最近、つくづく感じることですが、ピアノを弾く上で極めて大切なこととして、音数の少ないスローな曲をいかに人の心を惹きつけるよう美しく演奏できるかということ。
これはアマチュアはもとより、プロのピアニストでもできていないことが多く、そもそも、そこに重きが置かれていないことを折にふれて感じます。
大事なことはもっぱら派手な、機械的な技巧ばかり。
技巧といえば、難曲を弾いてのける逞しい超絶技巧のことだと考えられており、そのあたりの思い込みはどれだけ時間が経っても変化の兆しさえありません。
シンプルな曲を美しく弾くことも、自分の演奏に対して常に判断の耳を持つことも技巧であり、タッチや歌いまわしや音色の変化を適切に使い分けることも技巧だと思いますが、それを建前としてではなく、心底そう思っている人というのはかなり少ないでしょう。
ピアノを弾く人の言葉からも、聞こえてくるのは「かっこいい曲」などというワードだったりして、それはほとんどが有名どころの大曲難曲を弾けることであって、そのための鍛えられた技術がほしいだけ。
たしかに、指が早く正確に確実に力強く動こくことは大切で、それなくしては音楽も演奏もはじまらないというのも事実。
だとしても、それだけしか見えていないことは、音楽をする上で致命的なことではないかと思います。
自分の技量に少し余裕をもてる曲を、美しく歌うように演奏するための努力や工夫をすることには、実際にはほとんどの人が関心がなく、仮にそうしたいと思っても、そのために何をどうしたらいいのか、いまさらわからない。
その点、機械的練習は、気力と環境さえあれば、一日何時間でもがむしゃら一本道で訓練を続けることが可能。
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アマチュアばかりではなく、プロのピアニストでも同じような問題が見て取れることはしばしばで、いま注目される日本人の旬のピアニストといえば、だいたいあのへんか…と思う顔ぶれが5人〜10人以下ぐらい浮かびます。
この中で「音数の少ないスローな曲」を、センスよく美しく、聴く人の心の綾に触れるような繊細な情感と注意をもって適切に弾ける人がどれだけいるかと考えたら、かなり疑わしくなる。
キーシンが12歳でデビューして、ショパンの2つの協奏曲を見事に弾いたことで世界は驚愕しましたが、そのときにアンコールで弾いた憂いに満ちたマズルカ2曲と、スピードの中に悲しみが走るワルツの演奏は、12歳の少年とは信じられない人の心の奥底に迫ったもので、まさに大人顔負け、震えが出るものでした。
このところ、ピアノはスポーツ競技の別バージョンのようにして、コンクールを舞台にしたアニメや映画が盛んで、先日もとある番組でそれをテーマに出演者やピアニストがスタジオにゲスト出演。
いまや、ピアニストもこういう映像作品の演奏担当ピアニストに抜擢されることがブランドになるらしく、それからして演奏家の世界も時代に翻弄されているようです。
そのうちのひとりが、とある番組でドビュッシーの「月の光」を弾いていたけどよくなかったと知人から聞き、録画していたのでさっそく視てみたところ、なるほど!というべきダサくてピントの外れた演奏で驚きました。
有名な出だしは、やたら粘っこく間をとって一音々々意味ありげに行くかと思うと、急に意味不明に激しく燃え上がったり、ある部分はあっという間に通過してみたり、なんじゃこりゃ?と思いました。
好意的に見ても、まるで説明的に弾かれたシューマンみたいな演奏で、およそドビュッシーとかフランス音楽は一瞬も聴こえてきませんでした。
この人は、現在日本を代表するピアニストのひとりで、マロニエ君もベートーヴェンの協奏曲などはわりに好印象をもって聴いていただけに、こんな程度のものだったのか…とがっかりでした。
それだけ、ゆっくりしたシンプルな曲というのはその人の音楽上の正体を露呈してしまいます。
プロのピアニストにとって「月の光」なんて、技術的には取るに足らないものでしょうけど、それだけにその人の美意識やセンス、音楽的育ちやイントネーションなどがあからさまに見えてしまいます。
以前、アンヌ・ケフェレックが来日公演で弾いた同曲の夢見るような美しさがむしょうに恋しくなりました。
今どきのピアニストは演奏精度という点では一定のこだわりを持っているらしいけれど、ほぼ共通していることは、音楽が横の線になって流れてゆく生命力が弱いし、ここぞというツボにもはまらず、常に縦割りで拍とハーモニーが淡々と支配するだけ。
せっかく音楽を聴こうとしているのだから、ストレートに音楽を聴かせてほしいものです。
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