ジャン・チャクムル

トルコの若いピアニスト、ジャン・チャクムルの来日公演をBSのクラシック倶楽部で視聴しました。

最近のコンクールというものにほとんど関心がないこともあり、この人が昨年の浜松国際ピアノコンクールの優勝者ということも、この番組ではじめて知りました。
よく考えてみると、NHK制作のこのコンクールのドキュメントがあったのだから、それで覚えていてもよさそうなものですが、この時はある日本人ひとりに異常なほどフォーカスしすぎており、その他のコンテスタントについてはほとんど採り上げられなかったこともあって印象にありませんでした。

それで、はじめて浜松コンクールのことを検索したら、この人が昨年第10回の優勝者であり、このコンクールが3年に一度開催されていることも今回ようやく知りました。
マロニエ君はこれだけピアノが好きで、ピアニストにも興味津々なのにもかかわらず、関心がないところは切り落としたように目が向かないためか、しばしばこういうことが起こります。

今回視聴したコンサートは今年8月にすみだトリフォニーホールで行われたもので、プログラムはメンデルスゾーンのスコットランド・ソナタ、シューベルトのソナタD568、バルトークの組曲「野外で」という、個人的には好ましく感じるものでしたし、プログラミングという段階ですでにピアニストのセンスの一端が窺えるもの。

演奏を聴いて真っ先に感じることは、近頃の若いピアニストにしては呼吸と力の配分があって心地よさがあるということと、出てくる音楽に一定のフォルムと生命感があるということでした。
さらにいうと、演奏に際してわざとらしい自己主張など多くを盛り込むなく、作品の求める自然なテンポやアーティキュレーションを崩さないことは、今どきにしては珍しいタイプだと感じました。

多くの若者は評価のポイントが稼げるような演奏はいかなるものかを心得て弾いているのが透けて見え、必要以上にタメや間をとったり、どうでもいいような価値のないディテールの細部とかを見せつけることに専念しすぎたあげく、肝心の音楽が停滞することがしばしばですが、チャクムルにはそれがなく、心地よい運びで音楽が前進します。

いわゆる最上級の天才的なピアニストの演奏を味わうといったものではないけれど、楽曲の世界を心地よく周遊させてくれる、スマートな案内人のようなピアニストだと思いました。

それを裏付けるように、インタビューでも概ね次のようなことを言っていましたが、チャクムルはある程度その言葉通りの演奏ができている人だと思い、言行一致というか納得できるものでした。
「演奏家はコンサート中に情緒や感覚をそれほど重視しません。フレーズの開始やアクセントの位置、和音の解決などを現実的に考えます。音楽を正しく理解し伝えれば自然と意味が生まれます。演奏家が音楽に意味を吹き込むのではありません。正しい文法で弾けば音楽は自然に立ち上がります。練習や準備を重ね、そこを理解できるようにするのです。音楽の意味をすることと、ひらめきで弾くのとはちがいます。」

個人的には、この領域に留まる演奏というのはさして魅力を感じないことも事実ですが、演奏のプロフェッショナルとしては実際的で、変な自己アピールを押し付けられるよりは、こういう演奏をしてもらったほうがストレスなく快適というのも事実。
こういうピアニストが、知られざる作品を録音したり、実際のステージでも紹介してくれたらいいなぁと思います。


ピアノはカワイのSK-EXが使われていましたが、調べてみると、チャクムルは浜松コンクールの時からこれを弾いて優勝しており、かなりこのピアノを気に入って信頼もしているのでしょう。

実際にチャクムルの演奏や言葉に触れてみると、彼がSK-EXを選ぶというのもわかるような気がします。
マロニエ君もいつだったか最新のSK-EXをゆっくり触らせてもらいましたが、以前のカワイに比べて一段と洗練が進んで、没個性的ではある反面、嫌う要素も少なくなって、よりオールマイティなピアノにアップグレードしていると思いました。
とくに印象的だったのは、今回の演奏を聴いてもそうですが、カワイとしてはかなり雑音が少なくなっており、素朴で牧歌的でもあったものがぐっと都会風なテイストに寄せてきたという印象です。

チャクムルのようなスタンスで演奏をするピアニストにとって、ヤマハは華美にすぎるし、スタインウェイはピアノそのものが前に出すぎるだろうから、そうなると消去法でいってもカワイということになったのだろうと、勝手に想像し、勝手に納得です。

SK(シゲルカワイ)といえば、数年前に購入された知人がいて、先日お宅におじゃましてちょっと触れさせていただきましたが、いい感じに熟成されており、すっかり感心させられました。
「新品時がピーク」といわれる国内産ピアノでは、しっかりと成長しているのは素晴らしいことです。
この価格帯で買えるピアノとしては、かなり有力な存在で、好みにもよりますが有名メーカーのセカンドラインあたりを狙うよりは賢い選択となるのかもしれません。
ただし、あのロゴマークとカーボン素材のアクションに抵抗感がなければ…ですが。
続きを読む

軽い!

楽しくありたいブログに、体の不調のことなど書いても意味がないし、だいいち無粋であり敢えて触れていませんでしたが、マロニエ君は今年の夏頃から少し膝の痛みを感じるようになり、整形外科など医療機関にもいちおう行ってみました。
これといって明確な原因もわからず、レントゲンを見ても幸い大したことでもないというわけで、その後は放置状態に。

主だった原因を強いて探すなら、運動不足と年齢的なもの、あとはストレスといったところが専門家のおおよその結論。
ただ、車の運転やピアノのペダル操作が、たまにつらい時があり、この先ピアノと車という人生2つの楽しみを取り上げられる時がくるのかと思うと、これはさすがに困ったことになったと思いました。

これで初めてわかったことですが、車のペダル操作に比べると、ピアノのそれは比較にならないほどの骨と関節と筋肉の労働であるということ。

さらにいうと、車のアクセルはなにしろ軽くて、そっと踏んで発進し、あとは交通状況に応じて離したり少し踏み足したりと、その動きもおだやかなものですが、ピアノのペダルときたら、ペダルじたいがかなり重く踏みごたえがある上に、その微妙な力加減や頻度というか踏む回数という点では、車とはおよそ比較にならないほどの運動量であることを知りました。

そもそも、車のアクセルはわずかな操作に終始すればいいのに対して、ピアノはまるで小動物のように絶え間なく踏んだり離したり、場合によっては小刻みにつつくような動きが必要で、しかもペダルもかなりの踏力を要することが判明、かくしてピアノは膝にとってはかなりハードな楽器であることを今ごろになって知りました。

幸いそれほひどい症状ではないから、注意してやれば弾けなくはないけれども、マロニエ君の場合、ピアノは純然たる趣味であるし、レッスンに通っているわけでも人前で弾くといった目的があるわけでもないので、弾かないならいつまでも無制限に弾かないで済んでしまいます。
そんなわけで自室のアップライトは気が向いたら触ることはあっても、リビングに鎮座しているグランドはほとんど手付かずの状態が続いていました。
しかも、そのグランドのペダルは標準的なものよりもやや重めで、技術者の方に聞いたら、中のスプリングを交換するとかあれこれの対策をいくつかおっしゃっていましたが、どうせ劇的に軽くなるわけじゃなし、面倒臭いこともあってついそのままに。

それを知人に話していたら、先日遊びに寄っていただいた折、なんとわざわざペダルの補助装置というのをお持ちくださっており、目の前に現れたそれは、金属製の手のひらにのるほどの小さな器具でした。
そういえば、こういうものがあることはネットか何かで見たような覚えはありますが、現物を見るのも触るのもこれが初めて。
それをペダルに差し込み、上からネジを閉めるだけで装着完了。

たったこれだけのことなのに、なんたることか、ウソみたいに軽くなっているではありませんか!
キツネにつままれているようでしたが、何回踏んでも、あっけないばかりに軽くて、どうしてこんなことができるのか、わけがわかりませんでした。
もともとのペダルにその装置を取り付けるから、踏む位置が約6cmほど手前に出てくるため、テコの原理でそうなるのか?とも思いますが、それにしてもその変化というのがあまりにも強烈で、こちらの頭のほうがついていけない感じでしたが、頭がついてこれなくても実際に重さはこれまでの数分の一というレベルになっているのですから、楽であることだけは紛れもない事実。

それにしても、なぜこんなに劇的に軽くなるのか、いまだに謎です。
テコの法則にくわえて、その装置じたいのわずかな重さも関係があるのかも…など思いを巡らすばかり。
もしそうだとするなら、これは鍵盤の法則を思い出させるもので、短いグランドより大型のほうが鍵盤も長くなり、そのほうが軽くコントロールもしやすいというのに似ているし、あるいは装置じたいの重さも一役買っているとしたら、これは鍵盤の鉛調整のようで、ピアノとはかくも微妙なバランスの上に成り立つ世界なのかと思う他ありませんでした。

いずれにしろ、思いがけなく良い物を教えていただきました。
あまりの効果に驚愕し、すぐに自分でも購入しようと思っていたら、なんともうひとつあるからどうぞ使ってくださいという望外のご厚意をいただき、とんでもないと思ったけれど、頑としてそのように仰るものだから、ついにはお言葉に甘えて使わせていただくことになりました。
かなり疎遠になっていたグランドですが、おかげで少し寄りを戻せるかもしれません。
なんともありがたいことでした。

ペダルの重さが気になる方は、断然オススメです。
続きを読む

リシャール=アムラン

久しぶりにネットからCDを購入しました。

これという明確な理由があるわけではなく、とくに欲しいと思うCDがさほどなかったことと、すでにあるCDの中から聴き直しをするだけでも途方もない数があって聴くものがなくて困っているわけではないし、一番大きいのは新しい演奏家に対する期待が持てないことかもしれません。

また、慢性的なCD不況故か、リリースされる新譜も激減しており、店舗でもネットでも新譜コーナーには何ヶ月も同じものが並んでいたりと、この先どうなるのか?…といった感じです。
以前は、毎月続々と新譜がリリースされ、興味に任せて買っていたらとてもじゃないけど経済的に追いつかないほどでしたので、この業界も大変な時代になったということがよくわかります。

実際、若いピアニストでも興味を覚える人(つまりCDが出たら買ってみようと思えるという意味)というのはほとんどなく、大体の想像はつくし、もうどうでもいいというのが正直なところ。
そんな中で、わずかに注目していたのが2015年のショパンコンクールで2位になった、カナダのシャルル・リシャール=アムランで、彼のCDはショパン・アルバム(コンクールライヴではないもの)とケベック・ライヴの2枚はそれなりの愛聴盤になっています。

現代の要求を満たす、楽譜に忠実で強すぎない個性の中に、この人のそこはかとない暖か味と親密さがあり、けっして外面をなぞっただけのものではないものを聞き取ることができる、数少ないピアニストだと感じています。

とくにケベック・ライヴに収録されたベートーヴェンのop.55の2つのロンドとエネスコのソナタは、ショパン以外で見せるアムランの好ましい音楽性が窺えるものだと思います。
テクニック的にも申し分なく、しかもそれが決して前面に出ることはなく、あくまでも表現のバックボーンとして控えていることが好ましく、常に信頼感の高い演奏を期待できるのは、聴いていてなにより心地よく感じています。

さて、このアムランはそのショパンコンクールの決勝では2番のコンチェルトを弾きました。
このコンクールでは、決勝で2番を弾いたら優勝できないというジンクスがあるらしく、それを唯一破ったのがダン・タイ・ソンで、入賞後のインタビューで「なぜ2番を弾いたのか?」という質問に、アムランは「1番はまだ弾いたことがなかったから…」というふうに答え、「いずれ1番も練習しなくてはいけない」と言っていましたが、それから3年後の2018年に、そのショパンの2つのコンチェルトを録音したようです。
指揮はケント・ナガノ、モントリオール交響楽団。

前置きが長くなりましたが、今回購入したうちの1枚がこれでした。
添えられた帯には「アムランの芳醇なるショパン。ナガノ&OSMとの情熱のライヴ!」とあるものの、聴くなりキョトンとするほど整いすぎて、まさかライヴだなんて想像もできないようなキッチリすぎる完成度でした。

決して悪い演奏ではないけれど、演奏自体も録音を前提とした安全運転で、マロニエ君にはこれをやられると気分がいっぺんにシラケてしまいます。
演奏というのは、ワクワク感を失って額縁の中の写真のようになった瞬間にその価値がなくなると個人的には思っていますが、こういうものが好きな人もいるのでしょうが、個人的にはとてもがっかりしました。

リシャール=アムランという人は、自分を認めさせようという押し付けがなく、おっとりした人柄からくるかのような好感度の高さがあるけれど、このCDでよくわかったことは、でもキレの良さなどはもう少しあった方がいいということでしょうか。
それから、はじめのショパンのアルバムの時から少し気になっていたけれど、装飾音がいつもドライで情緒がないことは、今回もやはり気にかかりました。
とくにショパンの装飾音は、それが非常に重要な表情の鍵にもなるので、この点は残念な気がします。
初めに感じたことは、時間が経過しても曲が変わっても同じ印象が引き継がれてしまうのは、やはり人それぞれの話し方のようなもので、深いところで持っているクセなんだなぁ…と思います。

それでも全体としてみれば、今の若手の中では好きなほうのピアニストになるとは思います。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

シンプルで見えるもの

最近、つくづく感じることですが、ピアノを弾く上で極めて大切なこととして、音数の少ないスローな曲をいかに人の心を惹きつけるよう美しく演奏できるかということ。

これはアマチュアはもとより、プロのピアニストでもできていないことが多く、そもそも、そこに重きが置かれていないことを折にふれて感じます。
大事なことはもっぱら派手な、機械的な技巧ばかり。

技巧といえば、難曲を弾いてのける逞しい超絶技巧のことだと考えられており、そのあたりの思い込みはどれだけ時間が経っても変化の兆しさえありません。
シンプルな曲を美しく弾くことも、自分の演奏に対して常に判断の耳を持つことも技巧であり、タッチや歌いまわしや音色の変化を適切に使い分けることも技巧だと思いますが、それを建前としてではなく、心底そう思っている人というのはかなり少ないでしょう。

ピアノを弾く人の言葉からも、聞こえてくるのは「かっこいい曲」などというワードだったりして、それはほとんどが有名どころの大曲難曲を弾けることであって、そのための鍛えられた技術がほしいだけ。

たしかに、指が早く正確に確実に力強く動こくことは大切で、それなくしては音楽も演奏もはじまらないというのも事実。
だとしても、それだけしか見えていないことは、音楽をする上で致命的なことではないかと思います。
自分の技量に少し余裕をもてる曲を、美しく歌うように演奏するための努力や工夫をすることには、実際にはほとんどの人が関心がなく、仮にそうしたいと思っても、そのために何をどうしたらいいのか、いまさらわからない。
その点、機械的練習は、気力と環境さえあれば、一日何時間でもがむしゃら一本道で訓練を続けることが可能。


アマチュアばかりではなく、プロのピアニストでも同じような問題が見て取れることはしばしばで、いま注目される日本人の旬のピアニストといえば、だいたいあのへんか…と思う顔ぶれが5人〜10人以下ぐらい浮かびます。

この中で「音数の少ないスローな曲」を、センスよく美しく、聴く人の心の綾に触れるような繊細な情感と注意をもって適切に弾ける人がどれだけいるかと考えたら、かなり疑わしくなる。

キーシンが12歳でデビューして、ショパンの2つの協奏曲を見事に弾いたことで世界は驚愕しましたが、そのときにアンコールで弾いた憂いに満ちたマズルカ2曲と、スピードの中に悲しみが走るワルツの演奏は、12歳の少年とは信じられない人の心の奥底に迫ったもので、まさに大人顔負け、震えが出るものでした。

このところ、ピアノはスポーツ競技の別バージョンのようにして、コンクールを舞台にしたアニメや映画が盛んで、先日もとある番組でそれをテーマに出演者やピアニストがスタジオにゲスト出演。
いまや、ピアニストもこういう映像作品の演奏担当ピアニストに抜擢されることがブランドになるらしく、それからして演奏家の世界も時代に翻弄されているようです。

そのうちのひとりが、とある番組でドビュッシーの「月の光」を弾いていたけどよくなかったと知人から聞き、録画していたのでさっそく視てみたところ、なるほど!というべきダサくてピントの外れた演奏で驚きました。
有名な出だしは、やたら粘っこく間をとって一音々々意味ありげに行くかと思うと、急に意味不明に激しく燃え上がったり、ある部分はあっという間に通過してみたり、なんじゃこりゃ?と思いました。

好意的に見ても、まるで説明的に弾かれたシューマンみたいな演奏で、およそドビュッシーとかフランス音楽は一瞬も聴こえてきませんでした。
この人は、現在日本を代表するピアニストのひとりで、マロニエ君もベートーヴェンの協奏曲などはわりに好印象をもって聴いていただけに、こんな程度のものだったのか…とがっかりでした。

それだけ、ゆっくりしたシンプルな曲というのはその人の音楽上の正体を露呈してしまいます。
プロのピアニストにとって「月の光」なんて、技術的には取るに足らないものでしょうけど、それだけにその人の美意識やセンス、音楽的育ちやイントネーションなどがあからさまに見えてしまいます。

以前、アンヌ・ケフェレックが来日公演で弾いた同曲の夢見るような美しさがむしょうに恋しくなりました。

今どきのピアニストは演奏精度という点では一定のこだわりを持っているらしいけれど、ほぼ共通していることは、音楽が横の線になって流れてゆく生命力が弱いし、ここぞというツボにもはまらず、常に縦割りで拍とハーモニーが淡々と支配するだけ。

せっかく音楽を聴こうとしているのだから、ストレートに音楽を聴かせてほしいものです。
続きを読む

カテゴリー: 音楽 | タグ:

アニメは苦手

マロニエ君の苦手なもののひとつにアニメがあります。

子供の頃は藤子不二雄だトムとジェリーだと、ずいぶん熱心に見ていましたが、最近の日本のサブカルチャーとして世界からも高く評価されているという最近のアニメは、きっと素晴らしいのだろうけれど、どうも我が身には馴染まないようです。

夜中にテレビなどでもよくやっていますが、ろくに見たこともないし、ジブリというのも言葉はよく耳にはしていたけれど、それが何であるのかも、実を言うとつい最近知りました。

というようなわけで、かなり話題になった『ピアノの森』もまったく見たことがなく、せっかくピアノがメインだというのにあまり見ようとも思いませんでした。
いつだったかNHKで再放送があるというので、「一度ぐらい」という思いから、念のために録画だけはしていましたが、見るほうはなかなか腰が上がらず、この夏ぐらいから一大決心の末にポツポツと見はじめました。

根本的にマロニエ君はアニメの楽しみ方というのを知らないし、慣れていないせいか、どうしても違和感や突っ込みどころのほうが意識のセンサーに引っかかり、いちいちそうなる自分が鬱陶しくさえ感じます。

これはアニメであって、映画でも現実でもないのだから、つべこべいわずに大きなところで愉しめばいいと自分に言い聞かせつつ、その単純なことがなかなか難しく、昔のアニメよりどこが優れているのかもすぐにはわかりません。

ひとつにはリアリティとファンタジーのバランスにも問題があるのでは?と思ってみたりします。
『ピアノの森』は出てくるピアノとかホールなど、特定のものはやけに正確に描写されているかと思えば、それ以外はかなりデフォルメされたアニメ調だったりと画調がまず一定でなく、中途半端にリアルすぎるんだろうと思います。
ショパンコンクールでのワルシャワフィルハーモニーホール、スタインウェイやヤマハなど、現実そのものをそのまま写しとったような絵柄がバンバン出てくるあたりも、この作品の魅力であるのかもしれないけれど、妙な生々しさも含んでいて、リアルならリアルに統一して欲しい気持ちになります。

テーマ曲がショパンのop.10-1というところは新鮮でよかったけれど、この作品のタイトルでもあるところの、森の中にスタインウェイDが捨ててあるという設定だけでも、湿度は? 雨が降ったら? …などと、アニメ鑑賞者としては甚だ無粋なことなんでしょうが、そっちが気になって仕方ない。

それと、あれ、絵はうまいんですか?
ごくたまに本当に曲のとおりに指が動いて、よくそこまで研究されているなぁと驚くシーンもあったけれど、全体としてはアニメというわりに静止画がやけに多く、演奏中の人物も、それを固唾を呑んで聴き入る聴衆も、ほとんどが静止画で、セリフや音楽だけが進行するのは、ちょっとした驚きでした。
今どきのことだから、昔に比べてよほど精巧緻密に絵が動くのかと思ったら、こうも静止画が多用されるのかとびっくりしましたが、考えてみれば絵を動かすことがアニメにとってコストに直結することだと思えば、静止画が多いのはコスト削減ということなのかもと、なんとなく残念な納得の仕方をしてしまいましたが、せっかくアニメを見ているのにそういう裏事情を考えることじたいがもう楽しくない。
いずれにしろ、こうなると、声優のセリフつき紙芝居&ときどき動くものと思ってしまうし、動いても画面の中の小さな一カ所だけであったり、焦る人物の眉毛だけがピリピリと動いたりで、昔のアニメのほうがよほど自然で滑らかだったのでは?と思いました。

また、演奏を担当しているのは現役の若い人気ピアニストだということで、その3人をスタジオに招いて演奏とトークの混ざった番組をアニメ本編より先に見ていました。
ならば、演奏はよほど本格的なものかと期待していたのですが、アニメの中で聴こえてくるのは、どれも線の細い、縮こまったような演奏ばかりで、どういう意図で演奏されているのかマロニエ君にはまったく意味不明。

せかっくアニメなんだから、演奏ももっと表現が強調されたものであってもいいような気がするのですが、全然そうではない。
そもそもアニメとはなにがリアルでなにが誇張されるのか、その線引もまったく不明。

そのあたりのことがさっぱりわからず、ことほどさようにアニメに入り込めないマロニエ君というわけです。
やっぱりアニメはドラえもんとかちびまる子ちゃんがしっくりくるマロニエ君でした。
続きを読む