東京ピアノ巡り-2

【クラビアハウス】
親しくさせてもらっているピアノ店で、ちょうど見せたいピアノもあるから「ぜひ来てください!」と言っていただき、おじゃますることに。
1902年製というイバッハのアップライトがあり、手の込んだ装飾やデザインなど、威厳ある重厚な佇まいは現代の量産アップライトが組み立て家具のように思えてしまうほどで、昔はアップライトでもここまで手の込んだものを作っていたことに驚きつつ、その背後にある文化にも圧倒されます。
中までしっかりと手が入っており、とくにオーバーダンパーとかいう古い機構などは現代の方式に改められている由で、思いのままのタッチでとても弾きやすいことが印象的。
音はまさにヴィンテージで、枯れた音で芯があるのにふわんと鳴るのが心地よく、ずっと弾いていたいようなピアノでした。

他には明るいマホガニー艶出しのスタインウェイA型(内外ともに新品のように修復されているけれど、実は戦前のモデル)、美しいプレイエルやブロードウッドのグランド、さらには以前あった6本足のベヒシュタインの外装ができ上がっており、その素晴らしさたるや息が止まるほど。
ダークブラウンのボディには、繊細を極めた木工による象嵌細工が惜しげもなく施されていて、あまりの見事さ、装飾模様の上品さなど、もはや美術品といっていいほどで、ただただため息の連続でした。
フレームは外されていて弾ける状態ではなかったけれど、本当に美しいものというのは目にするだけで人を幸福で豊かな気持ちにするもので、やっぱり昔のヨーロッパの文化はとてつもないことを痛感。

届いたばかりという19世紀の終わりごろのスタインウェイBは、内部は凄まじい汚れで、タッチもバラバラ、音もめちゃめちゃでしたが、わき上がるような不思議な生命感があり、とても大きくて深いものをもったピアノでした。
ご主人によると、響板が例外的に素晴らしいものだったから仕入れられたそうで、これを一年ほどかけて仕上げていかれるとのこと。
ほかにもフレームを下ろした同時代のO型?、3年越しの修理が出来きたというベヒシュタインのグランドなど、ヴィンテージピアノは一台一台があまりに見るべき点が多く時間が足りないようでした。

日本に輸入ピアノを扱う店は数あれど、これほど徹底した修理や調整がなされた上で、しかも耳を疑うような良心的な価格で販売するヴィンテージの専門店が日本にあることは、なんと貴重なことかと思います。
『パリ左岸のピアノ工房』という本があったけれど、ふとそんなヨーロッパの良心的なピアノ店が、ひょっこり横浜に舞い降りたという感じです。

【ピアノパッサージュ】
ベヒシュタインの新旧いろいろを中心に、グロトリアンの新品アップライトやヴィンテージの200cmぐらいのグランド、ほかにはスタインウェイが数台、戦前のプレイエルのグランドとアップライト、何台かのペトロフなど。

ベヒシュタインのアップライトの中には小型でもかなり素晴らしいものがあって驚かされますが、なにぶんにもシリーズが煩雑で、どれがどういう位置づけなのか把握するだけでも大変で、さらにシリーズ名も変わったりと、混迷を深めるばかり。
以前は、上級シリーズとレギュラーシリーズでは、鍵盤上の表記が「C.BECHSTEIN」と「BECHSTEIN」というところで区別できていたけれど、現在はレギュラーシリーズも「C」が付くようになってしまい、いよいよわけがわかりません。
もしや意図的に分かりづらくしているのでは?と勘ぐりたくなるほどで、せっかくピアノは素晴らしいのに、シリーズ構成という点ではどことなくトリックのような印象をもってしまうところは、一流メーカーのモデル展開としては疑問を感じるところ。
(むろんこれはメーカー側の問題であって、お店とは関わりないことですが)

とはいえ、ヨーロッパ製の小型アップライトをあれこれと触れさせてもらいました。
それなりものから舌を巻くような極上品まで幅広く、これは実に面白い世界だと思われて、ある意味ではグランドよりマニアックな世界かもしれません。
とりわけ現代のベヒシュタインは、お叱りを承知で言わせてもらうと、魅力的なアップライトの製造に支えられて一流ブランドの名を保っているようにも思われます。
他の追従を許さぬ上質なアップライトを作るいっぽう、グランドではもう一皮むけてほしいもどかしさが残るのは、以前から感じていたことでしたが、今回も同様の印象で、そのあたりは風変わりなメーカーだと思います。

クラビアハウスでも同様でしたが、いまや何人もの女性の技術者が第一線で活躍されていることには、あらためて感銘と頼もしさを覚えました。
昔は技術や職人といえば男性の世界というような固定化されたイメージがあったけれど、それは愚かしい間違いであったことが見事に証明されており、みなさん知識も経験もひじょうに豊富で、さらにはピアノの技術者としての矜持も高く、大したものだと思いました。

なんでも話はサクサクと通じるし、自己顕示欲が強くて自説にこだわる面倒臭い男性より、遥かにサッパリしていてストレート、しかも気概は充分以上なものがあってお見事。
優秀な女性技術者の台頭によって日本のピアノ技術者のレベルはより向上する気がしました。
続きを読む

東京ピアノ巡り-1

4月中旬、所用で東京に数日間滞在しましたが、折悪しく平日で、とりわけ多くのピアノ店で火/水定休日のところが多いのは残念でした。
そんな中から、こちらの都合と時間を合わせながら、なんとかやりくりしてピアノ店を訪ねました。

以下、そのレポートを思いつくまま書いてみます。

【ファツィオリ】
飛び込みで行ったので、ダメモト覚悟でしたが、正午少し前にドアを開けたら真っ暗。
ほぼ留守だろうと思いながら声をかけると、ようやく奥から人の気配がして、暗闇の中から日本語の達者な若い外国人が出てきて、それ以降はきわめて親切に対応していただきました。

ピアノはF212/F228/F278/F308の4種を試しましたが、いずれも素晴らしい弾き心地で、むろんピアノそのものもいいけれど、精妙を極めたすばらしい調整にも驚きました。
F183は一台は売約済み、もう一台は届いたばかりの未調整で、いずれも弾けませんでした。
ちなみに、最小サイズのF156は受注生産で、価格はF183と同額とのこと。

F212/F228はそれぞれすばらしいものであったし、F278/F308の違いは、CDで感じていたこととあまりにも同じで、一般にCDはアテにならないと主張する人は多いけれど、個人的にはかなり信頼に足ることを実感。

あらためて言うまでもなく、あくまで個人的な印象ですが、F308はラインナップ頂上に君臨する、いわば鳳凰のような存在だろうという気がしました。
ご案内いただいた方は、流暢な日本語で、F308がいかに深い潜在力を秘めたピアノであるかをしきりに述べておられたけれど、私には、弾いてみた印象では真の主力はF278だと思いました。

とはいえどのモデルも、とても美しい上質感のある音で、ブリリアントかつまろやかで、クセがなく、弾いていて非常に心地よいことには感銘を受けました。
設計を間違えず、最良の材料と手間ひまを惜しまず作ったら、ピアノはこうなるだろうという正しい公式と答えを見せられる感じでした。

ただ、最終的に着地点が見いだせないのは、なんだろうかと考えました。
ひとつ思ったことは、ファツィオリは自己主張をせず、もしや個性がないことを狙っているのか…ということ。
楽器は演奏のための道具なんだから、だったらそれが理想じゃないかという向きには理想的とも思いますが、個人的にはいつも画竜点睛を欠く感じがつきまとうのも、やはりそのあたりなんだろうと思われます。

楽器は楽器に徹するか、そこに多少の個性が必要か、これはそう簡単に答の出る問題ではないでしょう。
あくまで想像ですが、ファツィオリが目指しているのはファツィオリの音ではなく、もっとシンプルで純粋な「美しいピアノの音」という理想なのかもしれません。
それはそれでアリかもしれず、ある程度それは実現されていて、ファツィオリに比べればヤマハでもヤマハの音がするわけで、ここまで個性を消すことは、もしかしたらものすごいことなのかもしれません。

ちなみにマロニエ君は、個人的には楽器に個性はやはり欲しいし、必要だと考えるほうのタイプで、どこかにわずかな不均衡や野趣を含むものが好みで、あまりに純粋一途なものは苦手かもしれません。

ファツィオリを最も活かすことのできるピアニストはだれかと思ったら、ただひとり思い浮かんだのがミケランジェリでした。
あの、最上のビロードのようなタッチと何層にも弾き分けられる多彩な音色で、病的なまでにこだわり抜いた音の絵画を描いていく手段として、ファツィオリは最高の絵筆になったかもしれない気がしました。

そう考えてみると、ミケランジェリはスタインウェイをかなりファツィオリっぽい、まろやかで濃密な、それでいて楽器が前に出ることのない厳しく制御のかかった独特な音にしていたように思われます。
それなのに…この稀代の天才とファツィオリは、わずかな時代のずれで、ついにすれ違ってしまったことが非常に残念に思われます。

ショールームのピアノに話を戻すと、その素晴らしさを支える要素として忘れてならないのは、精密を極めた調整がもたらすコンディションがファツィオリの素晴らしさの一部になっていることでした。
ずいぶん前、とある楽器店でちょっと触れたF183は、新品であるにもかかわらず、音といいタッチといい、とても価格に見合ったものとは思えないものでしたが、今回のファツィオリはまるきり別物でした。

音のなめらかなバランス、音色の揃い方、繊細でスムーズな思いのままのタッチなど、ふいに訪れたにもかかわらずこれほど常時見事に調整されているのは驚くほかありません。

もともとの美人が、さらにプロのメイクやライティングで輝いている状態なのでしょうけど、もし購入するとなれば、化粧崩れも出るだろうし実生活ではスッピンにもなる。
そのときにどういうピアノになるのか…却って不安になるような調整でした。
ま、買えるはずもないので、そんな心配をする必要もないですが。
続きを読む

ダルベルトとトラーゼ

BSのクラシック倶楽部アラカルトは、おそらくは個々の演奏家のプログラムから、55分の番組で入りきれなかった演奏を2人づつまとめて放送されるもののようです。
そんな中から、印象に残ったものを。

【ミシェル・ダルベルト】
昨年11月の浜離宮朝日ホールで行われたリサイタルから、ショパンの幻想曲、ドビュッシーの映像第1集。
いきなりですが、マロニエ君は昔から趣味じゃない人。
この人のピアノはCDを聴いても実演に接しても同じで、その甘いマスクとは裏腹に演奏はどちらかというと無骨、ニュアンスとかデリカシーというものがあまり感じられません。
近年の若い人のように、そつなくきれいに弾くだけの無個性無感動な演奏もどうかとは思うけれど、その点でいうとダルベルトは明らかに昔の世代の自分流を押し通すピアニストでしょう。

フランスのピアニストにときおり見かけられるタイプで、迎合的ではないところはいいけれど、細部にまで神経の行き届いた演奏ではなく、何を聴いても同じ調子で、気持ちが乗れないまま終わってしまいます。
もし違っていたら失礼だけれど、ただ弾きたいものを自分のスタイルで押し通してタイプでしょうけど、そのスタイルがよくわからずこの人なりの聴き所がどこなのかはいまだに掴めません。

ピアノはドビュッシーを意識して準備されたのか、珍しくベヒシュタインでした。
D-280かD-282かはわからないけれど、おそらく新しいものを使う日本のことだから282なのだろうと推測。

D-282というのはマロニエ君の理解の及ばぬピアノで、ベヒシュタインらしい特徴を残しつつ、現代のステージでも通用するコンサートピアノとしてのパワーその他を盛り込んでいるものと想像されますが、どうにもよくわかりません。

ベヒシュタインのカタログを見ていると、ひとつひとつの音の透明感や分離の良さ、和音になったときのハーモニーの美しさなどが特徴だということが随所に謳われているけれど、ショパンの幻想曲のような作品で音数が多く激しい曲調の部分にさしかかると、むしろ音が暴れ出し、あげくに混濁してしまうよう聞こえてしまい、ますます首をひねってしまう始末。

その点では、映像の第一曲のような緩やかな曲では発音のインパクトによる独特な効果があるし、この日は弾かれなかったけれど、たとえばベートーヴェンなどがベヒシュタインに似合うのは、むしろその特性ゆえだろうと思います。
ベートーヴェンは美しく澄んだトーンの音楽ではなく、苦悩や混沌の中から精神の高みへと到達するようなところに聞き所があるようなものだから、楽器も清濁併せ持ったものあるほうがふさわしい。
なので、はじめからスマートに整った響きのスタインウェイなどで弾かれても、もうひとつベートーヴェンらしく聞こえない場合がありますが、ベヒシュタインならばその野性味を駆使して自然に表現できるような気がします。

【アレクサンドル・トラーゼ】
プロコフィエフのソナタ第7番。
これまでに聴いたこともないような、瓦礫がそこらに荒々しくころがっているような、作品が産み落とされた時代の空気がそのままに伝わってくるような演奏でした。
とくに「戦争ソナタ」という名にふさわしく、グロテスクで、生臭く、容赦ない炸裂が何度でも繰り返され、これは本来こういう曲だったのか!と思わせられる瞬間がなんども到来するあたり、思わず聴き入ってしまいました。
以前のこの人のコンサートの様子には???と思うところもあったけれど、ツボにハマればすごい人なのだということも納得。

現代のピアニストの誰もが、この曲をロシアの技巧的なピアノ作品として、ピアニズム主導でスタイリッシュにまとめ上げて弾いてしまうことに対する、一種の警鐘ともとれるようなごつごつしたプロコフィエフで、久々に面白いものが聴けた気がします。
もしかするとまとめるどころか、散乱していなくてはいけない音楽なのかもしれないと思いました。

トラーゼは恰幅もよく、打鍵する力が強いのか、ピアノを鳴らす力も平均的なピアニストより一枚上をいっており、とくに強打ではなくても、すべての一音一音が太くて芯があり、今どきはそれひとつでも印象的。

むろん、大きな音を出せるから良いなどと言うつもりは毛頭ないけれど、現代の多くの若手ピアニストがガラス瓶で育った植物みたいな細い音しか出さなくなったし、昔の人のように全身全霊をこめて楽器に思いのたけをぶつけるというような迫力がありません。
どちらが本来のピアノ演奏として正しいことかどうかはさておいて、聴く側は、節度ある知的で美しい演奏も魅力だけど、時には駆け上るような燃焼感であるとか渾身のパフォーマンスというのは期待するのであって、これは理屈じゃなく本能の問題では。

多くの若手は、ミスをせず、無理をせず、推奨テキストと解釈にしたがって、よく動く指を武器に、ただきれいで正確なだけの演奏を目指すようになってしまい、即興性や冒険心を失っていることには危機感を覚えます。

他の音楽ジャンルではエネルギッシュな興奮に酔いしれることを良しとするいっぽうで、クラシックの演奏だけが精度や解釈ばかりにこだわって、あげく小さな細工物のようになってしまうことに、さすがにもう飽き飽きしてきました。
今どきは何かあると「命の大切さ」ということが叫ばれますが、音楽にも命の大切さは大事であるし、それが我々が音楽を楽しむ際の一丁目一番地ではないかと思うんですけどね。

トラーゼの演奏は、ただ単に面白いだけでなく、時流に対する反抗の精神も秘められているようでした。
続きを読む

ハイルーセン

浸透潤滑剤というのがあるのをご存知でしょうか?

動かないネジを緩めたり、いろいろな機械の可動部分の動きをズムーズにするシリコンなどの潤滑剤で、スプレー缶で細長いノズルが付いており、説明を見ても「締りや滑りの悪い敷居やサッシ」「カーテンレールの滑り」「タンスの引き出し」「PCマウスの動きがスムーズに」「ハサミの切れ味がよみがえる」などなんでも使えます。

車の世界ではよくあるもので、その最も代表的なのが「呉工業 CRC-556」などで、これはべつに車専用というわけではなく、なにかと使われている方は多いと思います。

「動きの渋くなった扉や戸棚の蝶番」「ギシギシ音の解消」にもよく使われるし、ピアノの調律師さんも道具箱の中にこれが入っているのは何度も見たことがあります。

以前書いた、日本製のコンサートベンチ(ピアノの椅子)のギシギシ音ですが、調整してくださった技術者さんも当然このCRC-556は使われたようですが、これの欠点は、その効果が短命で持続力に欠けるという点にあります。

使う対象にもよりますが、だいたい一週間から10日、ひどい場合は2〜3日で効果がなくなります。

ところが、世の中にはすごいものがあるんですね。
知人の話で、どうやっても消せなかった車の足回りから聞こえてくるキシミ音が、ディーラに出したらものの見事に治った上に再発もしないため、一体どういう修理をしたのかディーラーに聞いそうです。
ところが、はじめはなかなか教えてもらえず、問い詰めてしぶしぶ言ったのがトヨタのハイルーセンEVOという浸透防錆潤滑剤を塗布したということ。

そのディーラーがトヨタではないこともあり、それを使っていたこともなかなか言えなかった理由のようでした。
トヨタの部品販売店に行けば取り寄せてくれますし、アマゾンでも買えるものです。

車のサスペンションのゴムブッシュの境目や取付部などに塗っておくと動きが軽くなめらかになって、乗り心地が良くなるというので、講習をかねてそれをプシュプシュやっては走ってみるというような実験をしましたが、たしかにサスの当たり(とくに初動)が滑らかになり、車全体がスムーズになったかのようでした。

さっそくマロニエ君も購入したのは言うまでもありません。
価格は1缶2000円しないぐらいで、成分は「鉱物油、石油系溶剤、防錆剤」とあるだけですが、無色透明のサラサラした液体です。

はじめは車に使っていましたが、キッチンの食器収納の扉の動きが年々渋くなり、しまいには開閉にともない金切り声のようなとてつもない音を立てるので、「そうだ!」とこのハイルーセンを思い出し、その収納棚の扉を支える3つの蝶番にプシュプシュとやってみました。
結果は、その強烈な音がウソのように消えただけでなく、動きが超スムーズになりすぎて、いつもの力加減だとその扉に埋め込まれたガラスが割れるのではないかというほどの勢いでスパーン!と閉まりました。

それからというもの、家の中にも置くようになり、なにかというとこれを用いました。
それなのに、最も大事な使い道を思いつかなかったのですから、マロニエ君も相当抜けています。

以前、むかし買ったコンサートベンチが何度調整してもらってもギシギシ音が出ると書いたことがありますが、それはあいかわらずで、実をいうともうずいぶん長いことそうなので、半ば慣れてしまっていたのです。

でも、ついにピアニッシモの部分で、ギギッ!となったとき、「あっ、このコンサートベンチにハイルーセンを使ったら!?」ということが頭に降りてきました。
思い立ったら矢も盾もたまらず、大急ぎでそれを持ってきて、よいしょと重いベンチをひっくり返しました。

立派な表に対して、裏は意外に雑な作りで、木枠の中に鉄の骨が2組のX状に組み合わされて、それが伸縮して上下調整をしているようでしたので、その可動部分や木と鉄の接合部のボルトなど、思いつく限り注意深く噴きつけました。
そしてそのまま一晩放置。

翌日、ちょっとした胸の高鳴りを覚えながら裏返ったベンチをもとに戻し、座ってみる、果たしてギシギシ音はものの見事に消えていて、どんなに体重を左右にずらしても、まったく音がしません。
それからひと月以上が経過しましたが、その状態にまったく変化なしです。

自動車雑誌によると、トヨタは下請けメーカーに要求するクオリティも、その他のメーカーとはまるで違うとのことですが、このハイルーセンを使っただけでもそのスゴ味みたいなものを実感せずにはいられませんでした。
これはきっとピアノの内部にも役立つすぐれものだと思いますが、悲しいかなマロニエ君のようなシロウトでは試すことはできません。
続きを読む

反田さん牛田さん

つい先日、反田さんのショパンについて書きましたが、少し補足。

久しぶりにタワーレコードに立ち寄ったところ、お得意のラフマニノフの新譜が出ており、試聴コーナーにセットされていたので、これこそ本領発揮だろうと思って聴いてみることに。

曲はピアノ協奏曲第3番(ロシア・ナショナルフィル、指揮アレクサンドル・スラドコフスキー)、ソナタ第2番、op.23の前奏曲から2曲。
協奏曲は昨年10月のモスクワ、ソロは同11月に福島音楽堂での録音。

まず驚いたのは、ゆったりしたテンポ感でした。
気になったのは、実際のテンポそのものより、ビート感というか流れの推進力がなく、その場その場を確かなものとするような方向性なのか、どこを切り取ってもきっちり刻印されたように弾いている感じ。
たしかな技巧に恵まれ、せっかくこの3番という壮大な協奏曲を弾いているのに、これまでの反田さんのイメージからすれば、期待するものとはちょっと違うものを見せられているようでした。

もちろん全曲を聴いたわけではないし、店頭のあまり音のいいとはいえないヘッドフォンを通じて聴いただけなので、それで断定的なことは言えないけれども、それでもそこで感じたことというのはあるわけです。

あとに残ったことは、過日のショパンのときと同様、この人はいま何を目指しているのか…ということ。
ショパンコンクールを狙っているのでは?と前に書いたけれど、リストやラフマニノフを得意とし、ショパンも手中に収め、コンクール歴もこの際追加できるものは追加して、ピアニストとしての王道を目指しているんでしょうか。
個人的には、この人はこの人なりの個性や強みを活かして、いい意味での異端であってほしいのですが、もしかすると今の時代はそれを許さず、ディテールを整え、露出を増やし、キャリアや権威を身にまとい、なんとしてでも大物に仕立てあげなくてはいけないのかなぁ…と思います。

浅黒い肌に総髪、鼻の下とアゴにヒゲを生やして、まるで秘術でも使う忍者か、どこかのバーテンダーかマジシャンか、はたまた平氏の落武者のようでもあり、すくなくともピアニストっぽくない風貌も見る人のインパクト感に加勢しているのかも。
くわえてぶっきらぼうな態度がいかにも今どきの男子風で、どこかひ弱で線が細くて、なめらかなトークのできる音大生あたりにはない、野趣がある点も魅力なのかも。
その演奏の特徴はアーティスティックな感性主導かと思いきや、意外なほどエゴはなく、もっぱら健康でシャープで法令遵守タイプなので、サラッと時代の基準に合わせてやっていける人なのかもしれません。


同じ頃、民放BSでは牛田智大さんと小林研一郎さん指揮の読売日本交響楽団による、チャイコフスキーの第1番というのがありました。

この方も現代の若手ピアニスト特有の要素を備えていて、しっかりしたメカニックを備え、この難曲を滞りなく弾けますよということを聴衆と視聴者に、予定通りに示したような演奏でした。
くわえて、きれいな王子様風の雰囲気、甘いマスクと絶やさぬスマイルは反田さんとは正反対。

子供の頃から注目され、浜松コンクールで第2位になるほどだから、もちろん上手いし危なげなく弾けてはいるけれど、プロの演奏会というよりは、どこかコンクール風の雰囲気が拭えず、まだ演奏家としての確定された存在感が足りないのかとも思いました。

なにより感じるのは(牛田さんに限りませんが)、とかく今の若い人の演奏には、作品への敬愛の念とか、そこからインスパイアされた自己主張とか表現の試みというものがなく、むしろそこは排除するほうに育てられてきたという感じがすること。
演奏している当人が、その作品の中に没入して曲が鳴り響くというのではなく、山積みされた楽譜があり、音符や指示があり、それを覚え込んで徹底的に練習して今に至っているという現実が見えてしまいます。

自分がどう感じてどう解釈しているかという要素が見当たらないのは、それが競い合いでは却って裏目にも出る要素だから、消さなくてはいけないのかもしれません。
聴く側も、演奏という名目でのアスリートとしての能力だけを求めているように思えるふしがあり、そのほうがフィギュアスケートみたいでわかりやすいからでしょうか。
過当競争の世の中に生まれ、コンクールがあり、それに沿った指導環境の中で育ってくれば、勝ち抜くにはそうなるのは必然かもしれず、やむを得ぬこととは思いますけど…。

そもそも演奏の最も大事なことは、聴いている人に「また聴きたい」と思わせることだと思いますが、ひょっとすると音楽性だの個性だのを云々することが、すでに時代遅れなのかもしれません。
続きを読む

歯みがき

早いもので4月となり、平成の御世もあとひと月ですね。

奥歯が少ししみるので、2年ぶりぐらいに歯医者さんに行きました。
ここは治療というか施術というか、ようするに仕事がとても丁寧で、これまでに被せ物などをしても、一度も違和感などを感じたことがなく、治療のための治療は一切せず、人にも自信をもっておすすめできる歯医者さん。

毎度のことながら、歯磨きの大切さを教わり、さらに磨き方をいまさらのようにこまかく教えていただき、決意を新たにしているところですので、少しご紹介を。

まず驚くのは、ブラッシングに際しては、歯磨き粉には一切頼るなという考え方。
以前もこの先生は「私達は、歯磨き粉のチューブ1本使うのに半年ぐらいかかりますよ」といわれたので、またまた大げさな!と思って聞き流していましたが、どうやら本当のようでした。

スーパーや薬局に行くと、いろいろな歯磨き粉がズラリと並んでいて、中にはずいぶん高価で医薬品のような効能を謳っているものなどありますが、何度か使ったこともあるものの効果がよくわからず、いらい、また元に戻って、マロニエ君が使っているのは、だいたい500円前後のもの。

ところがこの歯医者さんがいわれるには、歯磨き粉そのものでどうこうということは、ほとんどないと考えてよろしいとのこと。
むしろ歯磨きで重要なのは、使うブラシと丁寧な磨き方がほとんど全てで、歯磨き粉はただの快感と自己満足のためであり、使わないなら使わないでも一向に構わないとのこと。
つまり、一般で言うところの「石鹸なし/水洗い」でよいというわけです。

大事なことは、先の細いブラシを使って、力を入れずやさしく一本ずつぐらいの気持ちで丁寧にブラッシングすることだそうです。
さらに歯間ブラシを使って歯と歯の間に異物を残さないこと。

難しいのは、「力を入れない」ことで、歯磨きは昔の雑な習慣で、ついゴシゴシやりたくなってしまいますが、それは歯茎を痛めるだけで何一つメリットはなく厳に慎むべしとのこと。
力をかけすぎると、歯茎が傷ついたり下がったりで、知覚過敏や歯槽膿漏の原因になるなどいいことはひとつもなく、そもそも力で歯や口の中をきれいにしようというのがまったくの間違いですね。

試しに先生が歯ブラシを手の甲に当てて「これぐらいの力加減」というのをやられましたが、本当にふわふわっと毛先が優しく当たる程度。

だいたい「歯磨き」という言葉がいけないのではないかと思います。
歯磨きというと、文字通り歯の表面を磨いてピカピカにするイメージですが、肝心なことは歯と歯の間、あるいは歯と歯茎の境目に付着した汚れや異物をていねいに取り除くことであって、これは精密なお掃除だと思います。
しかも、歯は硬いけれど、歯茎はとても傷つきやすい皮膚だということを忘れがちで、結果、歯茎をかなりいたぶっているんですね。

「歯磨き粉はなくてもいいもの」という認識があまり広まると、そちらのビジネスにも支障があるからかほとんど浸透していないのかもしれませんが、なるほど歯磨き粉は大した役割を果たしているわけではないことが実感できてきました。

というわけで、歯磨き粉なしで何度かやってみましたが、…気分的にこれはさすがにダメでした。
いっさい泡がないという感触は、まるで張り合いがないというか、気持ちよさがまったくないというか、ここはやはり先生の言われるように自己満足のために、これまでよりぐっと少量でいいからつけてみると、それでちょうどいいことがわかりました。

歯ブラシを手にするや、ついできるだけ短時間で、一気呵成にガーッと歯磨きをしたい人は昔は多かったと思いますが、いったんそれを捨て去って、たとえば…ピアノできれいな弱音を出すような気持ちでやってみると、ああそういうことか!と思えるようになるもんですね。

はじめの何度かは違和感が先に立ちますが、すぐに慣れてきて、正しい歯磨きが楽しくなりますよ。
続きを読む