広瀬悦子

少し前のことですが、広瀬悦子さんのCDを初めて買いました。
曲目はリャプノフの『超絶技巧練習曲』(全12曲)。

超絶技巧練習曲といえば誰もが思い浮かべるのはリストですが、最近知ったところでは、リストはもともとこれをすべての調性で書くつもりであったものの、結果的にはそれは果たせず半分の12曲で終わったのだとか。

すべての調性で書かれた作品としては、バッハの平均律、ショパンやショスタコーヴィチの24の前奏曲等がよく知られますが、平均律はハ長調/ハ短調、嬰ハ長調/嬰ハ短調と順次上がっていくのに対し、24の前奏曲はハ長調/イ短調という平行調、そして5度ずつ上がってト長調/ホ短調と進んでいく。
いっぽう、リストの超絶技巧練習曲はハ長調/イ短調という平行調に進むものの、次にくるのはフラットがひとつ増えてヘ長調/ニ短調、さらにフラットふたつの変ロ長調/ト短調という具合に、フラットが増えていく作りになっています。
「なっています」なんて前から知っているみたいに書いていますが、言われてみてたしかにそうなっている!と最近気がついたしだい。

これを引き継ぐかたちで、同じく超絶技巧練習曲を12曲書いたのがロシアのセルゲイ・リャプノフ(1859-1924)。
リャプノフはシャープが6つの嬰ヘ長調/嬰ニ短調から出発し、ひとつずつ減っていき、最後にト長調/ホ短調に行き着くというもの。

このリャプノフの超絶技巧練習曲じたいが初めて聴くものでしたが、一曲々々が聴き応えのある重量級の難曲で、むろん楽譜は持っていませんが、耳にしただけでも最高難度を要求する曲集であることが察せられます。
ライナーノートによれば、「ピアノ書法と構想の両面でショパンとリストの練習曲集に比肩するクオリティを誇っており、さらに演奏の難易度とヴィルトゥオジティの点では、この二人の先輩作曲家の練習曲集をしのいでいる。」とあり、そうだろうという感じでした。
作風は、繰り返し聴きながら、かつライナーノートを参考にしながら云うと、ロシア5人組、とりわけバラキレフの影響が濃厚で、ドビュッシーやスクリャービンと同時代の作曲家と思うと、革新的な試みや書法で新地を切り開くのではなく、保守的な作風なのかもしれません。

リストを思わせる部分は随所にあるものの、曲としての明快さがいまひとつ掴めず、ロシア的な暗さの中で重々しく唸ったり旋回したりで、リャプノフならではの独創性というのがもうひとつ判然としない印象はありました。

広瀬悦子さんは、これまで特に注目したことはなかったけれど、これだけの曲をなんの不満もなく聴かせて、自分のものにして録音までするというのは、素直に大したものだと感心させられます。
この人は、よく知られた名曲に新たな息吹を吹き込んだり、演奏を通じて聴くものに直接語りかけてくるようなタイプのピアニストではないけれど、これだけのずば抜けた能力があるので、こういう知られざる作品を紹介するのにはうってつけの方だろうと思います。

「パリ高等音楽院を審査員全員一致の首席で卒業」とあるので、フランス系の特徴である譜読みがよほど得意なんだろうと想像しますが、恵まれた長い指、何でも弾きこなせる高度なメカニック、どこか孤独を感じさせるひやっとする雰囲気。
昔、ミヒャエル(マイケル)・ポンティという埋もれた作品を次々に掘り起こしては録音して紹介する達者なピアニストがいましたが、広瀬さんにはぜひともその現代版になっていただきたいような気がします。

ご本人もそういう方向性を自覚しておられるのか、バラキレフ、アルカン、モシェレスなどの作品を多く採り上げておられるようで、埋もれた、もしくは埋もれがちな作品を呼び戻すためにもピアニストの中にはこういう人も必ず必要なのであって、今後の活躍にも期待したくなる気分です。
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大事なことは…

以前にも似たようなことを書いた覚えがあるので、重複するところはご勘弁を。
ピアノ購入者の中にはびこる「グランド信仰」というのは、相当に根強いものがあります(大人の趣味としてこだわりをもってピアノを買われる方は、ここに書く内容には該当しない人達ですが)。

子供にピアノをやらせている親御さん、音大に行った人とか、先生とか、あるいは技術者であるとか、世間的には「専門家」とされる人達の価値観というのは、ピアノの場合、かなりの固定観念に凝り固まった方が多くおいでのように思います。
それは、ピアノといえばグランドであり、グランドこそがピアノといえるもので、アップライトはまがい物でしょせんは妥協の産物。

置き場の問題と予算さえクリアできるなら、グランドにすべきは当然で、音楽性に乏しい有名量産メーカーのものであれ、まずはグランドか否かが重要、グランドはすべてのアップライトに優るという強烈な思い込み。

「グランドでないと真の上達は見込めない」「試験やコンクールに受からない」とまでされ、そういう人達はどんなに素晴らしいアップライトでも眼中にはなく、グランドでありさえすれば安心されるようです。

彼らの言い分はおおよそ決まっています。
先生はじめ内輪の伝聞によって、一秒間にできる連打の数など構造上の違いがある、早い話がグランドで練習しないと上手くならないというもの。
かくいう人達のほとんどはダブルエスケープメントという言葉すらご存知ないし、そういう人達がグランドのアクションでこそ可能なデリケートな音色の変化やタッチコントロールの妙を追求しているかというと…甚だ疑問に感じます。
さらにアップライトで弾けるのはせいぜい中級曲までで、上を目指すならグランドじゃないと無理というのがほとんど常識となっているのも驚きです。

できることなら、グランドで練習したほうが良いという説を否定しようというつもりはないけれど、美音を生み出すタッチや音楽性には無関心で、ただグランドでガンガン練習さえすれば良い結果が得られるという短絡的な理屈はいかがなものか。
せいぜい言えるのは、たとえばワルトシュタインの冒頭和音のこまやかな連打が、グランドのほうが楽にできるという程度の差でしかなく、弾ける人が弾けば、ショパンのエチュードだって、バラキレフのイスラメイだって、アップライトでも弾けますよ。

あるいは発表会であれコンクールであれ、ホールにあるのは、大抵有名メーカーのフルコンだったりするので、日頃からグランドで練習していないと本番で弾けなくなる!などとまことしやかに言われますが、それをいうならステージ上のコンサートグランドというのは、鍵盤からハンマーまでの長さも違うし、音色、音の出方、ホールの響き方、タッチ、音の放出感やバランスの取り方など、ことごとく違うわけで、それをたかだか家庭用の小型グランドを自宅に備えたからといって、解決するものとも思えないんですけどね。

グランドで育った人とアップライトで育った人とでは、音の出し方がまるで違う!などと尤もらしく言われたりしますが、マロニエ君はまったくそのようには思いません。
それはグランドかアップライトかの差ではなく、音楽的な演奏を目指しているか、美しい音の出せるような鍛錬をしているかどうか、タッチコントロールの必要性を教えてくれる教師か否かの問題のほうがはるかに大きいと思います。

それどころか、だいたいグランドさえ買っておけば安心するような親御さんの子に限って、音色に対する配慮どころか、音量バランスもへったくれもないまま、ただ単調で機械的に、そしてところどころに悪趣味な抑揚をつけて難しい曲を早く弾いたりするだけというのはご存じの方も多いでしょう。わざわざベンツで子供を学校や塾に送り迎えするのと同じとはいいませんが、大事なポイントがいささかズレているようにしか思えません。

思うに最も大事なのは、はっきり言えば価値観や教養など周囲の環境、音楽に対する愛情、美に対する感性、好ましい先生(これが絶滅危惧種並ですが)の指導などであって、それらがバランスよく統合されて育っていれば練習台がアップライトでも云うほどのハンデイがあるとは思いません。
どのみちピアノは持ち歩きはできず、そこにあるさまざまなピアノで弾かざるをえないもの。

昔のロシアのピアニストはところどころ音の出ないような、ピアノとも言えないようなガラクタで練習していたのだし、ダン・タイ・ソンやラファウ・ブレハッチは幼年期からずっとアップライトで育ったそうですが、にもかかわらず両人ともショパン・コンクールの優勝者です。

ちなみに、なにかの本で読んだところではパリの人達は、学習者はもちろん、本物のコンサートピアニストでさえ自宅(大抵はアパルトマン?)ではほとんどがアップライトだそうです。それでも海外からこぞって音楽留学してくるだけの高度な芸術性と演奏家のレベルを維持しているというこの事実ひとつとっても、やみくもにグランドが必要ということは裏付けられているとは思えません。
もちろん買える方は買われたらいいのだけれど、「グランドじゃなきゃダメ!」的な発想は、そこが正にダメだと思うのです。
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アップライトの防音

この数年というもの、マロニエ君がピアノを弾くのは、大半は自室のアップライトになってしまいました。
なぜそうなのか上手く説明はできないけれど、たぶんそのほうが環境その他で気持ちが落ち着くからでしょう。

自分のピアノのことを書くのはあまり気が進まないので、これまでほとんど触れたことはありませんでしたが、昨年、気に入っていたシュベスターを人にお譲りすることになり、ベヒシュタインのMillenium 116Kというやや背の低いアップライトに買い換えました。

このピアノ、その小さめの体軀に似合わず音が凛として、とても良く鳴ります。
「ピアノはグランドが絶対!」と思っているような人に、一石を投じるような意味でもぜひ触れてみて欲しいようなアップライトです。

さて、自室でコソコソ弾くピアノというのは、元気よく鳴ればいいというものでもなく、音量というよりはしっとり美しい音で練習を彩ってほしいものです。
部屋の窓などが防音をしていないこともあり、周囲への音漏れは気になるところなので、そこで思いついたのが自分でできる防音対策で、あれこれ試してみました。

アップライトというのは、大抵の場合、部屋の壁に寄せて置くのが普通ですが、かといってべったり壁にくっつけるわけにもいかないので、我家の場合は壁とピアノの間隔は約7cmほどにしています。

さて、一般にグランドピアノは音が大きく、アップライトはそれよりはずっと控えめと思っておいでの方もいらっしゃるようですが、具体的に音量計で計測したわけではありませんが、実はアップライトも相当の音量があり、グランドに比べて格段に静かとは思いませんし、仮に近隣のご迷惑を考えたら、そこにグランドだアップライトだということより、建物内のどこにピアノがあるかのほうがよほど問題だろうと思います。
そうかといってサイレントシステムなどは絶対に付けたくなく、実は一台サイレント付きのピアノもあるのですが、あれなら弾かなくていいとなってしまいます。

アップライトで最も音が出るのはどこかというと響板がむき出しになっている背面だろうと思います。
ならば、その背面に布地を垂らしてみようと思い立ちました。

まず試してみたのは、綿の粗い生地のテーブルクロス。
これを前屋根(上部の蓋の部分)にひっかけて、そのまま背後へだらんと垂らすというものでしたが、これが意外にも効果があり、あきらかに音が全体にひとまわり静かになりました。

布切れ1枚で、こんなに違いがあるとは思いもしなかったので、これはまず驚きでした。
ならばというわけで、もっと効果のありそうな布はないかとネットで調べた結果、防災用品専門の店に「完全遮光防炎防音遮音暗幕」というのがあり、遮音効果もかなりあって効果的というふれこみだったことと、布幅がいい具合にこちらが必要としているものとほぼ一致していたので、これを注文しました。

届いたのは、布というより「コーヒーをこぼしてもサッとひと拭き」みたいな人工的な素材で、裏には薄くゴムのコーティングのようなものがされており、繊維というより通気性などないシートという感じで重量もそれなりでした。
さっそく前回同様、先端を前屋根の中に差し入れて、残りはうしろに垂らすスタイルで使ってみます。

すると、まあたしかに音はそれなりに小さくなったけれど、遮音効果がある専用品を謳うわりには、前回の綿のテーブルクロスに比べてそれほどでもなく(つまり大差なく)まずこの点で大いにがっかり。

色は黒なので目立たないから見た目もいいから、効果の面では期待ほどはなかったけれどせっかく買ったんだし、しばらくこの状態で使ってみようと思いました。
ところが、それで10分も弾いているとあることに気が付きました。

さほど音量が抑えられたわけでもないのに、音の抜けが悪くなったのか、とりわけ和音などがぐしゃぐしゃした汚い音になりました。
テーブルクロスの時はそんなことはなく、全体の印象はそのまま崩れることなく、バランスよく音がコンパクト化された感じだったのに、この遮音防音シートとやらは、うまく言葉にできませんが、とても気持ちの悪い、早い話が汚い音になりました。
こりゃあダメだと思い、すぐに取り外しました。

その後も、なんか家にあった変なシートのようなものも試したけれど、最初の綿のテーブルクロスが一番よく、もし少し音量を抑えたいという方はぜひお試しを。
背面のどこまで垂らすか、床近くまでか、10cm上げるか20cm上げるかでも音と音量は微妙に変わるので、効果もあるし、楽しいですから、いろいろやってみられるといいかもしれませんよ。
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シュワンダーの真実

あらかた書いて、忘れていた文章がひょっこり出てきました。

今年のはじめ、ヴィンテージピアノの修復家の方にお会いできたので、いろいろとお話を伺いましたが、その中でも長らく完全に勘違いをしていたことがありました。

グランドのアクションについてですが、ウイペンのスプリングにはシングルとダブルがあり、現代のピアノはダブルが主流というのは通説ですね。

シングルのタイプにはそれなりのしっとり感や繊細な表現の可能性があり、バランスよく機能していればこれはこれで好きなのですが、なにぶん調整面の制限があって技術者泣かせのようだし、ハンマー交換などするとその弱点が露わになることも少なくないようです。
それに対して、ダブルスプリングはタッチのある種のデリカシーには乏しかったりすることもあるけれど、個別の調整幅があってキーの戻りなど俊敏性に優れており、機能面では断然こちらのようです。

これについてはマロニエ君もディアパソンを持っていた時代、ハンマー交換後の調整を重ねたもののどうにもうまくいかず、ついにはウイペンをダブルスプリングのタイプに総入替してもらったりと、技術者さんにはずいぶんご苦労をおかけしましたが、おかげでいい経験になりました。

ところで、その名称について。
一般に「シングルスプリングのことをシュワンダー」「ダブルスプリングのことをヘルツ」というのが通称になっており、要するにその名前が即、ウイペンのスプリング形式を表しているという認識でした。

それはマロニエ君のような素人の勝手な思い込みとだけでなく、プロフェッショナルの方もそういう言い方をしばしばされ、一般にはほぼそのように認識されているようです。
試しにネットでそのあたりを検索してみると、技術者のブログなどで、タッチ改善のためにシングルからダブルへとウイペンを交換することを「シュワンダーからヘルツにしました」といったような表現が、複数確認できます。
シュワンダーとヘルツの違いがわかるよう、2つ並べて写真まで添付されていたり。

ところが、この修復家によればそれはまったくの誤りであると、いともあっさり言われました!
シュワンダーとはレンナーとかランガーのように、いわゆるアクションの製造メーカーの名前というにすぎず、シュワンダー→シングルスプリングではないとのこと。
そればかりか、シュワンダーにもダブルスプリングとシングルプリングの両アクションが存在していて、現在もこの方の工房には「シュワンダー製のダブルスプリングのウイペンを搭載したピアノがある」といわれたのには、まさに「ひえ〜!」でした。

また、レンナー・アクションにもシングルスプリング仕様はあったのだそうで、アクションメーカーの名前がスプリング形式の代名詞となるのは、まったくの間違いであるとのこと。
で、ヨーロッパではダブルスプリングのことを「スタインウェイ式」、シングルを「エラール式」と呼んでこれらを区別しているとか。

では、そのスタインウェイ式をヘルツ式というようになったのはなぜなのか?
そこも質問しましたが「それはわからない」とのことで、ネットでも見てみましたが、ヘルツは周波数のことばかりでピアノに関することはついには見つけ出すことができませんでした。
ただ「スタインウェイ式」というからには、昔のスタインウェイ社の誰かが考案したものなんでしょうね。

戦前のベヒシュタインでもダブルスプリング式のピアノがあったそうですが、スタインウェイとの特許かなにかの争いで負けたたため、やむなくシングルに戻ったというような話もありました。
もちろん現代のベヒシュタインはダブルスプリングであるのはいうまでもありませんが、そこに至るにはいろいろな事情や変遷、そして事実誤認があるということですね。

ちなみにシュワンダー(Schwander)は英語読みのようで、フランスではシュヴァンデルというようで、井上さつき著の『ピアノの近代史』(中央公論新社)の中にも、「アルザス出身のジャン・シュヴァンデルはやはりアルザス出身のジョゼフ・エルビュルジュと組み、数々の改良を行い、国際的なアクションメーカーとなった」とあり、1913年には1000名の従業員があり年間10万台のアクションを生産、イギリスやドイツに数多く輸出され、シュヴァンデルのアクションを使っていることはピアノ販売の重要なセールスポイントとなったとも述べられています。

というわけで、今後、シュワンダー/ヘルツという表現は、アクション機構、スプリング形式を示すものではないという認識が必要なようです。
そうかといって、「スタインウェイ式」「エラール式」では日本では違和感もあるでしょうから、せめてダブルスプリング/シングルスプリングというのがいいのかもしれません。
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歪んだ自己顕示

つい最近、フルートマニアの友人から聞いたこと。

彼はさほどの演奏もできないのにモダンフルート(古楽器ではない、現代様式の金属のフルート)のコレクターで、ムラマツ、ヘインズ、ハンミッヒ、ルイロットなどいくつもの名器をコレクションしているお馬鹿なのですが、まあその点ではマロニエ君も(コレクションこそできませんが)ほぼ同類であることはかねがね書いてきたとおりです。

さて、フルートのような管楽器や弦楽器は定期的にメンテに出して、調整したり、消耗品の交換をしたり、時に解体修理をしたりと定期的なプロのケアを必要とするようで、楽器と名のつくものはおしなべてそういうものであるようです。

それを請け負う職人さんにも様々な名人・才人・奇人のたぐいが多々おいでのようで、修理のやり方ひとつにも各人各様の流儀と価値観・手法・巧拙があり、どこの誰に頼むかは難しいところのようです。
技術者のセンスや考え方、持ち主との相性や好みなどが幾重にも絡みあい、単純な答えがないあたりもピアノ技術者と同様だなあと思います。
いや、ピアノより楽器が小さく繊細なぶん、技術者の施した仕事の影響を受ける要素も多いのかもしれず、技術者選びはさらに困難を極めるといえるのかもしれません。

ヴィンテージの楽器が得意な人(ピアノと違って、そこには真贋の鑑定やそれに伴う金銭問題も含む由)から、メーカー系の定める基準にそって、マニュアル通りの整備を目指す人まで様々で、よって依頼する楽器によっても使い分けが必要なようです。

驚いたのは、さる名人とされる職人某さんの談によると、修理や調整にはよほどの自信とプライドがあるからか、自分が手がけた楽器(それも名器と言われるもので、そのへんのお稽古用の楽器ではない貴重な銘器!)に、自分が技術者としてその楽器に関わったという証を残すために、どこか所有者には見えないところに自分なりの印を入れるのだそうで、早い話が自分だけにわかる「キズをつける」のだそうで、これには仰天しました。

この方は、これを友人へさも誇らしげに語ったというけれど、マロニエ君は聞いていいてまったくいい気持ちはしませんでしたし、これは職人さんがやってはいけない道義の問題ではないでしょうか?
もし自分がそんなフルートの銘器の所有者で、わずかでもそういう印(キズ)を入れられたと知ったら、マロニエ君はとてもイヤだし容認できないだろうなと思いました。
唯一許されるとすれば、それは製作者のみ。昔のピアノには内部の何処かに墨文字で製作者の署名があったりしましたが、それはオーナーに内緒でキズをつけるというような陰湿なものではなく、堂々と名前や日付が書かれていただけ。

たかだか修理や整備をしたらかといって、所有者に無断で「キズ入れ」とは、どのような理由をつけようとも、他人の価値ある所有物に勝手に自分の印を刻み込むなんぞ、思い上がりも甚だしく、マロニエ君は聞いたそばから憤慨しました。
もし記録として純粋に必要なら写真を撮ってシリアル番号と仕事内容などを記録するなど、別の方法もあろうかと思いますが、楽器本体に消せない印を入れるのは自己顕示も甚だしい行為だと思いました。

骨董の世界などは、本体のお値打ちはもちろん、箱書きや添えられた古文書が示す来歴、時には包んだ布切れなどまでが骨董としての価値を決定することもあるようで、さらに歴史を加える場合には、箱ごと入るさらに大型の箱を作って新たな箱書きをするといったことをするようですが、喩えて言うなら、鑑定家が自分の手を経たからといって貴重な志野茶碗や織部や乾山の作品に、自分だけがわかるキズを入れるようなもので、そんな冒涜的な話は聞いたこともありません。

こういうことを書くとお叱りを受けるかもしれませんが、どんなに名人であっても、楽器の技術者さんは裏方の存在であって、自分を表立って表現する仕事ではありません。
…だからこそ、そういう歪んだ願望を抱く御仁も出てくるのかもしれませんが。

そういう行為には、どこか倒錯的な心理さえ垣間見える気がしてゾッとしてしまいます。

あんがいストラディバリやグァルネリの中を開けたら、そんなものだらけかもしれず、だからああいうオールド楽器の世界って素晴らしさとオカルトやホラーが背中合わせなのかもしれません。
人の悪意や怨念が渦巻いたとき、音に魔力が加わるものなのか?!?
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GoToなんたら

巷ではGoToキャンペーンだのGoToイートだのでかなり話題ですね。

でも…、ある知人が先日関東からやってきたのですが、その行動にはいささかの疑問も。
結論からいうと、日程、行動、店選び、要するにその行動の大半がこの手の「特典」をゲットすることが中心…といって悪いなら優先のようになり、まわりはそのために動かざるを得なかったのです。

もちろん、目の前にある特典はゲットしたい、使いたい、無駄にならないようにしたいという気持ちは大いにわかります。
それでもやっぱり思ったことは、そこにも自ずと節度というのはあるわけで、それ中心に行動するというのには違和感がありました。
ホテルにチェックインするといくら分かのチケット(かなにか)貰えるけど、地元で2日間しか使えない。
あるいは、食事をしようとGoToイートを使うにも事前予約が必要で、しかも対象店はかなり限られて、マロニエ君は店選びには関与しなかったけれど、聞くところによると多くは居酒屋のようなところだったりで、単なる食事では選ぶだけでも一苦労。

また店があるエリアは、繁華街のど真ん中で公共交通機関ならともかく、車族にはアクセスも悪く、空き駐車場を探しまわる心配もある。
おまけに食事の開始時間も、病院食よりも早い時刻のコース料理しかなかったなど、なんだか全部がもうバラバラで、なんのために何をしているんだろう?という印象でした。
駐車場も混みあうエリアなので、置けるかどうかの心配もあった(幸い苦労せず置けましたが)、GoToパーキングはないのだから、駐車料金はコース料理が終わるまでバッチリかかってくると、トータルで何がお得なのかもよくわからない。

更には、地元でポイントだかキャッシュバックだかしらないけれど、それを使うためだけのためにお店に行って「使う」ことが条件らしく、それを中心にした行動でした。
ポイントを最後の一滴残さず使い果たすとなれば、それなりのがんばりも要る。

コロナ禍が産み落とした経済活性化のためのシステムであることはわかるけれど、なんだか人間の内側に潜むガツガツした浅ましさが一気に吹き出物のように出てくるような感じで、コロナももちろん困るけど、全体として、ますます変な世の中になったもんだと思いました。
そこには人間が持っている浅ましさと、システムを利用し尽くすというゲーム的な感覚がないまぜになった、独特な闘志みたいなものがありました。
すべてを網羅的に使い切ることが、まるで頭脳明晰な勝者ででもあるかのように。

もちろん、そうはいっても、かくいうマロニエ君だって、自分がその恩恵に与る立場に立てば、できるだけ利用したいとはむろん思うとは思います。
でも、そのために周りの人の都合や流れもなにも、すべてがこれが優先事項になるというのは、べつにきれい事をいうつもりはないけれど、どこかヘンな気もしました。

逆にマロニエ君が東京などに行って、知人が集まって会ってくれるとなったら、もちろん使えるものは使うけど、とてもそのGoToだなんだを使い切ることをメインにして、予定の大半を組み立てるような度胸は幸か不幸か持ち合わせていませんね。

繰り返しますが、マロニエ君とて目の前にあって、すんなり使えるなら使いたいとは思います。
できることなら使える店であってほしいとも願うでしょう。
でも、そのために他者をあっちだこっちだと振り回すなら、適当なところで切り捨てると思います。

尤も、今の若い世代の人達だったら、驚くにも当たらないようなことなのかもしれませんが、それは全員が若くて、それそのものを楽しむ場でないとサマにならないというか、いい年してそんなことに血道を上げるのは、やっぱり個人的にはいただけません。

「あーあ、損したけど、ま、いいや!」ぐらいの緩さのある人がいいですね。
それにしても、コロナは収まるどころかヨーロッパでは再び猛威を振るい出し、東京や北海道でも心配な数字が発表されているようで、この冬、どんなことになっていくのか、まだまだ明るい気持ちにはなれないようです。
アメリカの大統領選挙ももう目の前ですね。
どんな世の中になるのやら…。
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