清水和音

クラシック倶楽部で清水和音さんのピアノが放映されました。
今年の9月、NHKホールで収録されたものらしく、おそらく無観客で収録されたもののように感じました。

曲目はシューマン/子供の情景、ショパン/バラード第4番、リスト/ペトラルカのソネット第1曲、ベートーヴェン/ソナタ第30番。

非常に上手い人だけど、昔からマロニエ君にとっては好みのタイプではなく、その演奏を聴くのは実に久しぶりでしたが、良くも悪くもこの人らしい健在ぶりを確認できるものでした。
和音さんの演奏を視聴するたびに呆れるのは、その手の動き。
世界中さがしても、彼ほど指の動きが必要最小限で事足りて、本当にこれで弾けるのか?というようなわずかな動きしかないのは呆れるばかりで、ビジュアルとしてはまったく見ごたえがない(逆にあるけれど)ばかり。にもかかわらずあれだけ充実した響きが出せるのは、よほど手の重みや筋肉が特別のものなのか、格別な奏法なのかそのあたりは謎ですね。

最近の若いピアニストたちが、今どきのお手軽なイケメンみたいに、軽くて薄めの音で、さらさらとなんでも弾きこなすのを聞いていると、まるで大手のインテリアチェーン店の商品を見ているようで、なんとも言い難いような気分になるばかりですが、和音さんのピアノはそれとはまったく逆の、良い意味で昔風の分厚い上質なカーペットのようで、この点は旧世代の重みを感じます。

最新の新しいピアノでも、あれだけ厚みのある美しい音を引き出せるのは素直に大したものだと思うし、近ごろはなにかにつけコストダウンされた楽器のせいにしていた事も多かったけれど、とはいえ、やはり弾き手・弾き方によってかなり変わってくる面も大きいということもわかりました。
さらに付け加えると、和音さんの音は柔らかで美しく、それでいていざとなればパワーもあれば明晰でもあるのに、いかなる場合も決してピアノを叫ばせないのは大したものだと思うし、この点は立派だと思いました。

ピアノを弾く技術に関しては、この人には天から授かったものが備わっているように思います。

さて、ここからは少々不満ですが、それだけの素晴らしい技術的な資質を備えていながら、聴いていてちっとも楽しくない点も清水和音さんって、相変わらずだと思いました。
とくにそれを痛切に感じたのは子供の情景で、美しい絵本か詩集のようなこの曲集を、ただ次から次へと楽譜の棒読みのように工夫なく演奏されてしまうのはやりきれなさがあり、ただシューマンのピアノ曲のひとつを自分流に弾いて通り過ぎただけという印象。

その点では、以降の3曲は高度な技巧を要する曲で、中でもショパンのバラード4番は、あれだけの演奏至難な曲を、なんら困難も破綻も感じさせないまま、当たり前のように弾けてしまうのは、それはそれで聴くに値するものでした。とくに後半部分もさあ難所が来たぞという構えもなく、整然と見事に終結してしまうところはさすがというほかありません。
まさにプロの演奏としての商品価値があるといった趣ですが、しかし音楽には必須であるはずの即興性とか味わいは個人的にはまったく感じません。
ペトラルカのソネットはもう少し情感が前に出てもいいかと思いますが、そうではないぶん端正な演奏でした。

最後のベートーヴェンは、この曲では叙情的なようでいて、どこか不安定な演奏が多い中、まったくぶれない腰の座った確かさが光り、長い第3楽章が佳境に入っても演奏は一貫して乱れず、お見事というものでした。

ただ、やはりこの人は徹頭徹尾技術の人であるという印象が拭えず、どんな曲でも間違いなく安定して弾いてくれるであろう頼もしさがある反面、曲が内包する高揚とか慰めとか問に対する答え、山場へ向かって迫るといったドラマがなく、どこまでも技術によってまとめ上げられた音楽に聴こえてしまいます。
これが、この人なりの考えの結果かもしれないけれど、聴いていてどうしても心情を託せないもどかしさが常につきまとってきます。
「楽譜にすべてが書いてある」がこの方の口癖で、いかにも尤もなようですがマロニエ君はそれには疑問を感じます。

楽譜にすべてが書いてあるのなら、もはやAIにまかせてもいいことになるでしょうけれど、マロニエ君としてはあくまで作品があり、その上に演奏者の芸術性が介在することで、ようやく音楽は成り立つものだと思いたいのです。
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心地よい音

真夜中3時頃のNHK総合では、映像とBGMだけが流れることあり、ヨーロッパの街並みだったり、ロワールのお城だったり、どこかの美しい景色だったり。
そのなかに映像詩『やまとの季節 七十二候』というのがあって、ゆったりとしたピアノの演奏とともに、リラクゼーション的な映像が流されているのを何度か目にしました。

ときどき演奏シーンが映りますが、ここで使われているピアノはどこにあるもので、どういう経緯でこのピアノなのかは知らないけれど、それは見るからにたいそう古い、外観のデザインも違う古色蒼然たるスタイルの19世紀のものでは?と思うようなスタインウェイでした。

かなり古いことは確かですがが、これがなかなか美しい艶っぽい音なのには「へえ」と思いました。
昔のピアノの音の美しさというのは、言葉でうまく表現できませんが、そもそも根本からして違う感じがあり、過度な洗練を加えられることのない素朴な艶と美しさを感じます。

むろん、古いピアノならなんでも良くて新しいピアノはすべてダメと言うつもりはないし、そもそもマロニエ君に懐古趣味はないことをしっかりお断りした上で、先入観なしに耳に入ってくる音として、美しいものは美しいという、ただそれだけの話。

古いピアノって、周りの空気をふわっと動かすような独特の鳴り方があって、そこに温かみがあってやわらかい。自然で正味のもので、それゆえ気持ちに理屈でなしに入ってくる「何か」をもっているように思います。
何が理由でそうなるのかはわかりませんが、まるで大自然の法則に適っているような心地よさを感じます。

昔のピアノは、木材やフェルトなど天然素材の質、あるいは自然乾燥など手間(すなわち人件費)のかけ方が格段に違うなどと言われているのはいまさらですが、ハンマーなどは消耗すれば交換もされるだろうし、それ以外にもなにか根本的な違いがあるんだろうと思います。

たとえばイメージするのは、熟練の技と勘など、創り手の技や熱意など、今では望み得ないものが詰まっているいるのではないかと思います。
こういうことをいうと、理論家の方は「そんなあやふやで根拠の無いものを良しとするのはナンセンス」、ピアノ作りには客観的に機械が勝るところも多いのも事実で、美化された理想と根性論のようなものだけではいいものはできないと言われる方も実際におられます。
たしかにそれも一理あるでしょうけど、マロニエ君は楽器作りにおいては、すべてがそうとも思えず、良い楽器になるために随所に込められた熟練者の勘や技が積み上がって到達する、摩訶不思議な領域というものは「ある」と思います。

現代のピアノは、上質の天然素材が自由に使えないだけでなく、効率重視によって直接音とは関係のないとされる部分には、人工の、あるいは人工に近いような部材が容赦なく使われているらしく、さらにハイテクによって量産家具のように寸分の狂いなく正確に組み上げられていくので、きれいだけど楽器としては失うものも少なくないはず。
たとえ人の手に委ねる部分があるにしても、それはごく一部の作業員(職人ではなく)の機械的な手作業であって、全体を統括するものはあくまでもハイテク。

あらゆる設計/製造の技術で言えば、昔とは比較するのも愚かしいほど進歩しているけれど、その技術が良いことにだけ使われているかといえばとんでもないことで、大半はコストダウンのためのごまかしなど、使う人のことを置き去りにした効率術にこそバンバン活かされ、表面だけ尤もらしくきれいに整えた製品であるのが大半です。

そんなご時世に、ピアノだけが例外であるわけがない。
一点の曇りもキズもない塗装、無機質なほど完璧に整った大小さまざまなパーツ、機械化によって成し遂げられた均一な組み上げ術、一説によると整音まで機械がやっているそうで、これで宣伝文句だけはやれ無限の表現性だの人の心だ感銘だと美辞麗句が踊っても、そうはならないのが当たり前。

一見きれいなようでも、つまるところは液晶画面のような無機質な音にも、それは出ていますね。
現代のピアノはいかにも音やタッチが揃って、さも尤もらしくしていますが、やっぱり楽器というよりは装置という感じです。
そういう音に慣らされた耳でも、やっぱり本物の音を聞くと、とても懐かしいような、ホッとするような、それでいてとても新鮮な心地になります。
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ラジオ

普段、家でラジオを聞くことはなく、自宅にはその装置さえありません。
べつに特別な理由はないのだけれど、昔からラジオを聞くという習慣が、なぜか身につかなかったからだと思います。

したがって、ラジオを耳にするのは車の中でCDにちょっと飽きたとき、ちょっとスイッチを入れてみるぐらいで、まれに気分を変えてNHK-FMのクラシックは聴くことがある…という程度です。

いつだったか番組名もわからないけれど、夜、なにげなくラジオに切り替えたらミケランジェリの特集のようなものが放送されており、途中から目的地に着くまでの30分ぐらい聴きました。
なぜかマロニエ君は、昔からミケランジェリはとてつもないピアニストだとは思うものの、まるで荘重なフレスコ画でも見ているみたいだし、不気味なほどひんやりした感じがして、好みから云うと進んで聴きたい人ではありませんでした。
一度だけ、実演を聴くチャンスがあったのですが、会場のNHKホールに行くと、妙に閑散としてなんだかあたりの様子がおかしく、入口近くに立てかけられた小さな掲示板に目をやると、今日の演奏会は本人の体調不良でキャンセルになった由の文字が並んでました。

いくら好みのピアニストではないとはいえ、やはりあれほどの世紀のピアニストです。
ついにその生演奏に接するという高ぶる期待で出かけて行ったらキャンセルで、ホールの建物にも入ることなくすごすごと引き返す時のあのやりきれない気持は今もって忘れられません。
当日、NHKのラジオではキャンセルの告知をしていたそうですが、もちろん知らずに会場まで行ったのでした。
表向き体調不良というようなことが書かれていても、ミケランジェリの場合、到底それを鵜呑みにする気にはなれませんでした。
楽器の問題か、あるいは、演奏会をやるような気分にはなれなかったという、そういったことだろうと思ったし、この人の演奏会に足を運ぶ以上、キャンセルのリスクは覚悟すべきだと承知ではあったけれど、いざ自分がその状況に立たされると、やっぱりやるせないような、行き場のない感情がふつふつと湧き上がってきたことも覚えています。

ずいぶん後になって知ったところでは、やはり楽器の問題だったらしいというようなことが音楽雑誌に書かれており、その尋常ならざるこだわりがミケランジェリのピアノ芸術を成立させているわけでもあるけれど、同時に彼ほどのピアニストなら、それなりの素晴らしい楽器と技術者が揃っていたことは疑いようもなく、それでも何かが気に入らずにキャンセルするということに、ある種の凄みと、バカバカしさみたいなものとが、コインの裏表みたいに感じたものです。

冒頭のラジオに話を戻すと、ミケランジェリの演奏で残っている音源にはやけに古いものや放送録音の類など、録音条件がきわめてバラバラで、出自の怪しい、聞くに堪えないようなものも数多くある印象ですが、まれに鮮明で良好な音として捉えられたものもあったりして、このとき流されたチェリビダッケとの共演でベートーヴェンの皇帝の第一楽章は、それはもうゾクッとくるようなものでした。

1969年の北欧での演奏か何かですが、演奏もさることながら、驚いたのはピアノの音。
美しい鐘の音のように鳴り響く低音、中音以上はやわらかで明晰、太字の万年筆のような優美さがあり、後年のスタインウェイのように痩せて肉の薄いキラキラ音で聴かせるものとはまるで異なる世界。
おそらくは戦後のハンブルクスタインウェイの黄金時代の楽器で、そこにさらにミケランジェリのような狂気的なこだわりが加味されると、こういう音になるんだと思いました。

ふと思ったのは、ファツィオリの目指している音ってこういうものじゃないか?…ということ。
ただし、やっぱりこの時代のスタインウェイは、素材も理念も何もかもが首尾一貫しており、本物だけが有する説得力と孤高の世界がありました。
本当にいいものには有無を言わさぬ、何か圧倒的なものがあるということを認めないわけにはいかないものでした。
この演奏から50年余、音楽を演奏する側、聴く側、いずれも本質においては何一つ進歩していない(むしろ後退)というのが率直なところ。

マロニエ君がミケランジェリを苦手とするのは、楽器そのものがもつ音の温かさと不自然なぐらいの美しさ、それに対して陶器のようにひんやり冷たい血の気のない演奏、その2つの要素の温度差があまりに激しくてついていけず、聴いていてしんどくなるからだと思います。
ちなみにポリーニは、とくに絶頂期のそれは専ら男性的なテクニックの濫費に身を委ねていれば満腹できるので、鑑賞の楽しみとしてはずっと楽ですね。
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事実上の終焉かも

前回からの、だらだらした続き。

コロナ禍には関係なく、ホールという空間でのコンサートに、近年に疑問を抱くようになってきたという、これはたんなるマロニエ君個人の印象です。

昔のように巨匠といわれる人やスター級の演奏家が君臨する時代ではなくなり、多少の差はあるとしても全体としてみれば平均化されたピアニストが大半。
訓練法が発達し、合理的に弾くという能力が向上したおかげで、予定されたプログラムをただ予定通りに「普通に、小粒に、コンクール風に」に弾いて済ませることはできるようにはなったけど、その先がない…。
くわえてYouTubeやネット配信などで、音楽や演奏にアクセスする方法もめまぐるしく変わってくると、これまで当たり前と思っていたホールでの演奏会も、質的な変化やなにやらで以前のような意味があるのかどうかさえ疑わしい。

とりわけコンクールで淘汰されてきた人は、難曲でも何でも普通に破綻なくクリアに弾けて当たり前の時代に、わざわざチケットを買ってホールに出掛けて行っても、もはやドキドキ感はなく、コンサートが特別なものではなくなりました。
もう一歩踏み込んでいうなら、今どきのピアニストの演奏は、一期一会の演奏に全身全霊を込めているというより、有名人が本を出版したり各地を講演して回っているような、技能職という色合いが透けて見えるようで、いわば腰の低い通俗人で、芸術家という気がしません。

そもそも、東京などの一部の演奏会を除けば、ほかでは露骨に手抜きの演奏したり、下手な人はやっぱり下手なだけだったりで、いずれにしろ演奏を通じて、何か極められた特別なものに触れることは難しいのです。
そんなものを見て聴くためにわざわざホールに出かけて行っても、喜びや充実とは興奮とは結びつかないものであることは自明で、こうなるのは当然だろうと思います。


昔の巨匠の中には一週間でも10日でも、毎回異なる曲目でリサイタルができるぐらいの膨大なレパートリーがあったとも聞きますが、公開演奏会とは、ほんらい、それぐらいの余力のある人がやるものではないかとも思います。

プログラムに関しては、たとえば半分だけ決めておいて、あとはその時の気分でいろいろ聴かせてくれるようなピアニストと、それが不自然でない規模の会場と雰囲気…、そんなものがあればどんなにいいだろうというようなことを考えたりします。
それもホールのコンサートのように「さあ、聴かせていただきましょう」といった大仰なものでなく、もっとほぐれた雰囲気があればと思うし、音楽って本来そういうものじゃないかと思うようになってきたこの頃です。

そうはいっても、万が一つにも、そういうスタイルが流行ったら、現代の抜け目ないピアニスト達はそれっとばかりにその情報を掴み、陰でシナリオを周到に準備して、それを演技的にやるぐらいのことは朝飯前で、よけいわざとらしくなるだけかもしれませんが。

いずれにしろ、仮にコロナ問題がないとしても、1000人も2000人も入るような巨大ホールで、はるか遠いステージ上の演奏を、左右の方と肩寄せ合って窮屈な体勢で聴いたところで、それがなに?としか思えなくなりました。
現代は何事にもビジネスや利益が絡む社会なのでホール規模のコンサートが当たり前のようになっていますが、やはりあれば本来アメリカのショービジネスのサイズで、クラシック音楽には合致していないように思います。
はるか遠くのステージから、ろくなニュアンスも伝えない残響音の放射で、およそ音楽的とも思えない不明瞭な音を延々2時間も浴びせられるのは、目に合わないメガネをかけて写真や映像を延々と見せられるようなもの。
そもそも残響というのは、主たる音が確固としてあって、脇役でしかないはずのもの。

コンサートの帰り道、なんとも言い難い後味の悪さに苛まれ、ひどい疲れと欲求不満のほうがはるかに大きいのは、実はそうした実際的な苦痛が多々あって、精神と肉体は正直だからだろうと思います。
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カテゴリー: 音楽 | タグ:

演奏環境

最近しきりに思うこと。
それは、クラシックのコンサートというのはオーケストラのような規模は別として、ソロから室内楽ぐらいまでの規模の演奏会をホールでやるということに、漠然とした疑問というか、違和感みたいなものを感じはじめるようになりました。

もしマロニエ君が全て自由にやれるとしたら、どっちにしろクラシックは大勢の人がこぞってやってくるようなジャンルではないのだから、少なくとも器楽の演奏会はホールを抜けだして、19世紀のスタイルに回帰してもいいのではないかと妄想してみたりしています。

ショパンの時代のように、広さはよくわからないけれどもサロンがあって、ピアノがあって、そこを来場者は適当に椅子をおいて、演奏者をゆるやかに取り囲むようにして演奏を聴く、こういうスタイルに憧れます。

できれば椅子も疲れない、肘掛けがあるような少しまともなものがいいし、それを真珠のネックレスみたいにきれいに並べるのではなく、ある程度ランダムに置いて、微調整は各人がやるぐらいの「ゆるさ」があるとどんなにいいかと思います。
人数も、100人からせいぜい200人程度といった数でいいのでは?

マロニエ君が嫌なのは、多くのホールは左右がくっついたシートに押し込められ、他人と肩を寄せ合うようにして着座し、肘掛けさえ一本をさりげなくお隣さんと奪い合うようにして使わざるを得ない、あれ。
おまけに、体中に神経を張り詰め、動きも最小にし、声はおろか咳払いひとつでも遠慮がちにしなくてはならず、暗い周りに対し照明の当たったステージを凝視するのは目が非常に疲れるし、これを事実上2時間つづけるのは、相当の疲労というか、心身ともにストレスまみれになります。

おまけに、肝心の演奏が気にいらなかったり、広すぎる会場と、仕組まれた過度な残響のせいで、音はぼやけて細かいニュアンスなど何も伝わってこない。

それなら、残響などほとんど配慮されていなかった昔の多目的ホールのほうがよほどマシな場合は少なくなく、そんな環境で、テクニックにしか興味のないようなピアニストのドライな演奏を聴かされても、当然のように「音楽の喜び」とは程遠いものになるのは必定です。

ピアニストがこういう演奏になるのにはさまざまな要因があり、テクニックという能力の競争、時代の空気、コンクール中心の価値観、聴衆の質の低下など、色いろあるとは思いますが、そのひとつとしてこのようなホール環境もあるのではないかと思います。

広すぎる空間、高いステージの上で照明を当てられての演奏は、聴衆とのコンタクトというよりは、孤独な晒し者という要因のほうが強く、そんな中で、深い愛情や味わいや芸術性を最優先した演奏など、できなくて当たり前という気がします。
聴衆も大事な点はわからないのに、ミスタッチだけはチェックされるとあっては、無味乾燥な印刷みたいな演奏になるのも、わからなくはありません。

というわけで、もっと小さな会場での親密さのある演奏環境が整えば、弾くほうも聴くほうも、はるかに質の高い幸福なものになるようなきがするのですが、それはマロニエ君の幻想でしょうか?
「いい演奏は聴衆が育てるもの」という言葉がむかしあったけれど、それは今も変わらないと思うし、演奏環境も同じじゃないかと思うこの頃です。
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