張り込み

先週の連休最終日に非常に珍しいことがありました。

午前11時半ぐらいだったか、チャイムが鳴ったので出てみると、黒マスク姿のいかつい感じの中肉中背の男性が門前に立っていました。
出て行くと、いきなり警察手帳を見せられて、実はある捜査をおこなっているとか。
もしお願いできるなら我が家の敷地内、南北二方向に入らせてもらって、しばらく見張りをさせていただきたいという要請を受けました。

藪から棒にそんなことを言われてびっくりしたのですが、具体的な説明や言葉を避けながら、とある人物(単独か複数可かは不明)を追っているという事はかろうじてわかりました。
犯罪捜査に協力するのも市民の努めだろうと思い、承諾する前に再度警察手帳を見せてくださいと言ったら、すぐに応じてくれて、いかにも使い込まれた感じの二つ折りの黒い革の手帳を広げてそれらしきものを見せてもらいました。

とはいえ、テレビや映画ぐらいでしか見たことはないから、それが本物かどうかまではわかりませんでしたが、同時に名刺を渡され、県警本部の人らしく、二列に及ぶ長々とした肩書が右横にあって、名前の上に刑事部長とあり、ともかく「どうぞ」ということになりました。

刑事さんなので色のない地味な私服で、車も普通の軽自動車でした。
敷地の南北に別れ、一人は裏庭に通じる通路に身をひそめ、もう一人はガレージ前に車を止めてその中から監視がスタートしました。
「これって、ええっと、なんだっけ…なんだっけ?」と思いながら、やっとのことで「張り込み」という言葉を思い出しました。

我が家は蚊が多いので、蚊取り線香に火をつけてもって行きましたが、「すみません、ありがとうございます。」という簡潔な言葉だけで、それ以上の言葉は一切なく、じっと道路側を見ていました。

むろん、こちらが手伝うこともないわけで、早々に家の中に入りましたが、それからの長いこと長いこと。
やはりドラマのように年配のベテランさんと、若い部下と思しき二人組で、車内と庭を一定時間で交代しているようでした。

でも、じんわりすごいものを見た気はしましたね。
「張り込み」というのは、まさに見ることが仕事で、他にはなにもしないので、ただひたすらそこに30分でも1時間でも自らの存在を消すようにひっそり立っているだけで、見ること以外なにもしないことに、却って近寄りがたいような迫力がありました。
さらに、しっかり目的をもって道路の方角をずっと見ているためか、目元にはえもいわれぬ鋭さがあり、普通の人の表情とはあきらかに違う厳しさがどうしようもなくあたりに漂います。

むろん雑談なんぞする雰囲気も皆無で、こちらもたまに見に行ってはそそくさと引き上げますが、はじめはほんの1時間ぐらいだろうと思っていたところ、お引取りまでに要した時間はきっちり6時間にも及びました。

その間、別にこちらがなにか規制されたわけでもないのだけれど、なんとなく普段とは違って、家の内外をウロウロするのも憚られ、やはり精神的にそわそわするばかりで非常に疲れました。

しかも、最後に大捕り物があったわけでもなく、収穫無しでのまことに静かな終了でした。
6時間も場所貸ししたのだから少しぐらい聞いてもいいだろうと思って、最後に少し話をすると、新手の窃盗だということだけは聞きました。

マロニエ君宅のあたりは市内でも古くからある住宅街で、あまり物騒なことなど聞いたこともなかったので、こんな珍客には大変驚いたわけですが、やはり時代も変わり、コロナ騒ぎなどもあり、いろいろな目に見えない変化とか、人心の乱れが渦巻いているのかもしれません。

それにしても、警察官や刑事さんの仕事の大変さをあらためて痛感しました。
テレビの『警察24時!』みたいな番組は好きなので時々見るのですが、あれはいわば娯楽番組として成り立つよう見どころだけを編集されているものですが、よく「内定一ヶ月」なんてナレーションを聞きますが、実際は半日でもとてつもない重労働だと思いました。

よほどの訓練と忍耐力、それを支える精神力と体力、くわえてある種の慣れみたいなものが備わらないと、とても常人に務まるものではないと思いました。
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保護政策がほしい

バッハのゴルトベルク変奏曲といえば、いまだに真っ先に頭に浮かぶのはグールドの数種の演奏ですが、もっとも有名なものは1955年のものと、1981年に再録されたものでしょう。
(1981年版は演奏に賛否あるようですが、個人的にはピアノの音があまりにもダサくて演奏とそぐわず、そのせいでほとんど聴きません)
ほかには55年版とはかなり違うアプローチで1954年に収録されたものと、ソ連でのライブ録音などもありますがが、いすれにしろグールドの天才ぶりを一夜にして世に知らしめたのがゴルトベルクであり、そこからからこの風変わりな天才はバッハを中心に尋常ならざる演奏と解釈によって、世界中の音楽ファンを驚愕させました。

というわけで、ゴルトベルクはバッハの傑作であると同時にグールドを代表する作品であり、その信じがたいような鮮やかで超モダンなセンス、さらにはかなり演奏至難な作品でもあることもあってか、それ以降のピアニストは畏れをなして、この作品を手がけて録音するといったことはなかなかしませんでした。

そのグールドも1982年にこの世を去り、時間が経つにつれそれもだんだんに時効のようなことになってきたのか、ぽつりぽつりと他のピアニストによるゴルトベルクが出始め、いまではピアニストのみならず、弦楽合奏版からオルガン、アコーディオン、合唱によるものなど、あらゆる形態や楽器でこの不朽の名作が演奏されるようになりました。

ついには店頭でも、バッハコーナーの中にさらにゴルトベルクのコーナーが作られるほどで、グールドがこの曲で世に出たことにあやかる意味もあるのか、ピアニストの中にはデビュー盤としてゴルトベルクをもってくる新進演奏家も何人も現れるまでになりました。
おかげで、マロニエ君の手許には何種類のゴルトベルクのCDがあるかもわからないほどになりました。

その後はCDそのものが時代遅れとなり、リリースしても販売見込みが立たない、あるはゴルトベルクも増えすぎたということもあるのかもしれませんが、CD業界がすっかり斜陽となり、ほとんど火が消えたような状態に。

そんな中、つい最近だと思いますが、ある超有名ピアニストが「満を持して」といわんばかりにこのゴルトベルクをリリースし、すでに販売されているのかどうかも知りませんが、ネットの動画などではそのプロモーションビデオのようなものがさかんにアップされていました。

そもそもマロニエ君はこの人のことを芸術家とも音楽家とも一切思っていないし、わけてもバッハの音楽とは逆立ちしても接点の見いだせないような別種のイメージしかなく、その人がついにここに手を付けたのかと知って、正直ため息しか出ませんでした。
というわけで、そのプロモーションビデオとやらをおそるおそる見てみましたが、相当の覚悟をもって挑んだものの、それでも足りないほどの趣味による演奏で、その不快感を自分でどう始末をつけていいかもわからない状態になりました。

そもそも芸術性のない人ほど前宣伝や(広義の)パフォーマンスに力が入るもの。
ストレス以外のなにものでもない、むやみなスローなテンポで意味ありげなそぶりをするだけして、あとで必ずその反動のように猛烈な速度や技巧を入れ込んだりと、泣き笑いの三文芝居のよう。

はじめのアリアには実に8分近くも時間をかけ、冒頭からお得意の自己顕示欲のかたまりで、あの美しい音楽が、不気味な爬虫類にでもからみつかれているみたいなイメージでした。
そもそもマロニエ君が耐えられない演奏というのは、個性とはおよそ言いかねるものを芸術性であるかのようにすり替える狡さと悪趣味、自分を印象づけるためだけの意味深で嘘っぱちのアーティキュレーションなどで、よくぞあのアリアの清澄な調べを、あそこまで気持悪くできるものだと逆に感心するだけ。

バッハの作品は、誤解を恐れずに言ってしまえば、きちんと誠実に弾くだけでも作品の力によって、それなり聞くに耐える音の織物になるものですが、それをあそこまで無神経な色や表情に塗りかえてしまうとは!

生まれながらの天才とか、根っから芸術性に恵まれた人というのが、この世の中にはごくまれにいるものですが、今どきはそれらとはおよそかけ離れた人こそが表舞台に堂々と出てくる時代。
突き詰めればビジネスでもあるから、エンターテイメントを提供し商業的に成功していくのは、やむなきことかもしれませんが、芸術の世界でもそれが当然と言わんばかりに中心に居座るのは本当にたまりません。

世界的に有名になって、オファーも途絶えることがなく、チケットも売れるとなれば、もちろんそれは大変なことだと思うし、とりわけその関係者にとっては「音楽性だ芸術だと言ってみても、チケットが売れなきゃどうすんの?」みたいな感覚はあると思うし、それも一定の理解はできます。

でも、少しはそこから外れた真っ当な価値観が生きながらえることもできる、わずかばかりの余地もあってよさそうな気もするんですけどね。
動植物には「絶滅危惧種」などといってビジネス抜きの厳しい保護政策がとられますが、芸術にそれは適用されないのだろうかと思います。
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ベーゼンドルファー280

過日のNHK-Eテレ『クラシック音楽館』では、後半にアンドラーシュ・シフによるベートーヴェンが放映されました。
このコロナの時期、もしや日本においでになるのか、夫人の塩川悠子さんもご一緒でしたが、いかにもNHKのスタジオ収録という感じであったし、新しいベーゼンドルファーを使って「告別」が演奏されました。

ヤマハの子会社となってからのベーゼンドルファーについては賛否さまざまあるようですが、この時のピアノは旧275の後継ともいえる280(うしろにVCというのがつくものもあるようですが、その違いが何であるかはしりません)でしたが、これはこれでとても良いピアノだと思いました。

以前のベーゼンドルファーは、素晴らしく良い時とあまりそうは思えない(マロニエ君の主観)ときのばらつきが多く、ハッとするような純粋でこれ以上ないような美しい音を聴かせることがあるかと思えば、一転して蓮っ葉な品のない音であったり、虚弱な感じで鳴りがイマイチな感じを受けることも珍しくはありませんでした。
また、繊細といえば聞こえはいいですが、とても現代のホールでのソロには向かないというような楽器もあるなど、コンサートピアノとしては不安定という印象を持っていました。
さらに楽器の個性も強く、曲を選ぶところもあって、ピアニストがいつでも安心して弾ける、あるいはまた聴衆が安心して聴けるピアノというには、いささか問題も抱えているようにも思っていました。

それがこの新しい280では、上記のようなマイナス面がかなり克服されており、ベーゼンドルファーのヨーロッパ的なトーンと気品はそのままに、ほどよいパワーと現代性を備え、これなら安心してステージに載せられるピアノになったと思いました。

シフの演奏もこの時は好調で、コンチェルトの全曲演奏とか後期のソナタ、あるいは熱情やワルトシュタインでは物足りない場面もあったけれど、この中期の中では後期寄りの作ともいえる「告別」では、シフの美点が活かされて、ピアノの音とあわせて素敵な演奏が聞けたと思いました。
そういえば、コンチェルトの時のアンコールの「テレーゼ」も非常にチャーミングな演奏で、この人はこういう音数が多すぎず、リリカルな要素を随所に必要とするような曲を弾かせたら、最良の面が出るのだと思います。

それはいいけれど(以前にも書いたことがあること)最近はピアノの大屋根を、本来の角度よりもさらに上まで大きく開けるということが流行っているようで、あれは個人的には賛同しかねます。
そのための茶色の長い棒まであるようで、本来の突上棒を取り外し、付け替えて使うことが今のトレンドなのかどうかしらないけれど、見るからに無様で、大屋根が開かれすぎたピアノは、フォルムも崩れて見ちゃいられません。

アンスネスの日本公演で見たのが始まりでしたが、最近は海外でもしばしば見受けられ、キーシンのような深いタッチの人さえそれで弾いていたりと、これはあきらかに何らかの効果が見込まれてのことだということでしょう。

ピアノを不格好に見せるのが目的のはずはないから、もっぱら音の問題だろうと思います。
従来の角度より広く開けることで、音が上下方向に立体的に広がる、あるいは大屋根に反射して派手さがでるとかエッジの効いた音になるなど、おそらくは様々な実験を通じて何らかの効果が立証されたんでしょうね。

マロニエ君の印象としては、たしかに音が生々しくなり、滑舌が良くなり、いかにもパワーアップしたピアノのようになるといえばいえないこともない。
しかし、音が妙に直線的で、深みがなくなり、ピアノをホールで聞く際の音響としてのゆらぎとか膨らみがなくなるようにも思われます。

今回のシフでは、スタジオ収録にもかかわらず、この茶色くて長い突上棒が使われており、あれはなんだかいやだなぁ…と思います。
心配なのは、これが常態化してくると、メーカーのほうでも忖度して、この長めの突上棒を標準で取り付けてくる可能性があるんじゃないかと思うと、そんなことにだけはなってほしくないものです。

ベーゼンドルファーの280に話を戻すと、これには頑として否定される方(おそらくはヴィンテージのベーゼンドルファーの音をご存知の方でしょう)もおられますが、マロニエ君は決して悪くないと思ったし、このピアノを使ったリサイタルでもあれば、ひさびさにホールに出向いて聴いてみたいもんだと思いました。
とくに最近のように、どのメーカーもコンサートグランドでは無個性化が進んでいる(コンクールのせい?)中で、このピアノには節度は保ちつつも個性があって、フォーマルな気品があり、さすがだと感心しました。

シフはどちらかというと楽器を深く鳴らすようなタイプのピアニストではないので、別のピアニストで、いろいろな作品を聴いてみたいものです。
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達筆で雄弁

最近の若手ピアニストの演奏(そんなにいろいろ聴いているわけではないけれど)に思うこと。
昔よりも平均して技術が向上していることは広く言われて久しいことですが、その演奏は現代人の習性ゆえか、音楽そのものよりは露出に重きがおかれ、何か緒をつかんで有名な存在になろうという野心の旺盛さが感じられて仕方ありません。

少し前までは、平均的な技術が向上するのは単純に素晴らしいことだと思っていたけれど、もはや器楽演奏者にとっては弾けて当たり前ということなのか、それ以外のなんらかの要素が問われているようで釈然としません。

効率的によく訓練され、見ていて不安感や苦しさなどないまま、どんな曲でもサラサラと弾いてしまうので、ある意味お見事ではあるでしょうが、一番大事なもの、つまりその人がいま目の前で音楽をやっている、一期一会の演奏に立ち会っているといったような音楽の核心に迫る要素がなく、弾いている自分をビジュアルとして見せている感じさえあったり。

もちろん本番の陰では、人しれぬ練習や努力はあるとは思うけれど、結果として我々が接する演奏には、目の前で奏される音楽より、その人が有名人として認知されるための一手段一場面にうまく付き合わされているだけといった印象がつきまということが、どうしても払拭できないのです。

個性などあってもあるうちに入らないほど微々たるもので、レパートリーも幅広いといえば聞こえはいいけれど、要するに有名どころは概ね準備できているから、いつでもオファーに応じられます!といった感じで、その人が何を得意とするのかも分からないし、どういう時代のどういう音楽に興味の中心を置いているかもまったく不明。

試験やコンクールでやってきた曲から押し広げて、コンサートで求めに応じるための必要な曲を一通りマスターしているという、自分の意志というよりは、まるでプロの課題曲みたいな印象しかないのです。
むかしどんなに難曲と言われた曲でも、あるいは内容的な成熟が伴わないうちは公の場で弾くべきではないといわれたような曲でも、今の人はあっけらかんと弾いてしまうようです。

それだけ「上手くなった」といえば、それはメカニックや暗譜の能力という点ではそうかもしれません。
でも、聴いている側が音楽の喜びに浸って、曲の、あるいは演奏のなんとも言いがたいひだのようなところに触れて酔いしれたり、何度も繰り返し聴いてみたいと思わせるような魅力がないことは、大半に共通していることのように思います。

こういう現象と、あるときフッと重なったことがありました。

最近はテレビ番組の中でクイズ(それもゴールデンタイムにレギュラー化したり、やたら大型番組だったり)がやたら増えてきたように思います。
出演者も昔のように一般人が公募で出てくるようなものじゃなく、一流大学生の軍団あり、あるいは有名大学出身のインテリ芸能人(変な言葉!)と言われるような知識の達人ばかりで、クイズと言っても視聴者参加でほのぼの楽しむようなものではなく、その道の精鋭やプロが頂上決戦するエリート同士の戦いをただぽかんと見るだけ。
そこで繰り広げられるのは当然ながら呆れるばかりの知識量。

そこでマロニエ君が驚くのは知識量だけではなく、回答者がボードに書く文字が信じがたいほど悪筆で汚いこと。
もちろんクイズだから、きれいな字を書く暇はなく、時間勝負の場合もあり、美しい字である必要はないといえばそうなんですが、それでも限度というものがあると思うのです。
ダメ押しではないけれど、筆順(今は「書き順」というそうですね)も冒涜的にめちゃくちゃ。

字の美しさは演奏の美しさと大いに通じるところがあるとマロニエ君は考えていますが、昔の人は、字が下手なことを大いに恥じたし、上手い人はそれだけでまず一目置かれ尊敬されました。

で、これは喩えがいささか極端かもしれませんが、今のピアニストは音楽の文字に例えると、「漢検一級」みたいなものはお持ちかもしれないけれど、それを手で書いた時、一文字一文字がわざとではないか?と思うほど美しくない。

文字には楷書から行書までさまざまあって、基本形の美しさはいうまでもなく、崩していくときにどういう運びや流れで次に繋がっていくかということがとても重要で、ひとつひとつの文字の美しさと、それらが他の文字と並んで共存する場合の、絶妙のバランスや大小、筆圧、収まりの美しさなどがありました。
音楽が一音では成り立たず、旋律や和声を形成するのに似ているのかもしれません。

そういう意味で、昔の人は、単純な読み書きの技術や知識ではなしに、他の文化芸術と無意識に通底した味わいのある文字を書いたと思います。

そういう昨今の文化的時代背景が現代の若手ピアニストの演奏にも表れているような気がしたわけです。
音楽は演奏を通じてはじめて姿をあらわす芸術で、その演奏はもっと「達筆」で「雄弁」あってもらわなくては人の心を揺り動かすことはできないと思うこの頃です。
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システム

むかしに比べると、購入するCDの数もだいぶ減りましたが、それでも時々は購入しています。
マロニエ君ももはや古い人間になってしまい、いろいろな新しいテクノロジーが台頭してもついていけませんし、その気もありません。
いまどき嵩張るプラスチックケースに入ったCDを積み上げて、そこから聴きたい1枚をとりだして、そのつどプレーヤーに滑りこませるなんて、もはや古色蒼然たるやり方なのかもしれないけれど、自分はこうでなくては音楽を聴く気分と形が整いません。

今回、某大手の音楽専門ネットショップに注文していたCDは、これまで室内楽以外ほとんどきいたことのないボルトキエヴィキのピアノ作品集でした。
8巻からなるバラ売りものですが、それを注文したのが6月の中頃。

一部は在庫がないようで、海外発注をかけてくれているようですが「なかなか手に入らないので今しばらくお待ち下さい」というメールが数回届いていましたが、あるとき「このCDはあいにく取り寄せができません」という旨のメールが届きました。
具体的には5枚は準備出来ているが、残り3枚が入手困難というわけです。

その時点で「準備出来ているものだけでも購入する」か「すべてをキャンセルするのか」を選ばなくてはならず、マロニエ君はあるだけでも聴いてみたいので、5枚だけでも購入するという選択をしました。

で、数日後には送ってくるものと思っていたら、一向に届かず、おかしいなぁ…と思っていたら近隣のコンビニ留めでそれを自分で取りに行くということになっていたようですが、注文から2ヶ月以上経っていることもあって、そんな認識がまったく頭にありませんでした。
このあたりの注意が悪かったのは専らマロニエ君の責任ということになります。

というのも、これまで購入するCDは長いこと自宅に届いていたので、今回もそうだと思い込み、それ以上の注意をしていなかったのです。
すると、ある日「コンビニでの保管期限を過ぎたのでキャンセル扱いとなりました」というメールが届き、この時点でびっくり仰天、はじめてコンビニ受け取りということに気がついたわけです。
保管期限を見ると、メールを目にした時点で期限失効から12時間が過ぎるかどうかというところでした。
あわてて当該のコンビニに電話すると、その荷物はまだお預かりしていますが、おそらく返品扱いになっているので、お渡しできるかどうか不明、詳細の書かれた紙などを持って来ていただけたら処理をやってはみますとのこと。

というわけで、すぐにそのメールをプリントし、部屋着のままコンビニへと飛び込みました。
幸い電話に出た方がおられたので、すぐに店内のなんとかいう名前の端末に向かって操作をしてくださいましたが、やはり自動的に返品処理となった後で、その端末からはどうすることもできないので、購入者とショップの間でやりとりをして欲しいというわけで、こちらの連絡先を残して一旦帰宅することに。
コンビニ側も回収業者には品物を渡さないですむように言ってみますと、とても協力的でした。

ところが、その発送元のネットショップに連絡しようにも、ご多分に漏れず電話番号が書かれておらず、あせりながらパソコンと格闘した末に、ついにカスタマセンターの電話番号なるものを他から突き止めさっそく電話し、事情を説明しました。
内容はすぐに伝わり、今どきなので、これまでの購入履歴などもわかったようで、あれこれ手を打ってくれたようですが、先方が言うにはいったん回収命令が下ったものに撤回の指示はできないことになっているとのこと。
二ヶ月以上も待っていたCDなので、キャンセルする気は毛頭なく購入したい旨を伝えると、結論としては、いったんこのまま品物を送り返し、しかる後にもう一度発送しますので一週間ほどお待ち下さいということで、それで話は決着しました。

もちろん、その間メール連絡などは来ていたのだろうし、それを一字一句見逃さないための注意を怠ったこちらに責任はすべてあるといえばそうなるわけで、店側はやるべきことはキチンとやったということもわかります。
しかし、現実的には毎日見たくもないようなメールが何十通も来るし、重要なものとそうではないものの取捨選択だけでもひと仕事で、こんな結果を招くほど重要なメールとは思わなかったというのが正直なところ。

いずれにしても品物はもうコンビニまで来ているというのに、それをまたどこか遠く(おそらく関東でしょう)まで返送し、再度送り直すとは、システムには適っていても今どきのコストと効率重視の世の中にあって、なんとバカバカしく無駄なことかと思いました。

ショップに落ち度はないし、コンビニも親切で協力的だったし、2ヶ月強も待ったCDだからマロニエ君としてもキャンセルする気などさらさらない。
寝坊でもして飛行機が離陸してしまったというのならともかく、目の前にある荷物を時間切れというだけで受け取ることさえできないなんて、システムというものがそんなにすべての中心でエライのだとすると、なんだかとてもやりきれない気持ちになりました。

メール確認を怠ったマロニエ君が一番の責任者といえばその通りなのですが、人間は忘れることもミスすることもあるし、保管期限から何日も経過していたというならともかくも、まだ目の前にあるというのに、そういう場合のちょっとした融通さえもきかないのは、率直に言わせてもらえばそのシステム構築にも問題があるのではないかと思いました。

システムというのであれば、(少なくとも品物が回収される前なら)操作によって回収を撤回する機能を追加すればいいじゃないかと思いました。
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決め手は重さ

少し前のことでしたが、ある技術者の方から、至極もっともといいましょうか、大いに納得の行く話を伺いました。
ピアノのハンマー交換をする場合、何に最も留意すべきか?

こういうことは技術者さんによっても流儀はいろいろだろうと思われるので、あくまでもお話を伺った技術者さん個人のお考えとして紹介しますが、その方は「ハンマーの重さに対する注意につきる」といわれました。
ふつうハンマー選びというと、レンナーだアベルだというような単純な話になりがちですが、各社とも等級はいろいろあって、一概にどうともいえないようです。

その方が言われるには、それなりの品質のものであればメーカーはそれぞれだし一長一短で、それ以外にも優れたハンマーを作る会社はあるし、さらに取り付けるピアノの年代や相性、弾く人の好みなどとても一概にはいえないようです。

それより、メーカー以上に守る(こだわる?)べきことがあるとすれば、それはハンマーの重量。
これは決して外せない要素だと言われました。
ピアノの設計やアクションの作りに対して、最適な重さのハンマー(シャンクも含むとおもいますが)であるかどうか、この点をその方はもっとも注意されるそうです。
とくに古いピアノなど、データが豊富でないピアノになるとさらにその点は細心の注意が必要らしく、これを誤ると、どれだけいい音がしても、弾きにくくて好かれないピアノになり、ピアノそのものの価値を左右するに至るというのは納得でした。

その点の注意を怠って、安易に有名ブランドハンマーを取り寄せて交換すると、タッチの面で思ったような結果が得られないピアノというのはかなりあるそうで、多くの技術者はこの部分をハンマー交換時のリスクとしているようですが、決してそうではなく技術者がそこをよく認識し注意さえしていればそういう間違いは起こらないとのこと。

我々一般ユーザーにとって、信頼している技術者さんが吟味して仕入れたブランド品のハンマーなら、まさかそれが不適合だったとは思いませんものね。
重すぎるハンマーがつけられてしまったが最後、整調などでいくら小細工を繰り返しても基本的な解決には至らず、気持ちの良くないピアノになり、最悪の場合はピアノそのものが嫌われてしまうこともあるでしょう。
こういう場合、もともとのサイズが違ってしまうぐらい大胆にフェルトを削ってダイエットすれば、その分の効果はあるかと素人考えで思いますが、それではハンマーそのものの価値を毀損するようでもあるし、そもそもの選択ミスをそんなかたちでカバーするのもおかしいですよね。

話は変わるようですが、マロニエ君は無類のクルマ好きでもありますが、通常の好ましい実用車の場合、日常の使用でどの性能が最も乗員に寄与するかというと、それはエンジンでもパワーでも燃費でもなく、日常的な使用範囲における「乗り心地」です。
段差を乗り越えた時のいなし方、揺れの少ない節度感あるボディ制御、駐車場から表通りに出て加速して、流れに乗って走行する際にもっとも気持ちの良く感じる性能は、キチンと腰のある繊細でしなやかなサスペンションです。

これをピアノに当てはめますと、もちろん音や響きも極めて大切ではあるけれど、まずはしっとりと弾きやすく、程良い抵抗とコントロール性を兼ね備えた「上質なタッチ」だと思います。
マロニエ君は、音とタッチのいずれが大事かというと、悩んだあげくの究極の選択ではタッチかなぁ?と思います。
音は元のピアノがよければ優秀な技術者の力を借りてあるていど磨けますが、タッチはなかなかそうはいきません。
打弦距離だのなんだのと調整箇所はいくらもありますが、そもそも重いハンマーが悪さをしている場合、いくら技術者さんが中腰で汗水たらして時間をかけてがんばってくださっても、さほどの劇的変化は起こりません。

ハンマーの重量さえ適正なら、技術者さんも音色やパワーや調律など他のことに労力と時間を使えますが、これがボタンの掛け違えのように、出発の時点で間違っていると、あまり効果のない調整等でお茶を濁す以外にどうすることもできません。
そういうわけで、上記の技術者さんがおっしゃるハンマー交換の場合、最も重要な点は「適正な重さに細心の注意を払う」というのは大いに納得の行くお話でした。

こんなことを言っちゃ怒られるかもしれませんが、そこさえきちんとしていれば、レンナーでもアベルでもRGでも、そんなにワアワアいうような大問題ではないんじゃないかと思いますけどね。
もちろん、フェルトのクズを固めて作ったような安物じゃダメでしょうけど。
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