危ない世界

いまどきはネットを使った個人売買が盛んで、その代表格といえばヤフオクでしょうが、それ以外もいろいろあって、中には名前は有名でも信頼度がイマイチで、トラブルが頻発する怪しげなものもあるようです。

ごく最近、親しくさせていただいている知人からリアルタイムで聞いて呆れ果てた話ですが、知る人ぞ知る手作りの某日本製グランドピアノ(しかも塗装まで含めたオーバーホール済み)が安く出てきたので、出品された翌日、それを購入すべく出品者と連絡を取られたとか。
すると、すでに試弾を希望をされている方というのがおられ、その人はもし気に入れば、提示された価格にさらに少し上乗せするというようなことを持ちかけているそうで、知人は購入希望を伝えたものの、その人の次になるという返答だったとか。

しかし、その内容はこのサイトの売買システムとは齟齬があり、そもそも話し合いで決するものではなく、単に質問などをするもので、購入に関しては、あくまで購入手続が優先されるもの。

そこで、まず押さえておきたいことは、この手の売買サイトには規約があり、ちょっと要点を抜粋しておきますと以下のとおり。
 

 利用規約
 第11条 (「売ります・あげます」カテゴリの取引)
 1.「売ります・あげます」カテゴリにおける出品者ユーザーと購入者ユーザーの売買契約は、購入者ユーザーが購入手続を完了した時点で、出品者ユーザーと購入者ユーザーとの間に成立するものとします。
 つまり、問い合わせの順番は関係なく、早く購入手続をしたものに優先権がある。

というもので、このサイトはオークションのように価格で競うものではないから、提示された金額でいち早く決済した人が購入できるもので、だからはじめから値段は決まっているのだし、この規約は至極当然のことと納得できるところです。

問い合わせがいくつも寄せられていることを知った知人は、遠方であるため試弾も諦め、早めの決断をして購入手続をするしか方法はないと考えたようで、意を決して購入手続へと進み「決済」まで完了したのだとか。
その勇気ある決断には驚くばかりですが、このピアノをゲットするにはそうするしかないという一択だったようです。
すると同日夕方、売買サイト事務局より「決済を確認した」とのメールも届いたそうで、あとは両者で受け渡しの相談などをするだけです。

売買はルールに基づいて正しく成立したわけですから、知人はさっそく出品者に連絡を取ったものの、なんとまったく連絡が途絶え、その後も何度か続けてメールをするも梨のつぶて状態となり、その日はついに一通も連絡がなかったというのですから、これには驚きを禁じえませんでした。
翌日になり、ようやく出品者から連絡があったところによると、なんと、一方的に「キャンセル」となって画面も消されてしまったらしく、これにはさらに驚きました。

出品者にしてみれば、提示額以上で購入するかもしれない試弾希望の方を待ちたかった、あるいは予想以上に問い合わせがあり金額的にも欲が出たのかもしれませんが、このサイトが定めたルールに何ひとつ違反することなく購入手続を進めた相手に対して、これはあきらかに身勝手で侮辱的なやり方だと思わざるをえません。

オークションのように入札価格によって競い合うものではないのだから、規約に従って「決済」まで完了したにもかかわらず、それでも尚、出品者が購入者を「選別している」ということには、強い違和感と憤りさえ感じました。
仮に「あげます」ということなら、多少は出品者が相手を選ぶということがあってもやむなしかと思われますが、数十万円という大きな金銭の動く売買で、ルール通りに購入手続(決済)をしたにもかかわらず、出品者の意向によってそれを一方的にキャンセルするというのは、あきらかな反則行為でしょう。
聞いているこちらまでムカムカと憤懣やるかたない思いにかられました。

この場合、まず出品者のエゴとルールに対する甘さが窺えます。
このようなネットの売買システムに出品した以上は、そのシステムに従うことは当たり前のこと。
いち早く決済した人(ルール違反などあればともかく)に粛々と売却するのが義務であり、そういう規約の遵守と理解がないのなら、そもそも出品する資格などないとマロニエ君は考えます。
知人は当然納得ができず、サイト事務局にこの顛末を報告したそうですが、あまりにそのようなことが多いためか、ほとんど相手にもされないということだそうで(そこがまた驚きですが)おそらくはその辺りも見越してのキャンセルだったのではと思われます。

ではその支払ったお金はどうなるのかというと、受け渡し完了までサイト運営会社の預かりとなるらしく、不成立の場合は返却されるということらしいので、戻っては来るようですが(当然ですけど)、だとしてもなんともいやな後味の残る話でした。
しかも現在はその掲載の後も残っていないところからすると、サイトの手数料を避けるため、情報ページは消去され、取引は直接取引で行われたものと思われます。
ご立派ですね。

そういえば、何年も前、車を売却しようと同じサイトに出品したところ、連絡を取ってきた人に散々試乗され、気を持たされ、翻弄された挙句、ついには立ち消えになってしまった苦い経験がありました。
ネットの評判を見ると「このサイトは民度が低い」という辛辣な一文があり、なるほどと納得しました。

その点では、ヤフオクは手数料は少々高いけれど、いろいろな点で格段にしっかりしたものだと思います。

【追記】このブログに目を通した当事者の知人から「一部、事実と異なる点がある」という指摘がありました。それによると、知人が連絡した時点で、一足先に試弾希望が入っていたのは間違いないけれど、それとはまた別の人が「ぜひ買いたい。気に入れば◯万円上乗せする」という申し出をされたらしく、それは「知人の連絡よりも後のこと」だから、価格で追い越されたわけで、そこがよけい納得できない気になり、ならばというわけで、一気に購入手続(決済)に至ったということでした。
本人いわく「その人よりも、さらに高額の上乗せを提示すれば買えたのかもしれないけど…」と言われていましたが、それではまるでオークションですよね。要するに、売り主は売買サイトのルールそっちのけで、決済した人をキャンセルにしてでも、少しでも高く買うという人のほうを選んだということでしょう。
もちろん、売る側としては少しでも高くという気持ちはわからないでもありませんが、だったらはじめからヤフオクにでも出品すべきだったと思います。
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福間洸太朗

同じくBSプレミアムのクラシック倶楽部で、今度は福間洸太朗さんのベートーヴェンの視聴。
はじめは馴染みのない「幻想曲」で始まり、続いて「テレーゼ」「失った小銭への怒り」「熱情」。

福間さんのCDは一枚だけ持っているけれど、とにかくスラスラと指のよく回る方で、自身で編曲されたスメタナのモルダウはじめ、いろいろな技巧曲が集められたアルバムで、それらをあまりに右から左に苦もなく弾けてしまうので、なにやら身も蓋もないような、曲が素通りしてしまうような気になってしまったことを覚えています。

ずいぶん若い頃に、これまた演奏至難として名高いアルベニスの「イベリア」全曲のCDまで出すなど、よほどなんでも弾ける方らしいとは思っていたので、そういう方にとってのベートーヴェンなんて技術的には何ということもないものだろうし、おそらくはベートーヴェンイヤーにちなんだ取り組みの一環だろうと思いました。

この方は、マロニエ君のイメージでは、なんといっても爽やか系テクニックの人。
今回もその基本認識は変わらなかったけれど、では技術に明かしてガンガン弾きまくる人かといえば、そうではなくて自己顕示欲があまりないタイプなのか、どこか一歩引いたようなものも感じたり。
演奏スタイルはくせのない標準型で貫かれており、聴いていて何か神経に障るようなものはありません。
香り立つような詩情とか、精妙な歌いまわしとか、精神性みたいなもので聴かせる人ではないけれど、奇をてらわず素直で嫌味がないところが特徴だろうと思います。

この日の演奏でも、なんといってもこの人の魅力は危なげのないテクニックであり、それに支えられた押し付けがましさのない涼し気な演奏で、あえて分類するならフランス系の演奏ということになるのでしょうか?
自分の個性を出さんがため、よけいな表情や主張をつけない人だから、その演奏はストレスなく常にスムーズで、これはこれである種の気持ちよさがあるのも事実だなぁと感じます。

これぐらい手際よく弾かれてしまうと、さすがのベートヴェンにもどこか洗練された美しさを帯びてくるようで、しかも音楽的なメリハリなどはそれなりに気を配られているので、多少軽いものにはなるけれど、後味にもいやなものが残らないのも好感が持てました。

あらためて言うまでもないけれど、マロニエ君はテクニック至上主義ではありません。
それでも、ピアノを演奏するにあたって、とりわけプロのコンサートピアニストにとってのテクニックは、極めて大切な要因であることも間違いなく、現代の技術標準が高いとはいいながら、それでもなんとかギリギリ基準内に収まって弾いている人と、その中でさらに余裕をもって弾ける人との違いがあり、飛び抜けたテクニックを持つ人の演奏は、やはり聴く側としては安心感があって楽だし、悪い使い方をしなければ、テクニックそのものからくる美しさや魅力があることも認めないわけにはいかないと思うのです。

例えば多少なりともピアノに触れたことのある人なら、ベートヴェンのソナタなどを弾いた経験はあるわけで、なかなか思うに任せない箇所というのがあちこちにあって、技術的に苦しい思いをした記憶がある筈ですが、福間さんの手にかかるとそういうあれこれの問題がなかったことになっているようで、苦もなくなめらかに進むことの出来るのには感心させられます。

それと福間さんは、普通のどちらかというと細身の体格の方だと思うけれど、その音は普通に美しく、テクニック、解釈、音色、それからコンサートピアニストとしての容姿など、どれもが非常に高いところで兼ね備えられているという点で、普通に満足満腹させてもらえるピアニストのようです。

なんだか似たような記憶があるように思ったら、思い出したのは菊地裕介さんで、この人も苦もなく数々の難曲をまったく不安なく弾けるという点で、特別な方だと思います。
世界の10本の指に入るような、真の偉大なピアニストというのはそう居るものではありませんが、福間さんや菊地さんのように技術的には楽々とオリンピックレベルの人というのは、やはり大したものだと思います。
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北村朋幹

クラシック倶楽部でまったく未知のピアニストに接しました。
先回の務川さんも初めて音を聞いたわけですが、このときはかすかに名前くらいは聞いた覚えがあったけれど、今回の北村朋幹さんというのは、お名前も何も、知らないづくしの方でした。

コンクールを欠かさずウォッチしているような方ならご存知かもしれませんが、マロニエ君の目に映るコンクールはただの勝ち抜き競技のようで、さらにそれが好きな人というのは、スポーツ観戦と同じように勝敗が分かれるイベントとして見ている感じがして、そういう世界にはますます興味を失います。

で、話を戻すと、曲目はベルクのピアノ・ソナタ作品1とブラームスのソナタ第3番の一部というもの。
最近は放送時間と曲の兼ね合いからなのか、あるいは演奏以外のアピールの場なのかわからないけれど、本人へのインタビューが殆どと言っていいほど盛り込まれているので、その人の話し方とか考え、人間的な持ち味とか雰囲気もほんの少しながら知ることができます。

とはいっても、マロニエ君にとってはそういうものは(まったくと言えばウソになるけれど)多くの場合はあまりどうでもよく、専らどういう演奏をするかということに興味は絞られます。
経歴も同様で、それらは一定の参考になることはあるとしても、やはり興味の中心はその人がどういう音を出し、どういうセンスの演奏をするのか、曲から何を感じ取っているのか、それを伝えるためにテクニックがどれぐらいのものなのか、そういうことがすべてだろうと思います。
どれほどめざましい経歴の持ち主でも、お話が立派でも、演奏が自分の好みに合わなければそそられません。

で、その演奏ですが、まずマロニエ君はベルクのソナタなどは、どうこう言うほど知らないしそもそも理解もできていませんが、それでも聴いたことがないわけではなく、あくまで直感的な印象で云うと、曲が始まってまず感じたこととしては、ずいぶん小さくまとまった演奏というものでした。
録音によるものもあるかもしれないけれど、続くブラームスもほぼ同様で、きれいに整えられ、こまごまと手入れをされた花壇のようで、音楽の大邸宅という感じではありませんでした。

もちろん、なんでも巨大で荘重なものがいいわけではなく、こういう手のひらに乗る繊細な細工物のような仕事をするのは、それこそ日本人の最も得意とする、いわば伝統工芸のようなものでもありますが。

お話の様子では、常に多くの文献に目を通して考察を重ね、それを演奏に活かしておられるそうですから、その深いところで表現されようとするものは、残念なるかなマロニエ君ごときの耳では聞き取ることができなかったかもしれず、だとするとピアニストには申し訳ない気もしますが、少なくとも私はそう感じたというわけです。

ベルクのソナタではすべての音に意味があり、それらには細かい指示があるといった解説、ブラームスのソナタは若い頃に書かれたもので、当時シューマンと出会ってどうしたこうしたと、どちらかというと研究者のようなお話をされるというか、そういう分野を調べることもお好きなようで、ああ、そういえばブレンデルっていたなあ!などと思ったり。
演奏に際して、そういう考証は非常に大切というのは異論の余地はないけれど、あまり文献がどうとか手紙にどう書かれているとか直筆譜がどうというようなことを中心に語る人の演奏というのは、なぜか熱い感動を覚えたり、ストレートな興奮に引っ張っていかれることがあまりないので、そういう講釈を聞いた時点でこちらにある種の偏見ができてしまうのかもしれません。

この演奏は武蔵野市民文化会館で収録されたものですが、ことさら目を引いたのはピアニストが座っている椅子でした。
何らかの理由で通常のコンサートベンチはお好みでないのか、なんと会議室などでよく用いられるスタッキングチェア(積み重ねて収納できる椅子)を三脚重ねた状態で、その上にちょんと座って演奏しておられました。

低い椅子が好きとか、背もたれがほしいとか、その他なんらかの理由で、ピアノ用でないものを使ったりする人はごくたまにいらっしゃいますが、スタッキングチェアを三つ重ねるというのは初めてだったので、思わず目が点になってしまいました。

後日、再度見てみたら、ブラームスはところどころでなるほどと思わられるものがあったし、終楽章などはかなり見通しの良い演奏であったことも確認できました。
ただ、もう少し、透き通るような美しい音だったら…という思いがついてまわり、その点では最後まで不満が残りました。
なんとなく、指揮に転向するピアニストってこういう感じかなぁなどと、ついよけいな事を考えてしまうような異色のピアニストといえるのかもしれません。
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務川慧悟

久々に聴き応えのあるピアニストの演奏に接して満足しました。

BSプレミアムのクラシック倶楽部の録画から、今年2月、相生市文化会館で収録された務川慧悟さんの演奏です。
コンクールが好きな人から飛び出す言葉の中に、このお名前を耳にしたことはかすかな記憶としてはあったけれど、近年ますます興味を失っているコンクールだし、コロナで大型書店などにあまりいかなくなったので、音楽雑誌等を見ることもなく、まったくのノーマーク状態で、今回が務川さんの演奏を初めて聴いたわけです。

曲目は、ドビュッシーの前奏曲集第二巻から第6/5/9/11/12番という5曲、続いてショパンのソナタ第2番、アンコールは務川さんの編曲によるラヴェルのマ・メール・ロワの終曲(本来は連弾)というもの。

冒頭のラヴィーヌ将軍が始まるや、その冴えた音は思わずハッとするほどで、とっさに、よほどピアノと技術者がすばらしいのか…と思ってしまったけれど、それからしばらく、これはピアニストによるものだということに気付かされることになります。

近ごろの若い方にしてはかなり珍しいことだと思うけれども、音に力と芯があるし表現も自在でしなやか、ピアノが深いところから鳴るから、出てくる音楽も明瞭で説得力があり、聴き応えがありました。
昔のやたら叩きつけるような奏法への反省からか、近年ではガンガン弾くことをしなくなったのはいいとしても、その傾向がいいところで止まらずベストポイントを通過してまったと云うべきか、その先に待っていたものはカロリーの不足した、省エネ運転みたいな覇気を失った、うわべだけの軽量な演奏が横行してしまったのはウンザリでした。

なんでもかんでも脂っ濃い揚げ物みたいなおかずはイヤだけど、ガッツリ食べたいときに食べられないような無機質な演奏に接するのは、これほどつまらない、不満の残ることはないわけです。

ついでにいうと、音楽的には熱演しているようでも、悲しいかな音に輝きと重量感がなく、サラサラした草花みたいな音ばかり出す人が多いのは、演奏そのものの魅力を大いに減じるものではないかと思います。

その点、務川さんの演奏は、明晰でよく練り込まれ、コンクールなどにも耐えうるものでありながら、表現としての瞬間の燃焼とか迫りがあり、作品を思慮深く考察された上でのこのピアニストが感じているものや問いかけが伝わって、結果としてきわめて魅力ある演奏だったことは、まるで掘り出し物を見つけたような驚きと嬉しさがこみ上げました。
昨今は指だけはたいそう回るけれど、空虚な規格品のような演奏が多い中で、借り物ではない生身の音楽として、きちっと知と情の均衡のとれたものであるのも望外の驚きでした。

作曲者が書き残した作品に、何も付け加えず、必要なだけの表現するというと、何もしていないということを却って主張するようで、まるで色っぽくない演奏をする弾く人が多いけれど、務川さんの演奏にはそんな裏返しの主張めいたところは微塵もなく、すべてに弾き手の気持ちが入っていて、熱があり、言葉がある演奏でした。

白状すると、ドビュッシーの前奏曲はマロニエ君はさほどではないというか、もちろん嫌いではないけれど、とくに積極的に聴きたいと思う作品でもなかったのですが、務川さんのそれは、一曲々々があたかも美しい絵画のようで、こういう作品だったのか!と再発見させられる素晴らしさ…というか、こちらの曲に対するイメージをご破算にして、あらためて素直な耳で聴き直しているようでした。

ひとことでいうなら、本物に出会ったときに感じる興奮があり、ストンと腹に落ちる演奏でした。
いい演奏とはそういうものだと思うし、そのためには、まずは省エネ運転ではダメだということがわかります。
演奏を通じて聴き手をいざない、作品の世界を旅させてあれこれのものを見せてもらうためには、演奏者にも相応の準備と真剣勝負でなくてはならず、そこれにはご苦労なことですけれど、消耗を伴うパフォーマンスである必要があると思います。

いま流行りのピアニストの中には、サーファーのように人気の大波に乗っかって、芸術家としての取るべき手続きを取らないまま、暗譜と指の動きだけで駆けまわっているような方が何人かいらっしゃいますが、それをここで糾弾するつもりはないけれど、すくなくとも自分はやっぱりこういう取り組み方をする人の演奏を聞くと心が満たされ、ピアノや音楽の素晴らしさを再確認するに至りました。
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クロス張替え

連休直前、自宅の壁と天井のクロス張替え工事をおこないました。

今の家が建ってから、一度も張替えをやったことがなかった部分で、汚れもかなり目立ってきていたのでやらなくちゃいけないともう長いこと思いながら、生活している状態で、家具を始めいろいろなものを動かしながらの作業になることを考えると、億劫なんてものではないので、実を言うと張替えの必要を感じ始めてから何年も先延ばしにしていたのですが、業者の方に相談したら家具類の移動はある程度先方でやってくれるというので、ついに重い腰を上げたというわけです。

作業範囲は家のすべてではないものの、かなり広範囲に及んだため丸3日にわたる作業となり、覚悟はしていたけれどやっぱり疲れました。
その中にはピアノの問題もあり、我が家はピアノにカバーをしない主義なのでカバー自体がなく、部屋の中ほどに移動させて、大屋根の上には布や薄めの布団のようなもので覆いまくっての作業でした。

それでなくてもこのコロナ禍の時期に、家に何人もの作業員の方が出入りするのもいかがなものか…という気がかりもありましたが、この機を逃したらもう永遠にチャンスは失われるような気がして、まさに清水の舞台から取り降りる覚悟で作業開始となりました。

作業員の方々は、朝から夕方まで昼食時と午後に一度休憩される以外は働き詰めで頭の下がる思いでしたが、それでも家の中に何人もの赤の他人様が終日出入りして作業が続く状況というのは、こちらにとってもかなりのストレスであることは間違いなく、本当に忍耐のひとことに尽きる思いでした。
いたるところ、足の踏み場もないほど養生のためのシートや道具類で埋め尽くされ、自室以外に居る場所もありません。

いっそ、作業期間は旅行でもできたらいいのでしょうが、このコロナ禍にあってはそうもいかないし、作業上、折々になにか聞かれたりこちらが返事や判断をしなくてはいけないことなどもあって、完全に留守にするというわけにもいきません。

そういうわけで耐えに耐えて、三日目の夕刻、ようやく作業が終わって、なんとか連休直前に完成したのですが、その間気を張っていたからなのか、完成翌日から変な息苦しさを感じるようになりました。

というのも、我が家は布製のクロスが建築時に使われていたのですが、それを剥がすときにおびただしい量の粉塵が出るのは避け難く、それが家中を容赦なく飛び回ったようでした。
作業終了後にはおおまかな掃除もしていただき、その後は自分でもせっせと掃除機をかけたり拭き掃除をしたけれど、普段無いようなレベルの汚れや粉塵がずいぶんあるようで、掃除をしてもしても足りない感じがしばらく続きました。

たとえばピアノですが、保護していたものをすべて取り払ってハンドモップをかけても、わずか半日ほどでうっすらと白くホコリが溜まってしまい、それひとつ見ても通常とはいかに状況が違うかを物語っていました。

で、マロニエ君はもともと呼吸器が弱いほうで、黄砂や梅雨の時期はもちろん、季節の変わり目、雨の降り出す前の気圧の変化でさえ胸や呼吸が苦しくなったりする体質で、そんな人間にとっては、古いクロスから出る目に見えない粉塵はかなりの悪影響があったようで、当然のように息苦しさに見舞われました。

それから5日ほど経ちますが、まだ違和感は残り、完全に回復には至っておらず、まさに身を挺してのクロス張替えだったといえそうです。

精神的にも次第に不安に襲われたのは、折しもコロナの変異株が日々猛威をふるうこの状況下で息苦しさが募るという状況は、もしや感染?という恐怖と猜疑心にもかられる結果となり、いったん不安が芽生えたら際限がありません。
まる三日間、家の中に複数の作業員がいた事ひとつとっても、外部からウイルスが侵入してきた可能性も否定できないわけで、ネットでコロナの初期症状を調べてみると、だいたいどれを見ても、発熱、空咳、息苦しさ、倦怠感などが挙げられています。

救いだったのは体温で、常に35°台で、稀に36°をわずかに超えるぐらいでそこは安定しており、倦怠感もなかったので、まあ大丈夫だろうとは思っていますが、PCR検査を受けたわけではないから、絶対に違うと断言することはできませんが、医療関係の知人の方によるとハウスダストによるアレルギー症状からの咳喘息ではないか?というお見立てでした。
この際、コロナじゃなければなんでもいいやという気になりました。

ところで、クロスに話を戻すと、色などを決めるのにショールームに何度も往復したり、もらってきた見本を壁に押しピンで止めてみたりと思案に明け暮れることになりますが、それでも実際に貼ってみた結果は、必ずしも予想通りにはいかないものですね。
この色決めというのはかなり神経集中を要するので、本当を云うと、この段階でかなり披露していたところへ、棚などを新調したり、数日置いての作業開始という流れで、心身の疲れも溜まりに溜まって極まっていたことは間違いないようです。
こんなときこそ、骨休めにのんびり旅行にでも行きたいところですが、それもできないご時世は辛いですね。
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映画『蜜蜂と遠雷』

数年前、ピアノを主軸にした異色の小説として『羊と鋼の森』『蜜蜂と遠雷』が立て続けてに出版されて、そこそこ話題にもなりました。
『羊と鋼の森』はピアノの調律師を目指す青年の成長が描かれ、『蜜蜂と遠雷』ではピアノコンクールが舞台となる小説で、いずれもすぐに購入して読んだものです。
個人的には期待ほど惹きつけられるものではなかったし、とりわけ『蜜蜂と遠雷』は架空のピアノコンクールが設定され、第一次予選から決勝までの様子が延々と綴られただけという感じで、「これが今どきの小説なのか?」とも思ったし、作者が作品にこめる意図や主題もさっぱりわからずじまいでした。

実際のコンクールではなく、あくまでフィクションであるし、かといって読んでいるだけでも小説世界に引き込まれるような文学としての面白さも個人的には感じられないまま、ただ最後までがんばって読み進んだというだけで、あれはなんだったのか?という思いだけが残りました。

この二作は映画化までされて、『羊と鋼の森』は観に行ったけれど、さすがに『蜜蜂と遠雷』はもう結構と思っていたところ、たまたまAmazonPrimeにあったので見てみることに。映画なら映画化のために多少は再構成されておもしろく仕上げられているかも…というかすかな期待もあったけれど、原作同様マロニエ君にはとりとめのないもので、観ていてどこにポイントを置いていいのかもわからないままでした。

数人のコンテクタントがべつにどうでもいいような半生や事情を抱えながら、悩み葛藤しながらコンクールに挑むという仕立てで、こういうのが今どきの味わいというか、人間描写であり感動ってやつなんですかね…。
やたらセリフの少ない心情描写のシーンが多く、ピアノの素晴らしさを伝えた母の存在とか、ホフマン(ヨゼフ・ホフマンではもちろんない)という亡大家が「爆弾を仕掛けた」と言い残したという天才少年という設定など、全体にどこか安っぽい印象がつきまといます。

韓国など、腰のすわった見応えのある映画を次々に作っているのに、日本の映画はポエムばかりで真実に目を背ける臆病さが足を引っ張っている思います。

そもそも実際のコンテクタントが、コンクールに出るあたって、そんなに自分の生い立ちだの、人生だの、恩師との関係だの、諸々の問題をピアノと関係づけ、立ち止まり、ピュアに悩みぬいた末にステージに登場しているだなんて、申し訳ないけれど思えません。
コンクール出場なんてもっと直接的な、世俗的な、生々しい欲望と立身出世のための勝負の世界がそこにあるだけとしか思っていないので、物事を事実からかけ離れたように美化して描くことが小説だなんて、とても思えないのです。

ピアノ学習者の中から、とくに才能と実力があると認められた者が、さらにプロとして一旗あげるための手段として有名コンクールに出る、ただそれだけなんじゃないの?としか思えないのです。
そのために名だたるコンクールを渡り歩く常連組も少なくなく、近年のコンクールとはひとことで言えば、ピアニストの就活以外のなにものでもない。
いわば、ピアニストとしてやっていくための一攫千金を狙うようなもの…それに尽きると思うんですけどね。

原作にしろ、映画にしろ、あまりにも作者の意図をとらえ難いものだったので、もしやマロニエ君のほうが作品に対する理解力を欠いているのかと思い、Wikipediaをみてみたら「国際ピアノコンクールを舞台に、コンクールに挑む4人の若きピアニストたちの葛藤や成長を描いた青春群像小説」とあり、はあそうですか…という感じでした。

マロニエ君だったら、もし国際ピアノコンクールを小説化するのなら、そもそもコンクールなんて要望と闇だらけのものなんだから、山崎豊子調の生々しい切り口で(コンテスタントのみならず、ピアノメーカーも巻き込んでの)どす黒い世界として描いたほうがよほど読みごたえもあるし、社会に対する問題提起にもなるのではないかと思います。

それを五社英雄氏のように映画化でもすればおもしろいと思うけれど、いずれももうお亡くなりになった方ばかりだし、マロニエ君の好み自体がもはや時代遅れなのかもしれません。
自分が古いぐらいは一向にかまわないけれど、どうして今の人って、あんなにふわふわした甘ったるくてわざとらしい情緒世界がそんなに好きなんだろうかと不思議だし、おそらく社会派風のエグさのある作品より、表面的にきれいでポエジーで「夢を追う」といった感性が根っから好きなんでしょうね。

現実の人間関係でもきれい事ばかりで、善人を演じるのが「大人の対応」などと尊ばれる世の中だから、好みまで変化してしまっているのかもしれません。
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