BSのクラシック倶楽部で、反田恭平さんの最新ショパン演奏が放映されました。
プログラムはアンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ、マズルカop.56-3、ソナタ第3番。
今年1月の収録で、会場は立川市のチャボヒバホール、ピアノはファツィオリのF308。
現在、ポーランド国立ショパン音楽大学に在籍中だそうで、そこでショパンの研鑽に取り組んでおられるとのこと。
反田さんは、いま最も注目される前途有望な日本人ピアニストのひとりだろうとは思いますが、ことショパンに関しては、彼のピアニズムや持ち味からすると、さほど相性が良いわけではないというイメージがありました。
ショパンよりはリスト、ドビュッシーよりはラヴェル、ドイツものよりロシアものというタイプ。
にもかかわらず、わざわざショパンにフォーカスするのか…と思ったし、もしかすると敢えて苦手なものを克服するという挑戦者の気持ちなのか、はたまた次のショパンコンクールが射程にあるのか。
ご本人の弁によると「7、8歳のころからショパンを弾き始めて、いろいろな作品に出会ったが、どういうふうにショパンを弾くのが正しいのか、ちゃんと学びたくて」とのこと。
このコメント、ちょっとひっかかるのはショパンの弾き方に「正しい」ということがあるのか、マロニエ君にはすこし首を傾げたくなります。
たしかにショパンは、多くの人が弾きたがるわりに、演奏のあり方という点ではきわめて自由度の少ない作曲家であるし、あきらかに「間違った」演奏が氾濫している気がします。
かといって「これが正しい」ということを規定するのは甚だ難しいことで、誰それや権威によって「こうだ」と断じられるようなものではないのではないか…ということ。
更にいうと、ショパンの根っこはポーランドにあるとしても、その高貴とでもいいたい美の結晶のようなピアノの芸術は、もはや国境を遥かに超えた存在だし、父親はフランス系、また祖国を離れて生涯をフランスで過ごし没したことなどを考えると、事はそう単純ではない気がするのです。
とりわけ、それぞれの作品に散りばめられた洗練の極致は、とうていポーランドというヨーロッパの一国のみで育まれ、今もその芸術的主権を出身国だけが握っているとはマロニエ君には思えない。
ショパンらしい演奏とは、ショパンの美意識、センスや好み、様式感を敏感に汲み取り、それがさほどの苦労なく共感できる者だけが体現できることで、つまり本質的には独学に委ねられるべきで、あまり人から事細かに叩き込まれるようなものではないと思うのです。
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さて、今どきの、そつなく弾きこなすだけでワクワク感のかけらもないピアニストが多い中、反田さんは久々にナマの肉体から出てくる手応えみたいなものがあって、筋肉質な演奏がその魅力ではないかと思います。
少なくとも彼がピアノの前に座るなら、聴いてみたいという気にさせるだけのものはある。
今回のショパンは、しかし、彼の自然さから何か大事なものが遠のいた感じ。
音楽表現上のコントロールなのか、個人的にはもっと大きな制御のかかった感じを覚えました。
ポーランドで学んだことをよく守り、注意深く弾いているのか、普遍的な意味でのショパンとしてのまとまりと見れば、よくなっているのかもしれないけれど、曲そのものが奏者の体を使って自由に羽ばたいていくような感覚とか、随所に仕込まれた詩的な要所が大きく意味をもって語ってくるような生々しさがなく、楽譜に書き込まれた多くの注意事項をよく守り、よくさらって弾いているという感じが前に出ているようでした。
細部にまで注意を張り巡らすことは大事だけれど、それで音楽の推進力が失われてしまっては、作品も演奏も縮こまってしまうだけで、大ポロネーズなど高揚感をもって弾き切って欲しいところを、なんども冷静に姿勢を撮り直すような感じがあるのは、正しいこととは思えませんでした。
またop.56-3のマズルカは一般的な人気曲ではないけれど、マズルカの中では最大級のもので、個人的にとても好きな作品のひとつですが、その悲しみや移ろいがこまやかに伝えられたとは言いがたく、聴く者の心を揺らす大事なところで、シャシャッと処理されていくあたりなどを目の当たりにすると、やはりショパンとはもともと相性が良くないのではないかと思いました。
とくに反田さんぐらいの方になると、大きくピアニズムというだけでなく、細かい単位での演奏フォームというものがあり、そのフォームがショパンに適合しているとは感じませんでした。
ファツィオリについても書きたかったけれど、だらだらと長くなってしまったので、またいずれ。
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