ナショナルエディション

ついに緊急事態宣言は発令される段階に至りました。
福岡県も含まれており、食料ほか生活必需品を買いに行く以外、何もしちゃいけない雰囲気。
日ごろ普通にやっていたことが、ことごとく自粛対象となるようでもあるし、やはりこうなってくるとなにをするにも気持ちが整いません。

こんな中で、くだらんブログなんぞますます読んでくださる方もないとは思うけれど、もともと自己満足ではあるし、家で音楽を聴いたりブログを書くのは、感染リスクのないことなので、行動としてはマルの部類に入るわけで、そう考えると続けられるだけ続けていこうかと思います。


というわけでフランソワ・デュモンのCDから延長する内容。

ブックレットを見ると、ピアニストの名前のすぐ下に、わざわざ楽譜はヤン・エキエルによるナショナルエディションが使われている旨がさも大事なことのように記述されていました。

出ました、ナショナルエディション!
個人的な考えなので思い切って言わせていただくと、このナショナルエディションが唯一絶対のように扱われるようになってから、ショパンの演奏は、一気につまらないものになったような印象が拭えません。

ショパン研究の成果としては、それが最も正しく、原典版という権威を得ているのかもしれないけれど、個人的にはそれがなんだ!?としか思いません。
また、厳密には必ずしも正しいとは結論づけられない、絶対ではないとする意見もあるようで、どことなくポーランドがショパンの正統であるという覇権を握らんがための匂いを感じてしまいます。

ナショナルエディションによる演奏を聴いていると、ところどころに「あれ?」と思うような音が聞こえたりして、率直に言わせてもらうとあまり美しいとは思えません。
学究的には正しいことかもしれないけれど、なんだか違和感があるし、滑らかな音の流れの中に異物が混入している感じがあったりするのに、それがそんなにエライくて価値のあることなのかと思います。

ピアニストは自分の表現の自由までも奪われて、ナショナルエディションに従っています!というような演奏をせざるを得ないようになった印象があります。
ショパンコンクール自体がそれだから、それが世のショパン演奏の正統流派として大手を振り、大股で道路の真ん中を歩いています。
べつにポーランドに楯突くわけではないけれども、ショパンの研究と解釈という分野における強権的なものを感じて、マロニエ君はどうにも賛成しかねるものがあります。

コンクールに出るならまだしも、プロのピアニストが何の版を使おうが自由であるはずなのに、その呪縛と圧力があるのは疑問を感じます。

まだ指揮者のほうがいろいろなシンフォニーをいろいろな版で演奏したりしているけれど、ショパンに関してはそういう選択肢というか、自由は次第になくなっているような雰囲気を感じるのはマロニエ君の取り越し苦労でしょうか?

ショパン自身も演奏するたび、レッスンするたびに、細部を変更したり、書き換えたり、即興的であったり、本人でさえもどれが決定稿ということはなかったと伝えられています。
しかるに、まるで宗教が他派をすべて排撃するように、このナショナルエディションが唯一絶対のごとく君臨するのは個人的には違和感を感じます。

いまやコルトー版などはほとんど邪教のようで、芸術の分野で、そこまで厳しく限定するのは少しおかしくないかと思いますし、そもそも解釈とは突き詰めれば自分版だと思うのですが…。
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