チョン・キョンファ

BSのクラシック倶楽部でチョン・キョンファの2018年来日公演の様子を視聴しました。
以前にも放映され、再放送になっているものですが、ようやく再生ボタンを押しました。

チョン・キョンファのヴァイオリンは昔からとくに好きというほどではなかったけれど、この世代では世界的なヴァイオリニストのひとりとして数えられ、避けて通ることはできない存在だったから、折々には聴いてきたように思います。
つややかで洗練された演奏というのとは違うけれど、小さな身体の奥にいつも熱いものがぐつぐつとたぎっていて、演奏家としての誠実さと相まったものがこの人の魅力だったように思います。

彼女もすでに70代になり、若いころのような柔軟性やパンチはないけれど、情熱はまったく衰えずといった様子でした。
音形のひとつひとつに自分なりの意味を見出し、そのすべてに情念とでもいうべきものが込められているのは、最近のあっさりした演奏傾向とは逆を行くもので、断固としてそれを貫いている人だと思います。

ただ、自分でも驚いたことがありました。
それは最近のように、若い世代の演奏家の、ある意味無機質だけれど技巧的によく訓練されたスムーズな演奏が主流となって、好むと好まないとにかかわらず、そういう演奏を耳にすることが頻繁になってくると、不思議なことにチョン・キョンファの演奏がやたら古くさい、前時代的な感じがしたのです。
まるで昔流行ったファッションのようで、いま見るとちょっと「あれー…」みたいな感じ。

シャコンヌの入魂の仕方などは、バッハをあれほど直截に、劇的に、激く打ちつけ、苦しみ、思いのたけを吐き出すように弾いていましたが、マロニエ君のイメージでは、こういう曲はもう少し端正に曲を進めながら、人間の何か深くて激しいものがチラチラと見え隠れするほうがよほど聴く者の心を打つように思います。
バッハというよりは、なにか全身タイツの前衛バレエでもみているような感じでした。

フランクのソナタも、冒頭から一つ一つの音に呼吸と表情がつけられすぎているようで、これが彼女の解釈であり感じ方だと思うけれど、それがあまりにもこまかい刻みで入っていくため、フレーズが小間切れになり、却って曲の流れを損なっているように感じて、なんだか疲れます。

もうすこし力まずに音楽に身を任せたらどうかと思うのですが、こちらがそう思う陰には、先に書いたように最近の演奏傾向というものが──決して肯定はしていないけれど──知らぬ間に作用しているようにも思ったわけで、ちょっと複雑な気分でした。

チョン・キョンファは、おそらくは曲の解釈は入念にやっている筈だけれど、自分の主張のほうが優先されてしまうタイプの人で、若い頃はまだそこに一定の制御もできていたけれど、ある程度歳もとってくると、どうしても自我を抑える力が弱まるもので、結果的に自分に自分がふりまわされているように感じました。

えてしてこういうタイプの演奏家は、音楽に燃焼するのか、自己表出に気を取られてしまうのか、わからなくなるというのはままあることのように思います。

そうはいっても、こういうタイプの演奏家も出てこなくなるのかと思うと、それはそれで残念です。
やはり演奏家というものは「自分はこうだ」というものを一定の約束事の上に表現するのでなければダメで、誰が弾いているのかさっぱりわからないような、ただ上手くてきれいなだけの、規格品みたいな演奏なら聴く価値がありません。
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世代の響き

録画ではあるものの、このところ立て続けに3世代のスタインウェイによるコンサートをTV録画で触れることになりましたが、わりと短い期間であったため、それぞれの特徴があらためて確認できた気がしています。

少なくとも1960年代ぐらいから近年までに関していうと、大きくは3つに分けることができるように思います。
拙い表現でいまさら音色の特徴をあれこれ言っても始まらないので、今回は東京タワーの番組で見たような、時代の景色に喩えてみます。

1970年代までは雄渾な筆致の油絵のような風景の美しさ、光と闇がおりなす雄大な景色。
寛容で、ふくよかで、しかも力強さがみなぎり、人間臭い幅がある。
ピアノが必要以上に前に出ることはなく、ピアニストの一歩後ろに回っているが、必要とあらばどのような表現にも即応できる度量と潜在力を秘め、底知れぬ可能性がある。

1980年代を過ぎると、しだいに都市化が進み、ビルが建ってきて、飛行機が飛びはじめる感じ。
音色はより透明感を増して、ある種の洗練も経てスタイリッシュに。
音色の個性も整えられ、スタインウェイらしさがより明快に。

次の区切りがいつかはわからいけれど、21世紀とでもしましょうか。
ビルは高層化され、乱立し、一見華やかだけれど、もはや石やレンガ造りの貴重な建築はつぎつぎに建て替えられる。
ライバルの台頭、大衆社会の到来ですべてが競争条理に呑まれ、質より利益の戦いが露骨になり、合理化の気運があらわに。
有名コンクールでは、楽器メーカー側も同時進行的な競いの場になり、本来の音質よりも弾きやすさとか、単なる音の通りとかいったものを重視。

あきらかに音が小さく痩せて、鳴らなくなってコンチェルトなどでは、どんなにピアニストが熱演しても埋もれてしまう印象があります。
もしかすると、機械などで測定すると数値としては「何デシベルある」というようなことで、根拠の無い印象であり思い込みなどと言われるかもしれないけれど、実際そんなことはどうでもいいのです。
楽器というのは、聴いている人に与える印象が概ね真実だと思うのです。

かつてのボディや床を震わすような強烈な鳴りは失われ、他社ライバルと似たようなきれいに整っているだけのピアノになってしまい、よく「今の政治家は小粒になった」といわれるのと同じでは。

…とはいえ、ピアニストもそれじゃ困るような本物もあまり見当たらないから、それでいいといえばそうかもしれないけれど、やはり寂しく残念なことに変わりはありません。

新品から数年がピークで、予め賞味期限が見切られたような雰囲気で、これも時代の必然かと思うと、少なくとも自分はそうなる前の良い時代に生きられ、佳き時代のピアノの音をコンサートやCDで楽しむことができたことを幸運だったと思うしかありません。

たとえばアラウが残した名盤の数々は、演奏が素晴らしいのは言うまでもないけれど、あの太い指でおだやかに鳴らされる美音は、当時の楽器の素晴らしさも一役買っていたと思います。

品質には疑問が残るのに、価格は値上がりする一方で、どうなっていくのかとため息が出るばかりです。
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コロナとCD

世界規模にまで急速に拡大したコロナウイルス。
都市の封鎖や外出制限、各国の入国制限という厳しい状況になりました。

とりわけヨーロッパの感染拡大は衝撃的でした。
フランスでは全土で生活に必要な食料品店以外のすべてのカフェやレストランも営業停止、ルーブルも演劇も何かもがストップ、そうこうしているうちに「外出禁止令」が発令されたというのですから、この展開には驚くばかりです。
仕事、生活必需品の買い物、子どもや病人の世話以外は外出禁止。
違反をしたら罰金だそうで、第二次大戦のナチス占領下でも外出禁止は夜間のみだったそうで、昼夜を通じての禁止措置は仏史以来の初めてのことだとか。

今年は春を待たずにこんな厳しい事態が待ち受けていただなんて、誰が予想できたでしょう。
フランスに続いて、ニューヨークなどアメリカの各都市が外出禁止令となる気配があるそうで、もはや爆弾の飛んでこない戦時下のような様相。

当然のように、あらゆるイベントは中止に追い込まれ、スポーツも無観客試合などは日本でも当たり前になりつつあり、コンサートなども中止が当たり前のような状態で、テレビで大相撲の中継をちらっと見ましたが…なんとも堪らない気持ちになる光景でした。

当然なんでしょうが、クラシックのコンサートも軒並み中止という話を聞きます。
それでなくても、スポーツや他の音楽イベントとは違ってクラシックは慢性的な不況状態だったところへこんなことになったのでは、演奏家たちはもちろん、このジャンルそのものがどうなってしまうのだろうと思います。

まずは人の命であり、次に来るのが経済なのは当然ですが、その経済も世界規模で崩壊するのではという危機感が広がり、すでに「コロナ恐慌」などという言葉もちらほら出てきていて、とにかく困ったことになりました。

通常の経済活動が一斉にスイッチOFFみたいな危機に瀕しているわけで、もはやコンサートどころではないということでしょう。


最近読んだアンドラーシュ・シフの『静寂から音楽が生まれる』の中に書かれていて驚いたことが。
それは、一時期はこのピアニストの収入の約半分はCDによるものだったものが、現在ではわずか10分の1ほどまでに減少し、収入面ではコンサートの比重が増したというのです。

シフといえば、まあ世界のトップクラスのピアニストに数えられ、CDもバッハやベートーヴェンなど渋めのものではあるけれど、一時期は着実にリリースされてマロニエ君もよく買っていたものですが、このところ新譜があまりないなあという気はしていました。
かなりの人気演奏家であっても、新しいCDというのは激減しているのはひしひしと感じるところで、クラシック音楽の火はほとんど消えかかっているのでは?と思います。

とにかく、今どき、だれもCDなど買わない環境になったんですね。
さほど音楽なんぞに興味が無い上、その気になればYouTubeなどネットでほとんど無制限に聴くことができるようになり、それが当たり前の社会で生きているのに、わざわざ一枚につき2000〜3000円も出してCDを買うなんて、よほどの好きものか変わり者でないかぎりしないのでしょう。

もちろん、マロニエ君はその変わり者のはしくれなんでしょうけど。
今のうちに欲しいCDは買っておかないと、そのうちCDそのものが買えなくなる日が来るかも…ぐらいに思っていたほうがいいかもしれません。

このクラシック音楽不況の中で、小さな蝋燭の火のようになってしまっていたCD業界が、今回のコロナのひと吹きで消えてしまわないよう、音楽の神様に願うばかりです。
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HJ LIM-2

ついにWHOがパンデミック宣言をするに至ったコロナウイルス騒ぎ。
この渦中、のん気にピアノのことなんぞ書き連ねるのも違和感があるとは思いつつ「自粛」したところでなにがどうなるものでもなく、とりあえず従来通りにピアノ及びその周辺ネタで続けることにします。


HJ LIMのベートーヴェンにしばらくハマってしまい、このピアニズムによる他の作曲家の作品も聴いてみたいと思いCDを探したら、思ったほどありませんでした。
その中から、ラヴェルとスクリャービンで構成されたアルバムを購入。
ラヴェル:高貴で感傷的なワルツ/ソナチネ/ラ・ヴァルス
スクリャービン:ソナタNo.4/No.5/ワルツ op.39/2つの詩曲

平均的なピアニストにくらべればもちろん元気はいいけれど、一連のベートーヴェンで聴いた強烈なインパクトからすれば、ちょっと表現の振れ幅がセーブされた感じがあり、あの勢いでラヴェルやスクリャービンを料理したら、さぞかしエキサイティングで面白いことになるだろうという予想は、半分ぐらいしか当たらなかったという感じ。

パンチ、センス、自在さ、思い切りの良さ、どれもあるにはあります。
しかしベートーヴェンにあった全身で飛びかかっていくような突破感とか、次から次に音が前のめりに覆いかぶさってくるようなスリルはなく、最後の最後でやや制御が効いているような感じがあり、だれかから何か言われて、やんちゃ娘がほんの少しおとなしくしている感じが気にかかりました。

人が心を鷲掴みにされたり感銘を得たりするものは、その最後の紙一枚が違いが大きくものをいいます。

自分の感性の命じるまま、猫のようにしなやかになったかと思えば野生的であったりの変幻自在さ、いったんばらばらにしておいて最後で一気に引き絞って解決に落とすなど、その際どさ、さらにはそれを確かな技巧が下支えしているのがこの人の面白み。
人がどう思おうと私はこうなんだという物怖じしない度胸、エゴと大胆さが魅力であったけれど、どことなく常識の範囲を大きくはみ出さないよう制御している気配…。

本人はもっと暴れたかったのかもしれないけれど、CD制作会社とか録音スタッフがそれを許さず、キズのない常識寄りの演奏にさせたということかもしれません。

あるいは、ベートーヴェンで大胆に思えたことは、同じようなことをしてもラヴェルやスクリャービンで大して目立たず、作品の時代や構造そのものの違いによるものかもしれないということも、まったくないことではないかもしれません。

ただ、このCDのことはわからないけれど、一般論としてレコード会社だのプロデューサーだのが演奏のこまかい内容にまで口を挟み、あれこれ注文をつけて、駆け出しのピアニストであればあるほど、本人の思惑通りの演奏ができないということは往々にしてあるようです。
それがいい場合もあれば、個性をスポイルする場合もある。


それにしても、韓国には素晴らしいピアニストがいるものです。
思いつくだけでもクン・ウー・パイク、イム・ドンミン/ドンヒョク兄弟、ソン・ヨルム、そしてこのHJ LIMなど、それぞれ個性は違えど聴くに値する、素晴らしい人ばかり。

名前は覚えていないけれど、以前コンサートで聴いた若手の何人かもなかなか唸らされる演奏であったし、韓国はよほどピアノの教育制度が素晴らしいのかと思います。
音楽的な約束事がきちんと守られ、節度とコクがあり、しかも情感の裏打ちもされているから相応の感銘が得られる。
ショパンコンクール優勝のチョ・ソンジンを推す人もあるかもしれませんが、彼は良くも悪くも今どきの薄味な感じを受けます。
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パンデミック?

新型コロナウイルスの騒ぎは日々拡大し、深刻さの度合いを増しているようで、困ったことになりました。
くわえてしんどいのは、収束の見通しなど、先が読めないことでしょうか。

このような危難に際して、一市民としては日々の情報には敏感でなくてはいけないとは思うのですが、連日にわたり朝から晩までコロナ関連の報道を浴びせられていると、それだけでも気分は滅入り疲れきってしまいます。

ウイルスという目に見えない敵を相手にするのは、最も陰湿な戦いを強いられているようなもので、世にはびこるのは不安と疑心暗鬼。

マロニエ君のように情報に対して常に周回遅れの人間にとっては、気づいた時にはもうマスクなど買えるはずもなく、スーパーに行った際に薬局などをいちおう覗いてはみるものの、どこも棚はガランとして品物はなく、「入荷の目処は立っていません」みたいな紙がプラプラと下がっているだけ。

たった一度だけ、偶然だったのか無いはずの棚に7枚入りのマスクがほんの少しあって、本能的に手を伸ばしてゾワゾワするような気持ちでレジに持って行き、どうにか購入できたことがありますが、それも支払いが済んだ時には、次々に人の手にとられて、あっという間になくなりました。
あとは家にあったわずかな買い置きのマスクをかき集めて、これをなんとか大事に使うのが関の山で、ここ最近ではマスクをなんとか手に入れようという意欲も失いました。

隔離、封鎖、さらには非常事態宣言などという言葉も、なんともいえず心に重くのしかかるというか、いやでも絶望的な気分にさせられます。
世の中のイベントやら経済活動やら、あらゆる「動き」が自粛や中止となり、社会が一気に沈鬱な色に。

さらに個人的には、追い打ちをかけたのがティッシュペーパーやトイレットペーパーの類が一斉に店頭から消えてしまったこと。
マロニエ君はちょっとしたストック癖みたいなものを抱えているために、これは人の何倍もダメージを感じます。

はじめの頃、大型スーパーで人目もはばからず大量買いしていく人達の動画がSNSでアップされ、これが非難の的になりましたが、たしかにあれは見ていて気持ちのいいものではありませんでした。

でも、だからといって、それをネットなどで非難する論調も、やたら正義正論の拳をふりかざして、個人的にはちょっといただけない響きがありました。
デマに乗せられて行動する人達を、エゴの権化、愚の骨頂、社会の恥のように厳しく言い立てて批判してますが、人は恐怖にかられたときに、そんなに冷静にデマと真実の見分けなんてつくのか?と思います。

ティッシュペーパーやトイレットペーパーが無いことが多くの人達のトラウマになり、いまだになかなか買えませんし、こう言っては申し訳ないけれど、うちに少しの買い置きはあっても、もし売っていれば…やっぱり買うと思います。

マロニエ君宅は先月、タイミング的に調律を控えていたのですが、このコロナ騒動のせいか、調律師さんもパッタリ連絡してこられず、きっと気を遣って遠慮しておられるんだろうと思います。
なんとなく、そんなことやってる場合じゃない!みたいな空気なので、どうしたものかという感じです。

驚いたのは、テレビで専門家が言っていましたが、アメリカの古くからの風習では、ウイルスが流行るとなんとかいうパーティーをやって、人が集まってわざと感染するんだとか。
これは薬など容易になかった時代からの知恵なんだそうで、一度感染すれば抗体ができて却って安心という、なんとも荒っぽい(でも理に適った?)やり方のようで、びっくり。
欧米は今でも基本的に風邪やインフルエンザでは病院に行く習慣がなく(医療費が日本のように安くないこともあり)、一部では今でも残っている風習というのですから、なんとたくましいことかと唸りました。
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東京タワー

『新・美の巨人』というTV番組がありますが、東京タワーが採り上げられたことがありました。
戦後復興の中で、テレビ/ラジオ放送が始まり、そのつど局ごとに建てられる電波塔乱立問題を解消するため、総合電波塔が建設されることになり、内藤多仲の設計によって1958年の暮れに竣工した当時世界で最も高い電波塔。

マロニエ君の子供時代は、叔父叔母たちが複数在住していたことから、休みになると足繁く家族で東京に赴いていましたが、羽田に着いてタクシーで首都高を走って都心に向かうと、横羽線がモノレールと平行して走るあたりから小さく見えてくるのが東京タワーでした。
それがだんだん大きくなり、環状線に入って芝公園付近に達するや、その圧倒的な姿はこれでもかとばかりに眼前に迫り、いつも胸踊らせながら食い入るように見つめていたものです。

東京タワーの高さは群を抜いており、これを脅かすものはひとつもなかったところに、まず霞が関ビルができ、次いで浜松町に貿易センタービルが登場して、大展望台並の高さのビルができたことだけでも驚きでした。
その後は新宿に京王プラザホテル、池袋にサンシャインとだんだんに高層ビルができましたが、それでもさほどの勢いではなく、東京タワーの高さと存在感はバブルの頃までは維持されていたように思います。

しかし時は流れ、六本木ヒルズをはじめ高層ビルの乱立がはじまり、ついにその優位性が名実ともに決定的に奪われたのは、東京スカイツリーの登場であることはいうまでもありません。
でも、それが却って東京タワーの数値ではない品格であったり、歴史遺産としての貴重な建造物としての存在価値を問い直す結果にもなったように思います。

さて、番組ではとび職による建造中の様子など、貴重な写真や映像が数多く紹介されましたが、「うわっ!」と声を出すほど驚いたのは、タワーそのものではなく、竣工時(すなわち60余年前)の東京の景色でした。
いったいどこの田園風景かと思うような、のどかな野っ原の上に、できたての東京タワーはえらく淋しげにポツンと立っているだけで、まわりにはウソのようになにもなく、足下に小石でも転がるように木造の粗末な建物がちょこちょこっとあるだけで、まさにガリバー旅行記の一場面のようでした。

それが今はどうでしょう。
林立する高層ビルが周囲を取り巻いて、かろうじて東京タワーだとわかるのは、昔よりも色目が派手になった赤の色と、夜は目にも鮮やかな照明技術により、美しく照らし出されている効果も大きいように思います。
まさにひとりぼっちでスタートした東京タワーは、いまや人混みの中に凛と立つ貴婦人といった感じで、その光景は時代そのものの激しい変化と、とどまるところのない競争社会を象徴しているようにも思えました。

日本人の精神の中には「判官贔屓」というのがあるから、今の東京タワーのほうが人々からより愛される存在になっているかもしれませんね。

ちなみに、設計した内藤多仲は「塔博士」とも言われる鉄塔設計の第一人者で、ほかに名古屋テレビ塔、通天閣、別府タワー、さっぽろテレビ塔、そして氏の設計した最後の塔が博多ポートタワーで、その下に遊園地があったことから子供の頃に何度も登った博多港の小さなタワーが、まさか東京タワーと同じ生みの親だったとは、今回はじめて知りました。

各タワーの写真を見比べてみると、なるほど鉄骨の組み方から逆台形の展望台の形状や窓の感じまで、どれも似ているというか、同じDNAであることがわかりましたが、その規模、スタイルからして、東京タワーがダントツにカッコイイですね。
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