたもので、ほとんどこれで買ったようなもの。

❍【蟹 タブラトゥーラ】リュート奏者のつのだたかし氏を中心とする中世古楽器のグループで、前回、波多野睦美さんの歌に感銘し、その流れで購入したもの。楽器はリュートはじめ、フィドル、リコーダー、パーカッションなど多数で、なんとも不思議な音楽にはじめは大いに戸惑う。古楽器といってもここまでくるとかえって新しくもあり、東洋的なのか西洋的なのかさえわからない。ライナーノートによると結成は1984年とあるので、30年以上の活動実績があるということか。全15曲、そのうち古いものは13世紀のフランスのものなど6曲で、それ以外はメンバーによるオリジナルらしい。耳慣れた主題や動機が幾重にも展開し様々に遍歴し再現して解決するという、いわば音の起承転結ではなく、どちらかというとテンポや旋律の繰り返しが主体の、音楽の原型とはこのようなものだったのかと想わせるもの。こういう音楽に触れられたという点で❍。タイトルの通り蟹の絵をあしらったジャケットがハッとするようなセンスにあふれていて、これを目にするだけでも価値がある。

❍【ヘンゼルト・ピアノ作品集】セルジオ・ガッロによる演奏。ヘンゼルとは19世紀に活躍したドイツロマン派の音楽家で、この時代によくある作曲家兼ピアニスト。リスト、ショパン、シューマン、フンメル、タールベルクらとほぼ同年代の人物だが、その名前も作品ではほとんど耳にすることのないため、珍しいCDとして購入。いずれも耳に馴染みやすい、甘く叙情的なサロン音楽という感じで、ところどころにリストやシューマンを想わせる瞬間があるし、全体としてはこの時代特有の空気を感じる。上記のキュイに比べると、ずいぶん軽い感じがあり、それがロシアとヨーロッパの差のようにも思える。どこか女性作曲家の作品のようにも感じるけれど、ライナーノートにあった写真は、鋭い眼光にチャイコフスキーのような髭の老紳士で、その作品と風貌はギャップを感じることに。ピアノはおそらくスタインウェイだと思うが、温かみのあるふくよかな音が印象的。

△【シャルヴェンカ ピアノ作品集1】19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍した、ポーランド系ドイツ人の作曲家兼ピアニストの作品。ポーランド系というだけあって、ショパンからの影響を随所に感じるし、ピアノ・ソナタ、即興曲、5つのポーランド舞曲、ポロネーズと曲のスタイルもショパン風。ただし、ポーランドの香りやリズムがそうであっても、ショパンの洗練を極めた美の極致とか触れると壊れるような詩情はなく、才能はあってもあくまで平凡な発想の作品。演奏はセタ・タニエル。このシリーズは確認が取れただけでも第4集まで出ているようだけれど、それを買い揃えたいかといえば…ま、これだけでいいかなという感じ。上記のヘンゼルトと同様、このような普段耳にする機会のない作品に音として触れられることも、中古CDの魅力で、これらを新品で買うことはなかなか難しいだろう。

☓【アマウラ・ビエイラ名演集】セール対商品の中からなんとも変わった雰囲気のCDを発見。ブラジルの作曲家兼ピアニストらしいが知らなかった人なので、ネット検索すると度々来日して280回を超えるコンサートをしているという。くるみ割り人形の編曲から、ドビュッシー、ショパン、リスト、シューベルト、サン=サーンス他自作まで15曲に及ぶアルバム。演奏自体は常套的なもので、とくに変わったところはないけれど、はじめの音が鳴りだ瞬間、その音質に驚愕。まるで自宅でシロウトが録音したかのような、マイクが近くて残響ゼロの音。データをよく見るとサンパウロのスタジオで録音されたもののようだが、クラシックの録音経験の殆ど無い人達によって収録されたものとしか思えなかった。
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ちょい開け

過日、マロニエ君に日本調律師協会の過去のカレンダーを送ってくださった方のメールの中に「ヤマハで言うトップサポート」という言葉が出てきて、不勉強なマロニエ君はすぐになんのことかわからず、さっそく調べてみることに。

判明したことは、アップライトピアノの上部の板をほんの少し開けるための機構。
アップライトの場合、ボディの一番上の水平の板は前屋根と後屋根というものに前後で分割されているのがほぼ一般的で、前屋根は後ろへ向かって180°バタンと開くようになっており、開けた状態では前屋根と後屋根がちょうど重ね合わせるかたち。

マロニエ君はまさかここにカバーをかけるといったことはしていないものの、ついあれこれの楽譜を積み上げてしまって、前屋根をわざわざ開けて弾くことはまずありません。アップライトピアノでは上がちょうど便利な楽譜置場になっているというのは、わりによくある光景ですね。

さて、その「ヤマハで言うトップサポート」とは、ボディ内側に仕組まれた短い棒を立てることで、前屋根をほんのちょっとだけ開けるというもの。
この方のピアノにはそれがあって、そのわずかな開閉の違いがもたらす響きの違いを楽しんでおられるようでした。
シュベスターにないことはご存じで、まずは本を数冊挟むなどして試してみることを薦められたので、すぐに楽譜を床におろし、文庫本を3冊ほどを輪ゴムでまとめて前屋根が3〜5cmほど開くよう、そこに挟んでみました。

さっそく弾いてみると、こんな僅かな事にもかかわらず、思わず「エッ!」といいたくなるほど音の体感差がありました。
なんといってもまず格段にダイナミックでパワフルになり、発音の細かい点までバンバン聞こえてくることに驚かされます。

普通に前屋根を180°開けだだけでは、音は上に抜けていくのか、こんなことはないし、調律時には鍵盤蓋から上下のパネルまで全部外して作業されるので、その状態で音の確認をするときなども、ほとんど何も遮るものがない状態で弾くことはありますが、そのときも音が裸になった感じはあるものの、こんな独特な感覚を味わったことはありませんでした。

まるで、エアコンの吹き出し口の前に立っているように、音がこっちをめがけて一斉に流れだしてくるようで、全身で音を浴びているような感覚です。

音量じたいも上がるほか、低音などは厚みが増して、響板の振動そのものを感じるようで、ときにうるさいぐらいに感じることもありました。
タッチまでまるで反応が良くなったみたいで、こう書くと良い事ずくめのようですが、そうとばかりは言いません。

自分の弾き方のまずさやペダリングの問題点などもはっきり認識できるのは練習にはいいとしても、ちょっと困ったのは、音によって、音色や響き方などに違いやムラがあったり、個々の音に良くも悪くも特徴があることが明瞭となり、ある音は響板の深いところで鳴っているのに、ある音はずいぶん手前に聞こえたり、これまでは気にならなかったようなことなども次々に白日のもとにさらされることでしょうか。

暗がりで素敵な空間と思っていたところが、昼には見えなくていいものまで見えるようでもありますが、それでもやはりおもしろいものだと思います。

数日これで弾いてみて、再び元に戻してみると、とりあえずまとまりというか収まりは良くなるかわりに、なんとなく力ない響きのように感じてしまい、人間の慣れというものは困ったものです。

さらにその方のメールによると、この効果はピアノやメーカーによっても違いがあるのだそうで、ご実家の大手の量産ピアノでは少し改善するぐらいで、さほど音に包まれるような強烈な感じにはならないのだとか。

もしかすると、この前屋根の「チョイ開け」こそが、良いピアノかどうかの判断手段になるのかもしれません。
とくにピアノ選びの時には、チェック項目のひとつに加えてみるのも無駄ではないでしょうし、文庫本をちょっと挟むぐらいなら、お店もやらせてくれるでしょう。
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反田さんのショパン

BSのクラシック倶楽部で、反田恭平さんの最新ショパン演奏が放映されました。
プログラムはアンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ、マズルカop.56-3、ソナタ第3番。
今年1月の収録で、会場は立川市のチャボヒバホール、ピアノはファツィオリのF308。

現在、ポーランド国立ショパン音楽大学に在籍中だそうで、そこでショパンの研鑽に取り組んでおられるとのこと。

反田さんは、いま最も注目される前途有望な日本人ピアニストのひとりだろうとは思いますが、ことショパンに関しては、彼のピアニズムや持ち味からすると、さほど相性が良いわけではないというイメージがありました。
ショパンよりはリスト、ドビュッシーよりはラヴェル、ドイツものよりロシアものというタイプ。
にもかかわらず、わざわざショパンにフォーカスするのか…と思ったし、もしかすると敢えて苦手なものを克服するという挑戦者の気持ちなのか、はたまた次のショパンコンクールが射程にあるのか。

ご本人の弁によると「7、8歳のころからショパンを弾き始めて、いろいろな作品に出会ったが、どういうふうにショパンを弾くのが正しいのか、ちゃんと学びたくて」とのこと。

このコメント、ちょっとひっかかるのはショパンの弾き方に「正しい」ということがあるのか、マロニエ君にはすこし首を傾げたくなります。
たしかにショパンは、多くの人が弾きたがるわりに、演奏のあり方という点ではきわめて自由度の少ない作曲家であるし、あきらかに「間違った」演奏が氾濫している気がします。
かといって「これが正しい」ということを規定するのは甚だ難しいことで、誰それや権威によって「こうだ」と断じられるようなものではないのではないか…ということ。

更にいうと、ショパンの根っこはポーランドにあるとしても、その高貴とでもいいたい美の結晶のようなピアノの芸術は、もはや国境を遥かに超えた存在だし、父親はフランス系、また祖国を離れて生涯をフランスで過ごし没したことなどを考えると、事はそう単純ではない気がするのです。
とりわけ、それぞれの作品に散りばめられた洗練の極致は、とうていポーランドというヨーロッパの一国のみで育まれ、今もその芸術的主権を出身国だけが握っているとはマロニエ君には思えない。

ショパンらしい演奏とは、ショパンの美意識、センスや好み、様式感を敏感に汲み取り、それがさほどの苦労なく共感できる者だけが体現できることで、つまり本質的には独学に委ねられるべきで、あまり人から事細かに叩き込まれるようなものではないと思うのです。


さて、今どきの、そつなく弾きこなすだけでワクワク感のかけらもないピアニストが多い中、反田さんは久々にナマの肉体から出てくる手応えみたいなものがあって、筋肉質な演奏がその魅力ではないかと思います。
少なくとも彼がピアノの前に座るなら、聴いてみたいという気にさせるだけのものはある。

今回のショパンは、しかし、彼の自然さから何か大事なものが遠のいた感じ。
音楽表現上のコントロールなのか、個人的にはもっと大きな制御のかかった感じを覚えました。
ポーランドで学んだことをよく守り、注意深く弾いているのか、普遍的な意味でのショパンとしてのまとまりと見れば、よくなっているのかもしれないけれど、曲そのものが奏者の体を使って自由に羽ばたいていくような感覚とか、随所に仕込まれた詩的な要所が大きく意味をもって語ってくるような生々しさがなく、楽譜に書き込まれた多くの注意事項をよく守り、よくさらって弾いているという感じが前に出ているようでした。
細部にまで注意を張り巡らすことは大事だけれど、それで音楽の推進力が失われてしまっては、作品も演奏も縮こまってしまうだけで、大ポロネーズなど高揚感をもって弾き切って欲しいところを、なんども冷静に姿勢を撮り直すような感じがあるのは、正しいこととは思えませんでした。

またop.56-3のマズルカは一般的な人気曲ではないけれど、マズルカの中では最大級のもので、個人的にとても好きな作品のひとつですが、その悲しみや移ろいがこまやかに伝えられたとは言いがたく、聴く者の心を揺らす大事なところで、シャシャッと処理されていくあたりなどを目の当たりにすると、やはりショパンとはもともと相性が良くないのではないかと思いました。

とくに反田さんぐらいの方になると、大きくピアニズムというだけでなく、細かい単位での演奏フォームというものがあり、そのフォームがショパンに適合しているとは感じませんでした。

ファツィオリについても書きたかったけれど、だらだらと長くなってしまったので、またいずれ。
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ヤマハのすごさ

遠方に出掛けた折、ヤマハのグランドのうちCXシリーズをほぼ全機種展示しているお店があるというので、ついでといってはなんですが、ちょっと覗かせてもらいました。

ヤマハにはもともとあまり興味はないけれども、現行のCXシリーズは、調律師さんの中には「そこそこいいと思います」というような、一定の評価をされる方もおられます。
日本製品として世界からの評価を得ている量産ピアノという客観的事実を思えば、その最新モデルとはいかなるものか、ちょっと触れてみることも無駄じゃありません。

店内に入ると、うわ、お客さんはゼロ。
お店の方が二人ほどおられて立ち話をしておられましたが、こちらの入店を機にもう一人はどこかに行ってしまわれ、かなり広い店内にはお店の方とマロニエ君の二人きりになりました。
一音出しても店内に響くような静寂の中で、どうぞと言われても「では!」とばかりに試弾をしてしまうような度胸は到底持ち合わせていないので、うわぁ…まいったなぁ…という感じ。

人差し指でぽとんぽとんとやっているだけではどうなるものではないから、おずおずと遠慮がちに断片的に弾いていると、お店の方はこちらの心情を察してか、そっと奥の方へ行ってくださいました。
こういうのも「忖度」というんでしょうか。
とにかく台数が揃っている店で、新品はC1X、C2X、C3X、C5X、C6X、C7Xと横並びし、更にむこうには中古のCFIIIがありました。
ほかにもアップライトなどたくさんあったけれど、とても手が回りません。

というわけで、なんとか新品グランドはひととおり試しました。

もっとも印象に残ったことは、ヤマハというメーカーの恐ろしいまでに計算され尽くした見事な商品構成。
こうして順番に弾き比べていくと、ひとつサイズが大きくなるにつれ、良さがそのぶんだけ確実に加算されていくという事実。
大から小への逆コースもやはり同じ。

だからといって小さいモデルが悪いわけではなく、それでも十分商品として成立して完成されており、買った人はちゃんと満足を得られるようになっているから、決して後悔することはない。
価格の差もそれに準じたもので、どこかの段階で急に高くなるということもなく、マトリョーシカのようにまず大きさの順番があり、そこには納得できる価格差があり、そしてなによりもすごいのは弾き比べてみたとき、少しずつまるで等間隔の階段を一弾ずつ登るようにちょっとずつ良くなっていく、その考えぬかれた性能差を作り出す技術。

たとえば、C3Xを弾いたらそれなりにまとまっているいるけれど、C5Xに移ったら、全体が確実にはっきり、しかしあくまで節度をもって一段良くなる。
さらにC6Xに移るとさらにやわらかさとゆとりが出て、落ち着きが加わり、ここからが大人という感じ。
C7Xに移ると、もうひとつ先が開けて、ブリリアンスが加わりコンサートピアノのエッセンスみたいなものがちょろっと入ってくる。
このあたりの徹底して計算された「差」の出し方は、まさにヤマハの均等な製品づくりにおける陰の実力を見るようで、その見事さが、とてつもないメーカーだと思いました。

少なくともこの日試したグランドは、大きく高価になるほど「良くなる」のであって、そのわかりやすさは、とくに音楽やピアノに精通していない入門者や楽器に疎い先生達などにも、すぐに理解でき体感できるもので、そのサイズ/価格差は誰もが納得できるもの。
その背後に楽器を生み出す工房の気配は感じなかったけれど、巧妙に計算され、最高の工場で生産された日本製品の凄みがありました。

それが楽器作りにふさわしいかどうかは賛否あるとしても、ピアノというものをここまで製品として昇華させたということは、超一流の技術のなせる結果であって、その企業力にはビビリました。

ついでに、中古のCFIIIにもちょっと触りましたが、ヤマハといえどもコンサートグランドというのはまったくの別世界となり、ここではじめて楽器という有機的な感触を受けました。
量産モデルに比べると、格段にものごしがやわらかで底が深く、音もがなり立てず、秘めたる力と慎みがあり、タッチも精妙。
いかようにもお応えしましょうというリッチなおもてなしのよう。

久々にヤマハ一色の時間でしたが、とても貴重な体験になりました。
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またまた中古CD

中古CDの当たり外れは、困ったことにちょっと病みつきになってきたかもしれません。
もともとが、ダメモトでやっていることなので、失敗してもさほどの痛手ではないのですが、それでもみみっちいドキドキ感はあるのです。
前回までの経験として、あまりの激安はやはりゴミになる確率が高いので、そのへんはより注意することに。

△【アルバン・ベルク弦楽四重奏団のモーツァルト】
思い込みかもしれないけれど、モーツァルトの弦楽五重奏曲といえばあのg-moll KV516のような不朽の名作があるにもかかわらず、意外にもこれといったCDがあるようでない印象。アルバン・ベルク弦楽四重奏団は、1980年代ぐらいからかずいぶん流行った時期があり、マロニエ君もその波にのせられてベートーヴェンの全集など買い揃えたりしたが、技巧的で見事だが、今の耳で聞くとやけに力んでいるようで、そこがいささか古臭くもあり、心から作品の躍動を楽しめるというのとはちょっと雰囲気が違った気がする。五重奏なので、ヴィオラをもう一人加えたもので、この時代特有のやや固く叙情を排した印象だが、とりあえず演奏自体がしっかりしているので聴くには値する。ただし、これでこの作品の核心に触れられるかというといささか疑問が残る。モーツァルトの弦楽五重奏曲でとくに第3番/第4番というのは、何十年来耳にしているから、いかに傑作といえども、そう何度も繰り返して聴く気になれないのが残念。

☓【グールドのリパフォーマンス】
2006年の発売当初からかなり話題だったがどうしても気乗りがせずに買わなかったCD。いわゆる現代のコンピュータ制御による精巧な自動演奏を用いて、1955年のゴルトベルク変奏曲をヤマハのコンサートグランドで再現録音したもの。マロニエ君はそもそも自動ピアノというものが、演奏者と楽器の関係なしに成り立つものである以上、まったく興味がわかないし、それは現代のハイテクをもってしても覆ることはないことを確認することになった。解説文にはこのシステムがいかに優れたものであるかということが縷縷述べられてはいるが、要するに、聴いてみて、まったくの技術屋の機械遊び以外のなにものでもないと思った。タッチは浅く骨抜き、なにより気が入っておらず、うわべだけの霞みたいな演奏は、新録音であろうとサラウンドなんたらであろうと無意味。耐えられずにオリジナルのモノラル録音を鳴らしてみると、いっぺんに目の前が明るくなるような爽快さがあった。モノラルで結構、マロニエ君にとっては精神衛生にもよろしくない1枚。

❍【ドラティのバルトーク】
どんなに音楽が好きでも、あまり馴染みのないまま来てしまった名曲というのは人それぞれあるもので、マロニエ君にとって、バルトークの「管弦楽のための協奏曲」と「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」がまさにそれ。つかみどころのない難解な作品のイメージがあったけれど、いざ腰を据えて聴いてみるとまったくそんなことはなく、わりにすんなり馴染むことができたし、なかなかおもしろい作品でかなりの回数を繰り返し聴くことになった。上記のモーツァルトで述べたように、聴き始めの頃だけにある新鮮さというのは、回を重ね時を経るうちにしだいに失われていくのは如何ともしがたいが、そういう意味でも大いに楽しむことができた。いずれも大変な力作で、良いオーケストラの演奏会で聴くには好ましいだろう作品。そもそもマロニエ君は、マーラーやブルックナーに多くあるように、長大な管弦楽のための作品で、曲の出だしが聞こえにくいような感じで開始されるのが、やたら思わせぶりで泥臭く思ってしまうところがある。

❍【ジョシュ・ガラステギのバレエレッスン用CD】
スペイン出身のピアニストらしいが、マロニエ君はまったく知らなかった人。後でネットで検索すると、バレエのレッスン現場ではバリシニコフの時代からこの分野で有名なピアニストだったらしい。曲はバッハからチャイコフスキー、スペイン物まで有名な曲をバレエスタジオでの練習用に編曲したもので、音楽として鑑賞するものではないけれど、マニア的にはなかなか面白いCDだった。なにより印象的だったのは、一切の記載はないけれど、きめ細やか(これは稀有なこと)でしかも朗々とよく鳴る理想的なニューヨークスタインウェイの音が聴けるという点。個人的な印象で云うと、製品ムラというか平均的なクオリティでいうと圧倒的にハンブルク製だと思うが、ごくたまにある当たりのニューヨークの中にはとてつもない逸品があるようで、まさにその音を聴けるだけでも購入した甲斐があったというもの。ちなみにこれ280円だったけれど、ネット上ではなんと4700円というのにはびっくり。

☓【カテリーナ・ヴァレンテ】
この人のことを知らないマロニエ君は、昔のフォーマルな装いの写真からしててっきりクラシックの歌手だた思い込み、閉店間際、4枚組で500円ということもあってついでに購入。はたして音を出してみると古き良き時代のポピュラーで、いわゆるヨーロッパの歌謡曲だった。自分の無知が招いたことだし、クラシックの棚にあったのも要因。ま、たまに車中などでガラッと気分を変えるのにいいかも。
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カレンダー

日本調律師協会が作られるカレンダーが素晴らしいことは以前のブログに書きました。
月ごとにマニアックなピアノの美しい写真が掲載されていることに驚いたと書いたら、このブログがきっかけで時々メールのやり取りをする方からご連絡がありました。

昔のものもみてみたいと書いたのですが、あくまで機会があればという程度の軽い気持ちだったのですが、その方は手許にあるのでよかったらお送りしましょうか?というありがたいことをお申し出をくださったのです。
なんだか厚かましいような気もしたけれど、見てみたいことは事実だし、せっかくのご厚意なのでお言葉に甘えて送っていただきました。

封筒を開けると、なんと昨年を頭に3年分も入っていてびっくり!
昔の聞いたこともないようなメーカーのピアノが次々に登場するのは見るだけでも価値があり、最後のページには2016年/2017年は「浜松楽器博物館」、2018年/2019年は「武蔵野音楽大学楽器ミュージアム」とあり、大きな組織がきちんと保存しているピアノというわけで納得でした。
つまり、これらは日本に存在しているピアノというわけで、いずれもが過去に何らかの理由で日本にやってきたピアノ達ということになるのでしょう。
昔のほうが数は圧倒的に少ないだろうけれども、マーケテイングだなんだということがないだけに、ピアノにしても多種多様なものが輸入されていたようにも思われ、現代は「多様性の時代」などというけれど、そうとも言い切れない側面もあるような気がしました。

現代の日本で、これだけ多様なメーカーのピアノが入ってきても、まず需要もないだろうし、当のメーカーもなくなったりで、ほとんどが有名ブランドのもので絞められるし、なにより国産量産ピアノの普及によって全国津々浦々まで埋め尽くされ、さらにはそのピアノさえも引き潮となって数を減らしていっているところでしょう。


カレンダーに話を戻すと、毎年いただく海外メーカー系のカレンダーでよく目にするものは、デザインやレイアウトなど制作の経緯は知らないけれど、見るたびに首を傾げるほどセンスがなく、とても使いたくなるようなものではない。
また、今年は日本メーカーのものもたまたま入手しましたが、さらにダサく、見たくもない音楽系タレントのような人の羅列で、いいカレンダーというよりは「ああ、この人達がこの会社と深いつながりがあるんだな」と思えるだけの、自分が使うことはまったくイメージ出来ないようなもの。
どうしてこんな感覚がまかり通るのか、まったくもって理解に苦しみます。

それにひきかえ、この日本調律師協会のカレンダーは本当にすばらしく、普通はカレンダーなど用済みになればゴミ箱行きですが、なかなか捨てる気にもなれません。
どういうカレンダーを作りたいかが明快で、必要以上の狙いが盛り込まれていないことも、却ってこの協会に交換を抱けるし清々しさがあります。
これだけ珍しいピアノを題材にしていれば、いつかネタ切れになるのかもしれないけれど、できるかぎり続けてほしものだ願っています。


近年は、年末といってもカレンダーをいただく機会は少なくなったし、いただいても以前のように単純に部屋に架けて使うということはなくなったのではないでしょうか。
最近は企業や団体なども、カレンダーを作るという恒例行事じたいが激減してるそうで、むかしは筒状に丸められた使わないカレンダーの山が積み上がっていたものですが、ここ最近はそれはすっかりなくなりました。

聞くところによれば、企業も経費節減の折柄、費用ばかりかかってタダで配布しても、大半が使われることなく廃棄されるオリジナルカレンダーというものが、早々に整理の対象になったようです。
いっぽうで、使う側も、絵や写真付きのカレンダーというものが流行らなくなり、実用に徹した文字だけの機能的なカレンダーが好まれ、さらにそれが100円ショップなどで大小様々に売られるものだから、もはや観光写真や見飽きたドガやルノワールの絵がついたようなカレンダーを無抵抗にぶら下げているところなど、ほとんど見なくなったような気がします。

企業カレンダー全盛の頃には、一部にはデザイン優先の気の利いたいいカレンダーもありましたが、全体的傾向としては大同小異、とりわけ音楽関係のそれはセンスがなかったという記憶しかありません。
それでも比較的まともだったのが、グラモフォンのずっしり重い大判カレンダー。
カラヤン、ベーム、ポリーニ、アルゲリッチといったこのレコード会社所属のスター達の写真が12枚、マットな黒ベースに、墨一色で仕上げられたもので、これだけは見るのがちょっと楽しみではありました。

それでも、実際に部屋にかけて使ったことは一二度あるかないかで、結局実用性が低いために使わず、もったいないといって何年もとっておいたりしたものの、最後は廃棄処分に鳴るだけ、それが大半のカレンダーの運命でしょう。

そんな中、日本調律師協会のカレンダーは久々に見るのが楽しい貴重なもので、資料性も高く、これは可能な限り保管していくだけの価値のあるものだと思いました。
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