日本のピアノブランドというと、近年では事実上ヤマハとカワイの2社だけで、そこにディアパソンがコバンザメみたいにへばりついているぐらいですね(厳密にはもう少しないこともないようですが)。
しかし、昔は国内だけでも信じられないほどたくさんのピアノメーカーが存在していたようで──ヘンなものもあったでしょうけど──中には今では考えられないほどの逸品も生み出されていたようです。
好事家の間で知られているのはシュベスター、クロイツェル、イースタイン、オオハシとか、それ以外にも、アトラスやフクヤマ、アポロなどパッと思いつくだけでもまあいろいろありました。
その数たるや想像を絶するほどで、それらの名前やロゴの写真を集めた「日本のピアノメーカーとブランド」という一冊の本が出ているほどですが、そのほとんどが消失してしまったという事実には、時代の容赦ない残酷さを感じます。
さて、あるピアノ好きの知人からの情報で、某所にワグナーピアノというのがあって、それを所有者が手放したがっているという話を聞かされました。
なんとその方は、わざわざ新幹線に乗ってそのピアノを見てこられたとのこと。
正直言って、マロニエ君もワグナーピアノというのはアップライトで名前ぐらいは見たことがあったような気がする程度で、音の印象もなく、はじめは「へ〜ぇ…」ぐらいな感じでしたが、しだいにわかってきたことがありました。
ワグナーピアノはもともと広島にあった東洋楽器製造株式会社で製造されたピアノで、1955年の創業、敷地1万坪の地所に工場があったものの不幸にして火災に遭い、1964年わずか10年足らずで廃業となっているようです。
その後、ワグナーブランドは浜松の東洋楽器製作所(似たような名前で、アポロなどを製造するメーカー)に引き継がれたようですが、ピアノ自体は広島時代のものとはまったく別物だそうです。
さて、当該のピアノは1960年製、すなわち広島時代のワグナーピアノで、しかも驚くべきは希少なグランドなのでした。
写真が送られてきましたが、塗装が当時よく使われたというカシュー(人工漆のようなもの?)であるために、大屋根にこそ派手なひび割れがあるような状態でしたが、内部は、フレーム、響板、弦など、とても60年前のピアノとは信じられないほどきれいな状態が保たれているようでした。
さらにかなり黄ばんでいるけれど象牙鍵盤で、試弾されたところずいぶん力強く鳴っていたとかで、そのせいか蓋を完全に閉め、カバーで覆って使われていたとのこと。
内部の写真で驚いたのは、フレームの亀甲形の穴や鮮やかなブルーのフェルトなど、パッと見たところブリュートナーといった感じで、それを手本に設計製造されたピアノであることは疑う余地が無いようです。
マロニエ君がこの話を聞いた時点では、この知人が譲り受ける前提で話が流れているようでしたが、そこへたまたまシュベスターのオーバーホール済みのグランドというのがでてきたため、急旋回でそちらを購入されることになり、そのワグナーピアノは突如フリーの状態になりました。
値段を聞くとびっくりするほどお安く、ついムラムラっとしてくるではありませんか!
さっそく古いピアノに詳しい調律師さんに連絡したところ、さらにその方の先輩に当たる調律師さんがワグナーピアノにかなりお詳しいとのことで、またまたびっくり。
マロニエ君もよく知る方だったので、さっそく電話してみると、それはもう絶賛の嵐で、日本にもかつてはすごいピアノがあったのだということを情熱的に語られ、その素晴らしさをひとしきり伝えられました。
特徴としては、いわゆる甘い音のピアノではなく、腹の底から湧き上がるような力強い鳴りで、要するに重厚なピアノとのこと。
甘さは弾き方によって表現するようになっているそうで、それは戦前のスタインウェイなどもみんなそうで、昔のクラシック専用のピアノの多くがそういう音だったというのは何かで読んだ覚えがあります。
ただし、その調律師さんが語られるのは、あくまで広島で製造されたワグナーピアノのことで、とりわけグランドは希少で楽器としての価値は極めて高いけれど、リセール時のニーズは期待できないとのことで、そこが理由で、過去にもずいぶん多くの良質なピアノが廃棄されたとのことでした。
なので、そこさえ覚悟できるなら、ぜひ買う価値があるピアノだと、それはもう力強く勧められました。
この時点で、気分はかなり盛り上がりましたし、マロニエ君はリセールバリューなんてなくてもなんら問題じゃないのは言うまでもありません。
…問題はそこではなく、すでに我が家にはピアノが数台あることと、そのワグナーピアノは遠方にあるうえに現在2階に置かれているらしいこともあって、ユニック使用を含む安くもない運送料、大屋根の塗り直し、象牙の漂白〜ぐらいで済めばいいけれど、いかに中がきれいとはいっても60年前のピアノとなるとやるべきことは少なくないはずで、そういうことをあれこれ考えていると、気がついた時には神経がヘトヘトに疲れてしまいました。
高揚感と不安がごちゃまぜになって、一種の興奮状態に陥ったのでしょうね。
そんなすごい鳴りのピアノってどんなものかぜひ知りたいし、興味はつきませんが、そのために購入までするの?という自問。
一晩寝てよくよく冷静に考えてみたら、さすがにもう一台増やす(しかもどこまで手がかかるかわからないもの)なんて、やはり無謀にもほどがあると気がつく理性もでてきて、熟考した結果、あきらめることにしました。
フルートマニアの友人は、銘器をたくさん押し入れにため込んで悦に入っているけれど、ピアノはそうはいきません。
それを調律師さん伝えるべく電話したら、なんと「だったら私が買います!」と一切の迷いもなく言われ、広島製ワグナーに対する思いの深さには並々ならぬものがあるようで、驚きとともになんとも不思議な感銘を受けました。
でもそれが一番ですよね!
そういうピアノは、マロニエ君のような素人がケチくさい修理をしながら中途半端に維持するより、その価値を熟知しているプロの方の所有となって、その技術を惜しみなく注いで仕上げられるのが相応しいことは自明です。
というわけで、物事が最も相応しいところへ収まるのは、なんとも爽快なものです。
いつになるのか知りませんが、福岡に届いたら、もちろん見せていただくつもりで、ひとつ楽しみができました。
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