スターの条件

8月2日放送の『情熱大陸』はいま日本で旬のピアニストである反田恭平さんによる、このコロナ禍の中で試みる有料音楽配信という新しい音楽活動にスポットを当てたものでした。
多くのプロフェッショナルな音楽家が、コロナのせいで活躍の場を奪い去られる中、反田恭平という新進人気ピアニストが旗手となって新たなスタイルに挑戦しようとする様子をとらえたものです。

それに対する意義や判断力はマロニエ君は持ち合わせないので、そのことをここで書いてみようと言うのではありません。

この番組の内容とは直接の関係はないけれど、あらためて反田恭平さんという人を見ていて、なぜ彼が現在日本でトップの人気があるのかということを考えてみるチャンスになったので、そのことに触れてみたいと思います。

現代は苛烈なまでの大衆社会なので、昔のように芸術的な深みや精神性といったものを果てしなく掘り下げ、追い求め、享受する時代ではなくなりました。
芸術には、芸術家はもちろん、受け手の側にもそれなりの素養と修練と熟成が求められ、そういうことは(残念なことではあるけれど)年々時代に合わなくなり、もはやそういう求めも価値もほぼ喪失されてしまったように思います。

芸術性なんぞといったって、これという基準があるわけでもなし、ごく一握りのわかる人がわかるだけのこと。
そんな少数を相手にしていては、現代の厳しいビジネス第一主義の社会では商売もあがったりになるだけ。

さらに、芸術家といえるような人ならまだしも、クラシックの訓練を積んできたという人達は、全体にどこか浮世離れのした、純粋培養の中でイビツに育った線の細さのようなものがあり、大衆的な人気を博そうにも、まるで訴求力がないしパンチがないし、どこぞの大臣発言じゃないけれどまったくセクシーじゃない。

そこへもってくると、反田恭平さんというのは、およそ聴衆の心が素通りしてしまうような無機質な雰囲気ではなく、どこか昔のEXILEのメンバーか何かのような逞しさや体臭やワルっぽさがあり、いかにも非クラシック的な雰囲気があって、聴き手と同じ目線や感性をもっていそうなイメージが漂っています。
言葉遣いも、長年お偉い先生方との縦社会で培われた、慎重でステレオタイプのお行儀のいい丁寧語を話さず、スノビズムもなく、思ったことを言葉少なにズバリと口にするような今どきの若者の世代臭があります。
おまけに普段はどちらかというと無愛想で、洗練や選民意識を暗示するかのような微笑みもなく、いかにも今どきの健康で朴訥な男子という印象を与えるのだと思います。

ヘアースタイルはちょんまげでお顔はいかにも歴史画にみるような純和風で、まるでお能の落ち武者のようなニヒリズムと気迫があり、いわゆる今どきのキレイ系の目筋の整った無機質なイケメンでもない。
このあたりがまずもって現代では珍しい。

それに加えて一切の危なげのない、シャープで卓越した演奏技術があり、マロニエ君は反田氏の音楽には精神性を感じないけれども、彼がピアノと対峙して見せるその技巧そのものには、まるで剣術の師範代のような収斂された美しさ、すなわち精神性が宿っていると思います。
これは誰の目にもわかるピアニストとしての圧倒的かつ新種の武器であり、彼の一番のピアノ演奏上のウリは、やはり技術の冴えだと思います。
現代は芸術・文化より、経済・スポーツ重視の時代。
人の心の内側を覗き見て表現とするような細やかな陰影とか、一瞬の呼吸や風のひと吹きの中に込められる儚いような芸術性より、この明快で輝く技術こそが、人々の感動を誘い出しゲットするのだと思います。
その技術はあればあるだけいいし、しかもそれはクオリティという仕上げの研磨がかかっていないといけません。

こういう諸々の要素を、一身に集約したピアニスト。
それが反田恭平という人なんだと思います。

おまけに彼には不思議なスター性があって、彼の存在は、人の心の中に刻み込まれるものがある。
俳優でもそうですが、どんなに美男美女でもこれのない人は大成しないし、ビジュアルはイマイチでも、このスター性という摩訶不思議な天からの授かりもので主役を張り、第一線で活躍する人というのがいますが、反田さんはそういう意味でもまさに時代が産んだスターなんだと思います。

彼よりもっとイケメンでピアノも上手い人は探せばいるでしょうけど、それだけじゃもうダメなんですね。
そういう意味では、どんなにコンクールで優秀な成績をおさめるような若者が出てきたとしても、トータルで彼を超えるのは生半可なことではないし、だから反田さんの天下はしばらくは安泰なのだろうと思います。
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