弾き手しだい

たまるいっぽうの録画ですが、その整理を兼ねて見てみることに。
NHK-Eテレのクラシック音楽館をたまたま2つ続けて見たら、そこに登場するピアニストのあまりの違いに笑いました。

そのひとつとは、4月12日放送のN響第1931回定期公演。
ツィモン・バルトのピアノ、指揮はクリストフ・エッシェンバッハで、ブラームスのピアノ協奏曲第2番。
ブラームスのピアノ協奏曲は2曲とも、その長大さに対して、派手な見せ場的なところがないからか、演奏されることは少ないけれど味わい深くとても好きな曲。

冒頭、ツィモン・バルトとエッシェンバッハの会話が流されたけれど、30年来の付き合いだそうで、バルトが若い頃、ピアノか指揮のどちらにするかで悩んでいた時に適切なアドバイスをしてくれた、自分にとっては音楽上の父などと言っていました。
またブラームスの協奏曲に対しても、若いころと今では演奏がいかに変わってきたかなどのコメントが。

さて演奏がはじまると、これまでのN響コンサートではあまり経験のないような違和感が。
あまり細かく言うのはよしますが、マロニエ君に言わせるとおよそプロのピアニストの演奏とは思えぬような違和感の連続で、ジュリアード音楽院出身とのことですが、そこにさえも違和感という感じ。
そもそもエッシェンバッハ自身が、若い頃はあれほど才能にあふれた有名ピアニストであったにもかかわらず、この人のどういうところをそんなに認めているのかがわかりません。

アメリカ国内の風船がいっぱいならんだような音楽イベントとかならとかく、プロのピアニストとしてわざわざ遠い日本へやってきて、テレビ収録が前提のN響と共演し、報酬を得て帰るということ、これも違和感でした。
ちなみに、このツィモン・バルトという人は、ものすごいマッチョな体格と風貌で、YouTubeで検索したら、若い頃はシュワルツネッガー張りの筋肉を見せながらタンクトップ姿でピアノを弾いたりしており、現代はまさに何でもありの時代なんだということをあらためて痛感。

ピアニストとしては逞しすぎる体格が災いするのか、すぐに音が割れてしまいます。
そのためか曲の大部分は抑えめな小さな音で弾いていますが、音に芯はなく音型も不明瞭、常にふがふがしたような演奏になります。
ソロの入るタイミングが変だったり、技術上の都合なのか普通に進めばいいところをやたら伸縮つけたり、ある部分ではラブシーンみたいに過度な表情をつけたりで、すべてがちぐはぐで独りよがりに感じるものでした。
エッシェンバッハはというと無表情にただ両腕を上下させているだけだし、N響の人達も仕方なくじっと楽譜を見ながら仕事をしているといった雰囲気でした。

それでも終わったら優しい日本人はちゃんと拍手はするし、大きな演奏会では「オーッ!」とか叫ぶ役目の人が必ずいるので、ご当人は満足かもしれません。
番組冒頭では、NHKが「アメリカを代表するピアニスト」とアナウンスしましたが、果たしてアメリカでどれだけの人がそう思っているのか、政治家でもないから支持率がでることでもないですけど…。

続いて、3月22日放送のN響第1929回定期公演。
こちらは若干20歳、ロシアのダニエル・ハリトーノフ、指揮はスペインのパブロ・エラス・カサド。
リストのピアノ協奏曲第1番が演奏されましたが、これはなかなか見事な演奏でした。

まずピアノの音がしなやかで肉づきがあって美しい。
同時にピアノって「ここまで」弾く人によって音が変わるのかということは驚くばかり。
さらには、指は文句なく回るし、リズム感もよく、演奏には勢いとメリハリがあり、いまどきの若者にしては妙にシラケた感じもなく、聴き手にも瞬間ごとに燃焼していることが伝わってくるものでした。
音楽的には特段の個性とか深い芸術性といったものは感じなかったけれど、プレーンな心地よさがあり、ストレスなく快適に、さらには演奏というパフォーマンスにも一定の満足を覚えながら聴き進むことができました。

アンコールはやけに技巧的で聴き覚えのない曲だと思ったら、このハリトーノフ自作の「幻想曲」だそうで、いずれにしろ大変な才能の持ち主であることは十分わかりました。

ロシアという国は、政治体制などはともかく、こと音楽のような分野に限っていうなら、いまだにこういう素晴らしい才能にあふれた若者がしっかりと送り出されてくることには感嘆を禁じ得ません。

12歳で衝撃のデビューをして世界を驚愕させたキーシンも来年は50歳!!!
彼がロシアピアニズムの中から出てくる事実上の最後のピアニストかな?などと思っていましたが、とりあえずまだその土壌は枯れてはいないようです。
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Fの真髄は?

ここ最近は、偶然も重なってか、TVでファツィオリを目にする機会が多かったように思います。

反田恭平さんが『題名のない音楽界』のスタジオ収録でもF308を弾いておられたし(おそらくこのために持ち込まれたものでしょう)、クラシック倶楽部では再放送でアンジェラ・ヒューイットの紀尾井ホールでのバッハ・リサイタルでF278。
ほかには、クイズ番組でも「何の曲を演奏しているところでしょう?」という問題で、場所はわからないけれど、使われているのがファツィオリで、この出題場面で使われるピアノは、これまでにも戦前のベヒシュタインとかニューヨークスタインウェイだったりと、かなりマニアックなピアノ揃いで不思議。

さてファツィオリですが、マロニエ君にとっては現在尚これほど難解なピアノもなく、いまだに聴けば聴くほど疑問が深まっていくのは如何ともし難いところです。

それは一言でいうなら、ファツィオリというピアノの個性というか、音の美しさの特徴がつかめないということに尽きます。
最高級の材料が吟味され、職人の手作業によって注意深く作られたピアノだけがもつ上質感というのは感じるけれど、ファツィオリ固有のトーン、いわば楽器がもつ固有の「らしさ」みたいなものがいまだに聞こえないのです。
もしかすると、そういうものはないのかもしれないとさえ思うこのごろ。

マロニエ君は、過去にファツィオリのことを高級ヤマハみたいなイメージと表現したこともあったし、今回の印象ではまたべつのピアノとの共通点をイメージしたけれど、何に似ているというようなことではなく、これぞファツィオリ!というものがいまだに見い出せないのです。
もちろんそこにはマロニエ君の耳が劣っているからということもあるとは思いますが。

表面的なブリリアントな音ではなく、深みとコクのある、まろやかな音を目指していることもわかる気がするし、それは今どきのパンパン鳴らすだけのピアノとは逆の、ピアノ本来の在り方だとも思うのですが、それ以上のものが見えてきません。

音楽発祥の国、イタリアが生み出したピアノで、この国のすべてのアートに通じる色彩や官能や享楽の要素にあふれているのかというと…あまりにも優等生然としていてるのも意外だし、イタリアものに不可欠の「太陽」を感じない。
むしろ特徴のない無国籍風の音に聴こえてしまうたびに、このピアノの核心はなんなのか探しまわるばかりです。

ファツィオリを評して、「イタリアらしく明るい色彩感にあふれたピアノ」というけれど、マロニエ君としては、とくに否定もしないけれども共感と言うまでには至らず、わかる方に教えてほしいものです。

ピアノは楽器であり主役は作品と演奏なので、主張の強すぎるものより、演奏者の黒子に徹するようなものがいいのだという考え方もあるかもしれませんが、個人的にはそこまでの割り切りはできないし、楽器そのものの魅力や美しさというのも音楽を聴くにあたっての楽しみの一つであり、それはおおいに必要なことだとも思うのです。

昨年、東京のショールームでほぼすべてのサイズを触らせていただいたときも、量産ピアノとはまったく次元の異なる濃密さがあり、さらに極上の調整がなされていることもあって、弾いていてこれほど気持ちのいい快適なピアノというのはそうないという貴重な経験ができました。
ただ、それは最高の状態に仕上げられた技術者の腕に負うところも大きいと思われ、その状態が少しでも崩れたときにどういうピアノになるのかというのは興味があります。

海外で収録された動画などを見ていると、必ずしも日本のファツィオリのように最高の調整を受けていないらしいものがあって、中には音もかなり荒れた感じだったりすると、よほど高度な調整を必要とするピアノなのかな?とも感じます。

「名は体を表す」というように、あの素晴らしいFAZIOLIのスタイリッシュなロゴそのものみたいな音を期待していしてしまいますが、やはりマロニエ君にはかなり難解なピアノのようです。
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大事なこと?

くだらないといわれそうなこと。

マロニエ君がスマホをもつようになったのは昨年12月の初旬のことでした。
その手続きに際しては、プランがどうの、この説明、あの説明、ここにもあそこにもサイン、在庫確認だ、なんだかんだでソフトバンクのショップ滞在時間は、実に2時間オーバーというヘビー級のものでした。
もうクタクタで、店を出た時は、めまいがしそうでした。

その一連の手続きの中に、画面に保護のためのシールというのがセットでついているとかなんとかで、よくわからないまま貼ってもらいましたが、その保護シートがいつごろだったか、はじめは汚れかと思ったら上のほうに小さな浮きのようなものが現れ、時が経つにつれ増大していきました。

あまり気にせず使っていましたが、ついには横幅いっぱいにまで成長したために、さすがにこれはマズイと思いショップに行くと、ニコリともしないベテラン風の女性が出てきて「ご用件は?」と聞いてくるので、ざっと説明をすると、保護シートの保証期間は6ヶ月です、昨年の12月でしたら保証期間は切れておりますので新たにお買い求めていただくことになりますが!とにべもなく至って事務的にいうのに内心ムッとなりました。

浮きが出たのはずいぶん前だったことを説明すると、奥の人間と相談しながら、今度は若い男性が対応に出てきて、端末をお預かりしますと言われ、名前や生年月日などを書かされて、さらにまたこちらにやってきて身分証明書といって免許証まで提示させられました。
それから待つこと15分ほど。

なんらかの処理をしてくれているものと思っていたら、やっと預けたスマホを手に戻ってきたその店員が口にした内容は、なんと、はじめの女性と何も変化のない、まったく同じことの繰り返し。
さらに保護シートというものは浮いてくるものだから、仕方がない事だという主張。
だったら、なんのために名前を書かせたり、身分証明として免許証まで見せたり、さんざん待たせたりしたのか。

最近は、何事にも努めておとなしくしているマロニエ君ですが、さすがにこの時は納得がいかず、今日の今日、保護シートが突然浮いてこの状態になったわけではなく、はじめはよく分からず様子を見ていたこと、また、購入時に保護シートは浮いてくるものという説明はなかったし、そもそも保護シートにまで保証期間があって、それが6ヶ月というのも知らなかった。
1年も経っているというならともかく、保証が切れて1ヶ月たらず、しかも浮きの発生は6ヶ月以内で時間とともにだんだんひろがってきたもの、さらには10年以上にわたって家族分を含めてこの店だけを利用してきて、あげくこのような規定ルールを冷たく言い渡されるのは不愉快であること、よって交換には及ばないことを伝え、すぐに店を出る準備をはじめました。

するとその店員は再度奥に行って相談したのか、戻ってくるなり「今回だけ特別に!」ということで無償で張り替えてることになりました。
どうせ千円やそこらのもので、ネット上には山のように売っているようなものですよ。
普段から過剰なサービスをエサにしては顧客の取り合いに明け暮れていながら、いざとなるとこんなお粗末な対応をして、せっかく贔屓にしている顧客の心象を著しく害するのはどういう了見なのかと思いました。
それと、マロニエ君はべつに無償交換にこだわっているのではなく、その際の対応があまりに木で鼻をくくったような、申し訳ないという気持ちのかけらもない冷淡で不愉快きわまる対応、これに憤慨したのです。
むこうだって商売なんだからお客さんには笑顔で接し、申し訳ないけれどもこれこれの事情があり、こういう対応にならざるをえないと礼を尽くしていわれればそれでいいのですが、こちらの気持ちという一番肝心な部分をいきなりバサッと斬りつけてくるような対応には不快感しかありませんでした。

さらに同じ日、そのすぐ近くのスーパーに行くと、購入商品を袋に詰めるスペースで「お客様の声」というのがボードに張り出してあり、直筆で同情を禁じ得ないことが書かれていました。
スーパー内のベーカリー店でパンを購入したところ、並んでレジを済ませたら、なんと自分の次の人から半額となり、非常に不愉快だったということが綴られていました。

半額にするなら、やはりそこはちょっとお客さんが途切れてからにするとか、ちょっと前倒しして半額扱いにするとか、商売というものはそういうちょっとした気遣いや心遣いが後々に響くもので、あまりに無神経なやり方だと思います。
少なくとも、不愉快な思いをさせられたら、傷ついた側はいつまでも覚えていますからね。

こういうことは人によっては「くだらない」「大したことじゃない」などと一蹴される可能性がありますが、我々生身の市井の人間の生活感情においてはそういうことはくだらないこととはマロニエ君は断じて思いません。
事象としてはくだらないかもしれないけれども、そこに生じた不快感はまぎれもなく本物です。
ささやかなことで喜んだり幸せな気持ちになることは大事だというなら、その逆もコインの裏表で同じことでしょう。
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TVにみるピアノ

NHKのテレビから、ピアノに関すること…。

朝ドラの『エール』(現在進行が止まっている)は音楽家の話だから、折りに触れてピアノが出てきます。
物語上の場所が変わっても、学校でも、レコード会社でも、どこかのステージの場面でも、使われるのはどうやら同じピアノのようで、きっと撮影の都合上、一台を使いまわしているんでしょうね。

ピアノは明らかにスタインウェイのBですが、ロゴが出てくることは一切ないどころか、鍵盤すら出てくることはほとんどなく、いつも斜め横やうしろ姿などばかり。
それはともかく、そのピアノにはきわめて不可解な部分があり、ピアノが映るたびにやたら気になります。

何かというと、ピアノの足の下の部分が、いつも真っ黒な立方体のような大きな箱で覆われており、これがとにかく異様なのです。
そこには、よほど見えてはならないものがあるのかと想像をたくましくしてしまいますが、それは一体何なのか?

普通のピアノの足ならべつに見えてマズいわけはないし、わざわざあんな箱状のものを被せて覆い隠すとしたら…唯一考えられるのは、大型のキャスターがついていて、それがドラマ内での昔のピアノの姿として似つかわしくない…とでも判断されたぐらいしか考えられません。

別番組『らららクラシック』では、同じくB型が足元まで写った映像がありましたが、そこにはコンサートグランドほど巨大ではない、やや小ぶりのダブルキャスターがついているので、あの黒い箱の中はおそらくこれだろうと推察されました。
だとしても、そんなに見えてはいけないものとも思えないし、それでも隠すのであれば、もっと控えめにキャスターだけ黒い布で包んで覆うぐらいでもよかったのでは?
とにかくあれは違和感バリバリで、ピアノの足先がかなり大きな真っ黒の箱のなかに3本ともズボッと突っ込んだ姿で、あんなのこれまでに見たこともないものでした。

ふつうはピアノの足なんて注目する人はいないのだろうし、真っ黒の箱だから目立たないという現場の判断だったのかもしれませんが、少数でも気がつく人は必ずいるわけで、その結果は小型のダブルキャスターそのままより何倍も異様な光景になっているとマロニエ君は断言したい。

尾行などのため顔を見られないよう、黒い大きなサングラスをかけ、マスクをして、長い髪のカツラと帽子まで被った姿は、よほど目立って人目につてしまったというようなお笑いのオチがありますが、まさにそんな印象。

東京のNHKには、コンサートグランドなんて何台でもゴロゴロありそうですが、却って普通サイズのグランドとか日本製のピアノは小道具としても一台もないんでしょうか…。


テレビで見たピアノということで、今ふと思い出しましたが、日曜美術館で「ようこそ!私たちの美術館」というのをやっていましたが、京都市京セラ美術館が紹介されたときのこと。

中村大三郎画伯が大正期に描いた「ピアノ」というそこそこ有名な作品がありますが、それはこの美術館の収蔵作品だったことをこのとき初めて知りました。
四曲一隻の大きな屏風に描かれた日本画で、赤い振り袖を着てピアノを弾く女性(中村画伯の夫人の由)が描かれていますが、画面の3/4ほどは大きなグランドピアノが占めるという、ちょっとほかに類を見ない大胆な構図。
鍵盤蓋には「ANT. PETROF」とはっきり書かれており、この絵は昔(2000年前後?)ペトロフの日本輸入元だったRHFセンターのサイトなどでも紹介されていました。

ここに描かれたペトロフは、大正期に地元の人の募金によって小学校に購入されたピアノで、そのピアノがなんと現存しているということでごく短時間でしたが実際のピアノも紹介されました。
足の形状や、大屋根を支える棒にあしらわれた金色の装飾など、まさに絵になったピアノそのものでした。
しかもかなり大型のグランドで、さぞ高かったんでしょうね。

学校にかぎらず、文化に関しては、昔のほうが選択肢がなかったこともあって意外に贅沢だったんだなあと思うこのごろです。
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家ピアノー蛇足

以下は、もはやNHKの番組とは何ら関係ない内容ですが、家のピアノということから違った話をすると、ピアノといえば置き場所さえあるならグランドこそが本家本流みたいな認識があり、「いつかは自宅にグランドピアノを!」といった声は何度か耳にしたことがあります。

でも、本当にグランドが必要かどうかは、各自よく考えてみる必要があるのではと思います。
必要はなくても「ただ、グランドが欲しいー!」というのはもちろんそれはそれでアリですが、ピアノ経験者のアドバイスのようなことに流されて「アップライトはダメ」…と刷り込まれるのはいささか迷惑では。

ピアノをある程度やった人とか先生など、バリバリ弾くだけで音楽や楽器にあまり関心がないような方に限って、なぜか口を揃えて「グランドじゃないとダメ!」みたいなことを言われ、購入予定者に変な影響を与えるのはなんなのかと思います。

たしかにグランドは構造的にもピアノの本来の自然な形であるし、グランドだけがもつ秀逸なアクションなど、機構上のメリットがあるのは事実で、そこに大きく異論はないけれど、音楽専門家を自認する人達のグランド必要論みたいなものを聞くと、どうも価値観に偏りがあり釈然としない印象しかありません。

日本は何事においてもグレードとかクラスとかランクとか、あらかじめ人によって決められた価値が幅を利かせ、それを鵜呑みにし、自分で判断するよりそちらが正しいらしいと思ってしまう。

東大を出たとか、コンクールに優勝したとか、大会社の社長とかいうとすぐに一目置いて、尊敬のレッテルが貼られてそれで終わり。
与えられたヒエラルキーにそうまで無批判で従順なのは、まさに権威主義、ブランド志向ではないか。

すっかりそこに与して、その気になって、ステータスとしての価値も感じながらグランドを買って満足するのであれば、それはそれで意味はあるのかもしれませんが。

ただ、家にグランドピアノを入れるというのは、美的観点からするとある程度上手に置かないと、ピアノがそこで一番エラいもののように鎮座して、却って滑稽になる場合もあるように思うことも。

自宅にグランドピアノが設置された光景で目に浮かぶのは、白もしくは花柄などのクロスが貼られた清潔そうな部屋、淡い色の規格品風のカーテンがあって、床はフローリング。
部屋の雰囲気のためにとても大切な照明は、何の工夫もないシーリングライトの無機質な光で、塾の教室みたいな白。これだけで、聞かなくてもピアノの主がどんな弾き方をするのか想像できるよう。
さらに、椅子やペダルのあたりには却って滑りそうな小さい敷物、部屋のどこかに結婚式のブーケみたいな造花、楽譜棚にはネコなどのかわいい系の置物など。
きわめてレッスン的おけいこ的ではあるけれど、肝心の、音楽のある生活の香りや文化的芸術的な香りは…。

欧米人にはまず絶対にあり得ないセンスで、ひとつひとつのチョイスや配置はこまごまして控えめにもかかわらず、出来上がったものには独特の大胆さがあり、ああいう雰囲気の中で目にするグランドピアノって強烈な違和感を感じるのはマロニエ君だけでしょうか?
とくに日本人は、内装とかインテリアのイメージにはっきりした主張がないのかバラバラで控えめ、と、せめてものアクセントのつもりなのか、いい大人が子供っぽいかわいい系の置物とか、甘ったるいお菓子みたいな世界にしてしまうのはなぜなのか、まったく理解に苦しみます。

前置きが長過ぎましたが、その点で、成熟した大人のセンスで手際よく生活空間に収められたアップライトピアノは、とてもスタイリッシュで、住む人の趣味の良さとか、豊かな人生のワンシーンみたいなものを感じて好ましい。
グランドのようにピアノが中心になっていないのもプラスに働くのかもしれません。

そもそも、家でただ音楽を楽しむのに、そんなにグランドのタッチや音量は必要なのか?
さらに、日本人はピアノを買うのも自然な楽しみとしてではなく、レッスンや、受験や、発表会、趣味の目標など、そこに必ず勉学的な目的をくっつけないと気が済まないようです。
子供のためにピアノを買うというのはよくありますが、なんでその家のピアノライフのスタートを子供が背負わされるのか。
そうではなく、ピアノのある家に子供が生まれ、成長するにつれ自然に触れるようになってきた、じゃあそろそろレッスンにでも行かせてみるか…こういう順序であってほしいと思うんですけど。

だからなのか、自宅のピアノって特別感が強すぎて浮いており、もっと生活の一部としてピアノと普通に仲良くしたらいいと思うのですが、そうなるほど生活の中にピアノや音楽は根を下ろしていないということかもしれません。
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家ピアノ

先日、NHKで『家ピアノ』という番組をやっていました。
コロナ禍で仕事がキャンセルとなり、自宅待機を余儀なくされた音楽家やタレントさんがピアノと過ごす様子を取り扱った番組で、出演したのは東儀秀樹さん、久石譲さん、千住明さん、ふかわりょうさんなど(あとは忘れました)。

その内容じたいは特段どうというものではありませんでしたが、あらためて感じたのは、自宅にピアノがある景色はやはりいいものだということ。
以下、番組とは直接関係ないけれど、そこから感じたことなど。

昔は映画やドラマでも、住まいにピアノがあるという光景はそれほど珍しいものではなかったけれど、時代とともにしだいに姿を消し、今や素敵な住まいのシーンというと、ほぼモデルルームのようなスタイリッシュ調が主流に。

今どきの戸建住宅やタワーマンションの中があんなテイストになっているのかどうか知らないが、そこには住人のセンスとか価値観が投影された個性もなく、インテリアのカタログ写真そのまんまみたいな世界。

むかしは、家に年ごろの子供がいたらピアノを買ってお稽古させるといった単純な構図があって、テレビや応接セットや学習机と同じように、変なカバーがかかったピアノなんかがあって、あのおかずの匂いがしそうな雰囲気もイヤだったけれど、片やいまどきのピアノなんぞ眼中にもないといったカッコだけの世界も行き過ぎでちょっと苦手です。

もはやピアノが顧みられなくなったぶん、今あえてピアノを自宅に置く人というのはやはりそれなりの意思と目的を持ってのことだろうと思います。
少なくともそれが、使いもしない百科事典みたいなピアノでないことは進展なのかも。
でも、マロニエ君が本当に「いいな」と思える光景は、なによりもまず「おけいこ臭」とか「レッスン臭」が一切しないことで、こころ豊かな生活のために家の中に音楽がそばにあって、絵画や本があるようにピアノがあるという自然な雰囲気が感じられるピアノのある光景です。

コロナ禍であらためて再確認したことは、ピアノはまさに家で一人で楽しむことができるということ。
もちろん他の楽器と合わせたり、仲間内で音楽を楽しむのもおおいに結構ですが、基本は一人で楽器といくらでも向き合って楽しめるところが最大の特徴で、これはまさにピアノの特権。

そういう意味では、どれだけピアノ好きを標榜しても、弾くためのモチベーションをレッスンや発表会や弾き合い会などに置いているのは、なんとなく好きの内容がどこか似て非なるものに思えてしまいます。
ピアノを手段にした自己達成とか、人前演奏への挑戦とか、その先にある音楽そのものではない何かの欲求を追い求める人のように感じてしまうわけです。
この匂いのする人としない人では、話をしていても、その密度も楽しさもまったく違います。

そういう人が思いのほか多くてウンザリなのですが、さすがにこの番組で登場された方々は、有名な音楽家であり作曲界であるなど、いずれもそういう匂いがないという点では、見ていて清々しさがありました。

それと、普段テレビで見るピアノの大半は、演奏会の録画やスタジオ収録されたもので、音響的にもそれなりの配慮のされたものですが、今回は自宅や個人的な仕事場などで、久石譲さん、千住明さんはスタインウェイでしたが、やはりこうした状況で聴いても、その音の美しさはさすがと唸るものがあったし、いっぽうヤマハのアップライトでもきれいに調律・整音されたと思われるものがあって、それはやはり気持ちのいい音で鳴っていました。

きれいに整えられたピアノは上品で美しいですね。
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