シフの協奏曲-2

アンドラーシュ・シフのピアノと指揮による、ベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲演奏会。
それなりの予想はしていたものの、個人的にあまり好みの演奏ではありませんでした。
もちろん、高く評価する方もおいでのことだろうと思いますし、ここではあくまでもマロニエ君個人の感想です。

そもそも、なかば習慣的にベートーヴェンに期待するもの…。
たとえば、生々しい苦難と喜び、様式と非様式、改革者にしてロマンチスト、野趣、執拗、到達、炸裂があるかと思えば至福の美酒で酔わされるといったようなものとはどこか違っていました。
いかにもシフ流の、枯山水の境地のごとくで、生臭いベートーヴェンの世界に身を委ねる「あれ」とはずいぶん違いました。

個人的に一番好ましかったのは第2番で、続いて第3番、第4番で、この3曲はよく弾き込まれている印象。
ただし4番では、この典雅を極めた作品にはいささかタッチが荒いため音色への配慮に欠け、あちこちで似つかわしくないキツイ音がしばしば聞こえてくるのが気にかかりました。

いっぽう、第1番/第5番は、曲と演奏のキャラクターが噛み合っていない感じがついに最後まで払拭できずに終わりました。

このふたつは淡々と弾き進めばいいというものでもなく、全体に肯定的な推進力が必要。
あまり曲に乗れていないようであるのに、外面的には達観したような、すべてを見通した哲人が必要なものだけをうやうやしく取り出して見せているような風情があって、いささか独りよがりな印象を覚えました。

また(少なくともベートーヴェンを)レガートで弾くということがよほどお嫌いなのか、全体を通じて、やたらノンレガートもしくはスタッカートばかりで、バッハではよほどなめらかに自然に歌っているのに、なぜか腑に落ちない点でした。

ピアノフォルテ的な響きや表現も念頭に置いてのことかもしれないけれど、モダンピアノでその性能を充分に使い切らないような弾き方をすることに、どこまで意味があるんだろうとも思います。
以前書いた、古楽器奏者のブラウティハムは現代のスタインウェイできわめて美しく第5番を演奏をしていたことが、しばしば思い起こされました。
シフなりによく研究し、熟考を重ねてのことだとは思いますが、要は趣味が合いませんでした。

番組では、随所にシフのインタビューも挿入され、自分がベートーヴェンを弾くまでにいかに長い歳月を要したか、またベートーヴェンの偉大さ難しさ、人生や作品の特徴などを、まるで賢者のように自信たっぷりに解説していましたが、シフ自身は今の状況をとても楽しんでいるようでした。


アンコールには、バッハが聴けるのかと期待していたら、なんとピアノ・ソナタ(テレーゼ)が全曲演奏されました。
この曲を選んだ狙いとしては、ベートーヴェンのピアノ協奏曲は第5番をもって終わり(op.73 1809年)、この第24番がop.78で同じく1809年に書かれたということから、皇帝のすぐあとに連なるピアノ作品という意味合いでもあったのだろうと思います。

もともと2楽章形式の短いソナタではあるものの、それをアンコールですべて弾くというのは意外でしたが、敢えてこの美しいソナタによって2日間の終わりを締めくくるといった意図でもあるのだろうと思われます。
それはともかく、この人はやはりソロのほうが好ましく思え、細かいニュアンスなどではっとさせられる瞬間があることも事実で、どうもコンチェルトでは真価が出ない人だと思いました。

最後になりましたが、使われたピアノはベーゼンドルファーのインペリアルで、超大型ピアノながら内気な性格のようで、ハスキーな小声にくわえて、ほとんどがつんつんとはじくようなタッチで弾かれるためか、このウィーンの名器を堪能するには至りませんでした。

ピアノはステージ中央でやや斜めに置かれ、前屋根をやや浮き上がった角度にするなど、こまかい演出もシフのこだわりだろうかと思われますが、この「ほんの少し斜めに置く」というのはとてもよかったと思います。
通常はソロであれコンチェルトであれ、ピアノはきっちりと横向きに置かれるのはまるで風情がないけれど、わずかに斜めに置くことで、やわらかな感じが出ていたし、雰囲気とはちょっとしたことでずいぶん変わるものだと思いました。
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シフの協奏曲-1

昨年11月、東京オペラシティーで2日間にわたって開催された、アンドラーシュ・シフ&カペラ・アンドレア・バルカによる、ベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲演奏会の様子がEテレのクラシック音楽館で、2週にわたり放送されました。

実際の演奏会は、一日目が第2番、第3番、第4番、二日目が第1番、第5番というものだったようですが、放送順は逆でした。

その感想をブログに書こうと思っていたので、インタビューから演奏まですべてを視聴しましたが、約4時間という長丁場もさることながら、必ずしもマロニエ君にとって好みの演奏ではなかったこともあり、正直「時の経つのも忘れて楽しむ」というわけにもゆかず、むしろ頑張って見たというのが正直なところ。

まず全体を通しての、率直な印象でいうと、この人は必ずしもベートーヴェン向きの人ではないと思うし、さらには協奏曲向きの人ではないということでしょうか。

バッハのソロであれだけの見事な演奏を聴かせる人だから、シフは現代のピアニストの中でも屈指の存在だとは思うけれども、やはり演奏家というものは、自分に合った作品をもう少し厳選して欲しい…というか「すべき」だと思います。
この人は端然としながら確信にみちた演奏をする反面、曲によってはかなり面食らうような演奏もするから、波長の合った作品では右に出るもののない素晴らしさで聴く者を魅了するけれど、それがいつも期待通りに安定しているわけではありません。

むかしむかし、シフの素晴らしさに気づいたのはメンデルスゾーンの無言歌集であったし、決定的だったのはいうまでもなく一連のバッハ録音でした。
バッハは、ごく初期(録音が)のものは固さと慎重さが隠せなかったけれど、次第にツボにはまってこのピアニストの魅力が滲み出るものとなり、さらに後年2回目のバッハに至っては、各声部は代わる代わるに自在かつ即興的に飛び交い、まさ新境地を打ち立てたと言えるでしょう。
シューベルトのソナタでも、彼の人格そのもののような解釈で朗々と歌い出され、ある種とらえ難いシューベルト作品もシフの手にかかると、明瞭な意味と言語で視界がひらけて、あたかも曲自身の意志で流れ出すようでした。

いっぽう、あれ?と思ったのはモーツァルトがそれほどとは思えないものであったり、スカルラッティなどもいまいちで、こんなにもムラがあるのかと首をかしげることもしばしばでした。
とはいえ、近年の録音や動画で接した一連のバッハの素晴らしさは、そういう不満を吹き飛ばすほど素晴らしいもので、まさにバッハ演奏によって現代の巨匠の位置にまで駆け上がったように思います。

しかしながら、この人は、自分に合ったもの、自分が得意なものだけえは満足しないのか、シューマンなどのロマン派にも手を出し、さらにはベートーヴェン・ソナタ全曲にも挑み始めましたが、どこぞのステーキ店ではないけれど、いささか急速な事業展開をしすぎでは?という気がしなくもありませんでした。
そのうちのいくつかのソナタやディアベッリ変奏曲を聴いてみましたが、個人的にはバッハのような感銘を得るには至りませんでした。

シフ自身は自分のベートーヴェンをどのように思っているのだろうと思います。
世の中には、どんどんレパートリーを増やしていくピアニストもいれば、しだいにレパートリーを特定のものだけに絞って若いころ弾いたものでも弾かなくなってしまう人がいますが、シフは一見とても慎ましいイメージがあるけれど、レパートリーに関しては大胆な挑戦者であることを望んでいるようにも思えます。


とにかく、マロニエ君としては、このピアニストにベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲演奏というのは、さほど食指が動かずCDも未購入でしたが、実際聴いてみて、やはり!というのが率直なところ。

ちなみに、カペラ・アンドレア・バルカというオーケストラは、アンドラーシュ・シフのシフが小舟という意味であることから、それをイタリア語に置き換えてアンドレア・バルカとなっている由。
シフの聖歌隊とでもいうのかどうか知らないけれど、シフの呼びかけで集まる非常設のアンサンブルのようで、名前からして彼が好きにやれる室内オーケストラということなんでしょう。

ネットによれば、今回はベートーヴェンの協奏曲を携えてのアジアツアーというものだったようで、全12公演、うち5回が日本、それ以外は中韓の各都市を回ったようです。
本人の言葉によればソナタの全曲演奏もすでに27回!!!もおこなっているというのですから、誠実で物静かな音楽家というイメージの裏側に、かなりの精力的なマグマがうごめいているのかもしれません。

つい長くなったので、続きは次回に。
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努力という才能

知人からの情報を得て面白い番組を見ました。

音楽やピアノにまったく関心のなかった海苔漁師の52歳の男性が、たまたまテレビでフジコ・ヘミングのラ・カンパネラに出会ったことがきっかけでスイッチが入り、自分もラ・カンパネラを弾きたい!という一大決心をしてピアノを開始。
その7年後、ついにはフジコ・ヘミング本人の前で演奏を果たすというもの。

奥さんがピアノの先生で、家にはグランドピアノがある環境ではあったようですが、「音大出の私でも弾けないのに、あんたに弾けるはずがない!」と一蹴されるも、まったく意思はゆるがず練習開始。
それまで、ピアノの経験は一切なく、酒をのんでは演歌を歌うぐらいなもので、楽譜もまるで読めないという、まさにゼロからのスタートだったとか。

練習方法は、タブレット端末のアプリなのか、音が画面内の鍵盤を光らせるようなものを見ながら、すべてを指の動きに叩き込んで覚えるというやり方で、番組によればまったくの独学というですから信じられません。

さらに驚くのはその尋常ならざる熱意と猛練習ぶり。
なんと毎日8時間、これを7年間、仕事以外のすべてを犠牲にして、全エネルギーをピアノの練習につぎ込み、ついにはこのラ・カンパネラをマスターしたというのですから、開いた口がふさがらないとはこの事です。

ピアノの常識でいうと、50過ぎてまったくの白紙からピアノに触り、いきなりラ・カンパネラという跳躍の多い技巧曲に挑んで、それを7年かかって成し遂げるということは、モチベーションの持続など、いろいろな意味からほぼあり得ないことですが、それをやってのけたこの方の驚異的な熱意と実行力たるや尊敬に値するもの。
とりわけ練習嫌いのマロニエ君には「練習とは、かくも尊いものなのか!!!」と考えさせられました。

それに比べたら、フジコ・ヘミングの前で演奏したかしないかは、個人的には大して重要とは思わず、これは要はテレビ番組の企画だと思いますが、それが企画として成立したのも、この方の奮励努力の末に奇跡的な結果を生み出したことが呼び寄せたことだと思うのです。

長年漁師をされてきたという浅黒く逞しい太い指が、慎重に鍵盤の上に置かれて演奏開始。
あの長い曲を少しもごまかすことなく、すべての動きをひたすら反復し、それを記憶し、自分の体に叩き込むことで立派に最後まで弾き通すということを、まぎれもない現実として多くの人が目撃したわけです。

このカンパネラを聴きながら、一途に努力を継続できることは、それ自体がひとつの才能だと思いました。
脇目もふらず、なにがあろうと、ひたすら努力を続けるのは、強靭な意志力が必要だけど、ただそれだけでできることでもなく、それが長年にわたりへこたれることなく続けられるという、ご当人の適性とかメンタルを含めて、さまざまな条件が揃わなくてはならず、だからこそ「才能の一種」だと思うのです。

マロニエ君はそれがゼロなぶん、この方がよけい輝いて見えました。

それともうひとつ触れないわけにはいかないことが。
それは、この方のラ・カンパネラには、非常にオーソドックスな良さがあり、曲は違和感なく恰幅があり、はっきりと音として作品の姿が見えたこと。
教師であれ、ピアノ愛好家であれ、やたら叩きまくるか、音楽性のかけらもない変な節まわしや意味不明のリズムやアクセントなど、指はどうにか動いても、それがなまじ偉大な作曲家の作品であるぶん冒涜的となり、聞くのはかなりしんどいものがほとんど。
そこには、曲への理解不足、第一級の演奏に対する無知と無関心、音楽経験の浅さ、さらにはこうした技巧曲を弾けるという自慢ばかりが横行している中、この方のカンパネラはなんとまっとうなバランスが保たれていたことか!
ここがマロニエ君にとって一番の驚きだったといってもいいと思います。

殆どの人は、この方がラ・カンパネラを弾けるようになったという、要は、きわめて困難な指の運動と記憶の作業をやり遂げたことに感嘆するかもしれませんが、それはもちろんそうだけれども、出てくる音楽がきわめて正常なものであったことはさらに瞠目させられた次第。

おそらく、フジコ・ヘミングという技術はそれほどではないけれど、とろみのあるずしっとした演奏を繰り返し聴かれたことで、知らず知らずのうちにその特徴までもが、この方の中にしっかり染み込んで根を下ろしていたのではないかと思います。
ピアノは練習しているのに、名演を聴かない(かりに聞いて技術的上手さだけ)人というのがあまりに多く、音楽はまず自分の練習時間と同等かそれ以上に聴きこみ、惚れ込まなければダメだということの証左でもあったように思います。
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美食の時代

正月休み中、ショパンのノクターンを通して聴きたくなり、ずいぶん久しぶりにダン・タイ・ソンのCDを聴いて過ごしました。

端正でスムーズ、嫌なクセがどこにもないのは、聴いていてまず快適で気持ちがいい。
全編に聴こえてくる肉付きのある温かい音、繊細さを損なわないのに臆さない芯もあるところがこの人らしさでしょうか。
かねてよりマロニエ君は数あるノクターン全集の中でも随一のものだと思っていましたが、いま聴いても(というよりいまのほうがさらに)魅力的で、非常に聴き応えのあるものだと思いました。

昔は、ダン・タイ・ソンの演奏は美しいけれど曲によってムラがあることと、いささか淡白な面があるところが気になっていましたが、今どきのハートのない無機質な演奏を耳にしていると、この人なりの明確な美意識とこまかく行き渡る情熱が裏打ちされており、あらためて感銘を覚えました。

彼のショパンすべてが良いとは思わないけれど、ノクターンはこのピアニストの美点と長所が最も発揮される分野だと思います。
こんなに素晴らしかったかといささか驚きながら、数日間、繰り返し聴きました。

ショパンのノクターン全曲は、それなりにいろいろなピアニストが録音しており、中には「同曲最高の演奏!」のように褒め称えられたものがいくつかありますが、マロニエ君はその評価には同意できないものが少なくありません。
とりわけ評価が取れるのは、いわゆるショパンらしさを捨て去って、無国籍風に、荘重で、劇的に、楽譜に忠実に、レンジを広く取ってピアニスティックな精度を上げて弾けば、おおかた高評価に繋がるイメージです。

ダン・タイ・ソンのノクターン全集は、1986年に日本で録音されたもので34年前ということになりますが、そこにはまだ演奏に対して、ひたむきな表現とそれを認めようとする価値観が支配していた時代だったことが窺えます。
この1980年代、まだ演奏者の個性や人間性が、いかに演奏上の息吹となって表現されてくるか、作品をどう解釈しているか、そのあたりを芸術性として、聴き手も強く求める気風が残っていたことが偲ばれます。

それと、やはりピアノが今のものと違い、無理なくとてもよく鳴っていることは唸らされました。
表面的な派手さみたいなものはなく、むしろ柔らかい音のするピアノなのに、現代のものに比べると深いところからずっしりと鳴っており、全音域にわたって音のエネルギーや迫力がまるで違いました。

今のピアノを聞いていると、いかにも精巧で整ってはいるけれど、音に肉付きがなく、心に響く(残る)ものがない。
もしや、自分がピアノの音をありもしないレベルに理想化し過ぎてしまっているのでは?と疑ったこともありますが、こういう音を聴いてみると、決してそうではないことが明白でした。

1986年録音ということは、必然的にそれ以前に製造されたピアノで、かといって1960年代ごろのピアノには感じない洗練や緻密さもあるから、おそらくは80年台の前半の楽器ではないかと(勝手に)思います。

ヴィンテージを別にすれば、個人的には一番好きな時代のスタインウェイです。
その時代の空気、そこに生きるピアニスト、楽器、そして作品となにもかもが揃っていたというか、端的に言って、音楽も昔はずっと贅沢で美食だったんだなぁと思いました。
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設定とキャッシュレス

スマホであれパソコンであれ、新しいものを使いはじめるときに、毎回必ず疲労困憊するのが各種の設定。
これをササッと難なくこなしてしまう方は大勢おいでのことと思うけれど、この手のことが格別苦手なマロニエ君にとっては、これはまぎれもなく苦行で、なんとかならないものかと思います。

そもそも、携帯のショップからして苦痛のはじまり。
機種選びからプランの決定、ああだこうだと作業は果てしなく続き、なにもかも終わってようやく椅子を立って外に出るまでに、べつに特種なお願いをしたわけでもなく2時間以上かかったし、これはきっと毎日それを扱い慣れているプロフェッショナルでも、かなり時間を要することなんでしょう。
加えて、メールの設定だのLINEの移行だのは、どうやら自分でやらなくちゃいけない作業のようで、これはもうマロニエ君のような人間にとっては病気になりそうなくらい疲れ果てること。

しかも、普通ならわからないことがあれば購入店に聞けば済むことが、そうはいかないのが携帯の世界。
ほんのひとつ教えてほしいことがあって出かけたついでに立ち寄ろうにも、どんな些細なことでもいちいち番号札を取って順番待ちをするところからはじめなくてはいけないし、前回じっくり付き合ってくれた担当者と思っても、よほどの偶然でもない限り、もう事実上言葉を交わすこともないほど対応する人は「その時かぎり」であって、まるで行きずりの☓☓のよう。

そんなことを考えたら、ショップに行く意欲もなくなり自分でやるしかなくなるわけですが、これがもう難儀で、結局はカスタマーセンターのようなところに電話しまくって、ひとつひとつを導いてもらうしかありません。
唯一の救いは、電話にでるオペレーターは皆さん親切なこと。
そこで指示されるあれこれの操作は、到底ひとりで奮闘したところでわかるはずもない複雑なもので、みなさんどうされているのかと心底疑問で仕方ありません。

とにかくあの「設定」というのはわからないことの連続で、今やこれ、マロニエ君が日常の中で最も嫌いなことのひとつに踊り出ています。
機械は正直だから、きっとこちらの操作が悪いのだろうとは思うけれど、設定どころかちょっとしたアプリ会員とかメンバー登録のたぐいでも、まあとにかくすんなり行ったためしがありません。

もはや「ログイン」とか「パスワード」とかいう言葉だけでも嫌悪感を感じてしまいます。
わずかのことで、何度でも情け容赦なく差し戻されて、しかもどこがいけないのかわからないから、いつもイライラかつクタクタ。

人に聞いたらPayPayがお得だというので、よせばいいのにこれを登録したら、これがまた設定だの連携だのとわからないことの連続で、何が悲しくてこんなことにエネルギーを消耗しなくちゃいけないのかと思いつつ、いったん始めたからには途中で諦めるのもくやしいから、文字通り歯を食いしばって高い壁を汗だくでよじ登るごとくになってしまいます。

そうまでして設定と連携が終わったPayPay。
…ところが、これが使える店というのは、実際まだまだで「なーんだ、まるで役に立たないじゃないか!」と思うほど使える店が少ないのには大いに落胆しました。
ダイソーが使えるのは逆にびっくりだったけど、現状ではネット専用と考えるべきかもしれません。

まだ交通系カードのほうが利用機会は多く、日本がこの分野で「遅い」というのを実感しました。
「便利」で「お得」という立て付けのもと、昔ならシンプルに財布から現金でお金を払えばすんだことを、今は「この店は何が使えるか/使えないか」をいちいちチェックする新習慣ができたりと、やっぱりトータルでいうと人の仕事はさほど減っていないように思います。

逆に、このところあまりにもキャッシュレスに囚われていたので、普通にサイフを出して、普通に現金で支払ったら、それが新鮮なほど単純明快で簡単で、けっきょくなんでこれじゃいけないのか!?と思いました。

AIだか何だか知らないけれど、末端の人間の消費行動のデータをせっせとどこかに献上しているようでバカバカしくもなったし、それによって得られるわずかのポイントやなにかは、このデータを売っている対価のようなものかも…。

テレビの討論番組などでは、キャッスレス化が進んで「じきに現金の優位性が落ちてくる」「サイフや現金が要らなくなる」などと経済アナリストがしたり顔でしゃべっていますが、ふん、いつのことだか!と思うこのごろです。
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iPhoneかわいい

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお付き合いくださいませ。


昨年12月、ついにスマホを買いました。

その理由は単純で、この先もガラケーで押し通すほどのサムライでもなく、iPadをカバンに忍ばせて持ち歩くのが重くて面倒くさくなったことと、スマホは今や時代の主役となって久しく、もはや時勢には逆らえないというあたりでしょうか。

知人のアドバイスもかなり後押しになったし、キャッシュレス、カメラ/動画、LINE等の通信手段、ナビゲーション、その他使いおおせないほどのありとあらゆるアプリがあふれ、これを世界の老若男女の大半が持っているわけだからすごいもんだと思います。

思い起こせば、むかしは21世紀になったら誰もが気軽に月旅行に行けたり、車は空を飛んでいるといった無邪気な空想をしていましたが、それはそうならなかったけれど、スマホはある意味それに匹敵する技術革新でしょうね。

世の中の仕組みも、スマホがあることを前提としており、そうではない人のことなど置き去って前進している。
誰もがあの小さな端末を握りしめ、生活の大部分を依存/支配されており、マロニエ君はべつに何かの活動家でもないし、もはやそれを使わない理由もないと思い至りました。

その気になれば、iPadでも似たようなことはできないことではないようですが、サイズも機能のうちで、いちいちあの重い板切れを取り出すのではその気になりません。
バスと普通車ぐらいの差があり、そのための使いにくさと煩わしさがあり、やはりiPadは「小さくない」し「重い」。

マロニエ君が使っていたのは、正しくはiPad mini なので、いくぶん小さく軽いほうでしたが、それでもカバンはズシッと重くなるし、独特の塊感があり長時間になると手や肩は結構な負担になるなど、それを前提としたカバンを持つ必要さえありました。

出かける際も、あれこれの支度に加えて、iPadはカバンに、携帯をポケットに!というのが忘れてはならない必須確認事項に組み込まれ、そうまでしてさんざん持ち歩いたあげくに一度も使わなかったなんてこともザラでした。

昔なら、それでもネット環境がかばんで持ち歩けるなんて夢のようで、そんな程度の重さなんてぜんぜん厭わなかったけれど、時代は常に「当たり前を更新」してしまい、いまではこれが苦痛として迫ってきていたのです。

巷で流行りのキャッシュレスやポイント/クーポンのたぐいも、レジでカバンの中をゴソゴソやってiPadを取り出して画面を開くという手順はけっこうな集中(というか緊迫!)を強いられて煩わしく、下手をすると普通に財布から現金で払ったほうが、どれだけ単純で楽かと思うことも。

ガラケー&iPadという組み合わせは4年間お世話になったスタイルでしたが、iPadとiPhoneは、電話機能を有無を除いてほとんど違いはないと思っていたけれど、実際は「似て非なるもの」でした。
しかもそれは、機能というより、気持ちの上での違いが大きいことも大きな発見でした。

いまごろやっとスマホを手にして、その感動をこうしてブログの文章に綴ることじたい滑稽のそしりを免れませんが、まあそれが事実なんだから仕方がありません。

というわけで、ついに手にしたiPhoneですが、これが想像以上に便利だしiPadにはなかった緊密性があり、長年2つに分かれていたものが小さく1つに集約できただけなのに、このほっこり感はなんだろう!?という感じ。

さらに言うなら、おかしなことに、なんというか独特の可愛さがあって、小さな相棒というか、まるで頼れる秘書を常に何人も引き連れているようで、これはiPadにはない気分でした。

かくて、4年間行動を共にした2台のiPadは自宅内のパソコンのない部屋用の中間端末へと降格されて、いつもテーブルの上にべたんと鍋敷きのようにへばりついています。
まるでホールに新しいピアノが来て、前のは練習やリハーサル用になるように。
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