どこにいくのか?

21世紀になってからでしょうか、世界の主だった大都市の景観は、いずれも趣のない無国籍風高層ビルが林立する姿に変貌。
はじめは中国やアメリカだけかと思っていたら、世界中のあちこちがどうも似たような調子で、グローバルかなにかは知らないけれど大同小異の眺めに。
道路も街路樹も美しく整えられ、様々な機能も充実し、無数のカメラに監視され、路上はSUVやハイブリッドカー、人々はスマホを手に行き交い、世界のあらゆる情報が瞬時に手に入る今どきの世界。

…。
内田光子&ラトル/ベルリン・フィルのベートーヴェンのピアノ協奏曲を買ったら、オマケなのか抱き合わせなのか、同じくラトル/ベルリン・フィルのベートーヴェンの交響曲全曲がセットになっていたので、単独ではまず買わないだろうけど、せっかくなのでもちろん聴いてみました。

世界のトップオケとして誉れ高いベルリン・フィルの演奏は、さらに切れ味鋭く鍛え上げられ、かつ時代を強く反映した解像度の高すぎる演奏で、オーケストラがここまで一体感をもってクリアな演奏を繰り広げることにただもうびっくり仰天でした。
昔から「一糸乱れぬ」という表現があるけれど、もはやそんな生ぬるいものではなく、まさにAIが演奏しているのでは?と思うほど「合って」いるし、機能的で、制御自在で、それはもう…どことなく作品を軽んじている気がするほど。
しかもこちらもライブ録音(2015年)だというのだから、もはや開いた口がふさがりません。

最初に聴いたときは、ほとんど恐怖に近いものさえ感じ、すっかりビビッてしまい、CDの箱をヒョイと指先で遠ざけ自分は椅子の背に逃げてしまうほどでした。
でも、気を取り直しながら、恐る恐る何度か聴いてみることになりました。

すごいけれど、CG映像を多用した映画みたいに技術で作品を呑み込んでしなうような胡散臭さがある。
まるでベートーヴェンがあのむさ苦しい肖像画の中から抜けだして、エステに行って、スタイリッシュなスーツに身を包み、最新のメルセデスに乗って、タッチ画面を操作しながら颯爽と疾走していくみたいな世界。

第1番はキュッとまとまっていたけれど、第2番などはもうすこしふくよかさなどもあればいいと思ったし、田園はあまりにスッキリしてせいぜいセントラルパークぐらいの感じだし、英雄や第7番などには、あの恰幅も体臭も除去されて、体脂肪を落とし過ぎで却って貧相に見える筋トレマニアみたいな感じも。

その調子でやるものだから第8番などは、まるで第九の前の序曲のよう。

個人的に最良の出来だと感じたのは第九で、このいささか誇大妄想的な大作に見通しのいいシルエットと構造感が見えてくるようで、場合によってはこういうこともあるんだなぁという感じでしょうか。
ただ、いずれにしろ、どれをとってもスタイリッシュの極みではあるものの、ベートーヴェンって、そんなに遮二無二スタイリッシュにしなきゃいけないんでしょうか?

あざやかな手腕も度が過ぎると、真に迫るものや、人間的な本音とか温か味から遠ざかり、ただ先へ先へと追い立てられているようでした。

これを聴くと、今どきの理想的な演奏傾向のガイドラインが示されているようで、いやでも今どきの現実を思い知らされたような、時代は思ったより遙か先へ行ってしまったことを認識させられたような気分でした。

むかし、クラウディオ・アバドがベルリンフィルの常任指揮者になったとき、カラヤンというしばりからついに抜けだし、解き放たれて、なんという清々しい新しい風が吹きはじめたものかと思ったものですが、いま振り返ってみれば、それさえすっかり古びたフィルム写真を見るような思いがしました。

手作業の演奏までもが、先端テクノロジーを模倣しているようで、これも時代の必然なのかもしれません。
同時に、音楽そのものが目的を見失っているようでもあり、この先、音楽が、演奏が、どうなっていくのか、まるでわからなくなってしまいました。
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カテゴリー: 音楽 | タグ:

既読

ずいぶん前でしたが、LINEの「既読」というこんな些細なものをめぐってイジメや事件になるなど、社会問題になったことがありました。

当時のマロニエ君はLINEがメールとどう違うのかもよくわかっていなかったくらいで、「キドクって何?」というような感じで理解がついていかなかった覚えがあります。
中でも驚愕したのは、小学生か中学生で、LINEのメッセージが来たら10分だか15分だか、それぐらいの時間内に返信しなければ仲間はずれにされ、イジメの対象になるという恐ろしいもので、故に子どもたちも常にストレスにさらされているというものでした。

それが今現在どうなっているのかは知りません。

ただ、そういうことが尾を引いているのか、この「既読」という小さな文字の有無に気を遣うというのが後遺症となって残っているのか、既読という小さな文字の向こう側に人の心の動きが読み取れることがあります。

マロニエ君なんぞは、そもそもスマホ歴も浅いし苦手だし、交友関係も広くはないからそんなにたくさんの人とLINEのやり取りをしているわけではないけれど、それでも、人によってちょっとした性格とか神経の動きを感じることは…ありますね。

全体からみれば一部の方ではあるものの、あきらかに既読マークが表示されることを意図的に回避していると思われる(気がする)場合があって、もちろん確証はありませんが(そうだとすると)たかだかLINEごときにそんなに神経を張りつめなくてもいいのでは?と思うことがあるわけです。

それは、既読がついた以上はコメントしなくちゃいけないけれど、すぐにはそれをしたくない、もしくはできない状況、面倒だからあとでいい…大方そんなところでしょう。
読んだのに返事しないとこちらに失礼と気を遣ってくださっているのか、すぐに返事しないことで自分の印象が悪くするという保身なのか、そのあたりはよくわかりませんが、とにかく敢えてコメントを開かないことで既読表示を回避し、「まだ読んでいませんよ」「だから返信に至らないのです」という作為を感じるのです。

マロニエ君にしてみれば、そんなにすぐ返事をしていただかなくても一向に構わないし、あとからでも返事もらえたら幸いという程度ですが、そういうちょっとしたことでこまごま気を遣われるというか、悪くいえば小細工されるというのは妙にわかるもので、不思議ですよね。
そして、残念ながらこれ、さほど狙い通りの効果をあげている…とも思いません。

スマホとの接し方というのもむろん人それぞれだから一概には言えないけれど、今どき、平日の昼間とかならともかく、夜間や休日にそう長いことLINEを見ない、つまりスマホを触りもしないということは、一般的にはあまり考えられません。
むしろ、心配になるほど、大多数の人はなにかというとスマホに触っていないと落ち着かない場合が多く、人の手がスマホを離れることのほうがずっと難しいし、そのほうがよほど稀だと思うのです。

いったんスマホを手にして、LINEなんかをやりはじめるということは、良し悪しは別にして、一定時間おきに何かをチェックをするという少々のことでは元に戻れない習慣に冒されてしまったと見るのが一般的で、だから、まったく既読がつかないほど丸一日これに触れないなんてことのほうが現実的に想像しにくいわけです。

現に知人などに会っていても、今どきはごく自然な動きでスマホをさりげなく触ったり、音がすればチェックするという動作はしょっちゅうで、仕事中など明確に禁止された状況以外で、自らにケジメの線を厳しく引いて、きっぱり遮断できてしまうという人がいるとすればそれは相当の強靭な意志の持ち主であり、チョー珍しいと思います。
そんなチョー珍しい人がそんなにたくさんいるとも思えないわけです。

だから、やっぱり意図的に開かないようにしていらっしゃるんだなあ…そんなにしなくてもいいのになあ…と思うわけです。

むしろ、あるていどのタイミングで既読がつくほうが自然だし、あとから自由なタイミングでコメントを返してもらえるほうが、個人的にはよほどホッとするわけで、返信するまで既読を付けない状態をキープすることのほうが、よほどピリピリした緊迫感があって疲れます。
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ピアノの近代史-2

企業というのは、どれだけ時を経て巨大化しても、創業者のキャラクターや社風というものはふしぎに残る気がします。
その体質や個性は、良い意味でも逆の意味でも必ず引き継がれて、生物に遺伝子があるのと同様、企業にもDNAがあって脈々と受け継がれるらしいことを感じずにはいられません。

ただし、山葉寅楠という人の影響力はヤマハ一社に収まるものではなく、彼の蒔いた種によって日本のピアノ製造界の方向性、さらにはそれを弾いていく人達のスタンスや価値観のようなものまで、計り知れない影響を及ぼしたように感じるのはいささか大げさでしょうか?

伝統ある一流品がクラフトマンシップによって生み出すところの音色とか音楽性といった、どこか基準も曖昧で捉えどころのないものより、機能の高さ・造りや動作の優秀さ・確実性の高い音を保ちながら、コストパフォーマンスで勝負をかければ価値は明快となり、ピアノには機械物としての側面もあるから、安くて優秀な製品というのはこの業界では画期的なことだったのでしょうね。

今日では世界に知れわたる日本製品の優秀さですが、ピアノはその先駆けのひとつだったのではないかと思います。

環境にも酷使にもへこたれない強靭さがあり、音にはパンチがあって、しかも大量生産で安くいのに高品質で信頼が性高い。
そんなピアノはそれ以前にはなかったのではないかと思います。

まさに寅楠の目論見は大当たりというところでしょう。

初のアメリカ視察においても、彼の目はもっぱら生産方法や量産技術に注がれたようで、あとに人に続く人達が本場のピアノの音や職人の技巧に魅せられ薫陶を受けていたのとは対象的だったような印象で、そこが(個人的に共感はしないけれど)並の人物ではなかったところでもあるのだろうと思います。

さらに驚くべきは、ピアノやオルガンにとどまることなく、ありとあらゆる業種に手を広げて、事業の多角化を貪欲にめざすあたりも、まさに辣腕経営者のそれで、現代ならばさしずめIT企業のCEOといったところでしょうか?
寅楠は紀州藩士の三男で、出自としては武家の生まれだったようですが、紀州といえば紀伊國屋文左衛門を産んだ土地柄でもあり、商いの才覚を生み出す土壌があるのかもしれません。

寅楠がオルガンづくりを決意したのも、修理依頼された舶来オルガンの価格を聞いて驚き、それなら自分がもっと安く作れば大いに儲かるとすかさず反応したようで、なにごとにもピンとひらめいて商機と捉える直感力と実行力は凡人ではないようです。

よってヤマハはビジネスが絶対優先であって、すべての製品にはその厳しい精神が流れていると思います。
どれだけ長く使っても愛着が湧いてくるような、どこかしら愛おしいような部分はないとはいいませんが少なく、いつも無表情で醒めたものを感じます。
利益は二の次にして、理想を追い求めるような甘ちゃんではないのでしょう。

むろん音質も大事にしたとは思うけれど、高い工作精度、耐久性、信頼性などに秀でるほうが実際的で、不特定多数の人が弾く学校や、絶え間ない練習やレッスンによる酷使、その他厳しい環境で使われる場面でのタフネスとなると、おそらくヤマハの右に出るものはない。
中東やアフリカで頼りにされるランクルみたいに、これ以上ない頼もしい製品であることも確かでしょう。


あらためて感じたこと。
以前も少し書いた覚えがありますが、浜松のオルガン修理に駆りだされた山葉寅楠を傍で支え、協力したのが河合喜三郎という人物で、喜三郎は寅楠に対して場所や資材など、さまざまな支援を生涯続けたとありました。
のちに登場する河合小市とは血縁関係にはないとのことですが、日本のピアノ史のこんな第一歩の場面の登場人物の名が、山葉と河合だったというのは、まさに「事実は小説より奇なり」ですね。
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ピアノの近代史-1

『ピアノの近代史──技術革新、世界市場、日本の発展』井上さつき著(中央公論新社)を読みました。
内容としては「ヤマハを中心とするピアノの近代史」といった印象でした。

世界のピアノ史では、まずはじめにお約束のようにイタリアのクリストフォリが強弱のつけられるフォルテピアノを発明したところからはじまりますが、日本のピアノ製造史で必ず述べられるのが、明治の中頃、浜松の小学校にあるオルガンの修理が必要となり、白羽の矢が立ったのが機械修理職人の山葉寅楠だったというところから始まるのがほぼ通例。

この寅楠とオルガンの出会いが日本の楽器製作の夜明けとなり、見よう見まねでのオルガンを作り、それはやがてピアノ製造へとなり、途中世界大戦を経るもののそれでもなお躍進を続け、ついには世界を席巻するまでになる楽器製造のサクセスストーリーとでもいっていいかもしれません。

ただ、マロニエ君のようなピアノマニアとしては、日本のピアノの近代史となれば、今はなきメーカーが生み出した名品などにも少しは触れられているものかと期待していましたが、ここでは専らヤマハとカワイの企業史のような内容でした。
日本のピアノ史を語る以上、触れない訳にはいかないメーカーはいくつかあると思うのですが、そのあたりがスルーされていたのは残念でした。

この本を読み終わって最も強く印象に残ったのは、ヤマハとカワイという二大メーカーは、モデル構成から価格帯まで酷似しているものの、それぞれの創業の精神というか、出発時点での企業理念はかなり違っていたんだなあ…と思われることでしょうか。
ヤマハは創業者のはじめの第一歩から、西洋楽器という非常に高価なものを国産化し大量生産することに大きなビジネスの可能性を見出していたのに対し、カワイの創業者はあくまでクラフトマンシップの職人気質であり、優れたピアノづくりを追求する人だったようです。

山葉寅楠は大正5年に亡くなっており、活躍の大半を明治時代で過ごした人ですが、楽器製造以外にも様々な業種に手を伸ばすマルチな経営者であったのに対し、河合小市はピアノ一筋。
戦時下でピアノが作れないときでも、ヤマハは飛行機のプロペラなどいかようにも時局に対応していたのに対し、カワイはピアノ以外のものを作って窮状をしのぐことも工場を疎開することも嫌がり、ついには空襲により全焼。
戦後ピアノ製造が復活した際は、完成品はすべて小市が検品をして、すこしでも納得がいかないと工場へ押し返したんだとか。

経営者としてどちらが正しいのかはマロニエ君にはわかりませんが、どちらのピアノに心惹かれるかといえば、それはやはり小市のような人の作るピアノであることは偽らざるところ。

そもそも、戦前のヤマハを現場で支えた重要なひとりが「天才小市」と言われた河合小市だったのですから、それもまあ納得です。
そういう違いは、100年の時を経て世界に君臨するピアノメーカーになっても、両社の最も底の部分に流れているものは変わっていないと感じます。

ヤマハが楽器の総合メーカーであるだけでなく、オートバイその他まで幅広く作っているのも、寅楠のキャラクターと無関係とは思えないし、小市のピアノづくりに回帰したというSKシリーズの誕生なども、その精神の現れなのかもしれません。

もちろんどんな世界にも文字にできないような事もたくさんあったでしょうし、企業というのはきれい事では済まない闇の部分もあるから、事はそう単純ではないとは思いますが、何がいいたいかというと企業体質というのは間違いなくあるわけで、それは容易く変わるものではないということと、その製品には必ずその体質・体臭みたいなものが投影されているということでしょうか。

使う側も、そこは知識や理屈ではなしに、肌感覚で感じるものです。
ちなみに、小市のピアノは深くまろやかなトーンで、一時はそれが時代に合わないとされたそうですが、そこに再び回帰し、復活させるべく生まれたのがSKシリーズだそうです。
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修理は掃除!

このひと月ぐらいのことでしょうか。
リビングのテレビに繋いでいるブルーレイ・レコーダーから、「ウー」とか「ジーー」とかいう、なんとも嫌な感じの音がするようになりました。

はじめは「たまたまだろう…」ぐらいに軽く考えていたのですが、一向に収まる気配はないどころか、その音は確実に強くなってくる感じで、これは寿命が近いのかと思い、なんだか無性に焦って、用心のために新しいレコーダーを買いました。
だって、修理に出せば2015年製なので保証期間は切れているし、買い換えたほうがいいぐらいの修理代がかかりますよと告げられるに決っているし、その間、録画などできない状態が1週間から10日はかかる等々がわかっていたから。

とはいうものの、レコーダーの中には録画している夥しい数の番組があって、それらを見ないまま新しいレコーダーに交換する決断もつかず、数も数なのでそれをディスクにダビングするのも面倒くさくてしたくない。
特別な方法によっては、溜まった録画をそっくり新しいほうも移し替えることも不可能ではないようですが、方法がよくわからないし、面倒だし、とりあえず見られるから危ないとは思いつつ先延ばしに…。

しかし昨日の夜、NHKのケネディ暗殺の前編を見ていたら、何の前触れもなくプッと切れてしまいました。
ついにその瞬間がきたらしく、よく見るとレコーダーの電源が切れており、再度スイッチを入れたらONにはなって、一度は胸をなでおろして視聴を再開するも、またプッと切れる。
それを何度か繰り返しましたが、ものの1分もしないうちに勝手にOFFになってしまい、ついに観念しました。
問題は、そのレコーダーの中にはクラシック倶楽部やプレミアムシアターなどのまだ見ていないもの、ほかにも映画とか、マロニエ君の好きな警察密着番組などがびっしり入っており、それが一瞬で見られないものになってしまったと思うと目の前が真っ暗になりました。

しばし呆然としたところで、以前YouTubeで見た覚えのある「ヤフオクで手に入れたジャンク品のAV機器を修理する」みたいな動画が面白くて、何本か見たことを思い出しました。
多くの場合、再生しなくなったり、CDは音飛びしたりという症状ですが、実際の原因というのは故障というほどのものではなく、大半はCDのピックアップセンサーを掃除する(最悪の場合交換)というようなことで、ほとんどが解決していました。

こうなったら仕方がない、これをやってみることに。
ビデオの場合、電源、テレビとの接続ケーブル、アンテナなど計5本の線が差し込まれているので、位置を間違えないようまずその部分の写真をスマホで撮り、ひとつひとつ外していきます。

電気モノに詳しいわけでもないし、機械いじりはむしろ苦手で、えらく大それたことをやるようですが、もうそれしかないのだからこれこそダメモトです。
テーブルに新聞を広げ、本体の背後や裏側に付けられたネジを緩め、慎重にフタを開けてますが、これが機種ごとにネジの位置も役目も様々だったり、プラスチック部分を固定している爪を折らないように気をつけるというのも注意点として覚えていました。
内部があらわになるまでに15分ぐらいかかりましたが、果たしてそこには無数の複雑な基盤が並び、その横にハードディスク、さらにディスクの可動部があります。

中は万遍なくパウダー状の灰色の埃で覆われており、まずは掃除機で慎重に全体のホコリを取れるだけ取り、次いで綿棒で基盤とか小さな配線などを傷めないように、やさしくゆっくりと掃除しました。
内部の冷却のためか、小さな扇風機みたいなものがあって、その周りはとくに埃が集中していたので、綿棒を何本も取り替えながら30分ほどクリーニング。

自分でできるのはここまでというところまでとにかくやって、逆の手順で組み上げて、最後にスマホの写真を見ながらケーブルを繋いでいきます。
内部はもちろんですが、機械の真下なども恥ずかしいほど埃が溜まっており、この際きれいにしたのはいうまでもありません。

さあ、高鳴る胸を抑えつつ電源を入れてみると、無事ONに。
ドキドキしながら、さっき見ていたケネディの…を再生してみると、とりあえずきれいに映ったし、数分経ってもプツンと切れる様子はありません。
それに、ふと気がつけば、あの忌まわしい「ウー」とか「ジーー」の音もまったくしなくなっています。
どうやら修理ができたようで、こころなしか画面も前よりも明るく鮮明になっているような気がしましたが、これは嬉しさもあってそう見えているだけかもしれません。

もし修理に出したら、「掃除したら終わりました」ではお金も取れないから、あえて何かの部品を交換されて、相応の費用と時間と手間がかかったかと思うと、うれしくてうれしくて、思わず「ヤッター!」と叫びたいほどでした。
機械に弱いマロニエ君が自分で解決して、また音楽を聴いたりよしもと新喜劇を見たりできるかと思うと、ああうれしや!これが達成感というものか!と思いました。
YouTubeで説明してくれたお兄さんに心からのお礼をいいたいです。

そうすると、新しく買って開けてもいないブルーレイ・レコーダーはどうなるんだろう…。
まっ、いっか!
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思わぬかたち

コロナ発生以降、社会の主流になったもののひとつつがリモート☓☓☓。

多くの会社や学校などが雪崩を打ったようにこちらに移行し、ピアノのレッスンなど、各種お稽古事に至るまで軒並みリモートレッスンへと形を変え、何事であれ人と人は距離を取ることが厳しく求められることに。

やむを得ぬこととはいえ、これは、きっといろいろなことに影響が及ぶのは必至で、思わぬことが思わぬかたちに変わっていくことを、もはや私たちはコントロールする手立てもない気がします。
当然なが物理的距離をとることは、必然的に精神的な距離も開くことになり、ますます殺伐とした世の中になるような…。

さっそく「リモハラ」とかいう弊害まで出始めているとかでびっくり。
自宅の背後の映り込みから個人のプライバシーや趣味・趣向などを知られて、上司から大勢の前でそのネタでいじられたり、やたら大きなテレビを持っているな!などと言われたり、いろいろあるそうです。
勤務時間とはいえ、常にONの状態(やったことがないのでわかりませんが)を求められるので気が休まらないとか、クライアントを交えた会議やプレゼンテーションでもっと顔の表情をつける、手を高い位置にして拍手をするなど、業務以外の細かい指示などもあって、これらが新たなストレスなんだとか。

オンライン飲み会というのも流行っているそうですが、これが相当に問題をはらんでいて、評判が悪いらしい。
それぞれが自宅なので、料金の心配も、閉店の心配も、終電の心配もないから、まさにエンドレスで延々続くのだとか。
ある証言によると、これが午後8時から翌朝5時まで延々9時間にわたったりするそうで、これはもう虐待では?
スタジオでは「適当に退出すればいいじゃないですか!」などといいますが、上司はじめ職場の人間関係がある中で、「じゃあ私はこの辺で失礼します。プチッ!」というわけでにはいかないでしょう。


それはともかく、こんなリモート☓☓☓をいつまでもやっていると、ついには同居家族以外は遠い存在となり、水槽の中の小魚みたいにならないとも限りません。

過日の新聞にありましたが、在宅ワークに慣れるといまさら会社に行くのが嫌になり、それも猛烈にイヤダ!という人が増えているそうで、このまま在宅ワークのままでいたいという人が優に60%を超えたそうです。

これもまさに「思わぬことが思わぬかたちに変わっていく」現象のひとつでしょうね。

思わぬ変化を、別の事例でいうと、コロナ以降まず変わったのは車を運転していて、一部の人の交通マナーが極めて悪くなったこと。
緊急事態宣言からこっち傍若無人な動きとすごいスピードであたりを蹴散らすように走る車が、あきらかに増えました。
狭い車間で狂ったように車線変更する、まさかというタイミングで割り込んでくるなど、一度出かけるとだいたいこの手の車を数台は必ず見ることになりました。
道路上というのは、一定の秩序と信頼関係によって安全を維持しているわけですが、ちかごろはこの手合がいつどこから現れるかわからず、気が抜けません。
全体からすればごく一部でしょうが、その一部がもたらす悪影響というものは間違いなくあるわけで、つられて悪化するドライバーもどんどん出てくるとすると、これも一種のウイルスみたいなもの。

また、夜の歩行者や自転車のルール違反も目に見えて増えており、自転車はもともと我が物顔で車道・歩道・逆車線・信号無視など、知ったことか!とばかりにかっ飛ばしていたものが、さらに拍車がかかってカラスみたいになっているし、歩行者も、信号無視や横断歩道のない夜間の幹線道路を平然と横断したりと、まあとにかくこちらも注意してはいますが、こわいのなんの。

とくに車の無謀運転は、単にスピード出しすぎといった問題ではなく、精神的にキレてしまったような動きがしばしばで、それでなくてもストレス社会であるところへコロナがトドメとなって、その恨みが運転に出ているという感じもします。
数時間前も市内幹線の県道を、いかにも仲間同士といった3台のクルマが、猛烈なスピードで走っていくのをとある駐車場から目にしましたが、何かのタガが外れてしまったのか、とにかく巻き込まれないよう願うのみです。
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