裸の王様

コンサートに行ったり(最近はあまり行きませんが)、音楽演奏のビデオ等を視聴していていつも感じることは、奏者は自分の演奏に対する疑念や検証とか鍛え込みが少ないのではないか?ということ。
とりわけ他人の意見や感想に耳を傾けるということ。

これは誤解なきようにいうなら、決して大衆的なニーズに耳を傾けるという意味ではありません。
この点はまず明確にしておきたい。
信頼できる人の意見に耳を傾けることによって、自分の演奏にさらなる彫琢と、熟成と、誤りがあれば軌道修正を加えるという意味においての話です。
真の才能の本質的な部分はいわば人格と同じだから、それが本物なら変わるものではないのだから、他者の意見にも耳を貸して自身の芸術を深めるというのは大切なこと。

もっというなら、客観的な意見とか、厳しい評価といった風雨に晒されないものは、芸術とは呼べないのではないか?とさえ思います。

言うまでもないことですが、いわゆる先生と生徒のような関係でのレッスンということではなく、音楽のわかる人、さらにいうなら音楽だけではない信頼できる審美眼の持ち主の意見を聞いて参考にすること、あるいは意見交換するということは、とりわけプロの演奏家にとっては不可欠なことではないかと思います。
ところが、この不可欠と思えることが、現実に実行されているかというと、これが甚だ疑わしく感じられて仕方がありません。

一般論として、若いころやデビューしたての頃にはとても素晴らしい魅力的な演奏をしていた人が、その後少しずつ好ましい道から外れて、軌道修正されないまま放置状態になる、あるいは僅かな欠点と感じていたことが修正されず、むしろ助長され顕著になっていくことがあるのは、なにより残念でなりません。
プロになりステージに経つようになって、俗にいえばエラくなってしまうと、よほど自分から強く求めないかぎり、意見してくれる人がいなくなるからだろうと思います。
これは裸の王様にも通じることかもしれません。

とりわけ日本人の演奏家は、他者からその演奏についてとやかくいわれる(言葉が適当かどうかわかりませんが)のが、なによりも嫌いだそうで、マロニエ君が最も驚く点もここにあるのです。
なんと了見の狭い甘ったれというべきか、演奏家として、プロとして、芸術家として、あまりに意識の低い、真摯な気構えのないただただ驚きます。
チケット代をとって、プロフェッショナルとしてステージに立って、人前で演奏するという大胆なことをやりながら、批評はされたくないとは、これほど身勝手なことがあるだろうかと思います。
実際の演奏を聴き手がどう感じたか、そこに興味が無いなんて、マロニエ君にいわせればそれだけでステージに立つ資格はないと思うのです。

だから日本人の演奏家はどこか自己満足的で、ただ目立ちたくて、チヤホヤされて賞賛されたいだけの、いいとこ取りだけをする種族としてどこか低く見られるわけです。
もしコンサート終演後に楽屋に訪ねて行って「貴方の解釈には賛同できなかった」等々言おうものなら、当人は引きつって不快感を露わにし、聞く耳など持たないでしょうし、意見したほうはクレーマー扱いでその場からつまみ出されるのがオチでしょう。

ひとつには大半の人達は幼少期から、芸術的な環境に身をおいて育ってきておらず、ごく狭いピアノ一筋で社会性もなく、まして教養など及びもつかない教師から、ひたすら技術的な訓練を受けるだけで育ったからだと思います。

このぬるま湯が最も危険です。
なので、パートナーが一番厳しい評論家というような場合はわりに上手く矯正されていくのかもしれませんが。

例えばですが、むかしの芸術家は仲間内でも絶えずディスカッションしたり、たむろする店があったり、ときには喧嘩したりしながら、互いに厳しい批判を浴びせかけながら切磋琢磨していたようです。
芸術家というのは、ある意味でハングリーで打たれ強くなければ、その道を極めることは極めて困難というか、それが高めていくという現実があると思います。
こういう苛酷さは芸術家にとって最も大切な栄養分であるのに、現代ではそういう意味では、ぽかぽか陽気の無人島に暮らしているようなものかもしれません。
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当たり外れ

3月最後の題名のない音楽会で「小菅優が3大作曲家のピアノソナタを弾く音楽会」というのがありました。

ここでの3大作曲家というのは、モーツァルト、ベートヴェン、ショパンとされており、なにしろ30分番組なので、モーツァルトはKV330の第一楽章、ベートーヴェンはテンペストの第三楽章、ショパンは3番のソナタの第四楽章というものでした。

マロニエ君にとって、小菅優さんは日本人ピアニストの中ではご贔屓のピアニストのひとりで、あくまで作曲家と作品を中心に据えて、ご自身は媒介者としての位置を取りながらいきいきした演奏をされる方だという印象を持っています。
もちろん、「うーん…そうかなぁ?」と疑問を感じることもありますが。

それでもマロニエ君が小菅さんのピアノが好きなのは、とにかく人のマネではない自分の解釈と表現を持っておられ、それを臆することなく演奏に反映されるところです。
また、テレビなどでお見かけする限りでは、お人柄も素敵な方で、ピアノを弾く人によくある臭みがなく、いつも謙虚で、自慢気なことをいわれるようなことは聞いたことがありません。

それに、ご当人がピアノを弾くことがとにかく好きだというのが伝わるし、小さい時から単身ドイツに渡るなどされ、ピアニストに必要な度胸やタフさもあるけれど、それが少しも人間的に歪まずに育った感じがあるところなど、好感がもてるのです。才能もあり、ピアニストになるための条件も備えられ、いい意味で健康的という印象。

なぜこんなことを書くかというと、この人はピアノが好きなのか?何のために弾いているのか?といった根本的な疑問を感じてしまうような人が決して少なくないからです。

小菅さんに話を戻すと、この日の三曲はどれもイマイチな印象が残りました。
たしかに小菅さんの演奏なんだけれど、曲の求めるものと解釈が必ずしも合致しているようには聞こえなかったのは少し残念でした。必要以上に曲をドラマチックに仕立てようと、このときはやや力みすぎたのかもしれません。

演奏というのは、楽譜に書かれたことを読み取って、それを作曲家の心情に寄り添いながら実際の音に再現するときに、併せてどこまで演奏者の言葉にもなりえているか…ということじゃないかと思うのですが、この日の小菅さんは自分の言葉が前に出すぎていたように思いました。
とくにモーツァルトは、そんなにメリハリを付けないで、ありのまま軽やかに流れたほうがいいように思ったし、メリハリのたびに曲の流れがあちこち寸断されるなど、作品のもとめるものとちょっとズレているように思われました。

テンペストは、我々が思っているものとはずいぶん違ったもので(もちろん違っていることは大いに構わないし、演奏には新しいものや冒険心も必要ですが)…ちょっと独りよがりかなあ?という印象。
右ペダルが少なめで、縦に区切られる感じがあり、あるときは静かに、そうかと思うと急に激したりと、表情の変化が絶え間なく変化するあたり、そこがベートーヴェン的だといえばああそうですかと云うしかないけれど、個人的にはもう少し横のラインにも一貫したテンポを感じながら、聴く側はその流れの中でさまざまなメッセージを汲み取っていく演奏のほうが、この第三楽章には相応しいような気がしました。
音楽というものはある意味で抽象表現の芸術だと思いますが、どこか演劇みたいでした。

ショパンでも基本的には同じで、この第四楽章はそのまま一息に弾いても充分ドラマティックなのだから、そこに過度の切れ味や意味や表情を加えすぎるのは、マロニエ君の趣味ではありませんでした。
とくに出だしの両手3オクターブの連続は、早すぎで野性的でベートーヴェンの続きかと思ったほど。
小菅さんのピアノの特徴は、小気味良いリズムと熱いテンション、それに伴う大小さまざまな抑揚で、それらが生み出す生命感が魅力なんですが、とはいえ、さほど噴火しなくてもいいと思う場所で、ひっきりなしに噴火と鎮火を繰り返されると、そっちの方が目立ってしまって、かえって曲の形が見えづらくなることがあるのが惜しいというか、もう少し端正な部分もあるといいように思いました。
とくにショパンでは、どんなに速いパッセージでも一音一音の美しさを大切にしてほしいもの。

まあ欲を言えばキリがないし、ツボにはまったらハッとするような素晴らしい演奏をされるわけだから、それを含めてのこのピアニストの魅力だとは思いますし、基本的に音楽に献身する希少なピアニストだという思いは変わりませんので、次を期待します。

逆にいえば、マロニエ君は何でも特徴もなくそつなく弾けるだけのピアニストには興味がなく、出来不出来のある人間臭い人のほうが遥かに好きだし、おもしろいし、魅力的だと思います。

追伸;その後、NHK-クラシック倶楽部では2019年のリサイタルの模様が放送され、そこにもテンペストがプログラムに含まれていましたが、こちらはもちろん全曲で、はるかに素晴らしい出来でした。とくに第三楽章は先日のスタジオ演奏と共通する部分もあるにはあるけれど、第一/二楽章を経て終楽章に到達すると曲が俄然必然性を帯びて、はるかに自然なものでした。それと、この方はやはり大舞台でこそ本領を発揮するタイプかもしれません。とくに冒頭のダカンのクラヴサン曲集第1巻の「かっこう」は何度も聴きたくなるような素晴らしい演奏でした。
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なぜ?

ヤマハのグランドピアノには大別すると3つのシリーズがあり、レギュラーのCXシリーズ、中間グレードのSXシリーズ、最高級のCFシリーズで、スタインウェイのBとお値段も遜色ないCF6の現物にはまだお目にかかったことさえありません。

過日、ある調律師さんによると、これに触れる機会がおありだったらしく、音の良さもさることながら、驚かれたのは昔のピアノのように、チューニングピンが固定されるピン板が、外部にむき出しになっているという点だったようです。
たしかにそれはちょっとした驚きですね!
コンサートグランドのCFXは違うのに、なぜ同じ最高級シリーズのCF4/CF6ではピン板が露出しているタイプなのか。

昔のピアノのピン板部分はフレームの鉄骨も大きくくり抜かれており、板が直接見えるものがほとんどだったようですが、時代の変遷とともに、このスタイルはほとんど姿を消したように思います。
音量やピンの保持力に問題があったのかと勝手な想像はしていましたが、実際のところはよくわかりません。

ベヒシュタインなども、昔はピン板が出ていたピアノばかりでしたが、近年では順次ニューモデルへと切り替えられ、それらはいずれもピン板はフレームの下に隠れて見えない作りになってきているので、てっきりそれが現代の常識かと思っていました。
具体的にその違いがどういう効果をもたらすのかマロニエ君にはわかっておらず、ただなんとなくピン板の見える仕様は旧式で、見えないスタイルが現代流と思い込んでいたので、そこへ、まさかヤマハがCFシリーズという新しい最高ランクのピアノにそういう機構を取り入れるなんて、思いもしないことでした。

ちなみにヤマハの子会社となったベーゼンドルファーは、現行モデルでも、いまだにピン板が露出する方式のようなので、ここらと関係があるんでしょうか。

YouTubeで探すと、こんな弾き比べの動画がありました。
https://www.youtube.com/watch?v=FL81a7rnD0g

たしかに、いかにも今風な「どうだ!?」といわんばかりのわかりやすいキレイな音ですね。
好みや感じ方は、各人各様だと思いますが、マロニエ君の素直な印象を敢えて述べますと、音のキレイさがいささか前に出過ぎており、試弾した人を納得させるには充分だろうとは思いますが、どこか電子ピアノ的な無機質なキレイさで、さてこれで実際の音楽が奏されたとき、曲に内包される味わいとかこまかな情感を写し取ることができるんだろうか…という感じがします。
ピアノの音をここまでにもってくるMade in JAPANの力ってある意味すごいと思いますが、同時に、そこに西洋発祥の楽器作りという根底があるかぎり、これが限界のような感じがしなくもありません。
かつて「日本人には本物の靴や椅子は作れない」と言われたことがありますが、それは我々の中にある遺伝子や生活様式とは相容れないところにその真髄があるからだというような意味でしたが、似たようなことがピアノにもあるのかと思ったり。

さて、対するベーゼンドルファーはやはり個性的で、このピアノだけにしかない濃密な世界があり、華やぎと暗さとが同居する独特な美しさ、歴史の重み、豪奢なウィーンの香り、あらゆるものが屈折して混在しています。
美しく上品な中に、ほんのわずかに汚らしいものが見え隠れするあたりも、一言では言い表すことのできない、まるでリヒャルト・シュトラウスの退廃的なオペラのようでもあります。

いっぽう、いつも感じることは、弾き比べの場においては案に相違して意外に地味で、控えめで、取り立てて特徴のないような印象を与えてくるのがスタインウェイ。
キラキラだ、派手だといわれるけれど、他社のピアノと並べて直接対決すると意外やもの静かで、明快な主張さえも少ないような印象があります。
とくにそう感じるのはアタック音が控えめで、弦楽器のようなやわらかな響きと重層的なハーモニーに重きを置くような音の出方だと、比較の場において強いインパクト性という点では不利なのかもしれません。

でもスタインウェイのすごいところは、曲になったとき音楽として最も成熟した落ち着きとまとまりがあるところで、そこがピアノとしてサマになるという点ではないかと思います。
音としての純粋な美しさという点でいっても、必ずしも一番ではないかもしれないけれど、スタインウェイにしかない奥深い心地よさがあっていつまで聴いても飽きないし、耳も神経も疲れないのも深い秘密がありそうです。
耳に直接というよりは、人の気分や感覚を通して、からだ全体に聞こえてくるという感じ。

マロニエ君は真に美しいものには、複雑と収束、精神性、清濁さまざまな要素を兼ね備え、互いに意味を持ちながら高みに達したときに到達する領域の景色だと思うので、ただ雑味を取り払い、無キズでピカピカに磨き上げたものとは似て非なるものだと思うのです。


ちなみにCF6って、カタログを見ている時からかなり不思議な点があります。
それはグランドの特徴である3本の足の前の2本の取り付け位置(とくに見えやすい右側など)ちょっとアンバランスなほど前に寄せてつけられている点。
ビジュアルとしてはいささか異様な感じをうけるのも事実ですが、これほどの高級機種でのことだから、なにか根拠があるのだろうとは思われ、その「理由」をいつかぜひ知りたいもの。

それにしても、まったく同じYAMAHAのロゴが付いた、まったく同サイズのピアノで、C6Xで324万円、S6Xでほぼ2倍の594万円、CF6でさらに2倍以上の1364万円と、C6Xを4台分でもまだ足りない価格設定なんて、こんな大胆なメーカーは世界広しといえどもおそらくないような気がします。
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バラードとは

少し前ですが、クラシック倶楽部で広瀬悦子さんのベートーヴェンのテンペストとショパンのバラードの第1番/第4番、モシュコフスキの作品が放映されました。
昨年の12月に武蔵の文化会館で無観客収録されたもののようです。

広瀬さんといえば、過日書いたリャプノフの超絶技巧練習曲とか、モシュコフスキの作品集、グリンカの編曲集など普通とはちょっと違うマイナーな曲を見事に演奏されるピアニストというイメージでしたが、その広瀬さんが今回はがらりと方向を変えて有名どころを弾かれるんだなあと思いました。

テンペストは個人的にはとくに印象に残るほどではなかったけれど、つづくショパンの2曲のバラードではちょっとした衝撃を受けました。
事前のインタビューでも「ショパンは祖国愛が強く不幸な人生を送った人。バラード4番の頃にはワルシャワがロシアに侵攻されて親しい友人や恩師をなくしたという報に接し、深い悲しみの中で書いたもの。心の内にある悲しみや怒り、絶望などをピアノの音に表していると思う」というようなことをおっしゃっていましたが、実際にそれら2つのバラードの演奏を聴くにつけ、その言葉がひしひしと胸にこみ上げるものがあり、しかもショパンとしても繊細で美しい部類の演奏でした。

普通、ショパンのバラードというとワルツやノクターン的なものと違って、上級者向けもしくは演奏会用のピアニスティックな作品というイメージがありましたが、ここで聴くバラードには、そのようなイメージとは違って、他のショパンの作品とは何の別け隔てもない同一線上にあるものだということがはっきりとわかり、まずその点が新鮮でもありショックでもあり、それを体現できる広瀬さんの解釈にも感心もしました。

人の心の深い悲しみや憂いが、ショパン独特の美しい旋律や和声を伴って切々と(むしろ静かに)訴えてくるようで、これはまさにショパンならではの叙事詩であり、作曲時の心の有り様を、これまで耳にしていたものよりさらに濃厚に音楽に写し取られた稀有な作品らしいということが、この歳になってはじめて知ったような気がして、しばし呆然となり、この数日というものそれが頭から離れませんでした。

演奏そのものは、静かで丁寧で深いけれど騒がない。
随所に心の動きとドラマがあり、それらを可能な限り敏感にすくい取っていくようなもので、ショパンのバラードとはそういうものだったのか?と思うと、これまで抱いていた曲のイメージが崩れ、あらためて修正しなくてはならないもののように思えました。
さらに感心したのは、細部に懲りすぎるとパーツのつなぎ合わせのようになることがありますが、いかにもフランス流の横の線と優美な流れの中に必然的にディテールが収まって、それらが互いに繋がっているので、ショパン特有の憂いに満ちた美しさが結果として増しているのは唸らされます。
これまでは、ノクターンなどはいかにも繊細で腫れ物に触るように弾いても、バラードやスケルツォ、エチュード、ソナタとなるとバリバリと技巧中心の演奏となり、ある種逞しさをもって弾くのが常道のようにされていましたが、そういう捉え方にも一石を投じられたように感じました。
まるでルーブルにでもありそうな、人間の嘆きのひとコマを描いた、深い色調の絵画をショパンの音の筆致で見せられたようでした。

これは大変なことになったと思い、さっそくCDを調べてみると、2010年にバラード全曲がリリースされているものの、購入しようにも品切れや取り寄せであったり、入手困難なようです。

尤もCDは10年以上も前の演奏で、今回のクラシック倶楽部の演奏はつい先日のもの、その年月の間により熟成されて今日の姿に到達したものだとすると、仮にCDを手にできたとしても、今回と同様の感銘が得られるものかどうかは保証の限りではありませんが。

正直いうと、これまでの広瀬さんの演奏は、どちらかというとマイナーな技巧的な曲を苦もなく鮮やかにものにしていくタイプでもう一つマロニエ君の好みではなかったのですが、ショパンに対してこんな深いアプローチができる人だったとは露知らずで、今後は見る目を変えなければいけないという気がしています。

CDのネットショップのレビューなどでは「ショパンなどより、広瀬さんにはもっと近代的な曲を弾いて欲しい…」というような書き込みがありましたが、マロニエ君はこの2曲のバラードを聴いてしまった上は、ショパンの録音を増やして欲しいと思います。

初見や暗譜が得意で、技巧を兼ね備えた人なら、埋もれた難曲を掘り起こして世に紹介することも意義ある仕事だとは思うけれど、ショパンのバラードのような超有名曲を、まったく既成概念に囚われない独自の解釈で問い直し、しかも自然な説得力をもって弾くというのは非常に難しいことだと思うし、それをやってのける広瀬さんには舌を巻くばかりでした。
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知られざる逸品

日本のピアノブランドというと、近年では事実上ヤマハとカワイの2社だけで、そこにディアパソンがコバンザメみたいにへばりついているぐらいですね(厳密にはもう少しないこともないようですが)。
しかし、昔は国内だけでも信じられないほどたくさんのピアノメーカーが存在していたようで──ヘンなものもあったでしょうけど──中には今では考えられないほどの逸品も生み出されていたようです。

好事家の間で知られているのはシュベスター、クロイツェル、イースタイン、オオハシとか、それ以外にも、アトラスやフクヤマ、アポロなどパッと思いつくだけでもまあいろいろありました。
その数たるや想像を絶するほどで、それらの名前やロゴの写真を集めた「日本のピアノメーカーとブランド」という一冊の本が出ているほどですが、そのほとんどが消失してしまったという事実には、時代の容赦ない残酷さを感じます。

さて、あるピアノ好きの知人からの情報で、某所にワグナーピアノというのがあって、それを所有者が手放したがっているという話を聞かされました。
なんとその方は、わざわざ新幹線に乗ってそのピアノを見てこられたとのこと。

正直言って、マロニエ君もワグナーピアノというのはアップライトで名前ぐらいは見たことがあったような気がする程度で、音の印象もなく、はじめは「へ〜ぇ…」ぐらいな感じでしたが、しだいにわかってきたことがありました。

ワグナーピアノはもともと広島にあった東洋楽器製造株式会社で製造されたピアノで、1955年の創業、敷地1万坪の地所に工場があったものの不幸にして火災に遭い、1964年わずか10年足らずで廃業となっているようです。
その後、ワグナーブランドは浜松の東洋楽器製作所(似たような名前で、アポロなどを製造するメーカー)に引き継がれたようですが、ピアノ自体は広島時代のものとはまったく別物だそうです。

さて、当該のピアノは1960年製、すなわち広島時代のワグナーピアノで、しかも驚くべきは希少なグランドなのでした。

写真が送られてきましたが、塗装が当時よく使われたというカシュー(人工漆のようなもの?)であるために、大屋根にこそ派手なひび割れがあるような状態でしたが、内部は、フレーム、響板、弦など、とても60年前のピアノとは信じられないほどきれいな状態が保たれているようでした。
さらにかなり黄ばんでいるけれど象牙鍵盤で、試弾されたところずいぶん力強く鳴っていたとかで、そのせいか蓋を完全に閉め、カバーで覆って使われていたとのこと。
内部の写真で驚いたのは、フレームの亀甲形の穴や鮮やかなブルーのフェルトなど、パッと見たところブリュートナーといった感じで、それを手本に設計製造されたピアノであることは疑う余地が無いようです。

マロニエ君がこの話を聞いた時点では、この知人が譲り受ける前提で話が流れているようでしたが、そこへたまたまシュベスターのオーバーホール済みのグランドというのがでてきたため、急旋回でそちらを購入されることになり、そのワグナーピアノは突如フリーの状態になりました。
値段を聞くとびっくりするほどお安く、ついムラムラっとしてくるではありませんか!

さっそく古いピアノに詳しい調律師さんに連絡したところ、さらにその方の先輩に当たる調律師さんがワグナーピアノにかなりお詳しいとのことで、またまたびっくり。
マロニエ君もよく知る方だったので、さっそく電話してみると、それはもう絶賛の嵐で、日本にもかつてはすごいピアノがあったのだということを情熱的に語られ、その素晴らしさをひとしきり伝えられました。
特徴としては、いわゆる甘い音のピアノではなく、腹の底から湧き上がるような力強い鳴りで、要するに重厚なピアノとのこと。
甘さは弾き方によって表現するようになっているそうで、それは戦前のスタインウェイなどもみんなそうで、昔のクラシック専用のピアノの多くがそういう音だったというのは何かで読んだ覚えがあります。

ただし、その調律師さんが語られるのは、あくまで広島で製造されたワグナーピアノのことで、とりわけグランドは希少で楽器としての価値は極めて高いけれど、リセール時のニーズは期待できないとのことで、そこが理由で、過去にもずいぶん多くの良質なピアノが廃棄されたとのことでした。
なので、そこさえ覚悟できるなら、ぜひ買う価値があるピアノだと、それはもう力強く勧められました。

この時点で、気分はかなり盛り上がりましたし、マロニエ君はリセールバリューなんてなくてもなんら問題じゃないのは言うまでもありません。
…問題はそこではなく、すでに我が家にはピアノが数台あることと、そのワグナーピアノは遠方にあるうえに現在2階に置かれているらしいこともあって、ユニック使用を含む安くもない運送料、大屋根の塗り直し、象牙の漂白〜ぐらいで済めばいいけれど、いかに中がきれいとはいっても60年前のピアノとなるとやるべきことは少なくないはずで、そういうことをあれこれ考えていると、気がついた時には神経がヘトヘトに疲れてしまいました。
高揚感と不安がごちゃまぜになって、一種の興奮状態に陥ったのでしょうね。

そんなすごい鳴りのピアノってどんなものかぜひ知りたいし、興味はつきませんが、そのために購入までするの?という自問。
一晩寝てよくよく冷静に考えてみたら、さすがにもう一台増やす(しかもどこまで手がかかるかわからないもの)なんて、やはり無謀にもほどがあると気がつく理性もでてきて、熟考した結果、あきらめることにしました。
フルートマニアの友人は、銘器をたくさん押し入れにため込んで悦に入っているけれど、ピアノはそうはいきません。

それを調律師さん伝えるべく電話したら、なんと「だったら私が買います!」と一切の迷いもなく言われ、広島製ワグナーに対する思いの深さには並々ならぬものがあるようで、驚きとともになんとも不思議な感銘を受けました。
でもそれが一番ですよね!
そういうピアノは、マロニエ君のような素人がケチくさい修理をしながら中途半端に維持するより、その価値を熟知しているプロの方の所有となって、その技術を惜しみなく注いで仕上げられるのが相応しいことは自明です。

というわけで、物事が最も相応しいところへ収まるのは、なんとも爽快なものです。
いつになるのか知りませんが、福岡に届いたら、もちろん見せていただくつもりで、ひとつ楽しみができました。
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