アメリカナイズ

五嶋節さんの本から、話を続けます。

アメリカの音楽学校といえば、真っ先に思い浮かぶのはニューヨークのジュリアードで、同校のヴァイオリン教師といえば、だれでもその名を知っている名伯楽だったドロシー・ディレイ。

パールマンを筆頭に、ヴァイオリンをアメリカで勉強した著名演奏家で、この人の息のかかっていない人はいないのでは?と思えるほどの大きな存在。

ディレイ女史はその知名度にくらべて、とても穏やかな優しい方で、節さんはこの方を尊敬し頼りにしていたようですが、その指導法というのは、一切、命令をしたり人前で叱責したりということがないとのこと。
そればかりか、何でもYESかNOで片付けてしまうアメリカと思いきや、むしろ日本人教師が足元にも及ばないほどの間接表現だそうで、なにひとつ直接的な言葉を使わず、すべては行間を汲み取り、生徒はディレイ先生がなにを言おうとしているのかを、耳を澄ませ、行間を読み、考えなくてはいけないのだとか。

それはともかく、パールマンとかみどりとか、一部の例外を除けば、マロニエ君は概ねディレイ先生が育てたという演奏家というのはあまり好みではありません。
これといってクセも欠点もない、ほどほどにまとまって上手いんだけれども凡庸な演奏で、突出した魅力や芸術性を感じるものではないからです。
とくに感じるのは、演奏に狂気や冒険がないことでしょうか?
かといって清潔一途な演奏というのとも、どこか違うような…。

それが垣間見えたのでは、ディレイ先生による「レッスン診断書のチェック項目」というのがあり、音、リズム、運指法、暗譜、イントネーション、歴史、総譜の暗譜、曲の構成/性格、強弱法/バランス、ペース配分/アンサンブル、弓の移動、ヴィブラート、指板上の左手の移動、アーティキュレーション、整合、音色の出し方、姿勢、ヴァイオリンのはさみ方、弓の持ち方と腕、左手の位置、頭、表情と息つぎなど。

これにくわえて、たとえば協奏曲ではソロに対する聴衆の集中力を上げるため、あえてワンテンポ遅らせて音を出すとか、化粧/衣装の選びから、ステージマナーまですべてを指導するのだとか。

「生徒の個性を活かしながら決して命令はしない」といいながら、これだけの細かい指示を叩きこまれ、しかもジュリアードには上昇志向の塊のような学生がウジャウジャいるのだそうで、それに応えきれない生徒は容赦なくレッスン頻度が減らされ、本には書いてはなかったけれど最後は見捨てられるのだろうと思います。
だから、みんなジュリアード出身の人はどこか同じ匂いがするんだな…と納得できたような一節でした。

優秀な凡人にはプロになるための養成所であり、ステージ人となるための有益な指導かもしれないけれど、特別な感性や才能あふれる若者にとって最良かどうか、マロニエ君は大いに疑問を感じました。

パールマンやみどりのように、それさえも突破するような天才は何があろうと天才のままかもしれませんが、そこで潰れていく才能も少なくない気がしたし、現に何人かは心当たりがあります。

マロニエ君の思い込みかもしれないけれど、音楽でアメリカ留学経験を経てた人って、ステージマナーからコンサートの作り方まで、アメリカ式の型にはまってしまうような気がします。
やたら笑顔で、形式的で、とくに女性はお辞儀の仕方も先に腰が曲がり、その後に顔が遅れてついてくるようなスタイルで、あれはあまり好きにはなれません。
あまりにもみんな同じような感じなので、あんなことまで手取り足取り教えられるのかと思うと、なにか怖いような気もします。

ちなみに、あのキーシンも少年の頃は、いかにも感受性豊かな天才という感じで、ステージマナーもぎこちなく無愛想で、個人的にはそこも好きだったけれど、カーネギーデビューしたあたりから、突然、貼り付けたような笑みをたたえてキュッと男性的なお辞儀をするようになり、それがどう見てもキーシンの自然からでたものではなく、人から教えられた動作のようにしか見えないのです。
確証はないけれど、あれはアメリカで指導されたものじゃないかと個人的には思っており、いまだにキーシンには似合わない仕草だと思うのですが。
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