ホール拝見

福岡市から南へ40数キロほど南下すると久留米市があります。
人口30万ほどの街ですが、古くから医学の街でもあり、ブリジストンタイヤの創業の地でもあるし、一方で青木繁や坂本繁二郎のような多くの画家を排出した地でもあります。

市内にはブリジストンの石橋正二郎氏が寄贈した石橋文化センターがあり、東京のブリジストン美術館と連携した日本有数の美術コレクションを展示する石橋美術館ほか、石橋文化ホールなどがあり、ブリジストンの躍進と地元への貢献を肌で感じることができる場所です。

その久留米市に、2016年だったか久留米シティプラザという複合施設が街の中心部に作られました。
古くからあった百貨店の跡地と、それに隣接する六ツ門広場という広いイベントスペースを潰して作られた大掛かりな文化施設のようです。

写真で見る限り、ずいぶん立派なホールで、一度行ってみたいと思っていたのですが、なかなか情報も伝わらず、ネットで調べてもこれというコンサートなどはあまりないようで、行く機会が見つからない状態だったですが、知人が久留米市市民オーケストラというアマチュアオケの後援のようなことをやっているとかで、そのオケの定期演奏会があると聞き、ホールを見るには良いチャンスだと思って行ってみることに。

久留米市のまさにど真ん中、街並みの中でも目立つ建物は二棟に分かれ、しっかりとした地下駐車場があり、外から見ても建物内に入っても、これはずいぶんがんばったなぁ…と思ってしまうほど立派なもので、まるでバブル時代にタイムスリップしたような感覚に陥りました。
全体の規模、エントランスやロビーなどの広々した作り、さらにメインのホールはおよそ1500人収容の、細部まで凝った意匠が散りばめられた贅沢な仕上げで、見ているだけで圧倒されるものがありました。

サイドの客席はセンター/左右と三方向に別れ、それが互い違いに5階まで続き、ホール全体は赤い色調の木目で張り巡らされており、それが床から舞台の反響板、各階の背後の壁にいたるまで徹底されています。
規模的にいうと、通常の大ホールはだいたい1800〜2000人規模のものが多く、その半分もしくは1/3ぐらいのものが中ホールとされるものが多いですが、1500人というのはその間というか、ちょっと一回り小さな大ホールといったところで、個人的には2000人規模のホールは大きすぎて好きではないので、より好ましいサイズだと思います。

福岡市にもこれぐらいの規模の施設があればいいなぁと思えるもので、音響も節度があり、濁らないクリア感があって、やはり音響設計は日々進化しているのだろうと思いました。
その点、福岡市内にあるメインのコンサートホールは最悪の音響にもかかわらず、改善の気配もなく、会場がここである限りマロニエ君は足を運びたくない筆頭のホールで、自分の地元のホールがこんな有様とは、なんたる不幸かと思うばかり。


この日のコンサートでは、冒頭の「魔弾の射手」序曲に続いて、2曲目がベートーヴェンの「皇帝」で、ピアニストはゲストとして招かれたとおぼしき若手の日本人ピアニストでした。
線の細い、今どき世代のヘルシー弁当のような演奏で、曲は確かに皇帝だけど、ドラマのないさらさら通過していくBGMのようでした。
「皇帝」ぐらいの超有名曲になれば、嫌でも一定のイメージが張り付いており、例えば全盛期のポリーニが汗みずくになり、唸り声を上げ、凱旋するヒーローのごとく弾いた皇帝にくらべたら、そのエネルギーは数分の一に減っていることでしょう。

昔のV8エンジンのベンツSクラスとプリウスぐらいの燃料消費の差がある感じですが、ガソリンなら使うのは少ないほうがいいけれど、聴衆に聴かせるステージ上の音楽まで、こうまで切り詰めてしまう必要があるのか、もはやマロニエ君なんぞにはわかりません。

ただし、思いの外よかったのは第二楽章で、これはかなり美しく弾かれたし、アンコールとしてメンデルスゾーンの無言歌集から「ヴェニスの舟歌」も同様で、柔らかい枝がしだれるようで、この2つが聴けただけでも収穫だと思いました。

オーケストラは、なにぶんにもアマチュアですから、普通の感想を持ってはいけないのでしょう。
みなさんとても熱心に練習されていると思うし、おりおりにあのような立派な会場で定期演奏会があるとなれば、やりがいも感じておられることとも思います。

施設その他を見物してまわっていたので、ホール内に入ったのは開演直前でしたが、なんと1階はほとんど満席で、案内の人から「最前列の右側しかありません」といわれ、あわてて2階に。
それもダメでついに3階まで上がって辛うじて空きを見つけたほどの盛況ぶりでした。

その移動時に感じたのは、センターと左右が段違いになっているためか、それぞれに繋がる通路が、からくり屋敷の迷路のように複雑でわかりにくく、いったん出てもどっちがどうなっているのかまったくわからなくなり、開演時間が迫っていることもあってほとんどパニック寸前でした。
案内の人に聞いても、瞬時に答えられず、これはちょっと凝り過ぎかもしれません。
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時代の流儀

iPadでのメールやLINEなど、いわゆるタッチ画面で文章を書くのが苦手なので、少しまとまった量になると一旦パソコンで書いて、それを自分に送信しコピペして送るのですが、ひょんなことから知人が別売りの便利なキーボードがあることを教えてくれました。

そんなこと常識なのかもしれませんが、マロニエ君はそっちのほうはからきし苦手なので、あれば便利かも…と思い、いわれるままにそのメーカーと機種をアマゾンに注文したところ驚くべきことが。

お昼少し前に注文したものが、なんと5時間後にはそれが届いて、その早業にビビリました。
発送元を見るとアマゾンの千葉県市川市となっていますが、九州にも大きなセンターのようなものがあるらしく、売れ筋のアイテムは揃っているのかもしれません。

それにしても、大変な時代になったものだとあらためて思ったし、これでは店頭販売が年々廃れていくのも仕方ないかと思います。
我が身をふりかえっても、たしかに店舗に足を運んで商品を見て、触って、比べて、その範囲の中から買うという行動が激減してることに気づきます。
現物確認さえあきらめれば、多種多様な中から商品を選ぶことができるし、その選択肢の多さは、とうてい実店舗がかなわないもので、しかも同時に価格の比較もできるとなれば、そちらが主流にならざるを得ません。
さらに、実際に出向く必要がないから、そのための時間も交通費も駐車料金もかからずで、とくに実用品はネット購入ということに(くやしいけれど)なります。

自分も利用しておいて言えた立場ではないけれど、こうして必要最小限の合理的なエネルギーで動いていくから、世の中は一向に活力が出ないような気がするし、ムダがなく安いことが全てに勝る正義のようになっていくことに殺伐とした怖さを感じながら、かくいう自分を含めて後戻りはできないレールの上を進んでいるようで、それがさらに恐ろしさを感じます。

そのうち本当にドローンがお届けに飛んでくる日もくるのかも…。


買い物といえば、先日H&Mでちょっとした安いシャツを買おうとしたら、さんざんレジに並ばされたあげく「袋代が20円かかりますが、よろしいでしょうか?」とにべもなく言われました。
咄嗟のことで、もしそれを拒否してシャツを裸で持ち去るのはさすがにどうかと思ったし、後ろにはレジを待つお客さんが何人も並んでいたので、ここは早く済ませることが大事なような気がして、考える時間もないまま承諾しました。

すると、小さな白いビニール地に赤でH&Mのロゴが入った袋がカウンター上におかれたものの、畳んだシャツ一枚がどうにか入るぐらいの小さなサイズで、こんなちっちゃな袋が20円もするの?と非常にびっくりしたし、なんともいえない不快感を抱きながら支払いを済ませ、店を後にしました。
スーパーのレジ袋だって、まだ大きいのが3円ぐらいで、こんなに小さいペラペラのビニール袋が20円とは、どうにも納得がいきません。

これはひとえに気分の問題で、商品代があと20円高くてもまったく構わないけれど、こういうことはできたらしないでほしいと個人的には思いますが、これも時代と割り切らなくてはいけないのかと思うと、無性に楽しくない気分。
とりわけ、外資系の会社というのは、客の心情などといったものを考慮しないのか、ずいぶんとドライで大胆なことをやるようで、そのあたりはどうにもマロニエ君は馴染めません。

会社側にしてみれば、いくらでも主張や理屈はあるのでしょうが、来店して商品を買ったお客さんに、それを持ち帰るための袋が必要ならを20円よこせというのは、マロニエ君が経営者ならぜったいしないと思う部分。

スーパーの有料レジ袋はさすがにもう当たり前になったので、マイバッグ持参で行くけれど、さすがに服を買うときまでそんな準備をしたくはないし、なんとなく通りがかりに立ち寄って買うということもあるわけで(今回が正にそう)、そのために常時袋のようなものを忍ばせておくなんてまっぴらごめんで、かといってあんな小さな、ゴミ用としても使い道もないような小さなビニール袋に20円出させられるのは、やっぱり納得はしかねます。

ゴミといえば、回収のための有料袋が福岡市の場合、最小サイズが15Lで15円なのですが、それよりも高いなんて、いったいどういうことかと思いました。

最近は、いろいろと理由はあるにせよ、どうにもしっくりしないようなルールがあまりに多いのは、それだけでも人生のいくらかをスポイルされているような気がします。
ひとつひとつは「たかだか!」というレベルのことですが、その「たかだか!」もずんずん積み重ねられたら、意外に大きなものになりますからね。
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非文化

日本人のある指揮者の方が、本の対談の中で、
「日本では西洋の芸術が文化になっていない」というテーマの講演があるといい、「文化とは血の中にあり感覚となっていて生活に密着しているものだが、日本では西洋音楽はまだ文化になっていない。血の中にないから、哲学や思想など頭で考え分析できるもののほうが近づきやすい…」と述べるくだりがあり、フランス音楽への理解が浅いのも「哲学的根拠のようなものを感じさせる音楽でないと、真の芸術ではない、という考えが日本にはある」と発言されており、おおいに膝を打ちました。

西洋の音楽というと、高尚な芸術として一部の人達に愛好されるものという敷居みたいなものがあって、普通にファッションやスポーツなどに接するように、日々の生活の中にごく自然にクラシック音楽が浸透し存在する状態、つまりは文化と呼べる領域にはまったく至らないようです。

世界的に見てもトップレベルではないかと思える、柔軟な感性を持つ日本人。
異国のものをすんなり受け容れ、自分達の生活に採り入れるなどお手のもの。
しかるに、西洋音楽がもたらされて一世紀以上経つというのに、こちらはいまだに専門家や愛好家だけの芸術ジャンルとしてソフトに隔離されており、およそ日常の中に文化として息づいているとは思えません。

例えばコンサートのプログラムにしても、多くの日本人は今だに演奏より曲目にこだわります。
それもただ自分が知っている曲があるかどうか、耳慣れた名曲が含まれているかどうか、問題はいまだにそのあたりを行ったり来たりしてことに唖然とします。

演奏者も、チケットを売るため有名曲を入れるよう主催側から強く要望され、不本意なプログラムにならざるをえないことは少なくないとか。

知っている曲を生で聴きたいというのもわかるけれど、では、知らない曲だとそんなに退屈ですか?というのがマロニエ君の正直なところ。
その人たちが映画や小説や美術館の作品に触れるとき、多くの作品を前もって「知っている」わけではなく、大半は「初見」でも文句は出ないのに、音楽だけは、どうして知っている曲じゃないといけないのかがわからない。

他のものと同じように、ただ楽しみとして自然に芸術に触れ、それを日々の中にやわらかに溶け込ませる、そこがどうも日本人には難しいらしいようです。
必ずやご大層なものになり、高尚で、専門的で、研鑽の対象という捉え方をするのは、楽しむことより身構えて勉強することのほうがしっくりくるからでしょうか。

それを感じるのは、アマチュアのピアノ演奏でも、ほとんどの人は技術的に余裕のもてる曲を選んで表現の美しさを追求することはなく、身の丈以上の大曲難曲に挑もうとする傾向。
これも根っこのところで、音楽を本当に楽しめていないから、演奏というパフォーマンスに重きを置き、そのための練習という技術の世界に迷い込む。
音楽(に限らず芸術を)を心の糧として楽しむことは、人生そのものの在りようやセンスの問題で、人に見せたり自慢したりすることではないから、それはただ練習という一本道というわけにもいかず、一朝一夕には達成できないことかもしれません。

そもそも「楽しみ方」を知らないのが良くも悪くも日本人なのかもしれませんけれど。

技術なら優劣が明確で、そこにヒエラルキーが生まれます。
日本の楽譜には、初級、中級、上級といった区分けがありますが、ああいうのが日本人は好きですね。
自分の感性や経験で判断しないから、人が分類してくれたものに従うほうが楽なのかも。

なので、ピアノ演奏も難易度別の技術と捉え、相撲の番付、将棋の段、算盤の級のような、わかりやすい階段を登ることは好きなようです。
そういえばピアノにはグレードという言葉があるようですが、「グレードを上げる」ことがモチベーションになり、ピアニストやコンクールで奏されるような有名な技巧曲を弾けることが「カッコいい」わけで、それが達成できれば周りから評価され一目置かれるから、それを目指すという図式。

要するに、音楽とは名ばかりで、根底には技術のピラミッドが立っているから、そうなると子供でも弾けるような易しい曲を、いかに美しく演奏するかということとは、まるで別の道になってしまうんですね。

つまり「日本では西洋音楽はまだ文化になっていない」となる所以がそこだと思います。
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制御を聴かせる大器

BSクラシック倶楽部から、今年2月のアブデーエワの日本公演から、ショパンのマズルカOp.7-3/Op.59、ソナタ第3番、シューベルトの楽興の時から第3番。

演奏スタイルは、少し忘れていたものをすっかり思い出すようにアブデーエワ流が健在でした。
年齢的にピアニストとしての黄金期に入ろうかという時期で、彼女が優勝したショパンコンクールからはや9年が経過ですが、特段の深化や変化は個人的には感じませんでした。

緻密な演奏プラン、理性の絶対優先のような演奏は大変立派だけれど、まるで音の講義にでも接しているようで、音楽を聴いているのになぜか音楽がこっちにきてくれず、もどかしさがまとわりつくのも以前とまったく変わりなし。

この人の演奏を聴いていて常に離れることのないのは、遊びのなさと過剰とも思えるコントロールという行為。
コントロールとは音楽を自然に美しく鳴り響かせるために裏で支えるものかと思っていたけれど、アブデーエワのそれはコントロールそのものがむしろ見せどころのようであり、これはある種かたちを変えた技術自慢のようにも思えます。

曲は隅々まで支配され、ピアニストがすべてを手の内に囲い込んでいるような印象を受けるのは、とりわけ女性ピアニストとしては稀有なことだと思うし、それだけ大器であるということでもあるのかもしれません。

マズルカを凛とした音楽として、大曲と同等に取り扱って弾くことは必要なことだとは思うけれど、あそこまで深刻で、息を殺して、まるでベートーヴェンの後期のソナタでも弾くようにやられると、なにかが違うんではないかと思ったり。
個人的にはもう少し力の抜けた、ふわりと浮かんできた詩の断片を音にするような、ショパンのこわれやすい心情がピアノを通して彷徨うようなニュアンスで進んでいくマズルカのほうが好み。

もう少し踏み込んでいうと、どの曲にもそれぞれ冒頭もしくはそれに近い部分に、その作品の顔ともなるべき主題や旋律があって、それがあれこれに展開して帰結するというのが多くの作品の作りだけれど、そのはじめの顔がこの人のピアノではほぼ無表情で、ひたすら説明的かつ慎重に音が並んでいくだけ。
聴いていて、核となるべきフレーズや動機がほとんど掴めないまま先に進んでいくため、つい自分で曲を補足しながら聴くという脳内作業をしており、なんとも収まりの悪い椅子に座っているようで、たえず体を動かしてしまうようなストレスを感じます。

それと、あれだけ長身で恵まれた体格をしているのに、やけに椅子が高いことも気になります。
高い椅子は、大きな音を出したり楽器や作品を支配するには有効かもしれないけれど、うるおいのある美しい音でピアノを深く鳴らすとか、ディテールのしっとりした語り、心の襞に触れるようなニュアンスが失われる気がします。

コンサートピアニストというのは、やはり聴衆に聴かせることが大前提で、それぞれのやり方で音楽的エクスタシーを聴衆が与えられなくては、聴く意味がない気がします。


クラシック音楽館から、真田丸の主題曲の演奏で有名になったヴァイオリニストの三浦文彰さんと、ピアノの江口玲さんによる共演で『三浦文彰☓デジタルアート』と銘打った、東京臨海副都心のチームラボ・ボーダレスで行われた演奏を視聴しました。
ピアノはニューヨーク・スタインウェイのLかO(たぶん)という、すくなくともテレビで見るには珍しい家庭用サイズのもの。

この2人、タイプはまったく違うけれど共通しているのは、きわめてオーソドックスな路線の演奏でありながら、今どきのどこかシラけたところがなく、しっかりと血の通った心にそのつど何かが届いてくる演奏をされることだと思います。
ズシッとした重みと、弾いているという実感があるのは極めて大事なことだし、これがなくてはどれほど素晴らしい技術や解釈であっても聴く気になれないし、演奏家としてまずもって必要なのはここだろうと思います。

家庭用サイズであっても、スタインウェイはしっかりスタインウェイで、とくにニューヨークの個性満載な音でした。
いつ頃の楽器かは知らないけれど、枯れた感じの音色がプログラム中にあったモーツァルトの時代のピアノのように鳴り響き、あまりにもぴったりで唖然としたほど。
モーツァルトのヴァイオリンソナタは、本来ピアノが主役の作品と言われますが、このお二人が演奏されたKV454では、まさに二重奏という感じで、両者ともモダン楽器をモダン奏法で弾いているのに、まるで18世紀の風が吹いてくるようでした。

江口さんは共演ピアニストとしての定評では随一の方ですが、いつ聴いても安定と信頼感にあふれ、その逞しいサポート力は聴くたびにさすがと思わせられる方です。
上手い人の手にかかると、曲のほうが自然にこちらへ寄ってきてくれる感じがします。
聴こうと努力しなくても、すいすい入ってくる演奏って心地いいですね。

そういう意味では非常にこのふたつ、対照的な演奏だと思いました。
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東京ピアノ巡り-おまけ

【銀座山野楽器】
最終日、飛行機が最終便で少し時間があったので、急に思い立って寄ってみることに。

ベヒシュタインConcert 8、スタインウェイV-125、ベーゼンドルファー120、ヤマハSU7をほんの少し触りました。
アップライトの横綱揃い踏みのようで、むろん素晴らしく、音も弾き心地もいかにもという感じに整っているところは、いずれも日本式にお行儀よくさせられて店頭に並んでいる感じ。
輸入物は500万円前後、SU7はヤマハアップライトの最高峰で240万円。

ベヒシュタインとベーゼンドルファーは本来もっとそれぞれの個性や持ち味があっていいような気もしましたが、ここでは端正に整っていることのほうが求められるのか、腕利きシェフの料理というよりは、リッチだけどクセのない一流ホテルのディナーみたいで、それが日本人的な高級品の見せ方なのかと思います。

そんな環境でも個性を隠せないのがスタインウェイとヤマハでした。
スタインウェイはあのブリリアントに通る中音から次高音、美しく引き締った官能的な低音など、ヨコのものがタテになっただけで紛れもないスタインウェイであることに感心させられました。
ヤマハも、さすがにこのへんになるとひじょうに美しく、ヤマハ最高ランクの材料を使い、注意を払いながら作られたヤマハの逸品というのは触れるなりわかりましたが、表情にはやや乏しいことと、低音の巻線部分になるとヤマハらしいビーンという、多くの日本人には耳慣れたあの音がするあたり、やっぱりヤマハにはヤマハの遺伝子があることを痛感しました。

どのピアノにも「ご試弾の際は…」の札が鍵盤上に置かれているので、お店の方に申し出るとすぐに応じていただきましたが、その札を外しながら「いちおう商品ですので、あまり長時間のご試弾はご遠慮いただきたい…」というようなことを言われました。

もとよりそんな気はないし当然の申し渡しとは思いましたが、考えてみれば試弾をいいことに、お店の商品を延々と弾きまくる輩もいるのだろうし、実際そんな被害にも店は遭ってきたのだろうと察せられました。


話は変わり、マロニエ君はかなりの車依存人間なので、東京滞在中もレンタカーを利用しました。
人によっては「エー、東京で車なんて却って不便、こわい、道がわからない、電車のほうが便利、なんでわざわざ!」といったようなことを言われますが、幸い道はだいたい頭に入っているし、駐車場探しなどは多少あるけれど、それでも実際には言われるほど大変でもムダでもなく、なにより車があるのは圧倒的に「楽」です。

昔に比べると東京は車の密度がずいぶん減ったのか、ほとんど渋滞のようなこともなく、昼夜とわずどこにでもスイスイ行けるのでむしろ自由度が広がり、しかも車に乗っている間はシートに座っているから休憩にもなるし、外部と遮断されたプライベート空間でもあり、マロニエ君にとっては快適でしかありません。
これが移動のたびに駅まで歩き、人の波に揉まれて、階段やエスカレーターを上ったり下ったりするのかと思うと、個人的にはとても自信がありません。

とくに夜、気ままに出かけたりドライブもできるのは車があったればこそで、個人的には圧倒的に時間を満喫できます。

夜、日用品を買うのに、豊洲にある大きなホームセンターに行ったり、遠巻きにしか見たことのなかった東京スカイツリーがどれほど高いのか見に行ったり。
こういう気ままな動き方は、電車や地下鉄ではなかなかできません。
その、東京スカイツリーですが、たしかに立派なタワーであることに異存はないけれど、夜の照明で飾られた様子などは上海などを連想してしまい、個人的には東京タワーのほうがずっと好きだなぁと思いました。
エッフェル塔には及ばないけれど、今にして眺めてみればよほど趣があり、昭和生まれにはしっくり来ますね。

以前は週に二〜三回は通っていた目黒通りや環八などは、ずいぶんと景観や雰囲気が変わり、交通量も減ってへえと思ったし、クラビアハウスに行くのに通った第三京浜にいたっては、鄙びた地方の高速道路かと思うほど交通量はガラガラで、これにはかなりびっくり。
以前の東京は、車といえば常に渋滞との戦いで、少しでも進めるルートを考えることに頭をフル回転させながらの運転でしたが、今やどの道もあっけないほど走りやすくなり、ちょっと肩透かしを喰らったようでした。

車を返却した最終日のみ、やむを得ず電車での移動を余儀なくされましたが、マロニエ君にとっては慣れないこともあってやはり大変です。
どこどこへ行くには何線に乗って、どの駅で乗り換えるかなどと考えて、実際、歩き量も疲れ量も倍増。
今はカーナビもあるし、車のほうがはるかに安楽と思いますが、なかなかこの点は賛同者がきわめて少ないのが不思議です。
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