ギックリ腰

コロナウイルスで緊急事態宣言、外出自粛など、日々を過ごすだけでも気を張ってストレスを感じるこんなときに、なんたることか、ギックリ腰になりました。

朝起きてしばらくして、着替えをして、床で靴下を履いて普通に立ち上がろうとした瞬間、腰まわりを稲妻に打たれた(ことはないけれど)ような感触が走り、そのまま立ち上がることができなくなりました。
まわりの机やら何やらを掴みながら決死の思いで立つことは立ったけれど、まず頭をよぎったのは「…これはエライことになった!」ということ。

当然それから何をするにも大変で、昼食を食べるのもやっと、ちょっとしたものに手を伸ばすことさえ強烈な傷みに襲われるし、そもそも真っ直ぐ座っているだけでもグラグラして文字通り腰が座りません。

どうしてまたこんな時期に、なにか不自然な姿勢をとったわけでもなく、変な力をかけたわけでも、重いものを持ったわけでもないのに、よほど日ごろの行いが悪いのか、なにかの罰が当たったのか、単にそういう歳なのかわからないけれど、目の前の現実がただただ腹立たしくて情けない気分。

ちょうど休日だったこともあり、午後はふらふらと壁伝いに自室に戻ってパソコンなどをやっていましたが、しばらく椅子に座って次に立ち上がろうとすると、それこそ耐え難いような激痛に襲われ、身体はくの字になったまま伸びないし、1メートル歩くのにも汗ばむほど。
本当にこれは大変なことになったと、ほんとうに泣きたいくらいでした。

何年も前の大晦日に、その時は自分の不注意からやはり腰を痛めたことがあったけれど、治るのにはずいぶん長くかかったし、コルセットが手放せない日々を送ったことでもあり、これから先のことを思うと暗澹たる気分になりました。
症状は時間経過とともに間違いなく悪化しているのがわかり、ベッドに横になるのも汗ばむほど難儀だし、横になったらなったで数センチ身体をずらすこともできません。

ちょうど知り合いのドクターにLINEでこのことを伝えると、専門ではないものの「そのうち治りますよ」という感じの軽い応答でしたが、しばらくして「えっ?」と思うようなコメントが届きました。

なんと、安静一辺倒かと思っていたら「最近は普通に歩いたほうが快復が早いという話が多い」のだそうで、整体師の中には逆さ吊りのような荒業をかける人もあるらしいということが書いてありました。

あまりの辛さから、この際どんなことでもやってやれ!という、ほとんど捨て身のような気分で、ゆっくりと腰をまっすぐに立てていたらどうにかなることがわかったので、階段の登り降りをやってみました。
普通なら、とてもそんな恐いことをする勇気などないマロニエ君ですが、これからはじまる辛く不自由な、脂汗まみれの毎日を考えたら、もうどうなってもいいというようなヤケクソの勇気が湧き上がり、痛さを無視して上ったり下りたり7〜8往復ぐらいすると、少なくともそれでひどくなる気配はなかったので、しばらく休憩して、ヨーシ!とばかりに夜の散歩に出かけました。

それでわかったことは、ギックリ腰といえども真っ直ぐに立って、真っ直ぐに歩くぶんには、思ったよりも歩けるということでした。
大事をとって家からなるべく離れないよう心がけながら、それでも数ブロックぐらい歩いたら、後半はさすがにちょっと辛くなってきましたが、なんとか無事に帰宅することができました。

それでも、就寝時は寝返りも打てないのは辛かったけれど、翌日はだいぶ収まってさらに散歩を続けると、夕方にはずいぶん症状が改善されており、前日に比べたら劇的な変化を遂げていました。

ギックリ腰=痛くて長期戦というこれまでの認識からすると、わずか一日でこれほど痛みが減るのは望外の事で、信じられない気持ちでした。
すでに4日を超えましたが、さほどの辛さもなく、注意深くしていれば普通に生活できて、車の運転をして食料品の買い出しにも行けるようになりました。

もちろん、医師でもないマロニエ君としては、無責任なおすすめはできませんが、たまたま自分にはこれが良かったようでした。
続きを読む

収束後の世界は…

先日のEテレ-クラシック音楽館をみていたら、長引くコロナウイルス感染拡大の波を被った音楽界の様子をとらえた内容となっており、演奏機会を失った音楽家たちが発するメッセージと、過去の演奏などで構成された番組でした。

中でも指揮者で鍵盤楽器奏者の鈴木優人さんが、過日のバッハのヨハネ受難曲が「私の最後の演奏になった」という言い方をされたのは、おもわずドキッとさせられました。
もちろん、コロナウイルスによって公開演奏が一時的にできなくなる直前の「最後」という意味ですが、なんとはなしにそれ以上の深刻な響きがあったような気がしたのでした。

音楽家に限らず、あらゆる職業の人達が同様の苦しみの中におられることはいうまでもありません。
朝起きて外の景色を見ると、ときに眩しいばかりに美しい快晴の日があって、木々は風にそよぎ、目にはあたかも穏やかな平和な景色に見えるのに、実際にはこんなひどいことになっているなんて、そのたびにウソみたいな気がします。

以前テレビの討論番組の中で、竹中平蔵さんが言われた言葉はちょっと忘れることができないものでした。
もう録画は消去したので、正確に写しとることはできないけれど、要するにいつかこのコロナウイルスが収束しても、そこから始まる世界は決して元通りではないというものでした。

これだけの災厄を経験した世の中は、それ以前と以降では、明らかになにかが「変わる」というのです。
その根拠としてSARSやリーマンショックの前後をみると、そこを契機にあきらかに世界は「変わった」んだとか。

いまや世界の経済を牛耳り、人々の暮らしのカタチさえ変えてしまったGAFA (グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾンの頭文字をとったもの)は、リーマンショックの後に急速に躍進してきたもので、それ以前は大して意識もされなかったこれらの新興企業が驚くべき短期間に世界を席巻したということをみても、言われてみればそうだなと思いました。

コロナウイルスにとっては、国境も政治も経済も人種も知ったことではなく、まさに目に見えない悪魔となって地球上を飲み込む勢い。
こんなパンデミックの恐ろしさに震えながら過ごす毎日はいつまで続くのか…。

これは事実上の、砲弾が飛んでこないだけの第三次世界大戦のようでもあり、ノストラダムスの大予言が20年ばかりズレて起こったといえなくもない状況で、これだけのことを経験させられた世界は、たしかに竹中さんの云われるように、収束後は以前の通りということにはならないでしょうし、よく考えたらなるはずがないでしょう。

それがどんなものになるのかはわかりませんが、少なくとも今回世界を恐怖に落し入れたコロナ騒動は、SARSやリーマンショックどころではなく、それを思うとその向こうにどんな新しい世界が待ち受けているのやら、不気味な気さえします。

また、終わった時は、ただ終わった!というだけなのか?
現在は感染拡大防止と収束にむけて世界中が全エネルギーを注ぎ込み、文字通り戦いの最中ですが、これが一段落したら、発生源の原因究明、これほどの拡散に至った初期対応への検証など、相応の責任追求というのは厳しくなされるのか否か、こちらも気になるところ。

夥しい数の感染者、亡くなった方、ありとあらゆる予想だにしなかった途方もない損失損害、無事に生き延びたにしろ、その間に味わった不安と不自由と苦痛は、これはちょっとやそっとのものではないですからね。
収束したら「ハイおわり、お疲れ様、パチパチパチ」では済ませられないと思うのですが…。
続きを読む

BOXセット2

例えばヘンスラーのバッハ大全集は、びっしり並ぶ172枚のCDにJ.S.バッハのほぼすべての作品が収録されており、これを聴くだけで数ヶ月を要しました。
ほかにもフルトヴェングラー107枚、モーツァルト全集170枚、グラモフォンのブラームス46枚、ブルーノ・ワルター39枚といった具合で、マロニエ君は「1枚のCDを1度聴いたら、ハイつぎ!」という聴き方ではないので、1セット聴くだけで大河ドラマ級の仕事になります。
いやいや、大河ドラマはたかだか週に1回45分ですが、CD・BOXセットの場合はほぼ毎日だから、時間的には桁違いです。

しかも、ひたすらそれだけを聴き続けることは精神的にしんどいし、自分なりの清新な気分を保つためにも、ときどき途中下車しながらのペースなので、そうなるとこれがもうなかなか進みません。

ごく最近もエラートのパイヤール全集133枚をようやく聴き終えて、ふだん耳にすることもない大量のバロック音楽に触れることはできたものの、正直、途中で疲れてきたのも事実で、ほぼ3ヶ月以上聴き続けてやっと終わった時にはもうお腹いっぱい、しばらくは結構となってしまいました。

フランス系で思い出しましたが、ミシェル・プラッソンのBOXセットも大量で、その時はめずらしいフランスの管弦楽曲漬けになっていたのに、今振り返ればそれっきりだし、本当は恥ずかしくて書きたくないけれどカラヤンのEMIの全集というのがまたとてつもない量で、これはカラヤンというのが続かずに途中棄権したまま。

こうしてみるとマロニエ君はピアノマニアのわりにBOXセットではピアノ以外のジャンルばかり買っているようです。
ピアノでセット物といえば、ずいぶん昔ですが、GREAT PIANISTS OF THE 20th CENTURYという、とんでもなく壮大なセットが販売されたことがありました。
しかもこれ、最近のように既存の音源を片っ端からBOXセットにして投げ売りするよりずっと前のことで、むしろ「いいものを作れば高くても売れる」という考えがまだ通用していた時代の、いわば入魂の豪華セットでした。

たしかスタインウェイ社が主導して、20世紀の偉大なピアニストを70人ぐらいを選び出して、その名演を集めたセット。
音源はレーベルを超えて集められており、立派な取っ手がついた小さなスーツケースのような専用ケース2つに収められ、一人のピアニストにつき2枚〜6枚で、計200枚ぐらいのセットでした。
当時からその70人余の選定には異論もあり、個人的にはタチアナ・ニコラーエワが入っていないことは納得できませんでしたし、日本人で選ばれたのは内田光子ただ一人でした(これは当然だと思うけれど)。

かなり高額でしたが、これはどんな無理をしてでもゲットしなくてはという意気込みから買ってみたものの、全部聴いたのかといえば、それは未だに果たせていません。
ゲットしたことで達成感にひたってしまい、たしか1/3も聴いていないと思います。
今もピアノの足下の薄暗いところに、ドカンとふたつのトランク状のBOXが重ねられており、そろそろこれを引っ張りだして順次聴いていこうかとも思いますが、なかなか着手には至りません。

それはともかく、多くの音楽・演奏を幅広く聴くことも大事だとは思うけれど、前回書いた通り、一つの演奏(アルバム)を繰り返し集中して聴くことのほうが、やっぱり得るものは大きいし、大事なものが残るような気がするのは事実です。

LPの時代、1枚のレコードを擦り切れるまで聴いたというような話は昔よくある事だったようですが、そうして得たものはその人の心に深く刻みつけられ、無形の精神的な財産や教養になっていると思います。

そんな吸収の仕方というか、限られた環境で貴重な音楽に接するときの気分というものは、今のようにデータの洪水の時代にはあるはずもなく、だからみんな知識はあっても器が小さく、却って無知で底が浅いのはやむを得ないことだと思われます。
人から聞いた話では、月に1000円ほどを支払えば、ネットで世に存在する大半のCD音源が際限なく聴けるそうですが、表現が難しいけれど、こういう物事が元も子もないような便利さと、音楽を聴くという喜びとか精神的充足感は、どこか根本のところでまったく相容れないものがあるようにも思い、それを利用しようとは思いません。

いくら高価な珍味でも、バスタブいっぱいキャビアがあったら食べる気にもなりませんよね。
CDのBOXセットは、それでもまだ自分でお金を出して買うだけマシかもしれませんが、それでも有難味という点では価値が薄れていくという危険は大いに孕んでいると思います。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

BOXセット

近年、スター級の演奏家もほぼ不在となり、芸術全般に対する関心度も下がる中、新しいCDを作っても売れる見込みが立たないのか、新譜の数も激減しています。
考えてみれば、好きな演奏家が新譜を出すといってわくわくして、発売日に即購入したいと思うような人はもういませんし、そもそもそんな時代でないということなのか。

時代の変貌、価値観の急速な変化、優劣で決まるコンクールが基軸になるなどの条件が重なって、個性のない平均化された演奏者ばかりがあふれ、若い人で人気があるといえば、ほとんど例外なくテレビタレントのような人で、ピアノの弾ける漫談家のような人も現れて、もうめちゃくちゃといった感じしかありません。

指揮者でいうと、いまどきはどんなに有名な人でも、練習風景の映像など見ると、まず楽団員に嫌われないように気を配り、低姿勢を貫き、愛想笑いを絶やさず、リハもいちいちお願いしてお礼を言っての繰り返しで、むしろ団員のほうがどことなくエラいような感じ。
それでは思い切ったこともできないだろうし、演奏はだいたい似たりよったりになるのは当然の帰結です。

かつてのような暴君や帝王がいいとは云わないけれど、そうかといって気を遣いまくる指揮者の演奏なんてあまり聴きたくもありません。
芸術と名のつく限り、そこにはエゴも魔性も毒も一定量は必要であるにもかかわらず、現代の演奏はそういう要素はことごとく除去されて、尋常で整った無味乾燥な演奏をしていれば次の仕事にありつけるのでしょうか?

器楽も同様で、追い求めているのは表面的な演奏クオリティとありきたりの解釈をセットにして弾く、それだけ。
技術的訓練はぬかりはないのだろうけれども、大曲難曲なんでもござれで片っ端から手を付けても、何のありがたみもないし、だからいまさらコストをかけて録音しても買う人がいないから、その数は減るいっぽうという気がします。

この傾向は当分変わりそうにもなく、各レーベルに残された捨て身のCDビジネスがBOXセットなんでしょうか…。

閉店前の放出セールでもないでしょうけれど、過去の名盤・名演を惜しげもなく集めてはBOXセットにして、昔ならおよそ考えられないような破格値で次々に放出されていますね。

老舗レーベルは過去数十年にわたって蓄積された膨大な音源があるから、ひとりの演奏家、作曲家、あるいは特定のテーマごとにBOXセットを組むことは可能でしょう。

こうしてひとまとめにされたずっしり重いBOXセットは、その誕生の経緯がどうであれ散逸することなく整理され、だれでも入手可能となるという点では価値あるものだとは思います。
BOXセットということで拾い上げられる以外、おそらく永久に日の目を見なかったであろう録音も、これを機に蘇るという点でも意義はある。

こちらにしてみれば、長年コツコツと買い集めたものが重複することも珍しくなく、これまで投じたエネルギーやコストを考えたらいやになることも正直あるけれど、それでも買い漏らしたものが手に入ったり、一枚ずつなら絶対に買わなかったようなものを聴くチャンスにもなるし、おまけに望外の低価格であることは大変ありがたい。
もしCD全盛の頃だったらほとんど0がひとつ違うほどで、一枚あたりに換算すると100〜200円ぐらいだったりして、買う側にしてみれば非常にありがたいけれど、演奏者には申し訳ないような気がするのも事実です。

果たして偉大な演奏家の長年にわたる演奏の軌跡を一気網羅的に辿れるのだから、かつてならまずできなかったような経験があっさりできるのは驚くばかりです。

しかし良いことばかりかというと、そうでもなくて、やはり一枚一枚を丁寧に、熱心に、集中力をもって聴くという、聴き手のスタンスがどうしても甘いものになってしまいます。
この手のBOXセットは、多くは膨大な数のCDがこれでもかとばかりにギッシリつめ込まれており、まず、ひととおり聴くだけでも相当な時間と根気を要するようなものがゴロゴロしています。

そうなると、どうしても先に進むことに追われてしまい、いつしか聴くことが仕事のようになってしまう危なさがあります。
せっせと聴いては次に進むという、まさに数を消化して終わらせるために聴いているようなもので、これでは音楽の楽しみとは似て非なるものになってしまいます。
贅沢な悩みではありますが…。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ:

ナショナルエディション

ついに緊急事態宣言は発令される段階に至りました。
福岡県も含まれており、食料ほか生活必需品を買いに行く以外、何もしちゃいけない雰囲気。
日ごろ普通にやっていたことが、ことごとく自粛対象となるようでもあるし、やはりこうなってくるとなにをするにも気持ちが整いません。

こんな中で、くだらんブログなんぞますます読んでくださる方もないとは思うけれど、もともと自己満足ではあるし、家で音楽を聴いたりブログを書くのは、感染リスクのないことなので、行動としてはマルの部類に入るわけで、そう考えると続けられるだけ続けていこうかと思います。


というわけでフランソワ・デュモンのCDから延長する内容。

ブックレットを見ると、ピアニストの名前のすぐ下に、わざわざ楽譜はヤン・エキエルによるナショナルエディションが使われている旨がさも大事なことのように記述されていました。

出ました、ナショナルエディション!
個人的な考えなので思い切って言わせていただくと、このナショナルエディションが唯一絶対のように扱われるようになってから、ショパンの演奏は、一気につまらないものになったような印象が拭えません。

ショパン研究の成果としては、それが最も正しく、原典版という権威を得ているのかもしれないけれど、個人的にはそれがなんだ!?としか思いません。
また、厳密には必ずしも正しいとは結論づけられない、絶対ではないとする意見もあるようで、どことなくポーランドがショパンの正統であるという覇権を握らんがための匂いを感じてしまいます。

ナショナルエディションによる演奏を聴いていると、ところどころに「あれ?」と思うような音が聞こえたりして、率直に言わせてもらうとあまり美しいとは思えません。
学究的には正しいことかもしれないけれど、なんだか違和感があるし、滑らかな音の流れの中に異物が混入している感じがあったりするのに、それがそんなにエライくて価値のあることなのかと思います。

ピアニストは自分の表現の自由までも奪われて、ナショナルエディションに従っています!というような演奏をせざるを得ないようになった印象があります。
ショパンコンクール自体がそれだから、それが世のショパン演奏の正統流派として大手を振り、大股で道路の真ん中を歩いています。
べつにポーランドに楯突くわけではないけれども、ショパンの研究と解釈という分野における強権的なものを感じて、マロニエ君はどうにも賛成しかねるものがあります。

コンクールに出るならまだしも、プロのピアニストが何の版を使おうが自由であるはずなのに、その呪縛と圧力があるのは疑問を感じます。

まだ指揮者のほうがいろいろなシンフォニーをいろいろな版で演奏したりしているけれど、ショパンに関してはそういう選択肢というか、自由は次第になくなっているような雰囲気を感じるのはマロニエ君の取り越し苦労でしょうか?

ショパン自身も演奏するたび、レッスンするたびに、細部を変更したり、書き換えたり、即興的であったり、本人でさえもどれが決定稿ということはなかったと伝えられています。
しかるに、まるで宗教が他派をすべて排撃するように、このナショナルエディションが唯一絶対のごとく君臨するのは個人的には違和感を感じます。

いまやコルトー版などはほとんど邪教のようで、芸術の分野で、そこまで厳しく限定するのは少しおかしくないかと思いますし、そもそも解釈とは突き詰めれば自分版だと思うのですが…。
続きを読む

カテゴリー: 音楽 | タグ:

フランソワ・デュモン

新型コロナウイルスはますます猛威を振るって、いったいどうなるのかと、世界中が不安で厳しい日々を送っています。
TVニュースなどをつけていると、収束はおろか、日々怪物が巨大化していくようで、たまりません。
ブログでまでコロナコロナと喚いても仕方がないので、いつもの話題に。


またも期待してCDが外れました。

マロニエ君が好ましく思っているピアニストの中にフランソワ・デュモンがいます。
彼は2010年のショパンコンクールで第5位になったフランスのピアニスト。

第1位のアヴデーエワ以下、ゲニューシャス、トリフォノフ、ボシャノフと精鋭が並ぶ中、個人的には最も情感というコンクールではあまり期待できないものを感じ、聴いていて気持ちが乗っていけるショパンを演奏したピアニストということで、このデュモンの今後には期待していました。

純粋に技巧だけなら、4位以上の面々のほうが上かもしれないけれど、コンクールのライブCDを聴いていて、この人には他のコンテスタントにはないショパンの香りがあって、やはりフランスという国はさすがだなあと思ったし、何度も聞いてみたくなる唯一の人でした。

しかし、その後は期待されるほどのCDもリリースされず、わずかにラヴェルのピアノ曲集などを愛聴していましたが、やはりこの人にはショパンを弾いて欲しいと思っていました。

それから10年も経って、ようやく彼がショパンの21のノクターンをリリースしているのを知り、おお!!!というわけで、直ちに購入と思いましたが、あまり知名度がないためなのか、どこも「在庫なし/入荷予定不明」という状況。
今年のはじめに数カ月待ち覚悟で発注していたところ、さきごろ入荷のお知らせメールが届いて、ほどなく手許に。

期待に胸をふくらませながら聴いてみると…、ん???
第1番から固くこわばった感じで、なんだかいやな気配がよぎりました。
経験的に、良い演奏かどうか、少なくとも自分の好みかどうかは聴きはじめのごく短時間で決まってしまうので、好ましいものはすずしい空気を吸い込むように、ストレスなく耳に身体に入ってくるもの。

このCDで聴くデュモンは、ショパンコンクールでみせたみずみずしい語りかけや、詩的なものが随所に見え隠れするような絶妙さはなく、よくありがちな型通りの演奏で、この人ほんらいの良さがまるで出ていない印象でした。
必要なゆらぎやデフォルメがまったくない、プロなら誰でも弾けるような、取り立ててケチをつけるようなところもない…というだけのワクワクしない演奏。

マロニエ君が期待していたものは、あくまでもデュモンその人が感じたままのショパンであること。
それがほとんど感じられなかったのは、いったいどういうわけなのか。

とくにノクターンは、歌いこみのデリケートなイントネーションやアクセント、一瞬ごとの奏者の感性を受け取るところに醍醐味があると思っていますが、そういうものを丁寧に伝えようとする演奏ではなく、あくまでグローバル基準に舵を切ったような弾き方でした。
フランス語の多少はエゴもある演奏でいいのに、無理に英語を喋って常識的に振る舞おうとしているようで、だったらわざわざ長い時間待ってまでゲットする必要もなかったのにと思うばかりです。

現代のピアニストは売れるために個性を捨て、個性を捨てるから埋没するというジレンマに陥っているのかもしれません。

このデュモンのノクターン全集、いいところももちろんあるにはあるけれど、全体を通して何度か聴いてみて、後味として残るのはあくまで「普通」でしかありませんでした。
個性ある演奏家も、その個性を消さないといけないのだとすると、コンクールの基準は独り立ちしたあとのピアニストにもずっとついてまわるようで、それって何かが間違っている気がします。

間違っているとは思うけれども、世の趨勢というものには逆らえないものなんでしょうね…。
続きを読む

カテゴリー: CD | タグ: