続・変化のあれこれ

[スタインウェイの変化]
近年は長年不変だったスタインウェイのディテールの形状などが変更されているのは、以前にも書いた通りです。
とりわけハンブルクではボディサイドの大屋根の留め具がなくなり、突き上げ棒はNY風の華奢な2段階式(以前は3段階式)のものに変わり、譜面台も昔のRX時代のカワイのような、いたって平凡なものになってしまったようです。

さらに気づく方はいあまりおられないのかもしれませんが、マロニエ君としては最もイヤなのは、美しかった足の形状が微妙に変わって、アジア製ピアノのような大味なデザインになってしまったことです。
「ピアノは音が問題で、そんな些細なことは本質とは無関係」とする方のほうが大多数だろうと思いますが、世界の一流品というのは見た目のデザインも極めてのもので、細かな部分も大切だというのがマロニエ君の意見です。
スタインウェイの外観上の魅力のひとつに、ステージ上に置いたときのスレンダーな美しさがあり、そこにはまるでロシアのバレリーナのような足の美しさも寄与していただけに、造形が気になる人にとっては、まさしく改悪であり残念としかいいようがありません。
美術館は内部で作品を見せる建築物だから、競技場はそこでスポーツが問題なくできれば、外観はなんでもいいという人はいないと思いますが、それと同じです。

ニューヨーク・スタインウェイは、詳しいことはわからないけれども最近ではボディは艶出しが多くなり、工程が近代化されたのか、仕上がりじたいはだいぶきれいになった気もします。
またいくつかの映像では、ボデイ内側に、ついにハンブルクと同様の木目の化粧板が貼られる(以前はヘアライン仕上げの黒のままで、ピアノ全体がやや無愛想でしたが)ようになるなど、見た目の華やかさにも配慮し始めたのでしょうか。
ただし、これは一部のピアノだけなのか、標準化されたのか、そこのところは未確認。

先に書いたハンブルクの変化といい、片やこのニューヨークの変化といい、なんとなくこの両者の隔たりを少なくして、その溝を埋めようという試みのようにも思えますが、どうなんでしょう。
ただ、たまたまマロニエ君が見た動画では、新しくゴージャスにもなったニューヨーク・スタインウェイであっても、音は依然として馥郁として柔らかく、むしろ往時のスタインウェイの本質を残しているのはこちらではないか?とさえ思いました。

むかし以上にキッパリ鳴らしている気配のハンブルクに対して、ニューヨークがより本来のピアノの本質を深めていくのだとしたら、それは興味深いことではありますが…なにしろ情報不足で断定的なことはまだ言えません。

[人の変化]
今どきの人の変化でいうと、やはりというべきか、ネット上はかなり荒れ気味な印象を受けます。
マロニエ君にはピアノとクルマの2つのホームページともブログともつかないものがあり、それぞれクラブ入会という項目があって、たまに質問や入会の問い合わせみたいなものをいただきます。

中には、入会希望というのに名前も名乗らず、雑な感じで要件のみ二行ぐらいのものが何かのついでのように書かれていたりで呆気にとられることもあったり。
まあ、今どきはそんなことぐらいでいちいち動じてはいけないのでしょうが、それでも、こういう出方をされるほうが気構えができるだけ、まだマシだったりします。

もっと不快な後味が残るのは、はじめは一定の礼儀と丁寧さをただよわせ、さもちゃんとした人間であるかのようにアピールされているにもかかわらず、多少の説明など書いて返信すると、いきなりそれっきりになったりするパターン。
おそらく、説明内容が先方のニーズに合わなかったというようなことだろうと推察されますが、はじめとは打って変わって、一言の挨拶もないまま無視して終わるというもの。
こちらだって、返信メールをするのにも一定のエネルギーと時間は要するのだから、それが仮に質問者のニーズに合わないものだったとしても、普通だったら何か一言ぐらい返してしかるべきと思うのですが。

このように、善良で誠実ぶった態度と、不誠実なエゴが裏表になっているのは、そのギャップがおおきいぶん不快感も増大します。
この態度のギャップ、おそらくは入会してお付き合いが始まることを想定して、まずはよく思われておきたい、印象を良くしておきたいという自分本位の思惑が働くためで、だから予想と違ったものとわかるや、その瞬間、即ゴミ箱行きというのがありありと見て取れます。

これだから、今どきは出来る限り人付き合い(とくにネット経由の)はしたくありません。
それは偏見でもなんでもなく、ネットというのは、相手の素性もバックボーンもわからないから、その両者をつなぐものはネットの文字だけで、それがいつなんどき、フッと切れるかわからない義理もへったくれもない世界。

さらに、折からのコロナ禍で、人はこれまで以上に他者との関わりが減り、孤独化し、精神的にも風通しが悪くなっているから、この先はもっとおかしな方向へと加速していくことが予測され、よくよく覚悟しておく必要がありそうです。
続きを読む

変化のあれこれ

辻井伸行のピアノ、ヴァレリー・ゲルギエフの指揮で、2012年サンクトペテルグルクで行われた白夜の音楽祭?だったか、そういうものを映像で見ました。
曲はチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番。

すでに8年前の演奏会の様子で、DVDなどにもなっているようですが、マロニエ君は今回初めてそれを見る機会があったわけですが、これがなかなかの熱演で聴き応えがあり、感銘を受けました。

なにより驚いたのは辻井さんのエネルギッシュで頼もしいピアノでした。
いつもの彼は安定したテクニックで美しい演奏はされる反面、もうひとつ迫真性というか、厳しさや踏み込みが足りず、もう一押しあればというところを感じるのですが、このときはロシアの音楽祭で、指揮はゲルギエフ、オーケストラも聴衆もロシア人に囲まれてチャイコフスキーを弾くということになると、格別の気合が入るのでしょうけど、少なくとも最近テレビなどで目にする国内外の演奏会ではここまで集中力を高めたものはそうお目にかかったことがありません。
やはり本場がもつ空気なのか、本気で挑んだものは違うというのがハッキリ出ていたように思いました。

辻井さんは、ここぞというときにガツンとほしいパンチや激しさ、あるいは人の心をいざなうような溜めやデリケートな深い歌いこみががほしいときに、スララと抜けていくところがありますが、そういう物足りなさがこの演奏では殆どなく、終始力強くコッテリ感もあり、コンチェルトのソリストとしてじゅうぶん満足感の得られる演奏を繰り広げていました。
こういう演奏は、いつもできるものではないのでしょうね。

伝統的に、何事も重厚かつロマンティックなロシアで、いつも通りの演奏をしていたのでは充分な喝采は得られないという判断が働いたのか、そのあたりのことはわかりませんが、とにかく立派な演奏でした。

また、非常に意外だったことは、ロシアのサンクトペテルブルクであるにもかかわらず、ステージに置かれたピアノはニューヨーク・スタインウェイで、これがまたなかなかの好印象なピアノでした。
細かいことを言えば完璧ではないのかもしれないけれど、基本が太く良く鳴るピアノで、ひとつひとつの音が研ぎ澄まされ磨きこまれたというものではないけれど、ピアニストの熱気や気迫にダイレクトに反応してくるという点では、実になんともコンサートピアノらしいもので、いつも行儀よくつややかな音を安定供給するハンブルクとは、いささか性格が異なる印象でした。

ピアノというものは、ただ美音で整っていればいいというものではないことを聴くたびに教えてくれるような気がするのが他ならぬニューヨーク・スタインウェイですが、どうも肝心のピアニストと技術者がそこのところを理解せず、リッチで整った音でよく鳴るだけのピアノをステージにあげてしまうのはなんとかならないものかと思うばかり。

マロニエ君はヴァイオリンのことはわからないけれど、一般的な知名度ではストラディヴァリウスであるのに対して、演奏家はより力強く野趣も持ち合わせるグァルネリ・デル・ジェスを好むのも、もしかしたら少し共通する要因なのかなぁとも思ったり。

しなやかさと野趣があり、どこまで責めても破綻せずピアニストより前に出ることなく、底知れぬ感じでついていくニューヨーク・スタインウェイの強靭な魅力は独特で、ヨーロッパや日本でももっと聴ける機会が増えたら良いのに…と思います。

辻井さん、スタインウェイ、それぞれに変化があって久々に楽しめました。
続きを読む

C3+アベル

先日のこと、とある技術者さんがアベルのハンマーを使うなどしてオーバーホールされたC3があり、交換から半年が経過したということで、これを触らせていただくべくお邪魔してきました。

ピアノ自体は50年ほど前のものだそうですが、内外はピカピカに仕上げられているし、多くの消耗品は交換され、どこを覗いてもすこぶるきれいで好ましい感じの佇まいは、むしろ若々しい感じのものでした。

いきなり驚いたのはその鳴りのパワーで、昔のピアノは違うというのはやはり思い込みではない!というのが最初の印象でした。
どこがどう違うのかわからないけれど、材料などが現在のピアノより上級品が使われているのと、製造時の手間のかけ方が違うのでしょう。現代のピアノより明らかに鳴りが太く、器が大きいことに唸りました。
この器というのは実は非常に大切な点で、今のピアノは、一見キレイな音はするけれど、昔ならあり得なかったような先端テクノロジーの力なのか、精密に極限まで鳴らされているぶん「今まさにピークで、この先の伸びしろは期待できそうにないな…」という感じを受けるのですが、そういうものとはまったく違うもの。

さらにハンマーが良品に交換されて丁寧に整音されているため、よくあるY社のものより明らかにふくよかになっている点もハッとさせられます。
ちなみに、ふくよかというのはモコモコ音ではなく、ハキハキはしているけれど、あのよくある針金の入ったようなキツい音ではないのが嬉しいところです。
アベルのハンマーが具体的にどういいのかは、マロニエ君なんぞにはわかりません。
イメージで言うならレンナーのほうが重厚でアベルのほうが少し明るめなのかもしれないけれど、等級もいろいろあるようだし、技術者の整音のやり方によっても変わってくるので、一概にどうとは言えない話です。

ちなみにマロニエ君は、ピアノの個性に合った良質なハンマーであれば、メーカーなどなんでも良いという考えで、ブランドに拘る気持ちはまったくなく、いい感じの音が出るならメーカーなんてなんでもいい派です。

さて、このアベルのハンマーはというと、Y社の純正よりも全体にフェルトの密度が高いのだそうで、そのぶん交換前よりも重くなり、それはタッチの重さにも影響するため、木の部分を削るなどの工夫を凝らされているようでした。
その効果は充分で、弾いている感じは至って軽快、このピアノの潜在力をあますことなく発揮するまでに見事に仕上げられていると思いました。

やはり、技術者の方がご自身の工房で時間をかけて仕上げられたピアノに共通するのは、音の上品さやタッチの素晴らしさです。
軽快なのにしっとりした質感があり、コントロール性にもすぐれたとても素晴らしいものですが、これは良質なタッチに欠かせない消耗品類が交換されていることと、時間制限のある出張修理ではないぶん、納得行くまで何度でも調整を繰り返された努力とこだわりの結晶だからでしょう。

やはりピアノは細かい調整の積み重ねがあってはじめて快適で上質な音や弾き心地となり、それはまさに人の手によってしか到達することはできない領域であることは疑う余地がありません。

というわけでC3としては最上の部類に属するピアノだと思いましたが、ここまで丁寧なメンテを受けたピアノであるからこそ、このピアノの生まれもった個性もより克明になるという一面も感じました。
たとえば、昔から感じていたことですが、Y社のピアノは低音域(とくに巻線部分)に特徴があり、それはこのブランドの全体の品質やクオリティからすれば、相対的に弱い部分ではないかと感じます。
このピアノもこれだけ入念な手が入れられ、弦も新しいものに張り替えられていますが、それでも巻線部分にはそこが残っており、このあたりは少々の部品交換や調整ぐらいではどうにもならないことなんでしょうね。

私見ですが、海外の優秀なピアノとか、国産でも僅かに存在した優れたピアノは、どれも低音域が深く美しく、弾き手を陶然とさせるような魅力があるのですが、Y社の場合は低音になるにしたがい音にキレがなくなり、雑味のある振動でビンビンいう感じ…。
低音域は音楽の土台であり支えともいえる部分でもあるので、きわめて重要な部分だと思うのですが、弦やハンマーも交換され、これだけ惜しみなく手が入れられたピアノであっても、そのあたりはかなり頑固なように見受けられました。

C3は大量生産のピアノなので、あまり細かい要求をしても仕方がないといえばそれまでですが、低音の美しさに関しては(モデル差はあるとしても)K社のほうがまだ優れている気がします。
また、単音はきれいでも、曲となって音数が増えたり、和音になって幾つもの音が同時に鳴る、あるいはフォルテになると、音や響きが暴れ気味となり、まとまりづらくなっていくのを感じます。
一流と評されるピアノでは、そういうシーンになればなるだけ音はむしろ収束していくところがあり、和声の色あいや厚みが増し、全体のフォルムがしっかり浮かび上がるように思うのですが、これはひとつにはY社のピアノの音に透明感がないからかなあ?とも思いました。

音に透明感があれば色のついたフィルムを重ね合わせるように、音同士が絡んだときにさまざまな色や響きを作り出せるものですが、その要素が少ないと、音と音が融和せずに混濁してくるのではないかと思いました。

余談ですが、マロニエ君はこのピアノの鳴りの良さやパワーには素直に感心したのですが、試弾に来られた方の幾人か(特に女性)は、なんと「鳴りがイマイチ」といった方向の感想を漏らされたらしく、これにはもうびっくり仰天で、さすがにその技術者さんも静かな苦笑いのご様子でした。
おそらく、日頃からわめき散らすようなピアノに慣れておいでの方だとしたら、このように上品にまとめられたピアノが「もの足りない」と感じてしまうのかもしれず、人間の慣れとはそういうものか…と思いましたね。

日頃どんな状態の楽器に接しているかというのは、だから大切なんだと思います。
これは「好み」とは似て非なることですね。
続きを読む

1.5%

最近は音楽不況(とりわけクラシックは深刻)のあおりで、昔のようにCDが次から次にリリースされることもなくなり、それもあってか、若いピアニストに関しては、以前に比べてかなり疎くなった気がします。
考えてみれば、マロニエ君が新しいピアニストを知る手段は、☓☓コンクールに優勝などといった情報もあるけれど、その演奏を知るには新しく出てくるCDの中から興味を覚えたものを購入し、それを繰り返し聴いてみるという流れだったようで、気がつくといつのまにやらそういう流れが止まってしまっているようです。

今どきの人は、動画やコンクールの実況配信などを見て、スポーツの応援でもするようにファンになったりするようですが、動画は同じものを何度も見ることはなく、自分の腹に入れるにはCDを買って繰り返し聞かないとわからないものがあります。
さらには、むろん実演でしかわからないものもあるでしょうね。

CDに話を戻すと、今やよほどの大家でもさっぱり売れないのだそうで、とうにビジネスとしては成り立たなくなっているようです。
ネットの普及で、音楽も有難味とか重みを失って、じっくり付き合う対象ではなくなり、ただ消費する対象に格下げになったことが原因だろうと思います。

幼少期からいろいろなことを犠牲にして、ひたすら修業に打ち込んで勉強を続け、コンクールに入賞するなど、それなりのキャリアを積んでも、世間から妥当な評価を受けることも困難で、演奏機会も与えられない若者がたくさんいるのだろうと思うと胸が痛むし、だからもうやってられないと悟ってクラシック音楽の道なんて志す人は激減しているというのも頷けます。

そこに追い打ちをかけるように、ネット上にはユーチューバーという種族がいて、ピアノも例外ではなくまさに玉石混交の世界。
中には本当に上手くて才能もあって、感心するような人も一握りはいるけれど、多くは言葉にするのも憚られるような下品な見世物で、やれチャンネル登録だの再生回数だのを稼ぐために、これでもかという奇抜なアイデアを駆使し、目立ちたい一心でネタとしてピアノを弾くのですから、「今はそういう時代で、こういう新しい方法もある」といえばそれまでですが、敢えて全否定こそしませんが肯定もできません。

誰もが、いとも簡単に世界中に動画や主張を発信できるというテクノロジーは、それ自体は大変なことだけれど、正直言って、そんなものは「なくていい」「ないほうがいい」というのがマロニエ君の結論です。
まともなものの価値がなくなり、花壇は踏み荒らされ、目立つことで再生回数の数字がバロメーターで、それが世の中のうねりになると、もう止めようがない。

しかも、音楽という小さな一分野にかぎらず、政治でも経済でも、それによって世の中が真の恩恵を享受するに至ったかというと、人はより孤独になり、心は荒れ放題というのが実態でしょう。

鑑賞する側にもある程度の成熟が求められるのがクラシックの世界ですが、聴衆だってこんなにいろんな物に囲まれて、不安の中で生きているというのに、クラシック音楽だけはこつこつと旧来の方法で鑑賞眼を高めるなんていう暇もなければ、気分にもなれないでしょう。

ちなみに、最近見たある映画で言っていましたが「世界中のすべての音楽配信の中で、クラシックの占める割合はわずか1.5%で、それも聴衆の高齢化が進んでさらに低下している」んだそうです。はぁぁ。

ネット時代の到来前には、想像もできなかった現実がいま目の前にあるということです。
それでも演奏家の中にはなんとか踏ん張っている人もいるけれど、若いピアニストの中には演技で「天然キャラ」「才能ある人はちょっと違う」というのをアピールしようと、わざと外れたことを言ったり、小さな失言をしてみせたり、生理的に受け付けないような不気味な人もいたりして、見るたびに鳥肌が立ちます。
それに比べれば反田恭平さんや辻井伸行さんは、まだ清々しさがある。

いま音楽を楽しむには、こういうホラー映画のような森だか深海だかをかき分けながら、ようやく数少ないまともなものを探し当てなくてはならないというストレスのかかる作業が必要で、昔のようにある程度セレクトされたものの中から選べばいいということはできなくなったのは疲れますね。

そういう意味では自分が若い頃には、最高(と思える)のものに囲まれていつも感動して過ごすことができたわけで、いい時代に生まれたらしいことをしみじみ痛感するこの頃です。
続きを読む

カテゴリー: 音楽 | タグ:

前回の続き?

Y社のピアノは、大量生産の道具としては、その価格も含めると天下無敵といって差し支えないもの。
楽器の世界に、TOYOTA的な信頼性を持ち込んだ手腕は世界が認めるところのようですが、ただ弾く人がそんなことをいちいち考えているわけでもないでしょう。
まして、自分のピアノを「コスパが一番」などと日頃から割りきっているとも思えず、時間とともに、このメーカーのピアノとさよならする人と、ますますそれ以外のピアノを受け付けなくなってのめり込む人とに分かれていくような気がします。

このメーカーのピアノを製品としてではなく、純粋に楽器としての評価をくだす場合、音質や表現力には疑問を覚えるし、あまりに企業臭・機械臭が強く、ちょっとした違和感を覚えている人は、多くのピアノを知る人ならあるていどいらっしゃるかもしれません。
各モデルや個体差はあっても、Y社のピアノは全般的に音がキツく(人によっては)ものの数分で耳や神経が疲れるし、ピアノと弾き手の間に通い合うものがどうしても希薄な印象です。
変な例えですが、せっかくデートをしていて、表面的にはいかにも上手くいっているのに、ほんのちょっとした気持ちに気がついてくれないとか、ささやかな心情を受け止めてもらえないなど、情の薄い人みたいな気がするのです。

酷使されてもへこたれず、たくましさやパンチはあるけれど、いっぽうでキーに触れて音を出すだけでも喜びを感じるといった喜びとか、楽器への愛情を捧げる対象としては、無機質さが立ちはだかっている。

先に登場されたAさんは、別メーカーのグランドが来てからというもの、Yピアノを弾かなくなられ、たまに弾くと「喧嘩ピアノ」になるという、言い得て妙な名言まで残される始末で、はやくも売却さえ検討中だとか。
一台だけだとなんとか保っていたものが、もう一台別のものが来ることで、その良さも欠点もくっきり浮かび上がるというパターンでしょう。

日ごろから同じメーカーのピアノだけに接していると、ピアノの音とはそういうものと思ってしまい、音色や発音の美しさとはなにか、演奏を左右するニュアンスや感性が大切ということに興味を感じなくなる危険を感じます。
しかも、国内はY社のピアノがあまねく行き渡っているから、どこに行っても本質においては同じタイプのピアノで、違った個性のピアノに触れるチャンスというのはそう多くはありません。

こうなると、別メーカーのピアノを弾いても、人間には慣れというものがあるから、違和感のほうが先に立って良さが理解できなかったり、スタミナ定食よろしくピアノはやっぱりガッツリ弾きごたえがあって、ハデで満腹できるほうがいい〜と感じられる向きは非常に多いと聞きます。
気がついた時には、音に対する敏感さを失い、表面的なテクニックばかりに気を取られてしまうようですが、これは付き合ってきたピアノにも責任の多くがあって、個人を責められないものがあるだろうとも思います。

まるで会社のマニュアルを叩き込まれた接客業の人と会話しているようでもあり、一見快適で頼もしく感じることはあっても、むこうはあくまで仕事対応であって、それで心を通わせたいと願うほうが筋違いみたいなもの。
良いピアノは、音が美しいことや、楽器としての機能はむろんですが、加えてよき友人や伴侶といった感じを与えてくれ(ときには拒絶もされ)、奏者の音楽性を育む要素を持っているかどうか、ただ音を出すだけでも喜びや楽しさがあるか、単なる大声でワイワイ盛り上がるだけでなく、しっとりと心に染み渡るように、あるいは澄んだ音でいかに遠くまで響かせられるかなどが大切だとマロニエ君は考えます。

Y社のピアノに日常的に接する人は、弾く人も、先生も、技術者さんさえも、それ以外を受け付けなくなっている場合が珍しくなく、もはやため息しかでません。
これは、一種の隔離社会のようなもの。

日本人はもともと世界的に見ても、珍しいほど繊細な感受性をもった民族だと思いますが、ピアノの音に関してだけはそれがまるで発揮されていないように思います。
それは無機質な楽器に接しすぎたせいで、聞き分けるべき耳や感性が錆びついてしまっているからだと思います。
おっと、気がついたらアップライトもグランドもないお話になってしまっていました。
続きを読む