小菅優

以前のBSプレミシアターでは、ボリショイオペラの公演から、ロシアの最も重いオペラでもある「ボリス・ゴドノフ」が全幕3時間にわたって放映されたところ、その後半は打って変わって「小菅優ピアノリサイタル」という思ってもみない組み合わせでした。

だいたいこのプレミシアターではオーケストラなら、後半も別のオーケストラであったり、バレエはバレエと組み合わされることが多いから、「ボリス・ゴドノフ」と「小菅優ピアノリサイタル」というのは意外な組み合わせで、それにまず驚きました。

とくに日本人ピアニストが、国内で行ったリサイタルがそのままこの番組枠で放映されるというのは、マロニエ君はあまり記憶がありません。
現在日本人で有名なピアニストというと、今どきのいくつかのお定まりの条件を整えた人達が大半で、みなさん技術的には立派に弾かれるけれど、個人的には(非常に残念なことですが)積極的に聴きたいと思うよう方ではありません。

なんといってもその条件の王道はコンクールで、まあこれはオリンピックの金メダリストということ。
ショパン・コンクールの優勝はまだ日本人は取ったことがないけれど、それ以外の著名コンクールでの優勝または上位入賞であること、なんらかのストーリー、あるいは一夜もしくは短期間に記録的なコンサートをして話題作りをする、最近では、タレントとして芸能人たちと肩を並べて手を叩いてキャアキャア言うなど、なんらかの売名もしくは話題作りに成功した人だけがステージチャンスをものにするという、いまさら書くのも飽き飽きした傾向です。

そんな中で小菅優さんが特別なのは、10歳の頃から渡欧し、コンクール歴なしにその実力を認められ今日の地位を得ているというところでしょう。
それだけに本物感があるし、ほかに思い浮かぶのは五嶋みどりとかキーシンでしょうか。

マロニエ君はコンクールをすべて否定するつもりはないし、これはこれである時代に一定の役割は果たしたと思います。
しかし、功罪両面があって、一夜にして楽壇デビューできるというセンセーショナルで魅力的な面はあるけれど、どうしても技術偏重に陥る、どちらかというとスポーツ競技に近いものがある。
それぞれであるはずのものに必ず順位をつける、加点減点対策から個性が抜き取られる、というようなマイナス面も目立ち、コンクールがいくたびも批判にさらされながら、それでも廃れないのは、演奏家を目指す若者にとってはそれが最短コースであるからだろうと思います。

また、コンクールによって、クライバーン、アシュケナージ、ポリーニ、アルゲリッチ、内田光子、ツィメルマンのようなスター級のピアニストが世に送り出されたことも大きかったでしょうね。

とりわけ日本人は、人がなんと言おうと自分は自分、自分の耳目と価値観で判断するということがことのほか苦手だから、コンクールの入賞歴は圧倒的な判断材料になる。


前置きが長くなりましたが、小菅優さんのコンサートは何度か行ったことがありますが、なんといっても音楽中心で、とてもよく準備されており、演奏も迷いがなくハキハキしていて燃焼感もあるし、かといって熱気だけで弾いているのではなく、分析やバランス感覚にもぬかりはない。
細部への気配りやデリカシーも常に機能している。
それから、マロニエ君が素晴らしいと思うのは、多くのピアニストがしないではいられない技術自慢を感じるところがまず無いことでしょうか。

10歳やそこらでリストの超絶技巧練習曲やショパンのエチュードを全曲録音するような人だから、そういう興味も欲望もないまま、音楽に献身できているのかもしれませんが。

近年では、水、火、風、大地をモチーフにした独特なプログラミングでコンサートをしておられますが、これがまたなかなか秀逸な選曲。
多くの場合、チケットを売るために有名曲を中心にしたものか、逆の少数派では演奏家の傲慢とも言えるような作品ばかりを並べてお客さんのことを無視したようなもの、そういうものが多いのに、この小菅さんのシリーズでは、そのバランスもよく、有名曲のあるけれど、そうではないものが過半数で、かならず初めて聴くような作品が随所にあって、これぞ本当に聴き甲斐があります。

小菅優さんの演奏で一つだけ惜しいのは、音にもうひとつ太さと重みがないこと。
体格もしっかりされていて、もっと肉厚な音が出そうなものですが、なぜか軽量で、この点だけは唯一の不満といえます。
音に力(音質やボリュームではなく)がないからか、あれだけ上質な演奏をされているのに、なにかもうひとつ聴く側の耳とか心に受け取って持ち帰るものが実際より軽く終わってしまうようで、これは非常に残念です。

でも、小菅優さんには内田光子に次ぐ、本物の世界的な日本人ピアニストになっていただきたいと思う、マロニエ君からみて唯一の御方です。
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音楽をする意味

先日、久々の顔ぶれによるピアノのお客さんがありました。

もう長い付き合いの方々なのですが、まずその中のお一人が弾かれたところ、全体から醸しだされる音や音楽の美しい世界にハッとさせられるものがありました。
別の方も、立派な技術をお持ちにもかかわらず、お子さんのレッスンに触発されてブルグミューラーの25の練習曲を見直し、これを丁寧に弾かれるなど、なにかしら変化が起きているようでした。

おひとりは先生を変わって一からやり直しをされ、音の出し方や体の使い方などをフランスの子供の教本を使ってやっておられる由。
もともときれいなピアノを弾かれる方でしたが、そこに一段と磨きがかかって、一音一音が深く説得力のあるものになっており、演奏の質感も上がっているし、なにより品位が備わっていました。

普通ピアノといえば、楽曲はネタとして用いられ、物理的難易度という面での上を目指すか、名曲アルバム的なベタな曲を目指すのがほとんどすべてといってもいいと思いますが、ごく少数でもこういう人もいるのだということは、ピアノ好きとして嬉しいし感銘を受けました。
音和の少ない、シンプルな曲をいかに美しく、曲の表情やニュアンスをもって弾けるかが大切で、ここをすっ飛ばしてどんなに難しい曲に挑んでも、それでは音楽のふりをした騒音でしかない。
そこのところが、どうしてもわからないのが日本のピアノをやっている人の大半だと感じますし、教育システムを含めた構造全体の問題も大きく、これは半永久的に変わらないでしょうね。

話は飛びますが、昔、キーシンやレーピンが天才少年として来日した1980年台後半、当時東京にいたマロニエ君はせっせと彼らのコンサートに通いつめ、中にはソ連体制派寄りの作曲家であるフレンニコフの協奏曲だけを集めた一夜まであったりで、この天才少年達は今ではもう決して弾かないであろうレパートリーを披露していました。

そんな一連の公演の一環として、ソ連のヴァイオリンの名教師で、ヴァディム・レーピンやマキシム・ヴェンゲーロフを育てたザハール・ブロン氏によるマスタークラスがあって、それにも行きました。
マスタークラスといっても、どこだったか思い出せないような小さな会場だったことしか覚えていません。

そこで3人ぐらいの日本の学生が指導を受けましたが、ただ必死にプロが弾くような難しい曲を格闘するように弾いているだけで、たとえばシベリウスのヴァイオリン協奏曲の第一楽章なんかをもってくるのですが、伝わってくるのはこの日のための猛練習の跡と、この若さでこれだけの曲をやってますよという自慢だけでした。
はじめに通して聴くだけでも相当の時間を要し、間近にいたブロン氏はしだいに所在なさ気に姿勢を変えたり自分の楽器を触ったりしていて、明らかに気持ちが離れているのが伝わりました。

曲が終わると「非常にすばらしい」という賛辞とともに、ひと通りのレッスンが行われましたが、その内容は曲の表情表現の話に終始していたようで、学生にはどこまで伝わったのか甚だ疑問だったし、他の学生も似たりよったりという感じでした。

で、最後に、締めくくりとしてまだ十代前半!の少年ヴェンゲーロフが出てきて演奏しましたが、彼が弾きだすや世界が一変、音は老成しており、曲が波のうねりのように流れだし、その中で音符はまさに生きて呼吸しているという「根本」にあるものの違いを痛感しました。
ひたすら音符を練習で、毎日何時間も追いかけているだけではこうはいきません。

後日、日本での印象など、ブロン氏へのインタビューが音楽雑誌に載りましたが、そこで記憶にあるのは「日本人はレッスンにもってくる曲が難しすぎる」「もっとシンプルで簡単なものでないと自分の伝えたいことは伝わらない」「その上でいろいろな曲に挑戦すべき」というような意味のことが語られており、大いに膝を打ったことだけは鮮明に覚えています。
音楽に対する心構えやセンス、芸術的な環境なしに、どれだけ技巧的なものが弾けても、ボタンの掛け違えのようなことになり、決して良い演奏はできないというのをやんわりと仰りたかったのだと思います。

その点で、先日の来宅された方は「易しい曲に立ち返って勉強し直す」という、マロニエ君としては日ごろ最も大切だと思っていることを実践されているということで、驚きとともに、なんと素晴らしいことかと思いました。
数曲弾かれましたが、まちがいなく、はっきりとその効果が上がっていました。

聴くだけでも苦痛になるような無神経でダサい弾き方で、さらに難曲大曲になれば苦痛もやるせなさも倍増し、「早く終わって欲しい」としか思わないのが正直なところ。
大事なことはブルグミューラーでもギロックでもいいから、その曲に全身が包まれ、あーもう一度聴きたい!と思わせるような演奏を目指すことだと思います。
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アメリカナイズ

五嶋節さんの本から、話を続けます。

アメリカの音楽学校といえば、真っ先に思い浮かぶのはニューヨークのジュリアードで、同校のヴァイオリン教師といえば、だれでもその名を知っている名伯楽だったドロシー・ディレイ。

パールマンを筆頭に、ヴァイオリンをアメリカで勉強した著名演奏家で、この人の息のかかっていない人はいないのでは?と思えるほどの大きな存在。

ディレイ女史はその知名度にくらべて、とても穏やかな優しい方で、節さんはこの方を尊敬し頼りにしていたようですが、その指導法というのは、一切、命令をしたり人前で叱責したりということがないとのこと。
そればかりか、何でもYESかNOで片付けてしまうアメリカと思いきや、むしろ日本人教師が足元にも及ばないほどの間接表現だそうで、なにひとつ直接的な言葉を使わず、すべては行間を汲み取り、生徒はディレイ先生がなにを言おうとしているのかを、耳を澄ませ、行間を読み、考えなくてはいけないのだとか。

それはともかく、パールマンとかみどりとか、一部の例外を除けば、マロニエ君は概ねディレイ先生が育てたという演奏家というのはあまり好みではありません。
これといってクセも欠点もない、ほどほどにまとまって上手いんだけれども凡庸な演奏で、突出した魅力や芸術性を感じるものではないからです。
とくに感じるのは、演奏に狂気や冒険がないことでしょうか?
かといって清潔一途な演奏というのとも、どこか違うような…。

それが垣間見えたのでは、ディレイ先生による「レッスン診断書のチェック項目」というのがあり、音、リズム、運指法、暗譜、イントネーション、歴史、総譜の暗譜、曲の構成/性格、強弱法/バランス、ペース配分/アンサンブル、弓の移動、ヴィブラート、指板上の左手の移動、アーティキュレーション、整合、音色の出し方、姿勢、ヴァイオリンのはさみ方、弓の持ち方と腕、左手の位置、頭、表情と息つぎなど。

これにくわえて、たとえば協奏曲ではソロに対する聴衆の集中力を上げるため、あえてワンテンポ遅らせて音を出すとか、化粧/衣装の選びから、ステージマナーまですべてを指導するのだとか。

「生徒の個性を活かしながら決して命令はしない」といいながら、これだけの細かい指示を叩きこまれ、しかもジュリアードには上昇志向の塊のような学生がウジャウジャいるのだそうで、それに応えきれない生徒は容赦なくレッスン頻度が減らされ、本には書いてはなかったけれど最後は見捨てられるのだろうと思います。
だから、みんなジュリアード出身の人はどこか同じ匂いがするんだな…と納得できたような一節でした。

優秀な凡人にはプロになるための養成所であり、ステージ人となるための有益な指導かもしれないけれど、特別な感性や才能あふれる若者にとって最良かどうか、マロニエ君は大いに疑問を感じました。

パールマンやみどりのように、それさえも突破するような天才は何があろうと天才のままかもしれませんが、そこで潰れていく才能も少なくない気がしたし、現に何人かは心当たりがあります。

マロニエ君の思い込みかもしれないけれど、音楽でアメリカ留学経験を経てた人って、ステージマナーからコンサートの作り方まで、アメリカ式の型にはまってしまうような気がします。
やたら笑顔で、形式的で、とくに女性はお辞儀の仕方も先に腰が曲がり、その後に顔が遅れてついてくるようなスタイルで、あれはあまり好きにはなれません。
あまりにもみんな同じような感じなので、あんなことまで手取り足取り教えられるのかと思うと、なにか怖いような気もします。

ちなみに、あのキーシンも少年の頃は、いかにも感受性豊かな天才という感じで、ステージマナーもぎこちなく無愛想で、個人的にはそこも好きだったけれど、カーネギーデビューしたあたりから、突然、貼り付けたような笑みをたたえてキュッと男性的なお辞儀をするようになり、それがどう見てもキーシンの自然からでたものではなく、人から教えられた動作のようにしか見えないのです。
確証はないけれど、あれはアメリカで指導されたものじゃないかと個人的には思っており、いまだにキーシンには似合わない仕草だと思うのですが。
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五嶋節物語

古い本ですが、『五嶋節物語 母と神童』(奥田昭則著 小学館)を読んでいます。
こんなブログとはいえ、読了もしないうちから何か書くのはあんまりでは?とも思いましたが、まあ思いつくままに。

五嶋節さんは、言わずと知れた五嶋みどり(弟さんもいましたね)を世界のヴァイオリニストに育て上げたお母さん。五嶋みどりのコンサート終了後の様子をテレビでチラッと見たことがありますが、陽気で気さくな関西の女性という感じで、親子といってもお嬢さんとはずいぶん様子が違うなぁと思った覚えがあります。

なにしろ、二人の我が子をあそこまでにした女性だから並大抵の人ではないだろうと思っていたけれど、この本のページを繰るごとにへぇぇへぇぇと驚くことの連続でした。
なにより驚いたのは、この節さん自身が大変なヴァイオリンの名手だそうで、その演奏はただ上手いというようなものではなく、天才的で、器が大きく、聴く者を魅了するものだったとか。

当然ながら学生時代は優等生タイプではなく、考え方など独自の感覚と存在感があり、普通の生徒とはかなり違ったところのある人だったようで、ヴァイオリンを弾くと圧倒的で、いわゆる天才気質だったとか。
オーケストラに入るのが夢で、相愛学園のオケのコンサートマスターまで務めていたにもかかわらず、当時神のように恐れられて、ときおり指導に来ていたという斎藤秀雄氏による独自の徹底した指導に反発してそこを離れるなど、やはり凡人とは感じ方も行動も違っていたでしょうね

ヴァイオリン奏者としての資質は確かなもので、申し分のないものだったようです。

しかし、家族の反対や時代に阻まれて、本格的な演奏家になる道はどうしても叶わず、その後結婚して生まれたのがみどりなんですね。わずか2歳のころ彼女がピアノなどよりヴァイオリンに興味を示したため、ほんならというわけで徹底的に教えこんだのがこの節さん。
みどりが天才であることに異論を挟む人はいないと思うけれど、子供にとって最も身近な母親が、それだけの天分と尋常ならざる気骨あるスーパー教師なのだから、そりゃあ鬼に金棒でしょう。
当初から一貫して、すべて母から仕込まれたというのも驚きでした。

節さんの演奏を知る人によれば、みどりのほうが完成度は高いけれど演奏は小さいと感じるんだそうで、どんな演奏だったか聴きたくてウズウズするようです。

学生時代は歌謡曲を弾くアルバイトをして、クラシックの訓練だけでは得られない貴重な体験を積んだり、そうかと思えばヴァイオリンから離れて、家出をして、水商売で働いて周りをハラハラさせてみたりと、やることがとにかく奔放で規格外で、まるでデュ・プレやアルゲリッチみたいな、天才特有の匂いを感じます。

それでも、周囲(家族?)の鉄壁の反対は如何ともしがたいものがあり、ついにはプロへの道はあきらめざるを得なかったようで、ご本人はもとより、その演奏によって深い感銘にいざなわれたかもしれない我々にしてみれば、ただ残念というほかありません。

それでも、人間って本質は変わるものではなく、こうと決めたらやり遂げる人だから、英語もできず、多いとはいえない貯金を一切合切もって、10歳のみどりをつれてニューヨークに渡るというような、芝居で言えば「第2幕」といえるような突飛な行動にも繋がったのは間違いなく、このあたりがなにかと常識やリスクに照らし合わせる凡人とは違うところでしょう。

音楽に限らず、芸術/芸術家と名のつく世界には、いわゆる凡人の立ち入る場所はありません。
凡庸な常識の世界ではなく、才能と努力(そして努力を惜しまない才能)、毒と狂気と、突風の吹き荒れる崖っぷちをさまようような苦悩の世界。
そこは、天才という名の常軌を逸した超人だけが棲むべき世界で、そこから紡ぎだされる美の世界を我々凡人は、その美のしずくのおこぼれを得ようと、口を開けて待っているようなものかもしれません。

それにしても関西はヴァイオリニストをよく排出するエリアですね。

五嶋みどりだけでなく、辻久子、神尾真由子、木嶋真優の各氏など、関西はパッと思いつくだけでも大物ヴァイオリニストが何人もいらっしゃいますが、土壌的気質的な何かと関連があるのかもしれません。
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バラエティー

民放TV番組で、以前から何度か目撃したことがありますが、ピアノ経験者の芸能人がスタジオでピアノを弾いてバトルをするという趣向のバラエティーが、季節モノとして定着化しているようですね。

『土曜プレミアム TEPPEN 2020秋 ピアノ絶対女王…』という、すごいタイトルでした。
「TEPPEN」「ピアノ絶対女王」というのが、なにを意味するものかは知らないけれど、つい違和感を感じます。

むろんあれは音楽番組ではなく、ピアノが弾ける芸能人を集めて競わせて順位をつける娯楽番組で、くだらない俳句をどうこう言うようなものと同様で、もとより真面目に視るようなものではないとは思っていますけど。

それは重々わかっていても、ピアノはピアノであり、演奏であり、音楽であるものを「ミス何回で失格」というようなことを堂々とやられると、視聴者の中にも「ピアノはミスなく弾くことが一番大事で、ミスしない人がうまい人!」という認識がTVの強い影響力によって植え付けられ、いつしか本来のコンサートにおいても、同じような尺度で見られてしまうとしたら、一種の危険性を感じてしまいます。

普通のピアノ教師のような人でも、世界的なピアニストのコンサートに行ってさえ、全体の演奏の感想等に触れることのないまま、どこそこでミスしたとか、あそこで音が飛んだとかのアラ探しに熱中あそばし、そういうことを「専門家は気が付きますよ」とか「あの人はさすが、一度もミスをしなかった!」などと自慢気に仰る向きがありますが、これほど恥ずかしい「木を見て森を見ず」式のやりきれないものもありません。
もちろんミスはあるよりないほうがいいけれど、演奏を通じて何をどのように表現したか、美しく感動的に伝えたかということが語られることは、悲しいほど少なかったりします。

まして、TVのゴールデンタイムに、あんなにあからさまにミスの数をカウントして優劣を判じるような番組があるのは、個人的には文化への認識をどんどん押し下げるようなものとしか思えないし、だったら、もっとバカバカしいお笑い番組でもやったほうがどれほどマシかと思います。
しかし、今どきはお笑いであれ芸事であれ、なにかに徹するのではなく、遊びと修練と実力を合体させた半エリート芸のようなものが流行りなのかも。出演者もMC、キャスター、俳優、芸人、なにかの専門家など、すべてがごちゃ混ぜのバラエティーでなくては視聴率がとれないのかもしれません。

日本は何事も先例主義で、ばかばかしい規制だらけ。素晴らしい先進的なものでも認可できない臆病な体質がある反面、文化のような基準のないものに関してはまさに無法地帯、破壊することに何の規制も躊躇もありませんね。


というわけで、マロニエ君はむろん毎回見ることは断じてないし、今回はたまたま目に止まっただけですが、どういうわけかはじめは電子ピアノで演奏、続くフリータイム(だったかな?)というのになると本物のピアノが使われます。

それがまた変わっていて、本物のピアノも前屋根だけを開け、大屋根は閉めた状態という不思議なスタイルでした。
使われるピアノはやはりゴールデンタイムの娯楽番組ということで視聴者への影響力があるのか、メーカー同士の摩擦があるのか、そのあたりの裏事情など知るはずもないけれど、普通、鍵盤蓋にあるべきメーカーロゴは完全に消された無印ピアノでした。

しかも、ボディ全体は1980年代までのスタインウェイのように、つや消し塗装されたコンサートグランドだったことがこの場合いっそう不思議でした。
大屋根を開けるのがピアノの一般的なスタイルであるのに閉めたままで、手元で必ず見えるメーカーロゴを消し、とくに日本製のピアノを馴染みのないつや消し塗装にしてしまうというのは、まるで謎の装甲車のようでした。

でも、そうまでしても、細部の形状等からヤマハのCFIIIもしくはCFIIISであることは明らかでした。
ということは、他メーカーへの配慮、あるいは民放テレビお得意の「自主規制」だったのか、真相はわかりませんが、背後に複雑な事情のあることだけは透けて見えるようでした。

音について。
スマホの画面みたいに、やたらピカピカした音をふりまく近ごろの新世代ピアノとは違い、旧型のCFシリーズが今よりもずっと厚みのある落ち着いた音だったのは印象的でした。
さらに大屋根を開けていないこと、音がまろやかになるといわれるつや消し塗装という条件なども重なっていたのかもしれませんが、ひさびさにピアノらしい音を聴けた感じはありました。
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