緊張感はむしろ上昇

新型コロナウイルスは、今のところ落ち着きを見せており、世界的にも徐々に経済活動を再開する動きが出ているようですね──もちろん国や地域によって差はありますが。
日本国内もしだいに感染者が減少して、いろいろな動きが出始めていますが、第2波を注意しながらのあくまで慎重かつ限定的なもので、緊急事態宣言下よりもある種の深刻さを感じています。

以前このブログに、竹中平蔵氏が「収束しても、決して以前と同じ世の中には戻らない」という意味のことを発言されたと書きましたが、すでにその兆しが出始めているのかもしれません。

海外の大手航空会社が倒産したのが象徴的ですが、じっさいぽつぽつ倒産などの話も出始めており、むしろこれからのほうが経済が被った打撃の結果がじわじわと確実に出てくるようで、暗澹たる気分になるばかり。

ファミレスで有名なロイ◯ルホストは福岡が地元ですが、つい先日もグループが運営する関連店舗のうち、全国で70店ほどを閉めるという報道があり、じっさい店の前を通ってもどこもお客さんはまばら。

また街のいたるところで夜中まで営業していたスポーツジムは、緊急事態宣言解除後もどこも暗く閉ざされたまま、再開の目処も立たないのでしょうし、再開しても客足は大幅に遠のくでしょうか。

これまで福岡市は慢性的なホテル不足で、どこも常に満室みたいな状況でしたが、現在は窓に明かりが灯っているのは見上げても2つか3つといった状況で、中には完全に閉めてしまっているホテルもちらほら見かけるほど。

病院は忙しいのかと思えば、なんと赤字のところが少なくない由。
コロナの現場では医師をはじめ関係者の方々は寝る暇もないほどの激務が続くいっぽうで、それ以外は院内感染等を恐れてか…以前のように人の足が気軽に病院に行かなくなり、経営面では非常に厳しいのが実情だとか。

コロナ不況が最も端的に見えてしまうのが空港かもしれません。
福岡空港は市内博多区にあり、近くを車でよく通るのですが、小さな空港にもかかわらず、その離発着数ときたら普段は異常なほどで、時間帯によっては離陸するにも旅客機が誘導路で渋滞、到着も空中で4機ぐらい縦に列をなしているのがこれまで普通の光景でしたが、この忙しい空港からもののみごとに飛行機の動きがなくなりました。
一説によると9割減便だそうですが、まさにそんな感じで、たまに思い出したように到着してくる機体が目に入ると、なんだか懐かしいようなありがたいような、どこか悲しいような気分になります。
これが時間とともにかつての賑わいを取り戻すのかどうか、今のマロニエ君にはちょっとイメージ出来ないし、実際どうなんでしょうね。

ニュースによれば九州全体で毎月平均40万人近くあった外国人の入国が、先月はわずかに30数名というのですから、単純に言っても1万分の1以下に減少しているわけで、やはり驚愕の数字です。
営業を再開した映画館なども前後左右を間隔をあけながらということで、これはもちろん感染防止のためには必要なことですが、何事もこの調子でということになると、とても本来の経済活動とは言いがたく、そこから利益を生み出していくなど至難の業でしょうね。

いまだにブラジルなどでは感染拡大が止まらず、毎日2万人という猛烈なペースで増加だそうです。
さらに今後は世界第2位の人口を擁するインドで拡大という話もあって、これはコロナウイルスという目に見えない敵と戦う、まさに第3次世界対戦といっていいのではないかと思います。
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違和感

いつだったか「題名のない音楽会」で、葉加瀬太郎氏がヴァイオリンを弾く若い人たちを相手に、プロの演奏者としてやっていけるためのレッスンというかアドバイスをするという内容の放送がありました。

中心となる教えは「今はポップスも弾けないと食っていけない!」とする考え方で、この方はたしかにそっちで成功したかもしれませんが、それが現代一般の標準のように云われるのはどうでしょう。

自作の情熱大陸を題材に、いかにクラシックの演奏作法から離れたノリノリのパフォーマンスとして弾きこなせるかというようなレッスンで、こういう面を習得することが演奏チャンスに繋がるというもの。

いかにももっともなようにも聞こえますが、本当にそうでしょうか?
現在、世界的な潮流としてクラシック音楽が衰退していることは事実ですが、さりとて演奏者がポップスの演奏技術を身につけたからといって「食っていける」ほど事は単純ではないでしょう。

たしかにピアノでいうと、往年のカーメン・キャバレロとか近年では羽田健太郎さんのように、別ジャンルで見事に花を咲かせた人はいますが、それは彼らの才能がもともとそっちに向いていたというだけ。
あの大天才のフリードリヒ・グルダをもってしても、ジャズではついにものになりませんでした。

現実を見据えて「クラシックじゃ食えないからポップスの弾きこなしも必要」というのなら、名もないヴァイオリニストがポップスを上手く弾くからといってチケットが売れるとは思えないし、うっかり別ジャンルに手を付けると、よほど注意しないとその色がついて現実的にはクラシックでの活躍もさらに難しいものになると思います。

演奏の引き出しを増やすというより、限りなく他のジャンルへの宗旨替えを意味するように感じます。
そっちに行った人が、いまさらクロイツェルを感動的に弾いたり、バッハの無伴奏ソナタやパルティータで聴く人の魂に訴えるなどということがあるとは思えません。

また、今回の先生自身が、申し訳ないけれどクラシックでやっていけるタイプとも思えず、アイデアに長け、時流に乗る才覚と運があり、さらには独特の風貌や注目を集めるお相手との結婚など、さまざまな要因が重なって現在のエンターテイナーとしての地位を得ている複合の結果であって、ただポップスも弾けなきゃダメというだけでは全体の半分も説明になっていません。

ヴァイオリンでいえば女性にも多くのテレビに出演し、毒舌トークで名を挙げて、ステージでは女性だけの奇妙な集団演奏の長としてやっている方もおられるようです。
これらの方に共通するのは、まずタレントとしての知名度というか世間の認知がしっかりあり、それを土台に様々なステージ活動が考え出され、あるいは継続できていると見るべきだと思うし、さらにお父上は元大手レコード会社のディレクターという企画マンであるなど、見えない仕掛けがいろいろあるからでしょう。

本当に若者に「食える」ための実践的な助言をするのであれば、まずは広告会社顔負けのアイデアで顔と名前を世間に印象づけ、多くのTV番組等からオファーが来るよう仕向けて、早い話がほぼ芸能人化してお茶の間の中へ入り込み、そのあとで特定のファンにフォーカスした至ってくだけたコンサートをする…とまあ、あえて言葉にすればそういうことではないかと思います。
ピアニストでもなにかというとテレビ出演して、活動の地固めをしておいでの方はいらっしゃいます。

音楽家としての進む道として正しいかどうかは別としても、これとて一朝一夕にできるようなことではなく、この厳しい過当競争の中で本当に稼ごうとするのは、そんなに単純なことではないはずです。
将来のかかる若者の人生に、物事のある一面だけを伝授しても、それだけでは機能しないし無責任だろうと思います。

それと、器楽の演奏にかぎらず、どのジャンルにおいても一途に修業を重ね、はるばる歩んできた道以外のことをしろ、でないと食えないぞといわれたら、それはかなり陵辱的なことであるし、しかもなんの保証があるわけでもないでしょう。
この番組では、そういう意味でのリアリティが欠けていたと思うわけです。

小説家であれ、画家であれ、俳優であれ、その技術や才能を使って本業以外のことをやれと言われるのは(当人が望む場合はべつですが、それがあたかも社会一般の厳しい現実のように断じられるのは)、とてもではないけれど賛成しかねるのです。

音楽に近いところでいうなら、調律師さんにその技術を応用して、農機具の修理も、ご近所のトイレの修理もできないと「今は食っていけないよ!」といわれたら、やはりいい気持ちはしないだけでなく、結局は本業まで傷つけてしまうと思います。

尤も、いまは新型コロナウイルスによって、あらゆるものが危機に瀕していますが…。
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ちょっと休憩

あまりに立て続けに内田光子/ラトルのベートーヴェンを聴いたものだから、さすがに耳休めしたくなったのと、せっかくの名演が飽きてしまうのが怖いので、いったん横に置いて他のものを聴くことに。

手持ちのCDの中には、購入後1〜2回聴いたのみで、そのまま長いこと棚に放り込まれたものもいろいろあり、その理由はいろいろですが、いわゆる期待はずれであったり端的にいってあまり好みじゃなかったというようなことです。

今回引っ張りだしたものの1枚が、ピアニスト、ベンジャミン・グローヴナーのCD。
ショパンの4つのスケルツォの間にノクターンをはさんで7曲とし、そのあとはショパンの歌曲をもとにしたリストの編曲、リストの「夢の中に」、最後はラヴェルの「夜のガスパール」というもので、意欲的な選曲のようでもあるけれど、実はその意図がよくわからないもの。
「夜」というものに引っ掛けているのかとも思ったけれど、するとそもそもショパンのスケルツォがどう意味を持つのか、よくわからないけれど、ま、それはそれ。

グローヴナーはイギリス出身の天才だそうで、このアルバムを録音した時点で19歳というのだから、すごい才能を持った人というのは確かなんでしょう。
購入した時のはっきりした印象もほとんどありませんでしたが、聴き始めてほどなくして、このCDを購入後そんなに聴かなかった理由がわかりました。

とにかく技巧優先で、すべてを技巧の勢いにのせて推進していくタイプの演奏だから、音楽の繊細な息づかいが伝わってハッとするとか、ショパンでいうと特有の雰囲気、あるいは随所に散りばめられたディテールの香りみたいなものを聴き手に伝えるような試みもなく、もっぱら山道をスポーツカーでぐんぐん走っていくいくような感じ。
こういう人の弾くノクターンなどは、腕のふるいがいがないのか、いかにも「ゆっくり」「おさえて」「小さな音」で弾く分別も持っていますよという、なにか言い訳のように聴こえます。
技巧曲を際立たせるための中継ぎのようで、こっちも却って落ち着かないような気になるもの。

せっかくなので全体を2回通して聴いたけれど、はっきり言ってしまえば、なんの感銘も喜びも得られませんでした。
冒頭のスケルツォ第1番も、静寂を打ち破るようなあの激しい和音のあとは、まるで豹かなにかの筋肉の躍動のようだし、中間部の有名なポーランドのクリスマスの旋律になると、一転してただ聞き取りづらいような弱音で通過し、ふたたび筋肉の躍動に戻る。

続くノクターン第5番でも、あの有名なメロディーの中に織り込まれる装飾音を、いかに拍内でこともなげにマジシャンのように片付けてしまえるかという点を誇示されているようでした。

もちろんこの21世紀にそれなりに認められて世に出て、十代前半で名門デッカと専属契約をするような人だから、大変な才能だとは思うけれど、それでもプロのピアニストとして継続的に成立するかというと、あまりそうは思えず、あらためて大変な職業だということを考えさせられました。


久々に、ダン・タイ・ソンのマズルカを聴くことに。
お得意のショパンとあってたいへんよく考えられ、やわらかで、クリーンで、聴きやすい演奏。
欠けているとすればふたつ。
きれいだけど、すべてが予め準備されており、いま目の前で生まれたような反応や儚さを感じない。
また、ショパンではアクセントやルバートというか、いわゆるタメをどこにどれだけ設定するか/しないか…が大きな鍵になるけれど、そこに若干のアジア臭を感じるのが残念。

ショパンついでに、リシャール=アムランのバラード/即興曲。
癖がなく、キチッとよどみなく弾かれているけれど、身をまかせて乗っていける場所がなく、意外に雰囲気のない無機質な演奏。
ピアノはなんだろう?
時間とともにだんだんに耳障りな、刺さる感じの音になってくる点が気になるけれど、ブックレットに記載はないようでした。
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第3番以降

前回は、内田光子&サイモン・ラトル/ベルリン・フィルによるベートーヴェンのピアノ協奏曲のCDが届いてすぐだったので、書いた時点で聴いたのは第1番、第2番のみでした。

時間的な問題もあったけれど、その日、敢えて先に進まなかったのは、第3番以降はとくに念入りに聴きたかったので、1枚目のみに留めておこうという思惑もありました。

よく知られていることですが、作曲順でいうと2-1-3-4-5で、
第2番 どこかモーツァルトのコンチェルトの影を感じつつベートーヴェンの個性がまだ控えめ。
第1番 ベートーヴェンらしさがぐんと押し広げられて、明らかにモーツァルトの模倣から手を切っている。
第3番 得意のハ短調となり、ベートーヴェンの体臭がムンムンするような大曲に。
第4番 いきなり向きが変わり、この世のものとは思えぬ美しさを湛えた繊細で奥深い傑作。
第5番 すべてを総括するような肯定的で力強い傑作にして超有名曲。

あんな4番のあとに5番のような英雄的なものを書いたという点では、モーツァルトが40番のあとにジュピターを書いたことなどを連想してしまいます。

ま、そんなことはどうでもいいのですが、曲も3番からは佳境に入った感じで、演奏はいずれも見事なものでした。
とくに第3番では、旧盤で感じていた違和感はまったくなくなり、期待した通りの流れの上に、さらに内田の深まりやアイデアの閃きが次々に加わっています。
平行調ということもあるのか、第5番も概ね似たような印象。
この曲には勢いだけで派手に弾く演奏、皇帝という名曲についた外皮のイメージだけで弾く演奏、あるいは今風に低い温度で淡々と弾くだけといったものがほとんどですが、内田はいうまでもなくいずれでもありません。
細部まで詳しく、まるでビス一本見落とさない整備士のように作品を点検し、作品/演奏として再構築されたようです。
これまでについた俗っぽさや手垢を一度きれいに洗い流して慎重に組み上げられた文化財のようで、深みと初々しさが同居する演奏。
とくに第3楽章などは、爽快さをもって天空を駆け抜けるごとくで、和音やffの力だけに頼る演奏に対する、内田の確信的な答えを見せられた思いです。

しかしなんといっても5曲中もっとも強い感銘を覚えたのは(予想通りに)第4番でした。
第4番に関してはメータやヤンソンスとの共演など、DVDや動画で聴いていましたが、やはりCDとしてオーディオの前でキチッと耳を傾けるのは違います。

内田光子という稀代のピアニストの持ち味が、最も活かされる曲がこの第4番であることは、多くの音楽ファンの共通認識でしょう。
この曲で最高度に発揮される演奏の妙技は、モーツァルトやシューベルトで培われたであろうタッチの粒立ちの絶妙さ、芯があるけれども薄墨のような軽さ、弱音に込められる息の長い信じがたいような集中力など、とにかく耳が離せません。
まさに一音で色を変え、一瞬で向きを変える、内田以外では聴くことのできないデリカシー芸術を随所で聴かせます。

わけても第2楽章は奇跡的な美しさで圧倒されました。
ピアノの音すべてが内田の呼吸そのものであるかのようで、一つの究極を体験させられたような心地でした。
4番の第2楽章は、この曲のある意味聴きどころでもありますが、これ以上芸術的で神経の行きわたった演奏はこれまでに聴いたことがないと思われ、思わず涙があふれてくるのを抑えようもありませんでした。
この楽章ひとつのためだけにも、このセットを購入した価値があったと思います。
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再録の必要と不必要

最近はだんだんCDを買わなくなっています。
理由をひとことで言うなら、だいたい予測がついて、わくわく感がなくなったから。

CDというすでに山のように持っているものを、さらに買い続けるというのは、より素晴らしいものを聴きたいという常習性みたいなもので、要は気持ちの欲するままの行動だから、その気持がなえてくればそれでお終いでしょう。

なので、以前のようにめったやたらと買うことはなくなったし、これといって興味をそそる新譜が出てくるということも激減、作る側も、買う側も、ガクンとパワーが落ちてしまったというのが正直なところだろうと思います。

そうは言っても、これだけは何としても買っておかなければならないCDというのはたまにあるわけです。
たとえば、内田光子&サイモン・ラトル/ベルリン・フィルによるベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲がそれで、これは10年前のライブ録音をCD化したもの。
内田光子はすでにフィリップスから、クルト・ザンデルリンクの指揮で同全曲を録音しているけれど、あれは個人的にはイマイチと思っていたし、その後の内田のライブでの素晴らしさを知るにつけ、ぜひ再録をしてほしいと願っていました。
それがまさにカタチになったといえるCDです。

ただし発売後すぐに購入したわけではなく、CD注文の時は割引の事情やらなにやらで、ちょっと先送りにしていたけれど、こういうものは買えるときに買っておかないとなくなってしまう恐れもあるし、コロナで外出自粛の折、じっくり聴くのにちょうどいいというのもあって今回購入することに。

するといつの間にか、ラトル/ベルリン・フィルによるベートーヴェンの交響曲全曲まで抱き合わせになっていて、しかもお値段同じというすごいことになっていました。

さっき届いて、さっそくピアノ協奏曲の第1番から聴いていますが、ライブならではの気迫と一過性の魅力があり、内田の隅々までゆきわたる尋常ではない集中力と丁寧さ、音楽の息吹、気品、音色のバランス、そしてなにより趣味の良さが光る、おかしな言い方かもしれないけれど美術品のような演奏です。
ここまで芸術に徹したピアニストは二度と出てくることはないだろうことを、いまさらながら痛感。
内田光子の凄さというものは、もはやナニ人というようなことはまったく問題ではない次元のもので、厳密に言うなら、彼女は流暢な日本語が話せて、日本の文化にも通じたヨーロッパ人だと思います。

ネットで調べてみると、このCDに関しての内田光子のインタビューがありました。
「私自身は同じ曲を何度も録るの、好きじゃありません。それは演奏家の驕慢(きょうまん=おごり)です。よく3度も録り直して、最初のが一番良かったなんてケースもあるでしょ?大好きなサイモンとの記念でもあり、『出しても構わないでしょう』となったので」と述べているのはいささかショッキングでした。

この発言は、どうしてあのガチガチに突っ張ったようなモーツァルトのソナタ全集を、円熟の演奏で録り直さないのかと長らく疑問に思っていたことへの答えというか、彼女のスタンスが示されているようでもありました。

個人的には、内田光子のこの考えには半分賛成、半分反対ですね。
たしかにまたか!という感じで同じ曲や全集を録音したりする人に驕慢を感じることはあるけれど、逆に、録り直すことが必然と感じる場合があることも事実。
内田光子の場合は、モーツァルトのソナタ全集とベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲はその必要を感じるもので、両方に共通しているものは、筋はいいのだけれど、まだ充分に熟成されていないものを食したような印象が残ること。
ベートーヴェンはそれが達成されたわけですが、モーツァルトで世界のステージの住人になる切符を掴んだ内田が、そのソナタ全集をあれでいい、録り直しの必要はないと思っているとしたら、それはそれで逆の驕慢だとも思うのです。

たしかに、3度も録り直して最初のが一番良かったなんてケースは、思い当たる音楽家が何人か浮かぶし、その点では彼女の考えはいかにもいさぎよく立派だとも思います。
ただ、ご本人はどう思っておられるのか知らないけれど、モーツァルトのピアノ協奏曲に関しては、彼女の振り弾きによるクリーヴランド管弦楽団との再録は個人的には成功しているとは思えないし、初めのジェフリー・テイト/イギリス室内管弦楽団との全集のほうがはるかに聴いていて胸に迫るものがあり、魅力があったと思います。

再録することで細部の考証などは正せたのかもしれないけれど、マロニエ君にとってはそんなことは大したことではなく、魅力あふれる芸術的な演奏というものは、学究的な価値とは別のものだと思うのです。

モーツァルトのソナタ全集を再録しない理由で、もし納得できる理由があるとしたら、それは「もうやりたくないから」という場合ですね。
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