音楽をする意味

先日、久々の顔ぶれによるピアノのお客さんがありました。

もう長い付き合いの方々なのですが、まずその中のお一人が弾かれたところ、全体から醸しだされる音や音楽の美しい世界にハッとさせられるものがありました。
別の方も、立派な技術をお持ちにもかかわらず、お子さんのレッスンに触発されてブルグミューラーの25の練習曲を見直し、これを丁寧に弾かれるなど、なにかしら変化が起きているようでした。

おひとりは先生を変わって一からやり直しをされ、音の出し方や体の使い方などをフランスの子供の教本を使ってやっておられる由。
もともときれいなピアノを弾かれる方でしたが、そこに一段と磨きがかかって、一音一音が深く説得力のあるものになっており、演奏の質感も上がっているし、なにより品位が備わっていました。

普通ピアノといえば、楽曲はネタとして用いられ、物理的難易度という面での上を目指すか、名曲アルバム的なベタな曲を目指すのがほとんどすべてといってもいいと思いますが、ごく少数でもこういう人もいるのだということは、ピアノ好きとして嬉しいし感銘を受けました。
音和の少ない、シンプルな曲をいかに美しく、曲の表情やニュアンスをもって弾けるかが大切で、ここをすっ飛ばしてどんなに難しい曲に挑んでも、それでは音楽のふりをした騒音でしかない。
そこのところが、どうしてもわからないのが日本のピアノをやっている人の大半だと感じますし、教育システムを含めた構造全体の問題も大きく、これは半永久的に変わらないでしょうね。

話は飛びますが、昔、キーシンやレーピンが天才少年として来日した1980年台後半、当時東京にいたマロニエ君はせっせと彼らのコンサートに通いつめ、中にはソ連体制派寄りの作曲家であるフレンニコフの協奏曲だけを集めた一夜まであったりで、この天才少年達は今ではもう決して弾かないであろうレパートリーを披露していました。

そんな一連の公演の一環として、ソ連のヴァイオリンの名教師で、ヴァディム・レーピンやマキシム・ヴェンゲーロフを育てたザハール・ブロン氏によるマスタークラスがあって、それにも行きました。
マスタークラスといっても、どこだったか思い出せないような小さな会場だったことしか覚えていません。

そこで3人ぐらいの日本の学生が指導を受けましたが、ただ必死にプロが弾くような難しい曲を格闘するように弾いているだけで、たとえばシベリウスのヴァイオリン協奏曲の第一楽章なんかをもってくるのですが、伝わってくるのはこの日のための猛練習の跡と、この若さでこれだけの曲をやってますよという自慢だけでした。
はじめに通して聴くだけでも相当の時間を要し、間近にいたブロン氏はしだいに所在なさ気に姿勢を変えたり自分の楽器を触ったりしていて、明らかに気持ちが離れているのが伝わりました。

曲が終わると「非常にすばらしい」という賛辞とともに、ひと通りのレッスンが行われましたが、その内容は曲の表情表現の話に終始していたようで、学生にはどこまで伝わったのか甚だ疑問だったし、他の学生も似たりよったりという感じでした。

で、最後に、締めくくりとしてまだ十代前半!の少年ヴェンゲーロフが出てきて演奏しましたが、彼が弾きだすや世界が一変、音は老成しており、曲が波のうねりのように流れだし、その中で音符はまさに生きて呼吸しているという「根本」にあるものの違いを痛感しました。
ひたすら音符を練習で、毎日何時間も追いかけているだけではこうはいきません。

後日、日本での印象など、ブロン氏へのインタビューが音楽雑誌に載りましたが、そこで記憶にあるのは「日本人はレッスンにもってくる曲が難しすぎる」「もっとシンプルで簡単なものでないと自分の伝えたいことは伝わらない」「その上でいろいろな曲に挑戦すべき」というような意味のことが語られており、大いに膝を打ったことだけは鮮明に覚えています。
音楽に対する心構えやセンス、芸術的な環境なしに、どれだけ技巧的なものが弾けても、ボタンの掛け違えのようなことになり、決して良い演奏はできないというのをやんわりと仰りたかったのだと思います。

その点で、先日の来宅された方は「易しい曲に立ち返って勉強し直す」という、マロニエ君としては日ごろ最も大切だと思っていることを実践されているということで、驚きとともに、なんと素晴らしいことかと思いました。
数曲弾かれましたが、まちがいなく、はっきりとその効果が上がっていました。

聴くだけでも苦痛になるような無神経でダサい弾き方で、さらに難曲大曲になれば苦痛もやるせなさも倍増し、「早く終わって欲しい」としか思わないのが正直なところ。
大事なことはブルグミューラーでもギロックでもいいから、その曲に全身が包まれ、あーもう一度聴きたい!と思わせるような演奏を目指すことだと思います。
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