ズンとラー

ロシアを代表すバレエ団といえば、いわずとしれた「ボリショイ・バレエ」と「マリインスキー・バレエ」。

マリインスキーバレエというのが本来の名称ですが、ソ連時代は「キーロフ・バレエ」として知られており、むかしマロニエ君が子供の頃に来日公演をやっていた時代は、少なくとも日本では「レニングラード・バレエ」の名で親しまれていました。

そのマリインスキー・バレエの附属学校として有名なのがワガノワ・バレエ・アカデミー。
ここに入学するには、本人はもとより、両親の家系までさかのぼって、バレエにふさわしい体格の持ち主か、太る体質の心配はないかまで調べられ、さらに入学後も太ってきたら退学になるという徹底ぶりというのは、以前からかなり有名な話でした。

NHKのBSプレミアムで、この学校の男子生徒に密着し、迫り来る卒業試験から各バレエ団の入団オーディションまでを追ったドキュメントが放送されました。

5〜6人の男子学生がその対象で、校長(元ダンサーのニコライ・ツィスカリーゼ)自ら彼らに対して連日熱い指導が続けられます。

そこにはクラストップの有望株と目されて、すでにプロ並みのしっとりした表現力を身に着けた者、あるいは長身と甘いルックスに恵まれるも今ひとつステージのプロになるための気構えの足りない者など、いろいろな生徒がいます。
その中にアロンという、英国人の父と日本人の母を持つ青年がいて、非常に努力家で優秀な生徒でしたが、周りに比べると、やはり手足の長さが不足気味、身長もやや低めで、それが彼のハンディになっていました。

目鼻立ちや雰囲気にはさほど日本人っぽさはないように見えますが、いざ白いタイツを履き、ロシアや北欧などの青年と並んで練習に励むと、やはり日本人のDNAの存在を感じないわけにはいかず、日本人のコンプレックスの根底にあるものは、ひとことで言うなら体格に行き着くのではないかということをあらためて感じずにはいられませんでした。

顔も濃い顔立ちで、普通に街にいればむしろラテン系の良い部類のようにも見えそうですが、なにしろロシアバレエの精鋭が集まる場所というのは、たとえ学校でも、すべてにおいて基準が違います。

そのアロン君、日本的なのは体格だけではありませんでした。
お母さんが日本人というだけで、英国生まれの英国育ちで日本語も番組中はひとこともじゃべらないほどヨーロッパ人だし、その踊りはとてもうまいのだけれど、どこか日本らしさがあって、のびのびとした流れや軽さがありません。

すると指導にあたるツィスカリーゼ校長が、なんとも鋭いコメントを浴びせました。

曰く、「日本人の歌い方の「ズン!」という感じで踊っている、もっと「ラー!」という感じで踊りなさい。」
まったく仰せのとおりでした。
アロン君に限ったことではなく、日本人のバレエは技術はとっても上手くなっているけれど、この「ズン!」という感じはいまだにつきまとっているのは、精神の奥深くにある何かが作用しているように感じます。

テクニックがテクニックで留まり、決まりのポーズやステップを覚えて並べていくだけで、体の動きが開放された軽やかな踊りとして見えません。
やはり日本人が自己主張が気質として弱いため、高度なテクニックの獲得までが目的になっている気がします。

そのテクニックが表現の手段として用いられるステージに至らない。
なぜかと考えますが、日本人は生まれながらに自己表現は慎むように遠慮するように育ってきて、だから気がついたときには表現したいものがない、もしくは小さいからではと思います。
行き着く先は、磨き上げたテクニックだけを拠り所にするという結果になるのではないかと思いました。

言われた方のアロン君は、「日本の歌も知らないし…」と困惑していましたが、その日本らしさは無意識に踊りに出てしまうもの、これぞ先祖から受け継いだ遺伝子のなせるものか?と思いました。
これは器楽の演奏にも同じことが感じられます。

器楽は肉体そのものを見せるパフォーマンスではないから、いくぶんマシとは思うけれど、やはり「ラー!」ではなく「ズン!」であるし、さらにいうなら歌ってさえいないことも珍しくありません。
日本人のパフォーマンスというのは、どこか真似事のようで暗くて閉鎖的に感じることが多いです。
ヴァイオリンなどでは、マロニエ君の個人的印象でいうと比較的関西圏から優れた演奏家が出るように思いますが、関西は日本の中では最も自己主張の強い地域性ということが関係しているのかもしれません。
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時代の音

当たり前なのかもしれませんが、ピアノの音というのも時代とともに少しずつ変化していくもの。

他の工業製品のように絶えず新型が出てくる世界ではないけれど、ピアノもとりまく社会環境、時代の好みや価値観、弾く人のニーズによって変化していくようです。

〜ということぐらいはわかっていましたが、最近はひしひしとそれを感じ始めています。

それが、毎年少しずつ変化しているのか、ある程度のスパンや区切りで大きく変わるのか、そのあたりは定かではないけれど、たとえば10年単位で見てみると、大雑把な世代というものがあることに気づきます。

例えばハンブルク・スタインウェイでは、1960年代、1970年代、1980年代、1990年代、2000年代とそれぞれの時代の音があって、古いほど太くて素朴な音、新しくなるほど華やかさが増す一方で、腹の底から鳴るようなパワーは痩せてゆき、その流れはとどこまで行くのか…という印象があります。

とりわけ昨年あたりからの新型は、なんとなく本質的なところまで変わってしまったようで、表面的には「いかにも鮮やかによく鳴っているよね」といわんばかりにパンパン音が出るキャラクターですが、その実、ますます懐の深さや、表現の可能性の幅はなくなり、整った製品然としたピアノになっているようにも感じます。

味わいだの、陰翳だの、真のパワーだのという深く奥まったこと(すなわちピアノの音の美の本質)をとやかく論じるより、新しい液晶画面のように、明るくクリヤーでインパクトのあるもののほうが、ウケるということだとも思えます。
そうしないと、大コンクールという国際舞台でもピアノも選ばれるチャンスを逸するということかもしれません。

もちろん大コンクールでコンテスタントに選ばれることがそんなに大切なのか?と思うけれど、そういう考え自体がきっともう古いのであって、メーカーにとってはこれが最優先であろうし、だからもうブレーキが掛からない。
どれだけ本物であるか時間をかけて出る答えより、パッとすぐに結果が出ることのほうが優先される時代。

ヤマハはCFXが登場して10年ぐらいになるのでしょうか?
はじめはいかにも歯切れよく、リッチで上質な音が楽々と出るピアノというイメージでした。
当初は演奏会で聞いても、モーツァルトまでぐらいの作品であれば、場合によってはスタインウェイより好ましいかも…と思えるような瞬間もあるピアノでしたが、その後はまた少しずつ違うものになっていった印象。
個人的なCFXの印象では、年々音の肉付きが薄くなり、懐も浅くなってきた気がします。

実は、こんなことを書いたのは、ちょっとしたショックを受けたから。
最近プレーヤーのそばに置いているCDがかなり聴き飽きてきたので、なにかないかと棚をゴソゴソやっていたら、フランスのピアニスト、ジャン=フレデリック・ヌーブルジェによるベートーヴェンのハンマークラヴィーアが出てきたので、これを聴いてみることに。
久しぶりでしたが、その鮮やかな演奏もさることながら、ピアノの音にはかなり驚きました。

録音は2008年にフランスで行われたもので、ピアノはヤマハCFIIISなのですが、これが「今の耳」で聴いてみると、なかなかいい音しているのには、かなり驚きました。
大人っぽく、しっとりしていて、深いものがあり、ある種の品位すら備えていました。

10年前ならなんとも思わなかったCFIIISの音が、こんなにも好印象となって聴こえてくるのは、それだけ最近のコンサートピアノ全体の音質が変わってきているからにほかなりません。

一時代前はヤマハもこういうピアノを作っていたんだと思うと、いろいろと考えさせられるところがありました。

いまや最新工法によるスタイリッシュなタワーマンションばかりが注目されがちですが、一時代前のずっしりとした作りの高級マンションの良さみたいな違いがしみじみ伝わってくるようでした。

いずれにしろ「重厚」というものは手が抜けず、裏付けるコストがかかるから、もう時代に合わないのでしょうね。
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つづき

パリの様変わりは、おそらくはパリだけのことではないのでしょう。
いつからということはわからないけれど、ヨーロッパはどこもかつての輝きを失っている気がします。

マロニエ君はとりあえずパリの状況に仰天して別の友人にその話題したところ、彼の知る学生でヨーロッパに留学経験のある人は、大抵何度かは強盗被害みたいなものに遭っているのが普通!?だと言われてしまい、「だったら、治安に関しては北京や上海のほうがはるかに安全では?」と言うと、「もちろん!」とこともなげに言われてしまいました。
まるでこちらの認識が遅れているかのように!

少なくとも20世紀までの、文化の中心である憧れのヨーロッパというものは、実際にはかなり失われてしまっているようで、留学などするにしても、治安に関してはかなりの覚悟が必要とのことで本当にびっくりしました。

曰く、テレビなどでよくある街角歩きのような番組では、切り取って編集し、いいところだけを作り上げるだけの由。
出演するタレントなどは、一見自由に動き回っているようにみえるけれど、スタッフなど常に周りから守られて、撮影隊も集団で行動するため、それがひとつの防御形態になっており、表面だけを見て気軽に個人旅行などをするのはリスクが有るとのこと。
べつに行く予定もなかったけれど、マロニエ君のような全身油断まみれのような甘ちゃんが立ち入るところではないようです。

こうなる背景のひとつは、移民問題や、あまりに行き過ぎた経済至上主義が世界中に蔓延した結果だというのはあると思います。
なにかといえば経済々々と、世界中そのことばかり。
そうなってくると、文化や芸術は直接的にお金になるものではないから、どうしても二の次になり、価値観の多様化とあいまってじわじわと価値を失い、価値を失えば豊かだった土壌は痩せて、新しい芽は出ないばかりか既存のものまで次々に枯れていくだけということなのかと思います。

そういえば、10年ぐらい?前のことですが、新聞紙上である記事を見たことを思い出しました。
福岡県出身の油彩画家の方で、長年パリで活躍して来られたという方で、年齢的にもまさに活動の絶頂期というタイミングで、パリのアトリエを引き払い、故郷の福岡県のどこか(お名前も場所も忘れました)に戻ってきたので、それを機に個展を開くという記事が載っていました。

その方のインタビューがありましたが、細かいことは忘れたけれど、その方が若いころ渡仏した頃からすると、近年のパリのあまりの変質ぶりに大いに落胆させられた。
年々芸術的な雰囲気が失われ、殺伐として、パリはもうあのパリではなくなった。
これ以上、自分がそこに留まる意味を感じられなくなったため、この度の帰郷となったという意味のことが述べられていました。

この記事を見た時は、へぇ…とは思いつつ、芸術家特有のちょっとしたことへのこだわりや気まぐれ、あるいは失礼ながら自分自身の行き詰まりもあるのでは…ぐらいに思っていました。

しかし、昔からパリの芸術と文化をリスペクトしていたその友人の、100年の恋も覚めたようなその様子を見て、これはやはり本当らしいと思うに至りました。


このところ日本への外国人観光客がずいぶん増えているようで、しかも多くがまた訪れたいという好印象を抱いて帰っていくとのことで結構なことではあるけれど、マロニエ君は正直いって不思議でなりませんでした。

日本のどこがそんなにいいんだろう?と日本人がこう言ってしまっちゃおしまいですが、まず安全で、人もそう危なくはないというだけでも日本の魅力なのかと、なんだか思いもしなかったことから納得できたような気になりました。

昨日もニュースで、海外からの旅行客が日本で落し物をしたところ、届け出があって戻ってきたというようなことを絶賛していましたが、こういうことが世界から見れば文化なのか?
ついには、遺失物を本国の持ち主へ送り返すビジネスも開始されるとかで、たしかに日本ならではのことかもしれませんね。
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最近のパリ

最近のパリの話というのを、久しぶりに会った友人から聞きましたが、かなりショッキングな内容でした。

一年ほど前にパリに行って戻ってきたとき、「我々が知るパリはもうどこにもない…」というようなことを電話で言っていたので、「またまた、大げさな!」と思っていたのですが、今回じかに詳しく聞いてみたところ、そこから語られる数々の話には少なからず驚かされるものがありました。

普通パリといえば「花の都パリ」という言葉が思い浮かぶように、芸術、美食、ファッション、その他もろもろの文化にかけては歴史的にも世界の中心として君臨した街。
パリを愛した芸術家は数知れず、その美しい街並み、すべてのものに息づくシックで斬新なセンスなど、マロニエ君もずいぶん昔に行ったパリはまさにそういう場所でした。

ところが近年の状況はさにあらず、街は殺伐とし、いわゆるパリジャン、パリジェンヌの大半は姿を消し、まったく似つかわしくない違った様子の人達でパリの街は溢れかえっているといいます。

ありとあらゆることに変化が起きており、例えば、かつては街のいたるところにあった美しい菓子店など、どこを見渡しても一気に払いのけられたように無くなり、かろうじて残る店も、商品は日持ちのする魅力ないものに合理化され、さらには昼食時間帯にはマックよろしく、パン(パン屋ではないのに)に何かを挟んだテイクアウト用の軽食を販売するなど、もはや伝統的なパリの気の利いた繊細なスタイルの多くは、ゼロではないだけで大半は消滅しているのだとか。

街角で土産として売っていたエクレアには「I LOVE YOU」の英字が踊り、地元の人々の優雅な生活を感じさせるものはことごとく消えているとかで、街全体は殺伐としているといいます。
ランドマークである凱旋門、エッフェル塔、オペラ座といった建造物はあるものの、でもそれだけで、街全体はほとんどスラム化しているといいます。
思わず涙しそうなノートルダム寺院の大火災は、こうしたパリの変化を象徴した惨事だったような気もしてきます。

なにより強く訴えていたのは、美しいパリのイメージとはかけ離れた治安の悪さで、いたるところにどこから来たのかわからないような怖そうな人達がたむろしているから、ただ歩いて通過することさえたじろいでしまうため、街歩きなんぞしたくてもできない状況だとか。

いっぽうルーブルやオルセーなどの美術館は、いずれもアジアの大国の人達でテーマパークのようにごった返し、有名作品の前ではワイワイガヤガヤ大声が飛び交い、揉み合うようにして自撮り棒で写真をとるなど、名画の世界に浸ることなどまったく不可能だとか。
日本の美術館のように静かに作品を鑑賞できるところは、アメリカのことは知らないけれど、もしかしたら日本ぐらいではないか…ともこぼしていました。

さらに驚くべき事件が追い打ちをかけます。
そもそも、この旅にはクリニャンクールの蚤の市にあるらしい楽器店に行く企みがあったというので、またバカなことを!とは思いました。
家族にも内緒でまとまった現金を持っていたらしいのですが、オペラ座近くのメトロの駅階段を登っていたところで、日中、突然背後から襲われ、有無を言わさず背中のリュックのファスナーを開けて現金を強奪されたというのです!!!
まさに一瞬のことで為す術もなく、さいわい現金は2つに分けていたため、1つは無事だったものの、その被害たるや笑っては済まされないような額で、聞いているこちらが心臓はバクバク、頭はクラクラしてきました。

警察に飛び込んでも訴えるだけの語学力もないし、上記のような街の状況からしても、取り返すことなど不可能だと悟って、被害届も出さなかったというのです。
それからというものさらに気を引き締め、リュックは背中ではなく体の前に提げるなどして全身注意の鎧を固めていたにもかかわらず、後日なんと再び歩いているところを物盗りに襲われ、今度は必死に防御して被害はなかったというのですが、相手は複数の場合が多いから、下手をすれば物陰に連れ込まれて命の危険さえあることを肌で感じたそうです。

帰国していろいろな人に話したところ、フランスに限らないそうで、スペインではターゲットを路地裏に連れ込み、口元を殴って前歯を折られてパニックになっているところで、身ぐるみ剥がれるという手口が多いのだそうで、今どきのヨーロッパとはそんなにも恐ろしいところなのかと驚愕しました。

この友人は、ロッシーニではないけれど音楽と美食を心から愛するため、一人旅のくせに高級レストランに行くことも目的で、それでも意地でいくつかの有名店には行ったというのですが、さすがに店内はどこも安全だったけれど、食事が済んで一歩店を出ると、とたんに再び恐ろしい危険と緊張感が広がり、要するに街全体が一瞬も気の抜けない無法地帯のようになっているということのようです

これがパリの現在の姿だなんて、考えたくはないですね。
近年日本のアニメがパリでも大人気などという話を聞いて首をひねっていましたが、環境自体がこれだけ変わっているということも考慮しなくてはいけないのかもしれません。

その友人は、佳き時代の終わりの頃から4回ほどパリに行ったけれど、もう二度と行くつもりはないそうです。
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ブラウティハム

むかしと違って、何を聞いてもドキドキワクワクさせられることが極端に少なくなった、いわば演奏家の生態系が変わってしまったかのような今どきの演奏。
技術的な平均点はいくら向上しても、喜びや感銘を覚える演奏には縁遠くなるばかり。

そんなあきらめ気分の中、ひさびさに面白いというか、なるほどと頷ける演奏に接しました。

Eテレのクラシック音楽館の中からエド・テ・ワールト指揮によるN響定期公演で、冒頭がベートーヴェンの皇帝だったのですが、ピアノはロナウド・ブラウティハム。
オランダ出身のフォルテピアノ奏者として、旬の活躍をしているらしい人で、近くベートーヴェンの協奏曲全集もリリースされる予定ですが、ピアノは普通にスタインウェイのD。
(全集はフォルテピアノ使用の由)
その普通がとっても普通じゃないので、まずここで驚きました。

A・シュタイアーのときがそうであったように、フォルテピアノの奏者がモダンピアノを弾くと、どこか借りもののようなところが出てしまうことが往々にしてあるので、さほどの期待はせず視聴開始となりました。

ところが、その危惧は嬉しいほうに裏切られて、これまでに聴いたことのないような、センシティブな美しさに満ちた演奏に接することになりました。
とりわけ皇帝のような耳タコの超有名曲で、いまさら新鮮な感動を覚えるような演奏をするというのは生易しいことではありません。

なんといっても、聴いていて形骸化したスタイルではなく、音楽そのものの美しさが滲み出てくるのは強く印象に残りました。
もともとベートーヴェンの音楽は誇大妄想的で、葛藤や困難があって、それを克服する過程を音楽芸術にしたようなところがあるけれど、ブラウティハムはそこに意識過剰になることがないのか、曲本来がもつ純音楽的な部分をすっきりと聴かせてくれるようで、おかげでベートーヴェンの音楽に内在する純粋美を堪能させてもらえた気分でした。

特に皇帝でのソリストはヒーロー的な演奏をするのが常套的であるため、そうではない演奏となると貧弱で食い足りないものになりがちです。
ところが、この演奏は、そういうものとは根本的に別物。
深い考察や裏付けがきちんとしたところからでてくる音楽なので、そのような不満にはまったく繋がらなかったばかりか、これまで何百回聴いてきても気づかなかった一面を気づかせてくれたりで、これにはちょっと驚きでした。

それと、これまでの印象でいうと、一部の古楽器奏者には、自分達こそ正しいことをやっているんだという押しつけがあって、モダン楽器演奏の向こうを張るようなイメージがありましたが、ブラウティハムの演奏はそういう臭みがなく、ごく自然に耳を預けられる魅力がありました。

彼は決してピアノを叩かないけれど、それが決して弱々しくも偽善的でもなく、むしろ多くのモダンの演奏家よりも音楽そのものに対するパッションがあって、その上で、常にピアノを音楽の中に調和させようとするからか、音の大きくない演奏でも深い説得力があり、舌を巻きました。
ピアノがどうかすると弦楽器のようであったり、皇帝がまるで4番のようにエレガントに聴こえる瞬間が幾度もあって、とにかく美しい演奏でした。

今どきのピアニストによる、指だけまわって、型に流し込んだだけの簡単仕上げで、なんのありがたみもドラマもない、アウトレット商品みたいな演奏の氾濫はもうこりごりです。

アンコールでは「エリーゼのために」が弾かれ、そこでもわざとらしい表情を付けるなど作為が皆無の、節度ある自然なアプローチが、まるで初めて聴く曲のようだったし、2つの中間部も、これほど必然的に流れていくさまは初めて聴いたような気がして唸りました。

ベートーヴェンは、実はとっても優美な音楽ということを教えられました。
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定義と機会

前回の記述で、ハンマー交換に関連して思ったこと。
それは、ピアノのオーバーホールの定義とは?そもそもなにをもってオーバーホールと云えるのか?ということ。
その基準を明確に示すものはおそらくなく、ハンマーと弦とチューニングピンを交換するだけでもそう言ってしまうことがあるようですし、かくいうマロニエ君もずいぶん昔は単純にそんな風に思っていたこともありました。

当然それには異論もあり、それなら「ハンマーと弦とチューニングピンを交換済み」とすべきだとする意見は尤もで、オーバーホールというからにはもっと広範な意味が含まれて然るべき。

では、どこまでやったらオーバーホールと言っていいのかとなると、ピアノの状態にもよるでしょうし、技術者の考え方にもよるでしょうから、これは答えに窮する問題ですね。

アクションや鍵盤まわりのほぼすべての消耗品を新品に換える、ダンパーのフェルトも交換、弦を外しフレームを外して塗装、響板のニスを剥がして補修までやって、なんならボディの塗装まですべてやり変えることもあるし、中にはピン板を作り直したり、響板そのものまで張り替えるということもあることを考えると、これは正直いってどこまでという線引は簡単にできるようなことではありません。

やるとなれば際限がないし、厳密なことを言い始めたら、鍵盤も鉛を入れたり抜いたりで痩せて傷だらけだから新造し、アクションも新品にするならそれにこしたことはない。
すべてのクロスやバックチェックも交換もしくは張替えて、なんなら金属パーツも交換。
そうなると、本当に何もかもということになり、最後に残るのは、ボディとフレームぐらいになるのであって、そうなると完璧なオーバーホールというのを超えてしまって、新造の要素が勝ったピアノになってしまう気がしないでもありません。

では、そこまですれば最高の音が約束されているかといえば、それは別の話で、陶芸が釜から出してみるまでわからないというのと同様、オーバーホールもやってみるまでわからない、あるいはそこから数年経ってみないとわからないという面があり、なかなかおいそれと手が出せるものではないでしょう。
とくに作業をする人の腕前にも大きく左右されると聞きますし、さらにいえばそれを受け取って、弾いて、管理していく側にも責任の一端がありそうです。

加えて費用の面でも、やればやるだけ値は嵩み、そうなるとよほどの高級ピアノであるとか歴史的な価値がある等、ごく一握りの特別なピアノだけがこの超若返り術を受けることができるわけで、一般的な量産ピアノではほぼありえない話になってしまいます。

わけても量産ピアノの場合、コストとの厳しい睨み合いになり、最低限の消耗品の交換に留めることが現実的なオーバーホールということになりそうです。
それでもそれなりの費用となるので、日本ではとくに高級品ではない国産ピアノのオーナーでそこまでする理解と覚悟をもって作業依頼される方は、ゼロとは言わないまでも、普通はおられないと思います。

それでなくても日本人は基本的に新しい物が好きで、古いものを手入れをしながら使うという文化や習慣が薄く、住まいも、クルマも、そしてピアノも、経済さえ許せば買い換えに勝るものなしという感性なので、そこまでするなら倍の金額を出しても買い替えを選ぶように思います。
かくして、ピアノは下取りに出されることに。

量産ピアノが大修理を受けるのは、大抵の場合、いったん所有者の手を離れたこのときのような気がします。
おどろくばかりの安値で買い取りされたピアノが、消耗パーツを交換して再生品として美しく仕上げられ、そこに利益が上積みされて、新品を買うより安い…ぐらいの微妙なプライスで販売される場合。

そう考えると、日本でピアノのオーバーホール(のようなこと)がおこなわれるケースの大半は、所有者を失ったピアノが、再び商品価値を与えられる場合ということになるのかもしれません。
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