ピアノカバー

普段から常にピアノにカバーを掛けるという習慣というかメンタルは、どうも世界共通のものとは思えない。
詳しいことは知らないけれど、印象としてはあれはどうも日本的な特徴で、そもそも日本人は大事なモノにカバーをかけたりキズの保護をしたりするのが体質として好きというのがあると思います。

これはマロニエ君の知る限り昔から、ピアノの先生、学校、よその家もみんなそうで、我が家もごくはじめの時期だけ付属品の黒いカバーをかけていた時期がありました。

グランドは譜面台のことを書いた時にも少し触れたように、楽器のためにあんな大仰なカバーをかけることの善し悪しにくわえて、なによりあの色がいただけない。
多くのピアノが黒だから、カバーも黒というのはまだわかるとしても、内側は強烈な朱色で、ピアノのカバーにこの二色を組み合わせるということがまず受け容れられず、その激しいコントラストは目にもストレスで、まずあれを見たくないというのがあります。
そのままハロウィンの仮装にでも使えるような毒々しいセンスとしか思えない。

あれは昔からそうだったけれど、誰が決めたことなんでしょうね。
外側が黒なら、どうして中も黒ではいけないのか。
もし表と裏を区別するためなら、そうと分かるぐらいのグレーとかでもよかったと思うし、もっとはっきりさせたいのならオフホワイトでもいいわけで、なぜ時代劇に出てくる吉原の遊女みたいな朱色にする必要があったのか、これが謎です。

某工房でヴィンテージピアノにかけられていたカバーは、ミルクチョコのようなやわらかな茶色で、これならずいぶんいいなあと思ったし、聞けば現在でも普通に売っているものだそうで特別なものではないようでした。
要するに、メーカー(もしかすると日本だけ?)が新品時に付属させるカバーがあの色なんでしょうか…。

いっぽう、アップライトにもカバーをかけるのが日本人は大好きで、カバーをしなくては居ても立ってもいられないのだろうと思います。
アップライトのカバーは一段と工夫が凝らされており多種多様、こうなっては上部の前屋根が開けられることは調律時以外はないんでしょうね。

カーテンなどのように素材や色やデザインが揃い、レース編み調のものから、重々しいベルベット調のものまで実にいろいろあって、あれはもうカバーというよりはピアノに着せる服なのかもしれません。
昔は上部だけを覆うタイプが主流でしたが、そのうち全体をマジシャンのマントのように覆ってしまうものまで登場、それがまたピンクとか淡い色の花柄模様であったり、光沢のあるフリルのたぐいがこれでもかとあしらわれたりしたものだったりと、いずれも壮絶を極めています。

ああいうものに、疑問や抵抗を感じない神経を持ちながら、演奏のほうは素晴らしいというようなことがあるのだろうか?とつい考えてしまいます。
なぜなら、ピアノの演奏とは基礎となる技術と、あとは、アナリーゼだの解釈など踏まえた感興であり、ひとことで言ってしまえばセンスに尽きるのだから。

日本は文化の歴史を見ても、斬新かつ深いところまで追求された美意識の歴史があり、その奥行きと洗練の度合は並のものではなく、西洋に与えた影響も小さくないものがある。
そんな稀有なバックボーンを持ちながら、こういうセンスはどこをどう間違って我々の生活域に流入してきたのか不思議です。
もし、明治以降の西欧化の取り違えの後遺症だとしたら、センスの池に外来種の怪魚でも放り込まれたようなものかもしれません。

少なくとも、写真や映像で見た欧米の家にあるピアノでは、せいぜいちょっとしたオシャレな布が一部にサッとかけられている程度で、ピアノが部屋の雰囲気とまったく自然に調和していて、さすがという感じ。
それにひきかえ日本はというと、部屋は変にシンプル、ピアノがドカンと力士のように鎮座していて、生活と音楽がバラバラというか、ピアノが楽しそうに見えずに浮いており、それが一種独特な雰囲気になっている。

それが「ピアノのある家」みたいなあの和風な感じは、他のものがいくらオシャレになっても変わらずに引き継がれているようで、これは今後もずっと変わらないような気がします。
そこではやっぱりカバーは重要なアイテムなんでしょうね。
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簡単譜面台

率直な実感として、グランドよりアップライトのほうが使いやすいと思うもののひとつが譜面台。

アップライトの大半は、鍵盤蓋を開けると横長のシンプルな形状の譜面台が折りたたまれており、それを手前に倒して楽譜をのせる…たったそれだけ。
手軽なだけでなく、グランドよりも目線が低くて近くにあり、見やすいことも素晴らしい。
ただし、すべてのアップライトがこの方式というわけではなく、中には「トーンエスケープ」とかいって、上前板の一部を手前にガチャッと引き出すと、それが譜面台も兼ねた作りになっていて、さらにその左右の隙間から中の音が出てくるという構造のものがあります。
デザイン性や高級感の演出には良いかもしれないけれど、機能的にはいささか疑問符も…。
メーカーやモデルによっても違うのかもしれないですが、ヤマハのそれは構造上角度にも制限があるから楽譜もかなり角度が立ちぎみで、しかも楽譜を置く足場も浅いしツルツルで、やや使いづらく機能としては問題なしとは言い難いもの。

それと、譜面台使用でこの部分を引き出したからといって、その両脇から中の音がでるのは、マロニエ君にしてみればよけいなお世話であって、できるだけ静かに譜読みをしたいというときに(現実にはそのほうが多い)、これは困るわけです。

譜面台を使うと音が大きくなるという点でいうと、それどころではないのがグランドで、いまさら説明するまでもなくグランドのそれは前屋根を開けた中に格納されており、楽譜を見る=必然的に音は大きくなるという構造。

大屋根と前屋根をすべて閉じた状態がグランドでは最も音が控えめなので、夜間などこの状態でちょっと楽譜を見ながら弾きたいと思ってもなかなかそれはできません。
よく前屋根の上に楽譜を平置きにして弾く人もおられるようですが、マロニエ君かかなり椅子が低いこともあってそれではまず見えないから、どうしても楽譜はあるていど立てたいけれど、前屋根を開けるまでのことはしたくない微妙な気分の時ってありませんか?

ピアノの先生などでよくあるのが、譜面台そのものをピアノ本体から引き抜いて、それを閉じた前屋根の上にのっけて使うというスタイル。
でも、ここからがマロニエ君のこだわりですが、あれは個人的には超ダサくて、まずビジュアル的に許せない。
さらに、いったんそれをすると面倒臭くて今度は前屋根を開けることさえも億劫になるわで、いずれにしろこれだけはぜったいにしたくないのです。
さらにすごいバージョンもあり、外が黒で内側が朱色のあのカバーを、前の方だけ鍵盤に掛からないようにたくし上げ、その上に外した譜面台が載せられて、どことなく黒魔術の祭壇のようになるスタイル。
こうなると、ピアノの上は楽譜はもとより、コンサートのチラシから筆記具、さらには変な置物からよくわからないものまで、ありとあらゆるモノが雑然と積み上がってしまうものらしく、見るもぶざまで暑苦しい姿になり、あれはちょっと見たくもないし、まして自分のピアノでなんて論外。

で、やっとここからが本題ですが、グランドの大屋根&前屋根を閉じた状態で使える簡易型の譜面台が欲しいというのが、マロニエ君の長らくのささやかな希望となりました。
繰り返しますが、中の譜面台を前屋根に載せるのだけはぜったいにしたくない。
あくまでも、夜など一時的な場合のもので、小さくシンプルで、便利で、パッと取り出して使えて、終わったらパッと片付けられるようなもの。

〜といってみても、そんな都合の良いものがあるはずもなく、自作しようかとも思ったけれど自信もないし、いらい数年が経過するうちにしだいに諦めてしまっていました。

それがつい先日のこと、洗面台周辺の器具を探しにニトリに立ち寄ったとき、レジ近くの雑貨を置いている棚に金属を折り曲げただけの、ただの骨組みだけの簡単な商品があって、それは「ワイヤーイーゼル」という名の、絵の額やフォトフレームなどを床やテーブル上に立てておくためのスタンドでした。
サイズは17cm☓17cm☓19cmというコンパクトさ。
価格はわずか300円ほどで、これはもしや?と思い即購入。

下にはキズ防止のためのゴムのようなものまでちゃんと4箇所付いているのも嬉しいところ。
問題は左右の骨組みだけで中央の支えがないから、そのままでは楽譜は背表紙から向こうにストンと倒れますが、そこに板一枚置いておけば問題ありません。
もうひとつ、下の部分にフレームが滑り落ちないよう、わずかなアールがつけられていて、これが楽譜をめくるときに干渉するので、ここもちょっとした板切れでもなんでもいいので置いておけば大丈夫でした。

重さも無いに等しく、使う時だけヒョイと出して、終わればすぐに視界から消せるので、なかなかいいですよ。
長年望んでいたものが、まったく思いがけないところにあったというわけで、嬉しいような、それにしてはずいぶんあっけない結末で拍子抜けした気分でもありました。
ただ、やっぱりグランドの前屋根の上に置く楽譜というのはかなり高い位置で、これで子供なんかがレッスンを受けるのは、上を見上げるようになり大変だろうなぁと思いました。
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電子決済

電子決済って最近かなり浸透してきているようですが、それでも、日本はずいぶん遅れていると耳にします。
欧米の事情は知らないけれど、ご近所の中国や韓国ではとてつもない勢いで広がっているようで、NHKのドキュメント番組だったか中国では個人経営の小さな屋台とか、言葉は悪いですが物乞いのような人まで電子決済の端末をもっていて、人々がスマホをかざしてピッ!とやっているのにびっくり。

そうなるについては、偽札の問題や情報管理など、いろんな側面もあってのことではあるでしょうが、それにしても日本という国は、新しいことに対する切り替えは明らかに遅いなあと思います。

〜と尤もらしいことを言っているマロニエ君がいまだにスマホも持たず、ガラケーとiPadでお茶を濁している身なので、こんなことを言うことじたいがギャグのようですが…。
電話するぶんにはガラケーは使いやすいことと、服のポケットに入れるのに大きい物は避けたいというのがあってガラケーを使ってますが、その代償として結構重量のあるiPadをいつもカバンに入れて持ち歩くのも面倒くさいし、なんだかばかばかしいようにも思えてくるこのごろ。

いくらガラケーのほうが電話器として使いやすいと言ってみても、今はメールありLINEありで、電話で直接話をする機会も減っており、いつまでも電話のしやすさばかりを言い立てることじたい、いささか実情に合わなくなってきた気もしてきています。

いっぽう、聞くところではスマホには多種多様なアプリがあり(その点はiPadもある程度同じですがほとんど使っていない)、いろいろな電子決済機能もあるし、中にはスマホ限定の特典などというのもあるようで、時代の流れにはかないません。


さて、現在マロニエ君が唯一使っているのが、スマホとは関係ない、カード式の交通系電子マネーです。
普段はクルマ人間なので公共交通機関を使いませんが、以前関西旅行に行ったとき、同行した友人がこれを準備してくれており、どの電車に乗ろうともこれひとつでスイスイ、切符も買わずに改札を自在に出入りできる便利さに仰天したのがはじまりでした。

さらにこれで買い物までできると知って驚きは倍増。
それからというもの、すっかりこの交通系電子マネーにハマってしまい、べつに現金で払ってもいいようなところまで、わざわざこのカードを使うようになりました。
なにがいいと言ったって、細かい単位の支払いやお釣りといった面倒から解放され、ピッ!という音がすればすべては一瞬でおしまい、こんなに爽快なことはない!と興奮したものでした。

惜しいのは上限が2万円で、予めチャージしておかなくてはいけないことと、以前はチャージできる端末が限られた場所にしかなかった(毎日駅などを利用する人はいいかもしれませんが)ことですが、今ではコンビニでも可能になり、この問題もほぼ解決されました。

店舗によっては、レジの対応が不慣れなところもあり、その操作に手間取ったり、いきなりこちらの手からカードをもぎ取り、お店の人が目の前の読取器(というのか知らないけど)に押し付けて「ピッ!」とやって「お返しします」などといって返してくること。
あのカードはいわば個人の財布ですから、それをヒョイと取られて「えっ?」と思ったことは何度かありました。

それより気になるのは、カードをかざす際、読取器との間にほんの少し距離(2〜3cm)をおいていると、注意口調で「機械につけてもらっていいですか?」などと怒られてしまうことがあること。

はじめはそうなのかと思ったけれど、これは経験上カードと機械を密着させるかどうかではなく、読取器がカードを認識し決済するまでにちょっとしたタイムラグがあるのを、レジの人のほうが待ちきれずに、カードのかざし方が不十分なためと思ってしまうようです。

でも、聞いた話では、頻繁に電車など利用する人はカードを財布に入れたまま改札を出入りしているとか!
改札にある読取器は、性能もよほど良いのかもしれないけれど、もしお店で財布のままかざしたらどうなるのか、そこまで挑戦してみる勇気はまだありません。

福岡ドームもヤフードームになり、いつの間にかヤフオクドームになっていると思ったら、近い将来PayPayドームになるんだそうで、なんともめまぐるしいことですが、それだけ電子決済はこれからの社会の主流になっていくのでしょうね。
もはやガラケーにしがみつく理由もなくなってきたようだから、次の契約更新では検討の余地がありそうです。
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ニュウニュウのいま

クラシック倶楽部の視聴から。
ニュウニュウ・ピアノリサイタル、プログラムはショパンの即興曲第2番/第3番、ソナタ第2番、スケルツォ第3番、リストのウィーンの夜会。
2019年6月、会場は神奈川県立音楽堂ですが、無観客なので同ホールでの放送用録画かと思われます。

6月といえば、福岡でも同時期に彼のリサイタルがあって、気が向いたらいってみようかと思っていたけれど(結果的には行かなかったのですが)、上記曲目がすべて含まれるものでした。
NHKのカメラの前での演奏であるほうが気合も入っているだろうし、マロニエ君は実演にこだわるタイプではないから、ただ巡業先の中の演奏のひとつを聴くよりむしろ良かったような気も。

中国人ピアニストといえば、すでにラン・ラン、ユンディ・リ、ユジャ・ワンという有名どころが日の出の勢いで活躍しており、ニュウニュウのイメージとしては、彼らよりもうひとつ若い世代のピアニストといったところ。
いずれも技術的には大変なものがあるものの、心を揺さぶられることはあまりない(と個人的に感じる)中国人ピアニストの中で、マロニエ君がずいぶん昔に唯一期待をかけていたのがニュウニュウでした。

10代の前半にEMIから発売されたショパンのエチュード全曲は、細部の煮詰めの甘さや仕上げの完成度など、いろいろと問題はあったにせよ、この難曲を技術的にものともせずに直感的につかみ、一陣の風が吹きぬけるがごとく弾いてのけたところは、ただの雑技や猿真似ではない天性のセンスが感じられました。
まさに中国の新しい天才といった感じで、うまく育って欲しいと願いましたが、その後ジュリアードに行ったと知って「あー…」と思ったものでした。

個人的な印象ですが、これまでにも数々の天才少年少女がジュリアードに行ってしばらくすると、大半はその輝きが曇り、小さくまとめられた退屈な演奏をする人になってしまうのを何度も目にしていたからです。
さらには俗っぽいステージマナーなどまで身につけるのはがっかりでした。
誰かの口真似ではないけれど、セクシーでなくなるというか、才能で一番大事な発光体みたいな部分を切り落とされてしまうような印象。
そうならなかったのは、五嶋みどりぐらいでしょうか?

冒頭インタビューで、ジュリアードでは舞踊やバレエの友人ができ、彼らから多くのことを学んだと語り、ピアノの演奏も視覚的要素が大切と思うので、演奏には舞踊を取り入れているというような意味のことを語っていました。
ステージに立つ人間である以上、視覚的効果も無視できないというのはわかるけれど、直接的にそれを意識して採り入れるとはどういうことなのか、なんだか嫌な予感が走りました。

で、演奏を視聴してみて感じたことは、音楽家というよりはパフォーマーとして活動の軸足を定めてしまったような印象で、舞踊の要素なんかないほうがいい!としか思いませんでした。
どの曲も危なげなく、よく弾き込まれており、カッチリと仕上がってはいるけれど、そこに生身の、あるいはその瞬間ごとの魅力や表現といったものは感じられず、誰が聴いても大きな不満が出るようなところのない、立派な演奏芸で終わってしまっている印象でした。

また、ニュウニュウに限ったことではありませんが、曲の中に山場や聴きどころのない、全体を破綻なく均等にうまく弾くだけで、ドキッ!とするような魅力的な瞬間といったものがないのは、これからを担う若い演奏家が多く持っている問題点のような気がします。
好きな演奏というのは、ある一カ所もしくは一瞬のために聴き返すようなところがありますが、現在のニュウニュウの演奏は何度も繰り返して聴きたい気持ちにはならないものでした。

音はいささかシャープで温かさが足りないかもしれないけれど、それでもかなりよく楽器を鳴らせる人のようで、この点では上記の4人中随一ではないかと思いました。
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シンプルは至難

BSクラシック倶楽部でスペインの巨匠、ホアキン・アチュカロの演奏に接しました。
この時の放送はアラカルトで、55分の放送時間のうち前半はキアロスクー四重奏団の演奏会だったため、アチュカロの演奏はファリャのスペイン小曲集から2曲と火祭の踊り、アンコールでショパン:ノクターンop.9-2、ドビュッシー:月の光、ショパン:前奏曲No.16というものでした。

ホアキン・アチュカロは日本ではさほど有名なピアニストではなく、マロニエ君も持っているCDで記憶にあるのはシューマンの幻想曲とクライスレリアーナぐらいです。
きわめて真っ当なアプローチの中に、温かな情感が深いところで節度をもって息づいていることと、音が美しく充実していたことが印象的でした。

この演奏会は今年の1月で、その時点で御歳86という高齢であることも驚くべきで、はじめのファリャは、想像よりゆるやかで落ち着いたテンポのなかで進められました。
普通はスペイン物となると、どうしてもスペインを強調した演奏が多く、激しい情熱、そこに差し込む憂いなど、交錯するものが多いけれど、さすがは本家本元というべきか、ことさらそれを強調することはなく、むしろゆったりとエレガントに演奏されたのが新鮮でした。
尤も、壮年期はもっと激しく弾いたのかもしれませんが…。

この30分ほどの演奏の中で、最も感銘を受けたのはショパンのノクターンでした。
きわめてデリケートな、ニュアンスに富んだ美しいショパンの真髄がそこにはありました。
アーティキュレーションの中で揺れるわずかな息遣いがハッとするようで、まさに鳥肌の立つような、泣けてくるような演奏。
決して完璧な演奏というのではないけれど、この一曲を聴けただけでも視聴した価値があったし、これはちょっと消去する訳にはい来ません。

同曲で感激したのは、記憶に残るものでは晩年のホルショフスキーがあったし、CDではリカルド・カストロにもマロニエ君の好きな名演があります。

この変ホ長調 op.9-2 は、ノクターンの中でも最も有名なもので、しかも多くの人が弾けるほど音符としては難しいものではないけれど、理想的な演奏ということになると、さてこれがピアニストでも至難という不思議な曲。
ひととおりの技術を身につけた人なら、音数の多い曲をあざやかな手さばきで弾いておけば、おのずと曲のフォルムは立ち上がりさすがとなりますが、ほんとうに難しいのは、こうしたシンプルで行間は全て自分で処理しなくてはいけない領域だろうと思います。

全般的に見ると、この曲は年齢を重ねないと弾けないものかとも思ってしまいます。
これほどショパンの大事な要素がぎっしりつまった曲というのはそうはないように思われ、親しみやすいメロディーの裏に次々に見落としてはならない要素が現れは消え、多くの弾き手がその多くを処理しきれず表面だけを通過してしまいます。

ショパンのノクターンといえば、遺作の嬰ハ短調 20番とされるものや、ハ短調 13番 op.48-1 などを好む向きもありますが、ある程度きちんと弾けばなんとかなるところがあるのに対し、op.9-2 は演奏上の背骨になるようなものがない危うさがあり、これを繊細かつ適切なニュアンスを保って聴かせるというのはなかなかできることではない。

単純に歌ってもダメ、ルバートやアクセントにもショパンのスタイルが要求され、f にもあくまで抑制を保つなど細心の目配りが必要で、なにか一つ間違えてもたちまち雰囲気が崩れてしまうのは、もしかしたらモーツァルト以上で気が抜けません。
だからといって、あれこれ注意を張り巡らせて弾いていると、今度はその注意と緊張で固くこわばってしまい、まさにあちらを立てればこちらが立たずとなる。

ピアノの難しさというと指のメカニックや超絶技巧、初見や暗譜の能力などばかりに目が行きますが、最後に行き着く難しさはこういうところにあるとマロニエ君は思うのです。

アチュカロはとくに気負ったところもない様子で、ホールの空気をこの曲の静謐な世界でたっぷりと満たしていて、こういう聴かせ方をする人は今後ますますいなくなることでしょう。
月の光も素晴らしかったけれど、やはりショパンのop.9-2が白眉でした。
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伝統と陰影

即位の礼も終わり、令和の時代も本格始動というところですね。

ああいうロイヤルイベント(皇室に使うべき言葉かどうかはわからないけれど)は結構好きなので、生放送を録画して、当日の夜はじっくり視てみました。
もっとも日本的な、簡素な美しさの頂点、そして日本という国の文化の根幹を目にする思いです。

ただ、畏れながら申し上げるといくつかの違和感がないでもなかったというのが正直なところです。
すべてが「伝統に則り」という文言がつけられますが、式典の舞台は当然ながら皇居新宮殿。

この皇居はむかしは言わずと知れた江戸城で、武家である徳川の居城。
明治維新によって皇居となり、しかも宮殿は空襲で消失、現在の新宮殿は戦後の技術の粋を尽くして昭和に建てられたもの。
いわば出自も時代もミックスされたもので、それは大変に素晴しいもの。

ただ、戦後に建てられた和のモティーフとモダンの類まれな融合である新宮殿と、そこへ両陛下が儀式のクライマックスでお入りになる高御座と御帳台が置かれている光景が、もうひとつ溶け合っているようには見えませんでした。
これらは平成の折には京都から運ばれたと聞きますが、新宮殿の最も格式の高い松の間に設置されますが、やはり前回同様、どこかしっくりこない印象が残りました。

あれがもし京都御所であったら、すべては美しいハーモニーのように響き合ったことでしょう。
平安絵巻から飛び出してきたような高御座と御帳台の姿形、大胆で独特な色遣い、これは建築にも同様の要素が求められるような気が…。

平安絵巻といえば、皇后さまをはじめ女性皇族方は御髪はおすべらかし、お召し物は十二単という平安時代からの伝統のものですが、それが新宮殿のガラスと絨毯が敷き詰められた現代風の廊下を静々と進まれる光景が、絵柄としてどうしても収まりません。

また高御座と御帳台が置かれた松の間の照明にも疑問を感じました。
よく見ると、松の間の両サイドの壁面上部には、まるで劇場用のような明器器具がずらりと配置されており、それらが一斉にこの空間をまばゆいばかりに照らし出していました。

しかし、両陛下および皇族方の装束、高御座と御帳台など、本来これほどの強力な照明にさらされるべきものだろうかという疑問が湧いてなりません。
昔の天皇は、映画などで見るように、御簾の向こうに静かにおわすばかりで、なにかと神秘のベールに包まれていたもので、そこにいきなり現代的な強力な照明をあてるのはどうなのか…と思うのです。

谷崎潤一郎の『陰影礼賛』という評論の中で、日本の文化は薄暗い光のなかで真価を発揮するよう、あらゆる事物が考えられ作られていると述べられています。
美しい漆に施された絢爛たる蒔絵や歌舞伎の舞台でさえも、本来は薄暗い光のなかで見るのがちょうどよいようになっている由で、ここでは白すぎる歯までもが、そういう美意識の中では好ましく無いというように書かれていた覚えがあります。

十二単のあのどこか生々しい色彩も、薄暗い御所の光を前提としてでき上がったものかもしれないと思うと、伝統と現代性の和解をもう少し探ってもよいのではないかと思いました。

普段は端正な美しさを極めた新宮殿も、どことなくホテルの催場ように見えてしまい、せめて高御座と御帳台が置かれた松の間の照明だけでも、もう少し繊細で幻想的なこだわりがあったら…という気がしました。
それにしても、自分の生涯で、すでに二度の即位の礼を目にできたとは嬉しきことでした。
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