このネット社会ではピアノ販売も例外ではないようで、すべてではないかもしれませんが、多くのピアノ店はネットをなんかのかたちで活用されているのは今更いうまでもないことでしょう。
過日行かせてもらったヴィンテージピアノ専門の某工房では、仕上がったピアノはすべて、ご店主と昵懇の間柄という男性のピアノの先生が工房内でじっくり試奏され、それを動画撮影してホームページにアップするというスタイルを取られています。
この方は、この工房との関係からか、夥しい数のヴィンテージピアノを経験されている由で、いわゆる普通の「ピアノの先生」といったイメージではなく、ヴィンテージピアノの専門家のような風情が漂っています。
しっかりしたタッチで、音は温もりがあって明朗、それぞれのピアノに対して変に弾き手の個性を入れず、ストレートにきちんと弾かれるそのスタンスは安心感さえ覚えます。
先日のこと、工房のご厚意で仕上がったピアノの動画DVDが送られてきました。
なんでも、いつもは演奏の様子だけを撮影されるのを、工房スタッフの方のアイデアでカメラを回しっぱなしにしてみたというので、演奏の合間に交わされる雑談の様子やその内容まで視聴することができました。
感心したのは、やはりというべきか、それぞれのピアノの特徴や美点をすぐに感じ取って、それを大事にするような演奏が自然にできてしまっている点。
ピアノ店の動画だから、あえてそういうことを心がけているというようなわざとらしさはまったくなく、長年の経験から本能的に楽器の個性を感じ取り、すんなりとそれを踏まえた演奏になるという感じでした。
これは楽器を奏する者としては、ある意味では当たり前のことであり、楽器のコンディションや個性に反応しながら弾いていくというのはきわめて重要かつ自然なことのはずですが、実はピアノの世界でこの当たり前はなかなかない事で、この面ではおそろしく鈍感な弾き手が多いのも現実でしょう。
どんなピアノかなどお構いなしにやたらと弾くだけの人って、ほかの楽器に比べて、ピアノはとても多いと思います。
演奏するにあたり、楽器のことを考えない人は、同じように作品のこともあまり考えていなくて、ただ自分が取り組んでいる課題(曲)を技術として弾き通すことばかりに全エネルギーを注いでいる。
楽器は自分にとって弾きやすいか、そうでないか…要するに道具でしかなく、楽器を慈しみ対話して、そのピアノが喜ぶような演奏をしようとする人って、本当に稀だと思います。
対人関係においても、相手の反応や場の空気を読みつつ柔軟に対応できる人と、そんなことはお構いなしに一方的にしゃべりったり自慢したりする人がいますが、ピアノの場合、残念ながら後者のほうがはるかに多い気がします。
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話が逸れましたが、この先生がおっしゃるには、ヴィンテージピアノはバンバン弾くのじゃなく、繊細に弾くことが大切、それぞれのピアノの光るところを探すこと、振動を感じること、きれいにではなく気持よくピアノが響くところを探って弾くことが大事だと、さりげない雑談の中で語っておられ、いちいち御尤も。
しかしそれは、ヴィンテージピアノに限ったことではなく、新しいピアノを弾くときにも、そっくりそのまま当てはまることだと思うのです。
ただそれがヴィンテージピアノにおいては、より顕著に楽器が求めてくるというだけで、楽器に相対する心得としては同じことだと思いました。
佳き時代のヴィンテージピアノは、弾き方しだいで本当に美しい、心にしみるような音で歌ってくれる反面、ぞんざいで無理強いをすると、たちまちそれが音として出てしまうなど、適当にお茶を濁してはくれません。
現代の量産ピアノはその点で、汚く弾けば汚く鳴るという面が薄いから、良くも悪くも表現のレンジが狭く、演奏を芸術として磨き高めるには楽器が厳しい教師とはなり得ないかもしれません。
常にセンシティブな感覚を身につけるというだけでも、ヴィンテージピアノっていい勉強になると思います。
また、大いに共感したのは、その先生によれば大曲を弾くより、シンプルな曲を弾くほうがピアノの良さもわかりやすいというようなことを言われていましたが、そもそもシンプルな曲を美しく弾くことのできない人が、どんなに大曲難曲を弾けたところで、当人の自己満足以外ほとんど意味を見出せません。
むかしある集まりにいたとき、ひとりだけ自分の技量を心得て、ギロックの小品を徹底的に練習して、さても見事に鑑賞に堪える演奏として弾く人がいましたが、こういう人こそ素晴らしいと思うし今でも記憶に残っています。
要するに、大事なことはどこにあるかという問題であり、価値感は人格をあらわすものだと思います。
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