Akiko’s Piano

終戦の日の8月15日、NHK-BSのドキュメンタリードラマで『Akiko’s Piano 被爆したピアノが奏でる和音(おと)』という番組が放映されたので、録画を視聴しました。

このピアノは広島の原爆投下によって亡くなった河本明子さんが愛奏していたピアノとして有名なもので、修復もオリジナルを重視して極めて慎重に行われ、すり減ったハンマーもあえて交換しないことで明子さんが弾いていた当時の状態を保持、原爆によってついたキズなどもそのまま残されているもの。

数年前アルゲリッチが広島にやってきた時にもこのピアノを弾いてみた映像があるほか、リシャール・アムランやピーター・ゼルキンなども、当地に赴いた際にこのピアノを弾いているようです。
アメリカ製のアップライトで、昔のピアノらしくやわらかい音のする楽器で、いまどきのビンビンした音の出る無神経なピアノとはまるで違うようです。

番組の大半は有名俳優陣によるドラマで占められ、明子さんが家族とともに戦時下を懸命に過ごし、学校生活を送り、勤労奉仕に駆りだされ、ついに運命の8月6日に爆心地の近くで被爆して、瀕死の状態で歩いて家の近くまで戻って倒れこんでいるところを両親に発見され翌日亡くなるまでが描かれていました。

ピアノのフレームにはそれらしき文字は見当たらなかったけれど、調べてみるとボールドウィン社製のピアノらしく、父君がアメリカから持ち帰られたものだったようです。
当時はピアノなどあろうものなら、金属供出などで没収されるのが普通だったと聞いていますが、よくぞ無事に生きながらえたものだと思うし、そういう強運を持った何か特別なピアノだったんでしょうね。

さて、番組後半では、被爆75年を節目として現代作曲家の藤倉大氏によって作曲された、ピアノ協奏曲第4番Akiko’s Pianoという作品が披露されました。
広島出身の萩原麻未さんがソロを務められ、下野竜也指揮の広島交響楽団で、ステージにはスタインウェイDと明子さんのピアノの2台が並べられ、曲の後半では、静寂の中を萩原さんがお能のようにゆっくりと明子さんのピアノへと移動し、スポットライトの下で続きのソロが弾かれて曲が終わるというもの。

ここから先はあえて勇気を振り絞って書きますが、この作品、マロニエ君には理解も共感も及ばず、ドラマで描かれた明子さんとはまったく異質な印象しか受け取ることができませんでした。
作曲の意図ととして明子さんとそのピアノが主役だと述べられ、「亡くなった人のレクイエムではなく、もし明子さんが生きていたらどんな未来が待っていたかを想像して作曲した」というようなことが語られ、テロップには「Music for Peaceという普遍的なテーマを一人の少女の視点で描く」といった言葉が並びました。
けれども、マロニエ君の旧弊な耳には、果たしてこれが音楽なのか?とさえ思うような奇抜でやたら暗いものにしか聞こえませんでした。

ピアノが好きだった明子さん、ショパンが好きで、戦時中を懸命に生きたけれど、最後は非業の死を遂げることになってしまった明子さん。
明るく聡明で、周囲から愛され、分厚い日記帳が何冊も積み重なるほどの膨大な日記を、流れるような美しい文字で綴って残した明子さん。
藤倉大氏はこれを作曲するにあたりインスピレーションを得るためか、わざわざ明子さんのピアノに触れるために広島までやってきて書き上げた作品とのことで、そういう内容になっているのかもしれないけれど、あいにくと低俗な耳しか持ち合わせないマロニエ君には、作品の価値はわからずじまいでした。

現代音楽の理解者に言わせれば、おそらく素晴らしい作品なのかもしれません。
ピアノは常に旋律とも音型ともつかないような意味深な音を発する中、背後では弦がたえずヒーヒーと鳴っており、ときどきピアノの音が激しくなったり、またそのうち静寂のようなものに包まれる、そんなことの繰り返しのように聞こえました。
いったいどこにピアノ協奏曲Akiko’s Pianoを見い出し感じればいいのやら見当もつきませんでした。

この作品の価値を云々する気はないし、そんな能力もないけれど、放送時間の大半を費やして放映されたドラマでは、明子さんとその家族や友人達は活き活きと描かれ、最後こそ原爆という悲劇に至るものの、それ以外はとくだん悲惨な話というわけでもなく、むしろ戦時中の人々の温かな人間模様がそこにはありました。

藤倉大氏はお顔は覚えがあったけれど、どれだけ気鋭の作曲家でおいでなのかは残念ながら知りません。
いかにも一般人の理解不能を前提としたような作品で、しかも偏見かもしれないけれど、日本人的な書生っぽい主張にあふれた作品のようにしか聞こえませんでした。

会場にわざわざ足を運んで聴きに来られた聴衆のみなさんは、あの作品をどのように感じられたんだろうと心から思います。
原爆投下という残虐行為は許されることではないけれど、でも、明子さんというピアノが好きだった19歳の少女に焦点を当てるのであれば、もう少し別の方法もあったのでは?とも思います。
明子さんは家族や友人(そしてピアノ)に囲まれて、楽しい時間もたくさん過ごされたと思いますが、彼女をあらわす音楽が結局こういうものになるのなら、マロニエ君はどうにもやりきれないものが残ります。

そこに、マロニエ君が現代音楽を介さない無粋者だということが横たわっていることも否定はしません。
しかし「音楽」というものがあれほど素晴らしく魅力的であるのに、その前に「現代」という二文字がくっついたとたん、なぜあのように難解で苦行的なものになってしまうのかが皆目わからないのです。
モーツァルトは、聴いた人間がなにか深い悲しみの中に投げ込まれてしまうような作品をたくさん書いたけれど、表向きは嬉々としていてまったくそんな顔はしていません。
ピカソのゲルニカが表現したものは、壮絶な戦争悲劇ではあるけれど、それをつきぬけたところに圧倒的な芸術作品に接する感動というものがあるし、そんな特別な例を引かずとも現代建築、現代文学、現代アートはいずれもそういう迷路に連れて行かれるようには思えません。

ごく単純な話に戻すと、主役は河本明子さんであり彼女のピアノであり、それは作曲者ご自信も仰っていたこと。
ですが、ピアノが好きでショパンを好んでいたという明子さんが、あの作品を聴いて素直に喜ぶのか?これが最大の疑問といってもいいかもしれません。
これがいつまでも消化しきれずに残ってしまう単純な疑問です。

おまけにこの作品は明子さんにではなく、マルタ・アルゲリッチという当代きってのピアノのスーパースターに捧げられているというあたり、いよいよもって意味不明でした。
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演奏家はエリート?

先日、録画の中に、NHKのクラシック音楽館だったか正確ではないけれど「1957年のカラヤン…」というようなタイトルの映像がありました。
同年にベルリン・フィルを率いて来日した折の旧NHKホールにおける演奏会から、ベートヴェン「運命」の第1/3/4楽章が放送されましたが、カラヤンの評価は横に置くとして、理屈ではない、率直な演奏の魅力と、それに触れる喜び・高揚感というものを考えさせられました。

海外の一流オーケストラの来日公演などまだまだ少ない時代において、当時の最高のスターであるカラヤン/ベルリン・フィルともなれば、クラシックにおけるビートルズ公演のようなものでもあったことでしょう。
そんなスターが日本にやってきて、圧倒的な演奏をどうだとばかりに披露することができた時代。

思わず唸ったのは、とにかく明晰明快、流麗で、パワーがあって、そりゃあ、ああいう演奏会に行ったら、だれもが酔いしれ興奮して大半の場合ファンになるでしょうし、CD(当時はレコード)も売れるでしょう。
カラヤンの人となりや、楽曲の解釈、演奏スタイルなど、現代の目から見れば突っ込みどころはあるかもしれないけれど、「音楽は歌である」「音楽はダンスである」という本質を突いた言葉があるように、音楽を聴くということは、まずは「音を浴びる快楽」だとマロニエ君は思います。
音楽によってもたらされる非日常の感銘や陶酔感、非日常を全身で感じることだと思います。

今の演奏は、あまりにテクニカルで、規格品的で、しかも学究的に固まってしまって娯楽や快楽の要素、演奏者の個性や冒険的解釈に対して、あまりに不寛容になったと思います。
演奏家もビジネスの要素が強まり、ライバルが多い中、オファーが来なくなるのが一番怖いから、嫌われないことが第一の演奏に意識が働いているのが見えすぎて、平均化された退屈な演奏になるのは必然。

いっぽう、聴衆の質も下がって、演奏の真価を見極めようとか、微妙なところに宿る芸術性を解する耳を持った人は激減しており、評価は技術と知名度と権威性だけがものをいうようになりました。

技術を磨いて、コンクールに出て上位を勝ち取り、レパートリーを増やして出世街道を歩くのは、ほんらい演奏家というより職業エリートの進むべき道筋。
いまでは、芸能界でさえ東大を筆頭に有名大出身者が幅を利かせる肩書社会。
当然、断崖絶壁に立って、これだというものにかけて一発勝負をする気概や度胸なんぞ失って、できるだけ好き嫌いの分かれない、中庸な演奏に終始することが、次のオファーに繋がるという戦略ばかりが透けて見えて、ちっともエキサイティングじゃありません。

芸術家(といえるかどうかはともかく)でも昔のように暴君的にふるまったりエゴを撒き散らしたり、次々に共演者に手を出して浮名でも流そうものなら、もう一発アウトなじだいですからね。
もちろん、そんな破天荒がいいことだとは思わないけれど、でも優秀有能でみんなに好かれるエリート社員みたいな人の手から、本物の魅力ある、聴く人の心を揺さぶり、天空高く旅させてくれるような演奏ができるかといえば…それは無理だと思います。
ここが、時代と芸術家の折り合いの難しいところでしょう。

すべてにシナリオがあり、最後だけこれみよがしに盛り上げて拍手喝采に持って行くという筋書きでは感動さえもニセモノで、むしろそんなものに乗せられてたまるか!という反抗心が沸き起こるのがせいぜいです。

地方のオーケストラでもとっても上手くなっているし、世界のトップと言われるオケでも、真の感銘を与えるような大した演奏をするわけでもなく、とにかく平均点だけが上がっている。
世界的なスターはいないけど、ちょっとしたピアニストでもラフマニノフの3番をしれっと弾いたりする、そんな時代だから演奏も多くが消費材のようになってしまい、わざわざ録音して残す意味もなくなっている。

聴きに来たお客さんをいい意味で満足させるような演奏、人の心を鷲掴みにして、強い力でぐいぐい山あり谷ありの世界へ引き回してくれるような、そんな体験も、演奏会のもっとも重要な役割だと思うのですが、すべてが変わってしまったようですね。
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BかCか?

前回に続いて…ということでもないけれど、スタインウェイのグランドピアノの中で、最高にバランスがいいモデルは何か?
これには、昔から技術者はじめ多くの人によってB型だとされている観があり、もはや異を唱えることさえできない定説のようになっています。

B型こそはグランドの理想形。
置く場所と予算さえ許すなら、ぜったいBがいい。
C型より一つ小さいBのほうがバランスがよくピアノとして優れている〜等々、こんな言葉をどれだけ聞いたことでしょう。
そういう声に押されて、B型こそベストと信じて購入された方も少なく無いと思いますし、マロニエ君もそこまで言われると言葉の力もあるから、半ばそういうものか…と思っていた時期もありました。

もちろん折にふれてB型には幾度か触れたことはありますが、素晴らしいピアノであることに異論の余地はむろんないですよ。
低音もそれっぽくよく鳴るし、全体に華やかでキレがあり、中型ピアノならではの軽快さもあり、いかにもスタインウェイらしくてわかりやすく、人気というのも納得です。

個人的な印象としては、Bにはとりわけブリリアントな個体が強く、やわらかで落ち着いた感じのBというのは、たまたまなのかもしれないけれど、新旧いずれもあまり経験した記憶がありません。
小型ピアノには望めない低音の美しさがあるいっぽうで、鍵盤が短い(鍵盤からハンマーまでの距離)のか、入力に対する反応も素早く、一台に求められる要素が凝縮されているのは、まるで取り回しの良い中型高級セダンみたいな感じ。

ただ、聴く側の立場で言わせてもらうと、Bには絶えず「薄い」感じがつきまとうようのは拭えません。
数少ないBによる演奏や録音を聴くと、残念ながらややわめいている感じを受けます。
貫禄ある大人というより、若々しいスリムな青年といった印象。

これまで、Cの評価がBほど高くないためか、さほど注目していませんでしたが、音や響きの印象でいうとCはおっとりしてDの短胴版のようでもあり、対してBは中型グランドのトップモデルといった感じを受けないこともなく、そこには一段の隔たりがあるところが最大の違いではないか?と思いました。
「打てば響く」という反応の良さで言うとBになるのでしょうか。

だとすれば、弾いて痛快なのはBかもしれませんが、鑑賞目的で客席から聴くことを考えたら、マロニエ君はCのほうが好ましいように思います。

青柳いづみこさん(たしかハンブルクBのユーザー)が著書の中でドビュッシーの前奏曲集を演奏するにあたって、どこだったかホールではない会場でピアノを準備する際に、この作品を弾くにはBでは表現できないものがあるのでぜひDを準備して欲しいとリクエストしたという記述があり、その時は「へええ?」と思ったけれど、今なら少しわかる気がします。

一番顕著に感じたのは、キーシンがアメリカの大学内で学生たちに囲まれてショパンのスケルツォを演奏する動画がYouTubeにありますが、そこにあったピアノはハンブルクのBでしたが、キーシンのあの全身全霊を傾けるようなこってりしたタッチの連続放射にピアノがついていかず、ほとんど悲鳴のような感じになったのを見て、さすがのBにもこのような限界があることを思い知らされたものです。

誤解しないでいただきたいのは、それでBを否定しているのではさらさらなく、ピアノはその目的や置く場所によって、さまざまな特性があるのだということが言いたいわけです。
メーカーによるBの説明では、小さいホールやサロンコンサートにも最適というようなことが述べられているけれど、このモデルが本当に素晴らしいのは、むしろ弾いている本人がこの上ない満足を得られるプライベートスペースなのかもしれません。

ピアノの難しいところは、奏者当人が弾きながら感じているものと、鑑賞する側の印象では、必ずしも一致していないと点が少なくないということかもしれません。
その点でBは、プライベートな部屋や空間で我一人弾いて楽しむ(あるいは練習や創作活動など)というシチュエーションにおいて、おそらく右に出るものはないのだろうと思います。

技術的な観点から、BとCのどちらが楽器として優れているかは、マロニエ君ごときにわかるはずもないことですが、鑑賞する立場として好みだけで言わせていただくと、やはりBにはサイズからくる限界を感じます。
やっぱりCの大人っぽい余裕と穏やかさには魅力に感じます。

Bといえばいつも思いだすのが某楽器店にあった戦前のA3(奥行き200cmのモデルで、ちょうどAとBの中間サイズ)で、これがもう「ウソー!?」というほど、パワーがあり溌剌としたいいピアノでした。
店主の談によれば、Bを喰ってしまうからカタログから落とされたモデルだそうですが、その真偽はともかく、ひとついえることはスタインウェイのA188とB211って、サイズが離れすぎている気はします。

ヤマハでいうとC3Xの次はC6Xになるようなもので、5に相当するサイズがないんですが、これはこのままでいいんでしょうかねぇ。
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廃墟でベートーヴェン

ずいぶん前のBSプレミアムシアターで、バレエの後半にアレクサンドル・タローによるベートーヴェンの最後の3つのピアノ・ソナタというのがありました。
この人は、前々から非常に時代や流行に聡いピアニストという印象があり、おそらくは今年のベートーヴェンイヤーを見据えて制作されていた映像なんでしょう。

映像の舞台となっているのは、たいそう荒れ果てた廃屋。
今どきのことだから本物か作り物かは知らないけれど、壁も床もボロボロの、白っぽい廃墟の中をタローがゆっくりと歩を進めると、奥まった部屋に、いかにもという感じで白い布が被せられたピアノらしきものがり、その前で立ち尽くす。
場面が変わるとほどなくop.109が鳴り出すというものですが、そのピアノはこの廃屋に合わせてわざと汚れが塗りつけてあるけれど、実は最新スタインウェイC型であるところが苦笑してしまいます。

ここまで芝居がかったことをするのなら、ピアノもそれに応じてヴィンテージを使ってもよかったのでは?と思うし、高価な最新の楽器を演出のためにわざわざ汚してしまうという行為は、そんなに重要なことだろうかとも感じたり。

床も天井も荒れ果て、壁は剥がれ落ち、場所によっては汚水が溜まっているような屋敷に放置されたことになっているピアノですが、その音はというと、新しいピアノ特有の若々しい新緑のような音色と、いかにも整った均一な響きを持っており、この演出があまりにちぐはぐですべてがウソっぽくなっているようでした。

演奏はいかにも現代基準といわんばかりに尤もらしく弾けてはいるけれど、演奏者の個性とか、曲と奏者の間に発生すべき反応、解釈、問いかけ、新しい切り口などはマロニエ君が聴く限りでは見あたらず、ただこの曲の平均的な音が虚しく聞こえてくるだけでした。
長年かけて出来上がったスタイルを模倣するように弾いているのか、定められた規格品みたいな演奏。

大勢の人の研究と時間によって練り上げられた解釈と演奏様式は時代を支配するものだから、それを土台にするのはわかるけれど、そこにピアニスト自身から発せられるメッセージ性、なにか心を震わすような情熱とか、演奏を通じた語りかけがあってこその演奏芸術だと思うのですが、近ごろのピアニストはそういう自我さえないのか、多くの場合、無難に整った(個性という意味では極めて地味な)演奏で済ませてしまうことがあまりに多く、こうしてみんなで演奏をつまらないものにしているように思います。

ちなみにこれは、このピアニストに限ったことではない、近年しばしば感じる問題です。
演奏を聴かせたいのか、こういう映像の中の弾いている自分の姿をアピールしたいのか、音に惹き込まれないからあれこれと余計なことを考えてしまい、しまいにはさっぱりわからなくなります。

ところで、マロニエ君はスタインウェイのC型については多くを知りませんでしたが、技術者や専門家の間ではBこそがベストバランスで、Cはそれには及ばないというようなことがいわれたりしますが、今回のビデオを聴いた限りでは、まったくそのような印象は持ちませんでした。

それどころか、C型とはこんなにも素晴らしいピアノだったのかと、驚きつつ感心してしまって耳を澄ませていましたが、これはほとんどDと遜色ないものだと思いました。

スタインウェイの中でベストバランスモデルとして定評のあるのがB型ですが、実をいうと(演奏を聴くぶんには)個人的にいささか過大評価では?と思うところもあったところ、Cのあまりの違いにはじめはびっくりしつつ、やがては疑いへと変化していきました。

というのも、別の場所できちんとした音源を作り、この廃屋&C型は映像のためのセットではないか?
ネットでいろいろと調べてみましたが、もともと検索力の低いマロニエ君の前にはそれらしき証拠はなにもなく、諦めかけたとき、いつも購入するCDネットショップのサイトをみたら、ちょっと引っかかることが。

アレクサンドル・タローによるベートーヴェンの最後の3つのピアノ・ソナタのCDがあり、この廃屋での演奏と思しき映像DVDがセットになっています。
知るかぎりでは、彼はこれまでほとんどベートーヴェンのCDはなく、これは2018年にパリのサル・コロンヌで録音されているもののようで、解説には「付属のDVDには、CDと同内容の全曲演奏映像を収録」とあるので、これはやはりホールにおけるDによる演奏という可能性もあり、ならば納得という感じ。

C型であれだけの音が出てくるとすれば驚き以外のなにものでもなかったけれど、音源が別となると、映像での演奏風景はいわゆる「口パク」ならぬ「指パク」ということになるのでしょうか。
ま、映像作品なんてものはえてしてそういうものなのかもしれないので、あまりそのあたりをとやかく言っても仕方がないのかもしれません。
なんでもフェイクが当たり前の世の中、もはや何を信じていいのかわからない…変な気分です。
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スターの条件

8月2日放送の『情熱大陸』はいま日本で旬のピアニストである反田恭平さんによる、このコロナ禍の中で試みる有料音楽配信という新しい音楽活動にスポットを当てたものでした。
多くのプロフェッショナルな音楽家が、コロナのせいで活躍の場を奪い去られる中、反田恭平という新進人気ピアニストが旗手となって新たなスタイルに挑戦しようとする様子をとらえたものです。

それに対する意義や判断力はマロニエ君は持ち合わせないので、そのことをここで書いてみようと言うのではありません。

この番組の内容とは直接の関係はないけれど、あらためて反田恭平さんという人を見ていて、なぜ彼が現在日本でトップの人気があるのかということを考えてみるチャンスになったので、そのことに触れてみたいと思います。

現代は苛烈なまでの大衆社会なので、昔のように芸術的な深みや精神性といったものを果てしなく掘り下げ、追い求め、享受する時代ではなくなりました。
芸術には、芸術家はもちろん、受け手の側にもそれなりの素養と修練と熟成が求められ、そういうことは(残念なことではあるけれど)年々時代に合わなくなり、もはやそういう求めも価値もほぼ喪失されてしまったように思います。

芸術性なんぞといったって、これという基準があるわけでもなし、ごく一握りのわかる人がわかるだけのこと。
そんな少数を相手にしていては、現代の厳しいビジネス第一主義の社会では商売もあがったりになるだけ。

さらに、芸術家といえるような人ならまだしも、クラシックの訓練を積んできたという人達は、全体にどこか浮世離れのした、純粋培養の中でイビツに育った線の細さのようなものがあり、大衆的な人気を博そうにも、まるで訴求力がないしパンチがないし、どこぞの大臣発言じゃないけれどまったくセクシーじゃない。

そこへもってくると、反田恭平さんというのは、およそ聴衆の心が素通りしてしまうような無機質な雰囲気ではなく、どこか昔のEXILEのメンバーか何かのような逞しさや体臭やワルっぽさがあり、いかにも非クラシック的な雰囲気があって、聴き手と同じ目線や感性をもっていそうなイメージが漂っています。
言葉遣いも、長年お偉い先生方との縦社会で培われた、慎重でステレオタイプのお行儀のいい丁寧語を話さず、スノビズムもなく、思ったことを言葉少なにズバリと口にするような今どきの若者の世代臭があります。
おまけに普段はどちらかというと無愛想で、洗練や選民意識を暗示するかのような微笑みもなく、いかにも今どきの健康で朴訥な男子という印象を与えるのだと思います。

ヘアースタイルはちょんまげでお顔はいかにも歴史画にみるような純和風で、まるでお能の落ち武者のようなニヒリズムと気迫があり、いわゆる今どきのキレイ系の目筋の整った無機質なイケメンでもない。
このあたりがまずもって現代では珍しい。

それに加えて一切の危なげのない、シャープで卓越した演奏技術があり、マロニエ君は反田氏の音楽には精神性を感じないけれども、彼がピアノと対峙して見せるその技巧そのものには、まるで剣術の師範代のような収斂された美しさ、すなわち精神性が宿っていると思います。
これは誰の目にもわかるピアニストとしての圧倒的かつ新種の武器であり、彼の一番のピアノ演奏上のウリは、やはり技術の冴えだと思います。
現代は芸術・文化より、経済・スポーツ重視の時代。
人の心の内側を覗き見て表現とするような細やかな陰影とか、一瞬の呼吸や風のひと吹きの中に込められる儚いような芸術性より、この明快で輝く技術こそが、人々の感動を誘い出しゲットするのだと思います。
その技術はあればあるだけいいし、しかもそれはクオリティという仕上げの研磨がかかっていないといけません。

こういう諸々の要素を、一身に集約したピアニスト。
それが反田恭平という人なんだと思います。

おまけに彼には不思議なスター性があって、彼の存在は、人の心の中に刻み込まれるものがある。
俳優でもそうですが、どんなに美男美女でもこれのない人は大成しないし、ビジュアルはイマイチでも、このスター性という摩訶不思議な天からの授かりもので主役を張り、第一線で活躍する人というのがいますが、反田さんはそういう意味でもまさに時代が産んだスターなんだと思います。

彼よりもっとイケメンでピアノも上手い人は探せばいるでしょうけど、それだけじゃもうダメなんですね。
そういう意味では、どんなにコンクールで優秀な成績をおさめるような若者が出てきたとしても、トータルで彼を超えるのは生半可なことではないし、だから反田さんの天下はしばらくは安泰なのだろうと思います。
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AIの音楽

先日のNHKの『らららクラシック』では、なんとも不気味なものを見せられました。
「AI音楽の特集 テクノロジーと音楽」というタイトルで、現在、AIがどれだけ音楽の世界に入ってきているかをざっと紹介する内容でした。

昨年末、AI美空ひばりというのがあったように、AIという技術革新によって、これまで思いもしなかったような可能性が広がっているということのようですが、個人的にはその技術には驚きつつも、どうにも後味のスッキリしないものだけが残りました。

このコロナ禍でリモート合奏するなどの使い方はあると思いますが、ドイツ・フライブルクにある音大では入試もリモートで、海外で演奏するピアノと音大のピアノをAIで繋いで演奏判定をやっており、今後の試験のあり方も変わっていくかも…というようなことで、いきなり唖然。
これで合格したら、そのときは実際にドイツに移り住んで学校に通うのか、そうではないのか、もうまったくわからない。

スタジオでは、グレン・グールドの演奏特徴を盛り込んだAIが、グールドが生前演奏していない曲としてフィッシャーの「音楽のパルナッスム山」から、というのが披露されました。
そのための装置を組み込んだヤマハピアノを使って無人演奏が行われましたが、なんとなくグールド風というだけで、本人が現れて目の前のピアノをかき鳴らしているような感覚になれるのかと思ったら、結果はほど遠いものでした。

なによりもまず、あの天才のオーラがまったくない。
タッチにはエネルギーも熱気もないし、いっさいのはみ出しや冒険がない、ただのきれいなグールド風な音の羅列としか思えないものでした。
名人の演奏とは、その場その瞬間ごとのいわば反応と結果の連続であり、どうなるかわからない未知の部分や毒さえも含んでいるもの。
鑑賞者はその過程にハラハラドキドキするものですが、それがまったくゼロ。

スタジオにゲスト出演していた、この道のエキスパートらしい渋谷慶一郎氏をもってしても「本物には狂気があるから、AIにそれができるようになたらおもしろいことになる」というような意味のことを云われていましたが、それが精一杯の表現だったと思います。

ほかには、やはりヤマハの開発で人工知能合奏システムというものがあり、生のヴァイオリニストのまわりにたくさんのマイクを立て、それを拾って、瞬時に解析しながら傍らのピアノからピアノパートが演奏されるというもので、共演者のテンポや揺らぎなどにも自在に対応するというもの。

演奏したヴァイオリニストも「違和感なく弾けた」とこれを肯定しており、渋谷慶一郎氏なども「音大生はみんな上手くなると思う」とポジティブなことを仰っていました。
たしかに、どんなテンポでも間合いでもAIが文句も言わず合わせてくれて、しかも機械だから疲れ知らずで、無限に付き合ってくれるという点はそうかもしれません。

でも、マロニエ君としては、手段がどうであれ出てくる音は整ってはいるけれど音楽として聴こえず、どうにも受け容れがたいものがあります。
新しい物を受け容れないのは、印象派の画家達が当初まったく見向きもされなかったことや、春の祭典の初演が大ブーイングとなった先例があるように、その真価が理解できず、固定概念に凝り固まった人特有の拒絶反応だと云われそうですが、それとこれとが共通したこととは思えないし、もちろんマロニエ君は固陋な保守派であっても一向に構いません。
いやなものはいやなだけ。

AIが共演者の音を拾って反応するということは、この場合ピアノの演奏が先を走ったり共演者を引っ張ることはなく、あくまでもヴァイオリンの脇役として影のようについてまわるだけとなります。
すると、終始自己中でいいわけで、相手と合わせる技術やセンスというのは磨かれないのでは?

ピアノ伴奏を人に頼む面倒もなく、便利というのはそうかもしれません。
でも芸術って便利なら良いの?という問題にも突き当たります。

また、作曲ソフトなるものもあり、AIが4つの旋律などを候補として提示して、その中から選んでくっつけたり貼り合わせたりするのだそうで、これがスマホアプリのお遊びならいいけれど、作曲家の創作行為の新しい可能性というようなことになってくると、それを肯定し賞賛する言葉や理屈はどれだけつけられても、要はコピペみたいな作品としか思えませんし、こんなことをしていたら、最後は全部AIに任せればいいじゃんということになりはしないかと思います。
今はまだ発展の過程だから生身の人間が主役になっているけれど、やがてAIとAIが合奏し、曲もAIが作るようになり、人間の出る幕はなくなるとしか思えませんでした。

クリエイティブな世界に身を置く人達は、AIのような時代の先端テクノロジーは受け容れるスタンスをとるフリをしないと、視野の狭い頭の凝り固まった人間と思われるのが怖くて、なかなか否定するわけにもいかないのだろうとも思います。

AIに頼めば、バッハのゴルトベルクに100のバリーションを作ることも、ベートーヴェンの交響曲第10番を生み出させたり、ショパンのバラードの第5番でも第6番でも増やすことは可能なんでしょう。
でも、そんなものはおもしろいのは初めだけ、後世に残る遺産になる訳がない。

テクノロジーの進歩という側面では驚嘆はするし、そこに拍手は贈りますが、そんなにすごい能力があるのなら、まずはコロナウイルスの特効薬でも作って欲しいものです。
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