イゴール・レヴィット

イゴール・レヴィットというピアニストをご存じですか?

このブログを書くにあたって、ネットでちょっと調べたら、1987年ロシア生まれで、8歳のときにドイツに移住して数々のコンクールに出るなどしながら、今日のキャリアを築いてきた人のようです。

前回「プロのピアニストでも、やたら大曲・難曲好きの人っていますよね。」と書きましたが、まさにそんなひとりという感じを受ける人です。
絶賛の評価もあるようで、マロニエ君個人としてはそのパワフルで逞しいメカニックによる重量級のプログラミングこそがこの人の特徴ではないかと思います。

実は数年前、マロニエ君はこの人のCDをいくつか買ったことがあり、その特徴は例えばバッハのゴルトベルクと、ベートーヴェンのディアベルリ、それにジェフスキの変奏曲とかいう、1曲でも大変な大変奏曲が3曲3枚でセットになっているCDということで、その誇示的な曲目にすっかり乗せられての購入でした。
その後もたしかバッハのパルティータを買った記憶があり、探せばどこかにあるとは思うけど、あまり良く覚えていません。

また見た目もいかにもユダヤ系の人で、ルオーの絵のような濃い顔立ちと真っ黒なヒゲ、ギョロッとした強い眼差しなど、日本人からしたら年齢もわからないような、でもなにかスゴそうで、どんな演奏をする人か興味を掻き立てられたのでした。

しかし、その演奏は、危なげなく弾かれたものではあるけれど、作品を深く掘り下げるというより、弾けるから弾いたという印象がメインで、悪くもないけれど強く惹きつけられることもなく、何度か聴いただけで比較的短い期間で終わりになりました。
何度もくりかえし聴きたい演奏というのは、言葉にするのは難しいけれど、こちらの心がふっと掴まれるような瞬間があるとか、気持ちのある部分を揺さぶってくるようなもの、演奏によってなにかの景色が見てくるようなもの、あるいは刺激的な快さがあるなど、なんでもいいけれどもまた聴きたいと思わせるものがあるかどうかだと思います。

その後、ベートーヴェンの後期の5つのソナタをリリース(これも買ってしまいました!)するなど、この人はCDの選曲にも高級志向で押してくる印象が強くなりました。
聴いた後になにか残るものがないからか、レヴィットへの興味は終わってその存在さえほとんど忘れていたところ、NHKのクラシック倶楽部で彼が登場し、久々にその名前を思い出しました。
2020年のザルツブルク音楽祭に出演しベートーヴェンのピアノ・ソナタの全曲演奏を行ったようで、そこにもやはり彼の高級志向を感じますが、その中からop.110と111が放映されました。

映像でははじめて見たものの、確かなテクニック、メンタル面でも余裕すら感じる自己主張が伝わるもので、とりわけ男性の骨格と筋力が生み出す低音の迫力などはソロの演奏会場で聞けば魅力なのかもしれません。

しかし、その演奏から聞こえてくるものはCDの印象と大差なく、弾く能力にかけてはオリンピックのメダリストのように立派だけれど、それ以上の音楽が語るべき意味とか、演奏者の感興の妙とかが聞こえてくる気がせず、もしかすると、こういうスタイルがこれからの新しい演奏なのか…とも。
ところどころでテクニックにあかして変に遊んでいる(といえば語弊があるだろうけれど)ようなところも垣間見え、音楽ファンなら誰もが耳にこびりつくほど知っていて、しかも高い精神性をもつこれらの曲を、それらしく真摯に鳴り響かせる必要はそれほどない、あるいは流行らないよと言われているようで、あの祝祭大劇場に詰めかけた耳の肥えた聴衆はどう感じたのだろうと思います。

圧倒的な技巧とレパートリーを持って、マシン的にクリアで上手い人というのは世の中には一定数必ずいる(とくに現代は)ものですが、その中での頭一つ出るかどうかの勝負なんでしょうか。なんだって弾けて当たり前、どれだけタフで超人的な能力があるかということが問われるのかもしれません。
まったく、音楽家というより耐久レースの選手のような印象。

多くのコンクールにも出まくって、常に上位にはとどまるけれども、圧倒的な結果は得られない人ってたくさんいるものですが、今は優勝者しても圧倒的な人というのもいないから、しだいに求められるものも変質し、レヴィットのような人が音楽表現の深さより、能力エリートみたいなものでザルツブルク音楽祭のステージにも出演できるのかなぁ?と思ったり。

だいたいバッハのゴルトベルク、ベートーヴェンのディアベルリ、ジェフスキの変奏曲、3曲一組をひとつのCDとしてリリースなんていうのも、あるいはベートーヴェンの後期のソナタをひとまとめに出すなど、もうそれだけで「俺は普通のピアニストトじゃないよ!」と言われているようです。
かくいうマロニエ君もそれに乗せられてCDを3つも買ってしまったクチですけれども。

ちなみにピアノの大屋根は、やはりここでもノーマル以上の角度まで高く開けられており、実際の会場で聴いた経験はありませんが、スピーカーを通して聞こえてくる音は、通常のものより生々しい音の感じがして、あれはなんなのかと思います。
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承認欲求

こんなくだらないブログでも、書くにあたって最も難渋するのはネタ探しであることは、以前もグチったことがあるように記憶しています。
なんでも書きたいことを心のままに書いていいのなら話題にも事欠きませんが、さすがにそういうわけにもいきません。

ネタは大抵、その人が過ごす日々の生活の中にあるもので、そこからどうにか無難なものを拾ってくるわけですが「書くわけにはいかない」ことは、ほとんどはボツになってしまいます。

直感的な比率でいうなら「書けないネタ」のほうが断然多いのは確かで、しかもそっちの方が内容としては遥かに面白いのに、それを捨て去らなくてはいけないのは辛いところです。
おまけにこの一年以上、新型コロナの騒ぎで世の中はすっかり萎んでいるから、素材もより少なくなり、そんな中からネタを探すのは以前よりもずっと難しくなりました。

というわけで、最近のことを少しぼかして書きますと、人間関係でドッと疲れるのはコンプレックスの強い人です。
他人のことに異様に興味を持ち、会話の中に自分のアピールがやたらと差し込まれ、話は空虚な内容の繰り返しだから「またはじまった」というわけです。

本来たのしくあるべき雑談は、話題はなんでも構わないけれど、その場にいる人達が共有して楽しめる内容であるべきですが、そこへ自慢やハッタリの響きが聞こえてくると、内心シラケて疲れてきます。
とりわけ困るのは承認欲求が並外れて強い人。

まわりも大人だから誰も面と向かってツッコミはしないけれど、これをやると、むしろひとり浮いていくだけの逆効果なんですが、悲しいかなご当人はその一番大事なところに気が付かれません。

ピアノにもいろいろありますねぇ。
自分の実力を何段も飛び越えて、自分はそれぐらいの場所にいるんだといわんばかりに難曲大曲に手を付ける人。
いつも取り組んでいる曲といえば「えっ、ウソでしょ!」といいたくなるような、プロ並の御大層な曲ばかり。

難しい曲に魅力ある作品が多いのも事実なので、そんな曲を弾きたいという気持ちはわかるけど、「弾きたい」のと「手をつける」のとでは大違い。それを一切無視して欲求の赴くままゴリゴリと練習するのかなぁ。

でも、当然ながらほとんど弾けていないし、そういう人の演奏ははじめから終わりまで陰惨で、テンポも維持できないから時間も長いし、一刻も早く終わることをひたすら願うのみ。

マロニエ君はいつも思うのは、演奏技術はむろん上手いに越したことはないけれど、大事なことは自分なりに丹精して仕上げたものを演奏に込めること。
手に負えない曲に手を付けると、技術の未熟さがより明確に露呈するだけ。
それでは自分の値打ちを自ら下げているようなもので、人の手垢のついた中古品を買ってでもブランド物を持ちたがるような、なにかたまらない気持ちになるものです。

それもなにも、すべてをひっくるめて「個人の自由」「アマチュアの楽しみ」といってしまえばそれで終わるのだけれど、そんなことをして音楽や自分を貶めることはないのでは?と思ってしまいます。

ちなみにアマチュアでも、音楽が好きで、曲のもつ雰囲気や細部の美しさに敏感で、それをできるだけ表現したいと願っている人も少ないけれどおられて、そういう人の演奏は思い通りには行かなくてもいい瞬間などがあり、その気分だけでも伝わってくるものですが、そういう人は必然的に選曲も自分の技術の限界をわきまえたものになっているのは云うまでもありません。

ま、プロのピアニストでも、やたら大曲・難曲好きの人っていますよね。
普通ならプログラムにメインの一曲として据えるような曲を、わざと何曲も並べて、それをもって注意を引き、自分のレべルの高さを顕示しようとするような人。

しかし、その演奏といえば大抵はただ弾いているだけで、偉大な音楽を聴いたという満足や幸福な後味はひとつもなく、先に述べたような承認欲求にまんまと付き合わされたなぁ…というような疲れだけが残ります。
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演歌

以前、東京芸大に潜入する番組を見たときに、はじめて知ったことがありました。
音楽学部の間では、異性から最も人気のあるのは、楽器別でいうと男性に人気はフルートの女性、女性に人気はチェロをやる男性が圧倒的に人気なんだとか。

チェロはちょうどあのサイズといい、曲線的なカーヴといい、それをうしろから全身で抱きかかえるようにして、ときに愛情深く慈しむように、ときに激しく演奏するのが女性にウケるんだとか。
要するにセクシーだということでしょうし、なるほどねぇ…と思わないでもないけれど、なんだかちょっと生々しい感じを受けたのも事実。

もちろん、音楽はもとより芸術全般に色気やセクシーさは不可欠だけれど、この場合は演奏とか表現性のことではなくて、もっと直截的な響きがあって「ひぇ〜」と思った記憶があります。
あまり良い表現ではないけれど、男性がチェロを無心に弾いている姿はモロにそういう連想をさせるのだと知って、いらいチェロの演奏(とくにソリスト)を目にするとそれを思い出してしまうのは、なんだかおかしいようなウザいようなことを知ってしまったようで困ります。

カザルスやロストロポーヴィチやフルニエには考えもしなかったことですが、ヨーヨー・マになるとあの表情からしてかなり微妙なものが。

さて、いま日本には絶大な人気を誇る男性チェリストの方がおいでのようです。
あえてお名前は申しますまい。

とても上手い方で、音楽作りのあり方もくっきりと明快で切れが良く、それこそエロい力強さもある。
これまでのチェロの穏やかで、どちらかというと後ろに回るイメージからはみ出して、まずなによりメリハリがきいていて表現も大胆でときにくどいほど、とくにソリストとしてこれまでのチェリストにはなかったヴィヴィッドなフォルムを描いて駆け上がってきたという感じ。

デュ・プレのような天才や狂気ではなく、あくまでもこの方の慎ましく誠実そうな人柄の奥にあるらしい男性的なフェロモンみたいなものが、チェロを介して十全に撒き散らしているように思います。
とくにこの方は、温厚で優しげな男性のイメージですが、ひとたびチェロを弾きだすや激しい熱情が露わとなり、そのコントラストも魅力なんでしょうね。

はじめの頃はキリッとした演奏をする、上手い人だなと肯定的に捉えていましたが、正直言うと最近はいささか鼻につく点も感じるように。

これってデジャブというのが適切かどうかわからないけれど、彼のやっていることと人気の根底にあるのは、いつかなにかで見たような気がして、よくよく考えてみると現代的にカタチを変えた演歌だいうこと。

いかにも一途な愛や情熱、嘆きや哀愁をひたすら音楽に注ぎこむ一途な男の姿は、いったんそこに気がつくと、急にお腹いっぱいになるのでした。
ラン・ランがどんなに世界を飛び回っても根底が雑技団的でしか無いように、日本人は観阿弥世阿弥か演歌浪曲のいずれかに行き着きついてしまうものなのか?
行き着くと言うよりは、バックボーンにあるものや遺伝子の問題?
遺伝子にかなったやり方だけら、ごく自然にウケるともいえるのかも。

マロニエ君の知人で、物事を思いもよらない鋭い目線で捉える人がいるのですが、曰く、髭の生やし方でその人の心理的な特徴が表れると力説されたことがありました。
で、きれいに整えられたアゴ髭まではいいけれど、それが上にきて下唇までつなげる人は云々というくだりを思い出しましたが、まさにこの方は控えめではあるけれど下唇までつながるアゴ髭があり、頭髪はサイドは短く刈り込まれているのがやけに生々しく、もちろん眉などお顔のお手入れも相当やっておいでのようで、ご自身のビジュアルのメンテにも相当気を配っておいでということに気が付きました。

テレビ媒体にしばしば登場し、あくまでも主役として派手に激しく演奏し、いったん演奏がおわると、パッとやさしい純朴で謙虚な男性に早変わりになるあたりは、まるで歌舞伎のようで、このあたりがキモなんだと思いました。

松本清張の『黒革の手帖』ではないけれど、「お勉強させていただきます!」と言いたくなります。
ま、どれだけお勉強したって、マロニエ君にはできっこないことですが。
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仕上げる価値

マロニエ君がピアノを弾くのは、いうまでもなく自分の楽しみのためであり、発表会に代表される人前演奏にも一切参加しないので、これといって目標や義務のたぐいも一切なく、もっぱら気持ちの赴くままにピアノに触れているだけです。

むかし、ピアノ弾き合いを目的としたサークルに参加していた頃は、毎月何らかの曲をひとつ仕上げて人前で演奏するというサイクルの中に入ったことで、その数年間は自分なりにそこそこ練習したことを覚えています。
とくに、この手のアマチュアサークルでは、毎月毎回、同じ人が同じ曲を弾くということが常態化しており、これは率直に言って聴く側にとっても倦怠を誘い、いかがなものかという印象があったので、せめて自分は同じ曲は弾かないという目標を定め、マイルールとしました。

そうなると、必然的に練習も必要となり、むかし弾いたことのある曲でも人前で演奏するとなれば、やはりはじめから終わりまで問題を洗い出し、修正と練習を加える必要があるし、新曲ともなるとそれはもう自分なりにかなり追い込まれて練習したものです。

でも、やはり自分には人前演奏は根本的に合わないということを悟るに至って退会、以前ののんべんだらりとした世界に舞い戻ってきたわけです。

それでも、今は、いかに自分個人の自由な楽しみとはいえ、手を付けた以上はある程度は仕上げたいと思うようになり、なんでも遊びで譜面を追い弾き散らすだけではピアノにも、作品にも、そして自分にもマズいだろうと思うようになり、去年あたりからはそれなりに「仕上げる」ということを目標とするよう進歩(?)しました。

で、具体的な曲名はあまり明かしたくはないのだけれど、いい曲やりたい曲はいくらでもある中で、自然に吸い寄せられるように楽譜を広げてしまうのは、ショパンのマズルカです。
ショパンのマズルカは50数曲、短い断片に近いようなものから、数ページにおよぶ大曲まであって、マズルカ以外の有名曲が遥か及ばないような深い芸術性を有するものがいくつも存在します。

これまでにも結構やったつもりですが、ちょっと思いつきで弾くには難しくて避けていたものの、やはりそうもいかなくなったのが有名なop.59の3曲。
ショパンコンクールでも昔からよく弾かれる、マズルカのひとつの頂点とでもいうべき作品で、弾き手のいろいろなものが試される難曲です。

はじめはop.59-1 a-mollだけやってみることにしたのですが、これが聴くと弾くとでは大違いで、譜読みの段階からウンザリして、以前、何度も初見で弾いてみてビビってやめたことを思い出しましたが、今回はそこを乗り越えてみようという気分が珍しく湧きました。
それはいいけれど、表向きa-mollなんていったって、それはごくはじめのうちだけ、あっという間に際限のない転調ワールドに突入、途中で迷子になるがごとく、今自分が何調で弾いているのさえわからなくなるような感覚。
途中も後期作品特有の多声部的な作りになっており、暗譜なんてとても無理だと思うし、本来なら途中で投げ出すところですが、今回ばかりは意地になって続けた結果、まあまあ曲がましく聞こえるようになるまでになりました。

でも、欲というのは出てくるもので、ひとつがそれなりにまとまってくると、その次にあるop.59-2 As-durにも目移りし出しますが、op.59-1に取り組んだ後は少しは弾きやすいような感じがして、しばらくこの2曲をさらっていました。
するとさらに欲が出るのか、長いこと我が耳はop.59のマズルカといえば、ほとんどを3曲続けるのが自然と言わんばかりに聴い込んできているので、ついにop.59-3 fis-mollにも手を出し始める羽目に!

ところが、これがマズルカにしては最長レベルの5ページもある上に、難しさでも一番の難物で、指さえシャッシャと動くならバラードの3番などのほうがよほど弾きやすいような気がしなくもないほど。
その点でいうと英雄ポロネーズなんて、筋力とスタミナさえあればずいぶん単純。

本当なら、マロニエ君のような怠け者はop.59-3なんてまず手を付けないのだけれど、3曲がセットという固定されたイメージがあるものだから、とうとうこれにも突入してしまって頑張っております。
おかしいのは、単独でもマロニエ君レベルにとってはじゅうぶん難しいop.59-2は、1と3に挟まれるかたちで、いつの間にかそれなりに弾けるようになってしまい、たまには必死な練習も無意味じゃないなぁ…と思ったところです。

この3曲が、ササッと弾けるようになればいいなぁ…。
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スマホはあって当然?

ちょっとしたいきさつがあって、昨年12月、車を買い替えました。
これまで乗っていた趣味の車を知人が引き継いでくださることになり、新世代の車(ぜんぜん大したものじゃありませんが)を買いました。

ここで、今どきの世のトレンドというものを車を通じて知らされることに。
この車には、ラジオはかろうじてあるものの、CDプレーヤーもカーナビもなく、カープレイとかいう、自分のスマホを繋いで使ってくださいというもの。

世界のスマホの普及率がどのくらい達したのかしらないけれど、車の購入者なり運転者はスマホを持っていることが前提の作りになっており、ガラケーの人はあっさり切り捨てられています。
海外では日本以上にスマホが普及しているのか、キャッスレス化なども遥かに進んでいるという話も聞くので、菅さんが携帯料金を見直しなどと言っている裏には、もしかしたら通信環境全般で遅れた日本を他の先進国並みにという目論見もあるのかもしれません。

さて、スマホ内の音楽ソースでもって車内に音を出し、ナビゲーションもスマホの地図アプリを繋いで映し出すし、あるときなど停止中電話したら車内のスピーカーから相手の声が出てきておどろくなと、とりあえずまだよくわからないことだらけで、苦手なので試せてもおらず、試そうという意欲も薄く、すべてが後回しに。
こういうことが殊のほか苦手なマロニエ君にとって、こりゃえらいことになったと思いました。

これまで、車の中で聞く音楽は複製したCD-Rを車のプレーヤーにただ突っ込んで聴いていだけだし、家ではCDで聴くのみ、よってスマホの中に音楽は一曲も入っておらず、まずはその音源作りから始める必要に迫られました。

さしあたり、適当に選んだCDを10枚ほど自宅パソコンのiTinesに読み込ませ、それをiPhoneに移し替えることにしたわけですが、今までそんなことやったことがないので、それをどうするかだけでもあれこれ調べて、ヒイヒイいいながらなんとか移し替えはできました。
たったこれだけでも疲れる作業なので、手慣れた方からすればバカみたいに思えるでしょうけど、わからないものはわからないし、知らないものは知らないのだから仕方なく、ぜんぜん楽しくない。
ようやく車に繋いで音出しに成功したと思ったら、はじめに鳴り出したのがゴルトベルク変奏曲。

で、あの有名なアリアが終わり、当然、第一変奏がくると思っていたら、いきなり最後の変奏になり、まずこれで目が点になりました。ベートーヴェンのカルテットなどもいきなり最終楽章から鳴り出すなど、ようするに再生順がおしりからになっているわけで、こんなバカなことはないし、だいいち気持ち悪くて聴いちゃいられませんが、なぜそうなるのか、正しい順番に鳴らすにはどうしたらいいかがまたわからず、先は長そうです。

運転中に不慣れな操作をして事故るわけにもいかないので、赤信号であれこれやってみますが、便利なものって便利になるまではストレス先行で、そこに至るまでのいくつもの波を乗り越えるかどうかが問題ですね。
この手のことが得意な人が見て触れれば、なんでもパパッとたちどころに理解できて、自在に使えていいのかもしれないけれど、だれでもそうとは限らない。
たかだか運転しながら車中で音楽を流す、ただそれだけのことでも大変で、もはや人間は素直な感覚でゆったり生きていくことは許されなくなったんだなぁとしみじみ感じます。

また、スマホとの連結はもちろん、あらゆる操作が中央のタッチパネルに集約されており、エアコンの温度や風量を調整するにも、車両のこまかい設定をするにも、いちいちそのための画面を呼び出してピッピッとやらなくてはなりません。
おまけに音にしろセンサーにしろ安全機能にしろ、なんでもが「設定」ずくめで、身の回りのものがすべてこの「設定」を必要とするのは、自分流にカスタマイズできるという点ではメリットもあるのでしょうが、正直ウンザリもします。

かりに操作になれたとして、じゃあもしこの集中モニターや制御するコンピューターの大元が壊れたらどうなるのか、スマホにしてもありとあらゆる生活のための情報やコンテンツをこれひとつに集中させるのは便利かもしれないけれど、もしこれを落としたり盗まれたりしたらどうなるのか、それを考えるとゾッとします。

よく若い方が「スマホは命より大事!」と空虚な笑いとともに言い放ちますが、命より大事かどうかはともかく、それぐらいこの小さくてズシッと重い機械にすべてが握られ、依存し、支配され、精神的にも頼りきってしまうようにされてしまうのは、概ね間違いないだろうと思います。
幸いなことにマロニエ君は、そこまで依存するほど使いこなすスキルがないことが幸いして、人よりは深みにはハマらず済んでいるのかもしれませんが、それでも外出してスマホを忘れたことに気がつくと、いいしれぬ不安につつまれ、面倒くさくてもできるだけ取りに帰ります。
そうまでして、結果はまったく使わなかったなんてこともあるところをみると、やはり支配されているということでしょうね。
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2021年

あけましておめでとうございます。
昨年は世界中が新型コロナに明け暮れる一年でしたし、それは未だ進行形でもあり、収束の目処も立たないという不安の中で迎える新年となりました。

世の中がそんなふうになると、音楽やピアノに関する話題やこのブログに書きたいようなネタも激減するのはやむなきことで、このブログもいつまで続けられるかわかりません。
少しずつ再開されるコンサートも厳しい制限付きですが、音楽というのは本来ある種ノリの世界なので、そういうことになってくるとますます衰退するのではないかと危惧しています。
とりわけ音楽業界に身を置く人の苦悩は如何ばかりかとお察しします。

意外な現象もあるそうで、さる業界の方から聞いたのですが、ヨーロッパ(とはいっても一部の国かもしれませんが)では、コロナ禍以降、下降気味だったピアノ販売が好調に転じているとか。

これは取りも直さず、ステイホームで家の中の楽しみとしてピアノでも弾こうという事なんだと思いますが、やはりそのあたりがヨーロッパは西洋音楽の発祥の地だけあって、根底にあるものがちがうなぁと思います。
日本人は、どんなにステイホームと言っても、せいぜい大型テレビを買ったり、ふだん作らないような料理をしたりと、過ごし方は様々でしょうけど、少なくともピアノを買って家で弾こうという行動にはつながる人は、極めて少ない気がします。

クラシック音楽にかぎらず、楽器を購入して楽しむということが根本的に文化として身についておらず、わけてもピアノといえば練習だレッスンだと修行のほうが先に来て、その延長の先のほうに一部の人の趣味があるだけ。
生活の中に音楽したり楽器に触れたりということが自然な楽しみとして根を張っていない故だと思います。

それと、生活形態も人々の意識も昔とはずいぶん変わって、多くの人達が、街中の便利のいい機能的なマンションで暮らすのが圧倒的に増えました。
それはいいけれど、同時に世の中の価値観や空気も変容し、俗にいう「不寛容の時代」というものに年々厳しさが増していて、一つの建物のなかに上下左右を別の世帯と壁一枚で仕切られて生活しているための不自由も少なくないようで、なにごともルールづくめとなり、それが行き過ぎた観もあるのか、ずいぶんと窮屈を強いられるようです。

管理する側も、各世帯の自由と幸福を維持するために奮励努力するなんてまっぴらのようで、問題があれば片っ端からルール化し、ルールがあればそれに違反した人には違反者のレッテルを貼り、場合によっては罰するという処置しかしないのがほとんどだとか。

当然、ピアノの音などは糾弾の対象となるものの筆頭で、一人でも迷惑という声が上がったら最後、うるさいと主張する側が守られ優先され、音楽を楽しむ人の権利はまったく顧みられないようです。

これでは、よほど高度な防音対策でもしていない限り、ピアノなど弾けるはずもなく、ピアノ=周囲への遠慮と気遣いというストレスになり「楽しむ」どころではないようです。
よって日本ではピアノを取り巻く環境は年々厳しさを増し、肩身の狭いものになってしまうようで、この流れはなかなか止められないのでしょうね。

尤もピアノひとつが弾けたからといって、コロナの苦しみが解決するわけではありませんけど。

パンデミックや不穏な国際情勢のせいで、世界中が前途多難という印象が拭えませんが、かといって自分だけそこから逃げ出すわけにもいかないので、そんな中でを少しでも楽しくやっていくしかないですね。
2021年がどんな年になるのかわかりませんが、ともかくよろしくお願い致します。
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