終戦の日の8月15日、NHK-BSのドキュメンタリードラマで『Akiko’s Piano 被爆したピアノが奏でる和音(おと)』という番組が放映されたので、録画を視聴しました。
このピアノは広島の原爆投下によって亡くなった河本明子さんが愛奏していたピアノとして有名なもので、修復もオリジナルを重視して極めて慎重に行われ、すり減ったハンマーもあえて交換しないことで明子さんが弾いていた当時の状態を保持、原爆によってついたキズなどもそのまま残されているもの。
数年前アルゲリッチが広島にやってきた時にもこのピアノを弾いてみた映像があるほか、リシャール・アムランやピーター・ゼルキンなども、当地に赴いた際にこのピアノを弾いているようです。
アメリカ製のアップライトで、昔のピアノらしくやわらかい音のする楽器で、いまどきのビンビンした音の出る無神経なピアノとはまるで違うようです。
番組の大半は有名俳優陣によるドラマで占められ、明子さんが家族とともに戦時下を懸命に過ごし、学校生活を送り、勤労奉仕に駆りだされ、ついに運命の8月6日に爆心地の近くで被爆して、瀕死の状態で歩いて家の近くまで戻って倒れこんでいるところを両親に発見され翌日亡くなるまでが描かれていました。
ピアノのフレームにはそれらしき文字は見当たらなかったけれど、調べてみるとボールドウィン社製のピアノらしく、父君がアメリカから持ち帰られたものだったようです。
当時はピアノなどあろうものなら、金属供出などで没収されるのが普通だったと聞いていますが、よくぞ無事に生きながらえたものだと思うし、そういう強運を持った何か特別なピアノだったんでしょうね。
さて、番組後半では、被爆75年を節目として現代作曲家の藤倉大氏によって作曲された、ピアノ協奏曲第4番Akiko’s Pianoという作品が披露されました。
広島出身の萩原麻未さんがソロを務められ、下野竜也指揮の広島交響楽団で、ステージにはスタインウェイDと明子さんのピアノの2台が並べられ、曲の後半では、静寂の中を萩原さんがお能のようにゆっくりと明子さんのピアノへと移動し、スポットライトの下で続きのソロが弾かれて曲が終わるというもの。
ここから先はあえて勇気を振り絞って書きますが、この作品、マロニエ君には理解も共感も及ばず、ドラマで描かれた明子さんとはまったく異質な印象しか受け取ることができませんでした。
作曲の意図ととして明子さんとそのピアノが主役だと述べられ、「亡くなった人のレクイエムではなく、もし明子さんが生きていたらどんな未来が待っていたかを想像して作曲した」というようなことが語られ、テロップには「Music for Peaceという普遍的なテーマを一人の少女の視点で描く」といった言葉が並びました。
けれども、マロニエ君の旧弊な耳には、果たしてこれが音楽なのか?とさえ思うような奇抜でやたら暗いものにしか聞こえませんでした。
ピアノが好きだった明子さん、ショパンが好きで、戦時中を懸命に生きたけれど、最後は非業の死を遂げることになってしまった明子さん。
明るく聡明で、周囲から愛され、分厚い日記帳が何冊も積み重なるほどの膨大な日記を、流れるような美しい文字で綴って残した明子さん。
藤倉大氏はこれを作曲するにあたりインスピレーションを得るためか、わざわざ明子さんのピアノに触れるために広島までやってきて書き上げた作品とのことで、そういう内容になっているのかもしれないけれど、あいにくと低俗な耳しか持ち合わせないマロニエ君には、作品の価値はわからずじまいでした。
現代音楽の理解者に言わせれば、おそらく素晴らしい作品なのかもしれません。
ピアノは常に旋律とも音型ともつかないような意味深な音を発する中、背後では弦がたえずヒーヒーと鳴っており、ときどきピアノの音が激しくなったり、またそのうち静寂のようなものに包まれる、そんなことの繰り返しのように聞こえました。
いったいどこにピアノ協奏曲Akiko’s Pianoを見い出し感じればいいのやら見当もつきませんでした。
この作品の価値を云々する気はないし、そんな能力もないけれど、放送時間の大半を費やして放映されたドラマでは、明子さんとその家族や友人達は活き活きと描かれ、最後こそ原爆という悲劇に至るものの、それ以外はとくだん悲惨な話というわけでもなく、むしろ戦時中の人々の温かな人間模様がそこにはありました。
藤倉大氏はお顔は覚えがあったけれど、どれだけ気鋭の作曲家でおいでなのかは残念ながら知りません。
いかにも一般人の理解不能を前提としたような作品で、しかも偏見かもしれないけれど、日本人的な書生っぽい主張にあふれた作品のようにしか聞こえませんでした。
会場にわざわざ足を運んで聴きに来られた聴衆のみなさんは、あの作品をどのように感じられたんだろうと心から思います。
原爆投下という残虐行為は許されることではないけれど、でも、明子さんというピアノが好きだった19歳の少女に焦点を当てるのであれば、もう少し別の方法もあったのでは?とも思います。
明子さんは家族や友人(そしてピアノ)に囲まれて、楽しい時間もたくさん過ごされたと思いますが、彼女をあらわす音楽が結局こういうものになるのなら、マロニエ君はどうにもやりきれないものが残ります。
そこに、マロニエ君が現代音楽を介さない無粋者だということが横たわっていることも否定はしません。
しかし「音楽」というものがあれほど素晴らしく魅力的であるのに、その前に「現代」という二文字がくっついたとたん、なぜあのように難解で苦行的なものになってしまうのかが皆目わからないのです。
モーツァルトは、聴いた人間がなにか深い悲しみの中に投げ込まれてしまうような作品をたくさん書いたけれど、表向きは嬉々としていてまったくそんな顔はしていません。
ピカソのゲルニカが表現したものは、壮絶な戦争悲劇ではあるけれど、それをつきぬけたところに圧倒的な芸術作品に接する感動というものがあるし、そんな特別な例を引かずとも現代建築、現代文学、現代アートはいずれもそういう迷路に連れて行かれるようには思えません。
ごく単純な話に戻すと、主役は河本明子さんであり彼女のピアノであり、それは作曲者ご自信も仰っていたこと。
ですが、ピアノが好きでショパンを好んでいたという明子さんが、あの作品を聴いて素直に喜ぶのか?これが最大の疑問といってもいいかもしれません。
これがいつまでも消化しきれずに残ってしまう単純な疑問です。
おまけにこの作品は明子さんにではなく、マルタ・アルゲリッチという当代きってのピアノのスーパースターに捧げられているというあたり、いよいよもって意味不明でした。
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